カウンターに20人ほど座れる
こじんまりとした店でした。
職人さんが3人、キビキビ働いていて、中でも1人。
一番、年かさの、なのにシャンとした
後ろ姿も凛々しい方がおそらくご主人で、
ボクらはそのご主人ともう一人の職人さんとの
ちょうど境目の席をもらった。

どの店で食べるかというコトよりも、
誰に作ってもらえるか。
そのコトに関心が集まるお店が日本にはある。
天ぷら。
鮨。
あるいは鉄板焼きなんていうのも
そうした料理の代表でしょう。
サービスと調理が渾然一体となった、
目の前で調理してくれたモノを
そのままどうぞと提供される。
何人もの調理人がチームを組んで作る料理と違って、
1人が調理のほぼ最初から最後までを
責任をもってとりしきるこれらの料理。
予約のときに作り手をわざわざ指名するコトもある。
特に寿司は誰が握るかで、
同じネタ、同じシャリを使っても
まるで違った寿司ができたりするのであります。
だからそのとき。ボクらは
「すばらしくおいしい寿司」を食べるコトができるか、
「すごくおいしい寿司」を食べてかえるのかの
境目に座っていた‥‥、というコトになる。
そういえば、この席を融通してくれた友人が
「いまだここのご主人に握ってもらったコトが
 俺は無いんだよな」と。

「いらっしゃいませ」と頭を下げるご主人に、
母は背筋をしゃんとのばして、
よろしくお願いいたしますと。
「何かお飲みになりますか‥‥」
そう聞かれると、すかさず即答。
「すぐににぎっていただきたいので、
 お茶をいただくことにいたしましょう」





ボクはちょっと意外に思った。
食事といえばおいしいもので
手っ取り早く腹を満たすのが好きな父。
一方、ゆっくり時間をかけてお酒をたのしみながら、
おいしい時間をあじわうのが母の食事のスタイルで、
なのにお酒を飲まずすぐに寿司を握ってというのは
まるで母らしくない。
考えてみればそれまで母と2人で、
カウンターにすわって寿司を食べるという機会が、
ボクにはなかった。
母も寿司屋では、
寿司をつまんでササッと帰る派なのかなぁ‥‥、
と思って母の方をみたらばおもむろに、
両手をそっとカウンターの上におき
磨きこまれた白木の肌をやさしく撫でる。
そして一言。
「今日はお寿司でお腹いっぱいになりにまりました、
 よろしくお願いいたします」と。

白木のカウンターの上の母の両手。
マニキュアをおとした、
手にもスッピンという言葉があるとするなら
まさにスッピンの指。
それをみてか、あるいはただの気まぐれか、
ご主人がニコリとしながら、
それではおまかせいただけますか?
いいえと言える理由もなくて、どうぞよろしく。

赤身のマグロがストッと目の前におかれます。
細長く、キチッと形を整えられた
端正な表情のルビー色したマグロの赤身。
母はそれを指でつまんで、
口の中へとそっと滑らせモグモグ、
パクリとひと口で味わいニッコリ。
そしてすぐさまもう1個。
軽快なリズムで次々、
寿司を口に運んでおいしく味わうボクら。
お箸は封をきられることなく、すべては指でことがすむ。
見事な手際でにぎられたシャリは
口の中でほぐれこそすれ、
指を汚すことなど決してありはせず、
かたわらに用意されたおしぼりを
使う必要すらないほどだった。

次のネタがご主人の手の中で見事な寿司に姿をかえて、
カウンターの上におかれる。
その寿司が休む時間もほとんどないほど、
即座にボクらの口の中へと放り込まれて、
そして次の寿司がまもなくやってくる。
気づけばご主人とボクら2人の
一対一の真剣勝負のような感じになって、
30分ほども経ちましたか。
本日、ご用意のネタはこれでひと通り
お召し上がりいただいたコトになりますが‥‥、と。

