糸井
最近の映画って、観る側も
「ちょっと止めて。もっとよく見せて」
みたいな発想になりがちだと思うんです。
佐藤
あぁ、はい。わかります。
糸井
たとえば、
「このシーンとこのシーンのつなぎが悪いけど、
 まぁ、アクションだから成り立ってるんだ」
で、よしとしていた時代がありました。
『燃えよドラゴン』とか『マッドマックス』とか。
佐藤
はいはい。
糸井
あのころの映画は、
「うまくつないだよね」ということになっていたのに、
みんなが1つ1つのシーンを分解するように
「止めて」見るようになって、
「あ、ここで、この役者にハエが止まってるよ!」
ってことを、誰かが言いはじめちゃった。
それ自体が娯楽になっちゃったんでしょうね。
で、ぼくもそうです。
さっきもぼくが、この家の中を案内されながら、
「あ、ここが、あのシーンの場所ですか」って
言ってましたけど、もともとは
そういう自分じゃなかったんです。
佐藤
あぁ。
糸井
変だなって、自分でもわかる。
世の中全体が、止めてはじっくり見る、
止めてはじっくり見る、ってやってることで、
なにかを失ったように思うんです。
佐藤
それと同じようなことなんですけど、
映画界の若い作り手が、
「長回しをすると、客が見づらい」
と言うようになったんです。
(※長回し‥‥カットせずに長時間カメラを回し続けること)
糸井
あ、本当ですか?
佐藤
ええ。
懇切丁寧にカット割りをしていないと、
「手を抜いてる」って
周りから言われちゃうらしくて。
でも、長回しで撮るほうも理由があるわけです。
昔、ぼくは相米慎二さんと仕事をしていましたけど、
あの人は、ご存じのように、
ワンシーンを長く撮る監督です。
糸井
相米さんね。
佐藤
当時、ぼくは23歳くらいで若かったから
「なんで監督、割らないんですか?」
と訊いてみたんです。
そうしたら、相米さんが
「割ると、そこに意味が出ちゃうのが
 気持ち悪くて、どうしてもできないんだ」って。
糸井
つまり、その監督の
「俺の都合」なんでしょうね。
でもそれは、個性ですよね。
佐藤
だと思います。
『蒲田行進曲』も長回しの映画で、
「俺よりも、やつのほうがアップが多い」
というような台詞があるんですが、
当時、30年くらい前は、
アップになるのは主役だけで、
そうなかなかアップでは撮ってくれないんです。
で、長回ししながら、突然アップが来たりする。
こういう撮り方が普通だったんです。
糸井
うんうんうん。
佐藤
「この次、アップ寄るからね」
って言われると、
ドキッとしちゃう、みたいなね。
糸井
うれしい人には
ものすごくうれしいことですよね。
佐藤
うれしくもあるし、
ドキドキもするし、怖さもあるし。
糸井
チャンスでバッターボックスに
立つようなものですよね、いわば。
佐藤
なんか決めなきゃいけない、
仕事しなきゃいけない、みたいな。
逆に、カット割りだと
そういうことをあまり考えずに
撮れるようになった。
それはそれでいいこともあるとは
思うんですけどね。
糸井
うーん。
佐藤
たとえば、カット割りされてるほうが、
観客側も、どこにフォーカスを当てれば
いいのかわかりやすいですよね。
逆に、長回しの映画の場合は、
客は、喋ってる人を見なきゃいけないのか、
風景を見ていればいいのかがわからない。
でも、その部分にこそ
作り手の作意があるとすれば、
客が自分なりにピックアップして
フォーカスするというのも
映画の楽しみだったわけですよ。
糸井
そうですね。
特に大画面の場合は
必ずしも画面の中心を見る必要はなく、
「端っこ見てたっていいんだよ」っていう
おもしろさがあるわけだし。
いまの、カット割りの発想ってつまり、
世の中がデジタル化した、
ということだと思うんです。
「分解したものをつなげても、
 1つの同じものだろう?」
という発想に
どんどんなってきてますよね。
それは、アニメと同じじゃないかと思うんです。
佐藤
