1 司会

2 荒地派の驚き――内的体験を詩の言葉に

 今日は「荒地派について」が僕に与えられたテーマです。僕は末期といいますか晩期の荒地の同人ということになっています。それで『荒地詩集』という一冊本の詩集がいくつか出ているのですけれども、この中で言いますと一九五四年版というのがちょうど第一回荒地賞の発表みたいなのがあった号で、僕は荒地賞をもらっているのです。
 鈴木喜緑さんと中江俊夫さんか誰か、よく覚えていないのですけれども、三人ぐらいで一緒にもらって、そこに初めて僕の詩が載っていると思います。今から考えますとよくわかるのですけれども、荒地賞みたいなものを荒地の初期からの詩人たちが設定したときは多分、行き詰まっていたといいましょうか、終わりのときだと思います。
 そのときはそうではなくてそれが始まりぐらいに思っていましたけれども、だいたい荒地派と言われているもの、その賞を設定して新しい血を導き入れようみたいに考えられたときには多分一応終わりだったのだと、今はそう考えています。
 僕が今日お話しするとすると、半分は内側からどう見えたかということと、それから半分は荒地派というものの詩がどういう意味を持ったのか、つまり詩の歴史の上でどういう意味を持ったのかということの両方が合わさったところでお話しできれば一番いいと思うわけです。
 それでそこのところで、自分が少なくとも荒地賞というのが設定されたとき応募しているわけですからよほど傾倒したといいますか、びっくりした詩人たちだと思ったことは確かで、そこからお話ししてみたいのです。いくつかあるのですけれども、どうしてびっくりしたかということをまずお話しします。
 まず第一は、つまりこういう詩が書けるものなのかというのがものすごくびっくりしたことの一つだったわけです。つまりこういう詩というのはどういう意味かと言うと、僕らが詩に、特に日本の詩になじんだのはだいたい戦争中とか戦争末期ですから、いわゆる四季派といいましょうか、四季の詩人たち、例えば立原道造とか、中原中也はちょっと別なのですけれども、三好達治とか、そういう人たちの言ってみれば抒情詩みたいなものが詩だと考えて育った年代だったわけです。
 ですからそれで、どう言ったらいいのでしょう、僕ら戦争中でありますし、四季の詩人たちの中で一番末期を飾る詩人というのは、今もおられて詩はあまり書かれないで映画批評などやっておられますけれども、杉山平一の「夜学生」という詩があります。それが四季の最後を飾るとてもいい詩だったわけです。それが非常に鮮明な記憶を持っています。やや抒情詩というよりもちょっと知的な詩といったらいいのですけれども、それが多分四季の最後なのです。
そういうものを詩だと考えていたものですから、荒地の詩が出てきたときにびっくりしたわけです。つまりこういう、何といいますか、言ってみれば鮎川さんもそういう言葉を使っていると思いますけれども、現実に対するさまざまな体験というのをだんだん重層化、重ねていって、現実の体験に対する内面的な反応、あるいは内的体験を積み重ねていくということ自体が詩の言葉になってしまうということがものすごい驚きであって、このように詩というのは書けるものかというのをとても新鮮な驚きとして感じたわけです。
 それがなかったら多分僕らは、何といいますか、詩といえば三好達治であり、立原道造、中原中也でありというように考えて終わったのではないかと思うのです。それぐらい新鮮な驚きであったわけです。

3 コラージュの手法――鮎川信夫「アメリカ」

 例えば鮎川さんに「アメリカ」という長詩があります。冒頭のところをちょっと読んでみましょうか。これが詩になるのかということの驚きという意味合いでちょっと数行読んでみます。

 それは一九四二年の秋であった
 「御機嫌よう! 僕らはもう会うこともないだろう 生きているにしても 倒れているにしても 僕らの行手は暗いのだ」 そして銃を担ったおたがいの姿を嘲けりながら ひとりずつ夜の街から消えていった。

 というようにして始まるわけです。つまりこういう言葉が詩になるか、それからこういう体験が詩になるかということは、例えば三好達治の詩からも立原道造の詩からも想像することができないわけです。これが初めて出てきたときには何物にも替え難いぐらいの新鮮さでした。そういうことをまず、これは内側からと外側からの荒地派の詩というのの僕にとっての体験のところで、まず第一に言ってみたいことなのです。 
 もう一つは今の数行の中にも入っていて、それが直接驚きにもつながっていく。つまり鮎川さんが特によくやっているのですけれども、一種のコラージュの手法というのが詩でできるのだということがやはり大変な驚きだったわけです。
 例えば今読みましたところで、「御機嫌よう! 僕らはもう会うこともないだろう 生きているにしても 倒れているにしても 僕らの行手は暗いのだ」という、詩の中ではかぎ括弧になっていますけれども、つまりこれはトーマス・マンの小説の中の言葉です。これを鮎川さんが、言ってみればはめ込んでいるわけです。「アメリカ」という詩の中には所在不明なものもありますけれども、これはトーマス・マンの小説の中の一説だということは突き止められています。所在不明なコラージュの文句がみんなかぎ括弧でたくさん引用してあります。
 それで全部それが長編詩の中の一こまになっています。こういうことが詩でできるのかということが大変な驚きでした。これは今の皆さんから考えてそんなことは何でもないではないかと。むしろ何といいましょうか、これは散文に近いものでというようにお考えになるかもしれないから申し上げるわけですけれども、僕らにとっては大変新鮮な驚きだったのです。
 コラージュの手法みたいなもの、つまりはめ込みということが、少なくとも自分に、何といいますか、一遍の詩についての構想力さえあればいろいろな人の作品とか人の言葉とかをはめ込んでしまって、それでも詩というのは成り立ち得るのだ、そういうやり方ができるのだということを初めて、やはり荒地の詩人、特に鮎川さんの詩が教えてくれたと思います。
 それもびっくりしたことの一つです。そういうことが可能だったらば、多分詩でできないことはないはずだということなのです。立原道造にしても三好達治にしてもいい詩ですけれども、つまり詩と言うと「あ、これは詩だな」というようにすぐに思い浮かべられる詩とちょっと違って、少なくとも可能性として言うならば、このコラージュの手法を使えば多分どんな詩でも、どんな長編詩でも可能だということがあり得るわけです。 
 つまり小説のようなものを書くこともできるし、もちろん抒情詩のようなものも文明批評のようなものを書くこともできます。ということは詩でもってできるのだということなのです。
 それがやはり大変な驚きであり、また荒地派が初めて日本の詩の歴史の中に持ってきた詩の方法だと思います。この新鮮さというのは、今ではむしろ古いと思われるかもしれませんけれども、それは僕らの体験ではそうではなくて、大変新鮮なものだったのです。

4 推敲しながら詩が書けるということ――北村太郎「地の人」

 もういくつか特徴を挙げてみます。全部関連してくるわけです。もう一つ、詩というのは意識と無意識の一つの流れであって、流れから始まって流れが終わったときには終わってしまう。もっと違う言い方をしますと、内面的な持続というものが終わったときには一遍の詩が終わってしまう。それで内面的な持続というのをある言葉を契機にして始められたら詩が始まる、あるいは詩が作れる。これは四季派の三好達治の詩でも立原道造の時でも、中原中也の詩でもそうです。半ば無意識的に最初の言葉さえぶつけられれば、つまり出てくれば、そこから意識の持続といいましょうか、内面的な持続というのがある限り、言葉で表現できる限り詩は成り立っていく。そして持続が終わったときは詩が終わる。
 そういうものが一般的に詩と考えられるとすれば、もう一つ荒地の詩人たちが日本の詩の中にもたらした方法というのは何か。どう言ったらいいのでしょう、推敲可能な詩が書けるということです。詩というのは一行一行立ち止まってそこで考え込んで、次の行はこれがいいかというのを頭の中でいくらでも模索して、今日次の行が浮かんでこなかったら明日同じようにやってみて、明日やればまた次の行が出てくるかもしれないということがあるわけです。つまりそういうことが詩というのは可能なのだということ。
 もちろんこれは立原道造もやっているわけです。一時立原道造の詩をすっと読んでみるとそんなことはやっていないように見える。半ば無意識のように見えるわけです。一種の意識の持続の流れというものが詩であるわけです。
 ところでそうではなくて流れを止めるということ。止めて考え込む、あるいは立ち止まること、立ち止まって自分が書いた詩の一行を自分でじっと見てみるとか検討してみるという詩の書き方が可能だということを初めて、少なくとも僕にとっては初めて、何といいましょうか、教えてくれたのが荒地派の詩の特徴だと僕は思いました。
 これもまた僕をびっくりさせたことであるわけです。僕が自分で見よう見まねで四季の詩人たちの抒情詩を模倣しながら書いてきた詩というのは、いずれもそういう半ば無意識というか、流れだけが問題であって、流れが尽きたときはだめだと。流れの最初の一行が出てきたらそこで続くかもしれないという詩ばかり書いていました。
そうではないのだ。詩というのは一行一行立ち止まって考えたり、次の行は何にして、こうしたらいいか、ああしたらいいかということを考え込むことが可能だという方法を教えてくれたといいますか、展開して見せてくれたということがまた新鮮な驚きであるし、大変びっくりしたことなわけです。つまりこれだったらやはりやれる。散文と同じように詩というのはいろいろなことができると考えさせた問題であるわけです。
 ちょっと例を挙げてみます。これは技術的に荒地の詩人の中でも最も技術的に優れた達者な詩人、北村太郎さんの代表的な作品で「地の人」というのが初期にあります。いい詩です。それをちょっと数行読んでみましょうか。なぜ立ち止まって推敲する、つまり考え込むことができるかというのがすぐわかります。最初ですね。
 「そうだ、あの日、おれは
硫酸くさい工場の構内をぶらぶら歩きながら、
 一分まえに同僚であったひとびとの
壁の顔を、おれの
ヒーロウの視線でなでてやった」。
もう少し読んでみましょうか。いい詩だということはすぐにわかりますから。
 「電解槽がオルガンの鍵のように、つめたく並んでいる、
暗い天井の
高い部屋に、ぼんやり立っていた友よ、きみは
きみの「魂」のなかに、苛性ソーダほどの
苦さを持っていたか。
一つの窒素と三つの水素を混ぜるために、
熱心に計器の目盛りを見つめていた
友よ、きみは
きみの「魂」のなかに、触媒の鉄片ほどの
秘密を持っていたか。
白い硫安(硫酸アンモニア)の堆積をシャヴェルで袋に詰めていた
友よ、きみは
きみの「魂」のなかに、埋葬の土を掘るほどの
敬虔さを持っていたか。
おお、おれは、きみたちの壁の
顔を、おれの
ヒーロウの視線でなでてやった!」。

 これは副題が「失業者の独唱」となっています。五一年作。どういう場面かといいますと、要するに多分ご本人だと思うのですけれども、自分が硫酸工場に勤めていたのですけれども、何か憤然としてか、昂然としてか、意気軒昂として辞めて失業してしまうわけです。失業して元の工場といいましょうか、そういう同僚の工場の構内を訪ねて行って、同僚たちが壁のような視線で自分を見ているのに対して自分が、おまえたちは要するに魂の中に苛性ソーダの苦さを持っているかと問いかけている詩です。ものすごくいい詩です。もっと長いのですけれどもね。
 これをちょっとあれしますとね。「そうだ、あの日、おれは 硫酸くさい向上の構内をぶらぶら歩きながら、一分まえには同僚であったひとびとの 壁の顔を、おれの ヒーロウの視線でなでてやった」という詩の書き方と内容があるでしょう。
 この書き方というのは、どう言ったらいいのでしょう、つまり一応「そうだ、あの日」というところで次に何にしようか、次にどう表現したらいいかと考えたとすれば、いくらでも考えられるわけです。この場合には「俺は硫酸くさい工場の構内をぶらぶら歩きながら」という行が次に来るわけですけれども、「そうだ、あの日、おれは」というようにして、もっと違う言葉を次の行に持ってくることもできるわけです。「そうだ、あの日、おれは」というところで立ち止まって、要するに次の行は何なのかと考えることも選ぶこともできるわけで、そこのところで選んで、これがいい、あるいはこれが適切だとやることができるわけです。
 こういう詩の書き方というのは、皆さんは平気でできるかもしれないけれども、僕がそのときまでに持っていた、何といいますか、一種の無意識の流れだけで詩を書いてしまっているという書き方からすると、こういうやり方、このように詩が書けるということはものすごい驚きだったわけです。つまりこれだったらば次の行を推敲することもできる。もし何だったら一か月後にこの数行をまた見返して、ここはちょっとまずいというようなことが浮かんできたらまた違うように推敲することが可能なわけです。
 なぜか。意識というのを、何といいますか、例えば一行ずつ、あるいは二行ずつでも三行ずつでもいいですけれども、そこで止めておいて、そして考え込んではまた持続へ持って行くという、それは一種の技術であるわけです。そういうことがここで可能になっているわけです。 
 僕らがそのときに持っていた技術によれば、要するに流れですから、今日の流れですっとやってしまわないと次の行が出てこない。次の行が出てきたらその流れでもってその次の行が出てくるという、それ以外のやり方はちょっとできないと思えていたわけですけれども、これだったらばそうではない。どこで詩の行の持続を止めて、止めたのだけれども断ち切ってしまうのではなくて、その次の行をまた時間を置いて選んで作り上げる。それもやはり後から、全体の流れで言えばちゃんと流れはついているというのは、流れを断ち切っておいて、時間を止めておいて、そしてまた流れを作る。止めてまた流れを持続させるという技術というのは、こういう詩の表現の方法だったら可能であるわけです。
 そういうことは今だったらそんなに難しいことはないでしょう。僕も多少自分でも技術的にはうまくなっているから、今の僕だったらできないことはないのですけれども、そのときはできませんでした。そのときはこういうことが可能なのだとびっくりしたわけです。

5 非日常的な現実体験が詩になる

 それから北村さんの詩は荒地の詩人の中では大変叙情的な詩に属しますから、もっと違う人の詩で持ってきたほうがいいのですけれども、もう一つ、またびっくりしたことを列挙してみます。それは何か。こういう内容が詩になるのかということにびっくりしたわけです。
 こういう内容とはどういうことか。代表的な詩人である田村隆一の詩を持ってくれば一番いいわけです。田村隆一の詩の中にはよく「われわれは」という言葉が出てくる。「われわれは」という場合にはたいてい演説をぶつとか、何か人におしゃべりするようなときにしか「われわれ」という言葉は使わない。詩というのはもっとひそやかな内面的なものであって、「われわれ」」とは何事だというのは、やはり四季にいる人たちの詩でも立原道造、中原中也の詩でもそういう感じを与えるわけです。少なくとも「われわれ」というようなことを言いながら詩になる、あるいは詩にしてしまうということはやはり僕にとっては大変な驚きであったわけです。
 多分これはちょっとその後もやはり類例がなくて、現在でも「われわれ」というような詩を書く人はあまりいないのではないか。田村さんはそれをやってしまったわけです。「われわれ」と言ったって詩になるぜということをやってしまったわけです。やはり少し読んでみましょうか。「一九四○年代・夏」という詩です。

 「われわれはこの地上をわれわれの爪でひっかく
星の光りのような汗を額にうかべながら
われわれはわれわれの死んだ経験を埋葬する
われわれはわれわれの負傷した幻影の蘇生を夢みる」。

 という例えば四行があります。これが詩になるのかということは、まるで日本の詩の歴史から言えばちょっと考えられないような問題であるわけです。それを例えば田村さんは詩にしてしまったわけです。とにかくやってしまえばできてしまうということなのですけれども詩にしてしまった。しかも大変優れた詩にしてしまったということなのです。それもまた驚きでした。つまりこの種の言葉が詩になるということは全く予想だにつかないといいましょうか、想像だにしなかったというのが当時の僕らの経験です。
 それでしかしよくわかりますように、僕たちは日常生活、私生活の中では「われわれ」という体験、われわれはこうだというような体験はそれほどないです。けれども一たび非日常的な現実体験の場面に出て行きますと「われわれ」と言いたいような体験というか、「われわれ」と言ったほうがむしろ適切で切実だという体験にしばしばぶつかるということは誰でもそうなわけです。
 そうすると、その場面というのはもう詩にはならないのかということです。そうすると少なくとも初めから詩というのはこういうものだと限定することになってしまいます。しかし非日常的な現実体験だって詩にはなるのだという問題を初めてこの荒地派の詩人、特に田村隆一の詩がはっきりと示して教えてくれたと思います。
 非日常的な現実だけ、あるいは言ってみれば共同性、あるいは共同体としての体験というものだってやはり詩にしようとすればなるのだということ。私の感情だけが詩なのではなくて、非日常的な「われわれ」と言ったほうがむしろ適切な現実体験というようなものも詩の表現の中に引き入れることができるということを、田村さんの詩が特に自らやって、しかも優れた詩にすることではっきりさせてくれた。
 それは日本の詩の歴史の中に多分初めてもたらしてくれたものだと僕には思われます。つまりこれは広く言えば荒地派の詩の功績、新しさでしょう。また個人的に言えばそれは田村さんであり鮎川さんであり、そういう詩人たちの詩が初めて、しかも優れた詩として可能にしたと思えるわけです。
 だから一種の共同体験、あるいは共同性の体験というようなものも詩の中に入れ込むことができる。この入れ込み方をするとたいていいわゆる政治的なプロパガンダの詩といいましょうか、アジテーションの詩になってしまうわけです。それならば戦前からないことはなかったです。戦前のプロレタリア詩みたいなものの流れはそういうことがありましたから。
 しかし田村さんの詩はアジテーションの詩ではない。やはり内的な体験の詩です。内面的な体験の詩であって、しかも我々、一種の共同体験というものを中に引き入れているというような詩の格好になると思います。つまりこれは初めて田村さんが見事にやってみせたこと、強いて言えば荒地派の詩人がやってみせたことだと思います。これもやはり驚きだと僕には思えました。

6 田村隆一の共同体感情と文明批評の詩

 例えばなぜ田村さんがこういう詩を詩として可能にしたか。田村さんの、何といいますか、資質とか内面性とかいうものに即して考えてみれば、それは多分田村さんの中には一種の共同体感情のようなものをとても重要視する考え方がある。だから例えばよく下町のことを書かれたりしますけれども、それは多分下町に一種の共同体の感性みたいなものがまだ残っている部分があったりするから、きっと田村さんはそういうことが好きなのだろうと僕には思われます。
 田村さんの詩というのは、どんな私的なことが書いてあっても、いわゆる私感情というのでしょうか、私の感情の表現は大変少ないです。私のテーマを採っているときでも、書かれた詩は一種の共同、「われわれ」と言いたいような一種の共同の感性、感情というものがちゃんとあります。
 それは多分田村さんが共同姿勢、あるいは共同体体験というようなものを何か個人の私の感情よりもちょっと上に置いているところがどこか考え方の中にあるからだと思われます。またそれが内的体験として「われわれは」という言い方を詩として可能にしたのだと僕には思われます。だからこれもまた大変な驚きであったわけです。
 それで田村さんの、何といいますか、後期の詩というのはそうでもないですけれども、初期の詩というのは、もう一つ主題に即して言えば文明批評の詩が大部分を占めていると言っていいぐらいです。文明批評というのはもちろん散文にしかならないものであり、散文の中でも最もがさつなといいましょうか、時事評論みたいなものでしかできないのだという一種の通念みたいなものが今でももちろん日本の表現の世界にはあります。
 けれども田村さんは文明批評というのは詩になるのだといいましょうか、そういうことをごく初期にやってしまったということがあると思います。文明批評だって詩になるんだぜということだと思うのです。それを田村さんはやっていると思います。これはやはり僕らにとっては大変な驚きだし、多分日本の詩の歴史の中でそういうことを初めて、この荒地の詩がやってしまったと思います。
 そしてやってしまってその後なかなかこれを詩にできるということはなくなってしまったのではないかと思われるわけです。ですからもう一度もし何かチャンスがあればこういうことは一体何だったのか、こういう詩の手法というのはどこかでどのようにやれば今でも生きるかということはやはり考えるに値するのではないかと。
 今現在の詩で言えば、ここは一応避けて通ってしまうというか、過ぎ去ったことであまり関係ないということで過ぎているのが日本の詩の現状だと思います。それは時代時代、その時々ですからそれはそれでいいわけですけれども、ただ文明批評とか「われわれ」というような感性を詩に、それもいい詩にしてしまった。そして詩というものは私感情、私のひそやかな感情であるという一種の通念をめちゃくちゃに破ってしまったという意味は、また改めて検討してみるといろいろなことが出てくるような気もいたします。
 今いくつか申し上げましたけれども、こういうことが僕などには大変な驚きであり、これならばやはり自分が考えていることとか、自分の非日常的な、何といいますか、思想とか体験とかいうようなものも全部詩にできないことはないということを感じました。そして僕らは盛んに荒地、鮎川さんとか田村さんとかの詩を一生懸命、方法的、手法的に勉強したように思います。模倣して勉強して身に付けるようにしたと思います。そのことが何か僕なんかが荒地派というものに自分を近づけていった大きな理由のように思います。

7 喩のつくり方・使い方

 それからこれは北村さんの詩が技術的に非常にすっきりしてうまいですから一番よく表しているのですけれども、初めて僕らに喩といいましょうか、メタファー、暗喩とか直喩とか、喩法というものを教えてくれたわけです。これは例えば三好達治でも立原道造でもいいですけれども、そういう詩人たちの詩をお読みになればよくおわかりになるように、ほとんど喩というのは使ってありません。使っている場合でも直喩だけです。メタファー、暗喩というのはめったに使わないというのが詩の特徴です。ところが詩の喩というものをちゃんと技術的に使えるように取り出してくれたのも荒地派の詩人が初めてだと、少なくとも僕の体験としては思っています。
 この人たちが初めて喩の使い方とか作り方を教えてくれたと思っています。つまりそれまでは無意識に喩を使って、自分でも使っていますし、立原道造や三好達治の詩も無意識に直喩は使われています。けれどもメタファー、暗喩というのまで意識的に使っているということは多分ないのです。初めて喩というものの使い方、作り方を技術的に取り出してくれたというのも荒地の詩人のやってくれたこと、日本の詩の中へもたらしてくれたことだと思います。これは北村さんの詩が一番技術的にうまいですから、ちょっと北村さんの詩を例に申し上げてみましょうか。
 例えば「小さな街の見える駅」という詩の中に、これは直喩なのですけれども「一月はかしこい花嫁のように、ぼくの靴音を遠くのほうから聞き分けようとする」という行があります。この「かしこい花嫁のように」というのが直喩で、ものすごく見事だと思います。「一月はかしこい花嫁のように、僕の靴音を遠くのほうから聞き分けようとする」というのはとてもよくわかる。イメージが来るわけでしょう。
 この「かしこい花嫁のように」という直喩の使い方というのは、先ほどから申しましたように一行で立ち止まることができますから、「かしこい花嫁のように」の代わりに、自分の靴音を遠くから聞き分けるというのを何か違う直喩に代えたらどうだろうか。別の直喩は成り立たないだろうかというようにたくさんの何か直喩を考えることができます。
 考えて、その中で例えば「かしこい花嫁のように」という直喩が一番いいと思ったら、要するに「一月はかしこい花嫁のように僕の靴音を遠くのほうから聞き分けようとする」という行にすればいいわけです。「かしこい花嫁のように」の代わりに、何でもいい、僕はここで即座に思い浮かばないですけれども、「録音機のように」でも何でもいいです。「録音機のように僕の靴音を遠くから聞き分けようとする」でも、悪い直喩ですけれどもいいわけです。この場合適合するわけ。そのように「かしこい花嫁のように」の代わりにたくさんの直喩を思い浮かべる、あるいは考えることができます。その中で一番ピタッときた直喩をここで使うことができます。
 このように直喩、喩というものを取り出して、しかも考えてたくさん作ってやってみて、その中で一つ適切なのを選ぶということが技術的にできるのだということを初めて教えてくれたように思います。初めて教えてくれたのがやはり荒地派の詩人であるわけで、これはやはり今までかつてそのように詩を書いた、そのように書くものだと教えてくれた詩人たちも近代詩の歴史の中にはないのですよ。あるいはあるのですけれどもそれは職業上か詩作上の秘密として教えてくれない。ぼやかすように表現するわけです。
 ところでこれはそんなぼやかしていないです。露骨にといいますか、「かしこい花嫁のように」というのを見事にはめ込んでいるわけです。こういうことが初めて可能だと教えてくれたのも、また可能にしたのも荒地派の詩人の特徴だと僕は思います。

8 見事な暗喩の例――北村太郎「Pride and Prejudice」

 例えば今度は暗喩で一つ挙げてみましょうか。北村さんの詩がいいですから北村さんの詩で例を挙げます。これは「Pride and Prejudice(高慢と偏見)」という詩の中です。三行ばかり読んでみましょうか。これは青年のお医者さんのことを詩にしています。彼というのはお医者さんです。「彼はやさしい人、沈黙の青年、その水晶体の裏側や、淋巴腺のまわりに、高慢と偏見のこまかい血管がかたまっている」。この場合の「高慢と偏見の」というのが暗喩、メタファーです。これもまことに見事な暗喩だと僕は思います。
 「高慢と偏見のこまかい血管がかたまっている」とあるでしょう。そうすると皆さんもすぐに思い浮かべられるでしょう。無口でまじめで一生懸命患者を診る青年のお医者さんがいます。その内面でどんなことを思っているかというのはわからないのだけれども、何となく無口で熱心でまじめであまり余計なことはしゃべらない、患者にもしゃべらないお医者さんのイメージを思い浮かべますと、そこで何か「高慢と偏見のこまかい血管がかたまっている」というのはものすごく見事な表現だと僕は思います。
 この場合の「高慢と偏見の」というのが暗喩に当たります。これも「こまかい血管がかたまっている」というのだから高慢と偏見でなくてもいいわけです。これもまた私も出てくればいいのですけれどもなかなか出てこない。何でもいいわけです。暗喩であれば何でもいい。だけれどもこの「高慢と偏見のこまかい血管がかたまっている」という暗喩を選んだことで、この行はものすごく優れたものになっています。
 こういうことを、やはりここで立ち止まることによって「高慢と偏見」の代わりに何々のというのをいくらでも選ぶことができるし、今日できなかったら明日またもう一度やって、たくさんやってみて、その中からいいのを、ピタリするのをここに持ってくればいいということ。これは詩の技術的にもそうですけれども、そういうことができるのだということを初めて荒地派の詩人が教えてくれたと思います。
 特に中桐さんとか北村さんという人は技術的にそういうことをはっきりしていますから、直喩とか暗喩の使い方がはっきりしています。そしてうまいです。いいですから非常によくそういうことがわかるわけです。そういうこともまた驚きなわけです。詩というのは徹頭徹尾作ろうと思って作れるのだということなのです。
 それで一行でだめだったら、何も二行目が出てこなかったら別に流れを心配する必要ないので翌日またその次の行を考えればいい。それで次の行を考えて止まってしまったら次の行はまた翌日考えればいい。それで少なくとも全体の流れというのはいくらでもそのように断ち切りながらでも作ることが技術的にできるのだということを教えてくれたと思います。これはやはり日本の、何といいますか、近代詩以降の詩の歴史の中でいえば大変な驚きであって、初めてそれをやってくれたのだと僕は思います。

9 同時代から見た荒地派の詩人たち

 僕はそういうことにびっくりして、やはり優れた、つまり何といいますか、少なくとも北村さんも田村さんも年からいうと僕と同じぐらいです。昔むかし、子供のときに会ったことがあるのです。そのときはわからないわけですけれども、後から照合すると、僕は受験勉強に行っていたのですけれども、同じ私塾の、その先生は詩を書く人で、その先生のところに行ったりしているのですよ。
 それで僕は受験勉強だけしかしないし、詩を書くときには密かに隠れて書いていたから全然あれでないのですけれども、田村さんや北村さんたちはそのころから大っぴらに詩を書いていて、その先生のところによく集まっていた。後から考えると確か年も同じか一つぐらいしか違わないぐらいなのだけれども、技術的に言いますと大人と子供ぐらい違っていました。
 僕らが荒地派の詩というのを初めて見て感じたときには、もう田村さんとか北村さんとか、もちろん鮎川さんはもう少し年齢は上ですけれども、技術的にも、どう言ったらいいのでしょうか、ちゃんとできあがっていると言ったらおかしいですけれども、ちゃんとしているわけです。第一級の詩人であるわけです。大人と子供ぐらい違いました。
 何が違うのかと言いますと、第一に要するに技術が取り出せないわけです。一行のその次の一行というのは流れでしか出てこないと思い込んでいて、そうでしか作れないと思っているわけです。ところがそうではないのだ、技術として知っていれば取り出せるのだというところまでは少なくとも戦後のそのときには行っているわけです。だから年は同じぐらいだし体験としても昔出会っているのですけれども、それでも詩としては、あるいは詩を書く者としては大人と子供ぐらい技術的に違っていました。それもやはりびっくりしたことの一つだと思います。
 僕らは盛んにこれなら詩が書ける、自分の体験でも書けるということ、これはやはり大変なものだということ、それから技術というものは取り出せるものなのだということを自分の糧として、盛んに模倣したり考え込んだり、これではだめなのかとか、これではあまりに外面的に過ぎるとか、これだったら内的体験にならないではないかという辺りで盛んに苦労しながら自分の詩の方法というのを変えていったと自分では考えています。
 もちろん申し上げなければいけないのですけれども、直喩や暗喩がうまい、いいということはその作品がいいということとは別です。直喩とか暗喩が技術的にいいということ、それから下手だということ、例えば僕は中原中也などは下手だと思います。しかしそれが詩としていいか悪いかということとはちょっと違います。だから総体的なことはよくあれしなければいけないわけです。詩を詩たらしめているものというのはもう少し違うことです。
 それはもちろんわきまえていなければいけないことなのだけれども、それにしても何といいますか、技術がちゃんと取り出せてものすごく見事な暗喩とか直喩とかを使えるということ、それを考えられるということは大変なことだと僕らは考えます。それがまた荒地の詩のとても大きな意味合いだと僕は思っています。

10 現実を引っかくことができなくなる

 さて、そういうことで荒地の詩を内と外から見ていって、僕の自分の体験を交えて言いますと、そういうところが一種の僕らに見えていた特徴であって、そこから荒地派の後期といいますか晩期に自分も加わっていったと思います。
 しかし先ほども申しましたように、僕らが加わっていったときには多分、今から考えると行き詰まったと内部で感じられていたので、どこか新しい血を入れようと考えたのではないかと思われます。
 それでこの種の荒地派の詩の書き方、方法というもの、現実体験を累層化していって内的体験にまでどんどん決め込んでいって、それが表現になっていくという詩の方法というのはどこかで終わってしまう。だめということになってしまうわけです。どこでだめになったか。これもまた自分の体験で言うのが一番いいと思いますから言います。僕が自分の詩はだめだと思い出したのはどういうところを契機にしたか。
 要するに先ほど詩の言葉の中にも出てきましたけれども、現実の出来事とかそれに対する判断とかで現実を引っかいていくように言葉を使っていくというのは、現実を引っかくということが何はともあれとても重要なことになってくる。その詩の書き方というので現実を引っかけられなくなってしまったのです。
 もちろん再三申します通り技術はある程度あるものですから、習慣的になら詩を書くことができるのです。でも書いたって自分でちっとも面白くないわけです。習慣的な技術で書いてもちっとも自分で面白くないわけです。空疎なことをやっているようにしか思えないのですね。
 さればと言って切実に言えば言葉が現実を引っかく、引っかいてえぐり取るみたいな感じで言葉を使うことができなくなってしまったのです。習慣でならできるけれども切実な意味ではできなくなってしまった。別な言葉で言うと、多分非日常的な現実体験というようなところに自分が当面する場面が少なくなってしまった。あるいはなくなってしまったということだと思います。
 そういうところで習慣的な手法で詩を書いたってしょうがないではないかということになってきまして。やはりさまざまな試みをしようとするわけですけれども、どうしてもこのやり方だったらだめだ、詩が成り立たないと思ったときに、やはりこれはだめだと自分で思ったと思います。
 僕の体験がそうだということを他の人の体験に普遍できないです。しかし鮎川さんが詩を書くのをやめてしまったことも多分そこに起因するだろうと僕からは想像されるわけです。つまり現実を引っかくことができないわけです。引っかくことができないのに無理に技術で書いていると、何か見掛け倒しの詩というのは空疎だと。空疎だとわかっていて書いているみたいなことは耐え切れないとなってきて、それでだめになってしまう。書くのが嫌になってしまうわけです。
 それでは自分の方法を修正すればいいではないか。その時々の現実にうまく対応できるような修正の仕方をすればいいではないかということになるわけですけれども、それは大変なことなわけですね。つまり内在的に、内的にいって自分の方法を修正していくということは大変なことでなかなかできないのです。
 外側からまねしてならいくらでもできるわけですけれども、そうではなくて自分の内面から自分の方法を修正して変えていくのは大変なことで、それは面倒だしできないわけです。これがやはり自分の負け惜しみといいますか理由と。要するに「本当に自分に時間があればこれをやるけどな。しかしおれには時間がないもんな」という感じを伴いながら、どうも詩というのを作らなくなってしまうというようになっていきました。
 多分荒地のある種の、非日常的な現実体験感性、感性的な表現といいましょうか、そういうのようなものがだめになっていく。時代の変化というものに対してだめになっていった理由は多分同じところにあると思います。
 言葉が現実を引っかくことができなくなったということなのですよ。特に非日常的な現実体験を引っかくことができない。引っかこうとすれば空疎になるという、その体験がなかなか面倒なことになったのだと僕には思われます。
 そういうところは多分荒地の詩人たちが荒地、あるいは荒地派というような意味合い、共通体験を持たなくなって、個々の詩人だと。ある者はやめてしまう、ある者は沈黙してしまう、ある者は書くけれども一個の詩人として書いているので、荒地という共通体験で書いているのではないとなっていく。それからある人は習慣で書いているけれどもちっともこの詩は良くないとなっていくという形に、個々バラバラになっていったと思います。
 その最初の兆候は、多分今から考えると五四年版の『荒地詩集』のところ、つまり荒地賞というものを設定したときにはそういうことになっていたのだろうと思われます。

11 内面の崩壊を犠牲にする言葉の使い方

 ところで言葉というものを詩でどう使うかという問題です。荒地派の詩人のような言葉の使い方をして、それから共通の感性を持ち、ある初期のころだったら共通の語らいを持っている。例えば墓場とか死者、死の影、雨、遺言とか。戦争体験の影だと思いますけれども、割合に死というような体験、これはちょっと暗い体験の言葉なのですけれども、そういう共通の語らいさえあるというのは、そういう現実の引っかき方、言葉の使い方を長年やってくることは大変なことなわけです。
 何が大変か。現実を引っかく度合いに応じて自分自身の内面の崩壊というのを一種犠牲にしなければ、現実を引っかく言葉を持続することができないということがあります。言葉というのは使いようはいくらでもあるわけ。詩の言葉でもあります。例えば何でもいいです。立原道造でも中原中也でもいいです。
 立原道造で言えば言葉は徹頭徹尾無意識の流れで使えばいいということになります。流れで使う、感覚を細く細くしていくという言葉の使い方を長年していると、やはりそれは胸が悪くなりますと言うと逆風があるかもしれないです。胸が悪いからそうだったのかもしれないからわかりませんけれども、立原道造みたいに夭折してしまいます。
 それから中原中也みたいに日常生活感性というようなものをドサッという形で詩の言葉に持っていくみたいな詩の作り方、言葉の使い方をしていくと、やはり日常生活というのを犠牲にせざるを得ないわけです。こういう人が、例えば、同時に三井物産の同時に社長だったなんていうことは絶対的にあり得ない。ならないわけです。そのようにしてしまいます。
 これと同じような言い方をしますと、荒地派の詩人のように非日常的な現実体験の累積を内面化するというようなことばかり長い間やっていると、やはり一種の自己破壊という犠牲なしにはどうしても不可能となります。僕はそう思うわけです。そういう自己犠牲というのは自己の、何といいますか、何かが犠牲、精神が犠牲になっているのかどうかわかりません。精神が傷つけられるのか自分で傷つくのかわかりませんけれども、そういうことを一種の犠牲、あるいは代償として詩の言葉を作り上げた詩人たちとしても最後の詩人ではないかと思います。
 これは、何といいますか、多分精神的に晩節を全うしたのは、主たる荒地の詩人で鮎川さんだけではないかと思われます。あとは大なり小なり例えば「アルコール飲まずにはいられねぇよ」、要するに「ちょっとこれはかなわねぇよ」というぐらいに、ものすごく精神崩壊の危機にいつでもあった。これが荒地の詩人たちの晩節だと思います。
 これはどう言ったらいいのでしょう。言葉を作り続ける。同じ言葉、同じ感性で言葉を吐き続ける。しかも現実にどうしても爪を立てなければいられないというような形で詩の言葉を吐き続けるということが、何か詩人自身の内部崩壊というようなものを代償とするみたいな、そういう詩の言葉の使い方をしたという意味でも多分最後の詩人たちではないかと思われます。

12 荒地派の栄光と悲惨

 僕は多分荒地派の末期に、その中に若干の接触の仕方をしたのでうまく逃げる逃げ方というのもできたのだと思います。これからまだわかりませんけれどもね。今のところできたと僕は思っているわけです。でも僕らよりも少し後だと思うのですけれども、石原吉郎さんみたいにやはり自己崩壊してしまった人もおるわけです。でもこれは詩の言葉で自己崩壊するよりも戦争体験の続きで自己崩壊したのだと言ったほうがいいと思います。『荒地詩集』の後のほうに石原さんの詩も加わってきます。そういう詩人もいますけれども、本当の意味では僕らはうまく逃げたといいましょうか、かわしたと思います。
 なぜか。初期のといいますか、どっぷりとそれにつかったというような体験ではなくて、いわば終わりごろに接触点を保ったという形でしたから、多分うまくというのは自分で意識してうまくしたわけではないですけれども、無意識のうちにそれをかわすことができたのだと思います。
 でももろにそれをかぶったというのは多分荒地派の詩人の、何といいますか、光栄でも悲惨でもあっただろうと僕には思われます。この種の光栄と悲惨というのは古いと言えば古いわけです。冗談じゃないと。何か詩を書くぐらいで自分をそのように痛めつけてその揚げ句崩壊させてしまうなんていうばかげたことはおれはごめんだと。今の若い人だったらそんな詩の言葉の使い方は初めからしないですよ。これはするからいいとかしないからいいとかということではなくて、詩の言葉の、何といいますか、使い方の質であるし、またある意味では運命、宿命、時代ですからどうしようもないのですけれども、そのように言葉の使い方の次元というのは違ってきていると思います。
 そういうことのやはり最後の年代に属するのではないかと思います。多分今でも詩を書いているのは北村太郎さんと田村隆一さん。もっと書いておられるでしょうけれども、しきりに書いておられるといいましょうか、よく詩の雑誌をめくれば出てくるというような意味合いで書いておられるのはそのお二人でしょう。けれどもお二人の詩は詩の内部ではかなりかわしていると思います。
 内部でかわすことでもって、だから田村さんも後期の詩というのはずいぶん変わっています。北村さんももちろん初期の「地の人」と比べたらずいぶん変わっています。日常感性に近いところで、やはりうまい人ですから繊細ないい詩を書いています。田村さんは田村さんなりに、「ねばならぬ」とか「われわれ」もまだやったりしますけれども、それでも感性はやはり日常的なところに持っていって持続していると思います。それはそれなりのかわし方だと思いますけれども、それでもやはり持続しているということはきついだろうと思います。
 僕らはそれができないもので、「おれ、時間さえあればやるけどな。だけど今度は本気にならないとならないからな」みたいにいつでも弁解しながら黙り込んでしまった。
 少し試みをやったのは「記号の森の伝説歌」という僕の長詩があるわけです。これで少し試みをやったのですけれども、ちっとも良くないです。積極的でないですね。積極的にこうだというように自分で納得するものでないからとても面白くないのです。時間があればやるのになと思うのだけれども、時間なんかもうないでしょう。結局できないということになるのでしょう。
 そういうことで荒地派というのは終わってしまった。個々の詩人は終わっていないですけれども一種の共通のグループ、共通の詩の体験の運動としてといいましょうか、そういうものとしては終わってしまったわけです。つまりこのことが、僕などには荒地の始めと終わりというのはそのように見えているわけです。この見え方にはちょっと個人的なあれが入り込んでしまったりしてそんなに客観的になれないわけですし、またもっと体験的に密着すればもっと適切なことも言えるのでしょう。
 けれども今申し上げました通り、晩期に接触したみたいな形であるので、そのように切実な体験としてといいますか、切実な言葉の体験として何かこれを取り出すこともできない。だから何といいますか、詩の歴史上の問題として半ば自分も内側から晩期のころに加わったという体験とミックスしたところに、僕が描いている荒地派の詩のイメージというのは帰着するのではないかと思います。
 これは皆さんがもっと時間を経て、もしこれが一種の古い古典という案配で扱えるようになりましたらまた検討してくだされば、きっといろいろな違う発見の仕方とか、違う問題というのを見つけることができるでしょう。けれども僕らは半ば自分の主観的なあれが入り込んでいるので、精いっぱいそれを、何といいますか、自分から離してみようとして考えても、今申し上げましたようなところが僕らの持っている荒地派のイメージということになると思います。
 時間がわからないのですけれども一応これで終わらせていただきます。もし時間があるのなら何かお聞きくださればお答えもできると思います。時間がなければこれで一応終わらせていただきます。