東京なべぶた流、 世界の普遍に通ず、 自由の穴をあける。 中沢新一+糸井重里talk about吉本隆明

4 真の姿を見えなくしていた。
中沢 僕は学生時代に「吉本隆明」を
よく読んでいましたが、
それこそ吉本さんの根本的な衝動や
目指すものをはっきりつかみだすまでには
至らなかったと思います。
でも、最近はよく分かるようになってきました。
糸井 どうしてそんなにつかめなかったんでしょう。
やっぱりノイズに混ざってしまうことが
多かったからでしょうか。
中沢 そうだと思います。
日本の戦後史では、
左翼的にならざれば知識人にあらず、
という時代が形成されました。
これは連合赤軍事件まで
日本の知識人のひとつの型を作ったし、
マルクス主義という世界普遍に
一足飛びに近づくことによって、
自分たちが日本で生きている足下の現実まで、
それによって把握できると考えた人々が
大半だったとも言えます。
糸井 あてはめれば簡単だ、と
思えたわけですね。
中沢 吉本隆明さんはそのことと
ずっと戦い続けてきたわけです。
その戦いの、
吉本さんの足の踏ん張りどころは、
戦前からつながっています。
その時代には、
日本浪漫派のような人々がいたし、
どこからも超越した小林秀雄のような
人物もいました。
吉本さんは自分の地歩をしっかり固め、
戦後に論争的な活動に入ったときも、
その足の踏ん張りどころは変えませんでした。

ところが、僕らには、
そこまでは見えなかったんです。
吉本さんがやっている論争にしても、
自分たちは全身でコミットしてる
運動じゃないわけですから。
糸井 すぐに腕をまくっちゃうからね。
中沢 そう、やっちゃうんだ。
やっぱり、時代のノイズが
ものすごく多かったんです。
吉本さんを取り巻くノイズが消えていったのは
おそらく1980年代に入ってからでしょう。
でも、この話の冒頭に言いましたけど、
吉本さんは受け身だから、
付き合いが、やたらいいんです。
攻めてくる人がいると、
必ずそこへ出かけていって、
斬り合いをするんですよね。
糸井 「遊ぼ」と言われないと遊ばないかわりに、
挑発すると、必ずすっ飛んで行きますね。
しかも、丁寧に行きます。
中沢 そうなんです。
真面目に丁寧に、出かけていくものだから、
僕らからすると、
なんだ、吉本さんって
そういうところへ出かけていく人なのか、
堀部安兵衛みたいな人なのかな、と
思っちゃうわけです。
糸井 そして、最後にいちばん有名になった
埴谷雄高さんとの話でも。
中沢 コム・デ・ギャルソン論争と
呼ばれるやつですよね。
糸井 「吉本の家にはシャンデリアがあって」
ということになってるんだけど、
あれは、ふつうの電灯ですね。
中沢 僕も、最初に吉本さんのお宅に伺ったときに、
埴谷さんが言ってたシャンデリアが気になって
「吉本さん、あの有名なシャンデリアは」
と、訊いてみました。
そうしたら、吉本さんは
「これですよ。こんなものは
 建売にはみな付いてるんですよ」
っておっしゃってました。
糸井 どうしてあんな論争があったんでしょうね。
そんなところまでお互いに付き合って、
暗くなるまで試合をしなくても
いいと思うんです(笑)。
中沢 僕も、いいと思います(笑)。
糸井 吉本さんは、
埴谷さんが言いたかった気持ちは分かると
今ではおっしゃいますが、
あのときには、もう
喧嘩だ、喧嘩だと。
中沢 どうして吉本さんがいきり立って
あんなに仲のよかった埴谷さんに
食ってかからなきゃいけないのか。
僕にはぜんぜん分からない。
いまだによく分かりません。
糸井 なにも、コム・デ・ギャルソンを
着たからって──そういえば、
先日の人見記念講堂の講演のとき、
吉本さんは、ハワイ土産の
なんでもないTシャツを
着ておられましたよ。
なにか呪術的な意味でも
あるのかとさえ思いました(笑)。
きっと、埴谷さんとしては、
「吉本はおしゃれじゃないところがよかったのに、
 コム・デ・ギャルソンを着たら
 けっこう、似合ってるなぁ」
ということだったのでしょう。
中沢 そうでしょう。
糸井 いずれにせよ、論争があったことは
伝説になったけれども、
必要のない論争をしたという気さえします。
中沢 吉本さんには、そういうことが
たくさんあるんじゃないですか。
糸井 必要のある論争でも
なにもそこまでそんなに
一生懸命やらなくてもよかったんじゃないかな、
というものもありますから。
中沢 しかし、江戸っ子ってやつなんでしょう、
「俺は行くぜ」と
やっちゃうところが
吉本さんのいいところなんですよね。
でも、僕らは当時、
そういうことばかり目についていたから。
糸井 そういう論争やノイズが、
吉本さんの根底にある動機を、
すごく見えにくくしてきたんでしょう。

しかし先日の、人見記念講堂での講演は、
「1945年の8月15日にラジオ放送があって」
というところからはじまりました。
その終戦の日、どうしていいか
分からなくなったというところから、
世界のつかみ方を知らなければ
生きている意味がないじゃないかと思って
必死で考えた、というところがはじまりです、
と、吉本さんは明言しました。
中沢 ええ。感動しました、あれは。
糸井 そこから5、6年のあいだ
必死で知りたくて勉強した、ということを、
誰かが伝えてさえくれれば、
なぜ『共同幻想論』を書いたか、
なぜ『言語にとって美とはなにか』を書いたか、
学生だった僕らも
少しは分かって読むことが
できたかもしれないです。
なんだか、淀川長治抜きで
映画が上映されちゃったみたいな感じがあって。
中沢 うん、うん(笑)。

(続きます)

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2008-09-24-WED

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