あぁ。
糸井
全部の絵コンテを用意しないと
アニメって作れないんで、
「頭の中になかったもの」は
アニメにはないんですよ。
たとえば、「撮影中に偶然落ちてた石ころ」
みたいなものはアニメには映らない。
で、一般の映画がその作り方に
だんだん近づいてきたから、
「頭の中にあるもの」
の優先順位が高くなっちゃって。
佐藤
たしかに、そうですね。
糸井
それは、現実の世界とは違う、
蝋細工みたいなもの。
ぼくはカット割りが先にくる考え方って
なんか優先順位が違うなぁと思っちゃうんです。
だから、相米さんのさっきの話も
ちょっとわかるなぁ。
で、映画にはドキュメンタリーの
要素があるじゃないですか。
佐藤
ありますね。
糸井
観客側には、その要素を追いかけていく
おもしろさというのもあると思うんです。
たとえば、今回の『愛を積むひと』でも、
わりと無理してこの土地の四季を
撮られていますよね。
佐藤
はいはい。
糸井
頭の中にある世界だけを描くんだったら、
四季の様子は、本当はなくてもいいんです。
でも、これが入っていることで、
「大変だったけど、撮ったんですよ」
って言ってる、スタッフの喜びを感じるんです。
それは、いいサービスだなぁと(笑)。
佐藤
そういうことですね。
映画を通して四季を
疑似的に体感できることによって、
観る側も満たされて、贅沢な気持ちになれる。
糸井
いい器に盛られた料理みたいなものですよね。
「その器はちゃんと
 それなりに揃えたんですよ」って言われたら、
「あ、それはそれは、いただきます」
佐藤
「ありがたい」と(笑)。
糸井
お客さまを一生懸命にもてなそうという
コンセプトが最初からあるように思ったんです。
「おもてなし」って言葉は
流行っちゃったから使うのが嫌なんですけど、
「ようこそ、ようこそ観に来てくださいました」
という感じがあって。
この映画のこういうところが、ぼくは
内容以上に好感を持たれると思うんです。
佐藤
正直、この映画の原作になった
『石を積むひと』が持っている
アイロニカルな部分っていうのは、
映画として見やすくするために、
少なくなっているんですけどね。
ある程度、やっぱり、日本的に‥‥
「おにぎり」みたいにして。
糸井
おにぎり、そうですね、うん。
佐藤
食べやすくおにぎりにして出す。
そういった「見やすさ」みたいなものが
この映画にはあると思います。
あと、
「こういう話だからって、
 お客さんを泣かせに行かないでよ」っていう
お願いが、ぼくの中にあったんです。
糸井
あぁ、そうですか。
佐藤
ええ。だから、音楽担当の
岩代太郎さんにも、
「あんまり正面切って
 泣かしに行かないでよ」って言って(笑)。
糸井
音楽は心を揺すぶっちゃうからね。
佐藤
だけど、やっぱり、太郎さんは‥‥(笑)。
糸井
泣かせたくなっちゃう?
佐藤
泣かせたくなっちゃう。
それはしょうがないんだけど。
普通に観ていて、
じわっとくるものがあるところに、
音楽でプラスアルファするのも
作り手のサービス精神ですからね。
でも、そういうものが
あんまりなくてもよかったり、
逆に、過剰になければいけなかったり、
そこの塩梅は、もうセンスだと思うんで。
糸井
その「泣かせにいかない」っていうのは
佐藤さんが役を引き受けたときから
思っていたことなんですか?
佐藤
一番最初に思ったのは、それです。
どう考えても、いちばんの肝は
泣かしどころなわけです。
そこを思いすぎちゃうと
非常にうがった方向に
全体が進みすぎちゃうように思う。
そこが自分では怖かったんで、
できるだけそうならないように、
気をつけたつもりです。

(つづきます)
写真:池田晶紀(ゆかい
佐藤浩市さんメイク:辰巳彩(六本木美容室)、スタイリング:喜多尾祥之
2015-06-22-MON
©HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN