挿絵の 地図の 絵本の雑誌の ロゴの 写真の宣伝の 先輩の お家のパリの 東京の 旅人の   堀内さん。──デザインを旅したひと。──
宣伝の堀内さん。

▲これは1950年代「新宿伊勢丹百貨店」のウィンドウディスプレイ。
すごくモダン!

▲通りの向こうから見ても、ぱっと目をひくデザインです。
写真がモノクロしかないのが惜しい。
きっと「はなやか」だったんだろうなあと思うのです。

▲せっかくなので、お借りした資料、いっぱい見せちゃいましょう。
地階食料品売り場のための案内かな?
ものすごくワクワクするなぁ。

▲システムキッチンの紹介。最先端の最高級品だったはずです。
まだ「戦後」だった頃、外国‥‥それも戦勝国のゆたかな暮らしが、
ぽーんと新宿にやってきた、そんな感じだったんじゃないかなぁ。
そして背景の絵や文字‥‥おぼえがありますよね!

▲これは家電製品のディスプレイ。いちばん左は洗濯機です。
1950年代の家電って、こんなにかっこよかったんですね。
きっと、当時のみんなの憧れが、ぎゅっと詰まったようなウィンドウだったんだろうな。

今回の「堀内さん。」では、1947年、14歳という若さで
新宿伊勢丹百貨店宣伝部に入社してからの
堀内誠一さんの「宣伝」の仕事をふりかえります。

堀内さんがこんなふうに
ウィンドウ・ディスプレイの仕事を手がけるようになったのは
1954年以降のことだそう。
1954年といえば高度経済成長が始まった時期です。
伊勢丹で7年ほどのキャリアを積んだあと、
21歳の堀内さんは、ちょうどそんな時代に
この仕事をしていたのでした。

それ以前、十代の堀内さんの目に飛び込んできたのは、
伊勢丹の広告資料倉庫にあった
さまざまな外国の戦前からの雑誌やアートの本、
そしてファッション関係の資料でした。
きっと戦禍を免れて残っていたんですね。
そしてそこにはふんだんに取り寄せられる
最新の外国雑誌があり、デザイン集がありました。
どんな学校よりも学ぶことができ、
東京のなかでもいちばん外国に近い
場所だったのかもしれません。

エンサイクロペディアのなかに住んでいるようなもので、
営繕係の人を別とすれば、私ほどこの建物の隅から隅までを
家ネズミのようにもぐり廻って楽しんだ人間もいないでしょう。
『父の時代・私の時代』より

当時をふりかえって、エッセイのなかで
堀内さんはそう記しています。
家ねずみのように、ということは、
仕事のあいまをぬって、百貨店じゅう、
こっそり出かけていたのかもしれません。


▲堀内さんが勤めていた時代の新宿伊勢丹。なにかのお祭りをしている時のようです。
じつはいまと外観はほぼ変わっておりません。

また、街の映画館では、
次々に封切られる外国映画がありました。
伊勢丹の近くには当時「新宿文化」「大映」
「東宝」「帝都座」などの映画館があって、
伊勢丹の宣伝課に勤めていた堀内さんは
(どういうわけだかわかりませんが)
映画館にフリーパスで入れたらしく、
ほんとうにたくさんの映画を観たようです。

そんなたくさんの「外国」をインプットした堀内さん。
ウィンドウ・ディスプレイや催し物の広告などに
その影響が強いのもうなずけます。


▲「新宿まつり」での、伊勢丹の「山車」。
蒸気船のかたちをした車に、バンドマン、和装の女性が乗っています。かーっこいーっ!

▲クリスマスシーズンには、ガラス窓全体を使って、こんな巨大なディスプレイ!

 

9年間、伊勢丹宣伝部に勤めるなかで、
次々に企画される催し物のディスプレイや、
店内の装飾デザイン。
このころの仕事を堀内さんは
「立体的なエディトリアル」と言っています。


▲当時の宣伝部のみなさんとの記念写真。
堀内さんがどこにいるか探してみてください。


▲こたえは「右端」でした!

