1 『春と修羅 第一集』をつらぬく仏教的世界観

……どうしてもふたつばかり引き受けざるをえない感じになったあれがありまして、ここもそのひとつなんですけど、賢治のお話をするわけです。
 ぼくは後ろにありますように、宮沢賢治について著書がひとつありまして、それの文庫版もさいきん出まして、生誕百年祭に参加したかたちになっております。学生時代から好きで、いろいろ浮気をしてときどき忘れてまた思い出してということで、なんとなく現在まで関心は持続してきたということがあります。
 ぼくは著書のほかにもおしゃべりを起こした文章はいくつかありまして、同じことは喋りたくないなあということがありまして、少し考えてまいりました。けっきょく、宮沢賢治の『春と修羅』という詩集があります。『春と修羅』あるいは宮沢賢治の詩の仕事からぼくがいちばん好きでいいと思う『銀河鉄道の夜』につながっていく経路についてお話しするのがいいんじゃないかと思って、そのことを少し考えてやってまいりました。
 『春と修羅』という宮沢賢治の詩集は第一集だけ生前に自費出版に近いかたちで出版されているわけです。二集は自分の手で編集したまま生前は出版されなかった。三集はほかの人が取りまとめて三集と称しているんだと思います。そのほかにノートに描かれた断片的な詩があったりというのが宮沢賢治の詩の業績なわけです。できるだけはしょってですけれども、『春と修羅』第一集から入っていきたいと思うんです。
 『春と修羅』の第一集というのは、一口に言ってどういう内容かということになると、内容は多様性があるわけですけれども、考え方というのはたったひとつの根本的な考え方というのがあります。それは、宮沢賢治の法華経信仰の篤い人でしたから、仏教的な世界観とか、人間観、存在感というのが第一集の根本的なことになると思います。それを申し上げてみますと、序文を見るのがいいんですけれども、序文のなかにいくつかの要点があります。
 わたくし、自我、自己という存在はただの現象のひとつであるという考え方があります。これは仏教的な世界観そのものだと思います。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

という言い方から始まっているわけですけれども、わたくしという存在自体もただの現象に過ぎないので、万物が流転して過ぎていくように過ぎていく現象に過ぎないんだ、つまり確固として実体のある存在だという考え方はとらないわけです。だからこの現世に生きていくかと思うと死の後には死後の世界に行き、生前の世界に生きていてたまたま現在の世界にいる現象に過ぎないんだという、仏教の根本的な考え方で、仏教の専門家というのは誰でもこういう考え方をとっていると思います。その考え方を宮沢賢治はとっています。これは西洋的な考え方からすると特異な考え方だと思います。
 同じように時間について、過去、現在、未来と言いますけれども、過去という現象もまた過ぎていく時間の流れのたまたまある個所をとらえただけであって、過去というものが実体としてあるわけではないという考え方をとっています。もうひとつは物質ですけれども、物質と物質が引き起こす反応、物質がそこにあるというイメージもまた、単なる現象に過ぎないんで、それをもっと言ってしまえば、自分の心が作り出したものに過ぎないんだというのが宮沢賢治の『春と修羅』第一集を貫いている根本的な考え方です。必ずしもその考え方自体は宮沢賢治の独創でもなんでもないですけれども、こういうことを詩の表現にしてとらえてきたということは宮沢賢治の独創に属します。
 不思議な考え方と言えば不思議な考え方で、実体というのは何もない、人間の存在も実体ではない、生と死というのも実体ある区別でもなんでもない、生の世界から死の世界に行ったり、生の世界からまたどこかに輪廻転生といいましょうか、移り変わって何かに生まれ変わって流転していくというのが万物の存在の仕方だという考え方で、これは『春と修羅』第一集の特徴になっていると思います。
 その考え方がいちばん根本的にあらわれている特徴的な詩というのがあります。それは「春と修羅」という作品とか、少し長い作品ですけれども「真空溶媒」という作品があります。「真空溶媒」なんかを見るとやはりその考え方が徹底的に貫かれていると思えます。

2 「春と修羅」――自然と自分が溶けあった状態をスケッチする

 どういうふうにあらわれているかということをちょっとだけ読んでみますと、「春と修羅」という作品は難解と言えば難解です。難解の根本は何かというと、自分の目の前に見えている風景も単なる現象で実体のあるものではないという考え方が根本にありまして、その実体ある存在でもない自分というものの心のなかに起こったことを、外の風景や自然物の物象性というもののそれに投影していくと、見ている自分と風景そのものとが溶け合ってどちらも区別つかないし、どちらも融合して溶け合って一様にひとつの現象となって、その根本にあるのは心の動きというのが自分と風景というのを一体にしてしまって溶かし合ってしまうような状態をつくりだす。その状態を言葉に書き留めるのを宮沢賢治は「心象スケッチ」と言っています。宮沢賢治は自分で「春と修羅」の副題に「mental sketck modified」――装飾、変容された心のスケッチであるという意味だと思います――と自分で言っています。
 どういうふうになっているか、読んでみます。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様

 のっけからそうであるように、心の動かし方から、外にあけびの蔓が、心の動きから見ると雲に絡まって降りてきているというふうに見える。実際のあけびの蔓はそうは見えないわけですけれども、宮沢賢治は、あけびも自分も実体ではなく現象に過ぎないものの心が現象に過ぎない植物を見ているという場合に、それは蔓が雲から絡まって降りてきていると見えたりするし、一面に奇妙な模様をつくって、それはあたかも心が、あけびの風景に媚びているようだ、という言い方から始まっていくわけです。
 この自然というものと、自分の心というものとが、一様に現象に過ぎないんだという考え方から、両者が溶け合ってしまった状態というのを文字にスケッチするというのが『春と修羅』第一集の根本的な考え方です。この考え方は表現としては非常に特異な表現で、宮沢賢治以外には日本の詩人はやったことのないことです。
 もしこういう考え方、自然観というものを意味づけるとすれば、ぼくは未開・原始の時代の人間は、そういうふうに自然の植物とか、風とか、光とか、森とかいうものをそういうふうに見ていたんじゃないかと思います。自分というものと風景というものとを区別しておらず、両方とも溶け合っちゃって、たとえば風の音がするときには、いまの人みたいに自分が風の音を聞いているとは思わないで、自然の風というのは自分に言葉を喋っていると思うわけです。その喋っている言葉というのは非常によくわかるという思い方をしていたと考えることができます。
 宮沢賢治の『春と修羅』第一集にある、仏教的世界観からくる考え方というのは、普遍的に、歴史的に言いますと、原始未開の時代の人間の自然に対する対し方、あるいは自然が、風の音がものを喋っているとか、木の囁きというように、木の幹が動いているということは、何か人間に語りかけていて、その言葉はよくわかる。なぜわかるかと言いますと、季節によってその土地土地に吹く風の方向や強さというのは毎年毎年一緒であるわけで、それを長い間、長い世代で聞いておりますと、「ああ、あの木は揺れ動きながら、どういう音で、何を言おうとしているんだな」ということがわかると言ってもいい状態になっていくわけです。そのことは未開原始の人たちは理性的にではなく自分と自然とが一体になって溶け合っているという見方をしていただろうなという想像を働かすことができます。
 宮沢賢治の『春と修羅』第一集の特徴はそこに尽きると言ってもいいと思います。なぜそこまで自然というのを宮沢賢治がとらえられてかというと、もちろん仏教的な世界観というのもあるわけですけれども、それよりも実感的に言いますと、宮沢賢治の感覚というのは、言葉で書いているとわかりますけれども、北方的なんです。東北的であったり、もっと言えば蝦夷的であったり、もっと言えばアイヌ的であったりというように、いずれもアジア的になる社会以前の日本列島に存在した人たちの感覚というのにたいへんよく似ているのです。
 それからまた宮沢賢治の関心も、北方への関心が強く、そういうところから、『春と修羅』第一集の根本的な感覚というのが出てきたんだと思います。
 非常に難しい言葉ばかりで、われわれはこういう詩の表現に慣れていないですから、たいへん面倒くさく難解に思いますけれども、よくよく見ると自分というものと自然というものとが一体にまみれて区別がつかなくなっている状態を言葉にしたんだという理解の仕方をしますと、宮沢賢治の『春と修羅』第一集の中心的な詩というのは非常にわかりやすくなるんじゃないかなとぼくには思えます。
 そうじゃないとこれは難しいと言えばたいへん難しいんです。その後の章を読んでみます。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 自分と自然とがまみれて一体になっちゃって溶け合っちゃっているという状態を根本に置かないと、なかなか何を言っているのかわからない、こういうふうに風景が見えるはずがないよということになってしまうんですけれども、なんとなくそう言う状態に自分の心を仮に置くことができるとすると、これはかなり理解しやすい状態になっていきます。
 『春と修羅』というのはそういうことを根本的に突きつけ、またそれが特徴になっている作品だと思います。

3 「真空溶媒」

 類似のあれで、「真空溶媒」というのをはじめの四行くらいを読んでみましょう。

融銅はまだ眩めかず
白いハロウも燃えたたず
地平線ばかり明るくなつたり陰つたり
はんぶん溶けたり澱んだり
しきりにさつきからゆれてゐる
おれは新らしくてパリパリの
銀杏なみきをくぐつてゆく
その一本の水平なえだに
りつぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはつて
そらをすきとほしてぶらさがつてゐる

 これも当たり前に読んだら何を言っているんだかさっぱりわからないということになりますけれども、人間も自然もただの現象で、融銅が溶け合っているという根本的な感覚の状態を心のなかで思い浮かべながら読みますと、自分の感覚と自然とが入り交じっている状態からそう見えるという見え方がとてもよく理解できるんじゃないかなと思います。よく理解できないとしても、おぼろげながら「そういうことなのか」ということが言えるんじゃないかと思います。
 これも「Eine Phantasie im Morgen」、朝のファンタジーということが副題としてあります。いま読みましたことを終始一貫終わりまでまともに解釈しようと思ったら――つまり自分がここにいて風景を見ているんだということを想定してこれを理解しようとしたら――とても理解できない難解極まるものです。そうではなくて、自分も現象、風景も現象に過ぎない、両方が溶け合っちゃっているという状態を言葉に表現したと解釈すると、なんとなくですけれどもこの詩も理解できるんではないでしょうか。そして理解されるときの根本的な言葉の色合い、詩の色合いは、「春と修羅」と同じで、一種の「鋼色の青」という宮沢賢治の固有色と言っていいものですけれども、その鋼色の青い雰囲気みたいのが、言葉の意味をたどると理解できない場合でも、全体の雰囲気としては鋼色の青い色をして、暗い感じの雰囲気の世界というのが、おぼろげながら浮かんでくるようになっています。これは言葉の色合いなんですけれど、それはまさしく宮沢賢治の心の色合いであって、それはもしかすると風土的なもので、日本列島の北方的なものというと、ぼくらが旧日本人と呼ぶ人たちが住んでいた縄文時代の雰囲気はそういうものだったんじゃないかと言えるかもしれません。宮沢賢治が表現したいと思って表現しているのはそういう世界だと思います。これが『春と修羅』第一集の中心にくる色合いになります。

4 「原体剣舞連」

 それからもうひとつ、典型的にそういう色合いを持って、難しく面倒で、現代詩の観点からするとこんな表現をする人はいない、わけがわからんといえるものがあります。「原体剣舞連」というものです。これも「Mental Sketch Modified」という副題があります。岩手県の原体という村で、仮面や衣装をして剣を持って集団で踊る踊りがあります。その踊りを宮沢賢治が見た時の印象でつくっています。

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴾いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋たちよ

 ぼくは一度見たことがあって、いまは観光用に小学生が踊ってみせたりしてちっとも異様じゃないんですけれども(笑)、この時はまさに異様な服装をして仮面をかぶって太刀をギラギラさせながら踊るという原体村の踊りを見ての印象です。その踊りにはたぶん起源があって、東北が蝦夷地と言われた時からの伝統的にあった踊りで、もっと言いますと蝦夷地と言われた時代、それ以前に先住していたアイヌ系の人たちから伝承した――雰囲気はまさにそういうものです――踊りだと思います。宮沢賢治はやはりその踊りの雰囲気、鋼の青色の色合いというものをものすごくよく作品のなかに出しています。一行一行では何を言っているんだかわからなくても、全体を見ますと鋼の色合いというのは非常によくわかるというふうに出来ています。
 自分も現象だし風景も現象で、踊っている人たちもただの現象に過ぎないんだというような考え方のところに自分が感覚を移入させて読みますとこの表現というのは、雰囲気だけは必ずよく通ずると思います。これは『春と修羅』という作品の中心的な課題です。
 この課題をもとにして、ただ風景を見ているという作品もあります。「林と思想」みたいなものは自分がここで林の風景を見て、自分の心が林のほうにスーっと入っていく。すると向こうに農夫が二人歩いているのが見える。そういう見方をすると、あのお百姓さんたちは自分が人からそういうふうに見えるんだということを知っているのかいないのかわからないなあ、という詩です。自分の考えが林のほうに流れていくとそういうふうに見えちゃう。ただお百姓さんが歩いていたり立っていたりするんだけど、それが現象に見える。するとそのお百姓さんがいるのかいないのか、自分たちがそこにいるということを誰かが見ているということを知っているのかいないのか、そういうのもわからないように見えるという作品もあります。
 つまりいま申し上げました三つくらいの中心的な詩の作品自体は難解でいい作品ですけれども、そうじゃない即興的な作品でも、その一種のバリエーション、応用問題みたいなものとして書かれている作品になっています。それが『春と修羅』の非常に大きな特色になっていくわけです。

5 宮沢賢治と法華経

 この時代は宮沢賢治が法華経の信仰者になって、東京へ出て、当時の日蓮宗の宗教運動である田中智学という人の国柱会へ入って奉仕活動をしてみたりとか、さまざまな体験をしてまた帰るということをよくやっていた時代の作品です。宮沢賢治という人は、法華経の信者であるわけですけれども、法華経の信者というのは日蓮宗で、当時の日蓮宗というのは田中智学をして新宗教の運動を盛んにやっていた時代で宮沢賢治はそこへ入っていくわけですけれども、妹さんが病気をしたりとかいろんな事情があってまた帰っていくわけです。宮沢賢治は日蓮宗の信仰者には違いないんですけれども、だんだん自分の独自の宗教観と理念というのを持つようになり、日蓮宗を介さず、直接法華経と自分というところで自分の考え方、感覚、作品というものを蓄積していくというふうにだんだんなっていくわけです。
 国柱会を媒介にするとか日蓮宗を媒介にするとかいうことはだんだんなくなっていって、自分と法華経という感じになります。これは日蓮と法華経という関係と同じで、別に教祖を気取ったわけでもなんでもないですけれども、宮沢賢治の自分なりの法華経に対する考え方というのを蓄積していって、「法華経と自分」という考え方にだんだんなっていきます。
 だいたい日蓮宗の人は法華経の「如来寿量品」というのが根本なんだという考え方をするわけですけれども、ぼくらの考え方では「安楽行品」というのが宮沢賢治の中心になったと思います。「安楽行品」というのは、「法華経の信者たるものは文学とか趣味的なことをやってはならん」ということを縷々戒めているというのが中心です。宮沢賢治はそこを一生懸命読んだと思います。それだけれどもそれをやめられないで童話を書き詩を書きということになったわけで、一種法華経に背きながら法華経に帰依するという矛盾を抱え込んでいたので、絶えず自分が文学者や詩人だと思われることを嫌がりながら童話としても詩としても第一級の作品を生んでいるわけです。これが宮沢賢治の法華経に対する考え方になります。
 これは日蓮とは違います。日蓮は法華経を護持すると受難をする――時の権力に痛めつけられて命を落とすこともあるかもしれないぞということと、法華経を破ろうとか敵視しようとする人に対しては刀を使ってもいいんだということがあるんです。日蓮は文字通り龍の口で時の北条政権につかまって首を切られそうになって奇跡が起きて助かったと伝説されているんですけれども、とにかく捕まって邪教を布教をするということで首を切られそうになった。日蓮が信じていたのは最澄――つまり伝教大師です。そのほかは全部否定するわけです。なぜ否定するかというと、最澄だけが法華経をもっとも優秀な教典だとして護持したからです。中国天台宗の教祖である智顗と最澄だけが偉くて、弘法大師空海みたいのは駄目で、それに次ぐのが自分であるというのが日蓮の考え方です。どうしてかというと、自分は法華経に予言されている通り法華経を護持したために、北条政権に捕われて首を切られそうになったりしている。それはやはり予言されている通りのことを自分が実現しているんだ。だから知識からいえば天台智顗とか、最澄とかに及ばないんだけれども、法華経の予言を実践しているという意味あいでは、誰にもない特色を持っている法華経の護持者だというのが日蓮の考え方です。
 宗教家というのはわからないものです(笑)。わざわざ捕われて首を切られそうになるのは、わざわざ鎌倉幕府のお膝元でやったからそうなったんじゃないかと言えば、予言をつくるためにそうしたんだということになって、現在問題になっている教祖とよく似ているところがあるんですけれど、日蓮もどちらなのか区別がつきません。鎌倉幕府のお膝元で「お前らが堕落しているからこれから苦難が起こるぞ」みたいなことを言ったら捕われて首切られそうになるのは当然なんです。だからわざわざ捕われるようなことをしているんじゃないかと言えばそうなってしまいます。けれど日蓮はそう思っていないんで、おれはちゃんと法華経を護持して布教をしたら捕われた、おれは予言を実現しているというのが日蓮の考え方です。
 宮沢賢治は「安楽行品」で矛盾をかかえながら文学芸術、詩を捨てられない人間なんだということが終始心に引っかかってきた問題であるわけです。これは『春と修羅』第一集の根本的な問題になってきます。

6 『春と修羅 第二集』の時代

 この次に『春と修羅』第二集というのを自分でまとめるわけです。しかしこれは生前は出版されていないわけです。しかし現在我々の手元には『春と修羅』第二集の作品と序文が残されています。やはりこの序文を見ますと、『春と修羅』第二集の根本的な考え方がどこにあるかというのがよく出ていると思います。
 いちばんわかりやすいところで申しますと、『春と修羅』第二集というのは自分が農学校の先生を辞めて、岩手県花巻郊外の下根子に桜というところがあるんですけれども、前に北上川が流れている窪地があります。そこに小屋を建てて、近辺で耕作をやって、家で肥料の設計をする相談所を設けるとう活動にはいるわけです。農産物を売りにいったり、花をつくって売りにいったりということになるんですけれども、まずその収入源というのは大した生活費にはならなかったというのが実情だと思います。だから親のほうからの援助というのも受けていたと思います。そういうのが第二集の時代だと思います。
 この人はそういうことをやろうと思ったのは宗教的な理由もあるんでしょうけれども、この人の知識というのは釜石から盛岡あたりまで、地質がどうなっているかという地質調査も自分でしていてどういう土の成分かということをものすごくよく知っているということがあるんです。それからこの土地には肥料は少なくして多くしてということは空で設計できた人です。それから農林何号とか陸何号■■■■?とかあそこらへんの稲の品種があるわけですけれども、この品種に対しては何を多くしたらいいかということも経験上も知識上もよく知っている人なので、言われれば肥料の設計はできるわけです。それから思いがけなく干ばつがきたりとか、冷夏が来たりしたりしたら失敗しちゃうわけですけれども、そういうことを心得ているものですから、かなり自在に肥料の設計ができて人が相談に来たら「こうしたらいいです」ということが言えた人だと思います。たいへん見事な地質的な知識、稲や野菜の知識を持っていた人です。それからもちろんそのあいだには、音楽が好きですからレコードの鑑賞会を開いたりとか、学校のようなところで農業の講習会を開いたりということもやっているわけです。
 しかし実績はどうだったかということを課題評価することはできないのです。実績はとるにたりないといえばとるにたりないんですけれども、この人の構想した農民に対する篤農家としての考え方というのは科学的でもありますし新しいかたちの農民への運動にはなっていたわけです。当時だって農民運動はあったわけで、後に戦争が深まっていけば、内村訓練所とか右翼系の農民運動になっていくわけです。また満州開拓のなんとかになるような農民運動の流れは当時ももちろんあるわけです。しかし宮沢賢治はあまりそれが好きでなかったので、独特の肥料の設計をして農民の相談に応ずるというかたちで社会政治運動と一緒にならず独自の農民運動のやり方をやったわけです。もちろんその前に亡くなったから、戦争が深まったときにどうなったかということはわかりません。直接宮沢賢治の教えを受けたことがある松田甚次郎という人がいますけれども、松田甚次郎は戦争が深まっていくとやはり民族主義的な農民運動に入っていくということになっています。宮沢賢治はそういうところにいかないで独自な運動体として肥料の設計をしたりということをしたわけです。そういう時代が第二集の時代です。そこまでは自分で編集しています。

7 『春と修羅 第二集』序

 序にはやはり特徴があらわれています。

わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
二時間ぐらゐの軽い実習をもって
わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
近距離の汽車にも自由に乗れ
ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に選択し
すきな子供らにはごちさうもやれる
さういふ安固な待遇を得て居りました
しかしながらそのうちに
わたくしはだんだんそれになれて
みんながもってゐる着物の枚数や
毎食とれる蛋白質の量などを多少夥剰に計算したかの嫌ひがあります
そこでたゞいまこのぼろぼろに戻って見れば
いさゝか湯漬けのオペラ役者の気もしまするが
またなかなかになつかしいので
まづは……

 「ぼろぼろに戻ってみれば」ということは、下根子の桜で肥料の設計所をやったり、自分の田畑を耕したりということを指していると思います。

自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん汎濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます

 こういうところで序文が終わります。自分は学校の先生として教えていれば給料も生活も保障されているといういい境遇を捨てて、肥料の設計をするという境遇に戻りましたよということを言っているわけです。第二集はそこを中心にして詩をつくっているから、多少詩の作品から「鋼色の青」みたいな雰囲気を持ったファンタジーというかイメージというのは詩のなかから消えてしまいます。その代わり生活の色合いが濃くなっていきます。
 詩としてはどちらがいいかというのはなかなか断定は出来ません。どちらがいいということは言えないという状態になっていきます。しかし、今日お話しする『銀河鉄道の夜』につながる特異な表現方法というのをあるときから獲得していきます。

8 「告別」

 学校の先生を辞めて、畑を耕したり肥料の設計所をつくったりというような状態になった自分をいちばんよく表しているのは自分の可愛がった音楽の才能のある生徒さんに別れのために与えるという詩があります。

告別
一九二五、一〇、二五、

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大低無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 これが『春と修羅』第二集の問題になるわけです。半分は学校を辞めてお百姓さんの真似ごとと言われてしまえば真似ごとをするようになった時代のことが第二集です。しかしぼくらがいま第二集の特色をどこで見たいかと言いますと、ちょうど第一集と、生活から出てくる詩ばかりの第三集のちょうど中間なんだと考えればいちばん考えやすいんですけど、どこが中間かと言いますと、これがなぜそうなったのかということは研究家の方がよく研究をして掘り下げてくれないとなかなかよくわからないんですけれども、ぼくらがいま見ている限りでは、一九二四年の四月、五月、六月頃なんですけれど、そのときに書かれた一連の詩があります。そのところでめちゃめちゃに詩のかたちが変わっているわけです。それは生活の要素が入ってきたという意味ではちっとも変わっていないんですけれども、そういう意味ではなく表現としてはたいへん変わっているわけです。
 ここでどう考えても宮沢賢治の実生活上のところで何かがあって考え込んだり飛躍したということがあったに違いないといまぼくらが読むと思えるわけです。これはやはり研究者の人がこれから一生懸命追求してはっきりさせてくれると有難いと思います。

9 1924年の飛躍

 ただ、詩のほうから言いますと、ここで何かがあったと言わざるを得ないのは一九二四年の年半ば頃から宮沢賢治の詩は急に変わって飛躍しているところがあります。それは何かというと、生活の詩と、第一集にあった自然と自分とが溶け合ってまみれているという感覚の表現がまじりあったものなんですけれども、そこからひとつ、なんと言ったらいいでしょう、自然の見方のなかに……生活性を物語性に変えていったという言い方をしたらいいのかもしれません。そういう抽象的に見えた生活性の混じり合いを物語ということに変えていったということがあると思います。
 するとどういうことが起きるかというと、表現として具象性が増してきます。単に生活の状態をところどころ挟んでということではなく、詩自体が物語性を持つと同時に具体性を増していきます。それが、「ここで変わったな」と思えるひとつの特徴なんです。
 それと関連するわけですけれども、もうひとつ言いますと、風景を見ている場合に、自分と風景が自然現象として等しく溶け合っちゃっているということではなくて風景自体が、「当為性」というか目的性があるというふうに見えてくるという見方――それも生活性の混合状態を何行かに入れるのではなく、それを自然と自分との溶け合いのなかに生活性も溶け合わせちゃうということがあって、風景自体が目的ありげな風景に見えてくるということになったんだと思います。これは第二集が持っている著しい特徴です。
 これは通り一遍では序文に書いてありますけれども、通り一遍では物足りないのであって、ぼくらがいま読めば、これは一種の物語性、風景と自分との混じり合い溶け合いというのに何か目的があるかのごとき状態の表現にそれを持っていくことができるようになったということを意味すると思います。それが宮沢賢治の第二集であらわした特徴 ――ここで目を開いたということの由緒になってくると思います。
 この眼の開き方というのは宮沢賢治の優れた童話の作品につながるような眼の開き方だと思います。
 物語性といま言いましたけれども、その物語性は一種童話風の表現になってみたり、多少ユーモラスなおどけを加味した表現になってみたり、もっと宗教的な深刻な色合いになってみたりというふうに両方ありますけれども、いずれも『銀河鉄道の夜』の要素をなしているということが言えると思います。これもよくよく調べて研究者の人に尋ねないといけないんですけれど、これもどちらが先なのか――『銀河鉄道の夜』を書いたからそういうことが詩のなかに入ってきたということなのか、詩で開眼したから逆に『銀河鉄道の夜』みたいな童話作品のなかに入ってきたのか、どっちが先なのかということは研究者の人によくよく聞いてみないと分からないと思います。あるいはそれがまだ調べていないという段階でしたらみなさんのほうで調べてみればわかると思います。

10 宮沢賢治の考古学的現在

 宮沢賢治の作品というのは一集二集と言いましたけれども、歴史的じゃないんです。もっと言うと、歴史的な段階制ではないんです。むしろ歴史という代わりに、考古学的な現在なんです。あくまでも現在にいて、以前に自分が体験したことや感性が、一種の考古学的な考えの層として基礎のほうに横たわっていて、そしていちばん上の層が現在で、未来の層はそのうえに何かが加わって、その全体がまた未来であって、というかたちです。決してこの初期の段階から中期に行って後期はこうだったという考え方をとるとはぐらかされてしまうところがあります。というのは宮沢賢治というのは、これもまた仏教の影響だと言えばそうなんですけれども、書かれたものだってこれは現象なので、これでもって『銀河鉄道の夜』はこれで完成された作品だという実体として作品や表現は出せない。あくまでもいまのところはそうなんだけれど、もしもこれを未来において手を加えたりして筋が変わっちゃったとしたらそれもまた『銀河鉄道の夜』なんです。それはそのときの「現在」というふうにして、いつでも「現在」だけがあって、以前に書かれたものとか以前の考え方というのが下の層になってなかなかあらわれては来ないけれども下の層としてはちゃんとある。そういうのが重なったのが現在だ。
 だから歴史的な、先ほどぼくが言ったように、原始未開の時代があってという考え方は宮沢賢治にはないので、自分の心の流れもまた未開の時代の人類の考えたことを自分のなかに再現することもできるし、現在のことも再現することができると宮沢賢治は考えているのです。また、未来には未来でそのうえに何かを加えるかもしれないし、手を加えて修正するかもしれない。そういうふうにいつでも現在だけあって、過去になった層というのは過去になったという現象だけであって、それは考え方の下の層として積み重なっているけれども、これを辞めてこうなったということは人間の表現にはないというのが宮沢賢治の考え方です。
 そういうふうに考えますと、第二集であるところで詩の表現について開眼した。それは物語風な開眼をしたと言いましたけれども、そうじゃなくて童話の作品に自分が表現したものを、詩の表現のなかに推敲して加えていって、生のままではなく表現のなかに溶かし込んでしまうというやり方をわかったということなのかもしれません。逆にこういう作品が前から断片としてはあって、それをこうして童話作品からそうかということでこういう詩の作品ができたということか、それはどちらの可能性もあるわけです。ですから専門家の人はどういうかわかりません。実証したあげくに童話の方が先だったとか、詩のほうが先立ったと言うかもしれません。ただ、歴史的な段階として研究していくとか、宮沢賢治の生涯の歴史として、初期はこうで、中期はこうでという研究の仕方をしているだけならばそれは当てにならないと思います。どちらでも可能性はあると思います。
 ぼくは作品からしか言えないですけれども、作品から言いますとぼくはここで第二集の骨組みというのはここでできたと思います。序文のところはこの場合には入り口だけで、ここではじめて出来て、生活的要素を行分けとして、行として詩のなかに入れてあるということではなく、一種の溶かし込んだ状態としてこのなかに入れるということがとにかくここで出来るようになったということが、宮沢賢治の『春と修羅』第二集の中途ではじめてできたと考えるのがいいと思います。
 その表現の仕方は童話的であったり、ユーモアであったり、多少深刻で宗教風であったり、両方あります。

11 〔北上川はケイ気をながしィ〕

 何をとってもいいんですけれども、一九二四年の三、四月から夏にかけてかなりの量があります。たとえばひとつ、作品の番号で言うと一五八番になります。

〔北上川はケイ気をながしィ〕
一九二四、七、一五、
(北上川はケイ気をながしィ
 山はまひるの思睡を翳す)
   南の松の林から
   なにかかすかな黄いろのけむり
(こっちのみちがいゝぢゃあないの)
(おかしな鳥があすこに居る!)
(どれだい)
   稲草が魔法使ひの眼鏡で見たといふふうで
   天があかるい孔雀石板で張られてゐるこのひなか
   川を見おろす高圧線に
   まこと思案のその鳥です
(ははあ、あいつはかはせみだ
 翡翠さ めだまの赤い
 あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかのなめらかさ
 チの字はくちのとがった工合
 アの字はつまり愛称だな)
(マリアのアの字も愛称なの?)
(ははは、来たな
 聖母はしかくののしりて
 クリスマスをば待ちたまふだ)

 半分ふざけた口調をわざと使って、会話の調子になって、この詩はそういうふうに終始しています。宮沢賢治の童話のなかのユーモラスの要素と会話の要素というのがありますけれど、それはこの詩の表現とたいへん類似しています。どちらからとったとも言えますけれども、少なくとも『春と修羅』第二集のひとつひとつの大きな特色は、この種の童話の表現の一部みたいなものの表現の仕方というのが詩のなかにあらわれてくるというのが一九二四年の春から秋前にかけての詩がそういうふうになっているということが言えると思います。

12 「薤露青」

 それからこれは、意識しておどけた調子や童話的な調子を出しているのではなくて、主として宮沢賢治の色合いで書いているのですけれども、自己と風景が溶け込んじゃっているというなかに生活も溶け込んじゃっているという表現の仕方をしている個所です。
何行か読みます。

一六六
薤露青
一九二四、七、一七、

みをつくしの列をなつかしくうかべ
薤露青の聖らかな空明のなかを
たえずさびしく湧き鳴りながら
よもすがら南十字へながれる水よ
岸のまっくろなくるみばやしのなかでは
いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から
銀の分子が析出される
 ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり
   プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は
   ときどきかすかな燐光をなげる……

 プリシオンコーストというのは『銀河鉄道の夜』で言いますと、汽車が止まったところで主人公のジョバンニとカンパネルラが降りて銀河の流れのところに行ってみようかと言って行く場所がプリシオンコーストとなっていますから、これは地名、固有名詞も含めて『銀河鉄道の夜』のおどけた部分ではなくてまじめな部分の色合いというのもこの作品にはよく出ていると思います。「南十字」というのは何か知りませんけれども、『銀河鉄道の夜』ではジョバンニ持っている切符でもってどこへでも行ける一種の究極の理想の場所のことを指していると思います。銀河というのは南十字のほうに流れているというところがありますけれども、それを指していると思います。
 ですから「薤露青」という作品は文字通り『銀河鉄道の夜』の夜と対応させることができます。これはたぶん、どちらが先なのかということも含めまして、たぶん研究者の人があまりはっきりやっていない場所じゃないかとぼくには思われます。ぼくらにも時間があればそういうことをしてみたいことはないことはないかもしれませんけれども、それは夢かもしれません。だからそれは研究者の方がはっきりさせてくれると有難いということになると思います。
 そうすると『春と修羅』第二集の中心は何なんだというと、ふつうの言い方で、宮沢賢治の研究家でテキストの綿密な考証をやった入沢さんもやはり「薤露青」という作品をあげていまして、これは第一集と第三集の中間にあるんだけれどもそれだけでは片付けられないという言い方をしています。だからやはり、誰もがここいらへんに第二集の鍵があるぞという読み方は誰でもするんじゃないかと思います。ぼくらもまた「薤露青」は第二集のなかで特異なんだということはおしゃべりで言ったことがあります。だから誰でも気づくことだと思います。
 そうしたら、『銀河鉄道の夜』の訂正によっていまのかたちになったものと、「薤露青」という作品とはどっちが先なんだということについて厳密に実証したり考証したりした研究者の仕事はないんじゃないかとぼくは思います。これから出てくると思いますけれど、それをやっていただくとぼくらみたいのにとっては有難いことなんだと思います。
 詩の表現から見ればここいらへんが第二集の中心になるので、生活の要素が加味されてきたというのが特徴です。ここが中心になって、宮沢賢治の童話作品にあらわれている主な考え方、表現の仕方、それからそのなかにもられている芸術観、宗教観や、童話――つまりユーモアであったり童話に対する考え方というのはことごとくこの第二集の八編から九編あると思いますけれどそのなかに出ているので、それと童話作品とを照合させることで、宮沢賢治の主な中心の思想、モチーフは明らかになるんじゃないかなと思います。ぼくらは漠然とここらが中心だと思いますけれど、どちらが先か、どう照合したか、いつ草稿されたかということについてはまったく探究が及んでいないので、これは皆さんに委ねるほかないのですが、ぼくはそういう考え方を持ってきました……

13 宗教、芸術、死が溶け合った世界と第三芸術

……それから晩年にノートに書かれたような作品があるわけですけれども、その作品と文語詩というのがありますけれども、それを宮沢賢治の晩期というふうに言いますと、この言い方はよくはないんです。晩期というより、宮沢賢治の文学的蓄積の仕方の最上層、あるいは表面と言ったほうがいいものです。一九二四年頃のいちばん表面にある宮沢賢治というのは何なのかということの、いちばん表面を、晩期みたいな言い方を歴史的にしますと、そこの特色は何かと言えば、芸術と宗教というものと、死――自分の死が近づいているということです――その三つが一種独特の理念と言ってもいいし、宮沢賢治の宗教と言ってもいいし、芸術だと言ってもどうでもいいんですけれども、その三つが溶け合った独特の世界というものをあれすると、一九二四年の宮沢賢治のいちばん表面にあらわれています。それは芸術と宗教と死が一体になっているという情況を指すと思います。
 それは一種独特な世界です。それを独特にさせているのは何なのかということはあるわけです。それは芸術的要素から言いますと、「第三芸術」という言い方をしていますけれど、「第三芸術」というノートに書かれている詩があります。

第三芸術

 蕪のうねりをこさえていたら
 白髪あたまの小さな人が
 いつかうしろに立っていた
 それから何を蒔くかときいた
 赤蕪をまくつもりだと答えた
 赤蕪のうね かう立てるなと
 その人はしづかに手を出して
 こっちの鍬をとりかへし
 畦を一とこ斜めに掻いた
 おれは頭がしいんと鳴って
 魔薬をかけてしまはれたやう
 ぼんやりとしてつっ立った
 日が照り風も吹いていて
 二人の影は砂に落ち
 川も向ふで光っていたが
 わたしはまるで恍惚として
 どんな水墨の筆触
 どういふ彫刻家の鑿のかほりが
 これに対して勝るであらうと考えた

 自分が赤蕪を撒くつもりで耕していたら、後ろに年取った農夫が立っていて、「何を撒くんだ」と聞いた。「赤蕪を撒こうと思っている」と言ったら、赤蕪を撒く時はこういうふうに畝をつくるんだよと鍬をとって自分で鍬をつきはじめた。それを見ていたら実に見事で、芸術というのはこういうものなんだと思って、これはどんな彫刻家の彫刻よりもこのほうがほんとうの芸術だと思った、という詩だと思います。
 この「第三芸術」という言い方もそうですけれども、晩年の宗教と死と生活というのが溶け合ったところで考えている宮沢賢治の考え方というのはここにとてもよくあらわれていると思います。これは「マリヴロンと少女」という童話作品で言いますと、マリブロンという著名な音楽家がいて演奏会をやるときに、牧師の娘がやってきて「私を弟子にして連れて行ってください」と言うんですけど、「あなたはこれから牧師の親父さんと一緒にアフリカへ行って布教するんでしょう。あなたの仕事のほうがわたしの仕事よりずっといい仕事なんだから」と戒めるわけです。そう言うけれど、娘は「あなたは人からも注目され尊敬され重んじられてあなたの芸術は輝いているじゃないか。だから私が憧れるのは当然だから連れて行ってください」と言うんです。それに対してマリヴロンが「いや、そうじゃない。すべての人は生活において芸術というのをつくっているんだ。わたしは歌っている15分かそこらのあいだだけ人々と一緒の気持ちになるかもしれないけれども、それ以外は何の意味もないという人間なので、たった15分という時間しか持っていない自分なんかについてくるより、牧師さんの娘としてアフリカみたいなところへ行って奉仕をしたりすることのほうがずっといいことなんだよ」と戒めるという作品です。けれど少女のほうは納得しないわけです。両方とも納得しないで、そこで宮沢賢治の宗教観と芸術観の格闘というのがよく出ています。なかなか勝負がつかず、納得しないわけです。
 少女の方が納得しない理由は、そういうふうに言うけど、おまえは特別な人のようで、人から尊敬されたり輝いたりするじゃないか、わたしはアフリカへ行って奉仕をしたって注目してくれる人なんか誰もいない、そこは違うじゃないかというふうに言うのが少女の言い方です。それに対してマリヴロンはなかなか答えられないんです。それはたぶん宮沢賢治の答えにくいところだったと思います。ぼくらにも答えられません。ぼくらもずいぶんそういうことは考えたりしたんですけれど、答えられないところがある。「おまえはなんだか謙虚な振りをするけど、おまえはやっぱり特別扱いされてるのは違いないじぇねえか」と言われて、「そんなことはない」とぼくがいくら言ったってどこかに特別なところがあれば仕方がないんだからそれに対して解答というのはないんです。
 ただ宮沢賢治はどこで解答したかというと、誰でもが芸術は生活そのものにおいて描いているんだという言い方で解答していると思います。ぼくにはそれがないですから、そういう解答の仕方ができない人間ですから、ぼくらはよく考えまして芸術というのは、完全な解答にはならんのですけれど、芸術というのは宗教とは違う。どこが違うかと言うと、根本的なことで、宗教というのは表現したこと自体、あるいは表現した思想、信仰に他の人を誘い込むとか、他の人もそうなってくれたらいいんだということが……
【テープ終了】