東京なべぶた流、 世界の普遍に通ず、 自由の穴をあける。 中沢新一+糸井重里talk about吉本隆明
もしも刀をふりおろされたら、 なべぶたをさし出せ。 千年の定規を捨てさり、 路地庭にあらわれる見えない通路を行け。 自分の中の、普遍の光に目を向けて。 * このお話は、2008年8月2日、 有楽町 よみうりホールで行われた 日本近代文学館 主催/読売新聞 後援の 「夏の文学教室」で 「吉本隆明と東京」というテーマで話された 中沢新一さんと糸井重里の対談を編集し、 ほぼ日刊イトイ新聞の連載として お届けするものです。 音声提供:日本近代文学館

一 吉本隆明は、下からやってくる。 2008-09-18
二 海の向こうの他所の地図。 2008-09-19
三 一万年の通路へ。 2008-09-22
四 真の姿を見えなくしていた。 2008-09-24
五 批評家、吉本隆明。 2008-09-25
六 虚数、愛。 2008-09-26
七 あんな刀は、もう嫌だ。 2008-09-29
八 吉本さんのいる場所から。 2008-09-30


1 吉本隆明は、下からやってくる。
糸井 この講演会における、対談のタイトルは
「吉本隆明と東京」です。
吉本さんご自身が、これまで
東京あるいは東京が象徴するものについて
たくさん語っておられますし、
いくらでも話すことはありますけど、
なにがいちばんいいのかなぁ。
中沢 実は、昨日、吉本さんの
『思想のアンソロジー』という本を
読み直してきました。
「東京」とか「都市」というふうに
吉本さんがおっしゃることと
吉本さんの思想が、
とても密接な関係にあると、僕は感じました。
糸井 『思想のアンソロジー』という本は、
ものすごくおもしろい本ですよね。
人の文を選び出して、それに対して
吉本さんが「自分はこう思っている」と
いわば「反応」をお書きになっている、
という本です。
中沢 ええ。
古典の文章があって、その現代語訳があって、
それについての吉本さんのコメントがある。
もともと、吉本さんのスタイルは
受け身なんだと僕は思いますけれども。
糸井 ああ、そうですね。
中沢 相手がこう反応したから、
これについて反応するという
やり方をなさっているような気がします。
そのことについては、
あとでじっくり話しましょう(笑)。
糸井 はい、ぜひ。
中沢 『思想のアンソロジー』では、
夏目漱石や森鴎外など、いろんな人の文章を
取り上げていらっしゃるんですが、
けっこう風変わりなものが多いんですよ。
なかでも、吉本さんの本質的な
「ほんとうに趣味がいいなぁ」という部分が
出ていると思うのは、冒頭のところです。

冒頭で吉本さんが取り上げた文章は、
大江匡房(おおえのまさふさ)のものです。
大江匡房は、鎌倉時代の知識人です。
その人が書いた傀儡子(かいらいし)と
遊女について書いた文章が二本、
冒頭に置かれています。

傀儡子は、水辺を生活圏としていて、
剣術やら、いろんな技芸に巧みな人たちでした。
また、傀儡子の奥さんというのは、
だいたいが遊女だったようです。
その人たちについて、
大江さんが鎌倉時代に
興味を持って書いていたわけですが、
それについての吉本さんのコメントが、
非常に、愛情に満ちているのです。

大江匡房という人は、
思想家と名づけられるような人ではなくて、
まぁ言ってみれば、
変わったものに興味を持って、
それについて克明に書いているだけの人だ、
という見方が多いのではないでしょうか。
だけれども、吉本さんは、
これを「思想だ」とおっしゃるんです。

このことからわかるのは、
吉本隆明という人は
この日本列島に生きている人間の生活のさまを
全体性で見ていくという視点を
意識的に取ろうとしている、ということです。

普通の知識人だったら、きっと
この人たちのことには興味を持たないでしょう。
しかし、吉本さんは、
ここにものすごく視点を合わせて、
大江匡房の書いたことは思想だ、というんですよ。

日本古典の中で
吉本さんが気になった作品を並べていく、という
テーマの本の冒頭が、それですよ。
糸井 最初に。
鴎外も漱石も押しのけて。
中沢 そう、最初にね?
吉本さんは、
子どものころにチャンバラをやって、
新陰流の柳生十兵衛の真似なんかしてたけれども、
もとを正してみると、
自分がやったチャンバラは、
この傀儡子と言われている人たちが
専門にやっていたことに繋がっていくし、
海を通って朝鮮半島や大陸に大きい広がりを持つ
世界を持った人びとであり、
そういった大きい世界を抱えながら、
小さな佃島みたいなところで生きるということが、
ひとつの思想的な営為だということを、
吉本さんは、ストンと書いています。
こういうことって、なかなか書けないです。
糸井 僕は、吉本さんのこれまでの講演音声を
『吉本隆明 五十度の講演』として
まとめたんですが、
その中で、吉本さんは
たった「二行」にすごいものがある、
ということについて、何度も語っています。

例えば『マタイ伝』を語るときに、
こういうことを分かっている作者は、
それだけですごい、という言い方をされます。
また、柳田国男の書くものは
エッセイみたいなかたちをしているから、
みんなやり過ごしちゃうけど、
柳田国男の二行は、
ひとりの人の論文の何本分にも
相当するものなんだ、
という説明のしかたをなさいます。
『思想のアンソロジー』という本は、
その「二行」を発見しようとなさった
本だとも言えますね。
中沢 そうなんです。
と、同時に、そこには
吉本隆明という人の
「二行」が入っているんです。
糸井 (笑)そうですね。
中沢 僕らが生きている日本という世界は、
ある意味で言うと
特殊な面がいっぱいあるんです。
例えば橋なんかにしても、
ヨーロッパの堅牢な橋に比べると、
すぐに壊れるような、変な作り方をします。
食べ物もそうだし、人間関係、
言葉使いなんかにしても、そうです。
「空気を読む」なんていう言葉に至っては、
もうとってもおかしいことを言ってますよね。
そういう日本の特質はあるけど、
それは世界普遍ということに
どうやってつながるのでしょうか。

吉本さんは、二十歳のときに
終戦を迎えられました。
戦争に負けて、ハッと気がついてみると、
日本の特徴と言えるものを挙げることは、
結局、比較文化論の域を出ていない。
日本人が作りだしたユニークさや特徴が、
どんなに世界に類のないものであったとしても、
このままでは
世界普遍にはつながっていかないと
思われたのではないでしょうか。

吉本さんが
戦後思想で格闘してきたことはなにかというと、
ご自分が体験し、知っている
この日本という小さな世界、
あるいはそこで蓄積されたいろんなものを、
世界普遍につなげていくことを、
自分に課したということがあると思います。
僕は、それはもうまさに
吉本さんの仕事そのものだと思うんです。

吉本さんは、日本の持つ特質を
いわば「下から」世界普遍に向かって
つなげていくことをやるのです。
上からじゃない。下からなんです。

(続きます)

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2008-09-18-THU

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