1 はじめに(小池光)

2 短歌的喩の解体と岡井さんの試み

 岡井さんの『神の仕事場』をめぐってという話ですが、それと一緒に気がついたことがあって、その気がついたことに関連させながらお話をしたいと思って来ました。僕は岡井さんの『神の仕事場』と塚本さんの『献身』と同時に読んだんですが、刻々、いまこういうんだ、こういうんだというふうにたどりながら、岡井さんと塚本さんも含めてですが、作品を評価することができなくなっているというのはおかしいけど、あるところから上は雲の向こう側に行ってしまっていて、言葉でもって批評してもしょうがないんじゃないかという感じを持ちました。何十年の蓄積が有意識的、無意識的にあって、ちょっと驚いたなと言っておけば一番批評になると思います。
 本当はそうなんですが、僕が感じたいまの短歌に共通した問題とひっくるめて問題意識をそこへ絞っていくと、岡井さんの短歌にはとても大きな特徴があると思います。それは岡井さん以降の世代の人たちの短歌も含めて、結局、僕は『言語にとって美とは何か』というところで、短歌的喩という概念で、短歌に独特の喩の使い方があると言った覚えがあるんですが、それでいまの短歌を見ますと、同じような言い方をすると、喩の隔たりがあまりに大きくなって、逆な言い方をすると、短歌的喩の解体現象がいまの短歌の共通点になるんじゃないかと感じました。それを岡井さんのほうから始まって申し上げてみたいと思います。
 岡井さんはこの歌集でも新しい試みをしておられるわけですが、その試みの意味はどういうことになるか考えてみました。短歌的な喩の解体とひっくるめて申し上げますと、例を挙げると一番よくわかるんですが、岡井さんの歌で、たとえば「大島には連絡すると言つてたろ(言つてた)裏庭で今朝冬百舌鳥が」という短歌があります。その場合の(言つてた)というところで、もしこれを切断と考えると、大島には連絡すると言つてたろというのと裏庭で今朝冬百舌鳥が鳴いているというのとは何の関係もない、喩の関係にもないとなる。その喩の関係にもないというのは、僕は割合に現在の特色なんじゃないかと考えるわけです。
 ところで、「言つてたろ」の後に(言つてた)というのが入ってくるわけですが、そうするとこの(言つてた)は上句と下句との喩の関係をつくると同時に、「大島には連絡すると言つてたろ」という上句に対する答えともなりますし、冬百舌鳥が今朝裏庭で鳴いているということにも引っかかって、百舌鳥が言つてたとなる。つまり(言つてた)と括弧の言葉を入れることで、この括弧の中が二重作用して、一つは喩の解体に寄与しているとも取れますし、同時に岡井さんの場合、一種の収縮というか、縮退というか、上句と下句を収縮させる、くっつけてしまうという作用もしていると言えるように思うんです。

