
|
 |
・「吉本隆明さんの講演を聴いていたら、
太宰治の小説が読みたくなった」という声があって、
その声を聞いているうちに、ぼくも読みたくなった。
講演のなかで語られたの太宰治の中期の掌編で
『善蔵を思う』という作品だった。
吉本さんの語ってくれたあらすじを聞いたときには、
読んだことないかもしれないと思っていたのに、
いざ読みはじめたら、すぐに、
こりゃぁ読んだ読んだよく憶えているわ、
と気がついてしまった。
十六か十七か、そのくらいの年齢で読んだのに、
真っ昼間の写真みたいにくっきり見えてきた。
「こう書きたいんだ」という文体があるんだよな。
なにかをよりよく伝えるためだったら、
もっとちがった文章を書けばいいのだろうけれど、
書きたいように書くから、文章に姿かたちが表れるんだ。
そして、姿かたちがあるから、ぼくは憶えていたのだ。
いまの時代の、用のあるなしばかりで書かれた文章に、
ぼくはすっかり馴れきっていたものだから、
太宰治の、顔つきやからだつきのようにまでなっている
くねくねすらすらとした生もののような文体は、
あまりにも新鮮だった。
こんなにおもしろいものだったのか、と、
もうすっかり老人に近づいてから、知ったわけか。
でも、高校生だったぼくも、
「太宰治の中期の作品は、大好きだ」などと、
ぐんまけんで思っていたわけだから、
それはそれで、この魅力をわかっていたのかな。
いやぁ、理路や整然を価値とするような
乾燥した「テキスト」に気を取られていて、
大事ななにかが慢性的に欠乏していたかもしれない。
もうちょっと、考え直してまいります。
・大声で笑うようなおもしろさもいいですが、
「おもしろいなぁ」としみじみつぶやくような、
そういう「おもしろさ」を、もっと拾いたいです。
10周年以後の「ほぼ日」を、けんめいに考えています。
今日も、来てくれてありがとうございます。
|
|
|