#3 2011年3月11日

福島県須賀川市にある公立岩瀬病院。
三浦純一先生は、
東日本大震災が起こった4年前から
この病院の院長を務めている。

三浦院長に取材でうかがったお話を
ここに再現するまえに、
まずは、4年前のあの日、
公立岩瀬病院で起こっただいたいのことを
先にお伝えすることにする。

このあと、三浦院長への取材も含めて
ふたつのインタビューを記事にする予定なのだけれど、
どちらも、4年前の3月11日に
この病院で起こった事実を下敷きにして
お読みいただくほうがいいかと思うので。

それでは、岩瀬病院からお借りした、
当時の写真を交えつつ。

あの震災に関して、
起こった出来事をわざわざ劇的に誇張して
お伝えするつもりはないのだけれど、
ひとつだけ、公立岩瀬病院に関して、
ある種のドラマとして書いておきたいことは、
その日の翌日、公立岩瀬病院は
引っ越しを予定していたということである。

140年の歴史を持つ公立岩瀬病院は、
当然、何度か病棟を新築している。
4年前も、そういったサイクルが切り替わるタイミングで、
規模はけっこう大きなものだった。

同じ敷地内に新しく建てられた病棟は
前年の年末ぎりぎりに完成し、
さまざまな準備と手続きを経て、
まさに3月12日、公立岩瀬病院は、
施設、機能、そして入院患者を含めて
引っ越す予定になっていた。

そして、引っ越し予定日の4日前、
つまり2011年3月8日、
当時、副院長を務めていた三浦純一先生は、
病院を運営する団体である企業団の企業長から、
公立岩瀬病院の院長を務めるよう、要請された。
三浦先生は2日間、じっくりと考え、
3月10日に、お引き受けします、と答えた。

新しい病棟、新しい院長、
それは、公立岩瀬病院にとって、
わかりやすい節目となる予定だったのだと思う。

3月11日。
三浦先生は組織のリーダーでありながら、
外科医としても現場で腕を振るっていたから、
午前中は外来で平素通り勤務していた。
それを終えて午後、
三浦先生は翌日の引っ越しに備えて、
自分の荷物をまとめ、
ひとあし先にそれを新病棟に移していた。

そして、新しい病棟の、新しい院長室にある、
新しい机に、使い慣れた自分のパソコンを置いた
まさに瞬間、
経験したことのない強い揺れを感じた。

東日本大震災。須賀川市の震度は6強。

まだ揺れの残る状態で窓の外を見ると、
旧病棟の壁からタイルがばらばらと落ちていたという。
コンクリートに亀裂が何本も走る。

真っ先に考えたことは、
旧病棟の中にいる患者さんのことだった。
述べたように、その建物は老朽化している。

三浦先生はあちこち崩れ落ちはじめている
病棟にためらわず入った。
もちろん覚悟はできていました、
と、三浦先生は言う。

「入らないと現状把握できませんから。
 現状がわからなければなにも判断できません。
 危険はもちろん知っていました。
 余震が続いていましたし、
 また大きな揺れが来ないという保証なんて
 まったくありませんでしたから。」

その緊張感あふれる場面をあらためて振り返りながら、
三浦先生はしみじみと言った。
「自分が外科医でよかったな、と思いました。」

「外科医はつねに判断を迫られるんです。
 まずは現状把握。そして課題を設定する。
 そういったことを実践することに慣れてるんです。
 たとえば、交通事故で
 内臓を損傷した患者が運ばれてくる。
 おなかが腫れて、出血しているようだ。
 というときに、手術するべきかどうか?
 何パーセントくらい切るべきか?
 それが若い患者だったら、回復が期待できる。
 高齢の患者だったら、耐えられないかもしれない。
 その場で、患者の5年先、10年先を見越しながら、
 判断するということを、日常的にやっているんです。」

三浦先生がまず目指したのは、
旧病棟を含む、病院全体の現状把握だった。
震度6強の地震は、
病院にすさまじい爪痕を残していた。

この写真の屋上のところには、
コンクリートの煙突があった。

煙突は千切れて落下し、
下の階の屋根に突き刺さっていた。

屋根を突き抜けて、
建物の中へ落ちているコンクリートの煙突。

コンクリートの煙突に貫かれて
めちゃくちゃになっている部屋を見たとき、
「ここで誰かが作業をしていたら、
 とても助からない」と三浦先生は覚悟した。
幸い、煙突の下には誰もいなかった。
奇跡的に、といっていいと思うけれど、
公立岩瀬病院で地震による死者は出なかった。

しかし、旧病棟の被害はすさまじかった。
屋上の貯水タンクが壊れ、
中央階段に、滝のように水が流れている。
むろん、患者さんが入院している状態で、である。

パニックが起こって当然の状況だと思う。
しかし、そうはならなかった。

「看護婦が患者さんの脇について
 大丈夫です、って言ってるんです。
 たいしたもんだと思いました。
 誰ひとりパニックを起こさず、
 みんな、同じように行動してました。
 やはり、責任感、というか、
 常日頃、それぞれが、そういうふうに
 働いているということでしょう。
 だって、床は波打ってますし、
 階段は水びたしですし、
 大げさでもなんでもなく、
 目の前で壁に亀裂が走ってるような状況ですから。」

