1 心の働きは内臓の働き

 今日は心についてという演題であるわけです。心というのは何かということから、申し上げたいわけです。言葉使いの問題であって、内容の問題ではないじゃないかというふうにも思えるわけですけれど、類似のことをたとえば、心という言葉と精神という言葉と意識という言葉と、指している内容が何が違うんだということになってくると曖昧になってくるから、心と言わなくても精神と言っても同じじゃないか、意識と言っても同じじゃないかというふうに思える箇所もあるわけです。
 いくらかそこいらへんが危なっかしいところです。それは言葉使いの問題だけだよと言えちゃうところがほんの少しだけあるように思います。ですから心とはどういうことなんだということを無条件にそこからはじめちゃうことができるかどうかと言ったら、ちょっとだけ疑問が残るんですけれども、ぼくは長い間、自分で心という言葉を使っていながら、ほんとうは自分でもよくわからないで漠然と使っていました。漠然と、ということはそれでいいんじゃないか、あまり厳密でなくていいんじゃないか、厳密にすることは無理じゃないか――意識、精神と心とどこが違うんだと言われると、それは言葉使いだけの問題だということがあるから、曖昧でいいんじゃないかということで心という言葉を使っていました。
 しかし、実は一昨年くらいに、三木成夫さんの著書を読んで、はじめて心というのは何かということを、いくらか定義することができると思えてきたわけです。それで少し自分でもわかってきたな、というところがあるわけです。
 ひとくちに言っちゃいますと、人間の肉体とそこから出てくるさまざまな情念とか感情という問題の間には、大別しましてふたつの区別ができると思います。ひとつは感覚です。感覚というのは目で見てこう感じたということとか、耳で聞いて快かったというような、感覚の働きというのがひとつ明瞭に区別できるものがあるわけです。
 ところが感覚の働きというのは、誰でもわかるように目とか耳とか鼻とか触るとか、明らかに感覚器官というものを元にして、いろんなことや快・不快を感じるということが、感覚作用だということははっきりと言えちゃうことになります。するとその感覚作用のなかに心というのはあるか、ということになるわけです。もちろん心というのはそのなかに介入してくるわけです。つまり、感覚的に気持ちのいいものを目にしたために、気持ちがいいなと思ったり、情念がすっきりしてきたりということがあるから、心が介入してくるわけです。
 そうするとそこでまた曖昧になってきそうに思うんですけれども、それは感覚的な作用のなかに心の作用が紛れ込んでいくと言いましょうか、混合、融合していくという意味あいで心が介入するわけで、心本来の作用ということとは違うわけで、感覚作用ははっきりと人間の五感ということから受けた反応というもので感じるさまざまな心の動きと言いますか、情念の動き、感情の動きというのが感覚作用であるわけです。
 心とは何かということを同じような言い方をしますと、いちばんいい言い方は、内臓の動き、内臓の働きとの関係を主な働きとして起こってくるものが、心の働きだと考えればいいことになります。
 そのことはぼくには長い間わからなくて、感覚作用も心の作用というものが入ってくるし、心の作用と言ったってそのなかに感覚の作用が紛れ込んできてということがあるから、どういうふうに区別したらいいのかということを曖昧なまま使っていましたけれど、三木さんという人の本を読みますと、これは明瞭に言えちゃうんだと思いました。
 心の作用というのはそういう意味あいで言えば五感とかいうことではなく、内臓の働きに関連するさまざまな情念、情緒の揺れ動きとか、感覚作用のなかでも、感覚作用が入ってきてもいいんですけれども、要するに内臓の働き方によって起こってくる心の作用――そういうとまたあれになっちゃいますけど、そういう人間の情念の動きというものを、心、あるいは心の作用と言えば、明瞭に区別できることになります。
 実際問題としてはどちらかが主体になって、感覚作用からの働きが入ってきたりとか、感覚作用のなかに心の働きが入ってきたりというのが、実際われわれが日常体験していることは大なり小なりそうなんですけれど、厳密に言えば、内臓の働きあるいは動きというものに関連して起こってくる人間の情念みたいなものの動きみたいなものが、心というふうに言えばいいということは明瞭に言い切れちゃうように思います。
 そういうことをぼくは数年前にはじめてわかって自分なりに納得して、その前は曖昧に使っていました。感覚作用と心の作用というのは、ごったまぜになって出てきますから、どこが違うんだ。だったら言葉としては曖昧に使っていいんじゃないかということで曖昧に使ってきましたけれど、だいたいそこいらへんで、主なる働きとしては心というのは内臓の働きに関連する動きを心と言っている。あるいは内臓の動きに関連して出てくる精神の働きを心と言うとすれば、非常に明瞭なんじゃないかと思えてきました。

2 内臓の働きの特徴

 内臓の働きというのは何かと言いますと、ご承知のように内臓というのは大部分が植物神経、あるいは自律神経と言われているもので動いているものです。たとえば心臓なら心臓は、心臓を動かそうと感覚作用で動かそうとしなくても動いているわけです。それはどうしてかと言うと、人間のなかの植物神経がその動きを司っているということになります。だから、内臓の働き、腸の働きとか胃の働きも同じで、何もあれしなくても、ひとりでに自律神経で動いているものが、内臓の動き方なわけです。
 人間で言うと喉仏から上のほうの動きというのは感覚的な動きに司られているわけですけれども、喉仏から下のほうは、感覚作用では動かせないし動かないわけです。つまり、感覚作用が及んでいるのは、喉仏から上の部分であったり、手足だったりというものです。心の司っている領域は、感覚では届かないものです。
 すると人間は、喉元過ぎると熱さを忘れるというけれども、喉仏を過ぎますとそこではあまり感覚作用は明瞭に働かない。ものすごく熱いお湯を急に飲んだりしますと、このへんがジリジリ痛くなったりという感覚はありますけれど、並大抵のことだったら感覚作用は、心が働いている部分にはあまり働かないということがよくわかります。

3 人間らしいことは内臓によくない

 それで、内臓の働き、つまり心の働きに関連する内臓の働きというのは、特徴があるかと言いますと、先ほど言いましたように、意識しなくても動いているものは動いている、心臓は動いているということがひとつの特徴です。それから内臓器官というのは胃や腸もそうなんだけど、ものが入っていくとそこが詰まってくると内臓器官は収縮して、詰まってるものと収縮した内臓器官のあいだの圧迫感というのだけが外側に感ずるというふうに、ものが入っていったり詰まっていったりすると収縮が起こるというのが、内臓器官の働き方の非常に大きな特徴だと言えるわけです。内臓器官的に、腸なら腸が、胃なら胃が、あまり気持ちよくない、胃の長詩がよくないというふうに感ずる場合に、悪い人は空腹の場合もそうですけど、一杯ものが詰まっていって、胃なら胃が収縮して、詰まっているものと収縮した内臓の壁との間に圧迫感が生じて、そういうふうになっていくと気持ち悪いという感じになると思います。腸の場合も同じで、それは排出するまでは詰まっていて気持ち悪い、不快である。たとえば便秘というのは不快である。詰まっていると詰まっている部分だけ内臓が収縮して、そこに強い圧力が生じてそれがあまり気持ちよくない、今日は調子悪い、という不快感が生まれます。つまり内臓器官における快・不快というのは、器官として生理的にと言いましょうか肉体的にと言いましょうか、ひとつあるんだということです。
 それは心の快・不快というのが、大部分の場合、フロイトに言わせますと、セックスと言いますかエロスと言いますか、フロイト流の言い方で言うとリビドーと言うわけですけれども、広い意味でのリビドーの働き、性の働きというのが、心の快・不快ということに関連するわけです。だけれど、明瞭に分けるのは難しいけれども、それとは別に、内臓の詰まっているときの圧力感とか、内臓的な快・不快というのが生理的にある。それは必ずしも性の感覚じゃなくてある、収縮感であるということがあります。
 それでそれと心の快・不快というのは、フロイト流に言えば広い意味での性的感覚と言いますか、エロス、リビドーというものと関連して、リビドー的に不愉快だったらば不快であると心は感ずるし、快感だったら快というふうに感ずるというふうになっていて、厳密に言えば人間の快・不快の感じ方はそのふたつの二重な作用があるということが言えるわけです。
 それで内臓の働きのいちばん重要なものとして心臓の働きというのがあるわけですけれども、これはたとえば外側から不意にものが落ちてきたとか、何ごとかが起こったということがありますと、心臓なら心臓が急にドキドキしちゃうということああるわけです。つまりそういうふうな作用の仕方を、内臓の働きはするわけです。そういう場合に、ドキドキするというのは普段より脈拍が多くなるわけですけれど、そのことが人間の不意の驚きという心の働きになって顕われるということになると思います。
 それから三木さんという人が言っていることで、ぼくから見て内臓器官の働きとしていちばん重要で、心の働きとしていちばん重要なことというのは、人間というのは何かものごとを集中して考えようとするとたいてい息を詰めているというふうに言っています。息というのは肺臓という内臓ですけれど、肺臓は黙っていれば自立神経によって呼吸作用を営んでいるわけですけれども、もし何か考えようと思って集中したりするとき、たいていは息を詰めるということをしているということです。息を詰めるということは呼吸を止めているわけです。
 物事を集中して考えようとすると呼吸を止める。そのことを広げてみますと、要するに人間がものを考えたり、感覚を集中するということは、内臓器官とは相矛盾する作用じゃないかということを三木さんという人は言っています。それはとても重要なことじゃないかと思います。つまり人間が人間らしいということは物事を考えられることだ、という言い方はあるわけです。だけどそのことはほんとうは、内臓器官にとってはよくないことなんです。肺なら肺の呼吸をうっと詰めないと、物事を集中して考えられないということがあります。そうすると人間の人間たるゆえんは内臓器官の働きに対しては矛盾した作用を及ぼすものだということが大雑把に言えたりします。
 そうすると人間の人間たるゆえんというのは、少なくとも人間のなかに植物神経系で働いている内臓器官に対してはあまりいい作用を及ぼすものではないということが言えそうになってきます。そういう矛盾があるんだということはとても重要なような気がいたします。
 もう少し三木さんの指摘していることで、ぼくなんかびっくりしたことがあるんですけれど、人間の顔は何かというと、いちばんわかりやすいのは、腸から食道、喉仏まで来ている植物神経系で動いている管があるんですけれど、その管を捲り返して開いたものが人間の顔なんだということが、三木さんの考え方です。発生史的に言いますと、腸管が外側に捲れたものが顔ということになる。この人、今日は身体の調子が悪いらしくて顔の調子が曇っているとか、顔色が悪いというのは、胃か腸のあたりで欠陥があるということを意味するのです。胃や腸のところで欠陥があると顔色が悪くなったり曇ったりするのはなぜかと言えば、顔自身が腸管を捲り返したものだということが、顔の表情に該当すると考えれば非常に考えやすいということから来るという言い方をしています。
 概して顔みたいなものは全般的に何が発達してきたものかというと、人間がエラ呼吸をする魚だったときの、エラというのが首からうえになっているということが生物発生史的には言えます。エラの発達したものなんだけど、そのなかでいちばん敏感に発達しているのは三木さんの言い方で言えば舌と唇だと言っています。舌と唇というのが、エラから発達した顔面においていちばん発達しているもので、感覚が良く通っているという言い方をしてします。
 ぼくらはそういうことを数年前にはじめて知って、急に世界が広がった感じがして、なんとなくいろんなことがわかったんです。たとえば人間がキスをする――舌と唇を使うわけですけれど、そういうのはなぜなんだろうなということが、三木さんの説明を聞いているとなんとなくわかるような気がしました。つまりたいへんいろんなことを教えられてびっくりしたというのがぼくの感じ方です。解剖学的に言えば顔というのはエラで、形態学的に言えば腸管が捲り返ったものが顔の表情なんだ、という言い方が、生物学的な発達史から言えば正しい言い方だということになってきます。

4 内臓から発せられる言葉――自己表出

 そうしますと、心の働きというのは、内臓の働きだということになります。
 そういうことがわかって、自分にとって役に立った――役に立ったというより俗な言い方をすれば得したぞと思ったのは、ぼくは自分なりにつくった言語論というのがあるわけです。その言語論で、言葉というのは指示表出――何か対象を見てそのあげくに出てくる言葉の面――と、もうひとつ叫び声のように声が出ちゃうという言葉の面を自己表出と言います。人間の言葉というのは指示表出と自己表出というところからなりたっている。その組み合わされたものが言葉だという考え方をしてきたわけです。
 たとえば、人間の手とか顔とか足というような名詞というのは、指示性が強い言葉で、自己表出性は影に隠れています。動詞みたいに何もイメージは起こらなくても動きだけを伝える言葉は、自己表出性が全面に出てきて、何かを指すという作用が少なく出てきたというのが動詞です。形容詞というのはその中間で、美しいなら美しいという形容詞は、確かに対象を見ていなければ美しいかどうかわからないんですけど、指示表出性もあるんだけど名詞とは違うので、自己表出性も入っていて、半々なら半々になって出てくるのが形容詞みたいなものなんだという解釈にぼくらの言語論だとなります。
 名詞を一方の端にして一方の端を動詞にしますと、後形容詞とか助動詞とか助詞――「の」という助詞は何もイメージを浮かばせない自己表出性が前面に出てきて指示表出性が後ろ側に退いちゃっているのが助詞みたいなものです。「の」とか「は」というのは何も指示しないんだけど言葉には違いないんです。
 そういうふうにしますと、名詞の一方の端、動詞を対照的な端としますと、その中間に形容詞から助動詞、助詞、副詞みたいなものまでぜんぶ入ってきて、そのかに微差ですけれども自己表出性の微妙な差異というのが人間の言葉をつくっているという考え方になります。
 そういうふうに考えてきましたけど、三木さんの考え方というのを数年前にあれしまして、結局心の働きから出てくる言葉を自己表出的な言葉というふうに考えればいいんじゃないかということにはじめて気がつきました。おれは漠然と、言葉は自己表出と指示表出から出ている、その交差したものが言葉だと考え方を出してきたけど、身体的・生理的に言えば、心の働き、内臓器官の働きに関連する表現の仕方というのが自己表出であって、そうではなく感覚器官の働きに関連する言葉の働き方が指示表出なんだと考えれば、これは身体的・生理的基礎というのはおれの考え方に根拠を与えるんじゃないかとはじめて気がつきました。
 ぼくらはそういうことでいちだんと自分の考え方が広がったように思って、とても役にたったんです。びっくりすることばかり、三木さんのことを読むとたくさん書いてありまして、内臓器官の感覚というのが、心の働きと考えれば非常にわかりやすい。もちろん現実的には両方が入り交じって出てくるわけで、どちらかが多いかということに過ぎないんですけれど、そういうことです。
 そうすると、心というのはそういうふうに位置づけること、意味づけることができるということになって、いろんなことがわかるように思えてきました。

5 『24人のビリー・ミリガン』

 それでは心の働きというのにはどういうことがあるかということに入っていくわけです。何から入っていってもいいんですけれど、心の働きをいちばん考えやすいのは、エキセントリックな心の働き方、あるいは病的な心の働き方というものをとりだしてきますと、心の働き方というのは極端になるとどうなって、病的になるとどうなって、成城という範囲だとこうなるということがよくわかるんじゃないかなということで、そういうところから入ってみたいと思います。
 いちばん最近のベストセラーにも入っているダニエル・キイスという人の『24人のビリー・ミリガン』というのが出ています。みなさんも読まれていると思います。これは何かということを心の問題で言えば、一人の人間がいるんですけれどその人間が、この場合には二四種類の人格変換と言いましょうか、多重人格と言いましょうか、二四の人格に別れたところで何かやってしまう。たとえばそのなかの一人の女性なら女性に自分がなりきったときに、レイプをして犯罪者としてあげられちゃうということになるわけです。よくよく調べてみたら、一人の人間が二十四の人格になっちゃうわけです。ジキルとハイドのように二重人格というのはよくあって、あるときある場所での人格とはまるで違う人格になっちゃうものはよく聞かれるんですけど、それが二十四人の違った人格になってしまうという興味深い例なんです。
 これを心の働きからすれば、心の病気、異常の領域に入るわけです。一人の人間が二十四の人間に場面場面でなってしまって、何かその人格になりきったところで何かやっちゃってそれがそれぞれちがっちゃうというのは、異常ないし病気だということになってしまうと思います。特に何もしなければですけれども、犯罪的なことをやっちゃば病気だというレッテルが貼られてしまうわけです。

6 ヒステリー症はなぜ起こるか

 それでは、多重人格になってしまうということを、心の働きの仕方で言えばどういうことになるかと言いますと、それはいちおうはヒステリー症と言われているものがそれに該当すると思われます。心の病としてそれを解釈すればそういうことになります。
 たいていのヒステリー症というのは、ある瞬間あるときに、ふだんとまるで人格が違うということをやっちゃうというのが一般的な例でありますし、病気という領域に入らないことなら、誰でもやるわけです。面白くないことがあったとか、不満があったというと、わーっなんて言っちゃうというのは、誰にでもあることですから、正常であるということと、その瞬間だけおかしい、病気じゃないかという言い方というのもありうるわけですけれども、概して言えばヒステリー症という名づけ方になるわけです。
 そうするとヒステリー症というのは、二重人格というのがふつうなんですけれども、突然なぜ怒鳴りだすのかわからないというような振る舞い方をすることが誰にでもあるわけですけれども、何に乗っ取ってそういうことになるのかということになるわけですけれども、病気的に言えば非常に単純なことです。つまり、かつて空想のなかで自分がなりたいと思ったとか、なってしまったという人格があるとすれば、それがヒステリー的な症状になったときに違う人格としてあらわれてくるというのがふつうの解釈だと思います。かつて空想裡に、自分がこういう人間だったらどうするかということを空想するとか、願望するとか、嫌で嫌でしょうがないけれどこうなったら嫌だなと思うとか、さまざまな自分が考える自分以外のあり方、心のあり方というのを誰でも空想的に持つわけです。そういうふうにして空想裡に持つ人格が、ヒステリー症の場合にあらわれる。そしてその人格に自分がなってしまった瞬間的な作用があるんだという解釈が、病気としてのヒステリー症、多重人格というのはなぜ起こるかということの一般的な解釈だと思います。
 そういう解釈をする以外に解釈の出所がないわけです。もうひとつ、もっと違う解釈をしたいならば、自分の母親なり父親に自分の姿を似せたいと思った。けれども父親なり母親に直接似せることができないので、父親なり母親が考えているだろう人格というのに自分が人格変換してそういう振る舞いをすると考えるか、父親母親のせいにするような理解をするか、自分自身が願望して、こういう人格であったらとか空想している人格になりきっちゃう発作が起こると、それがヒステリー症の発作なんだ。それが多重人格になりうる理由なんだというのが、いちばんもっともらしい解釈だということになると思います。
 もっと深層の解釈というのもできるわけです。フロイトはそのくらいの一般的な解釈では満足せず、もっと深層心理の解釈をするわけです。深層心理の解釈で、フロイト的に言いますとどういうことになるかというと、かつて自分が思春期ないし思春期に入るとき、自分がマスターベーションするときにこういう人間がこういうことをしているという空想をしながらマスターベーションをする。そのときにその人が空想した人格というものがヒステリー症の発作のときにあらわれるというのがフロイトの解釈です。フロイトは核心をもってそう言っています。
 ぼくはあまり実感がないものですから確信は持てないですけれども、それはあたっているんじゃないかと思えるわけです。確信を持てないというのは、ヒステリー症というのは自分では実感的に体験したことはあまりないから、実感でないんですけど、フロイトは確信をもってそういうふうに言っています。それは人々がマスターベーションするときの空想の人格に自分が転位してしまうというのが、ヒステリー症における多重人格のあり方なんだというのが、フロイトの深層心理的な解釈です。この解釈にフロイトは確信を持っています。
 難しいことを言うといろんなことがあります。つまり、人種的というとあれなんですけど、種族的な特殊性とか特異性が入ってきたり、さまざあな要因が入ってきますから、フロイトみたいにはっきりそう言えるかというふうになってくると頗る疑問だということになります。日本人の場合には、そこまで明瞭に言い切るほど、マスターベーションのとき自分と違う人格を思い浮かべるということはない、もっと曖昧なんじゃないかなと思います。しかしフロイトの考え方は嘘じゃないに違いないけれども、それほどはっきりしてくるかなというと、その人の深層心理のもうひとつ奥の深層心理をもう少し探していかないとそういうふうに言えないということになっちゃうんじゃないかなと思います。けれどもフロイトは確信を持ってそういうふうな言い方をしています。これがフロイト的なヒステリー症の解釈になりますし、フロイト的な多重人格の解釈になります。

7 多重人格・ドッペルゲンゲル・臨死体験

 多重人格というのはほんのちょっとだけ様相を変えますと、周辺にまたがるいろんな問題があるわけです。たとえばドッペルゲンゲルということがあります。二重幽霊というのはおかしいですけれど、芥川の小説なんかに出てきますけれど、自分が机に向かって何か書いている。それを自分が見ちゃうという現象を二重幽霊と言ったりして、そういうことがあるわけです。ものすごく怖い体験なんですけれど、ドッペルゲンゲルという現象があります。これは多重人格、二重人格みたいな人格変換じゃないんです。自分で自分が見えちゃうという作用があるわけです。それはものすごく怖いわけです。それも二重人格やヒステリー症ではないんですけれども、周辺を広げることができます。
 するとそれは何なんだろうかということになります。これの解釈というのもヒステリー症と同じで、自分がふたつに別れちゃうという自分の人格がふたつに別れちゃうというヒステリー症の一種だという理解ももちろんできると思います。
 けれどももうひとつの解釈の仕方というのは臨死体験というのがあるでしょう。死に損なって生き返ったという体験のなかに、自分が病気で危篤状態でベッドに横たわって、お医者さんがカンフル注射をしたり看護婦さんが立ち回っていたりという風景が上のほうから見えたという体験を臨死体験と言うわけです。臨死体験というのも自分が自分で見えちゃうという体験に類するわけです。そういう体験というのは、死に損なって生き返った人の体験のなかには一杯あるわけです。それはもっと極端に言いますと、そういうベッドに横たわっている自分を自分が見ているという体験をもっと進めてしまえば、あの世へ行っちゃった。向こう側にはお花畑があったとか、橋の向こうに綺麗な人が立って手招きをしていたとか、肉親とか親父さんみたいのが出てきてお前はこっちへ来るな、帰れと言われたというような、体験はさまざまでありうるわけですけれども、臨死体験もやはり自分が自分で見えちゃうという体験なので、この体験はやはりいちど死に損なったという体験をした人が、しばしば口にする体験です。
 この場合でもヒステリー症と同じで、自分がふたつに別れちゃうという体験でもあるし、あるいは自分の意識がどんどん衰えて、意識の死に近いところまで行っちゃったときに、そういう体験は誰でもありうるんだという言い方もできるわけです。それは意識が非常に衰えた時の体験のなかには、そういう体験があるんだという言い方もできるわけです。
 で、それと類似して言えば、ヒステリー症というのも、空想的に自分がこういうふうになったらいいなとか思い浮かべた人格に転換すると言いましたけれども、それももっと極端に言いますと、そういう自分の空想は無意識の空想ですから、起きているんだけど、正気なのかそうじゃないのかわからない状態で起こってくる空想というふうに言うことができるわけです。すると白日夢の状態で起こった空想という人格に自分が移るのがヒステリー症あるいは多重人格という病なんだというふうに考えることができるわけです。
 こう考えていきますと、二重人格性というのは、病気とか異常というふうにも言えるわけですし、もっと違う解釈をしますとそれは人間の死に近いと言いますか、死とか夢に近い体験のところで起こってくる人格転換なんだと言えますし、それに宗教性というのを入れていくとすれば、それは一種の臨死体験であって、臨死体験を経て人はあの世へ行くという宗教的な言い方にもなっていくわけです。
 宗教家のなかにはしばしば病気で言えばヒステリー症の人がいるわけです。自分にはキリストの例が降りてきたとか、日蓮上人の霊が降りてきたとか言うわけです。この人は二十四ですけれど、誰にでも人格変換できるという宗教家もいるわけです。そういう宗教的な理解の仕方をしなければヒステリー症だ、精神の病として理解すればヒステリー症だということになります。

8 心の病とはどういうことか

 それからもちろん、人間の意識と無意識、夢と現実というものの中間にある人間の精神の状態を主体に考えれば、これは一種の白日夢の夢――起きながら夢を見ているみたいに意識がぼんやりしている状態なんだという言い方ももちろんできるわけです。
 これはいろんなあれがあります。柳田国男という民俗学者がいますけれど、子どものときボンヤリしちゃって、隣の家の庭にある祠を開けてみたら石があった。そして空を見上げたら真っ昼間だけど星が見えた。自分でもこんな意識の状態でいると自分は頭がおかしくなっちゃうに違いないと思ってそれを逃れるわけです。そういう体験を柳田国男は書いています。
 こういう体験というのは誰にでも大なり小なりあるんじゃないかという気がします。ぼくも子どものとき昼間の星というのを見たことがあるように思っています。子どもの時はしばしば、ぼんやりしたそういう状態になることがありうると思うわけです。その場合には夢と現実とのちょうど中間のところにいるわけです。それからまた逆に夜寝てから見る夢で、非常にリアルで現実的な夢を見ることがあるわけですけれど、それはやっぱり白日夢の状態が夢のなかで再現されてくるというのがいちばん典型的な夢になってきます。
 そうするとヒステリー症における多重人格というのは、言ってみればさまざまな人格に自分が転換しちゃうと考えると、病気には違いないんですけれど、人間というのは意識と無意識のあいだで、あるいは昼間の現実感覚と夜眠ってからあとの夢の感覚とのあいだで、両方がまじりあったさまざまな状態を人間はとりうるんだよという理解の仕方をすればちっとも病気じゃないよということになると思います。
 つまり人間の心の働きと感覚の働きの範囲というのはかなり広い範囲に渡っているので、人間はもしそういう状態になる契機があれば、どのような精神の状態――現実感覚と夢の感覚のあいだのどんな感覚もとりうるし、醒めているときの感覚と眠っているときの感覚のあいだのどんな感覚もとれると理解することもできるわけです。
 そういうふうに人間の意識あるいは心の世界というものの大きさを最大限大きく見積もって考えれば、ヒステリー症というものもちっとも病気だとか異常だとかいうことにならなくて、ごく当たり前のことだということになりますし、さまざまな人格に転換しちゃうということがありうるということも別段病気じゃないと言えば言えてしまうところがあります。
 そうすると、そうなってくると非常に難しくなってきて、人間が精神の病、心の病と言っているのは何を指して言っているのかということになるわけです。そうすると少なくとも現在のところで言えば、これこれの理由だからこれは病なんだということは、現在のところはできないわけです。さまざまな人間の心のとりうる世界のひとつの状態なんだと言うより仕方がないと思います。いちばん広く人間の精神の働きをとると、そうとれてしまいます。そういうようにとりますと、人間の種と言いますか類と言いますか、そういうものとしては、大昔から現在までちっとも変わっていなくて、変わっていない意識の世界、心の世界をある場面のある場所を時代時代でもってとっている、その違いだけが時代の違いだということになってしまうと思います。
 もっと変なことを言えば、科学というのは、バーチャルリアリズムと言って、科学的な装置を身につけると、自分がまったく違う世界のなかに入れて、そのなかで自分が触ったり見たりしているのと同じ感覚を体験できる装置というのができるようになっています。そういうことは、最新の科学的な装置だという言い方もできますけれど、逆な言い方をすると、大昔から人間が体験していることの体験のある部分を科学的装置でもってつくることができるようになったという言い方もできるんです。そうすると、人間の科学ができることというのは、人間の可能性の範囲を出、可能性以上のことをできるわけではないということになります。もともと出来ることを、ある装置を使ってできるというのが科学技術なんだという言い方ももちろんできるわけです。
 つまりそういう人間の意識の世界というのは一点に凝縮してしまって、この状態で精神を集中しますとそのときは大昔から植物神経で動いている内臓器官が不規則な動き方になってしまう。そこで精神だけは集中できるということになっていいくわけですけれども、それは意識の世界の取り方だということになります。
 最大限広くとるのと、最小限、一点に集中してそれが人間の意識だととるのと、取り方によって違ってきちゃうわけです。一点にとるという取り方を非常に鋭くやると、植物神経で動いている内臓器官の働きと矛盾してきまして、ある意味でそれを制限しないと意識の集中ができないということが起こりうるわけです。そういうふうに考えると、人間の意識の世界は極少から極大まで、世界としては広くも一点にもとりうるということになっていくと思います。
 そういうふうになっていきますと、人間の世界というのも、これは異常だとか病気だとか言っているのは何なのかと言ったら、要するに病気だと思っているか病気なんだという言い方も出来ちゃうことになります。病気なんてもともとない、人間の精神、意識の働き方の世界の可能性のなかのあるところに偏った意識の偏り方の場所を占めているのが病気だと言ってみたり、異常だと言ってみたに過ぎないんだよということになっちゃうと思います。それだけのことになっちゃうことのように思います。精神の働きの世界に新しいことは何もないですよと言っちゃうと言えちゃうところがあります。だから一点に集中するか、非常に大きな世界としてそれを設定するかということによって、病気であるかないかという言い方も決まって来ちゃうから、なかなか決められないなということになります。
 ただ、要するに病気だと言われている状態というのは、現在の日常生活にとっては非常に不自由な状態に違いないということになります。現在ではなく大昔の日常生活にはちっとも不自由ではなかったかもしれないのです。けれども現在の生活にとって不自由な精神の働きをすると、やはりしばしばお医者さんみたいな人あるいは傍の人から見るとあれは異常だとかあれは病気……
【テープ反転】
……そういう気持ちの働き方で、そういう行動をすると、不自由で、日常生活が不自由になっちゃうだろうなということだと思います。そうすると、不自由でないところまでもっていけば、それで治った治ったということになっちゃうと思います。そういう問題だと理解できるわけです。

9 自閉症をめぐる事例

 最近、そういう例があるんです。上野千津子という人が河合塾かなんかの講演のときに、自閉症というのはマザコンで、母親があんまりかまうものだから自閉症になるんだみたいな言い方をしたわけです。そうすると自閉症親の会みたいのがあって、そこから抗議を受けたわけです。その抗議は、あなまたみたいにマザコンだから自閉症になるといえば、丁寧に子どもを育てたら病気になるというふうになるではないか、そんな馬鹿なことはない。自閉症というのは脳に器質的な障害があるんだと、学会ではそういう呈せいつになっている。それを聞いて自分たちは散々苦労してきたけど、気分的に救われた感じがしている。そういうことを言われて上の千鶴子がそれは自分が軽率に言って悪かったみたいなことを弁解して、注釈と抗議の文章をぜんぶ載せて出したという事例があったんです。
 ぼくからみると両方とも駄目だというふうに思えます。母親が過剰にかまったから自閉症になるなんていうことはないわけです。その手の原因がぜんぜんないとは言いませんが、過剰にかまう母親というのは、たいてい赤ん坊のとき、つまりお腹のなかに子どもを宿したときから、あるいは生まれてから一歳未満のときに、母親がつれなく子どもを使っているんです。子どもが体内にいるのに、おもしろくないと思ったり、授乳するのにおもしろくないと思いながら子どもに授乳したりするでしょう。もし影響があるとすれば母親はその代償として子どもが四歳以上に育ってきてから過剰にかむんですよ。上野千鶴子と言う人は、要するに環境論者なんです。マルクス主義者というのはたいていそうですけど、環境がよくなれば人間がよくなると思ってるんです。
 母親が授乳をしなければ、あるいは授乳に変わる牛乳だっていいですけど、それをやななければ子どもは生きていけないというのは一歳未満のときだけです。誰かがかまわなければ絶対的に死んじゃうわけです。だからそのときの扱いが重要なんです。もし環境が悪いと言うなら、そのときの環境だけなんです。そこがうまくいっていれば、たいてのことは大丈夫なんです。だからそれは上野千鶴子の言うことは確かに間違いです。
 しかし自閉症は気質の病だ、脳の器官に欠陥があるという母親たちの言うこともぼくは間違いだと思います。

10 心の病が治るとはどういうことか

 現在の医学の段階で、脳のどこかに障害があるから自閉症だと言えるほど、現在の医学は発達していません。だからそんなことは言えるわけがないんです。だからそれは間違いです。間違いだからこそ、西武の書店じゃないけど『自閉症だったわたしへ』なんて翻訳書が売れたりするんです。
 どうしてかというと自閉症というのは治るわけです。どういう状態を治るかということは、自閉症だった人が書いているわけだから、手記を読めばはっきりします。自分は外界との連絡とか、人との関係の連絡はとれるようになったと言っているわけです。それはどういうことかと言うと、おもしろいから読んでご覧になるといいんですけど、大雑把に言っちゃうと、自分は自閉症で、自分がやっていることを異常だと思っていないし、自分が言うことも異常だと思っていないんだけど、たとえば何が違うかというと、こういうことは言わなくたって人にわかるはずだと思うと口をきく必要がないと思うから口をきかない。すると向こうから見ると自閉症だということになってしまう。だけど自分はちゃんと感じてるんだけど、こんなことは言ってもしょうがないとか、言っても意味がないと思うと、何も言わないという例がたくさんあげてあります。
 そういうことが自分で次第次第にわかってきて、自覚的に百パーセントわかってきたとなったら、自分は外がわかるようになってきた、という言い方をしています。すると向こうは、ああこの子は治ってきたと言うし、自分のほうもなんとなく、こういうときは黙ってないで言えばいいんだということがぜんぶわかってきた。だからふつうの人のやり方がわかってきた、だから言い換えれば自分は治ったことを意味するんだということを、非常に見事に描いています。
 そうすると治ったということはどういうことかと言ったら、その人の自閉症的な素質が治ったということではなく、素質はあるんだけどふつうの人との連絡がとれるようになった。どうしてかというと、ふつうの人はこういうときにはこういう振る舞いをするもんだということがわかってきた。自分でもどこが自分と違うかということがわかってきた、そういうことに自覚的になってきたら治ったということになるんだ。
 それはその通りで、自覚的になるということは治ったことと同じです。きついことが残っているとすれば、その人だけに残っているわけです。自分が少し我慢して、抵抗感があるけれども、こういうときはこう言えばいい、こうすればいい、ということができるようになったというと、治ったということと同じことになります。現在の段階で、心の病ということが治るということはどういうことかというと、いまの段階だったら、自覚的にその病だという状態がわかってきたということになって、ああ人はこう思うんだ、自分も少し抵抗があるけれどそういうふうに振る舞おうとなったときに、治ったと言えると思います。治ってないかもしれないけれど、治ってないのは自分で抵抗感があるのを我慢すればいいということになります。
 つまり現在のところ、心の病とか異常というのが、そのことに対して自分が自覚的になって通路ができたといいましょうか、一般に正常だと言われている人に対して、通ずるようになったというときに、治ったと言えると思います。ですから自閉症も同じで、器質の病であるかどうかを決定するのは大変なんです。そんなことを決定するほど現代の医学は発達していないですからいまのところわかりません。
 もしかすると一個の細胞が違うだけだとかいうことになるのかもしれません。それは医学がもっと発達すればわかるようになるかもしれませんし、存外器質の病だということが確定できるようになるかもしれませんけれど、いまの段階でそういうことは無理、嘘だと思います。そういうふうに言っている人もいるかもしれませんけれど、定説ではありません。
 それからもちろん、育て方がマザコンだからというけれど、そんなことはないですよ。

11 何が心のあり方を決定するか――生きることの片道決定論

 人間の心のあり方というものを決定する要因というのはふたつあって、ひとつはいま言いましたように体内にいるときと、一才未満のときです。このときの母親との関係、授乳する人との関係、世話してもらえなきゃ生きていけない段階のときの他者との関係がうまくいっているかどうかということと、思春期の入り口にフロイト流に言えば広い意味でのリビドーの異常体験があったかどうかということが少し決定します。しかし大部分は一才未満のときに決定します。あるいは体内のときに決定します。それは人間の心の世界というものを決定的に運命づけます。
 それ以外の育て方で変わるというのは、京都精華大学の教授だったのが東京大学の教授になったくらいの変わり方しか作用はありません(笑)。生まれる前の一年と生まれてからの一年、これはどうしようもないです。つまりもちろん親の責任だと言えば親の責任だけど、親に言わせりゃそんな責任も何もない。亭主と盛んに喧嘩していてそれどころじゃないと思っていたり、経済的に苦しくて子ども育てるどころじゃないのに育てているとか、そうだったんだからしょうがないじゃないか、おれの責任じゃないと言われればその通りで、母親の責任でもなんでもありません。けれども一才未満のときと胎児のとき、うまくいっていれば文句なしということになると思います。それじゃそういう人はかならず心の働きがおかしくなるかといったら、そうは言えないんです。おかしくならない人、わかっちゃう人もいるわけです。ここはおれと違ってたんだ、と我慢しちゃえば治ったと同じです。我慢しちゃえなければ病気になります。
 ぼくがそんなことを言うと、自分が知らないうちに自分の心の運命が決まっちゃうのか、すると一種の宿命論、決定論じゃないか、おかしいじゃないかということになりますが、ぼくはそう思います。片道決定論といいます。それくらい決定的なものです。そんなものは、フェミニストが子どもを育てるのが嫌だから自由にしてくれというくらいの論理で破れるものではありません。もっと根源的なものです。ですからそこは決定論に近い片道決定論です。
 ですから逆に言いますと、精神が異常だとか病気だと言われる、病院に入っている人の一歳までとか体内にいたときどうだったかということを聞けば、かならずそれは育てた人あるいは母親との関係が必ず異常です。百パーセントそうです。けれどもそういう人は必ずおかしくなっちゃうかとういとそんなことはないんです。どうしてかというと、人間の心の世界というのは可塑性があるというか、それを超えていくという自発性があります。人間の精神は宿命を超えていこうとしますし、自分の能力を超えていこうとしますし、性格を超えていこうとします。そういうのが人間ということです。人間が生きるということはそういうことですから、そういう育て方をしたら必ずおかしくなるかと言ったらそうはならないです。しかし逆に言って、おかしくなったと言われている人は、百パーセントそこが間違っています。
 育て方はよかったって悪かったって大したことはないんです。貧乏かとか金持ちかとか、そんなことは大したことないんです。だけれども一才未満の育て方と、胎内にいたときの環境は、決定的なものです。それを人間は超えていかなくちゃ行けないということが、それぞれの人が持っている宿命であるわけです。自分の性格に自己嫌悪を持たない人というのもいるわけで、それがいちばん幸せな人です。しかしある部分だけは誰でも多少は自己嫌悪を持っているわけです。嫌な性格だなおれは、と思っているわけです。それを自分なりに直そうということはいつでもあるわけです。それがその人の含み、陰影をつくるんです。

12 性格的な葛藤と人格的な陰影

 「あいつはどこか暗いなあ」というのはそれなんです。その人が、嫌だな嫌だなと思っている自分の性格に対してそれを直そうということが気にかかってしょうがないみたいな人は、たいてい暗い人じゃないでしょうか。明るいなという人はそういうのが平気な人です。
 暗いなというのも決して悪くないと思うんです。人間の含みとか陰影と言われるものがどういうふうにできるかというと、そうやってできるんです。嫌だなと思っていることを超えようとする、人には見えないけれども自分なりにしているという性格的な葛藤が、うまくいっているときにはその人の人格的な含みになって、なんとなくあの人は陰影のある人だな、となります。陰影が濃くなっちゃうと、あいつ暗いな、ネクラだなというふうになるわけです。
 ぼくはネクラが好きです。この数年ネクラじゃない人もいいなあ、うらやましいなと思うようになりましたけど、前はネクラじゃなきゃ人間は駄目だと思っていました。だから太宰治は、人間は暗いうちは滅びないんだという言い方があって、好き嫌いがあってネクラが好きだというのもあるわけです。それからネクラまでいかなくても陰影がある人がいいなあというのもあるわけですし、ほがらかきわまりない長嶋みたいのがいいという人もいるわけです。もちろんぼくも長嶋はいいと思いますけれど、物足りないとも思いますね(笑)。それは人様々です。
 そのように、こうだったら生まれた時とか、一才未満がこうだったからこうなるということはないので、それはやはり葛藤するのが人間で、超えていくのが人間ですから必ずしもそうじゃないんですけれども、逆は必ず真です。おかしいと言われて入院しているという人だったら、必ず間違いなく百パーセントそうです。それは育て方なんていうことじゃ治らないんです。お母さんという人はそれを育て方で補おうとするわけです。そうすると非常に丁寧すぎる育て方をするわけですよね。環境論者というのはウカウカと、だからマザコンになっちゃう、自閉症になっちゃうという言い方をしますが、それはぜんぜん嘘ですね。そんなことはありません。そのときにうまくいっていれば、あとはぶん殴ったりしようがそんなことは関係ありません。一才未満のときにほんとうに好きで心から可愛がってというふうにしてたら何をしたってたいへんよく育っていくに決まっています。
 だけどフェミニストが辛いこともわかります。母親が辛いことがあると、なんとかしてそれを補おうとして過剰に丁重に育てるということをやるわけです。けれどもそれはいいことはないという結果は出てくるわけです。
 だから、この人は二十四人の人格に変わっちゃうというのは珍しいんじゃないでしょうか。たいていは二重人格だったとか、そういう変わり方はあるわけですけれども、二十四の人格に変わっちゃうというのは、一才未満と思春期に入り口のときに、たぶん性に関わることでそうとうひどい目にあっているということがあるじゃないかとぼくは思います。それで二十四の人格という人は滅多にいないですから、多重人格になるというのは極めつけのヒステリー症を生じてしまうということが、起こってくるわけです。

13 なぜ同性愛者が増えているか

 あともうひとつ、現在的な意味を持っていることで、心の働きということで言いますと、いわゆるレズとかホモとかという同性愛者というのが、日本でも増えてきましたし、西洋では潜在的に何人に一人というくらい増えてきています。なぜ増えてくるかということにはふたつ理由があります。ひとつは、性的な解放ができるようになったということがひとつあります。第なり小なり人間が、素因的にも、肉体的にも、精神的にも、両性的ですから、どちらかが80パーセントでどちらかが20パーセントであるというのが、あり方です。そう考えますと、解放されれば20パーセントで振る舞う時も、80パーセントで振る舞うときもありうるわけですから、それは解放されればひとりでに増えていくということがありうるわけです。それがひとつの理由だと思います。
 もうひとつの理由は、1才未満の育て方というのが、駄目と言いましょうか、いい意味でも悪い意味でも、いまは日本なんかでも食う米がなくて毎日夫婦喧嘩ばかりしていたということはないわけです。するとそういう意味あいでは、いまはみんな同じで、どんな母親でも同じ育て方でできるようになった、育て方が均質化してきたということがひとつと、もうひとつはかまわなくなったということだと思います。昔だったら慈母とか悲母と言ったくらいに、金はなくても子どもがかわいくてしょうがなくて、一才未満の子を一生懸命抱っこしておっぱい飲ませて育てたというような育て方を、いまの女性はしなくなっているでしょう。どのくらいかはするけどあとはどっかに預けちゃうとか、誰でも同じようにとか、極端な例で言えば鍵締めて遊ばせておいてどこかへ行っちゃうとか、母子の絆というのを、他の人が代用できるようになってきたということもあると思います。けっきょくそのふたつの原因があると思います。
 そうすると、ひとつはいま言いましたように、一才未満の育て方ということが作用します。それは女性と男性は何が違うかということになります。根本的に違うのは一カ所しかありません。胎内期、授乳期に、精神の問題でいえば、子どもの方は男の乳児であろうと女の乳児であろうと、母親のおっぱいが世界であって、母親が男役で、自分が女役であるとなるわけです。男の子はそのままいったって性の対象を変えることはないのです。思春期になっても女の子が好きとなっていけばいいわけです。けれど女の子はそこで、自分が無意識の女役をしていて母親が男だったのが、ある時期から自覚的に母親が女役に変わるわけです。
 するとそこのところで――フロイト的に簡単に言いますけど――いままで母親が男だと思って育ってきたのに、それが女だった。そこでもって、愛情を注いでいたとしても、そこで同性反発と憎悪に変わるというようなことになってきます。フロイトの言い方をしますと、女性においてエディプスコンプレックス――父親に対する感情が母親と同じようになってきて、母子で一種の反発が起こるという関係――以前に、男だと男だと思っていた母親が、あるとき女だということがわかったということの衝撃というのは、女性においてほんとうはひじょうに強く潜在的に残っています。そのことが女性を、精神の振る舞い方でもって複雑にする要因だとフロイトは言っています。
 ですからなんと言いますか、男の子からすると、女の子は何考えてるかわからない。女の子だと思っているとなんか男みたいな気持ちの働き方をするし、いつになってもわからない、難しいぞと思うのは、消えたように見えるエディプス以前の、母親の性が自分のなかで転換されたという潜在的な意識が残って、それが時に応じて場面によって、エディプスコンプレックスが出てきたり、そうじゃなきゃそういう前的なものが出てきたりするから、それが女性の精神生活を非常に複雑にしている要因だという言い方をフロイトはしています。
 男の子ははじめから、相手は男でと思っているだけで、乳児を過ぎたら女じゃないか、その延長線で女だといえばそれで過ぎちゃう、一回切りの転換です。女性の場合には二回の転換がかならずある。それが女性を複雑にしているという言い方をしています。
 同性愛患者……患者っていうと怒っちゃうから言わないことにして、同性愛者というのはどこで生じたかというと、一才未満と前思春期までにおける育ち方というのが、大体において先進国では均質化されてきたということが同性愛者を多くしている要因だろうなと思います。それからもうひとつは、一歳くらいにおける母親の関与が薄かったり、育て方における男性と女性の違いがなくたっていいわけです。昔ながらの女の乳児と男の乳児とは違うんだよ、リビドーが違うんだよ、ということがなくて、他人が育てたって同じようになってきちゃったんだから、同じようなものなんだよということになってきたと思うんです。そのふたつが先進国において同性愛者が増えてきた理由だと考えます。それを防ぐことはできないとなっていると思います。

14 同性愛者の存在理由

 それで、同性愛者の存在理由、存在価値はどこにあるんだというと、それについて唯一納得のいく理解の仕方をしている人は、フーコーという人の理解の仕方です。同性愛者の存在にはどういう根拠、意義、意味があるのかということについて、フーコーは、異性愛においては人間は対であるということが大きな単位になっていて、その家族、家庭が、社会のなかで意義を持つか持たないかという問題に還元できる。しかし同性愛というものの意味は、一人一人、男一人女一人というものの存在が、社会に対してどういう意味を持つのか、どういう社会的な連帯が可能なのかということは、同性愛者の存在によってはじめて意味を持ちうるということになってきた、それが同性愛の存在理由なんだ、ということです。
 つまり個々の男または女というものが、共同社会に対してどういう意味を持っているかという意味の持ち方というのは、同性愛者の出現によってはじめて人類が体験する問題なんだという言い方をしています。いままでだって同性愛者はいるわけですけれども、そうではなく社会的な意味として、同性愛というのはどういう意味を持つかといったら、やはり個々バラバラの一人一人というものが、社会に対してどういう意味を持つかということが、はじめて全社会的問題として提起される、それが同性愛者の意味なんだという解き方をフーコーはしています。
 これはやはり社会的存在としての同性愛者というのに思想的意味を持つとすればそういう問題だと思います。フーコー自身は同性愛者であるし、エイズで死んだと言われています。自分でも一生懸命考えたんだと思いますけれど、そういう言い方をしています。
 この問題に対して日本の浅田彰というのは、ゲイ運動に呼ばれて出て行って何を言っているかと言ったら、「ゲイは少数派だ」と言っているんです。マジョリティというのがあって、マイノリティというのが同性愛社の集合だ。マイノリティというものが全社会に対してどういう意味をはらむかということが同性愛者の問題だ、と言っています。そして、自分の体験を「彼」という言い方で語っていますけれども、ぼくはこんなものは意味がないと思います。それはフェミニストがよく言う言い方と同じで、少数者というのは同性愛者でなくても沢山いるわけですし、少数者について言うなら沢山の少数者について言わなくちゃいけないわけです。そんなことは効果の問題を言っているだけで、同性愛自体の意義でも何でもないわけです。こんな言い方だったら何も言わなくたって同じで、意味はないわけです。だけどそういうかたちでしかしていません。これはやはりフーコなんかと大変な違いです。やっぱり、ひとつの自分の思想をつくっちゃいて、個々の人間が共同社会に対して直接的にどういう思想的意味を持つかということが、同性愛の問題の要なんだということを言っています。これは現在はじめて大きな問題として出てきたという言い方をしています。それはその通りだと思います。

15 同性愛ということがはじめて社会的意味を持ってあらわれた

 ただ、同性愛者というのも心理的、生理的に言うなら、大昔からあったわけです。それは生理的にあるとかそれだけの問題なんだけど、そうじゃなくて社会的存在としての意味というのははじめて出来たという言い方をしています。それはそのとおりなわけです。
 これは要するにマルクスが、水と空気は使用価値はあるけど交換価値はないという言い方をすると、馬鹿なやつが、昔から水なんか売ってるやつはいたじゃないかということを言うやつがいる。もうぼくはこういうかなわないなと思うわけです。利巧ぶった馬鹿ですけどね。そうではなくて、資本制的な商品循環のなかで、はじめて水が瓶に詰められて商品として製造されて売られたというのは、七十年を前後するときに日本の社会ではじめて売られたのです。水がはじめて交換価値を持ったということです。この意味を考えなきゃ駄目だぜと言っているだけど、もうああいう連中はしょうがないわけです。資本制的循環のなかで、水が商品として出てきたのはいつかといったら、ぼくの考えでは七二年を前後するところで出てきたと言っているわけです。いまに空気もそうなるでしょう、ということです。そうすると……同性愛者も同じで、それは昔からあるわけですけど、フーコーが言いたいことは、同性愛ということがはじめて社会的意味をもってあらわれた、そういう問題なんだと言っています。これはやっぱり、ぼくはある程度止めようがないんじゃないかなというふうに思います。つまり先進的な社会では止めようがないんじゃないかなという気がします。
 もちろんその問題として、性の伝統的な様式が決めるんでしょうけれど、それはある程度止めようがないんじゃないかなと思います。日本もいまよりももっと増えるだろうと思います。たぶんいまのところでは、十のパーセントはないとおもいますけれど、アメリカとか西欧では数十パーセントのパーセンテージであると思います。日本もだんだんそういうところに入っていくだろう、それを止めることはできないでしょうと思います。ただ要するに、無理して入ることはないよと思います。
 それに付随してくることはエイズということですけど、これも段々増えてくるだろうと思います。これはアフリカ的起源を持っているわけですけれども、だから必ずしも新しい文明が……というわけでもないんですけれども、ただエイズにおいて性の区別を破壊する作用をしつつ、先進的な社会に浸透してきているということです。これもぼくは避け難く増えてくると思います。これもいまのところ日本ではパーセンテージが一桁違うと思います。
 それは何が違わせているかというと、性の様式が違わせているんだと思います。性の様式、あるいは性の解放が日本では欧米ほど進んでいないという言い方もできます。アフリカ的段階というのから、日本というのは面倒な国で、アフリカ的段階とアジア的段階というのが融和したところですから面倒くさいところがあるんですけれど、そういうことも作用するかもしれません。でもやはり増えていくんじゃないかと思います。
 この問題は元を正せば性の問題から発しているように見えながら、あるところで心の問題ということに関連したときに、先進社会に広がっていく要因ができたということになると思います。これをずいぶん増えていく一方である。これは同性愛者が増えていくのと同じで、これも防ぎようがないんじゃないでしょうか。女性が解放されていけばいくほど防ぎようがないということになっていきます。

16 これからの社会と心

 ぼくは必ずしも女性は子どもをちゃんと育てたほうがいいよみたいなことは言わないわけです。代理ができるようになったんだから代理の人がやったらいいじゃないですかというふうに言います。一才未満までだよ、と言うと、女の人は一年間子育てにへばりついていろということなのかと怒られるわけですけれども、そんなことは勝手で、一才未満のそれと、胎内における子どもの育て方というのが、その子どもの生涯を決定しますよという理論は動かしようがないと思います。これは社会的に有利であるか不利であるかということとは関係ないので、動かしようがないと思います。
 けれどもそれができなくなっちゃうだろうということは文明の進み方からやむをえないんじゃないかということだと思います。経済的には解放されたけど、男女同性の明晰な区別、曖昧ではあったけれども八十パーセント二十パーセント、九十パーセント十パーセントであったけれども、それがだんだん五十パーセント五十パーセントに近づいていくよということは避け難いんじゃないかとぼくは思っています。
 避け難いと困っちゃうという人がいるかもしれませんし、生涯特殊出生率が下がる一方で日本国は衰退するんじゃないかと心配する人もいますけれど、ぼくは政治家でも政局担当者でもありませんから、そんなことはちっとも心配しないので、なるようになるというだけでけっこうなことじゃないですか。解放される人がいっぽうでいて、経済的に食べ物がなくなっちゃうならなくなっちゃっていいじゃないですかとぼくは思っていますけれど、いろんな考え方があると思います。
 けれども考え方いかんに関わらず、心の問題としてこれは動かしようがないよという問題もあると思います。これがヒステリー症、人格転換ということと、同性愛というこのふたつのことは、心の問題としてはとても重要なことです多重の人格転換になるというのは、異常だとか病気だという範囲ではなく、器質だという範囲でいえば、社会が複雑になるほど、個々の人間は多重な人間に自分を振り分けないと生活していかれないと段々なるわけです。ですからこの問題はあまり病気にしない、異常ということにしないで、それができるほうがいいに決まっていると思います。職場にいるときと、職場が終わってどこかにふけるやつとはぜんぜん違う人格で済んでれば二重人格くらいで済んでいるわけだけど、そうではなくさまざまな職場での局面で、多重な場所に対応しなきゃいけないということはこれからますます増えていくと思うんです。それに対して病気や異常にならないで適応するというやり方をできるようになったほうがいいに決まっているとぼくは思うんです。それは現代においてとても重要なことのように思いますし、同性愛ということも、自分がそうであるかないかということとは別として、自分の子どもがそうであるかないかという問題はいまよりももっと切実になって、もっと度合いが増えていくだろうと思うわけです。これに対応することがどうできるのか、対応して驚かないしそれでいいんだという考え方と、これはまずいから、私はそういう育て方をしないとか、それも人によって違うけれども、現在とても大きな問題としてそれは存在していきているんじゃないかとぼくは思います。
 このふたつは心の世界の問題をとりあげる場合に欠くことができない問題になっていくわけです。それ以外の問題は、古典的な問題でいうと躁病とか鬱病とか、分裂病というのがあります。それはやはり、数としては増えつつあると思います。これからも社会の局面がいろんな意味できつくなると増えていくと思います。しかしそれと同時に、非常に深い鬱病だとか、躁病、分裂病という人は減っていきつつあるんじゃないか。だいたいぜんぶ境界が曖昧になりつつありますし、異常と成城との境界も曖昧になっていくかたちで、これからも増えていくだろうということがいえると思います。そういう意味あいでは、古典的な精神の働き方の特徴の区別というのは、だんだん曖昧になっていきつつあるということがいえそうな気がします。
 ただ、この境界を超すと正常だしこの境界を超すと異常だということになるから、その境界線に対しては、さまざまな局面で、非常に自覚的で意識的になったというやり方がいいんじゃないかと思います。そういうことを会得することができたらいいんじゃないかと思います。そういうことで昔からの古典的な区別は非常に少なくなると思います。それにかわるものとして、いま言いましたような、大きくいえばヒステリー症に入っちゃう問題――新興宗教における人格変換の問題が増えていくとか、同性愛とかエイズとかの問題が増えていくというかたちで、それに代わるように現在出てきているということになります。その対応性とか柔軟性ということが精神の世界の柔軟性ということになりそうな気がいたします。

17 いかに休むかという課題

 そのためには、今の段階では休みというか憩いというのは、自分でつくるより仕方がないように出来ているんですよ。職場の言う通りにしていると、有給休暇はなかなかとれないということになるんですね。そこは自分なりの工夫で憩いというのをとっちゃうこと以外に、憩いでもって防ぐことはなかなかできないと思います。それは自分で憩いをつくって防いじゃうという防ぎ方はとてもいいことのように思います。あまり言うこときかないほうがいいと思います。
 とにかくきついことばかりが出てくるわけです。そしてぼくの理解の仕方では、そういうことが楽になるということはありえないと思っています。つまり都会はなくて田舎ばっかりになっちゃえばいいし、燃料は牛の糞を使うのが理想的だと言われると、理想的かもしれないけどそうはなりません、逆にしかならないですよということだと思います。人間というのはその逆にしかならないものにどうやって対応できるかという課題はどこかで強いられる。するとどこかで休んでよしやろうじゃないのといく以外にぼくはないと思っています。それはまた人間には可塑性がありますから、環境は乗り越えることができるさ、環境が複雑になったら人間がへばったということはありえないのよ。環境というのは、いま言いました心の病に対してもいい面と悪い面とあって、昔だったら食うものに困って、一才未満の乳児にしょっちゅう怒っているけれど、子育ては一生懸命やる母親が全世界ですから、そういうふうに育った子どもというのは全世界がいつだって面白くないことで満ち満ちているという育てられ方になっちゃうから、それを変えるというのはものすごく難しくなっちゃうんです。いい面も悪い面もあるというのは、いい母親に育てられたら、あとはなんの心配もいらないという育ち方になりますけど、悪ければそれが全世界になっちゃいます。食うに困ることはないし、自分で育てなくても職業の人に育てられるとなると、いい面も悪い面もあるわけです。すると、みな同じになっちゃうよ、性の意識としても同じに近くなっちゃうよ、そしてそれを弱点と見るなら弱点もたくさん出てくるわけです。
 しかしそれは仕方がなくて、それを乗り越えていかなきゃ人間は仕方がなくて、ここで止りということにはぼくはないと思います。人間はそれに適応する以上にそれを積極的に乗り越えていく。乗り越えられないところは、誰がなんと言おうと休みをつくっちゃって、憩いながら元気を出してまた行く以外にないんです。それ以外のエコロジストが言うような解決法があるというのはぼくは絶対信じていないんです。やはりそれを乗り越えていくとい解決法しかないとぼくは思います。
 その心の世界のいちばん大きい問題は、ふたつの問題にだいたい帰着するんじゃないかと思います。そこの問題がうまく出来ていけば、たぶん現在、あるいはこれから以降起こってくる問題についてはかなりな程度の適応性というのが可能になるんじゃないか、あるいは自分の時代は別としても、自分の次の世代には適応というのを考えることができるんじゃないのかとぼくには思われるわけです。
 精神の世界を、精神の世界それ自体として取り出すということを厳密にしてとりだすというのもいいんですけれども、意識のありようというのは動物的な性からどういうふうに代わっていくかということを言ってみればいいわけですけれども、それよりもそれが現在において何に当面しているかということのほうが、喋るのにいくぶんかでも参考になるのではないかと思ってそういう話にしてみました。これでいちおう終わらせていただきます。