もくじ
第1回 2016-12-06-Tue
第2回 2016-12-06-Tue
第3回 2016-12-06-Tue
第4回 2016-12-06-Tue

ふだんは本の編集をしています。今回「ほぼ日の塾」を通して、改めて編集はおもしろいなあ、と思いました。貴重な機会をありがとうございました!

八ヶ岳に</br>ギャラリートラックスがあるだけで

八ヶ岳に
ギャラリートラックスがあるだけで

担当・レレレ

第2回

木村二郎さんと三好悦子さんがはじめた、ギャラリートラックス。

この地で、ギャラリーをはじめようと考えたのは、悦子さん。
物件探しをするなかで、お寺の境内にある元・保育園だった
この場所に出会い、二郎さんがひと目みて気に入り、
自らの手でつくりあげ、1993年7月にオープンした。

オープン後も、展示ごとに
空間を大胆につくり変え、訪れるひとを驚かせ、
また、ひとつとして同じもののない、
古材を生かした家具を、次々と生みだしてゆき、
益子のスターネットの立ち上げをはじめ、
さまざまな店舗設計や空間デザインを手がけて、
2004年、56歳の若さで他界されるまで、
常に創作しつづけていた木村二郎さん。

その姿をずっと見続けてきた三好悦子さんに、
お話を聞かせていただきました。

――
木村二郎さん、どんな方だったんですか?
悦子
すごくシャイで、口数の少ない人だったから、
みんな慕っていたけど、たくさん話した人は、
実は、そんなに多くないんです。
 
展示のオープニングパーティのときなんかも、
気づいたら、いなくなっていて、
「二郎さん、また帰ったわあ」って言われてました(笑)
 
それで終わってから、うちに帰ると、
二郎さんがひとりでなにかをつくっていたりして。
そういうことがよくありました。
――
もともと、大阪にいらしたんですよね?
悦子
そうなんです。
当時、私が働いていたデザイン事務所と、
二郎さんがお兄さんとやっていた
インテリア事務所が、同じビルに入っていて。
それで、みんなでご飯を食べたり、
ちょうどロキシー・ミュージックが来日して、
一緒に見にいったり、
ふたりとも骨董が好きで、音楽や映画の好みが
近かったこともあって、仲良くなって。
 
二郎さんみたいな人はいないよねって
みんな言っていたけれど、
大阪の男って、もっとベタな人が多いから、
最初、わたしは宇宙人かと思ったの(笑)
――
これまで会ったことのないタイプだった…。
悦子
本当にそうでした。
大阪にいたときの二郎さんは、
売れっ子のインテリアデザイナーで、
ちょうどバブルの頃だったから、
大きな予算のもと、オシャレでかっこいいものを
いっぱいつくってました。
 
ただ、かっこいいんだけど、
都会のコンクリートジャングルのなかで、
バブリーなものを作っているなあ、という印象で、
当時は、彼がつくっているものに、
あまり関心を持っていなかったんです。
――
そうだったんですか。
悦子
その頃のわたしは、「土に還りたい」って思いが
すごく強くて…。家の庭も石畳だったし、
アスファルトの上を歩いて、電車に乗って、
ああ、今日も一日、土のうえを歩いてないなあ、
と思いながら、暮らしていたから。
 
それで自然食品店でみつけた、自給自足の本に
ひかれたり、田舎暮らしに憧れたりして。
当時、陶芸を習っていた先生のセカンドハウスが、
大阪の山のなかにあったので、
そこを貸してもらって、住んでみたりしているうちに、
二郎さんのほうがその生活にハマってしまって…。
――
悦子さん以上に?
悦子
そうなんです。
田舎暮らしも、ギャラリーをつくろうというのも、
言い出すのは、いつもわたしなんですけど、
それを具現化していくのは、二郎さんでした。
しかも、わたしの予想をはるかに超えていくんです。
 
ギャラリーも、最初はあまり乗り気でなかったのに、
この場所に出会ったら、嬉々としてつくり始めて。
本当は、縁側でぼーっとしてたかったのになあ、
なんて言いながら(笑)
 
大阪では、図面をひくのが仕事で、自分の手で
つくることはなかったのに、八ヶ岳に来てから、
どんどんいろんなものをつくるようになって…。
――
大阪でのお仕事とは、また違うものが生まれ始めたんですね。
悦子
そう、全然違うものをいきなりつくりはじめて。
――
いまもファンがたくさんいらっしゃる、
二郎さんの古材をつかった家具なんかも…。
悦子
そうですね。古材を使い始めたのも、
ギャラリーのオープンにむけて改装を進めているときに、
たまたま、近所で古民家が解体されることになって、
柱とか梁を使いたかったら、持って行けって。
それで、解体現場で、バリバリバリ…って
取り出してもらって。
 
最初につくったのが、ガラス板の下に、柱を渡した
このテーブルです。

(つづきます)

第3回