お話をすこしだけ巻き戻しましょう。
堀内さんが就職してしばらくすると、
戦後途絶えていたダイレクトメールやPR誌が復活、
宣伝部の仕事も華やかになってきます。
1951年には、伊勢丹のPR誌『BOUQUET』が発刊。
これが、堀内さんの雑誌づくりの第一歩になりました。


▲『ISEAN BOUQUET』。
当時のPR誌として革新的なデザインと内容で、表紙のロゴすら毎号変わるという、こったつくり。
中にはカラーページがたっぷりで、布地見本が挟まっていたり、
セロファンを使ったり、ほんとうに自由な雑誌だったようです。

そして1953年の春号では、
1冊まるごとをひとりでデザインします。
そう、このとき堀内さんはまだ21歳でした。


▲まるごと1冊デザインを担当した『ISETAN BOUQUET』1953年春号表紙。
絵は吉村勲さん。




▲どのページも、のびのびとデザインされています。
これが届いたら、さぞや読むひとも、たのしかっただろうなあ。

やがて堀内さんは、『ISETAN BOUQUET』や
ダイレクトメールのブックレットをつくるいっぽうで、
社外のグラフィック、
エディトリアルの仕事もするようになります。

たとえば『BOUQUET』を見て堀内さんに声をかけたのが、
『カメラクラブ』編集長の玉田顕一郎さんでした。
そして堀内さんは伊勢丹につとめながら、
『ARS camera』、『カメラクラブ』などの
仕事もするようになります。

1955年、千代田光学(のちのミノルタ)のPR誌
『ロッコール』が創刊され、
堀内さんは誌面構成を担当。
そうして翌年、堀内さんは伊勢丹を退社、
9年間の社員デザイナー時代が終わりました。


▲『ロッコール』1955年の創刊号表紙。

▲創刊号のトップを飾った、原節子さんのインタビュー。

▲『ロッコール』28号の目次ページ。
写真を使わないページも、堀内さんの世界がそのまま!

▲千代田光学の雑誌(裏表紙)広告いろいろ。
デザインそのものがまるで「あたらしいものって、とっても楽しいんだよ!」
と語りかけてくるようです。

伊勢丹を退社後、
本格的にアートディレクションをしたのが
日本織物出版の『装いの泉』という雑誌。
ここで堀内さんは雑誌編集を学びますが、
まもなく日本織物出版は倒産、
企画・デザイン制作会社「アド・センター」として
再出発をすることになります。


▲当時の堀内さんの名詞です。
アド・センター専任用と、平凡パンチ用の2種類がありました。

その創立メンバーのひとりとなった堀内さんは、
ここからさまざまな広告デザインや
雑誌デザインを手がける
多忙な日々へと進んでいきます。



▲アド・センター時代に手がけたポスター。
書体の多彩な使い方や、イラストレーションと余白のバランスなど、
いま見ても新鮮なデザインです。
ちなみに(あたりまえですが)当時、コンピュータなんて、なかったんですよー!

「アド・センター」は、
大手の繊維メーカーである
帝人が大きなクライアントのひとつでした。
ここで堀内さんは、たくさんの広告や
ファッションショーの制作などもおこないます。
1960年ごろの日本の広告業界は好景気に沸き、
堀内さん曰く「火のついたように忙しく盛んに」
なっていきました。


▲アド・センター時代の写真。
いちばん右で頬杖をついているのが堀内さん。

アド・センターは、
広告計画の立案、セールスやPRのプランニング、
プロダクトやマーク、パッケージ、
ポスターやカレンダーのデザイン、新聞や雑誌の広告、
印刷物のデザインと編集、ファッションデザイン、
そしてテレビやラジオ広告、CMソングまで
広告に関することをひろく手がける会社に成長していきます。

そんななか、堀内さんの気持ちは、
すこしずつ広告から離れていきます。
そしてアド・センターでのもういっぽうの仕事、
『週刊平凡』や『平凡パンチ』で手がけていた、
「エディトリアル(編集)デザイン」へと向いていきます。

雑誌エディトリアルも全体が商品ですから
いろいろと条件はありますが(中略)
つまり性に合っていたのでしょう。
横すべり的にエネルギーは
そちらの方に傾いていきました。
『父の時代・私の時代』より

1969年に堀内さんはアド・センターを去り、
フリーランスとして独立します。
そして翌年創刊したのが、以前紹介した
平凡出版(現マガジンハウス)の『an・an』。
そうして、堀内さんの仕事は
エディトリアルが中心になっていくのでした。


次回は雑誌のお話にもどって、
堀内さんのてがけた「ロゴ」のことをご紹介します。
どうぞおたのしみに!


協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景

2016-11-16-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN