2010年、吉本隆明さんがご存命だったとき、
『糸井重里の「喩としての聖書──マルコ伝」の
聴きかた、使いかた』
というコンテンツを連載しました。
糸井がいつもどんなふうに
吉本さんの講演を聞いているのか、
「喩としての聖書──マルコ伝」を例にして、
ほぼ日で伝えてみようという試みでした。

「喩としての聖書──マルコ伝」
この183講演のなかでも、
名講演といわれるものです。
糸井重里による解説の連載を
「副読本」のようにしながら
この講演を聞いてみるのもおすすめです。

歴代のアメリカ大統領は、
聖書に手をついて宣誓の言葉を述べてきました。
キリスト教が先進国の文明に
影響を与えていることはたしかです。

聖書を、信仰のためだけの書ではなく
思想書としても読み解いてみれば、
少しでも近づけるのではないか、と
吉本さんは言います。
そしてそこには見事な、
何千年経っても古びない考えがある、
と断言します。

聖書には、ときに
理不尽とも思えるような裏切りや
虚しい悲劇、そして
奇跡のエピソードが登場します。
それはなぜでしょうか。

思想書としてみた聖書には、
人間の本質が暗喩として描かれます。
それがさまざまなエピソードになって登場します。
聖書の人間に対する洞察について、吉本さんは、
「人間は多かれ少なかれみんながそうだ」と
語ります。

糸井は連載のなかでこう言っていました。
「見栄を張り合ったり、ふかし合ったり、
ウソつき合ったりするようになるという
人間が歩んだ進化は、
よかったか悪かったかは別として、
いまの人間のあり方と社会を作ってきたんだと
しみじみ感じる」

けれども、そのうえで
講演を聞きすすめるうちに
「何かが見えれば見えるほど、
日増しにどんどんほかのものも見えて」
きます。
だから、吉本隆明さんの考えは、
「そんな簡単にはいかないよ」
とご本人がおっしゃるものだらけ
なのではないでしょうか。

そんなに簡単にはいかない、
そのことを自覚しつつ、
さまざまな状況に目を向けながら、
慎重に歩んでいくしかないのかもしれません。

戦後73年の今日、
この名講演にじっくりと戻り、
これからもどうぞ吉本隆明さんの講演を
おたのしみください。