奥さんのキレイな指に恥じないようにと、
いつも以上にいい仕事をさせてもらえました。
まだお腹に余裕があるようでしたら、
ちょっと変わったモノを握ってみますので、
お召し上がりになりますか?
そしてボクらは漬けのまぐろや、
普段は蒸して握られるエビを焼いてそれから握るという
「すごくおいしくすばらしい寿司」
をいくつか味わう栄誉に浴した。
まもなくそろそろ1時間。
電話がなって、それを受けた若い衆が主人に
「おなじみさんが今日は席があいてるか?」と。
いや、満席だというご主人に、母がいいます。
私たちはそろそろお暇いたしますので。

「30分ほどでお席がご用意できますからと、
 お答えしとけ」
といいながら、
最後に干瓢巻きを召し上がっていかれませんかと、
それをつまんで〆とする。

どうぞお使いくださいませと差し出されたおしぼりに、
いいえ、結構と手をつけず、
代わりに教えていただきたいことがあるのですけど。
このご近所に、
タバコの匂いのしないバーはございませんか?
指の香りを肴に
ワインをたのしみたいと思うもので‥‥、と。

奥さん本当に粋だねぇ‥‥、と。
一軒、みずから電話をかけて
バーのカウンターがあいているのを確認してから、
その店の名前と簡単な地図をを名刺の裏に書く。
よろしければお名刺を頂戴できませんでしょうか。
そういう主人に、
申し訳ないけれど私は名刺を持たぬ立場で、
うちの息子の名刺でよければ
もらってやっていただけませんこと?と。
それで結局、ボクはお店のおなじみさんしか知らぬ
電話番号が入った名刺を手にするコトができたのです。





また近いうちにまいりますわ‥‥、とお店をあとに、
紹介してもらったバーにボクらはゆっくり歩く。
寿司は指でつまんで食べるのが一番おいしい。
箸でつまむとわからぬ量感。
シャリの質感。
ひんやりとしたネタの温度やハリや弾力。
指でまずは味わって、
口に滑りこませるときもそっとやさしくなめらかに。
そんな寿司を握る握り手は、
食べ手の手元を見ながら寿司を握りすすめる。
口元をみるのは失礼。
食べるスピード。
食べ方のクセ。
お客様がどんな人かを知る最大の手がかりが手元。
そのときもしも私の指がマネキュアべっとり、
指輪キラキラだったら寿司を握った人はどう思う?

寿司屋さんのカウンターで一番立派にみえるべきは、
お寿司であって、私の指じゃないはずでしょう。
自分が握った寿司より偉そうにしている職人はダメ。
握ってくれた寿司より偉そうにしている客はもっとダメ。
今日のお店のご主人は、
目立たずただただ寿司をおいしく作ってあげようと、
気持ちがキレイで私は好き。
そんな人が握るお寿司はスッピンの指で食べるべきって
私は思っているのよね‥‥、って。

そして到着したバー。
空気のキレイなこじんまりしたカウンターバーで、
寿司屋さんからご紹介をいただきましたというと
なんとワインが一本。
ニュージーランド産のキリッと冷えた
リースリングをいかがでしょうかと。
寿司屋のご主人から、
うちの寿司の匂いにはこのワインがぴったりだから
オススメするように言われましたと‥‥。
両手をそっとこすりあわせて、右手の指を嗅いでみます。
たしかにそこからやさしい酸味と魚の香り、
アサリや穴子を味わうための
コッテリとしたタレの匂いが一緒になって、
寿司を食べてるときにはまるで感じなかった
おいしい香りが漂ってくる。
それを肴にワインを味わう。

でもね、本当はあのカウンターで
キリッと冷やした辛口の日本酒をたのしみながら、
寿司をゆっくりつまみたかったの。
おなじみさんになったらそうした楽しみ方を、
あのご主人におねだりしましょ。
それまではこうして寿司の残り香で、
ワインを飲んでたのしみましょうネ‥‥、と。

日本の料理はこうした香りの料理であります。
やさしく香って後をひく‥‥、
そんな香りのたのしみ方とまるで違った
西洋流の香りのたのしみ。
さて来週のおたのしみ。




2012-08-23-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN