#09ピーター・ティールと糸井重里の対談:テクノロジーの進化は未来のために必須

糸井
「競争」が必ずしもいい結果を導かない、
ということについて、もう少し聞かせてください。
ティール
そうですね。
私は、アメリカの大学制度について、
ずっと批判的な意見を持っています。
多くの人が、一流大学、
ランキング上位の大学に入学したがる。
そういう大学に入れないとダメだと思ってしまう。
でも、入れた人だって、
ダメになる可能性が大いにある。
たとえば、入学の倍率がもっとも高いのは、
カリフォルニア工科大学で、
数学と物理にすばらしく秀でた高校生たち、
高校でトップ1パーセントの成績を
おさめるくらいの優秀な学生たちが集まります。
日本の大学と違って、アメリカでは、
大学でも高校のような勉強の競争が続きます。
すると、学生の99パーセントは、
高校ではトップ1パーセントの成績だったのに、
大学ではそうではなくなってしまうのです。
そういうふうにしてカリフォルニア工科大学で
4年間を過ごすと、いつのまにか人生の目標が、
「20年後にロッキード・マーチン
 (アメリカの航空機をつくっている会社)の
 中間管理職になっていること」
という感じになってしまうのです。
夢がものすごくしぼんでしまう。
一度、成功したあとで、
気をつけないといけないのは、
またつぎの競争に放り込まれるというリスクです。
そこで負けたら、たいへんな心の傷を負います。
このあたりのことは、
よくよく考えるべきだと思います。
糸井
ティールさんは、その競争の社会を
抜け出したかったわけですね。
ティール
そうです。
その競争に加わっている人たちが、
いまは、あまりにも多いと思います。
とくに専門職の分野の競争はすさまじい。
非常に優秀な人たちが
法律事務所に毎年80人くらい採用されますが、
8年、9年経ったあとに
パートナーに昇格するのは4、5人。
でも、それ以外の人も、ほとんどみんな、
パートナーになれるくらい優秀なんです。
みんな才能豊かで努力家で、差がない。
そこで私が得た大きな教訓は、
「自分が周りと差別化できないところに
 いてはだめだ」ということです。
人と人の間の対立はどうして生まれるのか。
カール・マルクスは、
人がそれぞれ異なるものを求めるとき、
対立が起きると言っています。
ブルジョワが求めるものと、
プロレタリアが求めるものが異なることが、
対立を引き起こす、と。
逆に、シェイクスピアの中では、
二人の人間が同じものを求めるとき、
対立が起きます。
『ロミオとジュリエット』の冒頭では
格式も同じくらいのふたつの名家、
モンタギュー家とキャピュレット家が
互いに深く憎み合っていますが、
両家は、互いにそっくりです。
私は、シェイクスピアが正しくて、
マルクスは間違っていると思います。
対立は、似ている人どうし、
そっくりな人どうしの間で起きます。
あり得ないことですが、
もしも、頭のいかれた非常識な上司が、
部下たちの対立を願うとしたら、
ふたりの部下を呼んで、
まったく同じ仕事を指示すればいいんです。
たとえばふたりにそれぞれ
「会社のウェブサイトをつくれ」と指示する。
すると、もとは親友だったかもしれないふたりが、
互いが嫌いになり、「あいつはダメだ」と
言い合うようになるでしょう。
とにかく、人と同じ仕事をするのは
くれぐれも避けるべきです。
差別化しなくてはならない。
事業経営でも、自分の生き方においても。
糸井
うーん、なるほど。
ティール
クローン人間について、
生命倫理の問題はさておき、
私たちは直感的に違和感を持ちますよね。
フィクションの領域ですけれど、
あなたのクローン、
考えまでそっくりなクローンが100人いたら、
どうでしょうか?
気持ち悪いと感じる理由のひとつは、
ものすごい競争になるからです。
みんな同じ面接を受け、同じ質問をする。
競争の結果、賃金はゼロに限りなく近づく。
違和感を持って当たり前です。
クローンをつくることに対して
人々がごく自然に違和感を持つのは、
合理的だと思います。
周りと自分がそっくりになってしまうことへの
合理的な恐れです。
自分とそっくりな人たちとの競争を避ける。
このことは、よく考えるべきですね。
糸井
とても比喩的にいえば、
違う人間の名前、違う顔をしている
クローンだらけの社会に
ぼくらは生きているとも言えますか。
ティール
それはちょっと極端ですが、
私たちがどんどん似てきているのは、
たいへん近代的、現代的なことだといえます。
というのも、古代においては、
自分たちと違う人どうしは、殺し合っていました。
ひどい暴力の時代です。
私たちが暮らす現代社会では、
そうした暴力性はあまり出てこなくなりました。
人々が互いにどんどん似る力が働いてきたから、
暴力に訴えずにすむやり方を見つけた、
とも言えます。
糸井
ふーむ。
ティール
似ていくこと、差別化すること、
とても微妙なバランスなんです。
グローバリゼーションとテクノロジーの進化も
同じ意味で微妙なバランスを保っていて、
両方を必要としています。
ただ、私個人としては
テクノロジーの進化のほうを重んじます。
なぜかというと、技術革新がどんどん起きれば、
さまざまな人が、それぞれに、
いろいろ異なったことをできるようになる。
技術革新が速く進む社会では、
人どうしの差別化が自然に起きるはずです。
もしも技術革新がなくて、
グローバリゼーションだけが進んでいくとすると、
純粋に同質化していくだけの社会になります。
みんな、互いに同じようになっていく。
グローバリゼーションが
欧米で引き起こす現象のひとつに、
ロンドンやニューヨークといった
大都市に若い人がどんどん流入してくる、
というものがあります。
グローバリゼーションの物語は
「世界を征服できる」と語りかけてきます。
ニューヨークにいって、
みんなを打ち負かすんだ、と。
フランク・シナトラの歌にありますね。
「If you make it here,
 you can make it anywhere.
(ここでうまくやれたら、
 どこででもやれる。
 『New York New York』)」
私はそれはちょっとウソだと思います。
ニューヨークのようなところにいくと、
同じ計画を持った人たちがひしめいてるんです。
競争は、思ったよりはるかに厳しい。
私は、グローバリゼーションは
引き続き進むと思いますし、
止めるべきとも思いませんが、
個人的にはそれだけの方向は
いやだな、と思っています。
糸井
ティールさんにとっての解決法というのは、
やはり、テクノロジーの進化。
ティール
そうですね。
けれど、私はテクノロジーが
万能薬であると言ったことはありません。
私は理想主義者でもありませんし、
テクノロジーが社会にある
すべての問題を解決するとは思いません。
でも、逆は真なりだと考えています。
テクノロジーの進化なくして、
いまのさまざまな問題を解決することはできない。
先ほど例に挙げたような、
テクノロジーが悪をもたらすようなSF映画が
すべて完全に間違っているとも思いませんし、
破滅をもたらすような技術が
開発されてしまう可能性がないとはいえません。
しかし、テクノロジーの進化なしに
明るい未来がつくれるとは考えられないのです。
技術革新なきグローバリゼーションとは、
すなわち、資源が限られているこの世界で、
70億人がアメリカや日本の生活水準を目指す、
ということです。
それは、トマス・ロバート・マルサス
(イギリスの経済学者。
 1798年の著作『人口論』のなかで、
 資源が一定な中で人口が増えると
 戦争になる、と唱えた)
が言うような対立、資源をめぐる紛争に
直結するのではないでしょうか。
70億人が対立なく先進国の水準で
生活しようとするならば、新しい技術が必要です。
コンピューターの分野だけではなく、
エネルギー、農業、など多くの分野で必要です。
私がしばしば用いる「テクノロジー」の
ごくシンプルな定義はつぎのようなものです。
「doing more with less
(より少ないもので、より多くを成し遂げる)」
シンプルな、経済学的な定義です。
コンピューターの分野では、
技術の進歩がありました。
「ムーアの法則(半導体の集積密度は
 18ヵ月から24ヵ月で倍増する)」が有名ですね。
コンピューターの性能は、どんどんよくなり、
価格もどんどん安くなっていきます。
ときを重ねるごとに、より少ない投入量で、
同じことを、もしくは、
より多くのことができるようになりました。
でも、ほかの分野では、コストは下がってません。
たとえば原油価格は、
物価上昇を加味して調整した実質価格でいうと、
いまも、1973年のオイルショック直後も
さほど変わりません。
これは、エネルギー分野での技術革新が
起きてないことの表れだと思います。
「より少ないもので、より多くを成し遂げる」
ことができれば、よりよい生活ができます。
くり返しになりますが、
技術革新がすべてを解決するわけではない。
テクノロジーの進化は、よりよい未来に向けての
必要条件だと考えているのです。

(つづきます)

協力:株式会社タトル・モリエイジェンシー
2015-04-29-WED

書籍紹介

ZERO to ONE
ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるか

ピーター・ティール

出版社:NHK出版
定価:1600円+税
ISBN-10: 4140816589
ISBN-13: 978-4140816585

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