町の人、吉本隆明。



吉本 みんな、正直なところを率直に言えば、
政権が交代する事態が来たとして、
政権取ったら何をしでかすか
わかんないところには任せたくないわけです。

庶民の潜在的な意識で、
みんなそう思ってる。
さればといって自民党は嫌だ、
これが本音のところだと思います。

二大政党だというふうになってくれば、
僕らは商売上がったりだよっていうふうに
なるわけですけど(笑)、
それはそれとして、
なんとか食いつなごうじゃないかと
思ってますけど(笑)、
どういうふうに至るのか、
そういうふうに事が運ぶかどうかってことが、
問題の核心だと思います。
だから、あまり‥‥今は、
僕らにあまり近づかないほうが、
ほんとうはいいんです(笑)。
糸井 (笑)50センチ以内には
吉本さんには近づかないように?
吉本 糸井さんは充分わかっている人だから、
大丈夫だし、商売のやり方から見てわかります。
わかんねぇ奴もいるから困るんだけど。
糸井 僕はやっぱり、社会党右派と自民党とを
両方持ってる人間だと思います。
吉本 そうそうそう。
それはとても、はたからよくわかります。
糸井 今はどこでも
その融通の出し具合をやってるんですねぇ。
きっと、どっちかだと、おもしろくないんですよ。
吉本 それは糸井さんがよく知ってるんです。
上のほうだとかはね、
ちょっとわかりにくい。
 
糸井 僕の本籍は、なにしろ町です。
おもしろい人間を生かしておいてくれる
素地がある時代だといいんですけど、
今、世の中には
物ひとつ落ちてやしないんだから(笑)。
結局みんな、どこでだって
お侍さん同士の話をしちゃうことになるんです。
吉本 そうそうそう。
糸井 みんな我慢して偉そうにしちゃうんで、
わかんなくなっちゃうんですよ。
吉本 うん。
糸井 吉本さんも、完全に
町の人ですね。
吉本 ええ、町の人というのは、大きいと思いますね。
僕のきょうだいは、みんな
大学行ってないです。
みんな工業学校までです。
糸井 吉本さんだけ幸か不幸か、大学に(笑)。
吉本 そうそう。
親父やおふくろさんには
訊きましたよ。
「どうして俺だけ、いつも憂鬱な顔してるんだ?
 きょうだいみんな、
 貧乏人なりの朗らかさを持ってるのに、
 俺だけどうして憂鬱なんだろうな?」
って訊いた。
そしたら、笑って答えなかった。
糸井 え? 答えなかったんですか(笑)。
吉本 答えなかったけど(笑)、
弟の嫁さんには、おふくろさんが
「赤ん坊のとき苦労したからね」って
言ってたそうです。
赤ん坊のとき苦労したって言われたって、
俺は知らねぇ(笑)、知らないけどね‥‥
糸井 吉本さんが赤ん坊のときが
いちばんつらい時代だった、ということですか。
吉本 つまりは経済状態です。
東京へ出てきたときには
惨憺たるものだったらしいですね。
そのときにきっとおふくろさんは、
やっぱりヒステリックな子どもの育て方を
したんだと思います。
おそらく僕がいちばんそこに
該当したわけです‥‥というか、
そういうことなんじゃないかなというふうに
自分で思ってるんですけど。
そういうわけだから、自分は
ほかのきょうだいとは違うことが
あったのかもしれません。
糸井 吉本さんが詩を
最初につかまえることになったのは
小学生のときに通っていた塾ですか?
吉本 塾なんでしょうかね。
もちろん島崎藤村なんかが好きだったから
その真似をして
自分で活字にしたりしましたけど‥‥
塾の先生はね、やっぱりあとから考えても、
それこそなんでこんなに熱心に人のことを‥‥。
糸井 人のことを(笑)。
吉本 うん。あの先生も、町の人でした。
のちのち、塾の生徒たちが
その先生が昔書いた詩を集めたんですが、
それを読んだら、やっぱりこの人は詩を
そうとう本格的にやったんだなという
感じがしました。
なるほどな、と思いました。

鮎川信夫(1920年生まれの詩人、文芸批評家。
詩誌『荒地』を主催)
は、塾の先生と同じ早稲田出身でしたし、
それに、北村太郎(1922年生まれの詩人、翻訳家)
とか、ああいう人たちも
ときどき塾へやってきていました。
僕はふつうに学習塾だと思ってるから(笑)、
先生の詩の話だけを聞きに通っていました。
糸井 世の中って狭いですね。
吉本 ええ。それで、のちのち
なぜ自分が(同人誌のなかでも)
鮎川信夫が主催していた『荒地』へ入ったのか、
そのわけがわかった気がしました。
その当時は、いちばん左翼的な
『列島』を関根弘がやってたんですけど、
僕は『荒地』へ入ったんです。
恥ずかしくない戦争の詩を書いていたのは
『荒地』だけだったからです。

ちょうどイギリスでいえば、
T・S・エリオットとか
W・H・オーデンとか
そういう人たちがそうなんですが、
戦争詩だけれども、
へんてこりんなインチキな戦争詩じゃなくて
ちゃんとした戦争詩で
『荒地』ははじまっていたんです。

僕は軍国少年だったけど、鮎川信夫は
少し年長ですからちょっと違いました。
鮎川信夫の戦争詩のいちばん典型的なものに、
《銃を担ったおたがいの姿を嘲りながら
 ひとりずつ夜の街から消えていった》
という詩があるんです。
その「嘲(あざけ)りながら」というのが、
日本の場合、とてもよくわかるんです。
糸井 それは、すごみがありますね。
吉本 ええ。インテリで
西洋の影響をいっぱい受けていた人たちだから、
ただ戦争詩というふうにはいかない。
学徒動員で、
「詩なんか書いてたりしてたのに、鉄砲担いで」
と、自分で自分を嘲るよりしかたがなかったことが
とてもよく出ていました。
だから、ああ、ここだと
僕は思いましてね、入りました。

そのあとで、僕はあまり左傾したものですから、
──というふうに人には見えたんだと思うんですが、
鮎川信夫なんかは、必死になって、
安保のころは
「そういうのはやめろ、やめろ。
 バカらしいからよせ」
とか、そういうふうに言いました。
それでも、俺が行っちゃってるときに
家に来てずっと待っててくれたりしたんです。
糸井 そうだったんですか。
吉本 まぁそのへんのところまで、
塾の先生の、町の人から
つながってるといっちゃ、そうなんです。
あの先生は、すごく町の人でした。
糸井 なるほど。
吉本さんのこういう話も、
学校でしてるんじゃない。
吉本さんの話を聴いてておもしろいのは、
そこですよね。

町の人の話をうかがうように、
これからもちょくちょく、
吉本さんのところにおじゃましたいと思います。
たくさん監修してもらいたい部分もありますから。
ちょくちょく来ます。
ありがとうございました。

(おわり)
 
  吉本隆明さんと糸井重里の
「2008年について」の連載は
これでおしまいです。
ご愛読ありがとうございました。
次の吉本さんの登場も、ほどなくはじまります。
どうぞたのしみになさっていてください。



2008-02-27-WED


(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN