YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson612
   あなたには表現力がある



表現できない人間など、いはしない。
表現力はみんなにある。

表現したくない人間など、いはしない。
自己表現は本能的希求だ。

にもかかわらず、

「自分は表現したくない」「できない」
という声が、ちまたから、よく
聞こえてくるのはなぜだろう?

そういう人は、
いまこの瞬間から、

「自分には表現力がある。」

と引き受けるだけでも、
ずいぶんコミュニケーションはちがってくる。

「表現できない」という
先週のミチオさんのおたよりには、
共感とともに、複数反響をいただいた。
まず読んでほしい。


<マグマ>

先週のコラム、
「マグマ」、という言葉が浮かんできました。

人は、感情、時間、歴史、
いろんなものを身に受けて、
内にためているんだと思います。

押し込められたマグマが、
何の抑制もかけず、
勢いのまま噴出するのがアマだとしたら、

マグマの勢いを自在にコントロールし、
最適な量で、最適な形で出せるのがプロ。
(もしかしたら、コントロールすら
 自在にはずせるのかもしれません)

言葉として表される、
その奥の熱いエネルギーに、
人の心は揺さぶられるのでは、と思います。

ミチオさんの言葉の内側に、
熱い熱い、マグマがみえる気がします。
表現できない人じゃない、
「表」に「現」われてはいなくても、
それはもう、立派な表現だと思います。
(Y.Y)


<覚悟>

先週のミチオさんのメールに、
感じるところがありました。

「私は、感情自体をなくしていきました。」
「自分を守るため、無意識のうちに。」
「私も感情を表現してみたい。でも
 どうしてもできないのです。
 許されていると思えない。」
「自分を表現できる人間と、できない人間。
 両者の溝はとてつもなく深いと思います。」

状況は違えども、
自分も自分自身を抑圧し過ぎたことがあり、
同じように感じ、考え、年月が経った今も
もがいているところです。

だからこそ、ミチオさんが
状況を文章に出来るということ、
それが故に鮮明に
その先へと進めないという事実を
認識してしまう辛さ、絶望感。
勝手な想像かもしれませんが、わかるつもりです。

ただたとえ溝が深くても、
両者を繋ぐ関係性が断たれるわけじゃない。

人はそれぞれ辿ってきた道が違い、
同じ事柄、状況が与えられても
受け取り方や感じ方は千差万別で。

そこで宿った想いは
きっとどうしようもなく、
ただ日常を送るだけでも、
ただそこに存在しているだけでも
何かしらの「表現」と成るのだと思います。

ただ自分を生きるために、
無様に、無我夢中にもがいてきたことが、
表現として顕在化されて
誰かのこころに届き、それがその人の
新たな可能性のきっかけになるのであれば、
こんなに嬉しいことはないです。

自分自身は、
自分を抑圧してきたことにより
“私は”という「主語」にあたる部分が薄まってしまい、
自己表現欲求も、伝えたいことも、
さして無いと思っています。
ただ説明が難しいのですが時折

「ここは譲れない」「ここは外せない」

というような感じになるタイミングもあり、
そんなときは当然
ものすごく考えて、考えて、考えて。

それでも感覚として何故か、
なかば背中を押されて押し出されるような感じで
ことばが「出てきてしまった」みたいなこともあって。

そんなときは大抵相手に何かを
感じ取ってもらえるようなことが多いような気がします。

そう考えると
「これは伝わらなきゃ気が済まない」
という欲求は、人一倍あるのかもしれないですね。

「表現」は、画一的ではありえない。

ミチオさんはご自身を
「自分を表現できない人間」と書かれていましたが、
あのメールは立派な表現であり、
他のどの表現よりも自分に届いてきました。

前回、ズーニーさんは「勇気」のようなものに感動すると、
そして、ひげおやじさんは「意思」に敬意を持っていると
書かれていましたが、

「覚悟」にも、人は感動するのかもしれないですね。

信じて未知へ身を投げる覚悟、
一生本気で表現を続ける覚悟。
覚悟に触れたとき、自分は奮い立たされ、
敬意をもって応えたいと感じます。
(白井哲夫)



「トイレに行かない人間などいないように、
 表現しない人間などいない。」

自分でも、もうちょっと良い比喩はないか
と探したが、これより切実に、
人にとっての表現をたとえられるものが
見つからないので、

すいません、ふざけてるのでなく、
大まじめに、このたとえで話させていただく。

「表現したくない・できない人間だ」と言うのは、
「自分はトイレに行きたくない・行けない人間」だ、
と言ってるような、ちぐはぐな響きが、私にはする。

したい・したくない、にかかわらず、
表現は「するもの」「せずにおられないもの」だ。

人間にとって排泄と同じ本能的欲求であり、
それゆえ、人はもともと「できる」ように生まれてくる。

こどもを見ればわかるとおり、
「あれが食べたい」「これが着たい」
「あそこへ行って遊びたい」と、
正面切ってだれも教えていないのに自己表現する。

実際、小学校に行ってワークショップをすると、
表現の前提となる「考える力」が、こどもには、
もともと驚異的に備わっていることに驚かされる。

書く前段階の「考える」作業を
きちんとやってもらうために、
テーマにアプローチするのに有効な問いを、
こちらで用意してワークショップに行く。

小学生だけが、プロが用意した問いがなくなっても、
自分自身でいくらでも自分たちで「問い」をつくって、
ワークを続けられるのだ。

「あれはなぜ?」「どうして?」と大人を質問攻めにする
こどもには、「問いを発する力=考える力」が
もともと備わっており、感じたことを外に表す力が、
本能的に備わっている。

にもかかわらず、
思春期から大人になっていくにつれ、
「表現したくない」「できない」という人が
増えていくのはなぜだろうか。

あまりにも表現する機会がなさすぎたり、
自分で表現することを押し殺していると、

人は、おもらしするように表現する。

でも、「出てしまった」というのは、
これはこれで、想いの表出、美しいというか、
出ないよりずっといいと私は思う。

問題なのは、
さらに想いをせき止めていると、
いつか、なにか別の、ゆがんだ形で、
表れてしまうことだ。

「寂しい」の一言が言えず、
そのため人を傷つけたり、ひどい場合は
犯罪にいってしまうのは、
行き場をなくしたマグマの変容、
遺憾でしかたがない。

「自覚する」

というのが第一歩かもしれない。
人として生まれた以上、
表現せねば生きてはいけないと、
「よっしゃ、しゃあない、やるか!」と。

できない、したくない、と目をそらしている期間が
長ければ長いほど、おもらしの状態は長びく。

とはいえ、

自分の想っていることを正直に言うというのは、
毎回毎回ドキドキと恐いものだなあ!
とつくづく思う。

この歳になっても、
いくら表現の仕事をしていても、
過去になんど勇気をふりしぼって
正直になった経験があっても、
それで「あがり」ということは決してなく、

ほんとに小さなことでも正直に言うのは、
毎回、毎回、新たな勇気が要るものだなあ!

白井さんの言葉を借りると「覚悟」がいる。

いま、自分の中にある真実ほど、
出すのに覚悟が要る者はなく、
なんとかそこを避けて通れないかとおしこめる。

すると、カラダは正直で、
私の場合は「のど」が弱いので、
表現を押し殺すと声がでなくなる。

私が逃げて、言葉や行動で出さなかった代わりに、
カラダが、病気というカタチで出してくれたのだ。

そうなってみてはじめて、
カラダにそんな無理させちゃいかんなと、
覚悟をしなおす。

表現の仕事を長くしている私もそうなのだから、
これといって表現の機会にさらされなかった人は
いっそう覚悟がいるだろうけど、

最後にこのおたよりを紹介して終わりたい。

まむるさんのように、
主語を変えてみる、
こんな、ほんのちょっとしたことから、
「出てしまった」から、「出す」に変える
覚悟ははじまるのだと思う。


<まず主語から>

43歳の専業主婦です。
優しい夫と小学3年生と3歳の男児と
幸せな毎日を過ごしております。

しかし、子供時代に母から頻繁に無視をされて、
母が口を開いた時は

「お前と話すとイライラする」
「お前はみんなから嫌われている」

と言われ続けました。
だから幼少期に

「話しても聞いてもらえない。
 話しても分かってもらえない」

と認識。
だから私は子供時代にしゃべることを止めました。
人に言葉を伝える努力をしませんでした。

「自分との関係も人間関係だ」
私は自分との対話にも言葉を使わず
イメージで話しました。

友達と話す時は聞き役。

だけど、質問をする短い文章ですら、
相手に上手く伝えられず「どういう意味?」って
聞き返される始末。
でも何をどう変えれば良いのか
さっぱり分かりませんでした。

よくしゃべる長男にも、
再々「どういう意味?」など聞かれたり、
言葉の修正をされたりしました。

このままではイケない。

焦りながらネットで本の検索をして、
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』で
考える方法を知りました。

表現したいと思いました。

本の要点をノートに書き出きました。
3歳の次男と一緒に見たことをやったことを言葉に変換。
友達に自分の思いをメールしたり。
トライ&エラーの毎日です。

私は主語がなく、
代名詞(あれ、これ、それ)が多いので人に伝わらない。
と自己分析ができました。
まずはそこから脱却を頑張ってます。
(まむる@素敵な「問い」を出せる女性になる)


<継続します>

2年ほど前から、
短歌に魅かれて、新聞やテレビなどに
短歌を投稿しています。

通信教育でも短歌を学んでいます。
なかなか上達せず、もんもんとしていたある時、先生から、
「自信を持って歌い続けていくとよい歌が歌えますよ」
とありました。

へたはへたなりに、
自分が伝えたいことを本気で短歌にこめたいと思います。

短歌歴まだ2年、
自分はまだ赤ちゃんだと思い、あせらず、根気よく
短歌づくりを日々、継続していきたいです。

今は30点の短歌かもしれないけれど、
今度は31点の短歌になれるようがんばってみます。
(福島県 ブーちゃん)


<プロを目指します>

ギター仲間とミニコンサートを開いたのですが、
あがってしまってうまく弾けませんでした。
一緒に弾いた仲間が、
「プロじゃないんだから、あのくらい弾ければ十分よ!」
と、慰めてくれました。

しょせんアマチュア、と言われるように、
「なあなあなアマチュア」がたくさんいます。
「プロになるわけじゃあるまいし」が合い言葉です。

これらの言葉がどうしてそんなに腹立たしいのか、
自分でもよくわからなかったのですが、
先週のレッスンを読んで、ものすごく腑に落ちました。

わたしは切実なアマチュアなんだ、と思いました。
本気で61を目指すし、いつかは101の彼方にたどり着きたい。
これからもとにかく弾き続けると思います。
(元仙台人@金沢)


<他者がいてこそ>

他者への興味が失われたとき、
自分に関すること以外、本当にどうでもよくなってしまう。
すさみます、心が。
言葉や文章は自己アピールの手段となり
尊ぶべき「読む他者」は存在しなくなる。

文章は、読んだ人に届いて
はじめて「表現」として成立するのではないか。
そこにプロとアマチュア違いはない気がします。
(みゆき)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-11-14-WED
YAMADA
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