あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
今年最初のコラムは
アメリカの伝説のキャスターと言われた
ウォルター・クロンカイト氏への
インタビュー記です。
クロンカイト氏は去年夏に92歳で亡くなり
その時『調査情報』という雑誌に
彼の思い出を書いたのですが、
ほぼ日の読者のみなさんにも
読んでもらえればと思い
2回に分けて掲載させてもらうことにしました。
インタビューの中味もさることながら、
“歴史”となった彼と
向き合ったときの“気配”とでもいうべきものを
感じてもらえれば、と思います。
(敬称は略させていただきます)



クロンカイトの遺言 [1]

私がウォルター・クロンカイトに
インタビューしたのは、
2006年の春のことだった。
クロンカイトと言っても
ピンと来る人はそれほど多くないだろう。
彼は1962年から1981年までの19年間、
アメリカ、CBSテレビの
『イブニング・ニュース』のキャスターをつとめた。

キャスターはキャスターでも、
今とはかなり状況が異なる。
彼はテレビの最も幸福な時代、
つまり、テレビがまだ
圧倒的な力を持ちえた時代に生きた。
テレビの黄金時代を体現する人物と言ってもいいだろう。

インターネットもなければ、
CNNもまだ誕生していなかったこの時、
アメリカ人はケネディ大統領暗殺を
クロンカイトの言葉で知らされ、
アポロの月面着陸を
クロンカイトの案内で経験し、
ベトナム戦争の敗北を
クロンカイトの姿勢から読み取った。
クロンカイトが伝える出来事が知るべきニュースであり、
クロンカイトが伝えないものは、
アメリカ人にとって起きていないことだったのだ。

筑紫哲也がニュース番組の締めくくりに使った
「きょうはこんなところです」というフレーズも、
クロンカイトをモデルにしたものだ。
毎日、夕方のわずか30分
(CMなどをのぞくと実質23分ほどだろうか)
のニュース番組を、
「That's the way it is」というフレーズで締めくくる。
「きょうはこんなところです」とも訳せるが、
もっと言えば「これがきょう一日でした」と
自信たっぷりに宣言しているに等しいのだ。

筑紫のワシントン特派員時代、
クロンカイトは世論調査で
「アメリカで最も信頼できる人物」に選ばれた。
その信頼度は、大統領をも凌いでいた。
その筑紫がおととし亡くなり、
クロンカイトも去年7月にこの世を去った。
アメリカのメディアは92歳の死を
いっせいに速報で伝えた。

訃報に接して、
私はクロンカイトの遺言とでも言うべき言葉を
聞いた時のことを思い出していた。

それは、彼に話を聞ける、
おそらく最後のチャンスだったに違いない。
なぜなら彼は当時すでに89歳、
放送業界のパーティーで
あいさつする姿を一度見かけたが、
年齢による衰えは隠しようがなかった。
反応は鈍く、時に舌がもつれ、
何より耳が遠くなっているのは明らかだった。

「テレビの公共性」について彼に話を聞けないか、
という依頼を東京から受け
「やってみます」と答えたものの、
正直なところ実現するとは思っていなかった。
彼の体力的な問題に加えて、
インタビューするのが難しい大物のリストに
常に名を連ねていたからだ。

しかし、帰ってきた答えは予想もしないものだった。
クロンカイトの秘書は「インタビュー時間は30分」と
繰り返したあと、こう付け加えた。
「本人は言うべきことが
 たくさんあると張り切っています」

マンハッタンのミッドタウンにあるCBS本社は、
真っ黒な外観から『ブラック・ロック』と呼ばれる。
その19階にクロンカイトのオフィスはあった。
彼は1981年にイブニング・ニュースを降板した後、
役員としてCBSに残り、その後も
『スペシャル・コレスポンデント(特別記者)』として
個室を持ち続けた。

クロンカイトの部屋は、一線を退いた人間が
マンハッタンの中心部に持てるオフィスとしては、
この上ないものに思えた。
見渡すと、彼の功績を思い起こさせる品々が
賑やかにならんでいた。
ケネディ大統領との写真、
アメリカテレビ界の賞であるエミー賞のトロフィーや
数え切れないほどの盾、
彼が伝えたアポロ月面着陸の写真と模型、
女性キャスターと並んで撮った若き日の写真があった。

映画俳優のジョージ・クルーニーと
一緒に撮影したスナップショットがあった。
ジョージ・クルーニーが制作した映画
『グッドナイト&グッドラック』に
関係したものなのだろう。
この映画は、クロンカイトのひとつ前の世代で
テレビキャスターの草分けとも言えるエド・マローが、
マッカーシズムと戦う姿を描いた作品で、
全米で公開され話題になっていた。
写真には、ジョージ・クルーニーが
クロンカイト宛てのメッセージを書き添えていた。
「私はあなた以上に、あなたを尊敬しています」

オフィスを眺めながら、
私はインタビューがうまく行くかどうか、
確証が持てないでいた。
というより、インタビューとして
成立するのだろうかという不安を抱いていた。
89歳のクロンカイトは、
私の問いをきちんと理解し、
それに呼応する答えを返してくれるだろうか、
そうした思いが頭をよぎっていた。

約束の時間よりかなり遅れて、クロンカイトが現れた。
グレーのスーツに赤いネクタイ姿で、
以前より頬がこけ、痩せたように見えた。
両耳には補聴器をつけていた。
握手を交わす。
私はクロンカイトの手を握ったまま、
椅子に座るように勧めた。
その瞬間、クロンカイトはかすかによろけて
握った手に力を入れて、よりかかるように座った。
そしてわずかに声をあげて、にっこりと笑った。

カメラが回る。
最初は『グッドナイト&グッドラック』の
モデルとなったエド・マローについて訊ねた。
「あなたにとってエド・マローは
 どんなジャーナリストですか?」

クロンカイトは
「エド・マロー、アズ、ア、ジャーナリスト?」と
質問を確認してからしゃべり始めた。
「最も面白いのは、放送に出るまで
 彼はジャーナリストではなかったこと、
 彼はジャーナリストとしての訓練を
 受けてもいなければ、
 実践をしたこともありませんでした。
 マローは教師になろうと思っていたんです。
 マローは、放送に出演するしゃべり手を雇うために
 イギリスに行きました。
 それはCBSの当時のペイリー会長の指示でした。
 ペイリー会長は、
 マローがテレビのいいしゃべり手を
 見つけてくるだろうと思ったんです。

 ところがマローがイギリスに行った時、戦争が起き、
 ロンドンで最初の空爆がありました。
 ペイリー会長は
 マローが生きているかどうか心配になって電話し、
 どんな様子だったか訊ねました。
 マローがロンドンの空爆の模様を伝えると、
 ペイリー会長は言ったんです。
 『もう一度やってくれ。ただし今度はオンエアだ。
  ラジオで流そう』
 マローはこうしてジャーナリストになりました。
 彼は訓練も受けなければ、
 リハーサルすらしなかったんです。
 彼はマイクを持ってやり遂げました。大成功でした」

エピソード自体は興味深いものだったが、
クロンカイトに
私の質問の趣旨がちゃんと伝わったかどうか、
はっきりしなかった。
エド・マローとジャーナリストというふたつの言葉から
連想したエピソードを、
単にクロンカイトは口にしたように思えた。

私は続けた。
「エド・マローの伝統をあなたが受け継ぎ、
 そして後輩たちにバトンタッチしました。
 その伝統はいまも守られていると思いますか?」
クロンカイトは顔をしかめて、
聞こえないという仕草をした。
私はもう一度、ゆっくりと英語で質問を繰り返した。
クロンカイトがこちらを見据えたまま、頷く。 
「ある程度は受け継がれていると思います。
 マローが最初にリポートして
 30年、40年以上がたちましたから、
 だいぶ変わりはしましたがね。
 我々はちゃんとやってきたし、
 いまもちゃんとやっていると思います」
マローが最初にリポートしたのは
第二次大戦中だから、
実際にはすでに60年以上が経っていた。

「私は9・11同時テロのあと
 すぐにニューヨークに取材に来ました。
 アメリカは愛国的な雰囲気に包まれ、
 テレビニュースも
 愛国的なトーンになっているのに驚きました。
 その雰囲気の中では
 政府を批判するのが難しいとも感じました。
 自由にものが言えないという意味では、
 マッカーシズムのころと似ているとは思いませんか?」

クロンカイトは再び聞こえないという仕草をする。
そのときカメラに映らない場所に控えていた秘書が、
驚くほど大きな声で私の質問を繰り返した。
クロンカイトは怪訝な顔をしたままだったが、
とにかく話し始めた。
「愛国心は自然な反応だったと思います。
 2機の航空機が突っ込み、
 多くの死者とけが人が出たのですから。
 そのときの反応は
 偉大な愛国心と言ってもいいでしょう」

クロンカイトは、
『9・11』と『愛国心』という言葉に反応して、
話しているようだった。
マッカーシズムの時代との比較については、
質問自体が耳に届いていないのかもしれなかった。
秘書が私のほうを見て、
申し訳なさそうな表情を浮かべた。

私はやはりこのインタビューは
厳しいかもしれないと思い始めていた。

(続く)

2010-01-01-FRI
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