挿絵の 地図の 絵本の雑誌の ロゴの 写真の宣伝の 先輩の お家のパリの 東京の 旅人の   堀内さん。──デザインを旅したひと。──
東京の堀内さん。

堀内誠一さんは、1932年12月20日、
今の墨田区にあたる、本所区の向島で生まれました。

父の堀内治雄さんは、ポスターや商品デザイン、
染めの型紙や立体模型などを手がける
「図案家」、つまりデザイナーでした。


▲1935年7月、2歳の堀内さんと、お父さんの治雄さん。
描いているポスターには「MILKHALL」という文字が見えます。
堀内さんも絵筆をもってお手伝い?

堀内さんは幼いころから、治雄さんの仕事場や、
その師匠であるポスター作家、
多田北烏(ほくう)さんのアトリエ
「サン・スタジオ」で遊んでいたそうです。
アール・デコの時代が終わろうとするこの時代、
そこは堀内少年にとって別世界でした。


▲1930年頃のサン・スタジオ。ビアホールの開店ポスターを製作しているところ。
当時のサン・スタジオはたいへんな人気で、門前には依頼に来る人の乗ってきた
ハイヤーが並び、数十人の門弟、おおぜいのお手伝いさんがいたそう。
この庭の右手はおそらく温室(!)、子どもたちは小型自動車に乗って遊べたといいます。すごい!

▲拡大してみると、こんなポスターです。
モダン! そしてデザイナーたちのファッションもかっこいいなぁ。

当時、北烏のアトリエの思い出をふりかえって、
堀内さんは著作のなかでこう記しています。

「ワンダーランドというよりエデンに近かった世界の付属物」
(『父の時代・私の時代』)

当時のデザインの世界は、ロシア・アバンギャルドや
アール・デコなどの装飾デザインが隆盛を極め、
そんな欧米の息吹が日本にも流れてきていました。
堀内さんは自然と、そんな「あたらしいデザイン」に
触れながら成長をすることになりました。


▲1934年、お父さんの「レインボー・スタジオ」の前での記念写真。
立っているのが治雄さん、椅子に座っているのがお母さんの咲子さん、
ベレー帽をかぶっているのが誠一さん。

5人兄弟の長男だった堀内さん。
下町である向島の自宅には映写機があって、
壁に映しての上映会を開いたこともあったとか。
そんなモダンな家から隅田川を渡ってすぐが浅草。
そこには映画館がありました。
堀内さんはそこで「ポパイ」や「ベティ・ブープ」、
ディズニーのアニメーションなどを観ています。

そんな環境にあって、堀内さんは
「絵を描くのが得意な少年」。
少年雑誌や小説、漫画などから
いろいろな影響を受けていきます。


▲子ども時代の堀内さんがつくった「すごろく」。
「えんぴつのしん ほそくなれ けづってけづって ほそくなれ」からはじまり、
「みかづきさまより なおほそく」「あしのほより なおほそく」「つばめのあしより なおほそく」
「ズボンのしまより なおほそく」と続いていきます。
すごろくの形式をとってはいるものの、まるで絵本のようです。


▲1987年、雑誌「Weeks」に掲載された「私の浅草の記憶」。
「私の家は神谷バアで呑ませる『電気ブラン』を製造している河向こうの
蜂ブドー酒工場の裏である。」ではじまる短い手書きのエッセイがが添えられています。
イラストは、キラキラとネオンがまたたく夜の浅草にあつまる人びと、
馬車、市電、乗用車。堀内さんが小さい頃でしょうからおそらく1930年代(戦前)。
当時の浅草って、ほんとうにモダンだったんだなぁ。

▲こちらは「モボ・モガの時代」(1983年平凡出版)に掲載された
松山猛さんのエッセイ「1920〜30年版都市散歩術」のイラストレーション。
描かれているのは日比谷。「松本俊介を模す」とサインの横に添えられています。
松本竣介(「俊」は誤字)は1912年東京生まれの洋画家で、都市の風景を好んで描きました。
堀内さん、きっと好きだったんですね。

▲ちなみに「モボ・モガの時代」の表紙デザインとロゴは堀内さん。

▲さらに堀内さん、こんなエッセイを寄せています。
中央の扇子は、父・治雄さんが亡くなったとき(1972年)香典返しにつくったもの。
絵柄は銀座商店街の催しで、治雄さんが懸賞図案の一等賞をとったものだそうです。
ところで堀内さんは文章も達者。この文章は書籍『旅と絵本とデザインと』に
採録されていますので、興味のあるかたはぜひ読んでくださいね。

戦争中に母咲子さんの故郷・能登への疎開を経て、
終戦後、東京にもどった堀内さんは、
1947年、14歳のとき
新宿伊勢丹百貨店の宣伝課に装飾係員として就職します。


▲伊勢丹入社当時の堀内さん。14歳って!

14歳という年齢にいまの私たちは驚きますが、
もともと呉服店だった伊勢丹では、
(「丁稚」という時代でもなかったでしょうけれど)
うんと若い人が働いているのは
そんなに不思議なことでもなかったのかもしれません。

ちなみに「なぜ14歳で?」という疑問の答えですが、
伊勢丹に入る前の堀内さんは、
青果店で働きながら夜間学校への編入をしました。
それがどういうわけか手違い
(戦後の混乱って、このこと?)で
中学2年のはずが高校2年に編入。
勉強についていけないことから
(あたりまえですよね)、
すっかり学校に通わなくなっていたそう。
それで就職を決めたのだろうということです。

やがて伊勢丹の仕事になれてくると、
堀内さんはあらためて
絵の学校にも通いはじめました。


▲1951年、19歳のときに堀内さんが描いた「パウル・クレーの肖像」。
学校は高円寺で、現代絵画研究所といいました。
伊勢丹につとめながら、2〜3年、毎日通っていたそうです。
絵に関しては早熟かつ天才的なところがあった堀内さんですが、
あらためてこうして学びなおしていたのですね。

さて、次回は伊勢丹時代のことを、
もうすこしくわしくお伝えします。





いま、この世にはいない方の中で
誰に会ってみたいか聞かれたら
まちがいなく堀内さんです。

会って、直接見てみたい!
何か話をしたいわけでもなく、
影からこっそりでいいので
堀内さんが生きている姿、話している様子
なにかを本気で作っている姿を
見てみたいと思いました。

(Tさん)


私も、堀内さんを
お慕いもうしあげている者のひとりです。
絵本、デザイン、ファッション、
本当に同じかたがなさっているのだろうか、
と思わせる多彩さと柔軟さ。
我が人生、堀内さんが産み出したもの
なくしては語れません。
記事の更新を楽しみにしています。

(Sさん)


協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景

2016-11-09-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN