1 アジア的都市と西洋的都市

今日は日本の人工都市の走りである「つかしん」に来たわけですから、人工都市はどういうふうに可能なのか、またどうなっていけば理想的であるか、そういうところから入っていきたいと思います。
 マルクスは都市についてあんまり言っておりません。彼とおなじように巨匠であるマックス・ウェーバーはさかんに都市について言うわけです。どうしてマルクスは都市を言わないでウェーバーは言ったのかといいますと、マルクスは場所ということ、それから地勢ということ、それから風土ということ、それから地域―地域の固有性ということでしょうか―ということにあまり重きを置かなかったんですね。そういうことが人類の歴史の中で”条件”になるとは思われないという考え方があるものですから、都市についてはさほどのことは言っていないのだと思います。ウェーバーはそうではありません。都市とは場所なんだと言うことです。いいかえれば住居の大集落だということです。それ以外のことでは都市には何の世界共通性もないんだというのがウェーバーの考え方です。ウェーバーはこの基本的な考え方に立って都市にはいくつかの類型があると考えて、その類型をいくつかあげて論じています。もちろん、類型内では共通性があるけれども、一つの類型と他の類型では全く共通性がないといっていいぐらい、まるで違うものなのです。
 都市は住居の大集落だということからもう少し入りこんで、”都市とは何か”を言っているところがありますが、まずそれには幾つかの条件があるとのべています。ウェーバーが挙げていることは、一つは都市が防衛組織といいましょうか―防衛組織というのはべつに城壁があってもなくてもいいわけですけれども―その防衛装置としての共同体であるということです。それからもちろん、住民の紛争についての裁判権や裁判所があるということ。それが都市のとても大きな要素であり、あとは住居の集落で、その住民が、農業に従事しているというより、どちらかといえば工業的だということが大きな条件であると述べています。
 まあ、そのくらいの条件であればもう都市というほかはないんで、またそれ以外にはなかなか共通点が見つけられない、というのがウェーバーの考え方です。
 だから都市というのをそれ以上かんがえようとすると、ウェーバー流に言えば、アジア的な都市と西欧的な都市との差といいましょうか、それくらいがおわりに残る問題だということになります。
 アジア的都市の特徴は何かと言いますと、西欧的な都市にはない、大行政機関の所在地であるということが、まず第一の条件になります。それからもう一つ、本当の意味での都市というものはアジア的な場所では成立していないということです。つまり何をウェーバーが言いたいのかと申すと、アジアにおける都市民―都会人でもいいですが―というのは、郷里にちゃんと祖先の墓地とか、霊場とか、寺があって、そこが本当は根拠地になっている。そこから住民が出郷してきて集まっているところが、アジア的都市のとても大きな特徴なんだということを言っています。
 ここまでくれば、だいたい我々の実感に近づいてきているわけで、我々の都市には現在でもそういうことがあります。つまり故郷にはお墓があって、そこへ盆暮れにはお参りに帰る。そういうのが日本の都市の状態だとすれば、やはりウェーバーが言うように、日本の都市の住人は都市民ではなくて、農民にすぎないんだということが言えるかもしれません。それがアジア的都市のおおきな特徴だと思います。
 そのことからすぐにわかるのですが、アジア的権力の特徴は何かといいますと、権力者はちゃんと本拠地をもっていて、それのいわば象徴ないしは代表として都市に集まってきているということです。いざとならば自分の本拠地へ帰っていく。つまり郷里へ帰っていきます。明治の西郷隆盛がそうでしょう。
 最近でいえば、すでに引退しましたけれども、田中角栄という人はとても典型的で、アジア的都市の中央行政機関における責任者というものはどういうものであるかということを、大変よく象徴していると思います。もちろん、現在でも中国政府の要人というのは全部そうで、つまり田中角栄に私兵をもたせるようなもんです。郷里へ帰れば自分の本拠地があります。郷里の代表として中央に来て、そして政権を司っているというのが、典型的なもんです。だから、これを西欧的な国家権力というふうにかんがえると、いくらか勘が狂うところがあります。もっと極端に言えば、本拠地に帰ってくれば、中央軍を全部引き受けてバチバチ撃ち合いをやってしまうような、そういうところがあります。そこがアジア的権力のとても大きな特徴なんです。

2 人口都市の可能性――アフリカ的段階と高度資本主義

 ところで、今日さしあたってテーマにしました「人工都市」という概念はどこで成立するか、ということに触れてみたいと思います。アジア的都市の段階では、人工都市は成立しないということはいままでお話ししたことからすぐに分かりました。人工都市というのは、さまざまな考え方がありうるんでしょうけれども、要するに本拠地ではないのです。本拠地でないことだけは確かなんです。
 じゃあ何なのか。ぼくなんかの都市論の延長線で言えば、人工都市というのは二つの場所で、あるいは二つの段階で可能だというふうに思います。どういう段階かというと、一つは高度に西欧的になった都市において可能だと思います。つまり現在の高度な西欧的な都市においては、いま申し上げたウェーバーの言っている都市の条件は、ほとんどみんななくなっているわけです。つまり都市は決してもう住民の大集落ではありません。住民がどんどん都市から退却して、都市周辺あるいは周辺衛星都市に移りつつあります。都市に残るのは決して住民の集落じゃない。そういうことが一つ現在の重要な要素だと思います。ここだってそうじゃありませんか。たしかここはグンゼか何かの工場があったところを西武が買って「つかしん」を造ったと、そういうふうに聞いています。それはどういうことかといいますと、現在の日本でも、現在の西欧の都市でもそうなんですけれども、製造業というのは実は大半がもう都市に住めなくなっちゃっているわけです。
 簡単な比率で申しますと、現在、農村は三分の一です。それから製造業が三分の二。第三次産業つまり商業、サービス業および流通業が一。だいたい六十パーセントぐらいを占めています。つまり現在を考える場合に、かつてのように製造業と農漁業・林業が対立して、都市は製造業の従業員たちが住んでいるんだというイメージで都市を考えておられたらまったく違っていて、勘が外れてしまいます。
 現在、過半数を占めているのは製造業ではありません。流通および商業、サービス業つまり第三次産業が日本の産業人口の六割を占めています。製造業はそれの半分しかありません。そのまた半分が農漁業・林業です。
 この傾向はウェーバーのいう都市の条件、都市は農業的よりも工業的であるという、その概念がまったく通用しないということを意味しています。ウェーバー的な意味の都市の概念がまったくなくなっているということです。
 人工都市が可能なのは、とても高度に発達した資本主義的段階といいましょうか、第三次産業がすでに産業の主体を占めているような、そういうところでだと思います。そこでは農業は三分の一以下でますます衰亡に向かいつつあります。第三次産業が産業の主流を占めてきています。そういういわば高度資本主義といいましょうか、住民のいる場所がもう都市からだんだん退きつつあるというような、そういう場面で人工都市は可能になっております。
 それからもう一つ可能なところがあります。それはアフリカ的な段階です。森林と草原です。森林と草原はアジア的な都市ではあまりありませんけど、アフリカ的な段階の都市ではいまだに切り捨てられずあるわけです。そこには人工都市を造ろうと思うなら、造る可能性があります。
 もしそういうところに―つまり森林とか草原、あるいはもっと大きな砂漠とか海原といっても同じなんですが―そういうところに人工都市を造るという発想が、住民および政府になければ、それはかならず次の段階、つまりアジア的段階に移っていくに決まっています。森林や草原を開墾して農業などの自然産業に変えようという発想をとるに決まっているのです。
 だからもしそういう発想をしないで、草原および森林に理想的な人工都市を造ろうというふうに、アフリカ的段階にある政府や住民が考えたとすれば、そこには人工都市が可能です。

3 人口都市の条件

 ですから、ぼくの考えでは人工都市が可能なのは、高度な資本主義段階の社会国家か、そうでなければアフリカ的段階のいまだ草原や森林、あるいは海原や砂漠が手をつけられずにのこっているような、そういうところでだと思います。
 そういう二つの場所でだけ可能なんであって、アジア的都市の段階でも、古典的な西欧的な都市の段階でも、人工都市の成立の可能性はないということがいえると思います。そこで高度資本主義段階という人類の文明の最先端の場所と、それから人類が歴史の中に初めて登場してきたアフリカ的な段階、その両方で人工都市が可能だとうことは、いいかえればこの二つは対立の問題ではないんだ、共通の問題なんだというところへ考え方をもっていくのが妥当ではないかというのがぼくの考えです。二つをどこで通底させるかというのは、それはもう理念の問題、あるいは思想の問題なんです。
 もしアジア的都市と西欧的都市、あるいは農村と都会というように、皆さんがもしその二つを対立させる考え方をもたれるならば、それは単に符号であって、すでに実体を遠ざかっているんです。もうそんなことは日本では主たる問題ではありません。かつての古典的なイメージの都市、つまり農業と対立する意味での工業都市という概念はまったく昔のものになりつつあります。
 だからそれならば、理想都市の条件とは何か、ということが課題になってきます。前にも述べましたように、日本の大都市の人口構成を見ますと、農村が三分の一、そして製造業が三分の一、それから流通・商業が一、というような割合で、三者が三分の一ずつ並列するような段階から、変わってきております。そうした日本の産業イメージで行きますと、やはり農業三分の一、製造業三分の二、流通産業分子が一というふうに割り振れるとしたら、それがいま日本で考えられる最適な人工都市だということができると思います。
 この割合は多分、日本モデルじゃなくて、西欧モデルについてもほぼおなじように言えると思います。高度資本主義段階全体のモデルとして考えてもいいと思います。つまり、理想都市を人工的に造ろうとすれば可能であるというような条件が、アフリカ的段階と高度資本主義的な段階のところにはあるということを意味しています。

4 都市と脱イデオロギー

 それでは、誰がそれをやるのかということです。誰がそれをやればいいのかということになっていきます。僕の理解の仕方では誰がやってもいいんです。西武がやろうと、労働組合の連合がやろうと、高度資本がやろうと、そんなことはかまわないのです。いま申し上げた妥当なる理想の割り振りができている人工都市ならば誰がやってもいいんだ、ということになると思います。例えばこの「つかしん」のように、西武なら西武がやっても一向に構わない。ただ、何資本がやってもいいんですが、それが「西武資本」というような”理念”を離脱していればいいわけです。造ったのは西武資本だけども、ここで西武と言ってみても何の意味もない。意味があるとしても、一流通業者だということで、他の業者と同じで何の特権もない。そうでなかったならば、人工都市自体が現代における党派の都市になってしまいます。
 逆に労働組合の連合が「労働金庫のカネ、どうせ余っているんだから、どっかに造ろうじゃないか」と考えたっていいわけです。しかし、でき上がったら「この都市は労働者のものだぞ」などとは言わない。つまり労働者という理念を脱却してなければ、理想としては意味がないということになります。地方自治体がやっても同じです。大いにやったらいいんだけれども、何々市民でなければこの人工都市には住めないとか、地方自治体的な色合いを表面に出すようにしたら、その人工都市はやっぱり「何なんだ?」ということになってしまいます。そうじゃなくて誰がやってもいいけども、いったん出来てしまった人工都市は、造ったところの党派というか、その理念を離脱していなければ意味がないということです。それが出来なければ理想にはなりません。
 もしそれが可能ならば、誰が造ってもいい。政府が造ったっていいけども、政府の機関にいる人だけしか住めないとか、政治的イデオロギーから全部離脱していなければ、理想の人工都市にならないわけです。
 つまり、そこで問われているのは、あらゆる面で現代問われていることとまったく同じことなのです。つまり党派の理念を離脱できるかどうかということ。それが可能でなければ、やはり理想の人工都市は可能ではありません。つまりお金を持っているかいないかという問題だけでなくて、それが可能でなければ、人工都市を造っても理想の人工都市とは遥かに遠いものになってしまいます。ですから、理想の人工都市の条件は、党派の理念だけは離脱していなければ、問題にもなりません。それは現代における理念の問題すべてに通ずることです。党派性を離脱してない場所で通用する理念というのは、多分、現代にはすでにないのであって、ですから理念の問題が全部そこに集約してきます。都市の問題は必ずそこに行きつくのです。
 ぼくらがもし人工都市というものをイメージのなかに入れるならば、まず、先ほどいいましたような理想の人工都市の条件が叶えられていることと、それから党派的な理念というものから離脱できているということ、この二つが必須条件だというふうに思われるわけです。それがなければ、人工都市というのは可能でないだろうというふうに思われます。
 離脱するということはたいへん面倒臭いわけですけれども、しかし、これはイメージとしてはとても掴まえられやすいイメージです。つまり、自分の視野のおよぶ限りで見ている世界があるとすると、その世界に対してもう一つ上のほうからの視線があって、俯瞰しているということです。我々が何かを見ている時、それでもって見ている自分の方の光と、それから見られている物自体を、その両方を見渡すことができる視線を、それぞれの場所が獲得できるかどうかということに、かかっていると思います。それができないならば、それぞれの人間が、それぞれの党派の場所にいるより仕方がないわけです。その場所から世界を見るより仕方がないわけです。
 しかしそれにもかかわらず、その視線を、自分固有の場所から離脱させうるためには、もう一つのその上からの視線でもって、見ている自分と見られている対象を含めて、それらを包括する視線というものを、どうにかして獲得できるかどうかにかかってくるわけです。そういう問題が、ひとつの理念の問題として存在しているように思います。
 そこの問題が可能だったらば、多分、人工都市、理想的な都市というのは可能であるというふうに思われます。

5 都市の実験

 従来の都市の概念というのは、農村が発達して、手工業というのがもう農村内部ではできないくらい産業として進んでしまって、それで専門家化した人たちが農村を離脱して集まってきたところが発達したのが都市であるというふうなものです。歴史的経緯でもって都市が造られてきたとみるのです。ウェーバーなんかが一生懸命考えた「都市」というのは、そういう都市の類型なわけです。
 しかし、人工都市というのはそうでありません。未来からの視線というのは曖昧ですけど、地平線の視線といいましょうか、地平線からの光線でもってちゃんと全体が照らされているような、そういう場所から構想することができる都市というのが、我々の描きうる理想の人工都市であるわけです。だから、それは歴史を、そこのところで、一種めくり返すというか、逆転するという意味合いも含まれています。歴史が形成してきた理念、あるいは理念の照合の仕方というのが、そこで逆転されるような、そういう視線が、理想の人工都市を造る場合にどうしても必要になってくるわけです。それが多分、現在の問題なんじゃないでしょうか。
 この都市、「つかしん」にきたのは僕は今日で二回目なんです。何年か前に一度来たことがあるんですけど、いまここを眺めながら、性格として何があるかと考えると、一つはやはり消費的な都市のモデルだということを感じます。製造なんかよりも消費の都市として成り立っている。資本はもちろん一民間資本です。ま、日本の資本家の中では物事をよく考えるほうの資本家で、だから単に西武百貨店の店開きみたいなことはしたくない、どうせ造るならば理想といいますか、人工都市の条件をややかねたような、そういうものを造りたい、しかし西武資本としての特徴も失いたくないし、もし利潤ということがあれば、利潤も失いたくないというような、いわば折衷的なところで、この「つかしん」というのは成り立っているというふうに思います。しかし、資本というのは明らかに利潤を中心に回っていますけど、ここでは都市についての理念といいますか、理想をいくらかでも加味して、それが一種の折衷になって造られた都市なんだというふうに思います。日本の資本が初めて、自己の経営体以外のこともちょっと考えて、つまり理想を加味して、一つ町を造ってみようというようなふうに考えた、多分、日本で一等最初の都市なんだと思います。
 それで、都市の実験という意味で、これは大変興味深いことだと思います。日本というのは先程来、言っていますように、高次資本主義の国ですから、住民の住む場所はどんどん都市から外れていく。しかし都市の内部に、現代における理想の条件を兼ね備えた人工都市を造る可能性はあるわけです。そこで人工都市の問題が、理想化に近づいていくんです。
 現在の世界を見渡しましても、やはりアフリカ的な段階の場所や地域では人工都市の可能性はあるわけで、日本の中にももちろんそういうところはあります。草原はあまりないですけども、海も森林地帯もあるわけですから、そういうところに人工都市を造ろうとするならば、可能性はあるわけです。日本列島の中にも、アフリカ的段階の場所は限定すればいくらでもあるわけです。だから、そこでの人工都市はまだ可能であるし、世界的に見ても、アフリカ的地域および段階では、人工都市、しかも理想的な人工都市の可能性というのはあるわけです。
 今、都市の空洞化ということがさかんに言われております。大都市は全部、どんどん空洞化していくんだと、いかにも滅びて廃墟になっていくみたいなイメージで考えられたりしますけども、それはある意味では、理想の人工都市を造るのには大変いいチャンスなんであって、いいチャンスには人間はいくらでも、なんでもやれるわけです。ただ個人がお金を持ってないだけです。だからお金を持っている人がやるとか、国家がやるとか、地方自治体がやるとか、あるいは大資本がやるというのは大いに歓迎すべきであって、我々がチェックすることがあるとすれば、要するに党派的であるなということだけです。党派性は許されんことだということをチェックすればいいわけです。どんな党派であっても駄目です。労働組合であっても駄目です。それはやはり離脱してもらわなければ困る。しかしそれをチェックするのは可能だとぼくは思います。そういうことがとても重要なんです。

6 イメージの力

 それからもう一つは、それぞれの人が描いている理想の人工都市を、自分のイメージでちゃんとこしらえるということが大事です。こしらえて、自分なりに完成したイメージを我々がもっているならば、それは多分、誰もそれを無視することはできないだろうと僕は思います。つまり、イメージというか、構想というか、そうしたものが優位に立とうとしている時代の、とてもおおきな兆候だと思います。完結したイメージをもっているということは、実現性をもっているということにほぼ近いわけなんです。ですから、それぞれが理想の人工都市のイメージを自分なりに造って、それを自分なりにもっているということが、とても重要なことのように思います。それは力でありうるということです。
 イメージは、かつては力でなくて空想にすぎませんでした。「おまえは思っているだけで、金もないのにそんなことを思ったって仕方がないじゃないか」ということでした。そんなの、政府がやれば、自治体がやれば、大資本がやれば、あるいは労働組合がやれば、それでペチャンコじゃないかと思われていました。かつではそうでありましたが、すでに我々の段階ではそうではないのです。完結したイメージともつことができるというのは、それだけで実現可能性をもった力だという段階に現在は達しているわけなんです。都市と構想することはできるということなんです。
 逆に都市を造るものは、少なくとも人工都市を造るという場合には、万人がもっているイメージを無視することはできないだろうということが言えると思います。実際には、誰がやってもいいんです。大資本がやるとか、国家がやるとか、地方時自体がやるとか、そうでなければ労働組合連合がやるというんだったら、「それはやってください」と言うだけであって、「ただしあんたたちのイデオロギーを、理想の人工都市の中で自己主張してもらっては困りますよ」というチェックを、それぞれがやればいいというふうに僕は思うんです。現在の段階では、問題はそこのところを中心に展開していくというふうにぼくには思えます。
 こういうふうに言うと、皆さんはとても楽天的だと思われるかもしれませんけれども、ぼくはそうは思っておりません。大変だなあとは思っています。しかし、アフリカ的段階、それから高度資本主義的段階から脱出していく道というものをどこかで見つけていく以外に、この現在の世界の状態というものから脱出口を見つけ出すことはできないんじゃないかと、大筋でそういうふうに考えています。
 その問題は人工都市の問題においても、歴然としてあらわれてきているというのがぼくらの考え方です。
 それでこの「つかしん」というのは、何でもないと言えば何でもないのです。ごたごたの、ディズニーランドと同じようなものができて、家族連れで一度遊びに行ってみたいというふうな、まったく何でもないところだと言えば言えるかもしれませんけれども、本当はここで手がつけられた理念というのは、敷衍していきますと大きな問題を孕んでいるので、せっかくこの場所でこういう催しがされたんで、ぼくは人工都市というのはいくらでも大きな考えを孕みうるんだという問題を、皆さんにお話ししたいと思いました。まずそこらへんのところから始めてみた次第です。一応、これで終わらせていただきます。

7 第2部:司会

 吉本隆明さんと笠原芳光さんによります、「21世紀を透視する――ポストモダンとは何か」の方に行きたいと思います。笠原さんは、京都精華大学の学長で、宗教思想史をご専攻でいらっしゃいます。また、吉本さんの古くからのインタビュアーをしておられます。では、よろしくお願いいたします。

8 人工都市と自然

(笠原さん)
 こんにちは。今、吉本さんのお話を伺いまして、与えられたテーマがあるんですけれども、今の吉本さんのお話に関して若干質問をさせていただいて、それから与えられたテーマについてお話し合いをしたいと思っております。
 先ほど「人工都市論」を展開していただいたわけですけれども、〈人工〉といいますと、ある意味では反対の概念として〈自然〉という言葉があるわけですけれども、人工都市の中で自然というのはどのように位置付けられるか、ということについて吉本さんはどのようにお考えになっているか。まあ、通俗的な意味で、人工都市もいいけれども自然が失われるのは嫌だとか、緑がいいとか、花が欲しいとかいうような素朴な願いというのはたいへんあるわけですけれども、それも人工都市に含まれるんだろうと思うんですけれども、もう少し理念的に、人工と自然というのをどのようにお考えになっているか、ということを伺いたいと思います。

(吉本さん)
 先ほど申し上げました〈人工〉というのは、歴史的都市、歴史的ということとは逆のものだという意味合いで申し上げたんですけど、今、笠原さんは、自然と人工という意味合いでどう人工を考えているかというお問い合わせなので、僕の基本的な理念を申し上げます。僕はエコロジストじゃないですから、自然よりもいい自然というのはつくれる、という考え方を持っています。自然よりいい自然がつくれるということは、つまり、天然自然というのは必ずしも最良の自然じゃない、ということなわけです。天然自然というのは、違ういい方をすれば、無意識の自然だと思っています。無意識に歴史と文明が発達したときに残っている、いってみれば偶然と必然のない交ぜられた産物として残っているのが現在の天然自然なんで、天然自然よりもいい自然というのはつくれるという考え方を持っていますから、あまり人工ということと対立的にはならないのです。人間が自然に対していつでも働きかけることによって歴史をつくってきましたから、そのように考えていけば、必ず天然自然よりいい自然はつくれるし、可能だと僕は思っています。だから、あまり対立的に考えていないんです。

9 天然よりもいい自然

(笠原さん)
 「天然よりもいい自然」というふうにおっしゃいましたけれども、もう少し具体的に、どういうことを意味しているのか……。

(吉本さん)
 いやあ、非常に簡単で、分かりやすい例でいえば、いつぞやテレビを見ていたら出てきたんですけれども、高知の方で、ウミガメが砂浜に産卵に来るんですね。浜辺を掘ってそこに卵をいっぱい産んで、うずめて、親ガメは海にまた帰っていって、どこかで死ぬわけです。それで今度はその卵がかえって、海岸を歩いて海の中に行くわけですけれども、黙って放っておけば数パーセントから数十パーセントが孵化して海に帰っていくんですが、あとは鳥に食われたり、砂浜で途中で、海岸までたどり着けないで死んじゃったりするんです。高知の小学校の生徒が、ウミガメが夜、産卵して帰っていくのを見ていまして、そこの場所へ翌日行きまして、その卵を全部取ってきて学校へ持ってきて、学校に飼育場の砂場を作って、人工的に世話をしまして、孵化させて海へ放してやるわけです。そうすると、だいたい70%ぐらい孵化したのが海へ帰っていく。
 そういうのが、天然よりもいい自然というのはつくれるんだ、ということの非常に簡単な例だと思うのです。つまり、黙っておけば数パーセントか数十パーセントになるんだけれども、産んでいった卵をちゃんと子どもたちが世話してやると70~80%はかえせるという、そういうのをテレビでやってましたんで、それは最も簡単な、天然よりもいい自然というのはつくれる、ということの例のように思いますけれどね。

(笠原さん)
 今おっしゃったことは、例えば植物で申しますと、原生林だけではなくて、人工的に植林した山もずいぶん日本にはあるわけですけれども、その植林をした山というのは、吉本さんの概念では、やはり人工的な自然ということになるんでしょうか。

(吉本さん)
 はい、そうだと思います。ただ、そのときに最良の植林をしているかどうかというのは、おのずから別だと思います。それから、現代の植物学は、すでにそこまでちゃんと分かっていると思っています。つまり、かかる自然条件、例えばスギ林ならスギ林がある山に植林する場合、周りにスギの木があってこういう地理条件だったらば何の木がいいのかというようなことは、植物学ではもう歴然と分かっているんだけど、その木を実際に植えていいかどうかというのは、また全然別だと思うのです。植物学が達成している最高の水準でもって、こういうところには、例えばブナの木ならブナの木を植林するのがいちばんいいんだ、周りのスギの木にとってもいいんだし、ブナの木にとってもいいんだし、下の方の木にとってもいいんだ、みたいなことはもう歴然と分かっていると思うんですね。でも、そのとおりやるかやらないかは、また違う問題になってきます。分かっているとおり植林しているかどうかは別だと思いますけれども、植物学が達成しているとおりに植林したら、それはその植林がいいに決まってるだろうな、と僕には思えますけれどね。

(笠原さん)
 私はエコロジストじゃないですけど、エコロジストの立場からいいますと、人工的な自然というのは、いわゆる大きな意味の自然の生態系といいますか、そういうものを破壊するんだというようなことをよくいう人があるんですけれども、生態系が破壊されるかどうかということに関しては、どのように思われますか。

(吉本さん)
 いや、僕、そういういわれ方で生態系というのは分からないんだけれども。現代の植物学、植林学というのは、こういう条件の下で、こういう天候の下で、何々の木の隣には何々の木を植えれば双方にとって好影響を与える、生態系にとって非常によくなるということは、僕はもう歴然と学問的に分かっていると思うんで、それが破壊されるというのは、僕にはちょっと意味がよく分からないんですけどね。僕はそんなことはあり得ないと思ってますけど。

(笠原さん)
 吉本さんは本来、科学者でいらっしゃるんで、今の話は本当だろうというふうに思うことにいたします(笑)。

10 どこに行く日本の都市

(笠原さん)
 こういう問題があるんですけれども、大都会に住んでいる人は、ここにもたくさんいらっしゃると思うんですけれども、ある意味では人工都市的なものに住んでいるわけですね。ところが、日本人というのは、盆とか暮れになりますと、夏とか正月になりますと、大都会に本来住んでいる人は別として、いわゆる地方から出ている人は、必ず故郷に帰るといいますか、そのために乗り物が非常に混雑したりなんかする、一種の季節的な民族の大移動があるわけです。そういう一種の郷愁みたいなものが、これはある意味ではずっと続くんじゃないかと思われるんですけれども、そういう問題と、人工都市の抱えている問題というのは、どのようにお考えになるんでしょうか。

(吉本さん)
 それはさっきもちょっと出てきましたけど、ウェーバーのアジア的都市人のイメージによれば、故郷に家あり、墳墓の地あり、つまりお墓があり祖先の霊がそこにあるということで、根拠地は故郷であって、都市に出てきて都市人になっているんだけど、西欧的な意味での都市人とはいえない。農民の一種のバリエーションといいますか変種なんだ、といういい方をウェーバーはしていますけれども、そういう問題じゃないんでしょうか。都市の中に、意識におけるアジアというような問題が、なんらかの意味で拡散していくといいますか――この拡散のしかたは明らかに二つ方法があって、一つは西欧的あるいは超西欧的といいましょうか、そちらの方に拡散していく部分と、アフリカ的段階に拡散していく部分と、その二つになっていくと思うんですけど――そのどちらになっていったとしても、今おっしゃったようなことは、なくなっていくんじゃないでしょうか。

(笠原さん)
 なくなっていくんですか。

(吉本さん)
 どちらへ行っても人工都市に変わっていくのであって、しかもその人工都市なるものは、少なくとも人類の英知で考えられる限りは、最高の意味合いの自然をその中に包括しているところだから、あまりイスラム文化で変わるということもないでしょう、というふうなことになるのではないでしょうか。お盆や正月の休みに郷里に帰るというのは、アジア的風習じゃないかと思うんですね。

(笠原さん)
 なかなかアジア的なものが抜けないで、別に困っているわけじゃないんですけれども、時間の問題というような感じがするんですけどね。吉本さんのいわれる人工都市が増えていくと、だんだん変わってくると。そうすると、今は故郷へ帰りお墓参りをするのが、だんだんなくなっていって、かなりの時間がたつとそういうものがなくなって、ある意味では日本人はアジア的民族から脱却するというような感じですけれども、そういうことでしょうか。

(吉本さん)
 そうだと思います。脱却するのが意味的にいいか悪いか、あるいは脱却しないのがいいか悪いかという問題より先に、僕は、脱却していくのは、たぶん、無意識の必然なんじゃないかなと思うんですよね。だから、無意識の必然に対して、もし人間が知恵でもって違う意味を加えられるとすれば、それは一方では理想的な人工都市というのを実現することだし、その中に理想的なパーセンテージで農村といいますか農業を包括するみたいな、また山林は理想的な森林というようなものの中に包括するみたいな、そういうかたちをどうしてもとらざるを得ない。もし人間が意思を加えるのならば、そういうふうなかたちで加えるよりほかはないわけですから、たぶん、それが一つの課題になるんじゃないかなと僕は思いますけどね。つまり、自然保護、自然を守れという観点があるわけで、それはたいへん結構なものじゃないですか、というふうになりますけれども、世界史といいましょうか、文明史の課題にはたぶんならないでしょう、と僕は思っていますけどね。……
【テープ反転】
……的に、歴史の理想を先取りすることが可能だと思っていますけどね。アフリカ的段階だと、つまり草原と森林と海と砂漠を持っているところは、それが歴史にとって最良の条件だという人工都市をつくる可能性があると考えています。しかし、アジア的な都市あるいは地域というのは、たぶん、西欧的な場所あるいは地域に突入していく以外に、もう救いようがないといいましょうか、方法がないんじゃないかなと思います。だから、よりいい条件というのはつくれるかもしれないけれども、最良の条件というのは、アジア的な都市、あるいはアジア的な地域、あるいはアジア的な国家がとれる可能性は、僕はもうないと思っています。
 でも、アフリカ的国家ないしはアフリカ的段階の自然というのは、たぶんそうじゃなくて、人類の理想的な設計図に基づいて人工都市を草原ないし森林につくってしまうという可能性は、僕はあると思います。だけど、やるかやらないかは別なことになります。やるかやらないかは、その地域の権力および住民の意思、考え方によりますから、やるかやらないかは別だけれども、やる可能性はあると思いますね。でも、利口じゃなければ、アフリカ的国家権力とか住民がそんなに人類の歴史を見通すようなことが可能でないならば、それは放っておけば必ずアジア的段階に移行するだろうと思います。草原は耕して田んぼや畑にしようとするだろうし、森林は伐採して、何かそのときに必要で都市的なものにしたり、あるいは農耕地にしたりとか、その都度の都合でもってそうするだろうと思います。アジア的段階も卒業して、森林地帯ゼロ、草原地帯ゼロというアジア的地域のモデルに、放っておけば持っていくだろうと思いますけど。もし本当に考えてやったら、やっぱり理想的な人工都市というのはつくれる可能性があるだろうなと思いますから、アジア的な国家とか都市とか地域とかというのと、アフリカ的段階の地域は、ちょっと加減が違うような気がしていますけどね。

11 近代を超えて

(笠原さん)
 それではここらで、与えられたテーマの「21世紀を透視する――ポストモダンとは何か」という問題に入っていきたいと思います。
 私の考えでは、今は、近代と、近代の後の――ポストモダンという言葉はなんか流行語なのであまり使いたくないんですけれども、流行語の域を超えたもっと大きな意味で――現在というのは、近代と次の時代のはざまというか、そういう時代だと思うわけです。私の考えでは、近代というのは非常に昔から近代であって、日本でいえば大航海時代の安土桃山時代から江戸時代、もちろん明治以降もずっと近代で、現代に至るまで近代だという感じがするわけです。欧米でいえば、中世の終わりといわれる頃から、ルネサンスとか宗教改革とかいうようなことを通してずっと、いわゆる近世と近代、そして現代も含めて、いわゆる近代的な時代だったと思うんです。
 というのは、近代というのは内容的にいいますと、例えば合理主義的な思想であるとか、あるいは自我の発達、ヒューマニズムだとか、科学技術、近代国家、資本主義と社会主義というのが近代の産物だと思うんですけど、こういったものが、全部というと大げさですけれども、やはり今、もう一度見直されなければならない、あるいは終焉に向かいつつあると思うわけです。そういった現代が今、いわゆるポストモダンといわれる次の時代に向かいつつある。そういう意味で、近代を超えるという思想が、今かなり出てきているし、また出て来ていなくちゃならないんじゃないか。
 かつて日本では、昭和17年に『文学界』という雑誌に発表された「近代の超克」という――テーマはたいへん素晴らしいんですけど、中身はいささかお粗末だったんですけれども――知識人の座談会がありまして、「近代の超克」というのが非常に問題になった。これはまあ、日本の国家主義的な思想を再発見するという要素が強かったわけですけれども、「近代の超克」というテーマは私は正しかったと思うわけですね。で、最近になってまたポストモダンという言葉が出てきているということからいいますと、近代というものが次の時代に移りつつあると。
 かつて私が吉本さんに「ポストモダンとは何か」という質問をしましたところ、一言で「未知だ。いまだ知られざる何ものかである」ということをおっしゃったんですけれども、そのあたりを吉本さんの方からもう少し伺いたいと思います。

(吉本さん)
 ポストモダンという考え方というのは、西欧の現在の思想の流れの中に限定していうのならば、二つ意味があると思うんですね。その一つは、近代文明に対する一種の行き詰まり感というのがあると思うんです。それからもう一つ重要なことは、近代思想のひとつの頂点であるマルクスの思想というのがあって、その思想を思想するといいましょうか理念化したマルクス主義というのは、近代の思想の一つとして大きな流れを形成し、また現実のさまざまな場面でそれなりの制度的な方策をとってきたと考えるとすれば、西欧のポストモダンの思想というのは、ある意味で、マルクス主義の最終形態であるといえる面が一つあると思います。
 それからもう一つは、文明史的に考えれば、文明史の一種の行き詰まりないしは解体ということの象徴です。西欧のポストモダンという場合には、その二つの意味が、僕はどうも含まれていると思えるわけです。
 その一つの意味、つまり文明史的にいえば、これ以上は行けない、これ以上膨張するイメージでも拡大するイメージでも、重さを加えていくイメージでも、モダンという概念は成り立たない。これを産業に直せば、製造業というのはもうこれ以上意味がないという限界に突き当たって、製造業が大半を占めていた時代が文字どおり過ぎてしまったわけです。どこかに限界があって、これ以上は造っても、重たくしても大きくしても無駄なんだよ、というところに当面した産業は、そこで解体に向かうことになってきたと思うのです。それが象徴している問題というのは、一種の文明的な必然だから、ポストモダンの問題としてよくよく検討していかなきゃいけない問題が含まれているように思うんですね。

12 最終段階のマルクシズム

(吉本さん)
 それからもう一つ、モダンの思想であり、19世紀末から20世紀にかけて人類の思想と制度と知識の大きな部分を占めてきた、マルクスの考え方を理念とする考え方というのは、解体に瀕している。なぜ解体に瀕しているかというのは簡単なことであって、要するに、無意識よりもうまくいかなかったんだ、ということのように思います。無意識でやったこと、つまり無意識の資本主義の方が、意識的によくするために計画化しようという考え方と競争してみて、だいたい70~80年やってみたら、民衆つまり一般大衆の解放ということでは、経済的にも文化的にも政治的にも自由ということでも、だいたい資本主義の方が勝っちゃった、というのが現在の問題のように思うのです。それで現在、マルクス主義ないしその周辺にいた存在というのは、僕らも含めてですけれども、二度目の敗戦処理をしているわけです。一度目は国家主義の改革という敗戦処理のしかたをしてきたわけですけれども、二度目は世界史的解体処理であって、知識の解体であり理念の解体処理です。これをなんとかしないとこの敗戦の事態から這い上がることはできないよ、という場面に当面しているというのが、僕は、ポストモダンの現状としては、いちばん切実な気がするんですけどね。

(笠原さん)
(場内の声に対して)質問はちょっと待ってください。……マルクス主義が最終形態を迎えているということは、例えば、今のソ連のペレストロイカであるとか、あるいは東欧の社会主義から民主主義的なものへの移行であるとか――まあ中国はどうしてか、アジア的なものも残っているのか、妙なことになってるんですけれども――ああいった現状を見ますと、解体に瀕しているという感じがします。資本主義が勝ったとおっしゃいましたけれども、資本主義はこれからどうなるであろうかという問題、それから今、「無意識の資本主義、意識の社会主義」ということをおっしゃった、そのあたりをもうちょっと説明していただけますか。

(吉本さん)
 資本主義という概念を高度に、つまり高次に広げて考えれば、ロシアの社会国家主義も、国家管理資本主義というのも――これはモダンないしポストモダンに属するわけですけれども――両方とも広義の資本主義に入ると思うんです。これの持っている問題は、社会主義国と資本主義国が平和的に民衆の解放闘争をやったら社会主義国は負けちゃったんだ、という問題とは違う次元にあると思います。つまり、資本主義自体の問題は残るわけです。
 この資本主義自体の問題というのは、非常に卑俗な例でいえば、明日食う米がないという意味合いの貧困は、資本主義はそれなりに解決したと思う。しかしそれにもかかわらず、例えば月収10万円の人と月収40万円の人と月収100万円の人とあるいは200万円の人が存在するとして、これをもし、これは不合理じゃないかと考えるとすれば、そのことはたぶん資本主義では解決しないだろうなと思います。つまり、全体をレベルアップすることはできても、個々の内部的な階層的な差異というようなものに対して、資本主義はたぶん、今のやり方だったらば、課題を解決することはできないし、解決しようというモチーフを資本主義自体が持っているかどうかといったら、それも持っていないような気がするんです。だから、資本主義の問題というのは、これから後に残っていくような気がするんですよ。しかし取りあえず、過去、大衆を解放する闘争をやってみた。そうしたら負けた、ということでもうまず間違いないだろうなと、それが現代の問題だろうなと思います。僕はそういうところで、モダンないしポストモダンというものを受け止めていますけどね。

(笠原さん)
 大衆の解放というのは、今まで社会主義の大きなテーマであったんですけれども、むしろ資本主義の方がそれをある意味では達成していると、そういうことですか。

(吉本さん)
 はい、そうですね。ただ、笠原さん、社会主義というのとね、社会主義国というのとは違うんですよ。それから、社会国家主義というのと社会主義というのはまた違うんですよね。マルクスはプロレタリア独裁というふうにいったことがあるわけで、プロレタリアであって独裁というのは間違いだとだんだん社会主義圏で分かってきたんだ、と新聞はいいますけれども、僕はそういうふうには思っていないんです。社会主義と社会国家主義――あるいは国家社会主義つまりファシズムですけれども――とはまるで違うことなんだということですね。
 つまり、マルクスがいっているのは簡単なことで、プロレタリアートといいますか労働者階級が国家の権力を握って、社会的ないろんな方策、つまり改革をやり出したということの中には、国家の解体ということが同時に含まれていなければ、こんなことは意味がないんだ、ということがマルクスの考え方なんです。国家という枠が壊れる方策、国家を開いていく方策はちっとも取らないで社会主義をやろうとする、つまり、社会主義的な統制といいましょうか管理というのを消費の部門でやろうということ自体は、べつだん社会主義とは関わりのないことであるわけです。
 だから、国家社会主義ないし社会国家主義が、現代の資本主義と大衆の解放闘争にも負けちゃったということ自体と、それは社会主義が駄目なんだということとは、まるで関係のないことだと、僕はそういうふうに理解していますけどね。社会国家主義と社会主義とはまるで違うことですよ、というのは当然なことなんで、僕は現にそれを……。

(笠原さん)
 そうしますと、つまり、社会主義国というのは、あるべき社会主義の国じゃなくて、社会国家主義の国になってしまっていると、そういうことですか。

(吉本さん)
 そうですね、はい。社会主義ということと国家ということとは両立しない面があって、社会主義が国家の権力を掌握したときには直ちに、自己解体といいますか国家解体の方向に向かっていかないと、それはどうしようもないわけですね。向かえなければ、せめて国家を開いておくということが重要なわけです。開いておくとはどういうことかといいますと、これは装置としては簡単なことで、一般の大衆の無経営、直接投票でもって国家の権力はいつでもリコールできるということですね。過半数を占めたら政府はリコールできるという条項が一つあれば、国家はいつでも開かれているわけです。せめてそのくらいのことをすればよかったんでしょうけれども、それをしないで国家管理社会主義みたいなことをやろうとするから、今のような、必然的に民衆の方が騒ぎ出して、それを抑えられないかたちでリコールされそうになっているというのが、社会主義圏における現代の状態じゃないかなと、僕はそう思っていますけどね。

13 国家は死滅するか

(笠原さん)
 レーニンが「社会主義、共産主義になれば国家は死滅する」という有名な言葉をいっておりますけれども、その理念はどうなんですか。現実のソ連は今のような状態ですけれども、とても国家は死滅の方向には向かっていないですけれども、レーニンの理念についてはどういうふうに思われますか。

(吉本さん)
 そういうことに関する限りは、正当なんじゃないでしょうか。国家は死滅するといいますか解体するほかはないんであって、それ以外に社会主義なんかあり得ないわけですから、国家は掌握されたとともに解体していくというもので、それはもう全く理念としては、社会主義の必須条件の一つだというくらい重要なことであるし、それがなかったら社会主義にならないということじゃないでしょうか。だから、それは当然そうじゃないでしょうかね。

(笠原さん)
 その場合、資本主義が高度資本主義になって、少なくとも社会主義よりも続いていくというか、意味があるみたいに見えるわけですけれども、資本主義の場合に、国家の死滅ということ、国家の解体ということはあり得るんでしょうか。

(吉本さん)
 あり得るとすればどこからあり得るかというと、産業からあり得るんじゃないか。つまり、産業が無意識に国家を超えちゃうということですね。そういうことはあり得るんじゃないでしょうか。
 例えば、お米の自由化反対である農協の考え方を国家が是認して、すぐにコメの自由化は制限するというふうにやっていたとしても、品質のいいお米が安く入ってきて、もし目の前に置かれたら、民衆はそっちの方を食べる。そうしたらば、ひとりでに自由化制限というのは成り立たなくなる。成り立っているとすれば、うわべだけ成り立って、中身ではちゃんと、もう成り立たないことになっているんだよ、というふうになっちゃうとかね。それはちょうど政府買い上げ米と自主流通米の違いと同じで、もう自主流通米の方が政府買い上げ米よりもパーセンテージは多いわけですから、実質上、政府買い上げ米というのは意味がないわけですね。見掛け上はまだそういう法律はありますけれども、実質的には意味がないというふうになっています。
 そういう意味合いで、もし資本主義の国家というものに超えられる可能性、解体する可能性があるとすれば、それは産業的必要からとか、経済的な必要が押しまくっていって、国家が解体していくということはあり得るんじゃないでしょうか。それはある意味で、現在の欧州共同体が、部分的にはそういう場面に当面しつつあると思えるんですけどね。そういうことはあるんじゃないでしょうかね。

(笠原さん)
 さっき「無意識の資本主義」という言葉をおっしゃったんですけれども、もう一度それを教えていただきたいんですが。

(吉本さん)
 いや、それは別に、そんなに厳密な意味じゃなくて、人間の歴史というのは無意識に、これはいいんだとか、これはもうけになるみたいなことを各人がやっているうちに、資本主義というのが出来上がっちゃった、という意味合いですね。意識して資本主義をつくっていったというんじゃなくて、その時々の必要上、いろいろシステムを動かしていったら資本主義になっちゃった、という意味合いでの「無意識」ということだと思いますけどね。

(笠原さん)
 質問したい方がいるようですけど、最後の10分間に質問をお願いすることにしました。これはトーク番組でありますので、もう10分ほどトークを続けさせていただきたいと思います。

14 ヒューマニズムを超えて

(笠原さん)
 近代という時代の一つの大きな特徴として、ヒューマニズムというのがあるわけですね。意識的であれ無意識的であれヒューマニズムがあって、人権思想なんていうのがますます広がっていっているというのもヒューマニズムの一つの現れだろうと思う。ヒューマニズムというのは非常にいい、誰も反対しないというような面がありながら、吉本さんは、ヒューマニズムはこれでいいのかということを、先ほどいわれた、いわゆる生きている人間の視線だけではなくて、世界視線というか、それをはるかに超えた視線を持つ必要があるというようなことからヒューマニズムという問題を考え直さなきゃいけないとおっしゃっているように思うんです。そのあたり、私もたいへん伺いたいところです。新しいヒューマニズムといえるかどうか。ヒューマニズムという言葉すら、もはや問題なのか。つまり、これからのヒューマニズムというか、いわゆるポストモダンのヒューマニズムはどうなるかという問題です。

(吉本さん)
 笠原さんが今いわれたことは、非常に重要な問題のように思うんです。ヒューマニズムがもし現在問題になっているとすれば、二つ意味があると思うんですよね。それは、資本主義が興隆していく、勃興していくと同時に出てきた、ウェーバーにいわせればプロテスタント的、つまり新教的な原義なわけですけれども、自由な個人の競争といいましょうか、自由な考え方による競争というのが根幹になって、それで資本主義が興隆していく。そうだったら、個人の自由な意思とやり方というのは尊重されなければならないという意味で、一つは、ヒューマニズムといいましょうか、人本主義といいましょうか、人文主義というようなものがつくられて、考えられていったということはあると思うんです。
 それはまた同時に、資本主義は個人の自由な意思、活動というのを認めるんだ、そこで必然的に競争が起こることもあり得るし、それはまた認めるんだ、という考え方に対して、いやそうじゃない、それではそれから外れてしまった階級にとっては、個人の自由な競争なんていうどころの騒ぎじゃないじゃないですか、という考え方が一方にあって、これを同じようにヒューマニズムと呼ぶとすれば、階級的なヒューマニズムということになるわけです。
 この二つのかたちで、あるいは二つの分裂のかたちで、ヒューマニズムの問題は提起されてきたと思うんですよね。
 僕は、この二つに分裂したかたちでのヒューマニズムという考え方は、たぶん終わりなんじゃないかなと思うんです。笠原さんがどういうイメージを持っておられるかは分からないんですけれども、もしヒューマニズムという考え方が、現在、あるいはこれから後、やはり必要であるし、新しいかたちで出てこなきゃならないとすれば、その二つに分裂した――個人のあからさまな自由な意思と活動を保障するという意味合いでのヒューマニズムと、いや、それからそれちゃったやつの人間性はどうするんだというかたちで来たヒューマニズムの――分裂の空隙というか中間をどうやって埋めるのかとか、どうやってその空隙に新たなかたちでもヒューマニズムといいましょうか人間性というようなことが可能なのかというような課題としてならば、僕は、ヒューマニズムの課題というのは、今現在およびこれからの問題としてあり得るように思うんですけど。
 いわゆる分裂したかたちでのヒューマニズムというんだったらば、それらを全てひっくるめて、ポストモダンというか超モダンというか、人間性なんていうのは機械と同じだよ、なんていうふうに見ても大過ないみたいな、そういう超高度な見方みたいなものが出現可能であるような事態がやってきたときには、その分裂したかたちで旧来引きずってきたヒューマニズムは、それはちょっと終息するよりないんじゃないかなと思うんですね。新しいヒューマニズムというのは、たぶんその空隙のところで、もし考えるならば可能だ、というふうにしか僕には思えないんですけどね。

(笠原さん)
 私のヒューマニズムに関する問題意識というのは、こういうことなんです。ヒューマニズムというのは、人間は他の生物あるいは無生物よりも優れた存在である――万物の霊長という言葉がありますけれども――そしてこれは西洋的な、ユダヤ教、キリスト教的な考えに基づいている。神が万物をつくって、最後に人間をつくって、人間以外の万物を人間が支配することを神が委ねたみたいな神話があります。それに基づいてヒューマニズムというのは来ているわけですけれども、そのヒューマニズムは、エコロジー的な思想からいいますと、他の生物を支配し過ぎて、成熟し過ぎて、非常に問題になっている。ヒューマン・エゴイズムともいうべき状態になっている。
 それに対して仏教は――吉本さんは仏教にもたいへんお詳しいんですけれども――これは生きとし生けるもの全て尊いという立場があるわけですね。仏教全てがそうだとは思いませんけれども。仏教的なものの、人類だけを尊重するんじゃなくて生けるもの全て尊い――言葉でいうとアニミズムという原始宗教なんですけれども――同時にアニミズムというものを再発見すべきだという思想が最近少しずつ現れてきているわけですけれども、そのアニミズムと対立するというか、それと違う意味でのヒューマニズム、自然と共存しないヒューマニズムというのが問題だと私は感じているわけです。はは
 私はキリスト教をかなりやってきたわけですけれども、今やかなり反省をしておりまして、キリスト教を脱却しつつあるわけで、そういう点では、別に仏教に行ったというわけでもないんですけれども、もっと思想的に広く考えたいと思っているんですが、今私が申し上げたような問題については、吉本さんはいかがですか。

15 人間は植物も動物も包括している

(吉本さん)
 僕は、笠原さんのいわれたことには、ニュアンスとしてはやや異論があるんですよね。僕が現在考えている、ヒューマニズムじゃないんですけど人間観というのがあるとすれば、人間というのは植物も動物も包括しているというふうに考えているわけなんですよ。

(笠原さん)
 人間が?

(吉本さん)
 はい。人間の中でといっても体の中でといってもいいんだけど、その中には、いわゆる自律神経というか植物神経というか、内臓を動かしている神経系統がありますね。これは、たぶん人間の生体の中に含まれた植物性だと考えるんですよね。もちろん動物性というのも含まれている。それから、一種の内臓感覚みたいなのがありましてね。感覚というのは、元来、内臓じゃなくて、頭と感覚器官とを連携するところで成り立つわけですけれども、そうじゃなくて、内臓感覚というよりしかたがないような感覚みたいなものを考えに入れると、人間はもちろん動物もちゃんと自分の中に包括している。それで植物も包括している。そういうふうになるのなら、人間、あるいは人間性でもいいんですけれども、そういうものも含んでいる。
 それだから、もし笠原さんのいわれている意味で、植物的自然あるいは動物的自然というもの、あるいは生物的自然というのと、人間というのは結局同じだよ、平等だよというふうに考えるとすれば、その根拠は何かといったら、僕は人間も植物性を自分の体にちゃんと含んでいるから、そこのところで見れば決して別物じゃないよ、という意味合いで同じだよという、そういう観点で、ヒューマニズムといいましょうか人間性という概念を広げたいなと考えています。
 そうすると、それはある意味、植物の世界というもの、動物の世界というものと同じ場所に立てるし、もっと大きくいっちゃえば、自然の中に、代謝循環といいましょうかね、生物の代謝循環の中のどこに人間は位置付けられていて、それからクジラはどこに位置付けられて、イルカはどこに位置付けられているかということが、かなりはっきり見えるようになるんじゃないのかなと思います。
 それで、見えたところで、ある地域にとってクジラを食うことはどうしても避けがたいことで、片っ方の地域では、いや、クジラというのは、その生態を見ていると、これを殺しちゃって食っちゃって、この種を絶滅させるのはとても耐えがたいことだというふうに見える地域が地球上にあるとするわけですね。そうすると、それが和解しがたいことになっているのが、現在のことのような気がするんです。その場合に、クジラを食うなんてけしからんことだとか、イルカを食うのはけしからんといういい方をある地域の人たちがして、それをその地域以外のところに押し付けるということに、僕は賛成でないわけです。
 それはなぜかといいますと、人間も自然の一部分だという意味合いでの自然の代謝秩序の中で、人間もそうですけれども、種の永続性というものは、歴史的に見る限りはどの種であろうと保証されることはないんです。それは必ずしも環境によって絶滅するというのではなくて、種自体の遺伝子的運命の中で永続的な遺伝子的なものを持っている種というのは存在し得ないんです。また、存在し得ないということが、種の進化を促してきた原動力になる。そういう観点に立てば、ある地域の人たちがクジラを食っちゃうということをけしからんというのは、僕は成り立たんと思います。食っちゃうところでは食っちゃうし、食っちゃうのはおかしいじゃないかというところは食わないわけでして、そういう矛盾を人間というのは絶えずはらんでいると思うんですね。それを敷衍化するということは、僕は間違いのような気がするんですよ。仏教でいう同情心、一種の平等性という考え方もいいと思うんですけど、それだけやっちゃうと、どうしてもいかん、駄目なんじゃないか。
 ただ、人間ということの中には、植物も動物も体の中に含まれているから、そこでなら植物との対話が成り立って、動物とも成り立つ。動物に対するシンパシーも成り立つ。だから、あるところでは、これはやっぱり食べる必要がないのならば食べないで我慢するよ、ということもできるわけで、他のことで代用できるならそれはやめましょう、ということもできるというのは、可能性があるように僕は思うんですけどね。そこのところで考えたいんですよ。

(笠原さん)
 たいへん新しいお考えだと思います。
 たいへん時間も短くなってまいりましたけれども、先ほどお約束しましたので、質問のある方は手を挙げて、そして大きな声で簡潔にお願いします。

16 質疑応答1

(笠原さん)
 はい、どうぞ。さっき挙げていた……。

(質問者)
 〈音声聞き取れず〉国家から釈放されているイメージは、先ほどの東ドイツの市民のイメージで、幻想的に解放されているイメージは出ていると思いますが、人工都市の住民主体でリコールと選出をして代表者を選ぶ場合に、リコールされるというイメージと、職業という枠を超える、職業がなくなっちゃうというイメージと、それから犯罪者に対してどうするのか、この三つのイメージをいっていただかないと、ちょっと理想の都市というイメージは出てこないんじゃないかと思います。

(吉本さん)
 今いわれたことの中で耳に残っているから、最後の、犯罪者をどうするのかということについていいますと、こうじゃないでしょうか。その問題については、最小限のルールしか必要じゃない、というところに行くんじゃないんでしょうか。国家もたぶん、そういうところに行くと思いますけどね。これは倫理性の問題でもないし、懲罰の問題でもないんだけど、最小限このルールは必要だというものだけがそこに残っているということでも、今いわれたことは、いいんじゃないでしょうか。何を犯罪と考え何を犯罪と考えないかということについては、現代の社会が犯罪と考えていることを別にまねすることはないわけです。都市なら都市が共同体的に総員一致するために最小限こういうルールが必要だという、極めてあっけらかんとした意味でのルールといいましょうか、それだけが必要で、それに違反した場合には、例えば何カ月間はこの都市から別のところへ行ってもらいたいとか、何でもいいんですけど、そういう最小限のルールということが問題になってくるんじゃないでしょうか。
 それから、リコールという問題ですけど、これは国家みたいになってくるとなかなかたいへんなところがあるんですけれども、簡単なことなんです。要するに、最小限の都市管理者というものがあり得るとすれば、それは当番制で、回り持ちでやる。それは別にさして意味がなくて、もちろん、べつだん格別の権力を持つわけじゃなくて、ただ当番として回り持ちでやらないといけない。だいたい当番というのは何かといったら、嫌々やるものなんですよ。嫌々だけれども当番だからやるさ、隣の人もやったんだから俺もやるさ、という、ごみ当番と同じで、そういうものだと思うんです。管理者というのは回り持ちで成り立つというふうなことで充分だと僕は思います。
 現代の国家とか地方自治体でも、権力といいましょうか権限を持っている人たちは、やっぱり、そういう当番のつもりでやっている人はいないんで、だいたい、これやるともうかるから、これやるとなんかいいことがある、と思ってやっているわけなんです。だけれどもそうじゃなくて、それは最小限、管理者として当番でやるということで、あんまり本当はやりたくないんだけど当番だからしかたなしにやるんだ、というぐらいでやると、あんまり権力はつくろうともしないし、なろうともしないんだよ、と僕には思われますから、そこのところで成り立てばいいんじゃないでしょうか。リコールさえもあんまり必要でないくらいなふうに、当番回り持ちということで、これは面倒くさくて嫌なことだ、ということとして管理機能があれば、もうそれで充分じゃないか、と僕にはそう思われますけどね。
 本当は国家もそういうふうになった方がいいんだと思うんです。だけど、政治に当番というものは、みんな、なるといいことがあると思ってやっているわけでしょうし、そういうことがいいことでなくなっちゃったら、今の政治家とか労働運動家とかそういう人たちは、だいたい、いなくなっちゃうんじゃないでしょうか。やるのなら当番と同じで、ただ面倒なだけだけど、まあ、しょうがないから当番だからやるんだ、というようになったら、今の政治家というのはみんないなくなっちゃうと思うんです。いいことがある、もうかると思ってやっているわけですから、いなくなっちゃうのは当然なような気が、僕はしますけど。
 それは地方自治体とかということでは非常に可能でしょうし、笠原さんのところの大学がありますけれども、ここは、そうですよね、学長だからいいことあるのかっていうと、面倒くさいことばっかりしかなくて、いいことなんかちっともない。あんまり成り手がいないんだっていう、それだから何年もやってるんだっていう、笠原さんはきっとそう思っておられると思うんですけれども(笑)。小さいところだったら、なおさらそういうことは可能なような気が、僕はするんですけど。だから自治体、人工都市でも、それは可能だと、僕には思われますね。……それでいいでしょうかね。

(笠原さん)
 はい。

17 司会

(笠原さん)
 ありがとうございました。誠に残念でございますけれども、ちょうど時間になりましたので、このトーク番組を終わらせていただきます。東京では「吉本隆明25時」というのをやられたそうですけれども、関西ではわずか3時間半ぐらいで、誠に申し訳ない。別に私が申し訳ないという必要はないんですけれども。主催者にお願いして、またもう少し長い面白い企画を、吉本さんを囲んでやっていただければと思います。ありがとうございました。(拍手)



テキスト化協力:山内円さま(チャプター7~17)