ボクの母。
実はちょっと変わった芸事の世界で、知る人ぞ知る有名人。
その人脈を仕事に使わせてほしいと一度、
お願いをしたコトがあった。
アメリカに出かける直前くらいかなぁ‥‥。
滅多に仕事のコトで母にお願いなんてしないのだけど、
とある大きな仕事を成功に導くためには
どうしても紹介して欲しい人がいて、それでお願い。
高くついても知らないわよ‥‥、
ってしかめっ面をしながらも、数ヶ所に電話をかけてくれて
めでたく、ボクの仕事はほどよき成功をみることとなる。

お礼はいかがいたしましょう?
おそるおそる聞くボクに、目をクリクリさせながら
「おいしいモノをゴチソウしてくれればそれでいいわよ」。
実の息子から報酬をとるなんて
いくらなんでも出来ないですもの‥‥、って。
でもそのイタズラっぽい目の表情は、
なにか企みをしている証拠。
何を食べたいか、聞いてもいい?
そういうボクに、待ってましたとばかりに、
とある寿司屋の名前を告げる。

ボクも行きたいとかねがね思っていたお店。
寿司好きの間では名の通ったお店のひとつで、
ただハードルの物凄く高いお店としても知られていました。



値段の高いお店は他にいくらでもある。
東京の有名な寿司の店の中ではほどよき値段でおさまる。
けれど誰かの紹介がないと予約がとれぬという店。
一見さんお断りというコトではなくて、
はじめてのお客様のお席は
おなじみのお客様の予約がなかったときに
お取りいたしますというポリシー。
おなじみさんで埋まらぬコトはないのでつまり、
予約がとれないお店になってしまっている
というコトなのです。

ボクもまだ行ったことはないから
ちょっとむつかしいかなぁ‥‥、と、弱音を吐くと、
「あら、あなたのお友達にひとりくらい
 行ったことがある人がいるんじゃなくて」と。
なるほど、なるほど。
人の人脈を使って成功したお礼は、
自分の人脈を使って返せというコトなのか。
なかなか厳しく、でも理にかなってる。
予約がとれればいつでもいいよね‥‥、というと、
女性からのプレゼントのお返しは
2週間以内にするものよ‥‥、ってやんわり言われる。
もしそのお店がダメだったら、どうすればいい?

答えは見事。
サロンのビンテージと、ペトリュス。
食後にシャトーディケムの3点セットがたのしめる
レストランならどこでもいいわ! と。
タップリお金を使ってワタシをもてなしなさい‥‥、
というコトでしょう。

その日から、ボクは必死に
寿司屋のおなじみさんを探して奔走。
うれしいコトに数名、
何度かそこに行ったことがあるって人に出会った。
ご紹介をいただけませんか? ってお願いすると、
いいよと言われ、でも来週か再来週に
予約をしたいというとみんな、そりゃ駄目だって。
俺たちだって一ヶ月先くらいでしか
予約がとれない店なんだもの‥‥、ってみんないう。
困り果てていたら、中のひとりがいいます。
ちょうど再来週。
接待のために2席予約をしてるんだけど、
もしかしたらそのお客様が
予約の時間に間に合わないかもしれないんだ。
海外からひさしぶりに帰ってくる人で、
もしそうなったら予約を譲ってやってもいいが、
どうするか? って言われて、よろしくお願いします。
人の不幸を心待ちにするのは
ちょっと切なくありはするけど、
背に腹かえれずその日を「Xデー」とすることにした



寿司屋の近所のホテルのロビーを
待ち合わせ場所にまず設定し、
そこから歩いていけるところにある
フランス料理のお店に電話をかけて、
たしかにサロンのヴィンテージ・シャンパンや
シャトー・ディケムがあることを確認をして、
予約をすませる。
母には直前まで寿司屋にいけるかどうかわからないけど、
と伝えて、あとは運を天に任せる10日ほど。

さて当日のコトであります。
会社で仕事をしていたボクに、電話がきます。
お客様がのるはずだったフライトがキャンセルされて、
残念だけどいけなくなった。
だから良ければボクの代わりに
行ってくれないかという電話で、
その日ほど、ボクは他人の不幸に
感謝したことはなかったネ。
母に急いで連絡しようと思って探してみるのだけれど、
家に電話をかけても出ない。
携帯電話なんてない時代のコトでありまして、
こりゃ、しょうがない。
ホテルのロビーでサプライズっていうのもいいかと、
夕方、待ち合わせの時間にあわせてそこにでかける。

母は準備万端で待っていました。
ヘアーサロンに行ってきたのよ‥‥、という母の姿は
フレンチレストランのテーブルクロスのかかった
テーブルにピタリと映えるようにできてた。
フワリと大きく跳ね上がるように整えられた
濃い栗色のボリューム感のある髪に、大きなピアス、
クッキリとしたメイク顔。
こんなに気合の入った母はひさしぶりだなぁ‥‥、
って思ってそっと手を出して、椅子に座った母を立たせる。
そして言います。

「寿司屋の予約がとれたんだよ!」

あら、ステキ。
そういう母はなぜだかちょっと戸惑い顔で、
ファーマシーに付き合って‥‥、
とホテルのロビーの売店に行く。
そしていくつか買い物を。
ヘアーバンドにティッシュペーパー、
コットンパフにそしてなぜだか除光液。
買ったばかりのヘアーバンドで髪を束ねて
ひっつめ髪にととのえなおし、
アクセサリーを全部外してハンドバッグの中におさめる。
そしてティッシュペーパーを唇で挟んで
ギュギュッとぬぐう。

せっかくおしゃれをしてきたのに‥‥、
というボクの言葉もかまわずに
真っ赤な口紅をほとんど落としてティッシュを丸める。
そして言います。

お寿司屋さんという場所は、
お寿司が一番キレイで
うつくしくみえなきゃいけない場所なのよ。
そんなところにバッチリきめたワタシなんかが
行ってごらんなさい。
お寿司に嫉妬されるでしょ。
食べ手はめだたぬように心がけなきゃいけないの。
それにお寿司のようなデリケートなモノを、
口紅ベッタリ塗った唇であじわうなんてできないもの。
オンナの唇は悔しいときにハンカチを噛む。
これから寿司を食べるときには
ティッシュを噛むって決まってるの‥‥!
と言ってニッコリ。

たしかに昔、女性の気持ちになって食事をしてみようと、
口紅塗って焼鳥や刺身を食べたコトがあるけど、
微妙な味がわからずビックリしたことがある。
特に寿司や蕎麦のような唇でまず味わう料理に
口紅ってのは邪魔になる。
さすがだなぁ‥‥、って思っていたらちょっと失礼。
お手洗いにいってくるわねって、
しばらくたって戻ってきた母の指から
マニキュアきれいさっぱりなくなっていた。
おまたせ、それじゃぁいきましょう!
ホテルのロビーを出ていく母の後ろ姿はスキッと伸びて、
まるで闘士の凛々しき様。

日本の料理と香りの話。はじめるつもりが
来週のおたのしみってコトにしましょう‥‥、
また来週。


2012-08-16-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN