YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson611
   アマチュア力を磨く



「書く力をつけたい!」
とやってくる生徒さんの中には、
そうそうに、

「いかに書くかのテクニックが知りたい」

と焦る人もいる。
でも、

速く・ラクに書ける技術が先行すると、
肝心の内容が痩せる。

まずは、読者の
こんなおたよりから読んでほしい。


<人を感動させるもの>

先週のコラム
「素人の本気が、プロをも凌駕する」、
同感です。

私は絵画教室を開いていることもあって、
生徒さんが本気で描く、
上手い下手では計れない絵の良さに、
毎回感動しています。

しかし、生徒さんの方は、
上手く、上手な絵が描けるようになりたい、
という思いがあり、そういう技術を学ぼうと必死です。

人は、何に感動するのでしょうか。

プロにはプロが見せてくれるものがあり、
また素人にはその無鉄砲さの凄みがあり、
ある一線を超えたときに見せてくれる、
技術の高さや稚拙さではない、
心に飛び込んでくるものを感じます。

まだ見ぬ地平の向こうに挑んでこそ、
感動を与えるものと思います。

生徒さんのそういう意欲というか情熱に
自分もエネルギーを頂いております。
(いわた)


<表現の幹>

木は、最後のその時まで、
幹を太くしながら育ち続けます。

社会は枝葉を求めていて、
枝葉だけで生きていけるようにも見えます。
しかし枝葉ばかりを茂らせても、
幹が育っていなければ、いつか倒れます。

ズーニーさんは、
幹を育てようとしているのだと感じています。
(Sarah)



アマチュアの人は、
自覚的にしろ、無自覚にしろ、
プロにならない選択をしているのであって、

この選択によって得ているものはある。

私は、とってもデビューがおそく、
最初の本が出たのは、40歳目前だった。

生まれてから書くことを仕事にしようなどと
よぎったことがなく、
22歳で編集者になってからは、
プロになるなどめっそうもないと自覚的に
ならない(なれない)選択をしてきてしまっていた。

これがよかったと思う。

プロではなかった40年近くのあいだに、
ふつふつと、自分のなかに生まれ、
ため込み、発酵していった

「伝えたいもの」

があるからだ。
読者のミチオさんは言う。


<私も表現したい>

49歳の主婦です。
5年前に20年続けた仕事をやめ、
以来家に引きこもっています。

以前、小学2年生だった息子が学校から帰るなり、

「ママ〜、生きるってすばらしいね!」

と言ったことがあります。
学校で何かいいことでもあったのかと問う私に、

「なんにもないけど、帰り道でふとそう思った」

というではありませんか。
ただ生きてるだけで、わくわくして、
その気持ちを人に伝えられるなんて。

わが子ながら、心底うらやましいと思いました。

私は、母親から感情を否定され、
抑圧されて育ったため、
人前で怒り以外の感情表現をしたことがありませんでした。
(ですから、「怒りは感情の代理人」という言葉には
 深く納得しました)

母は、私の内心まで完全に支配しようとし、
私は、感情自体をなくしていきました。

自分を守るため、無意識のうちに。

息子の姿を見て、感情を表現することで、
他者とつながることができると知りました。

私も感情を表現してみたい。でも

どうしてもできないのです。
許されていると思えない。

自分を表現できる人間と、できない人間。

両者の溝はとてつもなく深いと思います。
(ミチオ)



「自己表現は人間の本能的希求である」

と、このおたよりを読んでしみじみと思う。
そして、

「人は、何に感動するのでしょうか?」

という読者のいわたさんの問いに、
文章表現の現場から、端的に答えるなら、

「勇気」

のようなものだと私は思う。
いわたさんの言うように、

「まだ見ぬ地平の向こうに挑む」

姿そのものに、人は揺さぶられる。
100の力を持つプロはプロなりに
101の彼方をめざし、
60の力を持つアマチュアは、
61をめざし、
まだ見たこともない向こう側に、身を投げていく。

そのときに、やはり、
自分のなかに切実な「伝えたいもの」がある人は強い。

プロになると、次々と締め切りが設定され、そのたびに、
伝えたいものは発酵する暇もなく、くみ出される
さらに、自己表現というよりも、
もっと広い視野で社会や、
もっと深く人間存在そのものを掘り下げ、
構築することが要求される。

一方で、アマチュアにとって表現は、
自分の感じたこと・想いを表すという、
人間の本能や衝動に近い、切実な行為、
まさに生きることそのものだ。

言葉にならない想いにアプローチし、
それをくみ上げ、引き出し、言葉にしていく作業が、
「考える」作業だ。

文章表現教育の初期で、
私がもっとも重んじ
トレーニングしているのもまさにここで、

考える体力、というか持久力がある程度、育っていないと、

いかに速く字数を埋め、
いかに読み手に上手く伝える技術があっても、
いかにたくさんの経験をつんで、
いかにたくさんの伝えたいことが
自分の中に発酵していても、

書く内容は、自分の切実な想いとは乖離し、虚しい。

アマチュア力を磨くとは、
日々、感じたことを言葉にする
「考える」行為だと私は思う。

考えることで、「伝えたいもの」と通じる幹があれば、
次の読者メールでいう手段、つまり枝葉の部分は、
必ず追いついてくる。
きょうは、このメールを紹介して終わろう。


<伝えたいことと、手段>

プロと素人の違いってなんなんだろう?

プロ:たった一つ、伝えたいことを、
   100の方法で伝えられる人

素人:たった一つ、伝えたいことを、
   ひとつの手段だけで伝えようと努力する人

と言っているんだな、と思っています。

素人の表現は、たとえて言えば
一本の太い槍のようなもので、
投げて、突き立てるのはものすごくしんどいけど
刺さったときの衝撃は大きい。

一方のプロの表現は、文章で言えば、長編や短編といった
さまざまな形式を取って届く矢のようなもので、
一本一本は小さくて、刺さったほうの衝撃は
大きくないのかも知れません。

ただ、僕は一人の読者として、ずっとプロの表現と
さまざまな形で接してきました。
そして、その総量は、ズーニーさんが「かなわない」、と
頭をたれる素人の表現の衝撃以上のインパクトを
僕に与えています。

一生に一度の「本気の表現」に対する敬意と同じくらい、
一生「本気で表現を続ける意思」に対する敬意を
僕は持っています。

そして、どっちの方にも「コトバの神様」が微笑む
瞬間がくるんだと、信じています。
(ひげおやじ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-11-07-WED
YAMADA
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