3 括弧が持つ二重の作用――解体と収縮

 これは岡井さんの試みなんだけれども、こういう試みを詩人でやったのは宮沢賢治だけです。「大島には連絡すると言つてたろ」と(言つてた)とは、単に問答の意味合いということではなくて、意味意外に言っても、要するに意識の出所が違うよということも表しているわけで、これは宮沢賢治が最初にやったことだと思えるんです。それを岡井さんが非常に見事に使っています。宮沢賢治の場合、詩がずっと来て、括弧を差し挟むと、そこで意識が切断してしまうから、普通の詩の考え方から言えば、せっかく続いてきた持続性がそこで切れてしまうという印象を持つわけです。宮沢賢治は別に詩を意識の持続性と考えていないから、そういうことを平気でたくさんやっています。
 ところで、岡井さんが短歌でこれをやりますと、切断と、くっつける、つまり上句と下句を収縮させるという二重の作用を持つように使われています。これは非常に新しい喩の使い方であり、また喩の解体の仕方だと僕には思えました。これはもう少し後でほかの方のと比べてみるととてもよくわかると思います。この喩のくっつけ方と喩の解体の仕方というのを同時にやっている作品が『神の仕事場』の中に割合に多くあると思いました。
 もう一つ挙げてみましょうか。?「留守なのは百も承知で(京都です)朝日から読む癖を知っていて」という作品で、やっぱり同じで、(京都です)というのは「留守なのは百も承知で」という上句を受けて、それは京都に行ったんだよという意味合いに取れます。それと本当は「留守なのは百も承知で」と「朝日から読む癖を知っていて」とは何の関係もないわけで、短歌を構成しないように思えるんですが、(京都です)と入れることで、上句と下句は関係ある表現だともなりますし、上句に対する違う出所からの答えになっている、つまり留守というのは京都に行っているんだという意味合いをも表すことができる。その二重性というのは(京都です)で生まれてくるわけです。
 この使い方は宮沢賢治が詩でやれば単に切断という意味になりますが、短歌で岡井さんが使っているのを見ると、切断と同時に接着だというふうに使われています。これは『神の仕事場』という作品の中で新しい試みだし、とても重要な意味を持っていると僕には思えました。
 たとえば?「性か愛か性は哀憐の蔑称か傘たたきする北山時雨」という短歌があります。これは括弧はしてないけれども、もし「傘たたきする」という句がなければ、性か愛かということを内心で考えているということと北山時雨が降っているということとは何の関係もないでしょう、偶然の関係しかないでしょうとなるわけで、「傘たたきする」という言葉で両方がつながってしまう。つまり、傘をたたいてということが哀憐の問題と関係があるかのごとき比喩を構成して、これがもしないとすれば上と下とはつながらないよということだと思うんですが、それが見事につなげられている。こういう試みは『神の仕事場』の中に割合に数多くありますが、これは非常に大きな特色ではないかと思います。
 ほかの人の歌を比べてみればわかるわけですが、この上と下の隔たり、喩をなさないよというところまで隔ててしまう歌い方というのは割合に現在の一般的な短歌の動向ではないか。岡井さんの試みがそこの中でどういう意味を持つかということになるわけですが、喩の解体と喩の収縮を同時にやってしまっているということが『神の仕事場』の中で一つの大きな特徴ではないかと思いました。

4 解体した喩の表現――小池光さんの歌

 たとえばいま司会をされている小池さんの「倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ」という作品があります。これは上句と下句とは偶然以上のかかわりは何もないから、本来的には、古典的な概念で言えば、短歌を構成しないということになると思います。しかし、これが短歌として通用していくというか、現在の作品の一つの傾向にすらなっていると思えるんです。
 それはなぜかというと、作者の中で、意識、言葉としては何のつながりもないんです。つまり、倒れて咲いている向日葵を跨ぎ越すということと父というのは敗れるものだということとは何の関係もないといえば何の関係もないわけですが、作者の意識の中の一種の連続性があって、それは短歌の持っている連続性を無形のまま保存していて、その保存があって、これが短歌なんだということで成り立っている。しかし、表現としてみれば、短歌的な意味での喩はこれでは壊されているというか、壊してしまっていると言うことができるんじゃないかと思います。
 小池さんの作品にはそういうのがずいぶんあります。たとえば?「この口にウエハース溶かれ淡雪は父の黒き帽子うすら汚し」。そうすると、どうして口腔でウエハースが溶けて淡雪みたいだということと父の帽子が汚れたということと関係があるんだろうとなるわけですが、これは作者の意識の中に一種の連続性についての信念、確信があって、短歌をなしていると思います。
 この種の解体と短歌的な定型の破れ方と両方あるわけですが、それは僕が見たところでは現在の短歌作品の特色ではないかと思えるほどたくさんあります。たとえば阿木津英さんの作品ですが、?「茫々とせる脳髄をのせているわれの体よ階段下る」というのがあります。これも極端に言いますと、脳髄で夢みたいなことを考えているという上句と階段下るということとは偶然以上のつながりは何もないんじゃないか。偶然のつながりと理解しない限り、どうして階段上がるではなく階段下るのか、上がるだって同じじゃないかということになります。つまり、必然的なつながりがない。だから喩の関係としては、すこぶる解体した喩の表現、上句と下句がつながらないところまでぎりぎりいっていると考える以外にない。
 しかし、この傾向はいまの全般的な傾向の中で大きな特色だと思います。阿木津さんの作品でもそうですし、小池さんの作品でもそうですが、喩として、つまり短歌として古典的な概念で言えば構成的に成り立っていないと思えるほど、上句と下句が解体した喩の関係しかないというのはとても重要な現在の特色ではないか。僕はそういう理解をしました。

5 短歌的喩の解体――高野公彦さんの歌

 そういう試みとしては小池さんや阿木津さんの試みよりももう少し古典的だと思えるんですが、高野公彦さんの歌でも同じように短歌的喩の解体と言うよりしょうがないんじゃないかという作品があります。たとえば?「鏡一つ無人の部屋に光るときわれを育みし母を恐れつ」。
 これも僕は同じと思います。鏡一つ無人の部屋に光るときというのとわれを育みし母を恐れつということとは何の関係もないといえば何の関係もないんじゃないか。つまり、偶然性以上の関係は何もない。作者にとっては、そのときその場という意味合いを持つとすれば、それは関係があるわけですが、一般的に言って何の関係もないでしょう。「母を恐れつ」だって、恋人でも何でも、つまり何をやってもいいというくらいに上句と下句とはつながっていない。これは偶然性以外何のつながりもないんじゃないかということになりそうに思います。しかし、これが短歌を構成しているというのは、一種の意識の中のつながりというのがあって、そのつながりがこれを短歌的にしているということ以外に言いようがない。そこまで短歌的喩の解体は一つの傾向として進んでいるんじゃないかという感じを非常に大きく持ちました。
 高野さんの歌で、?「少年のわが身熱を悲しむに杏の花は夜を咲きをり」。杏の花が夜咲いているということと少年が身熱を悲しむということと関係があるかねといったら、僕は関係ないように思います。これは一種の内在的な音声というようなものの連続性が作者の中で信じられていなければ短歌として成立しないというぎりぎりのところまで、短歌的喩が解体されている。こういう特色はいくらでも見つけられるように一つの傾向性をなしているんじゃないかと思いました。
 もう一つやってみましょうか。?「横須賀に巨艦消えたるこの朝爪切れば窓のガラスに飛べり」という短歌があります。別に爪を切って、その爪がガラスに飛んでいったということと横須賀に大きな船が泊まっていたその朝ということとは関係ないんじゃないか。そのとき爪を切っていたらガラスに飛んだというだけで、これは偶然以上の関係はないんじゃないかと思えるんですが、作者の中では明瞭に意識のつながりがあって、この作品ができていると思えるわけです。そうすると、これは短歌として成り立っていると言うより致し方ないので、そういう成り立ち方をしていると思います。
 しかし、もはやここまで上句と下句との関係を短歌的喩の関係から開いてしまうと、つまり隔たらせてしまうと、これ以上は短歌を構成できないんじゃないか、あるいは短歌とは何か違うものになってしまうんじゃないかというところのぎりぎりまでなされていると僕には思えました。これは一般的に若い人たちの傾向です。
 そこで岡井さんの特色を言えば、括弧みたいなものを使いながら、括弧の中に挟んだ言葉が、喩の解体を表すと同時に、つまり括弧の中の言葉を取ってしまえば上句と下句は偶然以上のつながりがないというふうに短歌がつくられながら、しかしこれがあるために逆に上句と下句はつながってしまう。短歌の喩の解体とつながりと両方の二重性を、括弧の中の言葉を差し挟むことでやってしまっているということがとても大きな岡井さんの『神の仕事場』の特色になるんじゃないかと思います。大なり小なりというか、岡井さんの新しい試みと古びない試みの一つは、現代の若い世代の短歌の喩の解体の仕方を、一方では同じようなやり方を取りながら、一方ではむしろ収縮して上句と下句をつなげてしまうという、その二重性のやり方をやっているというのが岡井さんの『神の仕事場』の非常に大きな特色であり、また優れている点だと言えば言えてしまうんじゃないかと感じました。

6 短歌を音の言葉にすること

 岡井さんが『神の仕事場』でもう一つ、前からやっておられることですが、ここでもやっておられる新しい試みがあります。それはどういうことかというと、僕はそういうことが岡井さんの中に根本的にあるんじゃないかと思うんですが、短歌を意味でつくらないで、音でつくってしまう。あるいは短歌をつくって、こういう意味を表すということと少なくとも同等程度に、短歌の中で、音声でもいいし音韻でもいいんですが、音が非常に大きな役割をするということが岡井さんの中であるんじゃないかと思うんですが、もう一つ新しい試みで言えば、そういう試みがあります。
 たとえば?「しっしっしゅっしゅっしゅわらむまでしゅわろむ失語の人よしゅわひるなゆめ」。失語ということがとても重要なモチーフだと思いますが、「失語の人よ」というのと何々するなゆめ、決してそういうことをするなという言い方と、その二つしか意味が通る言葉はないので、あとは擬音的な言葉とか、僕らから言えば一歳未満の赤ん坊の、意味が通らないんだけど、母親だけには通るというあわわ言葉、音だけでしか成り立っていない、あるいは音でもって意味しようとする言葉しかないわけです。
 これは何なのかというと、岡井さんの中で短歌というものを意味の歌とすることの重要さと同じような意味合いで、音の言葉にするということが短歌を構成するために非常に重要なんだという考え方がどこかにあるということを意味するんじゃないかと思うんですが、これも岡井さんの『神の仕事場』の中でとても大きな新しい現代的な試みだと思います。
 こういうふうになっていけば上句と下句のつながりも何もないのであって、短歌というのは意味であるか音であるかどっちなんだ、あるいは両方なのかという大きな問題に入っていくので、意味ない言葉だけでも短歌は成り立ちますよと極端に言えば言えてしまう。音か意味なのか、あるいは日本の古典的な形式を持った定型詩というものはだいたい何で成り立っているんだ。意味で詠む詠み方とか音韻で詠む詠み方というのはいままでだってずいぶんあるんですが、もっと極端に言って、音声も含めた音が意味を代表するくらいに極度なかたちで、日本の短歌の由来、起源とこれからとの問題をそこまで徹底してやっているというのが岡井さんの『神の仕事場』のものすごく大きな特色だと思うんです。
 つまり、短歌というのは不思議というか、わからんなというところがある。音数律として出てくる音韻の区切り方もわかりにくいし、意味としてもわかりにくい。短歌を単なる言葉の意味だけで取ろうとすると、どんなふうに頑張ったって、そんな複雑な意味が表現できるはずがないということは初めから決まっている。形式の短さとか定型性ということから考えて、できるわけはないんです。それならば短歌というのは定型の音韻か、五七五七七、音数律かと考えると、いやどうもそうではない。音数律が意味を助けているとか、短歌的な一種の簡潔感を助けているということはもちろん言えるんですが、それでもって短歌の本質的なものを解けるかというと、どうしても解けないような気が僕は自分なりにしてきているんです。

7 短歌の起源にある言葉以前の言葉

 では何だったら解けるんだというのは本当はよくわからないんですが、岡井さんは分節している言語以前の言語、個々の人間で言えば、一歳未満のときに、あわわと言っている言葉を、もし意味ある言葉だ、これは意味なんだというふうにそれだけで取れると理解したら短歌というのはどうなるかという試みをしているように思うんです。それは短歌とはいったい何なんだということを考える場合に非常に重要なやり方、考え方のように僕には思えます。
 たとえば西欧、つまりインド・ヨーロッパ語でもって現代詩を訳す人も俳句を訳す人もいるんですが、短歌を訳してみて、うまくいくだろうということは初めから信じられない気がします。それは音数律の区切りが違う、五七五でもないし、五七五と七七というのは音数律が特異で、これがインド・ヨーロッパ語に訳せるはずがないよと考えるのかというと、そうでもないんです。そういう面もないことはないんですが、形式的な特色性というのではなくて、言葉の音と意味の兼ね合いの非常に独特な使い方が短歌作品にあって、そのことがうまく解けなければ、短歌を、インド・ヨーロッパ語でなくてもいいんですが、普遍的な言葉に直せるかどうかとなると、すこぶる疑わしいことになると僕には思われる。それは音数律でもないし意味でもない何かが短歌にはあるので、それが短歌の特色なんだ。
 その何かとはいったい何なんだということになるわけです。それはこうだというのがなかなか難しい。しかし、岡井さんは一種の擬音語、あるいは分節された言葉以前の言葉を短歌の中に導入することで、短歌というのは難しいぜ、本質的にはこういうんだよということを非常にはっきりと試みの中で示しているように僕には受け取れます。
 これは僕らの言い方からすると、短歌というのは本当は片歌としてしか成り立たない。片歌が複数の人によって問答的につくられたということがなければ、短歌的表現というのは成り立たんのだと僕らは考えてきたわけです。つまり、違う作者が片歌を二つ並べ合った、片歌で問答し合ったということが日本の詩歌、韻文の起源のところになければ、五七五七七というふうに収斂した短歌的表現はもともと成り立たんのだというのが僕らの考え方です。片歌を二つ問答にして、複数の人が掛け合いみたいにやったというのがなければ、短歌というのは成り立たんはずだ。
 そうすると、それをある時期から一人の作者がやろうとしたときに、片歌二つというのから何を省けばいいのか。つまり、少なくとも最小限二人の人間でつくられた片歌と片歌の問答が短歌的表現になるために何が重要かといったら、一人の作者になるということが重要で、構造的に同じ二つの片歌を並べたということを一人の人間の詩の作品にするためにどうしたらいいのかというと、もちろん一人の作者がつくればいいということが一つあるんですが、その場合に片歌の重なる部分、問いの片歌と答えの片歌のところで、問いの終わりと答えの初めを融合させるということをして、一人の作者とする、そういうふうにして短歌的表現というのはできたんだと僕らは考えるわけです。
 なぜ短歌的な起源がそうなんだと言えるかというのはそれなりの理由があるわけですが、二人の作者を一人にして、問いの一番下のところと答えの一番上の句を融合させてしまえということはなぜ成り立ったのかを考えると、一人二役ができるようになった、それだけ作者意識が発達したということもあるんですが、それよりも何よりも短歌的音、音数ではなくて音韻ですが、それは分節された言葉以前の意味ある言葉だということが、片歌二つを一つにするという作者意識の中で明瞭になければ短歌にはならなかったんじゃないかと思います。
 これは自分に引き寄せるようで申し訳ないけど、岡井さんのこの種の擬音的な言葉をほとんど音数的な意味として使っている短歌の試みというのは、岡井さんがそういうことを実作の中でやろうとしている試みなんだと僕には思えます。ですからこれがいま試みとしておもしろいという以外の意味を持てないように見えても、相当重要な意味を持つんじゃないか。短歌の現在性、現在の短歌のあり方に対して、岡井さんの『神の仕事場』が寄与している面があるとすれば、その二つだと思うんです。
 つまり、括弧の中で言葉を差し挟むことで上と下を切断してしまうと同時に、つなげてしまうというやり方と、分節される以前の、言語で言えば、乳児のあわわ言葉みたいなものでちゃんと意味があるんだ、それを意味として取れるんだ。あわわ言葉の場合には、それを意味として取れるのは母親だけですが、母親は、あわわと言っているんだけど、お乳が欲しいんだとか何だとか要求がわかるということがあると同じように、あわわ言葉に似た言葉、分節化されない言葉を使うことで、それを意味として受け取るという受け取り方がありうることが短歌の起源にあって、またこれから短歌がどうなっていくかということにあるかもしれないという問題を岡井さんが出している。岡井さんの試みの中で、短歌の現在性、岡井さん以降の歌人の人たちの試みとまず同じ問題意識を展開しているなと思えるところを取ってくるとすれば、そういうところが問題になってくるように思います。

8 無形の音声のつながり

 同時に、岡井さんも短歌的喩の解体と言っていいような試みもたくさん『神の仕事場』の中でやっています。たとえば?「八卦見のおばみまかってわが未来突如暗めり山桃青し」という作品を取ってくると、山桃青しということと八卦見のおばさんが死んじゃってという上の句とは一般的に関係ないので、終わりのほうは何を持ってきてもいいんじゃないですかということになるように思います。それほど意味だけ取っていくと関係がない。これは短歌的な喩としては不可能である喩じゃないのかとなります。何がこれを短歌にしているんだというと、何となく無形のというか、無声のというか、音にならない音声の連結、つながりというものが作者の中にあって、これは短歌だと言うより仕方がないとなっているんじゃないか。
 最近、新聞を読んでいて、そういう記事があったんですが、僕はそこまでは考えていなかったんですが、科学的実験の結果によってそういうことがわかったという発表がありました。それは韻文でも散文でもいい、活字を読んだ場合、脳はそれをどう受け入れるかというと、その実験結果によれば、音声として受け入れることがわかったという発表があったと言っています。つまり、活字というのは黙読している場合でもそうじゃない場合でも、ひとたび音声に翻訳される。そして脳の中の言葉を発したときに励起される細胞だけがちゃんと励起されるという現象があって、意味として入ってくるということがだいたいわかったという記事を割合に最近読んだことがあります。
 短歌の微妙さ、とうていつながらないよという上句と下句のつながり方がつながってしまうというふうに読めるのはなぜかというと、一種の無形の音声のつながりが作者の中にあって成り立っているんだと言うより致し方ない。散文と同じように意味だけたどるならば、あまりに上句と下句は任意すぎて、つながったと言いようがないよとなっている場合でも、短歌的にはつながっていく。
 これは短歌的音数律を一つの必然とすれば、音数律と意味と両方が融合して短歌というのは成り立っていると、僕が『言語にとって美とは何か』を書いたときには、そういう考えでいけると思っていたんです。しかし、どうも自分で疑わしくなって、その後も自分なりにいろんなことをあれしてきたんですが、結局のところ、音数律以前の分節化されない人間の音、乳児のときにしか発せられないような分節化されない言葉、音声、つまり母親だけに通ずる音声を意味ある言葉だと受け取れば、短歌の持っている短歌的な比喩が解体して、上句と下句は任意にぶつけてあるだけじゃないかと言えるものでも、僕らが読む場合に短歌として読めてしまうというのは、そういう作用があるからじゃないかと思えるわけです。
 それから黙読している場合でも、自分たちは音声の抑揚をつけている。つまりいまの言い方をすると、短歌というのは黙読しても読む人の中で抑揚がつけられて読まれているとなるわけですが、ついに下の句のほうになってくると抑揚のつけようがないよ、散文的な韻あるいは音韻だよとしか言えないような、短歌の新しい解体の試みが、岡井さんの『神の仕事場』でも塚本さんの『献身』でも非常に顕著にあります。こちらで黙読しても抑揚をつけているという、その抑揚がつけようがないよという終わり方をしている短歌作品が、岡井さんの『神の仕事場』の中にもあると言えそうな気がするんです。
 たとえば塚本さんの?「高千穂印ののこで手を切ったからもう狼も大御神も怖くない」という作品があります。これは意味としては明瞭で、高千穂峰は皇室の祖先の天下った出生地だということになっているところですが、それ印ののこぎりで手を切ったから狼も大御神も怖くないというんです。これは僕らが黙読した場合、心の中で抑揚をつけながら読んでいても、「もう狼も大御神も怖くない」というところでは抑揚をつけられない。つまり、ここでは散文韻になってしまっている。
 この種の試みは、岡井さんとか塚本さんもそうですが、ものすごく大きな試みの一つのように思います。もし試みということでないとすれば、僕が読んで、それが非常に目に付いたんです。若い人の作品でも目に付きましたが、これはもしかすると短歌的な抑揚、音韻のつくり方というのが作者の中ではそんなに意味を持たなくなっているんじゃないか、あるいは短歌的意味を持たせないように意識的に試みているんじゃないか。どちらでもいいわけですが、そういうことが非常にはっきりと打ち出されているように思います。それは『神の仕事場』という歌集の中で非常に大きな意味で感じた事柄です。
 これは短歌の歌人自体の中ではそれほど意識的、無意識的な意味を持たせてやっているわけではないということかもしれません。あるいは一つの試みで、黙読すると短歌的抑揚になってしまう音韻の使われ方、並べ方みたいなものを故意になくして、音韻といえども、音がすなわち意味である、つまり音韻が意味するのではなくて、音韻=意味なんだというふうにしか音韻を使えないし使わなくていいんだと作者のほうで考えるようになっていることが、そういう傾向をもたらしているんじゃないかとも思えます。それはどちらでもいいわけですが、僕が野次馬として外側から見て現在の短歌の大きな特色として感じられたところのゆえんです。

9 短歌的喩の解体と普遍的韻文への試み

 そうすると、短歌的喩をも壊してしまうんだという試みが現在の一般的な傾向で、かつものすごく新しい未知の問題を含んだ試みなんだと考えるとすれば、たとえば小池さんなら小池さんの作品はそういう意味合いでの実験的な試みが一番たくさんなされている歌のように思います。
 たとえば小池さんの作品で、僕はいい作品だと思うし好きな作品ですが、「あかつきの罌粟ふるはせて地震(なゐ)行けりわれにはげしき夏到るべし」という短歌があります。これは喩の解体というのはあまり目立ちませんが、ひとたび短歌的喩は成り立たんのだというところまで解体の表現を試みていた果てにまたというかたちでできているということが、この種の作品を非常にいいものにしていると思います。
 もう一つ挙げてみますと、?「春鳥の声あらわれて消えし方一瞬の悔いは輝きみけり」というのがあります。これは下句と上句の意味的隔たりがもう少し大きかったら、喩の解体ということになるわけですが、この場合にはかろうじて短歌的喩であるという地点でとどまっていて、それがいい作品を構成していると思います。つまり、春の鳥が鳴いていて消えていったということと自分の中の一瞬の後悔が輝くような思いをしたということとは何の関係もないと言うことができない問題があります。それは上句と下句が喩を構成しているからです。隔たりがもう少し多かったら、解体した喩の表現となって、「一瞬の悔いは輝きみけり」でも何でも、ほかの句を持ってきたって同じじゃないかということになってしまうと思いますが、この場合には喩を構成している。
 つまり、いい作品かそうでないかということと、どんな試みが独りでに、あるいは意識的に表れざるをえないかということとは必ずしも一致するわけではないんですが、喩の解体の意識を持って短歌的表現をした場合とそうでない場合とはやっぱり違う。
 そうすると、岡井さんの『神の仕事場』みたいな作品でも、塚本さんの『献身』のような作品でも、それよりも一世代、二世代若い歌人の作品の中でも共通に短歌的喩の解体だと思える試みというのはどうしてなされているのだろうかということについて、意味ある考え方を取れるならば取りたいものだと考えたわけですが、もしそれが別にそんな意味づけること自体がおかしいよという偶然的な要素でないとすれば、短歌というのは歌人によって、一つはいろんな試みで……
【テープ反転】
……もう一つは一種の普遍的な韻文の試みに短歌的な表現から近づこうとしているということと、二つの意味があるような感じがします。
 その二つの意味は、短歌の表現を音でか意味でかどちらでもいいわけですが、第一義的には地べたに近づけてしまうというか、地べたに向かって開いてしまうという意識がないと試みがうまくいかないみたいな気持ちがあって、それが短歌的喩の解体というところへ一様に試みをひとたびは持っていってしまうということがなされている理由ではないかと僕には思えたんです。
 それは岡井さんとか塚本さんの作品を見るともっと顕著な意味になってくる。音数律が持っている無形の抑揚も取れてしまって、終わりの七あるいは七七の句というのは散文読みで抑揚なんかない黙読みたいなところで行くより行きようがないという試みがあって、その試みはそれでもって短歌作品を地べたにくっつけるという作用を無意識のうちにしているんじゃないか。

10 短歌を地べたに向かって開くこと

 さまざまな意味で興味深く、また難しい時代ですから、こういう時期に短歌作品をつくっていくために、どういう防衛法とか積極的な解体法をやらなければならないかという課題は、きっと短歌の作者には非常に大きく作用していると思います。それは別に短歌だけに限らず、あらゆる分野で、どこかに抜け道はないか、外へ広がり出る道はないか模索するということをやらざるをえなくなっていると思いますが、短歌の場合には、そういうことが一つ短歌作品を古びさせないため、あるいは生き生きとした現在の短歌の活力を保たせるためにどうしても必要になっているんだと理解すると割合に理解しやすいんじゃないかと、僕らは手前みそな考え方で考えたわけです。
 もちろんそれは単なる勝手な意味づけであって、そんなに別に意味をつけてやっているわけじゃないということなのかもしれないけど、僕は岡井さんの『神の仕事場』で、塚本さんの『献身』みたいな最近の作品も同じことなんですが、短歌というのはとてつもない大変なところまで表現の問題が行ったんだなと思いました。
 それについて岡井さんの『神の仕事場』は、音数律的な定型をできる限り崩さないようにして、しかしながら短歌的表現を地べたに開くという試みを非常に多様な手法でやっていると僕には受け取れました。逆に塚本さんの作品というのは、表面上は短歌的な音数律的定型を保とうという意識はあまり持たないで、表現を地べたにつけたいということはやっていると受け取りました。その両者の差異というのは、差異の激しい部分で言うと、まるで個性が違うと見えますが、差異の少ない部分で言うと、岡井さんの作品と塚本さんの作品を入れ替えたってあまり変わりないよというくらい、短歌的表現を地べたに向かって開きたいという意識は両方とも顕著に行われていて、それは新しい一つの傾向なんだなと感じたんです。
 つまり、何十年も短歌の実作に携わっているというのはものすごく大変なことなんだなということと、大変なことにふさわしいちょっと大変な領域に入り込んでしまっているぜみたいな感じを同時に持ったわけです。岡井さんの作品は、未来、これから後に向かって開いている作品の場所じゃないのかなと思いました。
 僕が短歌作品を本気になって読んでやれと思って読み始めたのはここ数カ月ですが、それまでいい加減な読み方で読み過ごしてきた短歌に改めて本格的に向かい合ってみて、今日申し上げたところの特色というのを一番感じました。いま挙げたことは作品の良し悪し、いい作品ということと実験的であるということとの微妙な絡まり合いがあるから、必ずしもそれらが全部いい作品だとか、『神の仕事場』の中で、いい作品は全部そういう試みがしてあると言うことはなかなかできないので、むしろ古典的な一昔前の岡井さんの作品と同じような音数律や喩の組み方をやっている作品に安定したいい作品があるようにも思いますが、岡井さんがいまでもいろいろ考えながら試みをやってきているんだなと思った箇所は今日申し上げたところに表れています。
 これは僕が久しぶりに読んで先入見なしに感じた特色で、この特色はよくよく若い世代の歌人のいくつかの歌集を読んで、やっぱり同じようなことはやられているなと感じたこともその中に含まれてきます。ですから現在の短歌が当面している問題はそのへんに大きな特色が表れていて、これからも岡井さんの『神の仕事場』の延長線で、たくさんの興味深い実験的な試みも、作品としての冴え方も両方、僕らが期待していいんだと思える箇所です。
 つまり、こういう時代で極楽往生するわけにはいかんもんだよという問題は、岡井さんや塚本さんの作品でも依然として表れ出ていて、きつい時代であるとも思いますし、別な意味からは、大変興味深い時代だなと僕らがいつでも感じていることにつながっていってしまうように感じました。

11 普遍性を持ったある言葉へ

 『神の仕事場』という作品を読んで僕が感じた感想を強いて申し上げますと、いま申し上げたことに尽きていくわけです。本当は『神の仕事場』というのはそれ以前の作品と違って、いい悪い、こうだああだと言ってもしょうがないじゃないですか、そんなことを言うことはあまり意味がないよ、あるいはそういう次元とは違う次元でこの作者は短歌をつくっているよなという感じがしましたから、本当は黙って、あ、やっているねという感じでいいんじゃないかと思うわけですが、強いてでも言葉にしますと、そういうことになっていきそうな気がします。
 これは短歌ですから、国際的にというか、インド・ヨーロッパ語的に、こういう歌人がいるんだよと言ったって、これが何なのかはわかりようがないでしょうというくらいのもので、普遍性というのは難しい。しかし、岡井さんの作品も塚本さんの作品も若い後の世代の歌人たちがやっていることも、詩でもそう感じているんですが、日本語から一種の普遍性ある言葉へ、つまり近代的な言葉へというのではなくて、普遍性を持ったある言葉へ、それを目指してそれに行こうとしていると考えると、一様に全部が全部、歌人としての試みということになっていく。
 音数律のかかわりも、音韻が即意味である、分節化されない言葉が即言葉なんだというところまで問題にしていけば、どこの赤ん坊だって全部あわわ言葉ですから、ある種の言葉の普遍性に近づいていくわけで、ひとたびインド・ヨーロッパ語に翻訳しないとわからないということではなくて、あわわ言葉に翻訳してしまえば全部わかる、同じで共通点になってしまうよ、普遍的言語になってしまうよというところに試みの矛先が意識的にも無意識的にも向いていると考えると、どこの分野でも大変だといえば大変なんですが、短歌的試みというのも大変だなという感じを非常に多く持ちました。その大変だなというところをまだやらざる
をえないというところに、いまの日本の詩人でも歌人でも散文家でも当面しているんだなという感じ方を僕は持ちました。『神の仕事場』を読んで僕が感じた事柄はだいたいそんなところに尽きるわけです。これで終わらせていただきます。
(拍手)