書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。東京~福島~宮城 2018車 - ほぼ日刊イトイ新聞
田中泰延
2018.03.09

ゆれをしらない。

3月11日は、大阪にいた。
その2時間前に、東京から戻ってきたばかりだった。

午後2時46分、大阪の会社の机も、すこしだけ揺さぶられた。
あとから聞いたら、大阪も震度3だったというが、
物が倒れたり、壊れたりというような揺れではなかった。
長いな、終わらないな、とは思ったけれども
誰かに肩を掴まれて問いただされる、
そういう「揺さぶられ」のように感じた。

皆がデスクから立ち上がり、テレビの前に集まる。
「震源地は…東京、いや東北みたいやで」
「遠く離れた大阪がこない揺れるんやったら、
東京は全部つぶれてるんちゃうんか」
同僚の誰かの言葉を聞いた記憶がある。

ただ、妊娠7ヶ月で、もうすぐ産休に入る女性だけは
机の下に潜り込んだまま
みんなで声をかけても決して出てこなかった。

ぼくは、揺さぶられている間、16年前の朝を思い出していた。

1月17日は、東京にいた。
その前日に、大阪から戻ってきたばかりだった。

午前5時46分、東京の会社の机も、すこしだけ動いた気がした。
あとから聞いたら、東京も震度1だったというが、
会社で徹夜明けだったぼくは、気にも留めなかった。
だが、しばらくしてテレビをつけたぼくは
人生がまるごと揺さぶられる予感がした。

あわてて前日までいたばかりの、
実家がある大阪に舞い戻った。
父が独り住む家は、全壊していた。

関西地方に大地震が起こるなんて思いもしなかった幼馴染みの男は、
「大阪がこない揺れるんやったら、
東京は全部つぶれたんかと思った」
と言って、ぼくの顔を見て驚いた。


大阪生まれなのに、1995年は東京で勤務していた。
2011年は、大阪に転勤していた。
だから、阪神・淡路大震災、東日本大震災、
ふたつの大きな揺れを、ぼくは両方経験していない。

あの日のことを語るときに、まずその揺れの共通体験があって、
そこからどう動いたか、何をしたかという話になることが多い。
だが、ぼくはその本当の恐ろしい揺れ自体を知らない。
そのことにずっとなぜか罪悪感を持ってきた。

全壊した実家には、その翌日、大急ぎで戻った。
東北へは、怖かった記憶がじゃまをして、
なかなか脚を運べなかったのだが、数ヶ月後に避難所を訪ねた。
しかしなにか、いまでも「わたしは揺れませんでした、すみません」
という気持ちが消えないのだ。そして7年が経ち、
その東北へ車で出かけようと声をかけられた。

あの「すみません」という気持ちは消えないだろうが、
いまの道を、町を、村を、港を、宿を、人を、見に行ってみよう。
ぼくはすぐに行くことを決めた。
同時に、こういうつもりで行きましょうと書いた。

・政治からは、ちと離れる

・車のなかは、ばか話

・車を降りて、風を感じてみる

・人に、会いにいく


7年前、瓦礫から遠く離れた大阪で、インターネットを眺めたり
何か主張らしきものを書き込んだりしていただけのぼくは

政治家みたいな自分、評論家になった自分、
国家主義者きどりの自分、陰謀論を信じた自分、
その翌日には陰謀論を信じた人をあざ笑う自分、

そんな自分でいっぱいだった。
それが、じっさいに東北の地を訪れたとき、
いかにあほらしいものかを知ったのだ。

思うこと、書くことに、
過去と現在が入り混じる、そんな旅になると思う。
しかし、過去と現在が入り混じった中から
未来を作って行くのもまた、人の頭の中なのだ。

えらそうなことを言ったが、たんに東北の、
おいしいものばかり食べて移動する数日間になるかもしれない。

そうなるとこれは「みちのくふとり旅」だ。あ、これは旨いもの食べた日の題名に使うから取っておこう。

まずは出発だ。
4年間、プロドライバーとしてトラックを運転していたぼくにとっては、
みんなに道中眠ってもらったりすると
むしろ誇らしい気分になる。

あさってあたりには、題名はきっと
「みちのくふとり旅」なんで、
料理の写真も楽しみにしていてください。

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