1 言葉以前の世界

 今日は、言葉以前の精神についてっていうふうに、演題はなっています。いずれにせよ、精神について言わなくても、心についてとか、心の世界についてということでよろしいんだと思います。
なぜ、こんなことを考えてるかっていうことなんです。ぼくなりの理由は、ぼくは、文学の基本になる言葉っていうことについて、前にひとつ、自分なりの言葉の表現の理論といいましょうか、そういうのをつくったことがあるんですけど、それはだいたい文学が文字で書かれているわけですから、文字で書かれる以後の言葉について、論究した世界なんです。
考えてやっていきますと、文学からはちょっと外れてしまうんですけど、つまり、はみ出してしまうんですけど、文字に書かれる以前の言葉、つまり、音で、口で、音声で言っていた、そういう言葉っていうのの理論っていうのもまた、重要なんじゃないかなって思えてきたわけです。
その思えてきたことの中には、精神の世界、それから、精神がはみ出す世界、それから、精神が病む世界っていいますか、病気の世界っていうことの問題も含めまして、日常交わされてる音声による言葉っていうものの理論っていいましょうか、考え方っていうのを、自分なりに突っ込んでみたくなったんだっていうことがあります。
もうひとつはやっぱり、だれでもいいんですけど、その種の言葉の理論、つまり、音声の言葉をもとにする言葉の理論っていいますか、言葉についての考え方っていうのは、ヨーロッパにも、アメリカにもあるわけです。あるけれど、それはいわゆるインド・ヨーロッパ語をもとにして、考えられているので、もちろん言葉としては同じなんですけど、それをぼくらなりに、自分らの言葉について、そういうことを追及してみたいっていう、そういう欲求も、別のほうからありまして、それをたどっていきますと、結局、言葉以前の世界みたいなことに、どうしてもいかないと、この起源っていいましょうか、発生といいましょうか、そういう問題っていうのは、なかなかうまくつかめないっていうふうに思えまして、つい遠出をしてしまったみたいな、そういう感じで、しかし、自分なりに追及してきたことがありますので、それをお話ししたいっていうふうに思います。
ことの起こりっていいましょうか、一等初めは、やはりここで、いま司会者のかたが言われたように、3回目なんですけど、ぼくの考え方の起こりっていうのは、やっぱりここで始まったっていうふうに思うんです。だから、この3回目で、自分はだいたいここいらへんまでは考えたんだっていうようなことも、続きとしては、お話しできたらっていうふうに思ってきました。
それで、細かく書いてきたんですけど、どっからはじめたらいいかっていうことなんですけど、いちばん、だれが考えても簡単なのは、少なくとも1歳未満まで、人間は、言葉っていうのをもっていないわけです。それを、仮に乳胎児、あるいは、胎児、乳児っていうふうに言いますと、胎内にいる時とか、1歳未満までは言葉をもっていないわけです。
そうだとしたらば、言葉以前の心の世界っていうのは、ようするに、それを追及するひとつの手段としていえば、1歳未満までの人間の心の世界っていうのは、ようするに、いままであるよりも、すこし詳しくっていいますか、細かく考えてみるのは、ひとつの手段じゃないかとか、だれでも考えるわけで、ぼくも、そういうふうに考えたわけです。

2 三木成夫さんの理論-〈胎児の世界〉

 ところで、日本で乳胎児のことについて、ぼくがいちばん立派なことをやってるなといいますか、やったなって解剖学者といいましょうか、そういう人がいるんですけれども、2,3年前に亡くなったんですけど、それは、三木さんっていう、三木成夫って、成功の成に夫って書く、三木さんっていう人がいて、その人の『胎児の世界』っていうのが、中央公論新書で出ています。
それは、ものすごく立派な本なんです。その人がいちばんよく、その問題については、詳しくやっているので、詳しくやっているってことと、おあつらえ向きっていいますか、ぼくが考えていっている筋道に、とてもよくマッチする、そういう考え方をしておられまして、それをあれして突っ込んでいくのがいちばん手っ取り早いんじゃないかって、ぼく自身はそういうふうに考えたわけです。
それから、入っていきたいように思うんですけど、第一は胎児の世界なんですけど、これはぼくが、三木さんの本と、それから、ぼくがその手のことを調べるために、いくらかありふれて、ぼくらが読める本っていうのを探したわけですけど、翻訳書なんですけど、2,3あります。それらを統合して、大切なとこだけ書き抜いてみますと、これは、三木さんっていう人自身の発見にかかわるわけですけど、人間の胎児っていうのは、受胎してから36日目に、受胎してからってことは、妊娠してからってこととは違うと思います。受胎してから36日目に、胎児は上陸するっていうことを、三木さんっていう人が、はじめて見つけた、発見したと思います。
上陸するっていうのは、水棲動物的段階だったものが、陸生動物的な段階に移っていくっていうことを、上陸って言ったわけですけど、胎児がお母さんのお腹の中で、素早く、人間の生物期の歴史を通っていくわけです。その場合に、水棲動物、たとえば、魚ですけど、魚の段階から、両生類みたいにして陸上へ上がってくる、そういうのが、ちょうど受胎の36日目から、2日間くらいではじまるっていうことを三木さんっていう人は、確定したわけです。
これは、ものすごく立派な仕事だと思います。どうしようもなく立派な仕事だと思います。発見したわけです。そのときに、胎児の顔は、魚的な顔から、だいたい爬虫類的な顔になっている。で、魚的な心臓が、だいたい左右に隔壁ができるのが、ちょうど36日ぐらい、それから、もうひとつは、このときに、妊娠しているお母さんが、つわりっていうのをはじまるっていうのは、これだっていうふうに、三木さんは言っています。つまり、いかに水棲動物から、陸生動物へ上陸するときっていうのは、いかに大変だったかっていうことは、現在、お母さんがたが、この時期になって、つわりになるっていうことからもわかるように、たいへん生物の歴史にとって画期的なことであって、また、非常に苦しいっていいますか、つらい段階だったっていうことが言えるっていうふうに、三木さんはそういうことを言っています。
ここはものすごく重要な、ひとつのポイントなわけです。なぜかっていいますと、あとでもうすこし詳しく申し上げますけれど、このときに人間の感覚、つまり、目とか、耳とか、口とか、感覚に依存する人間の心の動きっていうものと、それから、内臓に依存する心の動きっていうのがあるわけですけど、大雑把にいうと、その2つ、人間にはあるわけですけど、その2つが分離したときが、このときだっていうふうに考えられます。
分離して、それが結びついてっていいましょうか、関係づけられているっていうようなことができるようになったところが、人間の胎児が上陸するときだっていうふうに言うことができます。ですから、非常に重要なことだっていうことになります。
これは心の世界とか、その成り立ちとか、異常さとか、病気とかっていうのを考える場合に、その内臓の動きによる心の動きっていうのと、それから、感覚的に受け取ることからくる心の動きっていうもののかかわりあいの中に、たぶん、病気とか、異常っていうところの問題が、たぶん、抽出して出てくるんだっていうふうに思われますので、とても重要な時期だって思われます。
あとはもっと感覚っていいますか、つまり、聴覚とか、触覚とか、味覚とか、そういうものですけど、感覚の成立っていうのが、受胎後、5ないし6か月、これで、触覚とか、味覚とかっていうのができる。それから、受胎後、同じ時期ですけど、すこし経った後、耳が聞こえるようになる。だから、だいたい、母親の声も、父親の声も、よく慣れている声っていうのは、ほかの声と分別できるようになります。それから、もちろん、母親の心臓の音、心音ですけど、心音が聞こえるようになるっていうのが、だいたい5,6か月以降だとされています。つまり、このところで、人間の感覚の発生がはじまるわけです。
その感覚の発生っていうのは、いま言いましたように、人間の心の動きっていうものを、あるいは、心の世界っていうのを、2つに大別してしまえば、感覚に依存する心の動きっていうのは、だいたい起源としては、受胎後、5,6か月以降に起源をもっているっていうことがいえるわけです。
それから、もうすこし後になりますけど、だいたい受胎後、7ないし8か月頃、意識が芽生えてきます。それから、やっぱり受胎後、それからすこし経った頃ですけど、REM睡眠っていいますか、ようするに、夢見ている状態と同じような睡眠の深さっていうのを胎児がするようになります。ここのところで、だいたい母親と子どもを関係づけている、栄養の関係とか、心の関係とかっていうのの移り方っていうか、連絡の仕方っていうのは、ここらへんで完成されるっていうふうにされております。

3 心の世界はいくつもの層をなしている

 ですから、これだけのところを考えますと、つまり、上陸点と感覚が成り立っていく、それから、言葉が成り立っていくっていうような世界が、どこらへんに起源をもつか、身体的起源をもつかってことが、言えてくるわけだと思います。これは、勝手に、こちらが、簡単な模型を書いただけですけど、人間の心の動きっていうの、あるいは、心の異常でも、病気でも、なんでもいいんですけど、そういうような人間の心の世界の動きっていうのは、意識された世界で、つくられる心の動きっていうのはあるわけです。
たとえば、いちばん簡単なのは、しょっちゅう、この馬鹿野郎っていうふうに、友達から呼ばれていると、おまえはいいやつだなみたいなふうに、しょっちゅう言われているのとは、まるで、そういう状態が持続すると、まるで、その人の心に与える影響は、まるで違ってきてしまいます。それは、ふつうの意識された現実社会のコミュニケーションの世界っていうのがそれです。
コミュニケーションの場合に、やさしくされたり、それから、あたたかくされたり、つめたくされたりっていうことが、持続的にある時間以上続きますと、心に対して、非常に大きな影響を与えるってことがあります。つまり、そういう世界がありえます。逆にいいますと、人間の心の世界でも、そういうふうに言葉遣いとか、まわりの人の気分の取り方とか、関係の仕方っていうのを変えれば、その人の心の世界っていうのも、変わってしまうっていうような、そういう世界をどんな人間でももっているっていうことは、確かなことなわけです。
それは、意識された世界と、現実の世界との間で行われる関係の世界なんです。人によっては、そういう世界で、全部、人間の心の世界なんか治っちゃうし、よくなっちゃうんだっていうふうに、言う人もいますけど、そんなことはないので、そんな簡単じゃないのですけども、でも、そういうことだけで、人間の心の世界が、よくなっちゃったり、悪くなっちゃったり、あるいは、人間の関係がぎくしゃくしたり、そうじゃなくなったりっていう世界があることは、確実なんです。おれには、そんなのないよって言ったって、それは嘘なんで、完全にそういう世界を、だれでももってるってことは言えます。
それから、もうひとつ、そういうふうにいいますと、もうひとつ、そうじゃないと、意識された世界と、無意識の世界とは、ごっちゃになったところで、つまり、意識できるところで、心っていうのは形成されてる、そういう場面っていうのもありえると思います。ですから、人によっては、いくらやさしい言葉をかけたって、全然そんなのは通じないとか、そんなんで、こいつには、何もわからないとか、こいつの気分とか、心っていうのは、まったく変わりもしないっていうことっていうのもありうるわけです。
その場合には、仕方なしにっていいますか、ようするに、無意識の世界の表面のところまでは、どうしても降りていかないと、その人の心をつかむことができない、あるいは、心の動きをつかむことができないっていうことがあります。
それから、それでもまだ、その人の心の世界っていうのはつかめないっていうことがあります。とくに、病気だとか、異常っていうふうなことがある場合には、そこまでいっても、なおかつ、どうしてもつかめない、つかめなければ、ようするに、よくならないってことでしょうけど、そういう世界っていうのがあります。もうすこし、深層まで下がっていかないと、その人の心の世界っていうのはつかめないっていうこともあります。
それでもまだ、まだつかめないんだ、そうしたらば、仕方がないからっていいましょうか、その人の、無意識世界の核って書いてありますけど、いちばん最深層のところまで、下がっていくよりしょうがないんだ、つまり、そこまで、わけいっていくよりしょうがないんだ。つまり、わけいっていかなければ、その人の心の動きとか、心の世界っていうのは、つかめないよっていうふうなこともありえます。
そうすると、たいへんもし、その世界が正常でなかったり、それじゃあ、病気だったりっていう場合には、たいへん治癒、あるいは、治療とか、治るか治らないかってことが、たいへんむずかしい問題になってきます。しかし、そんなことまでしちゃいられないっていうことは、もちろん、現実にはありうるわけですけど、しかし、歴然とそういうところまで、入っていかなければ、その人の心の病とか、心の異常とかっていうのは、どうしても解けないんだ、わからないんだ、わからなければ治らないんだっていう、そういう世界っていうのがあることは確かなんです。だから、そこの世界も考えなければいけないってことになりそうに思います。
そうすると、人間の心の世界っていうのは、表面的に、言葉遣いさえ、コミュニケーションのやりかたさえ、うまくやれば、この人の心がよくなっちゃうんだとか、自分の心もよくなっちゃうんだとか、持続的にまわりの人がやさしくしてくれれば、おれの心も治ってくるんだっていう、そういう人もいるわけですし、そういう面っていうのも、だれにもあるわけです。
もちろん、いちばん深層まで、その人の生まれる以前、つまり、胎児の時とか、乳児の時とか、そういうところまでの、その人の状態まで、心の状態まで、入ってきてくれなければ、あるいは、入っていかなければ、その人の病気とか、異常さとか、そういうのがわからないんだっていう、そういう世界もありうることは、確かなわけで、そうしますと、人間の心の世界っていうのは、こんな機械的なものじゃないんですけど、分けてみますと、いくつもの層を成しているっていうふうに考えるのが、いちばんいいように思います。

4 家庭内暴力は日本の特産物

 たとえば、よくこの頃は、わりに少なくなったんだと思いますけど、減少の傾向にあるんじゃないかなって思いますけど、家庭内暴力っていうのがあるわけです。家庭内暴力っていうのは、日本の特産物なわけです。日本のお母さんと、主としてお母さんと子どもの間に起こる家庭内暴力っていうのは、日本だけにある、いまのところ日本だけにしか見つかっていない特産物なわけです。
どうして、この特産物が日本の場合に生ずるかっていえば、それは胎児のところに、いちばんの根源的な問題があるわけです。つまり、日本のお母さんっていうのは、いまは、ぼくはよくわからないんですけど、自分の子どもができた頃までは、そうだったんですけど、確実にそうだったんですけど、生まれますと、誕生しますと、えら呼吸的な呼吸から、肺呼吸的な呼吸にすぐに切り替わるわけです。そのとき、たぶん、お医者さんなんかが、あんまり産声をあげないと、逆さまにして、おしりかなんか引っ叩いたりしますけど、オギャーっていうことによって、えら呼吸的なものから肺呼吸的なものに、移り変わるわけですけど、そうすると、だいたい日本のお母さんっていうのは、入院してても、自分のうちでも、そうだと思うんですけど、そばに生まれた子どもを置いてくれて、お母さんが、すぐに授乳の練習っていいましょうか、授乳の習慣づけみたいなものを、すぐにはじめるわけです。お母さんが、少なくとも、産褥っていいましょうか、産後の床に着いて、休養している期間中は、すぐにそばに胎児を置いてあって、それで、お腹空いて泣き出すと、おっぱいやって、また離して、そういうのを、お母さんが3日で床上げすれば3日間、1週間なら1週間、そういうふうにして、胎児をそばに置いて、授乳の練習をさせて、おっぱいを飲ませるっていう習慣づけをします。
このやりかたが家庭内暴力の根源なわけで、このやりかたは、お母さんが、たいへんいい精神で、ゆったりして、旦那との間も円満で、経済的にも、そんな不自由なくっていうようなふうであったらば、このやりかたっていうのは、まず、人類の子どもを育てるやりかたの一方の極限を成すわけですけど、極限を成すくらい典型的にいいやりかただと思います。
ところが、もし、お母さんが、そのとき、たとえば、亭主との仲がものすごく悪いとか、経済的に貧困の極地にあったとか、その他、いろんな事情でもって、自分が病気だったとかってことで、ここのところがうまくいってなかった。たとえば、うまくいってないっていうのは、いろんなことがあるわけです。授乳することができなかったってことも、そのうちに入るかもしれないですけど、心の中では、おれはこんな子供を育てるのはいやだと思いながらも、仕方がないからおっぱいやってたとか、そういうさまざまな障害、事情があるわけですけど、さまざまな母親の心の様でもって、それは、そのときに、出産した新生児、乳児に、そのまんま刷り込まれますから、それがほんとうにいい場合には、母親の世界っていうのは、少なくとも、生まれてすぐ直後から、つまり、1週間とか、1月とか、3日でもいいんですけど、その間、あるいは、1年未満としてもいいんですけど、その間、日本の母親のやりかたっていうのは、ほんとに母親のほうが理想的っていいましょうか、いい精神状態だったら、これは、理想的な育て方になるわけです。
こうであった場合には、たぶん、なんか長じて、思春期に、なんか心の病気になったり、それから、異常になったりっていうことは、まず、ないくらい、たいへん異常と正常の閾値っていいましょうか、壁っていいますか、それが高くなります。だから、そうですけど、もし、このときにさまざまな事情でもって、やむを得ない事情でもって、いい精神状態でなかったっていうふうになりますと、それはやっぱり、一種の家庭内暴力の根源になるわけです。
なぜならば、日本の母親の乳児の育て方っていうのは、どう考えても、母親が全世界だ、つまり、生まれてからある期間は、母親が全世界だっていう育て方をするわけです。この全世界が悪だったら、障害があったら、これはどうしようもなく乳児は、どこにも行き場がないわけです。ない刷り込まれ方をするわけです。
これは、たとえば、西欧のやりかたっていうのは、生まれたらすぐ、子どもを離しちゃうっていうのかもしれないし、ぼくはよく知りませんけど、典型はよくわかっているんですけど、離しちゃってたら、たぶん、乳児は、おもしろくない状態を刷り込まれるでしょうけど、そのかわり、これがもし、母親が精神的にいい状態であろうが、なかろうが、すぐに離しちゃうんだから、あんまり影響を与えないってことになるわけです。
それで、日本のお母さんの育て方の場合には、全世界ですから、全世界がいいか、悪いかですから、よかったら、これ以上の育て方はないわけですけど、もし、なんらかの障害があるならば、それは、どうしようもなく刷り込まれる、それは無意識の核のところに刷り込まれるっていうふうに、考えられるわけです。
そうすると、長じてっていいましょうか、すこし学童期っていうか、思春期前期になりますと、家庭内暴力みたいなのが起こるのは、それなわけです。そういうふうに起こった場合に、お母さんのほうは、それだけ、乳児の時、あるいは、胎児の時、自分の精神状態は、あんまりよくなかったとか、自分の家の経済状態がよくなかった、あの時は、赤ん坊によくやってあげられなかったなってことを、お母さん、自分で知ってますから、すこし子どもが大きくなってから、逆にものすごい可愛がり方、異常な可愛がり方をしたり、異常な教育ママになっていたり、異常に譲歩してしまうわけです。子どもの暴力に対して、異常に譲歩してしますわけです。
譲歩してしまうのは、なぜかっていったらば、全世界がいいのか、それとも、よくないのかっていう、そういう役割をかつてしたときに、あんまり自分がいい役割をしなかったっていうのを、お母さんは、自分では知っているわけですから、そのときのことを思い出すと、なんか子どもがこういうふうに理不尽な暴力を振るっても、ようするに、ぜんぶ退いて、引き受けてしまうわけです。
だから、家庭内暴力みたいなことになるわけですけど、これは日本のまったく特産物なわけです。さまざまなところで、さまざまな民族によって、さまざまな育児の習慣っていうのがあるわけですけど、日本って、べつに特殊っていうことじゃないんですけど、日本のいまは知りませんから、ぼくは、保証しませんけど、少なくともぼくらの世代の子どもまでは、そうだったんです。赤ん坊まではそうだったんですけど、そういう育て方、生まれてすぐ、そばへ置いて、おっぱいをあてがってっていう、そういう育て方は、人類の育児の習慣、歴史っていうものの中では、一方の極限にある育児の仕方の典型だってことはいえます。

5 育児のふたつのかたち-日本とヨーロッパ

 もう一方の、ある意味でひどい、しかし、ある意味では、子どもをおっ放しちゃうってことになるわけですけど、そういうもうひとつの、極端に反対側の典型は何かっていいますと、それは、これもいまはヨーロッパで行われているところは、非常に少ないと思います。つまり、ある特殊な、宗教性のあるところだけしか、それをやっていないと思うんですけど、昔はっていいますか、以前は、どこでも、ヨーロッパではかなり普遍的にそうだったって云えるのは、つまり、生まれてすぐ1週間ぐらい経ちますと、男の子だと割礼っていうのがありますけど、割礼しちゃうわけです。
割礼っていうのは、包茎っていうのの手術と同じで、赤ん坊のときにそこを切っちゃうわけです。それから、女の子ができたら、陰核切除っていうことをやっちゃうわけです。そういう習慣っていうのは、ユダヤ・キリスト教的な伝統ですから、それが典型的に行われた時にはそうだと思います。
それは、いってみれば、生まれてから1週間ぐらい経った後にもう、乳児っていうのは、いろんな意味づけがありますけど、ひとつの意味づけは、去勢しちゃうってことだと思います。去勢しちゃうってことの影響っていうのは、たぶんヨーロッパ・西欧文明をつくってきた原動力であったと思います。それは、いい面も、悪い面もあります。悪い面もあると思います。
いい面っていうのは何かっていったら、そういうふうにしますと、人間っていうのは、無意識の核のところで、去勢されてっていいましょうか、去勢を受けているわけで、その傷がありますから、非常に人間っていうのは、内向的になっていくわけです。内向的で、よくものを、ある意味では、ものをよく考えるとか、考える世界とか、感じる世界とか、つまり、そういういわゆる内面の世界ですけど、内面の世界に、心が興じて向いていく傾向性をもつようになります。それは、ようするに、たとえば、文学、芸術、哲学、科学っていうのを発達させてきた原動力であろうっていうふうに思います。つまり、ヨーロッパの原動力であろうと思います。それは、いい面だと思います。
悪い面は、たぶん、冷たい社会っていう言い方をすれば、冷たい社会をつくってしまったっていうことだって思います。それは、たぶん西欧文明の悪い面だと思います。
つまり、すぐに乳児、胎児をおっ放してしまう、母親からおっ放してしまうってことと、それから、すぐに割礼みたいな去勢をして、内向的にさせちゃうっていう、そういう習慣だから仕方がありませんけど、それはやっぱり日本の胎児の育て方とちょうど対照的にある、人類のいわゆる育児の習俗っていいますか、方法だっていうことできます。それは、どちらもたぶん、一長一短あるでしょうし、なんかこれに倫理的な意味はなかなか、これはよくて、こっちは悪いんだとか、こっちをやるから、甘えの構造ができるんだとか、こっちをやるから冷たい社会ができるんだとかっていうふうに、ひとくちに、そういう心理学者もいますけど、そういうことを簡単に言ってはいけないので、さまざまなニュアンスで、利点と欠点とが生じてきているというふうに思います。それは、文明の歴史が語っているとおり、そういうふうになっていると思います。
日本の社会では、そういう積み重なりが、やはりひとつの、ある意味では甘えの構造をつくっていきますし、ある意味で、家庭内暴力みたいな特産物を生み出したりする、その他さまざまなニュアンスで、日本の子どもの育ちかた、それから、人格の形成のされかたとか、文明・文化のありかたっていうものの型を、そういうものが決めていっているってことは言えると思います。
それは、弱点と思えるものと、それから、利点と思えるものと、両方あります。西欧の社会でもそうです。利点と思える点と、弱点と思われる点と両方あります。それが、やはりいってみますと、第一次的には、核のところで、つまり、胎児から乳児のところで、その型が決まっていくってことが云えるっていうふうに思います。つまり、そこまで入っていかないと、なかなか、この人の心の世界は、なかなかわからないとか、そういうことっていうのは、ありうるわけです。
だけど、すべてがそれであるっていうわけではありません。つまり、表面の意識の世界と、現実の世界だけのやりとりをうまくやれば、うまくいっちゃう、あるいは、治ってしまうとか、うまくいっちゃうっていうような、そういう心の面っていうのも、先ほど言いましたように、人間はだれでももっているっていうふうに言うことができます。ただ、たいへん心の世界っていうのはむずかしいことになっていることが言えそうな気がしてきます。

6 人間の身体器官は植物と同じものを持っている

 もうひとつ、これも体のことなわけです。人間の身体の器官のことなわけですけど、人間の身体の器官っていうのには、先ほど胎児のところで申し上げましたとおり、器官の起源っていうのがあります。ぼくなんかは、たいへんギョッとするほど、啓蒙されたんですけど、身体器官の起源っていうのも、いちおう考えておく必要があるような気がします。主なものについては、考えておく必要があると思います。
主なのだけ書いてみましたけど、口と肛門っていうのがありますけど、口と肛門っていうのは、お魚でいえば、えら腸なんですけど、えら腸の上端と下端っていうのが、発達して、人間の口と肛門っていうのが、できてるっていうこと、人間の腸っていうのは、こういうところが三木さんっていう人のすごいことだと思うんですけど、人間の腸っていうのは何かっていったらば、植物に例えるのがいちばんいいんだっていう、つまり、植物の幹っていうのがあるでしょ、根を張って、幹っていうのがあるでしょ。人間の腸っていうのを、内側と外側をめくり返したっていうのは、ちょうど樹木です。樹木の幹とおんなじことだっていうふうに言っています。
そこには、まわりに血管が取り巻いていたり、体液の腺が走っていたり、もちろん、神経も走っているわけですけど、それで、ちょうど人間の腸をめくり返して、内側を外側にして、筒にしたっていうのを考えると、それは植物でいえば、幹に該当するっていうふうに考えたらいいっていうことを、三木さんが言っています。
そういう考え方をすると、なにがいいかっていいますと、人間の中には植物がいたり、植物器官があったり、動物器官があったり、それから、人間固有の器官の働きっていうのもあるわけですけど、そういうものがあるってことなんで、もしも、自然を大切にしましょうとか、森林を大切にしましょうとか、言ってる人がいますけど、そういうことに根拠があるとすれば、たぶん、人間も、植物の器官、つまり、樹木の幹みたいなものをちゃんと腸管として持ってるんだよっていうことは、つまり、人間だって、植物だったときがあるんだよ、植物だったときっていう言い方は比喩になっちゃうんですけど、植物的な器官っていうのを持ってるんだよっていう、つまり、そこだけとってくれば、人間だって植物と同じなんだよっていうところを、人間の身体器官っていうのは持っている、そのことが、たぶん、森林を大切にしましょうとか、緑っていうのは重要だぜって言ってることの根拠といったら、ぼくはそれしかないんじゃないかなって思います。それくらいの根拠じゃないかなってふうに、ぼくは考えてます。
口腔と肛門っていうのは、そういう意味では、腸管が伸びてきたんだっていうふうに、考えればいいっていうふうに、それで顔のもっと先までいっちゃえば、人間の顔面っていいますか、顔の表情っていうのは、ようするに、下部でいえば、肛門部でいえば、脱肛とおんなじで、なんかそういう腸の表情が、なんか人間に出てきちゃった、人間の顔に出てきちゃって、その人の顔をみたらば、だいたいその人の腸の表情は、だいたいわかるんだってことになると思います。たぶんそれは、真理だと思います。科学的真理だっていうふうに、ぼくには思えます。つまり、人間の表情っていうのは、そういうもんだっていうふうに理解したらいいんだっていうことです。
それで、人間の舌っていうのは、口の中のでっぱりっていうのを、これは人間の体壁の筋肉で盛り上げているのが舌なんだ。体壁っていうのは、人間の感覚器官っていうのは、体壁器官なわけなんです。つまり、体壁器官を通じて、脳に入っていくもので、体壁っていうことは、内臓に対して、一方の極限なわけなんですけど、人間の舌っていうのは、そういうふうにして、口の中のものが、体壁の筋肉で持ち上がっている、それが舌なんだっていうふうにいうことなわけです。
それから、重要なことだけなんですけど、性器っていうのがあります。人間の性器っていうのは、本来的にいえば、えら腸の延長です、つまり、人間の腸の延長だっていうふうに考えてよろしいわけですけど、なぜか人間の場合には、排泄口である腎臓と、人間の性器っていうのは、腎臓と結び付くかたちで、腸管から枝分かれしちゃっていて、それは、骨盤の筋肉とか、神経とかに、やっぱり支えられているっていうふうに、人間の性器はなっているけど、元をただせば腸だっていうふうに考えたら、いちばん考えやすいんだっていうふうに、云うことになります。
それで、男の場合には、精子を射出するとき送り込む精管、それを取り巻く神経嚢っていうのと、それから、尿道とは合致したところで、ようするに、膀胱や直腸の神経と、骨盤のところで支えられ、結び付いて、また、取り巻かれているっていう、それが、人間の性器だっていう。
それから、女性の場合でもおんなじです。もし、性腺に精液が満ちてくると、運動を起こして、完璧に管の律動が起こって収縮したときに、射精するっていう、女性の場合でも、そのかたちっていうのは、ゆるいかたちで、おなじかたちで持続されるってことが、人間の性器の役割だっていうふうに考えてもいいわけです。これで、何が重要かってことになるわけですけど。

7 性器の挿入と授乳の関係

 極端なことをいいますと、男性でも、女性でも、性的な快感っていいましょうか、快感っていうのを得るだけだったら、異性を必要としないってことがあるわけです。異性を必要としなくても、快感だけが、性行為だとすれば、必要としないってことが、極端をいえば云えるわけだと思います。
それは、女性のフェミニズム運動っていいますか、女性解放運動の人のなかで、非常にラジカルな女性の主張のなかにはそれがあります。つまり、男性なんていうのはいらないんだって、あんなものはいらないんだっていう主張が根底にあります。
それは、そのとおりなんで、男性もおんなじです。男性器の亀頭背部に性感が集中しているところがあります。女性だったら陰核っていうように云われているものに、性感が集中しているところがあります。だから、そこで異性を必要としないで、快感を得ることができるってことは、男性でも、女性でも、もちろんおんなじなんです。またそれは、フェミニズムの一種の根拠になっているわけで、女性解放運動の非常にラジカルな人たちは、そういう主張をしています。つまり、男なんていらないんだっていうふうに言うのが基本にあります。それは確かにそうであって、男もまた、女の人を、そういう意味ではいらないっていうふうになります。
それだったら、挿入ってことは何なんだろうかってことになるわけです。つまり、挿入ってことは何を意味するんだろうかってことになるわけです。そこは、とても重要な点になるわけです。重要なことになると僕は思います。つまり、性器の挿入と受け入れっていうのは、いったい何を意味するんだってことは、とても重要なように思います。
とても重要なことをぜんぶ言うことができないですから、ここでは、必要なことだけ申し上げますと、ひとつは性器の挿入っていうのは、食、栄養、あるいは、命を養うってことですから、つまり、それなしには、赤ん坊の場合はすぐわかりますけど、乳児は授乳されること、あるいは、授乳に準ずることをされなければ、自分では栄養を取ることも、買ってくることもできませんから、すぐ死んでしまいます。だから、生命維持のために授乳、あるいは、それに準ずる母親の行為っていうのは必要なわけです。それと同じ意味合いで、栄養摂取ってことと、比喩的にいいますと、挿入と受け入れっていうのは、栄養摂取っていうことも、広い意味でそのなかに含まれているっていうふうに考えるのが、この際いいんじゃないかっていうのが、ぼくの考え方です。
そうすると、その場合には、そういうふうに考えると、男性が母性的な役割っていいますか、意味合いをもつように考えられますし、また、女性は乳児的な役割をもつ、あるいは、意味合いをもつっていうふうに考えることもできると思います。
それで、重要なことは、授乳ってことと逆関係で、授乳って場合には、母親は、いつでも、男性的でありますし、また、それは、日本の場合だったら、世界全体でありますし、それから、赤ん坊にとって、異性といえば、母親しかいない、あるいは、母親のおっぱいしかないってことになりますから、それは、母親はいつでも男性的であって、乳児のときには、子どもは、男であっても、女であっても、女性的であり、授乳を受けなければ、生命を維持することができないっていうことがあります。だから、授乳っていうことと、一種の逆の関係にあるってことが、たぶん、挿入と受け入れってことの、とても大きな意味だろうなっていうふうに、この際、そういうふうに考えます。
もっと複雑で、もっと微妙でっていうようなことが、そのなかに含まれています。しかし、それはここで、申し上げてもしょうがないだろうって思いますし、全部を申し上げるのは、なかなかむずかしいように思います。だから、いずれにせよ、それが、挿入っていうことがもっている、広い意味の食摂取行為、あるいは、生命維持行為ってことに該当するっていうふうに考えるのが、ひとまずここでは、よろしいんじゃないかっていうふうに思われます。これは、とても重要なことのひとつになります。
いくつかありますけど、もうひとつ重要なことは、鼻の役割っていうのがあります。鼻の役割っていうのは、ご承知のとおり、現在、2つあります。ひとつはにおいを嗅ぐっていう、そういう役割、それから、もうひとつは、呼吸を鼻から空気を吸ったり、吐いたり、呼吸作用をする役割、その2つが、人間の鼻にはあるわけです。
ところで、これはやっぱり、この上陸ってことと、かかわりがあるわけですけど、この鼻の役割っていうのの、元をただしていくとします。元をただしていくと、魚なら魚っていうのにゆきつきます。魚のときには、えらのところで、流れている水の流れを感知したり、流れの中から、水の中に溶けている酸素を吸収するってことがひとつあります。
もうひとつは、魚の場合には、嗅覚の起源に、水の毎日のにおいなんですけど、それから、呼吸器官とに、現在、分かれているわけですし、機能もそういうふうに分かれているんですけど、元をただせば、それはひとつのえらであって、えらのなかで、ようするに、水の中に溶けている酸素を吸収したり、そこで、水の流れの質を感知したりしてきたものだってことがわかります。
つまり、何を申し上げたいかっていいますと、嗅覚器官っていうのは、非常に起源のところでは、人間の感覚器官と、呼吸っていうのは、人間っていうのは肺臓でやっているわけですけれども。つまり、呼吸器官、内臓器官と、それから、感覚器官、体壁から神経がつながっているわけですけど、感覚器官っていうものとが、最初に分離する元になったところの感覚っていうのは何かっていったら、それは嗅覚だってことがわかります。
つまり、嗅覚っていうのは、とても重要で、ある意味で、いちばん原始的な感覚になるわけですけども。それは、同時に人間の心の動きが、ようするに、内臓の動きっていうものと、それから、目でなんか衝撃的なことを見たために、驚いちゃったとか、びっくりしちゃったとか、悲しくなっちゃったとかっていう、そういう人間の心の動きがあるわけですけど、感覚から入ってくる心の動きと、それから、内臓器官の動きからくる心の動きとが、最初に分離する場所っていうのが、この嗅覚器官が分離する場所であり、それは遡っていけば、水棲動物が、水の流れっていうのから、さまざまな水の質を嗅ぎ分けたり、それから、呼吸の代わりに水に溶けている酸素をえらの中から、体内に吸収したりってことですけど、その器官が最初に分離する場所がそこだったっていうふうに云うことができます。
ですから、人間の心の形成っていうことを、非常に起源のところまでいってしまえば、ここの最初に嗅覚っていうものが、呼吸機能と分離したところまで、遡ることができることになります。それは、魚が、水棲動物が、陸上に上がる、その直前のところで、そういうところがはっきり分かれる兆しをみせたってことが云えるんだってふうに思います。
だから、そこではじめて、植物性の神経で動かされている腸とか、肺だとか、胃だとか、心臓だとか、そういうものと、それから、体壁の神経ですけど、筋肉とか、体壁からやってくる、内臓にやってくる、神経がやってきて取り巻いているわけですけど、そういう神経とが、分離して、それが結びつくっていうような、最初のサイクルっていうのは、そこいらへんで、できあがってくるっていうようなことが云えるわけです。

8 何が心の動きのもとになっているのか

 人間の心の世界っていうのは、何でしょうか、つまり、心っていうのは、何でしょうかっていうふうに言う場合に、何でしょうかっていうことを言うことは、たいへんむずかしいんですけれど、何が人間の心の動きのもとになっているでしょうかっていうふうにいえば、それは、大別すれば2つあって、1つは、ようするに、内臓の動きっていうようなものが、心の世界の動きを決めていく面っていうのがあると、それから、もうひとつは、そうじゃないと、感覚器官、体壁から出ている脳につながっている筋肉とか、神経とか、そういうものが、つまり、動物性の神経ってことになりますけど、動物性の神経に動かされて、それがもとになって、起こってくる心の動きと、その2つがあるだろうなってことは、言えそうな感じがしてくるわけです。
その場合に、内臓の動き自体が、即座に人間の心の動きだっていうふうには、なかなか言いがたいんですけど、そういうものの表出っていう、表れってことですけど、表出っていう概念を使うわけですけど、そういう内臓からくる心の動きと、それから、感覚器官からくる心の動きとが、表出されたものが、人間の心の動きなんだっていうふうに考えられると、おおよそのところの見当は違わないんじゃないかっていうふうに思われます。
たとえば、ぼくらが現実的に、急に、物が落っこってきたとか、突然、驚くべき事態にぶつかったりすると、すぐに心臓がドキドキしたりとか、血管が収縮したりとか、お医者さんはよくご存じでしょうけど、そういうことが、つまり、内臓の動きってものが、心のドキドキっていいましょうか、興奮っていいましょうか、そういうのを誘っちゃうってことがありますし、また、たとえば、今日なら今日は下痢かなんかで、痛いんだとか、悪いんだっていうと、なんとなく憂鬱になったり、心が憂鬱になったりっていうことがありうるわけですし、また、胃なら胃が悪いと、なんとなくうっとおしくてしょうがない心の状態になるってことがあります。
つまり、こういうことは日常をよく体験しているわけですけど、つまり、内臓の動きが、心の動きに表出されるってことは、しばしば、起こるわけです。もちろん、逆に、感覚的な驚きとか、感覚的な快さっていうものが、なんとなく心を豊かにしちゃうとか、楽しくさせちゃうっていうような、そういう心の動き方っていうのも、日常よく体験しているわけですけど、たぶん、大別すれば、内臓、つまり、植物神経によって動かされているものの動きが、心の動きを決定する面と、それから、感覚器官が心の動きを決定する面と、心には、その2つの面があり、また、その2つの面で、人間の心は織り成されている、つまり、網目のように織り成されているっていうふうに考えることができると思います。
これは、ぼくらが自分の言語理論っていいましょうか、言語理論をつくったときには、文字に書かれた文学が主題だったんですけど、そのときに、自己表出っていう言葉と、それから、指示表出っていう言葉を使いました。
つまり、それを関連付けていえば、動物性、つまり、内臓の動きが、心の動きを表すっていう、そういうのは、ぼくの言葉でいえば、自己表出だっていうふうに言うことができます。自己表出なんだ。それから、もうひとつ感覚器官が反映して、心が動くっていう場合には、それは、ぼくらの言語理論であれした場合には、指示表出っていうことに該当すると思います。
つまり、人間の心の動きっていうのは、その2つから大別すれば、成り立っているだろうってことが言えそうに思えてくるわけです。もうすこし先まで言えそうなんですけど、もうちょっと人間の身体器官について、言ってみたいことがあります。それは、ひとつは、人間の頭蓋骨ですけど、人間の頭蓋骨は、やっぱり、発生史的にいえば、人間の背骨の骨が、人間の神経管がだんだん発達して、大脳化していくにつれて、人間の背骨の骨が発達して、頭蓋になったっていうふうに考えるのが、いちばん考えやすくて、いちばんわかりやすい、頭の頭蓋骨に対する考え方だっていうふうに思います。そういうふうに考えているといいんじゃないかってことです。
それから、もうひとつ、人間には頭蓋骨があります。それは、植物性神経の頭蓋骨です。植物性神経の頭蓋骨っていうのは何かっていいますと、われわれは、あごの骨っていうふうに言っているものがありますけど、これがようするに植物性神経の頭蓋骨に該当するわけです。これは腸管を保護するために、ここらへんの骨が発達してきて、それであごになっちゃったっていうことなわけで、これはやっぱり、植物性神経を保護し、また、発達してしまったところの頭蓋骨だっていうふうに考えると、考えやすいってことになって、ぼくは、ここで聞いて、びっくりしたっていうか、驚嘆したんですけど、こういうことを言う人がいるんだねって驚嘆したんですけど、そういうふうに考えれば、たいへん考えやすいんじゃないかっていうことになると思います。
もうひとつは、耳の穴ですけど、耳の穴っていうのは、魚でいえば、えらの穴が発達したものだっていうふうに考えればよろしいということになります。
こういうふうに考えてきますと、ぼく自身は、なんとかして、人間の感覚器官って、五感っていうように、5つに分かれている感覚器官っていうのは、全部どっかこのへんまでいけば、みんなつながっているわけですけど、人間としても、まだつながりが残っているんじゃないかみたいなことを言いたくてしょうがないんです。
つまり、理論づけたくてしょうがないわけですけど、なかなか云うのはむずかしいといいましょうか、云う根拠はむずかしいように思いますけど、なんとなくここまで、人間の身体の器官を起源にさかのぼって解いてもらえると、なんとなく、もしかすると、人間の感覚器官っていうのは、全部つながっている部分っていうのは、いまでも、残っているんじゃないのかなっていうことを、言いたくてしょうがない、ぼくはしょうがないわけです。それが言えると、たいへん都合がいい、理論的に都合がいいことがあるんですけど、なかなか、うかうかそういうことを言うと、オカルトになってしまいますから、ですから、言えないんですけど、言いたくてしょうがないってことがあります。オカルトとしてじゃなくて、科学として言いたくてしょうがないところがあります。
人間の身体器官を起源とする考え方っていうのは、まったく三木さんっていう人の考え方によるわけですけど、これを、人間の心の動きというふうなものと、結び付けたのは、ぼくが結び付けたわけです。ですから、ぼくは、それをまた、ぼくの言語理論と結び付けたくて、植物性の器官からくる心の動きは自己表出であり、それから、動物性の神経からくる心の動き、つまり、感覚からくる心の動きっていうのは、指示表出なんだっていう、言語にならない前の、つまり、言葉にならない前の、言葉の指示表出、それから、自己表出っていうのがあって、それが、心の動きなんだっていうことを、ぼくは、そういうふうに結び付けてきたわけです。

9 人間の心身にまつわる公理

 それで今度は、もうすこし先までいきまして、言葉以前の言葉っていうものについて、一種の公理ともいえることがあります。これも三木さんっていう人の考え方の、とても驚くべきと僕は思うんですけど、驚くべき考え方だって思いますけど、ひとつ、公理とも言っていいひとつは、人間の心の行動も、それから、からだの行動も、両方とも人間の自然な呼吸作用っていいますか、呼吸を妨げることなしには、行わないっていうのが、公理だと思います。つまり、例外なしの公理だっていうことがいえるっていうことなわけです。
非常にそんなことを言うと、むずかしいことのようですけど、簡単なことです。つまり、人間が、体をちょっと動かそうとすればとか、走り出せば、すぐにハアハア呼吸が激しくなるっていうふうに、すぐに自然な呼吸を妨げてしまうでしょ、そんなことは、たくさんあるわけです。
それから、人間の心の行動でも、たとえば無意識のうちに、精神を追い詰めっていいますか、脳を集中して何かを考えるっていうようなことを、われわれがやると、えてしてやると、知らないうちに息を詰めたりしています。息を詰めてそういうことをやっていたりしています。
いずれにせよ、自然の呼吸をストップさせていることです。そういうことをしなきゃ、人間のあらゆる体の行動も、心の行動も、成り立たないっていうことが、これは、ちょっと人間の心身にまつわる公理だって言っていいっていうふうに思われます。例外なしに、それ以外のことは考えられない、例外なしにそうだってことになると思います。
たとえば、例を挙げますと、日本の近代文学でっていいますか、現代文学でいうと、一連の系譜があるわけですけど、たとえば、芥川龍之介、それから、お弟子さんであった堀辰雄か、または、そのお弟子さんであった立原道造っていうような、そういう詩人・文学者っていうのがおります。
これらの文学者っていうのは、だいたい、芥川はそうでもないでしょうけど、だいたい胸の悪い人ですね、肺結核の人なんです。肺結核の人っていうのは、嗅覚にものすごく鋭敏だって、全部そうかなって言われると、ぼくにもあれはないから言えないんだけど、少なくとも、堀辰雄とか、立原道造とか、それから、芥川とかの文学作品をみますと、とてつもないところで、においが出てきたりします。それから、とてつもないものに、においと言ってみたりします。
たとえば、堀辰雄なんか、『美しい村』かなんかそうだと思いますけど、村の道へ入っていったら、村のにおいがしたっていうふうに言ってるんです。それじゃ、村のにおいってなんだっていうふうに聞きたくなるほど、わからないことを言っているわけですけど、でも、一種のにおいが鋭敏で、においでもって何か言っちゃうってことになってるんだと思います。雰囲気を言っちゃう。で、雰囲気を言う場合に、においって言ってるんだと思います。
もちろん、たとえば、柳田国男なんかも、村のにおいってことを言います。この場合は、しかし、においが鋭敏だっていうよりも、昔は、農村なんか行くと、たとえば、お盆なんかに農村に行くと、線香のにおいが村中に漂ってるんだっていう、そういう意味合いで、村のにおいっていうふうに言ってるんです。それは、線香のにおいのことを言ってるんです。
ところが、堀辰雄とか、芥川になりますけど、立原道造なんかの場合には、においって場合には、なんかのにおいっていうふうには、ちっとも言ってないし、そういうふうには受け取れないんですけど、とにかく、ある場所の雰囲気っていいましょうか、われわれだったら、雰囲気というべきところを、においと言っちゃって、においがするっていうふうに言っちゃってるくらい、においが鋭敏だと思います。
なぜ、においが鋭敏なんだって、ぜんそくの患者の人もそうです。うちの細君もそういうところがありますけど、ぼくなんかが、お煎餅なんかをつまみ食いすると、あっ、煎餅のにおいがするって、すぐやられますし、なんかすごい人がいて、玄関先で、玄関のドアを開けた途端に、このうちは、猫を飼っているのがわかるとかっていう、そういう人もいますし、とにかく、ものすごく鋭敏です。
なぜ、鋭敏なんだろうかっていうことを理屈付けるとすれば、ようするに、呼吸が、生理的にっていうか、呼吸器官が生理的に病気、あるいは、異常であるからして、この人たちは、ようするに、においに鋭敏にならざるをえないんだっていうふうに、つまり、この鼻のところの内臓感覚と、それから、五感の感覚とが、分離して結び付いたっていう、その起源だって申しましたけども、こういう考え方からすれば、そういうふうに言うことができると思います。
つまり、呼吸器官がもともと身体的に悪いんだから、これは嗅覚が鋭敏にならざるをえないじゃないかっていうふうに、言うことができるんじゃないかと思います。もしかすると、逆に鈍感になる人もいるのかもしれないけど、ぼくはお医者さんじゃないし、確かめたことないんですけど、少なくとも、ぼくが知っている文学的な範囲、あるいは、現実的な範囲でいえば、胸の悪い人と、それから、ぜんそくの患者さんっていうのは、たいていにおいが鋭敏だっていうふうに、ぼくはそういうふうに理解しています。
それは、たぶん呼吸器官と、嗅覚みたいな感覚器官とが、いつでも相矛盾するものだ、つまり、人間が心身の行動をする場合、かならず呼吸器官を妨げずには、それはできないんだっていうことに、そういうふうに、からだはできあがっているっていうふうに考えれば、ようするに、これは公理のひとつの系といいましょうか、そういう考え方ができるように思います。
これは、なにか重要なことが含まれているんだ、この起源には、なにか非常に重要なことが、心の問題としても重要なことが含まれているんだっていうふうに、ぼくには思いまして、たえず、芥川とか、堀さんとかの文学っていうのを考える場合に、たえず、いつも頭に引っ掛かっていますけど、うまくそれを心の問題として、何が重要なのかってことをうまく、まだ言えないような気がします。
違う、こういう例もあるわけです。ひとつは、分裂病者っていうのは、死ぬことができる、たとえば、だれでも死ぬことはできますけど、自分で自分の首を絞めて、死ねって言われると、たいていふつうの人だと、どっかで、呼吸を止めることと、それから、自分が感覚的な圧力を加えてっていうこととが、どこかで、相矛盾するものですから、苦しくなると、たいてい離してしまうと思います。
ところが、もし、病的だったとしたらば、両者の関係が病的だとしたらば、離さないと思います。離さないで、自分で自分の首を絞めて、死ぬまで首を絞めるってことができると思いますし、また、金盥の中に水をいっぱい入れて、それで、顔を突っ込んで、それで息を止めて、これで死のうと思ったって、たぶん、ふつうの人は、苦しくなったら、顔をあげちゃうと思いますけど、もし、身体的行為と、それから、呼吸との関係が、うまく反比例しないっていうふうに、できあがってるとしたらば、それで死ねると思います。死んじゃえるってことがありうると思います。
そういうことは、ひとつのまた例なんですけど、つまり、なぜ、そういうことが可能かっていったらば、たぶん、呼吸器官と、自分の身体的行為との間の、ほんとは二律背反であるべきところが、どっかで、二律背反になってない、異常な箇所があって、ずれた箇所があって、そこで、そういうことができちゃうっていうことに、なるんじゃないかってふうに思われます。

10 言葉は人間の自然な行為を妨げて発生した

 そうしますと、何が云えるのかっていいますと、非常に大雑把な言い方をいたしますと、人間の心の世界の正常さ、それから、異常さ、それから、病気っていうものがありうるとして、便宜上そういう分け方をするとしますと、人間の心の異常さとか、病気とか、そういうものっていうのは、いずれにせよ、その人の身体器官の問題でいえば、その人の植物性の神経器官、あるいは、内臓器官っていうものの神経的な作用と、それから、感覚器官の神経的な作用との間に、なんらかの意味でずれがあったり、わだかまりがあったり、それから、平行関係みたいなのがあったりっていうような、つまり、その両者の間で、つまり、両者の境目のところで、なんらかの意味の正常でない要素が起こったり、あったりするとすれば、たぶん、それは心の異常とか、心の病気とかっていうものの、ひとつの大雑把な根拠になりうるんじゃないかっていうふうに思われるわけです。そういうことが、大雑把なところでいえるっていうふうに思うわけです。
それから、もうひとつ、とても大切なことがあるわけで、それで、いまのことの、つまり、人間の心身の行動っていうのは、自然な呼吸を妨げることなしには、行うことができないっていうのが、公理だとすれば、この公理をもうすこし凝縮しましてっていいましょうか、つまり、公理の公理みたいなものを考えうるとすれば、もうひとつあります。
それは、人間の言葉っていうものは、人間の言語ですけど、人間の言葉っていうものは、人間の自然な行為を、極端に妨害することなしには、人間の言葉は発生しなかったってことが逆にいえるっていうふうに思います。
それは、とても重要なことのように思います。つまり、人間っていうのは、サルと同じ祖先のところからはじまって、なぜ人間だけが、言葉をもつようになったんだろうかっていうことについては、さまざまな説がありますし、また、さまざまな面から考えることができますけど、今日お話しした経路でいうならば、ようするに、人間はものすごい勢いで、人間の呼吸を妨げるってことができるようになって、はじめて言葉を生み出したっていうことが言うことができると思います。
なぜかっていいますと、これは、みなさんがすぐおわかりのように、アーとか、ウーとか言っている間は、人間の呼吸っていうのはそんなに、それほど妨げられずに、音声でもって、アーとか、ウーとか、スーとかいうふうに言えるわけです。そんなに妨げずに言えるわけです。
だけど、馬鹿とか、おまえとかっていうふうに、言語学上でいえば、分節化っていうんですけど、音声の分節化っていうことですけど、音声の分節化っていうことができるためには、いまぼくらは、簡単に馬鹿とかなんとか言ってますけど、それは、ようするに、自分の親も言ってたし、その前も言ってたから、それができるってわけで、一等初めに、サルから分かれて、言葉をもつか、もたないかってときだったら、ものすごい集中力で、自分の呼吸をウーって止めたり、ウッの次にアッて言ったりだとか、できるようにならなければ、言葉っていうのは生み出せなかったってことが云えると思います。
つまり、言葉っていうのは、いまでこそっていいますか、つまり、できてしまえば、言葉っていうのは、何気なく、さりげなく話せるわけですし、よほど病気にならなければ、言語不明瞭であるとか、言葉をしゃべることができないっていうのは、よほど病気っていうふうに言われるようにならなければ、そうはならないですけれども、だからわりに、平気で言葉っていうのは、ぼくら言ってるようにみえるけど、呼吸もそんなに妨げずに言っているように見えますけど、ほんとうをいうと、つまり、人間の起源のところまで、サルのところまで遡れば、ものすごい集中力で、ウーとか、アーとかったって、ウの次にアとか言っちゃうってことができるようにならなければ、絶対に言葉を生み出せなかったっていうことが言えます。
だいたいそれが、人間とサルとの違いの、大きな枝分かれするひとつの違いなわけなんです。それだけで言っちゃいけないんですけど、いろんな言い方ができるんですけど、環境問題としても云えますし、いろいろ言えるんですけど、それは、ひとつの、今日お話しした、言葉以前の心の世界の経路でいいますと、それは、ひとつの言い方になります。それは、とにかく人間になったやつはそれができたんだ。人間にならないで、サルのままだったやつは、そこまでは集中できなかったんだっていうことが言えるっていうふうに思います。

11 言葉を持つようになった要因

 それから、もうひとつ、申し上げないで、きてしまったわけですけど、ぼくが、無意識とか、無意識の核とか、こういう概念を使っているわけで、この概念は、フロイトがつくった概念であるわけです。
フロイトがつくった概念っていうのを、たいへん立派な概念だって、すごい概念だって、ぼくが思っているもんですから、その影響を受けているわけで、フロイトの概念では、リビドーっていうふうに言うわけですけど、つまり、精神の異常とか、病気っていうのは、みんなリビドーっていうのが、広い意味でのそういう言い方をしていいかわかりませんけど、広い意味での性的な欲動です。
それをリビドーっていうふうに言っているわけですけど、リビドーっていう言葉っていうのは、ある意味では、ただの行動のエネルギーとも、近いところで使っていると思いますし、ほんとうに性行為の欲動ってなところでも使ったりしていますから、非常に広範囲で使っていますけど、フロイトのリビドーっていう考え方からしますと、心の異常とか、病気っていうのは、結局おんなじなわけですけど、ちょっと違うことになっています。
たとえば、フロイトは、心の異常っていうのは、どういうふうにして、できあがるかっていうことは、やっぱり、いずれにせよ、人間の現実に生きている意識の世界が、どんどんどんどん、なんらかの理由で、なんらかの抑圧・圧迫なんでしょうけど、圧迫ってことを受けて、どんどん無意識化していってしまうと、どんどん現実世界から、撤退してきちゃうっていう、そういうことと、それから、もうひとつ言ってることは、心の異常とか、病気とかっていうふうになる素因っていうものの中には、かならず同性愛的な素因が、つまり、リビドーが同性に向かうっていう素因、自分のほうが異性である、自分に対して異性であるっていうふうになれるところで、異常っていうのが起こると、それから、もうひとつは、ようするに、それと同じことなんですけど、自分に対して、自分がリビドーを感じる、つまり、これは、フロイトの言葉でいえば、自己愛ってことなんです。ナルシシズムってことでしょうけど、その2つ、つまり、いずれしろ、性的同性愛ってことが、かならず、心の異常ってことの根底に、かならずありますよっていうふうに、フロイトは言ってると思います。
ぼくらは随分、影響を受けているわけですけど、ちょっとそういう言い方をしなくて済むんじゃないかってふうに、いままで考えてきたものですから、いずれにせよ、どう考えたかっていいますと、感覚器官っていうのも、それから、内臓器官っていうのにも、神経的にいえば、一種の感覚でもないから、なんて言っていいかわからないわけですけど、仮に、ぼくは、エロス核だっていうふうにいう言葉で云っているわけですけど、人間の内臓器官の動きっていうのを、あるいは、人間の感覚器官の動きっていうのは、かならず、動きそのものに、かならず、エロス核っていうのが、かならず伴うのであるっていうのが、ぼくらが考えてきた考え方なんです。
ですから、サルと人間が、いま言いましたように、どうして人間だけが言語を持つようになったか、それは、自然の呼吸を妨げる妨げ方っていうのを、非常に集中的にできるようになったことなんだって言いましたけど、ぼくは、もうひとつの要因があって、エロス核っていうふうに言いましたけど、あらゆる内臓器官っていうもの、それから、感覚器官の動きに伴うエロス的な、性的な欲動なんですけど、そういうエロス核っていうものを、これもまた非常に強烈に集中すること、たとえば、強烈に1人の異性でも、1匹の異性でもいいわけですけど、1匹の異性に対して、非常に集中することができるようになる。つまり、エロス核の集中が可能だったってことが、もうひとつ、ほんとうは要因があって、人間は言葉を持つようになったんだと、こういうふうに考えているわけです。
つまり、動物もエロス、性的欲動を持っていると、もしかすると、人間よりも持っているかもしれない。それは、あらゆる異性に対して、動物はエロス核を持っている。しかし、その中から、特定の1匹の異性のサルに対して、大勢いるところでって言ったらおかしいですけど、大勢群れを成しているところで、1匹の特定の異性に対して、エロスを集中するっていうことは、瞬間的にはもちろんできるわけでしょうけど、しなきゃ成り立たないわけでしょうけど、そうじゃなくて、ある程度、持続的に、それができるようになったか、ならないかっていうことが、やっぱり、人間とサルとを分かった最初の岐路なんで、それは、言葉の発生ってことを、非常に影の方からっていいますか、裏のほうで可能にした、非常に大きな要因なんだっていうふうに、ぼくはそういうふうに考えます。
つまり、エロス核っていうものを、ある期間、持続的に集中することができるようになったか、ならないかってことが、やっぱり、言葉を持つようになったか、ならないかっていうことの、非常に大きな要因だったっていうふうに思います。
ですから、逆にいうと、言葉を失う病気っていうのはあるわけですけど、その病気っていうのは、かなり無意識の核に近いところまで、かなり入っていかないと、なかなか、わかったっていうところまでは、なかなか行けないみたいなことになるのではないかっていうふうに思います。
それくらい、ほんとは、いったん獲得した言葉を失うとか、いったん獲得した、分節化された音声なんですけど、分節化された音声っていうものを解体してしまうっていいますか、それが崩壊してしまうってことは、相当たいへんなことであって、やっぱり言葉を失うか、失わないかっていう、あるいは、言葉を発生せしめたか、しないかっていう、ほんとうは、そこまで行かなければ、なかなか治ったとは言えませんよみたいなことになるのではないかっていうふうに、ぼくには思われます。
ただ、こういうことっていうのは、いつでもあるわけです。つまり、先ほども言いましたように、たとえば、そうじゃないと、つまり、言葉を失ったってことも、失った状態であっても、たとえば、現実的に、周囲の扱い方が、ものすごく従来に比べて、いい扱い方になってきたとか、また、言葉をもう一度分節化する訓練みたいなものを、非常に熱心に持続的にやったっていうようなことは有効でないかといえば、有効であると思います。それが有効な部分っていうのは、人間の心の中にあると思います。しかし、それでだめだったらどうするんだって言った場合に、核のところまで入っていかなくても、それは済むんだって、つまり、ほかのやりかたをすれば済むんだっていうふうに考えるのは、ぼくは違うような気がいたします。

12 心の病気と身体器官

 こういうのを具体的な例は、たとえば、家庭内暴力っていう日本の特産物がありますけど、この治癒方法で、例えば、戸塚さんのヨットスクールっていうのがありますけど、この治癒方法、治癒手段っていうのは、やっぱり、日本の特産物じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
それは、戸塚さんっていう人は、たぶん、家庭内暴力で、もうどうしようもないんだって、この子を殺して、わたしも死ぬ以外にないって、母親がそこまで追い詰められたみたいになったとします。そうすると、戸塚さんのところに行って、なんとかしてくださいみたいなふうに、たとえば、言ったとします。そしたら、戸塚さんが、おれのところに合宿させろっていうふうにして、おれが治してみせるっていうふうに、戸塚さんがやったと思います。
それは、2つ意味があって、ひとつは、身体的行動っていうものを、かなりきつい行動をするっていう、ヨット訓練をする。そういうことによって、今日の言い方で、たとえば、自然な呼吸を、相当極端なところまで、妨げるっていう、そういうやりかたをした。つまり、おっかなくてしょうがないとか、恐怖にまた打ち勝とうとしたりとか、葛藤いちじるしい、つまり、相当きわどいところまで、心身の行動を、すごくきついような訓練をさせることで、その人の自然な呼吸を、どんどんどんどん、限界に近いところまで、追い詰めていくってことで、たぶん、いってみれば、サルと人間が、なぜ言葉を人間が獲得したかっていうところの、集中力の大変さっていいますか、異常さ、大変さとか、もっとさかのぼれば、胎児が上陸するときの大変さっていうような、そういうところに、できるだけ近いところまで、子どもをもっていくことによって、もっていく体験をさせることで治しちゃうっていう考え方が、ひとつだと思います。そう言っているかどうかは知りませんけど、今日の考え方は、ぼくらの考え方からすれば、そうなります。
それがひとつと、それから、もうひとつは、戸塚さんはようするに、母親じゃないっていうふうに思っていると思います。父親だって思っていると思います。つまり、父親が、だいたい子どもの教育から手を引いちゃって、社用族になっちゃって、手を引いちゃって、おれ今日残業だとかなんとか言って、子どもの教育はおふくろさんに任せっぱなしだっていうふうになっちゃってるから、こういうふうになってるていたらくだからだめだっていうのが戸塚さんの考え方だから、精神的にいえば、父親代理っていいましょうか、それを自分たちが引き受ける、強いエディプスコンプレックスっていうことになりますけど、フロイト流にいえば。それを、再現させるんだって、強大な父が立ちふさがって、弱小な子どもっていうのと葛藤を演じるんだっていう、そういう考え方だと思います。
それによって、やっぱり極限まで、強大な父親っていうのを体験させて、それで、なにくそとか、この野郎と思ったり、そういうところまで、精神がいくならば、これはやっぱり、治癒に近いところまでいくに違いないっていうなのが、戸塚さんの考え方だと思います。
しかし、ぼくらの考え方、今日お話ししましたけど、そうじゃないと、もうすこし、もっと前なんだと、母親なんだっていうふうになる、どうしてもなるわけです。それは、母親っていうのは、そんなことないって、つまり、子どもに対する教育が熱心で、子どもはかわいがるしっていうふうにしてんだけど、逆に、そういうふうに甘やかされた、甘やかしてやったから、そうなっちゃったんだみたいなことを言いますけど、ぼくはそう思ってないので、そういうふうに、過剰に甘やかしている母親っていうのは、かならず、胎乳児のとき、ちょっとまずったっていうところがあるから、そうしてんだっていうふうに、ぼくは考えています。
お母さんがたは、そうだとはけっして言わないでしょうけど、ぼくはそうだと思ってます。それは、お母さんのせいではなくて、社会環境のせいでもありますし、それから、家庭環境のせい、つまり、親父さんの働きが悪いとか、ほかの女の人をつくったとか、いろいろあるでしょうけど、そういうあれがあるなら、べつに母親のせいではないですけど、でも、扱い方をまずったってことは、かならず、乳胎児のときにあるというのが、ぼくの考えだから、それは母親の問題だっていうふうに、ぼくには思います。
そういう意味では、戸塚さんの考え方っていうのは、ぼくはとらないですけど、しかし、ある程度まで、戸塚さんが何をしようとしているかっていうのは、ぼくはわかるような気がします。そういう問題っていうのは、いつでも、言葉の問題と、それから、公理の問題、それから、心の問題とのかかわりとして、起こってきちゃうわけです。
たぶん、病気っていう場合でも、専門家の先生は、とにかく、分裂病もあり、躁うつ病もあり、あるいは、うつ病もあり、それから、ある意味、てんかんもあるし、ある意味分類すれば、もっとさまざま境界線を、精神障害みたいな、異常か、正常か、わけがわからんみたいな、そういうところまで、たくさんの分類と、それから、たくさんの病名と、たくさんの読み方っていうのを、もっておられるでしょうけど、大雑把なところで言ってしまえば、躁うつ病とか、うつ病とかっていうのは、たぶん、心の病気、つまり、もっと違う言い方をしますと、内臓器官の動き、それにまつわる神経の問題から、主にそういうところから起こってくる病気だっていうふうに、どちらかっていうふうに傾ければ、そうなるように思いますし、分裂病って言われているものは、考え方をあれすれば、たぶん、感覚器官にまつわる神経の問題っていうところが、根本にあるように片づけるっていいますか、片寄せるって考えることは、できそうに思います。そこいらへんのところで、たくさんの問題が生じてくるように思います。
ところで、ぼくらの関心と、それから、ぼくらのできる範囲の問題でいえば、だいたいそこらへんまでのところで、それ以上踏み込んでいくと、病気自体の問題になったり、精神異常自体の問題になって、そして、それは、先生方の問題だと思います。ぼくらの、言葉以前の言葉っていうものが、心の問題として、何を意味しているのかっていうことについての、ぼくらの基本的な考え方っていうなのは、ここいらへんのところまでで、いちおうの大筋は云えてると思います。

13 インディアンの言語感-フォレスト・カーター『リトル・トリー』

 ところで、ぼく、ここへくるために、本もいくつか読んだんです。それでもって、これはおもしろいなっていうか、ぼくらの考え方を、ある程度、助けてくれるなっていう考え方を見つけられる本が、2つありました。
ひとつは、チョプラっていう人の『コンタム・ヒーリング』っていう、これは、量子的な治癒法っていうか、治癒構造っていうか、そういう本だと思います。
どういうところが、ぼくらの助けになるなと思ったかっていいますと、2つありまして、ひとつは、この人は、体っていうのは、身体生理ですけど、体っていうのは、それ自体で、心を持っているっていうふうに言ってるんです。
つまり、体があって、心があるっていう考え方は、誰でももってるわけですけど、そうじゃなくて、体自体の動きが、心を持っているっていうふうに言ってるんです。それを、英知、知恵ですね、知恵っていうのは、なにも頭がいいとか、悪いとか、知識があるとか、そういうことじゃなくて、英知って、知恵ですね、英知っていうのは、それなんだっていうふうに言ってるわけです。
この人は、精神医学者でしょうけど、すれすれなような気がします。オカルトとすれすれのところで、書いてる気がします。だから、この言葉をぼくらの言葉に直さなければいけないんですけど、それは、無意識の働きっていうのは、人間の働きっていうのは、フロイトが見つけ出して、あるわけですけど、無意識の働きには、もうひとつ、その下に、無意識っていうのがあるぜっていうことを言ってるっていうふうに言い直せば、なんとなく、今日考えてきた筋道で通せるような気がします。言ってることは、ものすごくよくわかるんですけど、それ自体、体があって心があるんじゃなくて、あるいは、体の働きがあって、心の働きがあるとか、そういうのじゃなくて、体の働き自体が心を持ってるっていう言い方をしています。それは、英知なんだって言い方をしています。
これは、人間の体の動きっていうのは、現在の段階では、詳細にはわからないですから、これが、多少、精神状態をレベルアップする薬だとか、レベルを下げる薬だとかいうふうな意味合いでは、多少の科学的なあれがあるでしょうけど、人間の身体の、全生理科学過程っていうのは、いまのところの解明度では、なんか言うと、ぜんぶ偏ってしまうことになってしまいますから、そういう言い方っていうのは、ある意味でいいんだろうと思いますけど、そういう言い方を、ひとつしています。それは、とても、ぼくらには参考になりました。
それから、もうひとつ、これは、小説なんですけど、フォレスト・カーターっていう、アメリカのマイナーな作家だと思います。もう2,3年前に亡くなった、カーターっていう作家がいるわけです。これは、インディアン出身の作家です。この人の『リトル・トゥリー』っていう本が、本って小説ですけど、現在、出ています。これは、ぼく、今年読んだ本では、読んだ小説では、ピカイチの小説で、ぼくはお勧めします。もし、容易く手に入るなら、東京なら容易く手に入りますけど、こっちではわからないから、わりあいによく売れている、ひそかに売れている本です。メルクマール社っていうところから出てる。小さな出版社だと思います。そこから出てる本ですけど、翻訳書ですけど、ぼくが、去年の暮れから今年にかけて読んだ本の中では、最もいい本で、感銘を受けた本です。
それで、それは何を書いているかっていいますと、ようするに、この人は、インディアン出身なんですけど、父親と母親が亡くなっちゃって、それで、山住まいをしているインディアンのおばあさんと、つまり、祖父と祖母ですけど、祖父と祖母に預けられるわけです。孤児として預けられるわけです。そして、毎日のように、おじいさんの後をくっついて、木の実を探したり、山の畑を耕したり、鳥や獣を、時々、捕ったりして、それで暮らしているわけです。そういう世界なんです。
何がすごいのかっていうと、そういう世界っていうのは、ぼくらが、そういう世界を想像する場合には、比喩として想像するか、それじゃなければ、外側から理解するかっていう以外にできないんですけど、そういう、自分が子供のときに、おじいさん、おばあさんに預けられた体験っていうのを元に書かれている小説、自伝的な小説なもんですから、外から書いてるものじゃないし、比喩の世界でもないんです。
たとえば、おじいさんが、子どもの自分を連れて、山の方々を歩き回るわけですけど、そうすると、この木の実は何月ごろ採ればいいんだとか、そういう知恵も教えてくれるわけですけど、そうじゃなくて、感覚を教えてくれるわけです。つまり、いま風がこういうふうに吹いて、木がこういうふうに鳴ってるだろうって、これは、木がこういうふうなことを言おうとしているんだよっていうふうに、おじいさんは教える。そういう教え方をするわけです。それで、もちろん小鳥が鳴いていると、あの鳴き方は、何を言ってるかっていうと、こういうことを言いたくて鳴いてるんだよ、それを、われわれが言ったり、エコロジストが言えば、みんな比喩になっちゃうわけです。つまり、比喩として、そう言っていることになっちゃうんだけど、ほんとうにそういうふうに思ってるし、そう聞こえてるしっていうふうな世界を描いてるわけです。
それには、ひとつの言語感があるんです。インディアンの言語感、それが普遍的かどうかは、ぼくは知りませんけど、おじいさんは、ひとつの言語感を、言語に対する理論を持っているわけです。
その理論を孫に教えるわけですけど、つまり、言葉っていうのは、意味じゃないぞっていう、意味として受け取ってはだめだぞっていうふうに教えるわけです。意味として受け取ると、みんなわからなくなっちゃう、つまり、木がいま何を言っているのかっていうのも、鳥がいま何を言っているのかっていうのも、全部わかんなくなっちゃう、だけど、言葉には、意味じゃなくて、それは調子って言葉で訳してありましたけど、調子っていうのがあるんだ。調子っていうのでもって、言葉を受け取らなきゃいけない、こういうふうに言うわけです。それで、調子で受け取れば、鳥の鳴き声とか、木がこういうふうに鳴ってるときは、こう言ってるんだっていうような、そういうことがわかるっていうふうに、こういうふうに孫に教えるわけです。そういうふうに教えるのは、比喩として教えているんじゃなくて、ほんとにそう思って、そういうふうに教えて。そういうふうに聞こえるっていう、そういう世界を、内在的にっていいましょうか、自分の体験ですから、それを見事な世界として描いているわけです。

14 未開・原始の心

 たとえば、そういうふうにやってると、幼年期を脱して、学童期っていうふうに、あるいは、児童期っていうのに入るわけです。5歳くらいから以降、そういう時期に入って、それで、アメリカ政府から、おまえの孫は教育もしないで、こんな山の中であれしてたらだめだから、里へ、村へよこして、町へよこして、孤児院、育児院に入れて、教育を受けさせろっていうわけです。
おじいさんは嫌で嫌でしょうがないし、自分も嫌で嫌でしょうがないわけですけど、仕方なしに、育児院に行くわけです。行った時に、おじいさんが、夕方になったら、シリウスの、つまり、天王星ですね、シリウスの星がここらへんに出てくると、そしたらおまえ、夕方になったらそれを見ろ、こう言うわけです。それを見れば、自分も、おばあさんも、それを見てるから、そうしたら、話ができるからな、こういうふうに言うわけなんです。それで納得して、育児院に行くわけです。
そこで、いわゆるキリスト教教育なわけですけど、教育を、ボランティアの人かなんかが教えてくれるわけです。小さな川の流れのところで、鹿が2頭渡っていくところの写真かなにかがあって、先生が、これは鹿さんが何をしているところですかって質問するわけです。そうしたら、子どもたちは、仲良く川を渡ろうとしてるんだとか、いろいろ適当に言うわけです。見え方を言うわけです。
ところが、その子ども、孫ですけど、山から連れてこられた孫は、つまり自分ですけど、そうじゃないって言うわけです。あれは、雄の鹿と、雌の鹿が、あそこで交尾をしようとしているんだっていうふうに、その子が言うわけです。どうしてかっていうと、まわりの木が、こういうふうに紅葉しているだろうと、こういうふうになってる、これは、鹿さんの交尾期なんだってことを示している。だから、これは交尾しようとしているんだ。こういうふうに、言うわけです。
そうすると、先生がカンカンになって怒るわけです。若い子どものくせに、なんてことを言うんだとか言って、折檻されちゃうんです。折檻されて、その子は、その子っていうのは、その作家でしょうけど、ほとほと嫌になっちゃうわけです。山へ帰りたくてしょうがないわけです。夕方にシリウスの星を見て、帰りてえよっていうふうに言うんです。
そうすると、それはわかりません、精神科のお医者さんの領域になるかもしれませんけど、それがわかったのか、わからないのか、とにかく、おじいさんが町へやってくるわけです。それで、町へ来たついでに、ここへ寄ってみたよって言って、その育児院のところへやってくるわけです。おまえは元気そうだから安心したとか言って、おじいさんは帰ろうとするわけです。帰ろうとするんだけど、もう我慢ならなくて、追っかけていって、おじいさん、おれは一緒に帰るよ、山に帰るよ、帰りたいんだっていうふうに言うんです。そうすると、おじいさんは、そうか、おれはそうだと思って来た。だけど、おれがそういうふうに言うのは、よくないと思うから、おまえがそう言ったら、連れて帰ろうと思ってた。で、おまえは言った。あとは、どうなってもいいから、一緒に帰ろう。で、帰るわけです。
つまり、その手の世界っていうのは、心の動きとしていえば、非常に未開・原始の心の動きでもありますし、未開・原始の心の動き、あるいは、心の世界、行動の世界っていうのは、無意識のうちじゃなくて、ちゃんと世界の、現実世界で行われていたら、それは、ただの未開・原始であって、異常でもなんでもないわけですけど、それが無意識の中に押し込められて、奇行動として出た場合には、ちょっと変わった行動になった時に、われわれは、現在それを、異常だっていうふうに呼んでるわけです。
だけど、それが、意識世界でそういうふうにやっていたら、ただの未開社会だってことになるだけなわけです。そこのところの、微妙な世界っていうのは、ものすごく見事に内在的に描かれているわけです。
だから、ぜんぶ比喩の世界じゃないんです、それが。読んでると、確かにこれは、そういうふうにわかってるんだよ、わかっちゃってるんだよなぁっていうふうにしか読めないように描かれています。
これは、ぼくが、ここ半年ばかりの間に読んだ中で、最もみごとな小説だったです。しかも、ぼくらが関心をもってるって言ったらおかしいですけど、別な意味で関心をもってる、その世界を、とってもよく、違うことから、みごとに描いた世界です。これはちょっと、作品としても、たいへんいいできの作品ですから、結構お勧めしたいっていうふうに思います。

15 心の世界がもたらす文化のパターン

 もうひとつ、これからあとは、言葉の世界になりまして、言葉の世界っていうのから、民族語っていいましょうか、つまり、日本語とか、英語とか、フランス語とか、つまり、民族語の世界に、だんだん分岐していくわけです。
ぼくは、やっぱり、日本語の世界っていうのにちょっと関心をもってまして、日本語の世界っていうのと、日本人っていうのと、それから、日本っていうのも変ですけど、なかなかわかりにくいところで、わかりにくい場所でして、だから、関心をたくさんもっているんですけど、こういうのは何が面倒くさいかっていいますと、ここにAという言葉をしゃべる人種でも、種族でもいいんですけど、それがいて、Bというしゃべる人種が、たとえば、後からここのところへやってきた、両方、主な部分では混血して、どっか違うところではBの要素が多くて、少ししか混血していない。こっちでは、Aの要素が多くて、少ししか混血していない。
こういうイメージを描きますと、日本のイメージになるわけですけど、この場合に、Aという言葉と、Bという言葉が混合しますと、混合っていうか、融合しますと、どちらでもない言葉ができあがります。
どちらでもない言葉っていうのは、どういうできあがり方をしますかっていいますと、たとえば、文法は、慨していえば、Aという言葉に似てないことはない、だけれども、普段、使われている言葉は、Bという言葉からできている単語とか、用語とかがしきりに使われている。こういうふうになっていて、ほんとうをいうと、文法構造からして、両者と全く違う言葉ができあがります。たぶん、日本語っていうのは、そういう言葉だっていうふうに思います。
その要素っていうのの、ひとつの要素っていうのは、どういうあれがわかっているかっていいますと、たぶん、Aの要素か、Bの要素か、どちらかなんですけど、どちらかのひとつの要素は、いわば、東南アジアとか、ポリネシアの島とか、そういうところと関係のある言葉であろうっていうふうに思われるんですけど、いまでも、ポリネシア系の人と、日本の人だけが、風の音とか、そういうのを聞くときに、左脳っていいますか、言語をあれする脳のほうで、それを聞くっていうふうにされています。
たとえば、お相撲さんでいうと、小錦とか、曙とか、ああいう人たちは、ポリネシア系統の人ですから、ああいう人たちと、日本人っていうのも、たぶん、Aか、Bか、どちらかが、それに類するでしょうから、それとだけが、ふつうの音声で、言葉をあれする左脳で聞くっていうふうにやっています。あとの種族っていうのは、ぜんぶ右脳で聞く、けれど、そこだけはそうだってなっています。
その手のことっていうのは、いくつかあります。成人T細胞白血病っていうふうにお医者さんが言ってるもののキャリアっていうものを、いまのところ、日本人とアフリカ人しかないっていうふうになっています。
そういうわからないことっていうのは、いろいろあるんで、やっぱり、日本人っていうのと、それから、日本語とか、わからないんですけど、精神問題から、心の問題から、言葉の問題、それから、風俗、習慣、文化の問題っていうのは、ぜんぶ非常にわかりにくいところがあるわけです。それは、たいへんわかりたくてしょうがないってところがあって、そういうふうに入ってみますと、歴史時代、言葉の時代に、それも民族語の問題、分かれた後の問題に入っていってしまいます。
たぶん、そういうふうに入っていったところで、出てくる問題は、この意識世界、それから、現実世界の問題であって、そこでどうかすれば解けてしまうっていうような、そういう世界だと思いますけど、なかなか面倒な言葉の世界っていうふうに、これから入っていきまして、それから、言葉の世界がつくりあげる心の世界っていうふうに言う心の世界は、だいたいできちゃっていると、ぼくは思いますけど、そのころはできちゃってるっていうふうに思いますけど、とにかく、心の世界がもたらす文化のパターンっていうものはあると思います。
それが、どうなっているかっていうような問題が、ぼくらの関心なわけで、これから追及していきたいわけですけれども、心の問題として、言葉以前の言葉、あるいは、言葉の原型的なところでの問題っていうのをお話ししまして、今日これは、わりあい、心の問題と言葉に発展していく問題とが、共通な場所だっていうふうに思います。
そこのところで、ぼくなんかが、考えられたことっていうのが、今日お話ししたことで、だいたい尽きているっていうふうに思います。ですから、これが参考になってくれたら、ありがたいってことで、この3回やらせていただいた、3回目のお話を終わりたいと思います。(会場拍手)

16 司会

 5時半から6時くらいまでの間、あとありますから、すこし今日の話で、質問とかそういうことがありましたら、出していただきたいと、ともかく、今日の話は、事前に吉本さんの講演会をやるっていうことで、お知らせをしたら、どんな話をするんやっていう問い合わせがかなりあったわけです。
精神医学の話ですか、文学の話ですかっていうふうに、ぼくらも聞かれて、ただ、今日のは、じゃあ何の話だったんだって、テーマの話なわけです。ただ、これがやはり、勝手に言わせていただくと、吉本さんの三部作みたいなのがあります。『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』と『心的現象論』という、それが全部、それの展開っていうことだと思います。
だから、精神医学と文学の中間なのか、それをちょっと超えたものなのかっていうような話だったと思いますし、実際に、1回目と2回目と、この3回目っていうのが、ほんとにうまく、ぼくらにとってはつながったっていうふうに思いました。それで、どなたか、今日の話でもいいですし、質問がありましたら、どうぞ。

17 質疑応答1

(質問者)
 すみません、精神医学にも、文学にも、まったく無関係な、ふつうの素人の者ですけど、非常に興味深くお話をお聞きしました。そのなかで、非常に素朴な疑問かもしれませんけど、4つぐらい、疑問に感じたことをお尋ねしたいと思います。
 まず、最初に、乳児期の体験です。お母さんが、赤ちゃんを出産した後、約1月位、子どもと密着した時間を過ごすわけですけど、これが、日本独自の家庭内暴力のもとじゃないかないかとおっしゃったことに対して、こういう家庭内暴力が起こったというのは、非常に新しい現象だと思うんです。その前に、アメリカでも、校内暴力とか、いろんな問題が起こって、そのあと、日本にそういうことが起こったのは、非常に最近のことだと思うんです。
だから、昔から母親と幼児が、1か月くらい密着して過ごすということは、日本では、昔から習慣としてあって、日本の過去の歴史で、家庭内暴力というのを特徴づけるようなものは、何もなかったんじゃないかなと、わたしはそう思ったんです。これが、ひとつです。
 それから、2番目は、人間の心というのは、内臓器官からくるものと、感覚器官からくるものとで、つくられているというふうなかたちでお話されたんですけど、ちょっと思い当たることは、たとえば、脊髄をやられて、まったく感覚も、内臓も、まあ内臓は心臓やら動いているわけですけど、そういう遮断された人間でも、非常に豊かな言語世界をもっていて、すばらしい詩を書かれたり、あるいは、お話を書いてらっしゃるのを読みましたし、また、脳性麻痺の人なんかでもそうですし、だから、かならずしも、そういう内臓器官とか、あるいは、感覚器官だけで、人間の心が構成されているのではないのではないかと思うんです。そのことについても、ちょっとお尋ねしたいと思ってます。
 それから、もうひとつは、言語というのは公理じゃないか、呼吸をストップさせることでしか言葉は出てこないと言われたけど、自然な呼吸というのは、じゃあ何をいうのか、たとえば、人間、自然というのは、なにも手をつけないでおくということだったら、だいたい生きることもできないのではないでしょうか、呼吸そのものも、なんらかの器官の無理な働きによって、呼吸ということ自体が起こっているんじゃないかと思うんです。
だから、たとえば、胎児が36日目に変化するという、非常に苦しい体験を、なぜ経なければならないのか、どうして、体内で穏やかに生きている人間が外部に出てこなければならないのか、やっぱり、それはひとつの生命譚の、いままでタンパク質から人間まで、人間の命の歴史があったように、やっぱりひとつの発展途上にあるといえるのではないかなと感じたことです。
 それから、4番目は、このエロスという言葉をいわれて、サルと人間との違いを話されましたけど、先日、テレビを見ていたときに、動物園にいる動物は、自然な感覚がないから、さっき言われたような交尾とか、そういうことも、なかなか起こらないで、子孫を途絶えてしまう傾向が、非常に多いということを見たんです。
だから、人間も、最初は、非常に、言葉で云えば、具象的な世界に生きていたときには、人間の感覚とか、すべてのものが、非常に自然の状態であったと思うんです。ところが、社会が高度化するから、いわゆる抽象化されていくから、人間のエゴとか、そういうものも、だんだん抽象化されていって、非常に適応、誰もが順応できるということが、むずかしくなってきているのではないかと思うのです。そのなかで、やっぱり、ふつうなら起こりえない、いろいろな焦りとか、不安とか、そういうものが、いろいろ出てくるのじゃないかなというふうに感じたんです。非常に素朴な質問だと思うんですけど、吉本先生にお聞きしたいことです。以上です。
あっ、それから、さっきの乳児期に母親と一緒に過ごしたことが、そういう子どもの非行に走るんじゃないかと云われたのは、わたしはやっぱり、ある時期に、子どもが甘やかされたということはあるかもしれないと思うんです。
だから、ただそれは、さっき言われたように、たとえば、植物だって発芽の時期に、水をやらなかったら成長しないとか、ある重要な時点っていうのはあると思うんです。でも、乳児期を核、あるいは、ちょっと前の時代を、そういうものの核としようとするのは、あまり現実的ではないんじゃないかなってことも付け加えたいと思います。お願いします。

(吉本さん)
 たいへん全体にわたるご質問になって、お答えすると、たいへん今日の話全体を尽くすことができるって思います。全部、お答えしたいと思います。
 はじめのあれは、よく理解できなかったんですけど、昔は家庭内暴力がなかったっていう、ぼくは、家庭内暴力っていうのは、日本の特産物だっていうふうに思ってるわけです。これを、思っていますっていうだけで、立証的にデータを、世界中をまわって、家庭内暴力っていうのは、どこの国では何%だということを、確かめたわけではありませんから、間違いありませんっていうふうにお答えしませんけれども、ぼくの、自分の理論的なっていいますか、考え方からすれば、それは特産物だっていうことになりますし、その原因は、やはり、理想であるっていうことと、それから、もし、母親と子どもの関係に、さまざまな屈折があるとすれば、それが全世界として、乳児に移し込まれてしまうっていうことが、その原因だっていうふうに思います。
それから、2番目には、幼児期を過ぎて、児童期とか、学童期とか、前思春期みたいなふうになっていったときに、母親が、たとえば、経済的に云っても、赤ん坊が乳児だったときよりも、経済的には豊かになっているとか、家庭環境が改善されているとか、また、戸塚さん流にいえば、父親が職業にかまけていて、母親が教育係になってしまうので、母と子の結びつきが、強烈になってしまうっていうような、いろいろな理由が付けられるでしょうけれど、ぼくは、まず、ぼくの考え方の見方からいえば、家庭内暴力が起こってる過程、あるいは、起こった過程っていうのをみたらば、たぶん、母親がそれを正直に言うか、言わないかってことは、別ですけども、間違いなくそこに、乳胎児っていうふうに、問題があったっていうふうになるだろうっていうふうに、ぼくは思います。
だろうでは、あなたは納得しないかもしれないけど、ぼくは、そうじゃなくて、理論とか、理念っていうものは、ありうることで、こうだろうっていうことを推定できなかったらば、もちろん、現状を分析するのは別なんですけど、こうだろうって、理論的にいったらこうなるよってことが当たってなかったら、理論としてのカギはないので、もし、ぼくが考えている原因が当たってないとすれば、つまり、そんなことありえないという反証があがるとすれば、ぼくの考え方が間違っているってことになると思いますけど、ぼくは、いまのところありえないと思いますし、あなたの質問程度のことで、ひるがえすような根拠は全然ないから、ぼくはそう思ってます。という説明に至っています。
それから、2番目に、人間の心っていうのは、ぼくは大雑把に分けてしまえば、内臓系の動きから受ける動きと、それから、感覚系から受ける動きと織り成したものが、心の動きということになるでしょうっていうふうに、ぼくは申し上げました。
あなたは、脊髄損傷の人とか、身障者の人を例にされて、それが違うというふうに言われましたけど、ぼくは、違う根拠にはならないと思います。つまり、脊髄損傷の身障者の人が、立派な言葉を書いたり、表現したり、立派な文章を綴ってみたりってことができるっていうことは、ぼくがいう、心は大雑把にわければ、その2つの動きから、できあがるでしょっていうことの反証にはならないと思います。それは、ちっともぼくは、未曾有を感じないで、お聞きしておりました。
それから、3番目は、人間の心身の行為っていうのは、行動っていうのは、自然な呼吸っていうのを妨げることなしには行われないんだっていうふうに、ぼくは申し上げまして、それは公理じゃないかっていうふうに申し上げたわけです。
ですから、公理だっていうふうに申し上げたことは、そういうふうに、人間の心と体の問題っていうのは、そういうふうにできてるっていうふうに、ぼくが言ってることを意味していますから、それは、おっしゃることでは、変わらないと思います。ひっくり返らないと思います。ぼくは、そう思っていますから、それは、なかなか、これがひっくり返るためには、少なくても、ぼくの中で、言葉と心に対する設定の仕方を、根底から変えなければいけないってことになりますから、それは、ぼくは、そこまでは、あなたのご質問では、思いがいかないですから、ぼくはやっぱり、それは公理ですねっていうふうに申し上げたいっていうか、強調したいように思います。あらためて、強調したいように思います。
それから、もうひとつ、社会が、高度、たとえば、動物のときも、社会が高度になっていないときでも、人は、自然に気持ちよく生活してた。それが、社会が高度になってきたら、抽象化されて、不安とか、障害とかも、たくさんでてきてっていうふうに、おっしゃられたわけですけど、ぼくも、それはちっとも違うっていうふうに思っていないわけです。
だけれども、問題なのは、そういうことじゃなくて、そこからが、もしかすると、あなたのおっしゃることと、ぼくとが、わかれてしまうことかもしれない。だから、以前はよかったっていうふうに、あなたはおっしゃるのかどうか、わかりませんけど、ぼくは、それ以前がよかったかもしれないけれど、それだったとしても、社会が、こういうふうに、高度化してきてしまったっていうことの中には、ひとつの自然出現っていうものがあるので、これを元に戻すこともできなければ、くつがえすこともできないってことを、ある部分でも、前提としなければいけないって、ぼくは考えています。
だから、それでもって、ぼくらが追及したところでは、現在、職業として、自然を相手にしている職業に従事している、たとえば、農家とか、漁業とか、そういう人たち、そういうことにたずさわっている人たち、いずれにせよ、自然を相手にたずさわっている人たちは、だいたい9%ぐらいです。日本なら日本っていう社会の中の、全働いている人たちの中で、農業にたずさわっている人は9%ぐらい、そのなかでまた、専業農業にたずさわっている人は、またその14%ぐらい、ですから、自然にたずさわってくる人、それはもちろん、減少する傾向にあります。
ぼくの理解の仕方では、この減少する傾向っていうのを避けることは、つまり、根本のところで止めることはできないっていうふうに考えております。
だから、そこは、それがいいか、悪いかってことじゃなくて、それが必然であるっていう要素を、その問題、文明の高度化っていうことは持つものだっていうふうに、ぼく自身は思っております。それで、農業と対立してた工業ですけど、工業は、現在、日本でいえば、20数パーセントです。これも、働く人たちの半分を占めなくなっちゃっています。半分以上を占めているのは、そうじゃなくて、流通業とか、サービス業とか、そういうところにたずさわってる人たちが、働く人たちの半分以上、つまり、60%~70%近くを占めるようになっています。
つまり、それだけ社会が、あなたのおっしゃり方でいえば、社会が高度化したわけですけど、それだけ変わってきてしまっています。このなかで、たとえば、もし、公の病ってことを考えるならば。ぼくならば、こうなったらば、働く人たちがいちばん多い産業の、つまり、サービス業とか、流通業とかと、それから、少し減りつつある工業、製造工業と、その間に、境界にある公害とか、いろんな障害とか、問題とかっていうのを主体に、ぼくだったら考えると思います。
つまり、エコロジストたちのように、9%の農業と、二十数パーセントの工業との間に、起こる問題を公害というとか、その時代のほうがよかったんだっていう論理は、ぼくはよかったかもしれないけど、そういうふうに移ってしまった文明の進展っていうのは必然なんだから、必然の要素を含んでいるから、それはたぶん、誰にも防ぐことはできませんよっていうことが、たぶん、あなたの認識と、ぼくは違うところだと思います。
そうだとすれば、社会が高度化しているっていう、そういうところの問題として、さまざまな欠陥とか、弱点とか、障害とか、公害とか、その面で考えないといけない。そうすると、サービス業、流通業とか、工業との間に起こる公害っていうのは、何かっていいますと、精神障害です。つまり、頭の障害です。
それが、たぶん、現在でも、潜在的には、公害のなかのいちばんの大きな要素だと思いますし、これから、何年か経たないうちに、これが、顕在化してきて、公害といったらば、現在、日本で考えうる公害、あるいは、先進的な高度化した社会で考えられる公害っていうのは、つまり、精神障害の問題とか、機能障害の問題とかっていうことに、ぼくはなっていくような気がしますから、ぼくは、そこを主体に問題を考えていきたいっていうふうに思いますし、また、今日の主催者の方々の役割っていいますか、それは、これから重くなる一方で、お気の毒ですけども、重くなる一方だって、ぼくは思います。それを避けることは、ぼくはできないっていうふうに思います。だから、そこのところは、たぶん、お考えとは違うと思います。
これは、いいか、悪いか、昔のほうがよかったか、今のほうがよかったかってこととは、いい、悪いの問題と、文明がどういうふうに進んじゃったか、進む必然があるのか、それを止めるのは、どこまで止められるか、それから、止めるっていっても、止められる限度っていうのはあるんであって、この動きは必然なんであって、必然のところは、動かしようがないんだよっていう、そうだったら、そこを問題として考えなきゃいけないっていうふうに、物事の考え方を展開していかないといけないんじゃないかっていうふうに、ぼくは思いますので、ぼくはおっしゃることで、あんまり、今日お話ししましたことの基本を変えてしまうとか、問題の立て方を変えてしまう気は少しもないっていうのが、ぼくがお話をお聞きして、感じたことです。
それで、だいたいそれは、文明が高度化していった場合に、ぼくらがどこまでさかのぼるかっていうことになってきます。したらば、ぼくはそういうことを、社会的な問題としては、そういうことを言っていますけど、つまり、ひとつは、高度社会っていうことの問題を、必然的な問題として考えていかないと、これの欠陥も、利点も含めて、考えていかないといけないっていう言い方をしてますけど、ぼくの言い方は、もうひとつあるんです。
もうひとつは、アジア社会の段階までで、考えを、つまり、過去を突っ込む場合に、考えをやめてしまったら、たぶん、だめだから、アフリカ的段階っていうところまで、さかのぼっていくことと、それから、高度社会の、これからの問題を考えていくっていうこととは、イコールなんだよっていう言い方を、ぼくはしています。
それと同じ言い方をしてみますと、ここに現実社会があって、意識的に生活している社会があって、そこに少し無意識の部分があってっていうくらいで考えていたら、たぶん、だめなんで、核のところまで、つまり、乳胎児のところの問題までを考えていかないと、だめなんじゃないでしょうか。
つまり、工業・製造業と、それから、サービス業・流通業の間に起こる公害に対しては、たぶん、そこまで、降りていかないとっていいますか、だめなんじゃないかっていうふうに、同時に考えていますし、また、一方では、その種の公害っていうのは、製造業と流通業みたいなものの間で起こってくるだろう。それは、疲労の問題であったり、精神障害の問題であったりっていうようなこととして出てくるに違いないっていうことは、また、どうしても、考えると、避けることはできない、それと同時にさかのぼることは、やっぱり、乳胎児のところまで、明瞭につかんでしまわないと、だめなんじゃないだろうかっていう問題意識が、ぼくにはあります。これは、社会問題としてもあります。
ぼくは、アフリカ的段階まで下がっていかないと、アジア的要素っていうことで、つまり、アジア的農業っていうようなものと、工業との対立みたいなことで考えれば、段階ではだめだから、アフリカ的段階まで潜っていかないとだめだと、アフリカ的段階まで考えるってことは、同時に、高度化した社会っていうのを考えることと、真正面から考えることと、それは、おんなじことなんです。イコールなんですっていうふうに、ぼくは言ってきましたから、ぼくの考え方は、そういう考え方なので、これをちっとも対立的に考えていないのです。
つまり、昔、豊かな緑に囲まれて、悠々と生活してたみたいな、そういう社会がよかったなっていうことと、だから、それとは逆に、高度になっていく一方の社会っていうのは、悪い社会だって、こっちに直したほうがいいっていう考え方は、ぼくにはありません。つまり、それは成り立たないです。そういうことは、成り立たないと思っていますから、いまから東京のビルディングはみんな壊しちまえって言ったって、それは、どんな制度ができたって、それは壊せないですよね。そんなことは、できないんです。つまり、成り立たないんです。
歴史っていうものは、そういうふうにできていまして、つまり、歴史の核っていうものは、どうしても、必然的にいっちゃうところがあるんです。いい、悪いの問題は、後から付随する問題で、同じ次元の問題ではないです。さかのぼればよくて、進めば悪いっていう問題でもなくて、逆に、進めば悪くて、さかのぼればいいっていう問題でもないです。それは、倫理の問題と一緒にしてはいけないと思います、文明が進んでいく問題の必然っていうものと。それが、ぼくの考え方です。
だから、もしかすると、あなたと、ここでではなくて、もっと論議したら、たぶん、そういう根本的な考え方のくい違いになってしまうような気がします。とりあえず、おっしゃられたことは、非常に多面的で、全部にわたっておりますけれど、それは、ぼくが、今日お話しした考え方を、ちっとも動かす要素にはならないように、ぼくは受け取っています。
だから、そうじゃなくて、ぼくのほうもまた、おっしゃることも考えてみたりしますけど、あなたのほうも、ぼくが今日、申し上げましたことを、もうすこし、考えてみて、検討してみていただければ、幸いだと思います。そんなことは、わりにないので、問題の立て方を変えてほうがいいと思えば、変えますし、そうですけど、今日のところでは、ちょっと変える気はないなっていうふうに、ぼくは思いましたけど、こんなところで、よろしゅうございましょうか。

18 質疑応答2

(司会)
 ありがとうございました。ほんとに、いい質問をいただいて、こういう話は、精神病院でもよく出てくる話です。やっぱり、いまの文明社会が悪いに違うかと、病気になるのは、それは、確かに、病気としては複雑になるから、しんどくなるっていう意味では、そういう病気はあるんですけど、ただ、それなら、自然に還ろうかとか、もうちょっとゆったりして、どっかの温泉にいったらいいとか、あるいは、精神病院の緑のあるゆったりしたところだったら、患者さんはそこでゆったりして、自然に近くなって、治るんじゃないかとか、そういうふうな話はよく出ます。こういう、だから、よく出る話を質問していただいて、ほんとによかったと思いますけど、あと、もし質問がありましたら‥‥。

 

 

テキスト化協力:ぱんつさま