第4回 一般の価値や感覚

糸井 広告をつくってたときにも、
「ほぼ日」でなにかを伝えたりするときにも、
共通していることがあって、
なにかというと、一般の気持ちというか、
お客さんにあたる人の感じることを
自分も感じるということなんです。
やっぱり、自分も含めて、人って、
一般的な価値の基準で動いてますから。
白岩 その「一般的な感覚」って、最近、
ぼくがずっと気になってることなんです。
あの、自分にとってすごく価値のあるものって、
「いまいちばん届くもの」なんですね。
糸井 ああ、ああ、ええ。
白岩 だから、
「いまいちばん届くものってなんだろう?」
ということを考えるのがクセになってて。
広告の世界を目指しながらも、
けっきょくそっちに進まなかったのも、
いまの広告の業界を見たときに
「いまいちばん届くもの」が
そこにないような気がしたんです。
糸井 はい、はい。
白岩 まぁ、ほかにもいろんな要素があって
小説のほうへ進むことにしたんですけど、
たとえばなにか「伝わるもの」「届くもの」を
自分もつくりたいって考えたときに、
糸井さんがおっしゃった
「一般の感覚」って絶対必要だと思うんです。
で、それと、ある業界での卓越した力というか、
なにかを綿密に組み立てるような技術というのは
相反するんじゃないかという気がするんですね。
糸井 専門家として技術を磨けば磨くほど、
一般の感覚から離れていくという。
白岩 そうです。
でも、その技術がなければ、
そもそも送り手にはなれないわけで、
だから、一般の感覚と
送り手の技術を同居させるには
どうしたらいいんだろうというのを
すごくよく考えるんです。
糸井 そういう技術を身につけていくこと、
専門家として研ぎ澄ませていくことについて、
吉本隆明さんは、
「人が自然になにか働きかけたとき、
 人も自然に変形させられている」って
おっしゃってるんですね。
つまり、格闘技を毎日練習している人は、
格闘家の体に毎日変形していくんだと。
白岩 ああ(笑)。
糸井 おおもとはマルクスが
言ってたことらしいんですけどね。
だから、職業人というのは、
一般のものじゃなくなるように修行して、
自分を変形させていくわけですよね。
白岩 はい、はい。
糸井 「オレはこれで食っていくぞ」って
そういうことだと思うんですよ。
逆にいうと、それで食っていくと決めなければ
そのことを考える必要はないんです。
白岩 ああ、そうか。そういうことか。
糸井 たぶん、そうなんだと思うんです。
だから、とくに、変形していくプロセスを
どんどん進んでいるような場合は、
変形してないころの自分が
なにを思っていたかということが
自分と重ならないというか、
視界に入らなくなっていく。
だから、たとえば、めきめき強くなって、
体も大きくなっているときの相撲取りが、
ふつうの人の肩を「よう!」って叩いたときに
相手の肩が外れちゃったりとかね。
白岩 ああ、それが「一般の感覚や価値」と
自分が重ならない状態。
糸井 そうです、そうです。
で、その大きな体や力の強さを
人が見に集まるようになったら、
それは「その道で食っていける」
ということだと思うんです。
だから、商売という意味ではそれでいい。
ただ、会う人の肩が外れるばっかりだと
生きていくうえでは困りますよね。
サーカスで火を吹いてる男がいたら、
商売としてはいいけれども、
ずっと火を吹いていたら、
一般の価値や感覚としては困る。
白岩 そうですよね。
糸井 だから、そこを、
行ったり来たりするわけでしょう。
白岩 ああ、やっぱり、
行ったり来たりするしかないのかー。
糸井 そうだと思いますよ。
つまり、大きな体とか、火を吹くことは忘れて、
水曜日の朝に燃えないゴミを出しに行く、
というようなことですよ。
白岩 (笑)
糸井 そこのところをどれだけ
行ったり来たりできるかっていうのが
ぼくにとってはつねに大きな課題です。
白岩 自分の日常をどれだけ持ってるか。
糸井 そうですね。あるいは、
「自分はほとんどが日常です」という人を
変形しちゃった自分が
どれだけ尊敬できているか、とか。
白岩 それは、でも、すごく難しいことですよね。
糸井 簡単じゃないですけど、
みんな、けっこうやれてると思いますよ。
あの、作家って、どちらかというと
それができない人たちなんですよ。
白岩 ああ、そうですか。
糸井 やっぱり、競争の商売というか、
「変形自慢」が商売になるのが
作家だと思うんです。
なんていうか、
いびつになるほど箔がつくというか。
白岩 うーん、わかるんですけども、
ぼくとしては、その、
いびつになりたくないという気持ちがあって。
糸井 うん、うん。
白岩 それは、変形する自分から逃げてるだけだと
言われるかもしれないんですけど、
自分がいま目指していることって、
たとえば、ふだん小説をまったく読まない人に
読んでもらうことだったりするんです。
なんていうか、自分のつくってるものが
「いい公園みたいなもの」だったらいいなって
ずっと思っているんです。
糸井 ああー。
白岩 すごく敷居が低くて、
どんなふうに使ってもよくて、
で、個人がいろんな思いを強くしたり、
考えたりとかっていうのを自由にできる場所。
もしかしたら小説って
そういうものになれるんじゃないかな
っていう気がしてるんです。
糸井 なるほどね。
白岩 だから、なにか、言いたいことを
押しつけるようなものではないんです。
広告も小説もそうだと思うんですけど、
なにかのメッセージを一方的に押しつけた場合、
「そうじゃないよ」って言う人のほうが
はるかに多いと思うんですね。
だから、メッセージではなく、
「場」としてあるのが理想で、
小説が「場」としてただそこにあれば、
そこでどんなふうに思ったって
包み込んでしまえるじゃないですか。
そういうようなことを考えたときに、
さっき糸井さんがおっしゃった
「いびつに変形すること」っていうのは、
受け手をすごく選んでしまうんじゃないのかな
っていう気がしてるんです。
もちろん、変形をさけることで
表現の力そのものが弱まってしまったら
ダメなのかもしれないですけど、
変形してない形を維持したままで、
表現の力だけを強くすることは
できないのかなって思ってて。
糸井 できるのかもしれないですね。
その、火を吹いたときに得られる
拍手みたいなものはないかもしれないですけど、
友だちを増やすことはできますから。
白岩 はい、はい。
糸井 ある意味ではぼくもそこに憧れます。
けど、拍手が来ないってことは、
やっぱり、飯のタネがない
っていうことでもありますからね。
白岩 飯のタネは絶対的に必要なんですかね?
ま、もちろん食べていくためには
必要なんでしょうけど‥‥。
糸井 いまはそう思えるかもしれないですね。
でも、それって、お金がなくなって、
「小説を書いてお金をつくろう」って
決心したときにぶつかる話ですから。
白岩 ああ。
糸井 あとは、お金だけじゃなくて、
お客さんがうまく拍手できないものって、
「おもしろくなかった」って
言われちゃったりしますからね。
白岩 あーー、そうですね(笑)。
それはほんとに難しい、とっても。
糸井 難しいですね(笑)。
やっぱり、いま、白岩さんは、
自然体に近いところで食べられてるから
そういうふうに思えるんでしょうね。
それは、ある意味とっても幸せなことで。
白岩 そうなんですかね。
糸井 あの、実もフタもないことを言っちゃうと、
『野ブタ。をプロデュース』みたいに売れない限り
小説だけで飯は食えないですから、
白岩 そうなんです、そうなんですよ。
ほんとにそうなんです。
糸井 1万部の本を年に3冊出しても、
まぁ、だいたい知れているというか、
「食う」っていうことだけでいうと、
会社に勤めてたほうがよかったな、
みたいなことになっちゃいますから。
白岩 はい。
糸井 でも、それでも書くっていうのは、
やっぱり違う喜びなんだと思うんですよね。
白岩 うーん、そっかー。
(続きます)
2009-07-24-FRI
前へ このコンテンツのトップへ 次へ