旧病棟に入り、可能な限り現状をつかんだあと、
三浦先生は決断する。
それ以外に伝達の手段がなかったので。
実際に、大きな声を出してみんなに伝えたという。

「いまから引っ越しだ!」

辞令はまだ下りてなかったんですけどね、
と三浦先生は笑いながら話す。
しかし、自然とスタッフは三浦先生に指示をあおいだ。
情報の流れ、指示の伝達、そういった系統は
自然とできあがっていったという。

つまり、震度6強の揺れが襲った直後、
公立岩瀬病院は、全員総出で、引っ越しをはじめる。
ものすごい一体感がありました、
と、三浦先生は言う。

不幸中の幸いということばを
軽々しくつかいたくはないけれど、
いくつかの要因がそのあまりにも性急な引っ越しを助けた。

まず、翌日が引っ越しということもあって、
入院患者のうち、一時的に帰宅が可能な人は
病院を離れていた。
多いときは約200名くらいが入院していることもあるが、
その日の入院患者は105名だったという。

「ぜんぶがフルで入院していたら、 
 崩れてたかもしれないですね」と三浦先生は言う。
つまりそれは、「重さ」のことである。

また、その日の午後に三浦先生が自分の荷物を
移していたように、
ある程度の緊急性のない機材が移してあったことも
よい影響があった。

そして、もっとも感謝したい偶然として、
三浦先生はつぎのことを挙げる。

「院内にはいろんな科があるんですけど、
 引っ越しで患者さんを輸送するための準備として、
 科を超えて、もっとも具合の悪い人、
 容態が急変する可能性がある、
 比較的深刻な状態にある患者さん8名を、
 全員、私が診察して、顔も病状も、
 最新情報としてはっきり把握していたんですよ。」

入院中の患者さんは、
たんに場所を移せばいいというわけではない。
簡単にいうと、移動と診察は並行して行われる。

「だから、患者さんを移そうというときに、
 『あ、この人は、一回気管の中の痰を
  吸引しないと危ないから、まず吸引』
 『この人は酸素が必要だから急いで移して』
 というような指示が的確にできたんです」

そして、もうひとつ。
エレベーターが使えない状況のなかでは、
動けない患者さんたちを輸送するには
当然、「人の手」に頼る以外ない。
質、量ともに、そうとうな規模の人手が必要になる。
その日、公立岩瀬病院の各所には、
翌日の引っ越しの準備のため、
日本通運のスタッフが多数、詰めていた。
それも、この奇跡的な引っ越しを成功させた
大きな要因のひとつである。

105名の患者さんたちは全員、
無事に新病棟へ輸送された。

もちろん、それがゴールではない。
むしろそこからが苦難のはじまりだということは、
東日本大震災の被害に遭われた多くの方が
身をもってご存じのことだと思う。

患者さんは無事に移ったが、
たとえば多くの機材が失われた。
ディーゼルエンジンをつかった自家発電装置は
地震の直後に起動したが、
その日からしばらく物資が完全に途絶えた。
薬も、食料も、ガソリンも、止まった。
苦難をひとつひとつ挙げると、
ほんとうにきりがないのだろうと思う。

最低限、記しておきたいことは、
震災の直後から、公立岩瀬病院が
付近一帯の救助活動の拠点として
機能したということである。

述べたように須賀川市では市役所がほぼ倒壊。
警察署もかなりの被害を受けていた。
物資はもちろん、情報が行き渡らない。
そこで、三浦院長は、臨時のFM局を院内に開設。
震災のちょうど1ヵ月後、
2011年4月11日にFM局は開局し、
それからまる2ヵ月間、
24時間体制で放送を続けることとなる。
(この活動は2012年に総務省から表彰されることに)

また、震災のあとは、
多くの学校や保育所が休みとなり、
子どもを預かる場所がなくなってしまった。
これも三浦院長の発案により、
新病棟の特別室、つまり、グレードの高い病室が
臨時の預かり所としてオープン。
検診科のスタッフと看護学院の学生が
急ごしらえの保育士となって
たくさんの子どもたちをケアすることとなった。

そして、須賀川市の市民のみなさんの多くが
不安に感じた福島第一原子力発電所の事故。
三浦院長は、周囲の要望に応じて、
放射線に関する講演、学習会を75回開催。
医療に携わる者として、
放射線の基礎的知識、計測の方法、
科学的にいえることやデータを
参加者ひとりひとりに訴えていった。
また、自らが理事長を務めるNPOの名義で
甲状腺の測定器を購入。
現在も、無料の甲状腺検査を続けている。

以上は、震災にまつわる公立岩瀬病院についての出来事を
象徴的なものに絞っておおまかに掲載した。
公立岩瀬病院に限った話ではないのだろうけど、
震災から4年間、道のりにはさまざまな出来事があり、
おそらく、すべてはとても記せない。

当時を振り返りながらじっくり語っていただいた
三浦院長のインタビューを掲載する前に、
次回は、公立岩瀬病院で働く
ふたりの看護師の方の話をお伝えします。

(つづきます)

2015-03-13-FRI