1 司会

2 社会現象になった3つの宗教

 吉本です。
 今日は社会現象としての宗教というふうな表題になっておりますけれども、内容からいうと社会現象になった宗教というふうにお考え下されば一番よろしいと思います。それで、宗教が社会現象になって出てくるというのはどういうときかということをまず考えてみますと、いずれにせよ、宗教の教祖になっている人が混乱しているか。つまり生きにくい、悩み多い時代であるか。あるいは何といいますか。信者になっている人が悩み多い時代であるかということになるわけです。つまり、教祖になった人は個人的に悩み多い生活をしていて、その挙げ句に宗教的に開眼するみたいな形になるか。あるいは個人に着せられないで、要するに社会全体が何か大変分かりにくくて、生きにくい時代になったということが社会現象として宗教が新しく現れてくる非常に大きな基盤だと思います。
 いずれにしても、宗教というのはどういうふうに作り上げられるかといいますと、大抵は自分の考え方、あるいは教義というものを神話に結び付けるとか、あるいは伝説、伝承というものに結び付けるとか、あるいは既成の、日本は仏教が盛んですけれども、仏教とかキリスト教とかそういうものの教義に結び付けて、自分はその後継にあたるというような形になるか。いずれにせよその三つしか宗教の作られ方というのはないわけです。
 今、社会現象になっている宗教もその三つのいずれかのうちに属するということは間違いないことなので、僕は象徴的に調べたといいましょうか。調べたというほどではないですけれども関心を持って、どういうことを言っているのかとか、どういうあれなのかということで今、社会現象として現れている宗教でちょっと首を突っ込んで読んで考えてみたみたいなものがあります。それを今日少し申し上げてみたいと思うのです。
 その三つというのは、一つは幸福の科学という宗教があります。それから、もう一つは何といいますか。桜田淳子とか山崎浩子とかそういう人たちが入信者になったということであれになった統一教会という原理主義。これはキリスト教の一つの派だということになるわけですけれどもそういうものがあります。もう一つは、麻原さんという人がやっているオウム真理教というのがございます。これはやはり仏教の教派に、そういう系統をつければなると思います。その三つというのが、新しく皆さんの目にも耳にもとても響いている社会現象になった宗教だと思います。
 この三つの宗教を象徴としまして宗教はたくさんあるのですけれども、それがどういうことを言っているかということをまず申し上げてみたいわけです。
 これは、例えばこういうことがインチキなのだ。例えば幸福の科学でみますと、小川知子という女優とか、景山さんという直木賞をとった小説家というのが信者になっていて、講談社の「フライデー」か何かが教祖を神経衰弱になって病院に行ったことがある人だというふうに書いたとか、書かないとかということでデモをやったり何かして、我々の耳目に触れるようになったわけです。けれども、そういうところからいってしまうと、つまり社会現象としての解釈はそれでいいのですけれど、どういうことを言っているのだということが全部抜きになってしまうわけです。それが、皆さんのところに伝わっていて、これはいずれにせよ、それに批判的であるにせよ、同感的であるにしろ、何を、どこが、どういうところで、どういうところを言っているのだということを問題にしない限りどうしようもないのだと思うのです。
 しかし、えてしてこの社会現象になった宗教というものを、何を言っているのかとか、どういう教えの内容なのだということではなしに、こういうことでデモをやったりしたとかと言って、そのデモのやり方が気に入らないとか気に入るとかいうような次元でもって済まされてしまう。僕はそういうのはやはりダメなのではないかと思っていますから、簡単ですけれども内容を申し上げていきます。

3 幸福の科学――『太陽の法』を読む

 一番初めに幸福の科学のことを申し上げますと、これは大川隆法さんという人が教祖で始めた宗教なのです。この人の本はやはり随分あるのだ。小さな本を含めて百冊くらいあるのではないかと思うのです。しかし、何を読めばいいかというと『太陽の法』というのを読めば僕はいいと思います。それ一丁を読めば大体この宗教が何をしているのか。どういうことをしようとしているのか。何をしようとしているのかというのはとてもよく分かるというふうに思います。
 大川さんの宗教的な考え方の特徴というのは、要するに何といいますか。人間というものの人間の精神。これは宗教ですから霊というような呼び方をしています。霊とか魂とかいう呼び方をしていますけれども、そういうものを三次元以上になると時間の中を自在に通れるのだという考え方が非常に特徴的だというふうに僕には思えます。
 だから、例えば大川さんの『太陽の法』の中の言葉でいえば、自分は二千年くらい前にはイエス・キリストの指導者だったのだ。指導霊だったのだ。自分がイエス・キリストを指導していた。ところで現在はイエス・キリストは自分を指導してくれたり参考にしたり、示唆を与えてくれたりしている。つまり、そういうふうに何千年隔たっていようと、四次元以上の霊というのは時間の中を自在に通れるのだという考え方をとっています。
 これが、大川さんの幸福の科学の非常に大きな特徴だと僕は思います。四次元以上の霊というのは例えば何か。四次元から十次元以上まであるわけですけれども、大ざっぱに言ってみますと五次元というのは要するに四次元以上。つまり、三次元空間と、それから時間の中を自在に通れるということと、それにプラス人間の心といいますか、精神といいますか。それが自在だということが五次元の霊の特徴だ。それに対してまた一つ神としての知識というのがそれに加わったものが六次元の霊だ。それで、七次元の霊になるとそれに他のために、人のために、人の利益のために働くとか、人のために尽くすとかいうそういうことが自在に出来るというのが七次元の霊である。八次元になるとそれに対してまた一つ慈悲。仏教でいう慈悲ですけれども、慈悲の心をそれに加えたものが八次元の霊だ。九次元の霊というのは、それに対して宇宙の全体の意思みたいなものをよく感じられるのが九次元の霊だというふうに言っています。
 そして、それよりもっと先。十次元以上の霊というのがあるわけだけれど、それはもう地上の人間の体とかそういうものとはかかわりなく、霊だけの世界で自在なもので、それは三体の意識というふうに呼んでいますけれど、地球の生物について、生物の何といいますか。生物の運命についてといいましょうか。そういうのに対して、よく考える考え方とか。それから、女性に対してよく考える考え方とか、あるいは地球の生命に対してよく考える考え方というものが出来るのが十次元以上の霊だというふうな言い方をしています。
 これが要するに、宗教を霊として幸福の科学の大川さんが主張しているところの非常に大きな特徴の一つです。それから、もう一つはそれでどうするのだ。どうするのが目的なのだということになるわけなのです。それに対して大川さんは、高橋信次というやはり霊能者が新興宗教をやっているわけですけれども、その人の考え方の系統を継いでいっている。
 そこに行きますと割合に仏教的で天台止観みたいなもの。仏教でいう八正道というのがあるわけです。その八正道というものに、それぞれに人間は人を愛するという愛というのを段階的に付け加えて、そういう気持ちを獲得してそれを守っていくというのが正しい生き方なのだというところが、現世に対して、つまり現実の世界に対して人間はどうしたらいいかということも、大川さんの幸福の科学の非常に大きな教義の眼目になるわけです。
 例えば八正道というのは、正しく見るとか、正しく語るとか、正しい業とか、正しい命とかいうふうにそれは八つあるわけです。大川さんは普通の親子兄弟とか、恋人とかそういうものの間にある愛というものと、それから正しく見る、正しく語るという段階の仏教の考え方と結合してあります。つまり、最初は正しく見る。正しく語るということとそれから、親子、兄弟、恋人とかそういう間の愛というものが結びついたものが一つの段階なのだ。その次に、もっと高度な愛というものを獲得していったときには、正しい業というものと正しい運命ということでしょうけれども、それと他人を生かし、また他人を導く愛というものが結合することが出来れば、それは、次の段階の人間のいかに生きるべきかという倫理のあり方だというふうに言っています。
 その次が、正しく思うとか正しく進むとかという考え方があるわけです。それからお互いが神の子であるというような自覚のもとにおける愛とか結びつくことが出来て、またそういうふうになれたら、そういう気持ちになれたら、それは大変高度な段階で、そういう愛を行使したり自分で持ったりするようになるというのが理想なのだということ。最後には、やはり正念、正定といいまして、仏教でいえば悟りの段階なのです。その悟りの段階と神仏とが、悟りの段階における愛というものと神仏とが結びついたところが最高の段階で、そこまで達すれば幸福の科学の愛と、それからいかに生くべきかということの結びつきとしては最高の段階なのだというのが大川さんの考え方だと思います。
 これは社会現象になった宗教の皆特徴でありますけれども、大川さんも最初は悩みに悩んで、つまりいかに生くべきかということに悩みに悩んでいるときに、そういう何か一種天上からの、つまりどこかから神の声みたいなものが聞こえてきて、「おまえ、そんな勤めなんかやめてしまって、本当に人間の生きるべき道を探すためにやらなければいけない」というふうに言われたというふうに言っています。つまり、そういうふうに啓示をどこかからうけるといいましょうか。外から、どこかから声が聞こえてきてとか、姿が現れてきてお前はこうせい、ああせいというふうに言ったということが宗教を始める動機になっていて、大川さんの場合もそうだと思うのです。だから、そういうふうになっています。
 宗教家にはそういうタイプの人が多いわけです。だから、つまりこのフライデー事件のときに、要するに大川さんが神経衰弱になってどこか病院、お医者さんに相談に行ったことがあるのだといって、それがそんなことないとかいって争いになったりしていますけれども、そんなことは別に恥ずかしいことではないと思います。つまり、神経衰弱になってお医者さんに相談に行ったというのは、いかに自分が悩みにおいて本格的だったかということを示しているかもしれないので、そんなことはちっとも恥でもなんでもないのに、どうしてそんなことないというのかと僕には不思議です。
 大川さんも、いずれにせよ何か天からの啓示をうける。やはり啓示をうけるというか要するに医学用語でいえば幻聴が聞こえるということで、もっといえば作為体験ということです。医学用語でいえばそうですけれど、宗教体験、宗教用語でいえば天からの啓示をうけたということなのです。そういうことが大川さんは自在になって、自由にいろいろな人の霊を呼び出すことが出来るというふうに修練したらそういうふうになったというふうに『太陽の法』には書いてあります。

4 宗教的体験の基礎づけとほんわかした気持ちにさせる力 

 少しおかしいな、と思うこともあるわけです。例えば天御中主(あめのみなかぬし)の霊を呼ぼうといって呼んだら出てきたというのですけれども、僕の神話の理解の仕方では天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)というのは抽象的な神の概念で、実在ではなくて、人間的でもないしそういうあれではないのです。要するに観念なのです。それが降りてきたというのはおかしいじゃないかと思うのですけれども、でも、大川さんはそういうふうに言っています。
 いずれにせよ幻聴体験といいますか、啓示体験といいますか。それを経て今の八正道、仏教天台宗の八正道というのがあるわけです。八正道というものとキリスト教的な愛の段階、愛という概念と非常によく結び付けたというのが、大川さんが考えた考えどころだったと思います。
 もう一つ、要するに四次元以上の霊というのを考えたというのは考えどころです。大川さんが考えたところで分けて結ぶ四次元。時間の中を自由自在に人間の四次元以上の霊というのは行き来出来るのだという発想が大川さんの特徴だと思います。
 その二つが多分大川さんの、つまり幸福の科学の教義の特徴なわけです。皆さんが僕の説明をお聞きになってもこんなのでどうして宗教なのだとか、こんなの信じられる話ではないではないかとお思いかもしれないけれど、大川さんの『太陽の法』というのを読んでみれば分かります。僕みたいに信仰なんかないやつが言っているからつまらなく言っているわけで、大川さんが書くとやはり人間というのはほんわかしてきて、大川さん自身も中道とか中庸ということ。まあ、極端に走らないということを言っていますけれど、極端に走らないで人を幸福にし、自分も幸福になるというのが幸福の科学の一番の眼目なのだということを説いておられるわけです。その説いているのを読まれると、読んでご覧になるといいですけれど、やはりさすがだなと思うことが僕らにもあるので、つまり読んでいると何となくほんわかしてきます。ほんわかしてやはり自分も愛情をもって、あまり極端なことは考えないで愛情を持って、それから幸福感を持って生き、そして人にもそういう幸福感を与えるのがいいのだというふうに思わせるちゃんと雰囲気を持っています。
 つまり、それがなければ一つの宗教の教祖というふうにはならないわけです。教祖というふうに名乗っているのは、いずれにせよ自信は持っているわけです。それで、どこが自信かということになりますと、やはり大川さんは天から啓示をうけたというのが自信であって、それから後は、頭で八正道と愛の段階を結びつけるというのは自分で考えられたでしょうし、また四次元以上の霊。四次元の霊は時間の中を自由に行き来出来るるのだという考え方をやって、四次元から十次元以上の霊までこしらえたというのがあるのでしょう。
 しかし、根本にあるのは啓示をうけてこの啓示だけは確かだという確信があることと、それから、やはりそれなりの自信があるから何といいますか。人に説くときに説いたものが何となく読む人をほんわかさせるといいますか。幸福感を持たせるだけの筆力が僕はあると思います。つまりお読みになればすぐに分かりますし、これは文庫本で出ていますからすぐに読めますから是非ご覧になったほうがよろしいと思います。
 つまり、フライデー事件で幸福の科学を見ないで、やはりこの人は何を言っているのだということでやはりさすがだと思う。どこがさすがだと思えるかというと、僕はそこだと思います。つまり読む人にほんわかさせるといいましょうか。ほんわかした幸福感を与えて、やはりこういうのは大切なのだと思わせるものがあります。それが大川さんの特徴ではないでしょうか。自信ではないでしょうか。ご自分が作った教義だけをいったら、あほらしくてこんなことは聞いてはいられないというふうになるかもしれませんけれども、そうではなくてやはり一種の宗教体験的な基礎付けがあるものですから、とても読むとほんわかして結構なものですということになると思います。
 だから、そういう言い方。自分も幸福感を持つし、自分が幸福感を持って他人に接すれば他人も幸福感を持つ。それで、極端なことを言ったりやったりしないというようなことで何か、幸福感が社会を占めていくというのが大川さんの幸福の科学の理想だというふうに受け取ることが出来ます。

5 折衷宗教としての性格

 もう一つ大川さんの幸福の科学の特徴を申し上げますと、一種の総合宗教、あるいは折衷宗教なわけです。つまり大川さん自身がそういうふうに書いていますけれども、他の宗派の人たちに対しても、決して誹謗したり批判したりしてはいけないということを言っています。やはり、大川さん的な意味での宇宙の根本的な愛とか原理とかいうものに、他の宗教の言っていることもそれにかなうと言いましょうか。そういう面だけを取ってくれば他の宗教もいいのだ。決して誹謗したり批判したりしてはいけない。
 つまり、どれだけ宇宙の愛というか宇宙の摂理というようものを自分のものにしていくかということにどれだけ寄与するかということで、寄与する部分だけを他の宗教からだって取ってくればいいのだというのが大川さんの考え方だと思います。
 ですから、教義としてといいますか。宗教の教義としては非常にあいまいで幼稚なように見えますけれども、要するに包括性といいますか。他の宗教も部分的なら入れてしまうといいましょうか。含めてしまうというような意味合いでは大変広い幅を持っています。
 これはやはり伝統的な宗教の系譜の人からは物足りないわけです。つまり、少なくとも仏教とかキリスト教とかみたいに、釈迦とかキリストみたいな人類の生んだ最も偉大な宗教家でしょうけれども、そういう人の系譜に自分たちがつながっているというのは大川さんにはないわけで、自分で作り上げた教義ですから、そういう意味合いでは何かすぐ壊れやすいおもちゃみたいなものでというふうになるのです。ただ、他の宗教、伝統宗教にはない、他の宗教でも誹謗したり批判したり否定してはいけないので、その中でも宇宙意志にかなうような、あるいは宇宙の愛にかなうような教義の部分はちゃんと肯定して受け入れていかなければいけないのだということを大川さんはしきりに説いています。そこがまた非常に大きな特徴のように思います。
 ですから、大川さんの幸福の科学というのは宗教といってもいいのですけれども、ある意味では宗教というよりも思想運動なのだというふうに考えたほうがよろしいところがあります。つまり、伝統とつながっているわけでも何でもなくて、大川さんがご自分で考えられたところが大変多いわけです。ご自分で考えられたところとご自分がうけた啓示といいましょうか。それが結び合わさっているというのが大川さんの幸福の科学の特徴だと思います。それで全体の雰囲気としては、要するに人を幸福にし、自分も幸福にならなければダメだという雰囲気を持つ。それで、極端なことを言ったりやったりしてはダメだということ言っているということがあるわけです。それが幸福の科学が何といいますか。社会現象的に受け入れられている根拠ではないかというふうに僕には思えます。
 つまりそのことを抜きにして、やはりフライデー事件のときの態度はなんだとかいうところで幸福の科学を批判すると間違ってしまうかもしれないので、そういうところで幸福の科学というのはこういうものだというところをはっきりと捕まえておいたほうがよろしいのではないかと思います。
 そして、確かに社会現象となるほど宗教としての何といいますか。力というのはある程度持っているという理由はあります。これは人によってはなかなかこんなのでどうして人が信ずるのだというふうに思うかもしれませんけれども、全体の雰囲気というのはなかなかのもので、やはりこれは一かどの人だということがとてもよく分かります。ですから、その一かどの人だというところの人格的影響が及ぶ範囲は、多分幸福の科学に入れる可能性が、あるいは入る可能性があるのではないかというふうに僕には思われます。

6 オウム真理教――『生死を超える』のおもしろさ

 次に、問題として時間的に言いますと出てきたのはオウム真理教であるわけです。オウムが出てきたのはスキャンダルなのです。つまりオウム真理教の信者だか信者を辞めるとかいって弁護士さんがどこか行ってしまった。失踪してしまったのというので、弁護士会とオウム真理教でテレビで争っているところがちゃんと出てきて、はあ、はあこういうことかということで初めて注目したといいましょうか。そういうわけなのです。オウム真理教というのをやはり、つまり当てにもならないオウム真理教のせいであるかどうか分からない。当てにもならないところで、失踪事件でオウム真理教というのを言ってはいけないというふうに僕は思います。
 オウム真理教はどこで言ったらいいのかというのは様々なのでしょうけれども、僕らが素人で、局外者で見ていると、麻原さんの著書の中で『生死をを超える』というパンフレット的な本があります。これはとてもいい本です。これを一丁読めば僕はオウム真理教というのは分かるのではないかというふうに思います。非常に面白い本ですしこれも是非もし本屋さんにありましたら、これ一冊お読みになってこういうのかというのをお知りになったほうがよろしいと思います。
 弁護士が失踪したかどうかということは、そんなことは本当に見ているものでなければ分からないです。そんなことは。だから、そういうところでは誰のせいにつけられても仕方がないので、そんなところで解釈すると少し違ってしまうかもしれません。だから、生死を超えるというところが一番オウム真理教の肝要なところであり、また麻原さんの熱を入れているところだというふうに思います。
 これは社会現象になっていますけれど、本当は要するに仏教の一つの派ということになると思います。あるいは原始仏教といいましょうか。仏教以前の仏教といいますか。ヨガというのがあります。ヨガの瞑想法みたいなのがありますけれども、つまりヨガの修行法というのがオウム真理教の根本的な修行の仕方ということになっていると思います。それによって人間は生死を超えることが出来るのだというのが、麻原さんのオウム真理教の教義の一番肝要なところではないのかというふうに思います。
 僕らがこのオウム真理教の特に『生死を超える』という麻原さんの著書で非常に興味深いと思うのは、麻原さんが言っているというようなことというのは、要するに日本の鎌倉時代までの、あるいは平安末期以前の仏教ですか。仏教というものの修行というのがやっていたことなわけなのです。つまり仏教のお坊さんが、平安時代のお坊さんとか比叡山とか、そういうところに行って何をしていたのか。何が仏教の修行だったのかというと、やはり麻原さんが言っているようなことをやっていたわけなのです。その修行をやっていたのだけれど、やはりもったいをつけてどんなことをやっていたのだというと、なかなかあからさまに言っている人とか書いている人というのはあまりいないのです。
 それから、また例えばそういうのがあるでしょう。つまりエジプトの『死者の書』みたいのがあるでしょう。それとか、いろいろ生死を超えた体験の世界のことを記述した本というのはあるのですけれども、皆あいまいにしか、もったいをつけてしか言っていないのですけれども、麻原さんという人はとことんまでそれを言っています。つまりとことんまで微細に言っています。だから大変興味深い本だと思います。つまり、これはそういう宗教。社会現象となった宗教を抜きにしても大変興味深い書物だと思いますから、是非これは安いですから、もしありましたらお読みになったらいいと思います。
 どういうことが書かれているかというと、要するにヨガの修行の方法を書いているわけで、麻原さん自身の体験として書いているわけです。僕は分かりませんけれども、書いてある通りにしますとまず始めに下腹部ですけれども、おへその下に何か人間の精神というか、宗教ですから霊という言い方をすれば、霊を集中させるセンターといいますか中心が一つあるのだ。そこに精神を集中させる修行というのを出来るようになるとそこが熱くなって、熱いのが背骨を伝わってだんだん上のほうに行ってそれが抜けるという体験が可能である。そこから始まるのだということを言っています。
 麻原さんの記述を言いますと、その次におへその周りに人間の精神を集中する何といいますか、要所といいますか。ポイントがあって、そこに精神の集中が出来るようになりますと、大体麻原さんがいうにはいわゆる生と死の転生といいましょうか。大体それが出来るようになるのだというふうに言っています。
 それは、だから、いわゆる立花隆なんかが言っている臨死体験というのがそれに当たるわけなのですけれども、立花さんが記述している臨死体験というのはごく普通の人の臨死体験。つまり交通事故で死に損なってまた生き返ったというような普通の人の臨死体験ですから、何というかあいまいなところは非常にあいまいなわけです。また、あいまいにしか出来ないのですけれど、麻原さんという人はヨガの修行者ですから、ものすごく明瞭に臨死体験を詳細に述べている。しかも実感的に述べています。この人は本当にやったなということが分かるくらい実に如実に描いています。

7 修行体験の如実な記述

 少しやってみますと、臨死体験、おへそのところに精神を集中して死のほうにどんどん近づいていく。死の直前のところまで近づけると、感覚器官がだんだん働かなくなって音も聞こえなくなるし、においも味も目も見えなくなって、だんだん弱まってくるのだというのです。それで、もっとやっていると、そうすると体も肉体的な構成要素です。仏教でいうと五大というのか五源というのか知りませんけれども、地水火とかというつまり五源といいましょうか。つまり肉体を構成している要素は全部分解していくという感じになって分解してそれ自体に帰ってしまうというそういう体験が次にやってくると言っています。そのときに黒と黄色の混ざった色彩が現れてくるとこういうふうに言っています。
 その次に、もっとやっていると、死のほうに近づいていくと、そうすると血液とか体液とかつまり液体ですけれど、それが分解して水みたいになっていくというそういう体験が起こると言っています。その次に、そういうふうにやっていると今度は体温がやはりなくなっている。火の要素になってなくなっていくという体験がして、お腹のほうからだんだん冷えていくという体験になっていくという。その時に朱色の色が見えて来るというふうに言っています。
 それから、その次にもっと死に近づいていくとどうかというと、呼吸がだんだん止まっていくといいましょうか。呼吸が危なくなっていって、それは要するに風の要素に分解していくという体験をしていく。その時には青緑色の色彩が現れるというふうに言っています。
 いよいよ最後に呼吸がせわしなくなって、それで最後の息を吐いて死ぬと言っています。死んでしまったら終わりかというと終わりではないわけです。死んでしまってから今度は死後の世界に行くわけです。
 死んでしまってから少しの間、要するに魂とか霊とか、それは心臓の辺りのところに少し止まっていると言っています。それから、そうするとそのときに上の天のほうから真っ白い光が、少し甘みのある光なのだけれども、天から降りてくるというふうに言っています。今度はそれとほとんど同時に、おへその辺りから赤黒いエネルギーが上に湧き上がってくる。
 これは麻原さんがそういう解釈をしていますけれども、天から真っ白い光が来てというのは多分それは父親の精液ということのイメージじゃないかというふうに自分は思うというふうに書いています。それから、おへその辺りの赤黒いエネルギーというのは要するに母親の経血みたいなもののやはり象徴なのではないかというふうに自分は思っているというふうに書いています。
 それで、この上から来た真っ白な光とその赤黒いお腹のほうから起こってきたエネルギーが何といいますか。合わさったのが大体おへそから上のみぞおちの辺りのやはり精神が集中する地点があって、そこへ吸収されるという感じといいますか。イメージがちゃんと出てくると言っています。それは多分自分の持っている遺伝的な要素が分解されてしまうということを意味するのだろうと思うというふうに麻原さんは書いています。
 その後に、最後に前世から受け取った遺伝的要素といいましょうか。輪廻転生した要素が天から真っすぐ、真っ黒い光が降りてきてそれが道になっていって、その道を通じて吸収されていくというイメージになるというふうに言っています。
 それでだいたいにおいて人間が死んだ後、自分の持っている父親、母親から受け継いだ要素や何か全部分解していってしまう。要するにそういうイメージがそこのところで作れるのだというのです。それで、今度はそこまでいったら後は本当に死後の世界になっていく。
 死後の世界というので、最も高度な世界というのは無色透明な光の世界なのだ。現世でよほど修行した人は、無色透明な光の世界というそこにすぐに入れるというふうに言っています。すぐにそこに入れて、そこに入るともう永遠の命。つまり、一等最初のまぶしい透明の光のところへ入れたら、何十億年たっても死なない永遠の命というのを得られるのだ。それは、よほど修行した人でないとそこには入れないというふうに言っています。
 それよりも落ちるわけですけれど、次に高度な死後の世界とは何かといったら、透明に近い白銀食の世界だ。その世界にこれもかなり修行した人はそこに生まれ変わることが出来るということが分かるというふうに言っています。
 そこもだめだ。そこも行けないという人は、今度は美しい赤紫の色の光がするそういう世界に入ることが出来るのだ。そこに入った人はまた現世に降りてきて輪廻転生することが出来るのだと言っています。仏教でいう釈迦とか現存する人で言いますと、エジプトのダライ・ラマというのがいます。チベットの生き神様ですけれどもそのダライ・ラマとか釈迦というのは、いわゆる仏教でいう今の王臣の世界というわけですけれども、そこの世界から要するに現世に降りてきた人がそうなのだ。もちろん、自分もというのは僕ではないです。麻原さんも要するにそうだというふうに言っています。つまり、今、現在生きている人ではそれが出来るし、そこから来たと言えるのはチベットのダライ・ラマと自分だけだというふうに麻原さんは言っています。
 僕らみたいな普通の人は、要するに普通のイリュージョンの世界。死後の世界といったって単なるもしかするとイリュージョンかもしれない。そういう世界にしか行けないわけだし、またそこに行くのだ。それは、何といいますか。そのイリュージョンの世界というのは現世において自分に合った場所にちゃんと落ち着いていくということなのだというふうに言っています。その落ち着く世界に吸い込まれていくのだけれど、吸い込まれていく途中で性行為のビジョンがあったり、子宮とか卵子の中に自分が入っていくというイメージになったりするというのです。そこが限度だ。そういうふうにイメージになった後、その人は違う人間として生まれていく。転生して生まれていくということになるのだ。それは大体四十九日が限度なのだ。四十九日までにそういうところになって輪廻転生するというふうになるのがごく普通の人の在り方だというふうに麻原さんは言っています。

8 麻原彰晃の宗教的核心

 僕はオウム真理教の一番特徴といいますか。優秀といいますか。一番特徴的に面白いところは、僕は麻原さんが記述しているその記述が実に何といますか。実に具象的、具体的ということはないですけれど具象的であって、本当にこれは自分が修練してやったなという体験を書いているなということはすぐに読めば分かるように実に如実に描いてあります。
 つまり、これが出来ているか出来ていないか。出来るか出来ないかということの問題が多分オウム真理教の一番重要なところなのではないかと思いますし、麻原さんが教祖としての自信を持っているのは、そういう修練を自分はやった。大体現存する人では坊さんなんかには出来っこないので、現存している人では自分とダライ・ラマしか出来ないのだというふうに自分で言っています。
 つまり、それが多分オウム真理教というのを麻原さんが教祖としてひらいた自信だというふうに思います。そこが非常に大きな特徴。これはヨガの特徴であるし、また日本でいえば、平安朝時代までの要するに旧仏教といいましょうか。天台宗とか真言宗とか。あるいはもっと小乗仏教というのはたくさんあるわけですけれども、そういうところで坊さんたちは何をやっていたのだといえばそういうことをしていたのです。そういう修練をしていたのです。
 だから、僕は非常に面白かったのですけれど、麻原さんのこれを見ているとつまり、ははあというのが分かる。昔の弘法大師とか最澄とか伝教大師とかいろいろいるでしょう。偉い坊さんが歴史上。そういう人たちは何をしていたのだといったらこういうことをしていたのかというのは、麻原さんのこれを読むととてもよく分かります。つまりこういうことを修行していて出来るようになったということなのです。それをその修行が上のほうまで出来るようになったというのが、要するに高僧といいましょうか。偉い坊さんということになっていたわけです。それは麻原さんのこれを読むと大変よく分かります。こういうことをやっていたのだということはとてもよく分かります。
 また、逆に言いますと法然とか親鸞というのがいるわけですけれども、法然や親鸞は要するにこういうのはばかばかしいことなのだということに初めて気が付いたわけです。だから、そんな修行なんかは要らないのだ。要するに念仏を唱えればいいのだ。念仏を唱えれば浄土に行けるのだということを言い出したわけです。
 それで、言い方は宗教家だから謙虚ですから、到底凡人にはそれは及びがたい修行だから凡人にも通用するように念仏だけ唱えれば浄土へ行ける。こういうふうに、こういう教義にしたのだということになるわけです。そういう言い方をしていますけれど、本当は要するにああいうあほなことをして、これは心理の問題に過ぎないではないか。あほなもので、ああ、そうだよというふうに、こんな修練なんかやっても仕方がないのだということに初めて気が付いたのだと思います。それが、法然が浄土宗をひらいた理由ですし、また、その後親鸞が浄土真宗というのをひらいて、もう親鸞なんてもう徹底的であって、修練なんてやったらダメなのだ。浄土に行けないぜというふうに、他のことをやったら行けないぜ。念仏だけ唱えろ。ほかのことをやったら浄土に行けないですよということを親鸞は言い切ってしまうわけです。
 だから、法然、親鸞以前の日本の仏教もやはり麻原さんがやったようなことをやっていたということはとてもよく分かります。だから、いろいろな意味でこれは面白い本です。『生死を超える』という本は面白い本です。読んでいても面白いですし、いろいろな意味で興味深い本だと思います。
 そうすると麻原さんがどういうことになるかと言いますと、麻原さんがそういうことを書いていますけれど、つまり死後の世界。もう少し後の段階になるとなおさら高度になるわけですけれど、そういうおへその周りにエネルギーを集中する。みぞおちのところに精神のエネルギーを集中する修練を出来るようなりますと、全く現実の世界と別の世界を、現実の世界と同じように作れるというふうに麻原さんは言っています。同じように作れる。そこではにおいもするし、手を触ると触覚もあるし、味覚もあるし、目も見えるし、全部この世界と同じような世界を別に作れるというふうに言っています。それは、みぞおちのところに精神を集中する修練を出来るようになるとそれが出来るというふうに言っています。
 つまり、それが出来るということはどういう功徳があるかということになるわけですけれど、仏教がよくいうこの世は幻なのだ。この世が幻なのだ。あの世だって幻なのだ。あの世が実在だとすれば、あの世があるのだというのだとすれば、この世だってあると言ったっていいけれども、それはこの世があるというのだったら、あの世だってあるのだというふうに考えるべきだとか、この世が幻だと思う。無情で幻だと思うならばそれは死後の世界もやはりそうなのかもしれない。
 要するに死後の世界というものと、この現実の世界というのは全く同じものなのだ。同じような同じ現実感の、同じように体験出来るのだということをやったということで現世無情というのは越えられるのだ。つまり死ぬということは、そんな別に転生ということだけであって、何かそれが大変なことなのだというふうに思うことはない。やはりこの現実と同じように如実な違う世界に入っていくというそれだけのことだという考え方をなぜできるかというと、この修練によって違う世界というのを現実と同じように作れる。それで同じように見えて、同じように手で触って同じように話をして、同じようにというふうに作れたという体験が、イメージが作れた体験があるから、そういう仏教の無常観とか無常を超えるといいましょうか。それこそ生死を超えるわけですけれども、そういう超えるという考え方が出てくる根拠になるわけです。麻原さんもよくそれを説いています。
 それから、だんだん上に上がっていって、のどぼとけになって、のどぼとけに精神を集中する場所があって、そこに集中が出来るようになると、要するに自分が幻になってどこにも行けるということが出来るようになるというふうに言っています。その次はやはり眉間。ここのところに精神の集中が出来るようになるとそれよりもまだ、高度な何といいますか。高度な境地に達しられて、それは一種の光まばゆい球の中に自分が包まれているという感じになって、それで自分の頭のてっぺんと心臓から光が出てきて、赤紫の光が出てきて、まばゆい球と一緒に融合して溶けていくという感じをつかむことが出来る。そうすると中心には何か宇宙全体からの情報を受け取る中心があり、そして一番外側に個人レベルの情報が伝わる。受け取る様子が瀰漫(びまん)している。そういう体験をすることが出来ると言っています。
 ここら辺のところが麻原さんの到達したヨガの修練と、それからその修練によって生死を超えるということが出来るのだという宗教的核心に至る。それで麻原さんがオウム真理教の教祖になっている理由だというふうに思います。僕は大変興味深いなというふうにこの本は読みました。是非読んでご覧になると面白いと思います。
 つまり、そうなってくると何が必要なのだ。どうするのだ。つまりすわってヨガの修練をしていればそれがだんだんよく出来るようになればいいではないか。それでいいというそういうことなのかということになるわけです。それ以外のことは何もすることはないのかといったら、それ以外のことはすることはない。基本的にはないのだ。つまり人間の生死を超えるというためにはそれ以外のことは別にすることはないのだけれど、ただ要するにいいことをしたほうが、そういう修練がしやすいですということは言っているわけです。
つまりいいことをしたほうがやりやすいということは言っています。本当は、いいこととこういう修練しか人間にすることは何もないのだというふうなのが、オウム真理教の根本的な教義だと思います。ところが、これでは宗教になるかどうか分からないし、宗教運動になるかどうか分からないので、麻原さんはいよいよそれを終末観みたいなものと結び付けてみたり、つまりあと何年たつと要するにとてつもなく……
【テープ反転】

9 統一教会――キリスト教的な神の概念と陰陽道の総合

……けれども、韓国の文鮮明というのを教祖とするキリスト教系統の一教団があるわけです。これもやはり社会現象となったという宗教の共通点で、文鮮明というのにも要するにある時期何といいますか。天から啓示をうけたという、幻聴がやってきて神がこういうふうに言った。自分に告げた。そういう体験というのは文鮮明にもあるわけです。それで、文鮮明はその体験が多分あるから教祖ということに、つまり新しい宗教、キリスト教には違いないのですけれど、新しい宗派というのをひらく自信になったのだというふうに思います。
 統一教会というものの教義の特徴というのはどういうことになるかというと、非常に大ざっぱな言い方をしますと何といいますか。キリスト教の、あるいはキリスト教以前のユダヤ教でもいいのですけれども、ユダヤ教以前にさかのぼればユダヤ教。つまり旧約聖書の世界なのですけれども、その神の概念もその通り受け取って受けついでいるわけです。
 それともう一つ、大ざっぱに言いますと東洋の、つまり何といったらいいのでしょう。陰陽道といいますか。つまり万物は何か陽と陰とが合わさって出来たものだという陰陽道の考え方が東洋にあるわけですけれども、この統一教会の教義は要するにキリスト教的な神の概念と、それから、陰陽道の陽と陰とが合わさって万物が存在しているのだというそれとをいわば混合したといいますか。総合したというところはこの統一教会の教義の特徴なのではないかというふうに思います。
 それで、どういうふうに言っているかというと、要するにこれはキリスト教もユダヤ教も同じなのですけれども、万物、被造物といいますけれども、万物は要するに全部神が作りなせるものだ。神がいて万物をつくったものだ。万物は神がつくったものだという観念が根本にあるわけですけれど、そういう場合に、それを要するに陰陽道的な考え方に、陽と陰の考え方に合致させるために、統一教会では神は一種の性もそうだ。性という意味は多分セックスという意味も含んでいると思いますけれども、神は性もそこに該当するのだ。神に作られた被造物というのは、要するに神から作られた性の層から作られた形状、形なのだという。形有る存在なのだという考え方をしております。それで、あらゆる存在が、要するに陰と陽が結びついて物質であろうと、人間であろうと初めて存在としてできているのだというふうになります。
 例えば、人間の良心というものは何かというと、それは神というものを主体として、それに人間の心が対したときに初めて人間の良心という考え方が生まれるのだ。そして、結局陰と陽と結びついた存在と良心を与えているところの神とが合体して、人間の営みが行われる。その営みは、また再び神を主体として神に対して、また自分がその対象となって良心をまた磨いていくという過程がある。また、それが完成するとそれが合体する。また、やはりもう一段神と向かい合ってという段階がまたやって来る。そういうふうにやっていくのが人間の在り方なのだ。
 だから、具体的にいってしまって統一教会が祝福されるべき良いことだ。良いことは何かということを三つ挙げています。一つは要するに個性を完成することだということを言っています。それから、もう一つは夫婦が一体になって子どもを生んで、そしてまた、神を中心にして家庭的な生活を営んで、その生活を営んでいる過程でまた、新たに神と向かい合って自分たちを良くしていくということを無限に繰り返していく。それが、要するに統一教会がいう良いことの第二番目のことなのだ。三番目のことは、すべての被造物といいますか。すべての現実の世界に対して人間の良心というものがそれをつかさどる。そういうすべてをつかさどるという、そういうところまでいくというのが良いことなのだ。そういう世界が完成すると、今度は神が直接人間も含めたそういう世界を、被造物の世界を直接つかさどる。そういう次の世界がやって来る。その前にまず人間が、被造物全体の世界に対してそれをつかさどるということを、人間の良心と愛情でしょうけれども、そういうものがつかさどるという世界がやってくるというのが非常に良いことなのだ。その三つの良いことというのがあるのだというふうに統一教会の、僕は『原理講論』というのを読んだのですが、そういうふうに書いてあります。

10 愚かさと賢さの閾値が超えられやすい時代

 ここらへんのところで統一教会の教義の中心が終わるわけなのですけれど、これでいえば運動にならないところがやはりあるわけです。どういうところで運動にしているかというと、一つは要するにキリスト教でいうキリストの復活というものがあり、復活、再臨というものがあるわけです。一度死んだキリストがまた再臨してくるという考え方があるわけですけれど、どこへ再臨してくるかというと、統一教会がいうにはヨハネの黙示録を見ると東方の国で復活してくる。すると東方の国というのはどこを具体的に指しているかというと、要するにそれは中国と日本と韓国だというふうに言っています。
 その通り書いてあるからその通り言います。そういうふうに言っています。そのうち中国は共産主義の国だから、これはキリスト教でいうとサタンの国。つまり悪魔の国だ。日本というのはどうかというと、日本というのは韓国のキリスト教も戦争中まで四十年に渡っていじめにいじめ抜いてきた。やっぱり悪魔の国だ。そうすると、どうしても韓国しかキリストが再臨してくる国はないということになる。それは誰か。それは文鮮明だとこういうわけです。
 文鮮明が、要するにキリストの再臨で、すべての宗教的なものをやがて統一するのだというのが何といいますか。統一教会が運動する場合の眼目なわけです。でも、教義をいうにはそういうことはないのですけれども、運動として目標とするのに根拠は何かというと今、言ったようなことが統一教会が言っている根拠であります。
 何といいますか。僕が言うときちんと伝わらない。どこかに軽んじているところがあるからうまく伝わらないかもしれないですけれど、それは非常に宗教ですから大まじめなわけです。
 だから、僕が大まじめでこれはやっぱりお年寄りの方はご存知だと思います。つまり日本だって半世紀くらい前までは八紘一宇だとかいって、何かやはり日本が盟主になって、日本の神道を全部世界中に宣布してみたいなことを大まじめに考えていたわけですから、あまり笑えないのです。つまりそういう何というか、どう言ったらいいのでしょう。冷静に考えれば夜郎自大だということになって、冗談じゃないよということになるわけですけれど、やっぱり宗教というのはそういうものではなくて、人間の何といいますか。精神的な存在としての人間というのは、要するに無限に愚かであると同時に無限に賢くもなれるという大変矛盾の多い存在ですから、その場合にやはり無限に愚かになれるというところにいけば、これだって十分に信ずる根拠、信じられるものとして人間の心を統一することが出来るのだと思います。
 それは、やはり八紘一宇が人間の半世紀前の日本人の心の大部分に何か入り込んできたということが出来たというのと同じように、またつい四~五年前までソ連、ロシアというのは天国であって、天国みたいなところで虐げられた人がいなくてというふうに思ってこれを日本のインテリが信じていたというのと同じです。つまり人間の心というのは愚かから賢いまで無限に出入り出来るわけです。つまり行けるわけです。
 一人の賢い人間が全部賢いかというと決してそうではなくて、ある事柄について賢いということだけであって、違う事柄については愚かであるかもしれないわけです。また、ある事柄について愚かである人というのは全部愚かというとそんなことはなくて、違う事柄においては賢くて、また能力があるかもしれないというふうに、人間の存在というのは多分そういうふうにできていると思います。ですから、そこのところで宗教というのは存在し得るといふうに僕には思われます。
 また、これが社会現象としてもなり得るし、また人々を誘うことも出来るというふうに僕には思われます。つまり何ていいますか。賢い人は全部賢いというふうに思わないほうがまずよろしいので、ある事柄については賢い。しかし、違う事柄については賢くないかもしれないというふうに思ったほうが、大体人間についての一番いい考え方ではないかというふうに思います。
 そこのところで、宗教が社会現象としてやってくるといいますか。人々の心に入ってくるその根拠があるわけで、それではそういう根拠を作った教祖の人たちにはそれぞれの自信というのがあって、それぞれの自信を持っている。自信のもとになる体験ももちろん持っていてというようなことになっていって、つまりどこかにそれは教祖になる人というのは自信と共にどこかに賢いところもありまして、それが感受性に感じられるとそれは非常にいい宗教だというふうになって、敬というのも生じていくのではないかというふうに思います。
 つまりそういうところが何といいますか。社会宗教が社会現象になって、まず少し、現在考える範囲ではこれが無くなってしまうということはないだろうなというふうに思います。つまり、そこでどこら辺の賢さとどこら辺の愚かさというところで、人間というのは踏みとどまるということが出来るのかということが大変大きな問題になるのではないかというふうに思います。
 ところで、現在みたいに辛抱がないというところに一種の大転換期ですから、つまりなかなかこうやったらいいのだとか、こういう考え方がいいのだということをスパッとこういうふうに言い切ることがなかなか難しくなっている現在のような一種の転換期というのは、やはり人間の愚かさとか賢さの閾値(いきち)といいましょうか、壁を、えてして越えてしまうというようなことになりやすいということになっているのだと思います。
 つまり愚かさの壁を越してしまえば、それは新しい宗教の信仰というふうに行くかもしれないし、賢さの壁というものを越してしまうと病気になるかもしれません。つまり、精神の病になってしまうかもしれません。だから、それはどちらでも、やはりおっかないことはおっかないことなんです。
 つまり、賢い人はおっかなくないかいうとそんなことはないのです。賢い人というのは病気になりやすいのです。また、病気だと思ったほうがいいのです。賢い人とは病気だと思ったほうがいいし、それから賢くない人というのは、やはり新しい宗教に信じやすいですというようなふうに思ったほうがいいのです。いずれにせよ大変何といいますか。この社会、現在の社会には危なっかしいことというのはたくさん転がっていて、それをうまくすり抜けたり、うまくあるところでとどまったり、あるいはあるところで簡単にやり過ごしたりとかいうふうにしながら、私たちは日々普通の人というのは生きているわけです。それはそういう生き方で、その時々をしのいでいくより仕方がないみたいなところがないことはないのです。それくらい、何といいますか。やりにくいときで、やりにくい社会だというふうに思われるのが現在の社会だと思います。

11 産業構造の変化と社会現象としての宗教

 なぜやりにくいか。これは宗教という言葉を離れますけれども、社会ということになりますけれども、なぜやりにくいかと言いますと一番分かりやすい説明の仕方は、要するに僕は産業だと思います。つまり、かつてならば今よりも半世紀前でしたら、大体世界の一番先端的な地域の産業というのは、製造工業みたいなものと、それから、農村、漁村みたいな自然相手の産業とか、それが拮抗(きっこう)しあって、対立したり融合したりとかそういうふうにした社会ですけれど、現在の先進的な社会というのは既にそうではなくて、第三の産業です。つまり流通業とか、サービス業とか、教育業とか、娯楽業とか、そういう一種の人間の形無き産業といいましょうか。そういう産業に従事している人が大部分になってしまったわけです。大部分がそっちのほうに従事してきてしまっているわけです。
 それは何が一番違うかというと、製造業ですと、例えばコップ製造業なら、例えば一時間に十個なら十個作れる。これを二十個作るにはどうするかというと、二時間働けばいいというふうに、あるいは二時間働いたから二十個できたというふうに、すぐにとにかく作られたもので、できたもので目に見えて分かるわけです。すると、これを百個作るというのは少し働きすぎではないかというようなことも、もちろんすぐに分かるということになります。
 ところが、第三次産業というのは、明瞭にそういう意味でこれだけ働いたから、つまり流通業でこれだけ働いたからとか、教育業でこれだけ教育したからこうなったという、つまり生徒がこうなったとかいう目に見えてそれが現れてくるということはないわけです。自分が作ったものというのは、結果としてすぐに目に見えて現れてくるというようなそういう開放感とか、そういう目盛りというのがとりにくいわけです。
 だから、ついやり過ぎたといいますか。働き過ぎてみたり、あるいはやり過ぎてみたりということになってしまって、疲労困憊(ひろうこんぱい)というのがたまったりというようなことになったりするわけです。つまり形ない成果といいましょうか。結果とか生産といいましょうか。そういうものが相手であるという産業に、日本の場合ですともう70~80%の人はそういう産業で働いているわけです。
 製造業で働いている人はそれに比べたらはるかに少ないわけで、20%から30%台のところでとどまっているわけです。まして農業とか漁業とかに携わっている人は8~9%、9%くらいのものだということになっているわけです。ですから、かつてみたいにそこを中心にして、そこの中心とか、そこの対立とか、工場と農村の対立とか、都会と農村の対立とかそういうところで考えられているときには、まだ形あるもので判断したり計ったり出来たのです。しかし、今の人たちは大部分の人たちがもう形無きといいますか。成果がどうなっているのか分からないみたいな産業で働いておりますから、どこまでやったら疲れるのかとか、どこまでやったらやり過ぎなのかということは全く分からない。それから、自分がこれだけ働いたからこれだけ出来たのだという目に見えた成果があると、やはり一種の開放感を感じるわけですけれど、それもあまりないわけです。
 つまりそういう産業に大部分の人が働いているというのが現在の日本も含めて、日本とかアメリカとか西欧の一、二の国におけるつまり、フランスとかドイツとかというのはそうです。そういう国というのは、大部分の人がそういう産業に働いている社会になってしまったわけです。そうしたら、それは大変分かりにくいのです。ある意味で分かりにくいし、おれはこれだけやったからこういうほら、見てご覧。こういう成果が上がったではないかというふうに誰もがなかなか言えないような、そういう社会に大部分の人が働いているということになってきてしまっているわけです。
 それがとても多分きついことの一番根本にあるような問題であるし、またそれがそういう説明の仕方をすると割に分かりやすいのではないかというふうに思いますので、僕はそういう説明の仕方をします。それだけが唯一ではないですけれども、そういうところにも精神社会というのは移ってしまったということ。
 そこで、何かどうしたら、どれだけ働いたらこれでいいのかとか、どれだけ働いたらこういう結果が出たのだ。こう開放感があるのかということがあまりなくなってしまった。そういう社会の中に現在あるわけで、それがとてもきつい要因であるし、そのきつさの中で愚かさと賢さを正常の範囲にとどめて、とどまりながらしのいでいかなくてはいけないというのが、我々がつまり当面している問題ではないか。当面している一番大きな社会問題なのではないかというふうに思います。
 そこで、社会現象として出てくる宗教というのは、何らかの意味でそういう状況を救済しようとしたり、またほんわかさせようとしたりいろいろ試みて、それを確信を持った人が新しい宗教をひらいて、おれのところへやって来い。そうしたら気持ち良くなるぞということになっているのだろうというふうに思います。
 一方、旧仏教といいますか、旧宗教は何か知りませんけれども、全部じゃないですけれども、旧宗教というのは大体死の宗教というか、死の世話役みたいなことに精出すように、何かエネルギーを集中するような傾向というのが、現在の傾向ではないでしょうか。つまりホスピスとか死にそうな人を相手にして、どうしたらいいのだという。そういうことばかり考えているというようなことになりつつあるのではないでしょうか。
 いずれにせよ、そういう安心立命がなかなかしにくいので、安心立命といえども相対的なものであって、しかし相対的であるより仕方がない。だから、どこかでそういう踏みとどまって、自分自身を救済しながらやっていく。それが社会現象としての宗教はおれのところにくればそれは大丈夫。大丈夫、救われるのだとか、大丈夫、いい気持ちにすることが出来るのだというふうに確信を持っているのが新しく社会現象として出てきた宗教だというふうに思います。古い宗教はしようがなくて死の世話役をやろうかということになっているのではないでしょうか。つまり、そこら辺のところでしのいでいかなくてはいけないというのは、いつまでか分かりませんけれども、当分はそうじゃないかというふうに僕には思われます。
 ですから、そこら辺でしのぐしのぎ方というのは通常の範囲でしたら自分自身で休み方。どうやったら休めるかとか、どうやったら少し開放感を持てるかとか、どうやったら居眠りできるかとかそういうことを自分自身で、個々の人でそれぞれ違うやり方を編み出しながら、それでもってつかえ棒にしてやっていく。当分の社会というのがそういうことになっているのではないかというふうに思われます。これが社会現象になって出て来ている。多分、宗教とそれから、我々。つまり何も信じていない人間というふうに思えば何も信じていない人間が直面している現実の社会の問題なのではないかというふうに思います。
 なかなか誰もこれからこうなるぜということを言い切ることが出来ない時代になってきていますけれども、差し当たっては、要するにそうやってしのいでいく。自分で小さな救済とか、小さな憩いとか、小さな安心感とかをこしらえながら、当分はしのいで行こうじゃないかということが普通の人の一番考えやすい考え方ではないかと思われます。そういうところから、現在社会現象になってきている宗教というのは皆さんが観察するようにとか、客観的にといいましょうか。眺めるようにご覧になったら、きっといろいろなところが得るところがあるのではないかというふうに僕には思われます。
 一応これで僕の話は終わらせていただきます。

12 質疑応答1

(質問者)
 藤井と申します。お話を直接伺いたくてこの席に来ましたので、ドキドキしているのですが、宗教というのをお話になりましたように、社会現象というところをすこし退けまして、一人の個の場合を考えますと、私はたいへん趣味の世界に近いものじゃないかなと思って考えました。たとえば、魚釣りを病膏肓になるまでするとか、山登りをするとか、パチンコに病膏肓するとかいうふうなものに非常に近いなと思いました。
 しかし、それが徒党、あるいはグループを組んで、社会現象として生じるというところは、先生のお話されたところが非常に私の心に残りました。じつは、先ほど私が考えているように、宗教が個として趣味に近いものであれば、じつは私は、先ほど先生も触れられました、シャドウワークの公立初等中等教育現場に勤めている者なんですけど、教会や礼拝堂を持った私立の学校がございます。また、仏教系の学校の創立の分をもった学校もございますが、一般的に公立小学校では宗教的ものは、じつは公立小学校では魚釣りの仕方を教えません、それから、パチンコのやり方も教えません、同じように宗教についても一種のタブーになっております。ぼくはこのあたりのところはどう考えていいのかなというので、先生に私の話したことの感想を一言でもいただければと思っています。じつは直接、先生のお話を伺えるというだけで気持ちが舞い上がっておりますので、お話させていただけたというだけで私は満足なんですけど、お答えいただければそれに過ぎることはありません。どうぞよろしくお願いいたします。

(吉本さん)
 中学校というふうにおっしゃいましたけど、中学校というのはいま、僕なんかの感じ方で言えば、いちばん隘路だというか、いちばん問題の多いところなんじゃないかなと思うんです。つまり、中学から高校へ移っていくときの移り方というのが、いちばん大変な狭い口になっていて、そこで様々な問題が起きてきちゃうということになっているんじゃないかなと思うんです。
 ひとつの問題で、たとえば登校拒否みたいのが、中学から高校へいくところで一番多いということ、それからもうひとつはやっぱり、塾へ行く子どもが中学から高校のところできっと一番多いということがあって、それはなぜかといったら、どこの高校へ行ったかということで、どこの大学へ行けるけど、どこの大学は行けないというのが決まってしまうみたいなことがあるものだから、どうしてもそこがいちばんの問題になって、いちばんの隘路になって、登校拒否も多いし、それから、いろんな問題も全部そこが多くなってくる、それから、塾へ行くというのも多い、つまり、どう考えても、現状ではいちばん、おっしゃるように、パチンコの仕方も教えるし、遊び方も、釣りも教えるという感じで、つまり、いちばん色んなことを、なんでもいいんです、宗教でもいいんですけど、なんでもいいけど、いちばん色んなことを教えて、いちばん開かなきゃいけない時期のような気がするんです、中学というのは。
 それだけども、現実は反対に狭く狭くなっているから、ぼくはもうすこし経つとやっぱり、中学のところで何か起こるんじゃないかというふうな気がしてしょうがないですけど、爆発しちゃうんじゃないかねという気がしてしょうがないけど。つまりそれはぜんぜん反対なので、いちばんそこのところは遊ぶことも何も全部、いちばん開いたほうがいいということになるんじゃないかというふうに、ぼくはそう考えています。
 中学の先生をやっておられるんでしたら、いちばんむずかしいので、誰がやったってむずかしいし、誰がやったってそんなにいい先生になれっこないんだよというふうに思われる場所なので、なんとも言えない気がするのですけど。この問題というのは、そういうところからは、ほんとうは解けなくて、ほんとうは大学の先生を変えないとダメな気がするんです。ぼくはそう思います。大学の先生をどう変えるかは簡単なことであって、たとえば、立教大学の先生は最低4年間なら4年間は東京大学に行って学生を教えなきゃいけない、東京大学の先生は最低4年間は法政大学なら法政大学に行って教えなきゃいけないというふうに義務付ければ、それで隘路は全部終わるんじゃないのかというのが僕の考え方です。
 そうすると、あまり受験というのの競争はなくなってしまいます。そういうふうにやっても大学の先生は損することはないんです。つまり、東京大学なら東京大学の先生は、みんな子どもというのは頭がいいと錯覚しますから、そうじゃないので、そうじゃない学生というのを教えるにはどうしたらいいんだという、そういうのは自分の役に立ちますから、それはやったほうがいいし、また、立教大学の先生や法政大学の先生というのはのんきにやっててもいいみたいに思って、内職のほうに精を出したりしますから、4年間はどうしても東京大学に行って講義しなきゃいけない、学生を引き受ける、卒業まで卒論は引き受けるみたいなことをやらなきゃいけないみたいに義務付けると、非常に勉強するだろうと思います。じぶんも勉強するでしょうからいいと思うから、そういうふうに、そこから変える以外に、教育の制度というのは変えようがないので、その変わりようがないものの一番の隘路というのは、あなたのような中学の先生がもろに引き受けているという、もろに被害者になるのは中学生だという、こういうふうなことになっているので、何をやったって、どういうふうにやったって結局はダメかもしれませんけど、でも、あなたのおっしゃるように、釣りも教えるし、パチンコも教えるし、とにかく、あらゆることの一番底の場所で、中学の時に開いたほうがいいように僕は思います。なんでも開いたほうがいいと思います。それをやらないとダメなんじゃないかなというふうに、いまに見てご覧なさい爆発が起こりますよというふうに、いま社会で思えるのは、中学生のところのような気がして仕方がないです。だから、いずれにせよ大変なんでしょうし、ぼくはどうしろなんていうのは何も言えないのだけど、大変なところにお勤めなわけだから、頑張ってくださいというよりしょうがない気がするけど、こんなんでいいでしょうか。

13 質疑応答2

(質問者)
 テレビ番組でおもしろいものはありますか。

(吉本さん)
 一般的な傾向でテレビというのはどうなっているかということは言えると思うのですけど、それはようするに初期の映画館の代用品といいますか、映画の代用品的なところから、日本のテレビというのは出発したとおもうのですけど。ぼくらも映画に行く代わりにテレビを買ったみたいのを覚えていますけど、そういうところから出発したと思うのですけど。
 いま、だんだんだんだんどういう傾向になっているかというと、ようするに情報番組化しているというのが、テレビの全般的な趨勢だというふうに思います。そういう趨勢の中でどれだけ工夫しているかなという番組とか、出演者とかというのが、あなたのおっしゃる比較的良い番組というのを作っているというふうに思います。
 簡単明瞭にいいますと、ようするに、情報番組がややドラマ化する傾向があり、ドラマというのはやや物語よりも情報番組化する、たとえば、旅情ドラマとか、観光ドラマと言ったほうがいいみたいな、筋よりも所々の景色を見せるとか、食い物を食べさせるとかいうのは必ずドラマの中に入ってくるみたいな、つまり、物語はどんどん情報番組化し、情報番組はワイド化してドラマ化しているというような、それがいまの一般的な趨勢で、それのなかでよくやっている、よく情報化されているドラマとよくドラマ化されている情報ワイド番組とが良い番組だというふうに言えるんじゃないかとおもいます。
 全般的にいうと苦しくなっていると思います。だから、原則があるわけです。原則は何かといったら、第一に、ようするにビートたけしよりつまんないことしか言えないようなインテリというのはテレビに出てこないほうがいいと思います、全部。
 舛添要一さんでも栗本さんでもいいですけど、西部君でもいいけど、当初おもしろかったけど、いまのテレビ番組はもう適応できなくなっているんです。つまり、停滞しちゃっているんです。やりようがないんです。もっと自分を壊す以外に方法はないんです。たとえば、舛添さんを例にとれば、もっと自分を壊す以外にないんです。壊して芸能人化する以外にないんです。
 それじゃなければ、舛添さんがそういうことをできるかどうか僕は知りませんけど、奮起して、たとえば、ある局で3時間なら3時間をおれがやる番組を作らせろと言って、あの人は国際政治が専門ですから、それでもってあらゆる自分の最新の情報と最新の能力を発揮して、3時間ぐらいの番組を自分が作っちゃって、じぶんでやっちゃうみたいな、そういうふうにやる以外にもう生きる道はないのにデレデレデレデレ出ているというのが現状です。舛添さんだってそうだから、他の奴はみんなそうで、インテリで、大学教師でテレビなんか出てくるようなのはろくなやつはいないので、それは全部、ビートたけし以下だと思います、ビートたけし以下のインテリというのは出てこないほうがいいと思います。そのくらいのことをしないとテレビというのはよくならないというふうに僕には思います。
 それじゃあビートたけしというのはどうなんだと言ったら、いま言いましたように、この社会がきついということと関連するわけですけど、きついですから、あの人は非常に流しながらやって、きつさを凌いでいるというのはひとつあるでしょう。
 それから、頭の良いやつですから、もうひとつは深夜番組をご覧になったらすぐわかりますけど、むちゃくちゃなことを言っている番組がありますよね、高田文夫相手にむちゃくちゃなことを言って、時々、音を消されたり、映像を消されたりというのを、だいたい週に1回くらいやってます、深夜に。それでもって、じぶんが、頭がおかしくならない、やりすぎたりするのを、自分でもって解消しているんだと思います。つまり、じぶんでもって、先ほど言いましたように、じぶんで、どこでもってそれを耐えるかという、その耐え方を自分なりにやっていると思います。
 みんな、ビートたけしでもタモリでもそうですけど、優秀な話芸の芸能家というのは、たいてい相当きつくなっていて、流し流しやりながら、違うところではかなりラジカルで、かなりきわどいことでもって自己解放して、やっと均衡をとっているというふうに、ぼくには思います。
 そういうことすらわからないようなインテリはのこのことテレビに出てきて何かやるというのは全然ナンセンスだと思います。勉強したほうがいいと思います。そんなところに出てこないで、勉強したらどうだと言いたいと思います。
 それで見ているほうもだんだんだんだん苛立っているわけです。つまり、なにか見ていると、こん畜生とか独り言をいいながら見ていたり、あの野郎とか言いながら見たりして、かろうじて、解消しているんだ、馬鹿なやつばかりだとか、馬鹿なことばかり言いやがってとか言いながら見ているというのが、見ているほうの我慢でしょうね、やっているほうも我慢していて、それで全体の流れとしては、テレビというのは情報化していくというのは、これからも続く趨勢だとおもいます。
 そういう意味ではテレビというのはピカイチといいますか、最も重要なメディアであって、やっぱりあれはよく注目していたほうがいいと思います。そこらへんの過渡期のところで、いい番組、そうじゃない番組というのが決まっていくんじゃないでしょうか、誰が見てもこれはいい番組だというのは、なかなかないんです。そういうことは平均して、特に鋭くもないし、特につまらなくもなくて、まあまあよくやっているよというふうに、ぼくは誰が見てもきっとよくやっているよの部分に入るように思うのは、ズームイン朝という番組じゃないでしょうか、朝7時頃から4チャンネルでやっていて、徳光という人が司会者の時から三代目くらい変わっていますけど、それがぼくは、誰でもそんなに悪いとは言わない、しかし、そんなにいいとは言わないでよく続いているなという番組というのは、それくらいであって、後はそれぞれがそれぞれでもって、勝手に解放を感じてやっていたり、あるいは勝手に我慢してやっていたり、見るほうも勝手に我慢しながら見ていたり、こん畜生と言いながら見ていたりしているというのが、いまの趨勢じゃないかというふうに、ぼくはそう思っていますけど。

14 質疑応答3

(質問者)
 今日の話に直接関係ないのですけど、最近のテレビで、2.26事件の新しい主張が手に入るということで、青年将校だけじゃなくて、軍部の最高幹部が噛んでたということが明るみに出つつあります。それはそれとして考えるんですけど、かつて赤軍派の永田洋子の死刑判決が出まして、これを日本人の権力とか、思想とか、思想を指導する人たちとの、つまり、最高権力と北一輝と、軍の権力と北一輝と青年将校、この関係と、もうひとつは赤軍派の永田洋子というのは死刑判決だと、あいつらは悪いことをしたんだと、これはちょっと見逃せない事態だと思うのですが、このへんのところを吉本さんの所感をお伺いたいと思います。

(吉本さん)
 ぼくね、連合赤軍事件の時に、その時すぐにといいますか、数か月の範囲内で感想を書いたのを覚えていますから、もしあれだったらそれを読んでくださればと思います。それから、最近、ここ一週間ぐらい前に、地方の新聞で矢負い鴨というのがあったでしょ、石神井川の、「矢負い鴨と連合赤軍」という文章を僕は書いています。ぼくなりの感想を申し述べていますから、もしあれがあったら、地方新聞でご覧くださればと思います。
 いまのご質問のところに関連したのは、連合赤軍というのになるわけですけど、そこの時も書きましたですけど、それは矢負い鴨を捕まえて、矢を引っこ抜いたというふうなのが、たしか2月の19日でしたか、それから5日ぐらい後に、ぼくはそれを見ててああよかったなと思ったんです。つまり、あれだけ騒いで死なせちゃったよりは、そうやって助かってよかったなみたいになっていたら、もうその4,5日後に連合赤軍の最高裁判決というのがあったんです。途端にぼくは気分が重くなっちゃったんです。
 その地方新聞にも書きましたけど、即座に僕はどういうふうに感じたかを書いたわけですけど、2つあります。ひとつは、ようするに死刑というのに反対であるということがひとつあるんです。どうしてかというと、つまり、連合赤軍だけじゃなくて、ぼくもそうだと思います、みなさんもきっとそうで、例外はまずないとおもうのですけど、人間というのは殺害すべき状況になったときには、人間は他人を殺せるものなんだっていうのが僕の考え方で、それには例外はないはずだと思っています。
 ですから、それに対して、死刑というのは殺害すべき雰囲気を人工的に作らなければ、死刑なんかできないですから、そういうのはものすごく残酷なことで、そういうのはやるべきじゃない、ただようするに、殺害するような雰囲気といいますか、環境とか、状況というのができたら、誰だって殺害するんですよということは、ぼくはそう思っています、それは例外な人なんかいるはずがないと思っています。だから、そういうことから考えて、死刑ということには反対であるということがひとつ、そういうことを書きました。
 それで、もうひとつ書きました、それは判決理由というのを、全文じゃないですけど、新聞に出てきた限りでは、判決理由は、だいたい仲間を十何人殺し、それから、警官隊と打ち合いで3人殺したとかいうことになるわけですけど、その判決理由の中で新聞に出ていたことは、要点をいうとすれば、永田洋子と坂口弘ですか、その人格的欠陥といいましょうか、つまり、こいつは意地悪で根性悪で、悪いやつなのでこういうふうに出てきて、仲間を殺すという残酷なことをしちゃったんだみたいな、ようするに、幹部になっている人の、永田洋子と坂口弘の人格的欠陥というのを強調することで、こういうことをしたやつは死刑に価するみたいな、そういう判決になっているわけです。
 ぼくは、それは違うと思うわけです。つまり、どんな人間でも、ある閉じられた、特にイデオロギーとか宗教とかで一致している人たちが、追い詰められて、閉じられた環境の中に追い詰められたときには、仲間を殺害しあうみたいな状況というのは、誰でも免れないというふうに、ぼくはおもうわけです。つまり、誰だって例外なしにそういう状況になったらやりますよっていうことがあると思うんです。
 だから、そういうふうに宗教なりイデオロギーの集団が閉じられて、追い詰められて、孤立していった時に、どういう情況になり、そうなると誰でも人間というのは他人を殺害したり、仲間を疑ったりという可能性があるので、猜疑心がそれは活発になるし、疑う可能性はたくさんあるんだという、そういうことはなぜだろうか、人間はなぜそうなるんだろうかということが判決理由の中に述べられていないかぎり、ぼくは、死刑を宣告する資格がないというふうに思うわけです。それを書きました。
 それから、もうひとつ、被告のほうですけど、ぼくが新聞に載っていたあれをみますと、坂口さんのほうは、ようするに懺悔しているわけです。おれは悪いことをしたと、懺悔していて、おれは死刑になってもしょうがないんだということを言っているわけです。永田洋子のほうはそうじゃなくて、これはやり方、方針が根本的に間違ったかもしれないというようなことの反省になっているんです。
 人間というのはやっぱり、志を同じくするような人であればあるほど、あるいは、信仰を同じくしている人であればあるほど、追い詰められて、閉じられて、孤立していくと、その中で、仲間同士、猜疑心にかられて、殺し合うみたいなことというのはあるんだよ、ありうるんだよってことがあると思うんです。それには例外がないと僕はおもっています。
 ですから、そういうことについて解明してしかるべきだと、被告のほうもそれを解明してほしいわけです。懺悔してほしくないわけです。それを解明しえないならば死の宣告を受ける資格がないというふうに、ぼくには思えるのです。
 そういうことを僕は書きました、つい最近です、書いていますから、地方新聞でご覧になれますから、もしあれだったら読んでくださればいいと思います。さしあたって、いろんなことがありますけど、言いたいこととか、いろんな感想がありますけど、さしあたって、その2つの感想を僕は持ちました。それはそういうふうに書きました。もっといえばキリがないかもしれないですけど、さしあたって僕が言いたいことはそういうことになると思います。それでよろしいですか。
 ぼくは事件の初めの時も、数か月の範囲内で文章を書いています。さしあたって僕が自分で感じていることを、すぐ考えていることというのはそのとき書きました。いまみたいなことを書きました。
 それから、矢ガモですけど、矢ガモがとにかく助かってよかったじゃないかというあれなんだけど、あれはおもしろいので、そういうところをやっぱりこの人は優秀な芸能人だなというふうに思ったのは、タモリが2回言っているんです。ぼくはよくテレビを見ているから、昼の番組で2回、矢ガモについて、あんなバカ騒ぎしているけど、一方では鴨を打ち殺して食ってるんだよと言ってるんです。天皇家なんか鴨猟場というのがあるんだよと言っているわけです。よっぽど勺にさわったらしくて2回言っているんです。
 ぼくもテレビを聞いていて、そうだそうだと思ったわけです。皇太子と小和田雅子は鴨猟場でデートしたというのがあるんです。そんなの喜んでいるクセしやがって何だっていう、お前の言うとおりだというふうにつぶやきながら、タモリの番組を見ていたんですけど。
 でも一方では、矢ガモが飛んできた不忍池というのは、ぼくはポップコーンをやりに時々行くんです。今年も行っているんです。大騒ぎになったから、ぼくはその間だけ行きませんでしたけど、普段はあそこの鳥にポップコーンをやりによくいくんです。そうすると、他のおじさんも来ていて、それは今日のお話でいいますと、ぼくのささやかな解放なんですけど、ぼくなりの解放感なんですけど、そういうのをやっていて、すごく俺は関心をもったんです、あそこに飛んでいったから、一方ではせっかくこれだけ騒いだんだからムツゴロウさんを呼んできて、うまく鴨の習性をとらえて、捕まえて矢をとって、助からないかなと思ったら、そうなったからよかったよかったと思っていたんです。
 それもぼくの解放感と関連があるものですから、それも新聞のあれに書きましたけど、そうしたら、途端に4,5日後に連合赤軍の判決が出て、またちょっと重たい気分になっちゃったということがあったから、どうしてもこいつは書いておこうと思いまして、そういうふうに両方書いておきましたけど、それはぼくなんかのいまの考え方の状態です。これでよろしいでしょうか。



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