1 司会

 本日、このようにたくさんの方のご参集をいただき、主催者・関係者ともども大変うれしく思っております。私たちの半年間の活動が実ったような気がします。吉本先生をはじめ、出演者の先生方にこの場を借りてお礼を申し上げたいとおもいます。ありがとうございます。
 昨日の雨と風で、本日はどうなるかと心配でしたけど、今朝、目覚めてみますと、抜けるような青空で学生たちの寝ずの大奮闘もこれで報われたという感じがいたしました。はじめに、本日のシンポジウム津軽・弘前'88‐吉本隆明「太宰治論」の第一部の大筋を申し上げておきたいと思います。いま登場していただきましたけど、最初に長野さんから、吉本さんをはじめ、本日のシンポジウムにゲストとしてお招きした方々の紹介をしていただきます。実際のシンポジウムはそれからはじまります。
 はじめに、吉本隆明さんに1時間半の予定で、太宰治について講演をしていただきます。1時間半ですから、だいたい終了は4時30分という予定です。その講演が終わりまして、10分ほど休憩を取りまして、そのあとで、菅谷規矩雄さんに、こちらからの注文で、太宰治論であり、かつ、吉本隆明論であるというようなむずかしい縛りで、約30分間ほど話していただくことになっております。
 そのあとで、村瀬学さんと鈴木貞美さんに、吉本さんに対するインタビューということなんですけど、さまざまな会場の方からの質疑も含めまして、いろいろしていただきたいとおもいます。終了の予定は6時30分頃となっております。会場にお越しの皆様の積極的な発言を期待しております。はじめに長野さんよろしくお願いいたします。
 時間が背っておりますので簡単にさせていただきます。今日、お招きしました吉本隆明さんに関して、すでにご存じの方も多かろうとおもいますけど、近代以降、あるいは、戦後の文学思想、そういった面で最も重大な人であろうかとおもいます。最近、刊行されました「ハイ・イメージ論」、イメージ論というかたちで、「マス・イメージ論」と一緒に刊行になっておりますけど、そういったところを見ましても、世界視線といいますか、そういうものを提示されていますが、最も注目すべき思想といいましょうか、我々、文学、あるいは、文学のみならず、様々なジャンルにわたる新しい視線を常に刺激的に提供していただいております。これ以上、説明する必要はなかろうかとおもいますが、太宰治論に関しましては、『悲劇の解読』という書物の中で、作家論を展開されておりますので、それが母体になろうかと、今日は期待しておるわけであります。
 それから、菅谷規矩雄さん、ゲストとしてお招きしましたけど、菅谷規矩雄さんは吉本さんのそういう方向意識みたいなものを最も文学のなかで忠実にといいますか、菅谷さんの独自の視線のなかで展開しておられております。著書もたくさん書かれておりますけど、たとえば、『宮沢賢治序説』、ああいったもののなかに菅谷さんの、あるいは、リズムについての『詩的リズム』という著書のなんかを通じて、菅谷さん独自の方法を展開されておるというふうに、私は思っております。
 それから、インタビュアーというかたちになっておりますが、当然、ゲストというかたちになるわけです、村瀬学さんも、『理解おくれの本質』、あるいは、『子ども体験』、『小さくなあれ』あるいは『家族の現在』、様々なそういうことを、非常に活躍されている若手の新進の批評家でございます。
 それから、鈴木貞美さんも文学や偶像、あるいは、偏差値手帳と、その他で非常に活躍されている新進の批評家で。昨年、刊行された『人間の零度』という書物の中で太宰に触れられています。
 それでは、これ以上説明しても仕方がありませんので、そろそろ会に移らせていただきます。冒頭、吉本さんに90分ばかりの講演をお願いいたします。

2 はじめに

 今日は太宰治論ということで、1時間半ばかりの予定でお話していきたいとおもいます。たぶん、ぼくらが太宰治に生前に会った最後の年代なような気がします。「春の枯葉」という太宰治の戯曲がありますけど、それを上演するのを断りにいくといいますか、了解を得にいくことを口実に、ものすごい熱烈なファンでしたから、いってお会いしたことが一度あります。ものすごい鮮明な印象で残っております。
 だから、ここで太宰治をお話するというのは、ぼくにとっては、書くことも含め3回目だとおもいます。じぶんなりに読み返すものは読み返すかたちで読んでまいりましたけど。格別、新しい知見が加わるかどうかとなってくると、別なんですけど、ただ、いくつかの項目を用意して参りました。
 つまり、しゃべる項目ですけど、それを申し上げますと、第一番目に生と死の境界というのは、超えやすい人と、超えにくい人がいるわけですけど、太宰治はたぶん超えやすい人だったとおもいます。つまり、生涯に何回か自殺未遂とか、それもだいたい心中というかたちで、女性と一緒にというかたちなんですけど。何回か、そういう試みをしては失敗しといいましょうか、未遂に終わり、それで最後にはそれを完成したというような感じをもちます。だから、わりあいに生と死というものの境界が超えやすい人だったんじゃないかというふうにおもいます。どういう人が超えやすくて、どういう人が超えにくいのかということが、ひとつお話してみたいことなんです。
 それから、もうひとつは、いってみれば、文体のことなんです。文学表現の方法のことと言ってもいいのですけど、文体のことというのが、どういうふうに生と死の境界を超えやすい資質、太宰治の資質と、それから、太宰治の文体の特色といいましょうか、あるいは、文学をつくる場合の方法と、どういうふうに、もし関連があるなら、関連づけられるかということをお話してみたいわけです。
 そして、だんだん絞っていってということになりましょうか、もし、時間がありましたら、太宰治の倫理というのはどういうふうに考えていたんだ。あるいは、もっとあれしまして、文学の倫理、あるいは、芸術の倫理でもいいのですけど、それをどういうふうに考えていたかということを、また、それと関連付けてお話できたらというふうにおもいます。とにかく、1時間半やりまして、できるところまでやっていきたいとおもいます。余るところがありましたら、また、第二部のシンポジウムがあると聞いておりますので、そこで少し補足ができることもあるかもしれませんから、そうしたいとおもいます。

3 動物を主人公にした話-『猿ヶ島』

 まず初めの、生と死の境界というのはどうして超えやすかったり、超えにくかったりするのかという問題を太宰治に即して申し上げてみたいとおもいます。これはいくつか例をあげればいちばんよろしいわけですけど、ぼくが考えて、初期の太宰治の作品で『猿ヶ島』という作品がございます。
 もうひとつは、『思ひ出』という幼年期、少年期、それから、中学生時代というのの思い出をいい文体で書いている作品が初期にございます。その2つをもとにして、生と死の境界を超えやすい人、超えにくい人というのはどうしてできるのか、太宰治の場合、どうして超えやすかったのかなということについて、お話してみたいとおもいます。
 『猿ヶ島』という作品は、皆さんはお読みになった方はご承知だと思いますけど、じぶんが、ようするに、わたしという人物が猿であるわけです。わたしという猿が、じぶんが日本からどこか遠いところに送られてくるわけです。そして放たれる場所があるわけです。それは山になっているというところから始まるわけですけど。わたしというのは猿である身でもって周囲のあれを叙述しているわけです。
 どういうことがこの作品のなかで問題になるかといいますと、とにかく、どこかに運んでこられて、それで、霧が晴れて、小さな山の嶺が3つあって、山のところにじぶんがいるわけなんです。そうすると、山の向こうのほうに種類の違う猿がいっぱいいて、キャッキャッ鳴いたりして騒いでいるわけです。そのなかにぽつんと置かれて、じぶんがどこにいるのか、何のためにここにいるのかわからないというところから始まるわけなんです。
 そうしておいて、結局、もうひとり仲間の猿が、仲間の猿というのは日本の猿なんですけど、日本猿がもうひとりいるわけです。もう一匹といいましょうか、いるわけです。もうひとりいる猿に、いったいここはどこなんだというふうに聞くわけです。そうすると、だんだん霧が晴れてくると、種類の違う猿と、それから、眼の色が違う人間がぞろぞろぞろぞろ歩いているわけです。それで、これはじぶんが捕らえられるのではないか、あるいは、危害を加えられるのではないかというふうに、この猿が、つまり、わたくしはそう考えるわけですけど、一匹いた仲間の猿に何なんだあれはというふうにいって、ここはいったいどこなんだと聞くわけです。
 ここはようするに見せ物の場所なんだというふうに教えてくれるわけです。そしてはじめて、じぶんが、いってみれば動物園なんですけど、外国の動物園に連れて来られて、見物人の見せ物の目にさらされているということがわかるわけです。
 この作品はいろんなふうに読めるわけです。これは当時の文壇の世界といいますか、文学の世界におけるじぶんの場所、位置といいましょうか、そういうふうなものを寓喩しているんだ、風刺的にみているんだというふうにも読もうと思えば読めるわけですけど。
 ぼくはようするに、いずれにしても、あることのメタファーだろうと読める、あることというのは何かといいますと、一種の被害感覚であると、つまり、被害感覚のメタファーとしてこれを読むことができるのではないかとおもうわけです。それ以上、明瞭な何かのメタファーというふうに解釈できないこともないですけど、しないほうがよろしいような気がいたします。
 だから、何かのメタファーというふうには感じられる、それで何のメタファーなんだ、ようするに、ボツッと知らないところに連れて来られて、多くの視線を浴びて、その視線というものを、じぶんは被害感覚としてしかそれを受け取ることができない、そういう心の状態というのを考えますと、それのメタファーというふうに読むと、正確ではないけど、説明するにはいちばん正確に近いといいましょうか、近似した読み方になるだろうとおもわれます。

4 炭焼きの娘が鮒になる変身譚-『魚服記』

 太宰治にはもうひとつ、やっぱり初期ですけど、この場合には、わたしというのは猿自身で、猿自身の眼から描写されているわけですけど、一人称で描写されているわけですけど、もうひとつ、動物にといいましょうか、生物にといいましょうか、人間が変身してしまう作品があります。
 それは『魚服記』という作品です。これもお読みになった方は、すぐにおわかりだとおもいますけど、これは郷土のというか、このあたりの山なんでしょうけど、山の中に炭焼き小屋が何軒もあって、その炭焼き小屋の一軒に、父親と娘が住んでいるわけです。その父親が滝の傍に茶屋の店をだしているわけです。娘がそこの店番をしていて、親父さんは炭焼きをやって、焼いた炭を里へ下りてきて売って、それでもって生活するということをしているわけなんです。
 そういう生活をしていて、あるとき父親が、たぶん、このあたりの民話だとおもいますけど、話をしてくれるわけです。それは、三郎と八郎という兄弟がいて、三郎というのが一人でヤマメを釣りに行って、ヤマメを釣ってきて、兄貴はまだ帰ってこないというので一人でそれを焼いて食べているわけです。食べているうちにだんだん鱗が身体から生えてきて、いつのまにか、じぶんが大蛇になっちゃうわけです。
 大蛇になって、谷川といいましょうか、滝といいましょうか、そういうところにのそのそ入って泳いでいるわけです。兄貴が帰ってきて、ふとじぶんの兄弟が大蛇に変わっちゃっているわけです。かたっぽは「八郎」というふうに呼ぶし、かたっぽは「三郎」というふうに呼んで、その呼び合う声が、滝の音というのは、そういうふうに聞けばそういうふうに聞こえるという、そういう話を親父がしてくれるわけです。
 ところで、娘が一人前の娘に成長した頃なんですけど、親父さんが炭を担いで、村へ売りに行くわけです。その留守に、娘はきのこを採りにいっているわけですけど、そういう生活をしているわけですけど、あるとき、父親が酔っ払って帰ってくるわけです。結局、太宰治は非常にそういうことを描写するのは嫌いな人ですから、非常に象徴的に書いてありますけど、娘が寝ていると、痛いという感じと、重たいという感じと、酒臭いという感じがするというふうに描写してありますけど、それ以上は描写してありませんから、近親相姦、つまり、父親に犯されたということだとおもいます。
 そして、娘は目を覚まして、嫌になって、吹雪の中、小屋の外に出ていって、滝のところへ飛び込んじゃうわけです。そうすると、飛び込むと、娘は水の底に入っている感じで、眼の前は水の中の風景といいましょうか、岩やなんかが見えるわけです。じぶんは前に親父から大蛇になった三郎と八郎の話を聞いているものだから、じぶんも大蛇になったんだとおもうわけです。だけど、よくよく岩にぶつかりそうになって触ったりしてみると、じぶんは鮒になっているわけなんです。大蛇になっているんじゃなくて、鮒になっているわけです。鮒になって、しばらく水の中を泳いでいるわけですけど、すこしそういうふうにして考え込んだあげくに、滝つぼのいちばん深い水が逆巻いてあれしちゃうところに、娘が泳いでいって滝つぼの深いところに吸われて死んじゃうという、そういう話なんです。
 太宰治の作品のなかで、たぶん、この2つが、動物が主人公といいましょうか、つまり、一人称が猿であるという、そういう作品と、それから、途中で炭焼き屋の娘が鮒に変わってしまうという、そういう一種の変身譚なんですけど、変身譚というのをテーマにした作品というのは、太宰治のなかで、その2つだけだとおもいます。

5 変身譚の意味-死への強い願望

 これはどういうふうに理解したらいいのだろうかと考えます。そうすると、ひとつは、これはカフカという作家が、主人公が毒虫に変身しちゃう『変身』という作品がございますし、それから、動物を主題にしたというような、冷静なものじゃなくて、動物自体になってしまって、動物の中にぜんぶ引き込んでしまうみたいな、そういう作品もいくつかあります。
 太宰治の『猿ヶ島』と関連させていえば、『学会への報告』という、以前に猿だった、いまは人間だという人間が猿時代の体験を報告してくれというふうに学会から言われて、学会で報告するという、そういう作品があります。それは太宰治の『猿ヶ島』とたいへんよく似たシチュエーションなわけなんです。
 こういう一種の変身譚といいましょうか、しかも、じぶんがしかも他の人に変身するというのじゃなくて、じぶんが動物に変身してしまうとか、虫に変身してしまうという、そういう変身譚というのが、一人称でかなりの迫力で描くという、こういう描かれ方がするということを、非常に象徴的に考えてみますと、2つあるような気がするのです。
 ひとつは、ようするに、ふつうの変身というのは、こういう職業をしていた人がこういう職業になったとか、こういう服装をしていた人が違う服装になったとかいう変身というのが、通常であるわけですけど、あるいは、非常に真面目な人が退廃的な人になったとかいう変身というのは、人間が一般的に行いうる精神と肉体との、あるいは、服装との変身の仕方なんですけど、動物に変身して、あたかもじぶんが変身した動物自身であるかのごとき描写が文学作品の中になされるということのなかに含まれているのは、ぼくの理解の仕方では、ひとつは死に対する、あるいは、死というものへの願望だとおもうのです。強い願望だと、それは無意識の中にある死への強い願望だというふうにおもうのです。
 そうじゃなければ、そんなに強い願望じゃなければ、人間から人間へとか、真面目な人間から不真面目な人間へとか、あるいは、こういう服装からああいう服装へという、そういう少なくとも人間の範囲にとどまる変身というので、充分、事物が描写できるなら、そこでとどまるわけですけど、たぶん、動物に変身しちゃうところまで、徹底的に変身という問題を一人称の描写しうるということのなかには、たいへん強い死への願望みたいなものがあるんじゃないかというふうにおもいます。
 この死への願望ともうひとつ関連するわけですけど、それは『魚服記』という作品のなかに、それはあらわれているといえば言えるわけですけど、抑圧というものに対する耐え方というのに、ひとつの型があるんだということを示しているとおもいます。
 たいていの抑圧は皆さんもそうでしょうけど、非常につらいことが起こったとか、つらい事件に出会ったとか、あるいは、つらい境遇にいるとかいう場合の耐え方というのがあるわけですけど。その耐え方はたいてい人間として耐えるわけです。これは学生だった人は学校をやめて、店の店員さんになって耐えるとか、境遇を変えて耐えるということは人間のなかで、いくらでもありうるわけなんですけど、それが一般的に抑圧に対する耐え方なんですけども。
 これが虫になったり、動物になったりしなければ耐えられないという、耐えられ方というのがあるとしますと、たぶん、太宰治も、カフカもそうなんだとおもいますけど、なんか人間以外のものになっちゃう以外に耐える方法はないよという、そういう耐え方というのに体験したとか、そういう耐え方のタイプをもっているとか、耐え方の資質をもっていたというふうに言えるのではないかというふうにおもわれます。
 この2つが、死に対する強すぎる無意識の中にある願望というものと、それから、抑圧に対する耐え方に、ひとつの型があるのです。その型は、到底、人間の範囲内では耐えられないような、そういうことに対する耐え方というのを、ひとつもっているといいましょうか、あるいは、そういうふうにしか、現実の抑圧というのに耐える方法がなかったんだというふうに考えられそうな気がします。

6 フランツ・カフカ『学会への報告』

 カフカの場合にもそうなんです。カフカの『学会への報告』というのが、むかし猿だった時代のじぶんの報告をするという、そういう小説ですけど、それのなかでも言っていることがあるのですけど。猿から人間へじぶんはなったわけだけど、それはどういうことかといったら、決してそのほうが自由だからとか、自由を求めたから猿から人間になっちゃったんだというような、そういうことじゃないんだ、ただ、ようするに、脱出する口といいましょうか、脱出口というものを捜していたところに、脱出口のところに人間というのはあったんだ、だから、じぶんは人間になったんだというふうに、学会への報告で、カフカの作品の主人公はそういうふうに聴衆に話をするわけです。
 決して、そっちのほうが自由だからという、いってみれば、比較して、猿よりも人間のほうが自由だから、人間になったんだという言い方じゃなくて、ただ脱出せざるをえない場所に置かれて、脱出しようとしたんだ。そしたら、そこが人間だったんだ、だから、じぶんは人間になったんだ、そういう実感だという報告をするわけです。
 カフカの『学会への報告』ですと、あのとき、檻の中にいたら、檻の手が届くところにお酒のビンが転がっていたというんです。それで、檻の中から手を出してひっつかんで、それで飲んだんだと、飲んでいるうちに、人間みたいな叫び声といいますか、そういう叫び声がひとりでにしたくなって、それが人間の叫び声だったんだ、そして、このまま人間になっちゃうのかなとおもったら、そうじゃなくて、また元に戻ったと、しかし、何か月か後に、じぶんは懸命に努めたと、懸命に努めたというのは、人間の教師を何人か雇って、片っ端からいろんなことを習ったと、猿というのは、ようするに、ほんとうに脱出しようとおもう気持ちと、それから、そうしようとする努力といいましょうか、そういうのがあれば、なれるものなんだと、つまり、脱出できるものなんだということを言えそうな気がする。それで、じぶんも何人も人間の教師を雇って、片っ端から眼の前で人間らしいことを、いろんなことを教わったって、そして、なんとかかんとかして、じぶんなりにかつて猿が体験したことがないような努力をそういうふうに重ねた結果、じぶんは人間になれたんだという、カフカの筋道はそういうふうになっています。
 これも、抑圧ということの耐え方に、カフカならカフカに独特な耐え方というのがありまして、だから、決して自由になるということじゃなくて、ただ脱出口として、たまたま人間になったんだという、そういう書かれ方がしています。これもカフカの場合でも、死の願望というのと、抑圧への耐え方のタイプというのに、独特のタイプがあって、太宰治と非常によく似てたところがあるんじゃないかというふうにおもいます。

7 乳幼児期の育てられ方と資質-『思ひ出』

 今度は具体的に、太宰治の自伝に、幼年期及び乳児期といいましょうか、それから、中学時代にかけて、太宰治の自伝的な小説があります。それは初期の作品でいえば、『思ひ出』とか、中期の作品でいえば、『新樹の言葉』という作品がありますけど。そういうのを断片的に拾い集めると、事実らしいものとして残ってくるものがあります。
 それを、確からしいとおもわれることを、いくつかあげてみますと、ひとつは乳児の時にじぶんは乳母に育てられたので、母親に育てられたことはないと言っているわけです。つまり、母親になんのあれもないと言っています。父親に対してもそうなんですけど、じぶんは乳母におっぱいをもらって育てられた。
 それから、4歳くらいになった頃に、じぶんを、日常、世話したり育ててくれたのは叔母であるというふうに言っています。つまり、母親じゃなくて、母親の妹である叔母に育てられた。だから、乳母に対する思い出と、それから、小児のとき育ててくれた叔母に対する懐かしさというのは、作品の中にしばしば繰り返しあらわれてきます。
 たとえば、叔母に対しての思い出を描いているところがあるんですけど。あるとき夢を見たんだと、叔母がじぶんを捨てて、お前が嫌になったんだというふうに言って、叔母が家から出ていっちゃう、そういう夢を見て、眼が覚めたら、じぶんはわーわー泣いていたという、そういう思い出があるということを語っています。
 また、叔母がじぶんの子どもたちが大きくなって、子どもたちと同居するというので、家を出ていったと、じぶんはそのときに叔母と一緒にソリに乗って、じぶんの心づもりでは叔母と一緒にこれからも暮らすんだというふうに思っていたと、しかし、そうじゃなかった。で、そのときに兄貴から、お前は婿なんだ、つまり、叔母の子どもなんだと、兄貴からからかわれて、ものすごく怒りを発したということを『思ひ出』の中に書いています。そのくらい、叔母さんというのは母親代わりだったということになります。幼児期の母親代わりだったということになります。
 それから、乳児期の乳母についても、ずいぶん切実な思いがあって、それは何回も小説のテーマになってあらわれてきます。たとえば、『黄金風景』なんていう、太宰治のたいへんいい作品、短編ですけど、それもたぶん、乳母の思い出に対する典型なわけです。そういうのがでてきます。
 つまり、これを母親に育てられなくて、授乳されたりしなくて、乳母と叔母に育てられたということというのは、太宰治が生と死というのを超えやすい資質をもっていたということに対して、たいへん、ぼくは重要なことだとおもいます。
 逆に今度は、みんな、叔母に育てられたり、乳母に育てられたり、他人に育てられたりした人は、逆にみんな太宰治のように生と死が超えやすいかといったら、それは違うのです。これは一方通行の関係なのであって、すべての人は逆もまた真かというとそんなことはないのです。そこはたいへんむずかしいところだとおもいます。
 ただ、太宰治の場合には、歴然としてそのことは重要な、特に太宰治が生と死を超えやすかった、つまり、何回も何回も心中事件を起こしたり、最後にはやっぱり心中で自殺したりという、危機において、いつでも死が超えやすいといいましょうか、生から死へすぐに歩みこんでいけるという、そういう資質というふうに考えれば、それはたいへん、叔母と乳母に育てられて、母親にはただ冷たい感じしかもっていなかったという、そういうことはとても重要な意味をもつとおもいます。
 でも、こういうふうにぼくがいうと、ウーマンリブの人は怒るわけですけど、つまり、おまえは女の人を母親に縛り付けようとしているのと同じじゃないかというふうに言うわけですけど、それは、因果関係は違うわけです。逆にそういうふうに育てられたら、必ずそれはそういうふうに生と死が超えやすいおかしな人になっちゃうのかといったら、そんなことはないわけです。
 だから、一義的なもの、つまり、必ず対応関係があるんだという意味あいをもちません。少なくとも、太宰治にとってとか、たとえば、ジャン・ジャック・ルソーがそうですけど、ルソーにとってとか、カフカにとってとか、そういう意味あいで、たいへんそれは切実な意味をもつというふうに、ぼく自身はそう考えます。

8 幼少期に受けた性的悪戯

 もうひとつ重要なことがあるとおもいます。これも何回も繰り返し作品の中で書いていますから、たぶん、これも確かだとおもいますけど。じぶんが小学校の5,6年といいましょうか、7,8歳になった頃、じぶんは弟の子守さんからと書いたり、女中さんからと書いたり、雇っている人からと書いたりというふうに、いろんな書き方をしているから、伝記をよく知っている人は指定できるでしょうけど。そういう位置にある人ですけど。そういう人から性的な悪戯をされたと、つまり、性的に犯されたという書き方をしている場合もありますし、悪戯を教わったという書き方もしている場合もありますし、じぶんを裏の空き家の屋敷のところへ連れていって、そこの草っぱらのところで、じぶんより年上の女の雇っている人が、じぶんを抱きしめて、ゴロゴロ転がって遊ぶみたいなことをやっていたみたいな、そういう書き方をしているところもあります。様々な表現の仕方をしていますけど、結局は性的に早熟な悪戯のされ方とか、太宰治の言い方をすれば犯され方というのをしたという経験を、そういうことを書いています。
 それはたぶん、形を変えて、いくつもの作品の中で書いているから、たぶん、それは伝記的事実としてもあるんだというふうに理解することができます。このことも、ぼくはとても重要なことのようにおもいます。
 これもまた、必ずしも逆は真じゃないので、幼児期に性的な悪戯を年上の、近親とか、つまり、叔父さん叔母さんとか、兄妹とか、それから、太宰治の場合、雇っている人とか、そういう人からそういう悪戯をされると、必ず、生と死の間が超えやすい資質になるかというと、そうとはかぎらないわけです。つまり、決定論ではないわけです。
 だけれども、太宰治にとっては、あるいは、ルソーならルソーにとっては、そういうことはとても重要だったという、つまり、生と死を超えやすい資質に、太宰治がそれを資質としておもえば、とてもそれに対して重要な意味をもっていたと、ぼくは考えます。
 小学校の時には、たとえば、なんとなく自分が中学の受験勉強をしていると、夜になってきて、じぶんに付き添ってくれている女中さんがいて、それで、いろんなお茶を出してくれたり、じぶんが夜中まで起きて勉強していると一緒に起きていてくれたり、そういうなんかある特別な感じでもないのだけど、あるそういう感じみたいなものをもつと、それを母親がいち早く察知して、その女中さんを年寄りの女中さんに変えたりするみたいなことを母親がするみたいな、じつにやらしいことをしたというニュアンスでそういうことを書いています。
 淡いそういうことはいくらでもあるわけで、中学の時には、そのなかの雇っている女の人の一人が好きになっちゃって、恋愛感情みたいなものを抱くのですけど、抱いて夏休みなら夏休みで帰ってきたりすると、期待したりするわけですけど、そういう関係もいち早く母親から察知されて、その人はクビになっちゃってどこか行っちゃうみたいな、そういうことというのはあるわけですけど、それらのことは大なり小なり、誰にでも、その種の淡い体験というものはあるわけですから。あんまり、意味づけるわけにはいきませんけど。いま申し上げましたこととは、たぶん、誰でもがというわけにいかないで、相当深刻な体験でもあるし、特別な体験でもあったようにおもいます。それは、太宰治の資質の中で、つまり、生と死というのが超えやすいという資質なんだという、そういうことととても関係があるようにおもいます。
 結局、その種の体験というのは、人間にどういうふうなものを与えるかということになるわけですけど、また、太宰治に何を与えたかということになるわけですけど。やはり、ぼくは先ほど言いました変身願望といいましょうか、じぶんの存在というものを何かに変えてしまうといいましょうか、変えたいというそういう願望、あるいは、もっと極端にいいますと、じぶんの存在を変えてしまうということじゃ収まりがつかなくて、消してしまいたいという、無意識の動因といいましょうか、そういうものをたいへん強く与えただろうというふうにおもいます。

9 授乳体験と飢餓感

 それからもうひとつ、あえてそういうことを言うとすれば、どこかで、母親から授乳されなかったということも含めまして、どこかでというのは、つまり、お腹の中にあったときか、お腹から出てきたときか、わかりませんけども、授乳ということが楽しくないような環境で授乳されていたという体験が多いじゃないのかとおもいます。
 それから、胎児の時も生まれてくるのが嫌で嫌でしょうがないみたいな、そういうふうな胎児の時代というのがあるんじゃないのかなという気がします。これは、たとえば、小説のなかに、たくさん色々な言葉で出てきますけど、たとえば、『人間失格』なんかの中には、じぶんは食欲というのがわからなかったと、お腹が空くというのはどういうことかわからなかったというふうに言っています。
 三度三度みんながご飯を食べるというから、じぶんは仕方なしに食べているけど、ほんとうをいうと、空腹感とか、飢餓感というのが、じぶんは、ほんとうはわからなかったんだというふうに書いています。主人公にそういう資質を与えています。それは誇張であって、小説の中の主人公に与えられた資質なんですけど、それを薄めますと、やはり、太宰治の資質に近づくかもしれません。資質の実際に近づくかもしれません。
 つまり、それは母親の授乳以外に生きられない、そういうイメージのときに、授乳されることがちっとも楽しくないという環境で授乳されたら、つまり、母親がこの子は嫌で嫌で産みたくもなかったのに産んだんだと心の中でおもって授乳したりとか、忙しくてかまっていられないんだという環境で授乳していたりとかというようなことが母親の中にあれば、てきめんにそんなものは投影しますから、何かわかりませんけど、その種の体験があるのではないかという推測ができます。これは推測にとどまりますけど、推測はできます。
 それから、お腹の中にいるときに、生まれてくるのが嫌だ嫌だと、つまり、母親が嫌だ嫌だと思いながらお腹の中で育てていると、たいてい嫌だ嫌だと思うようになりますから、そういうことも、もうひとつ、あえていえば、これはまったく、どこにも証拠がないといえば証拠がないわけですけど、だから、推測のあれを出ないわけですけど、たぶん、その種の体験も生と死というのの境目、境界というのを超えやすい資質に太宰治をさせたということの大きな根拠になるんじゃないかとおもいます。

10 カフカの場合-エロスの閾を超えやすい資質

 カフカの場合も、そういうことがあるのです。カフカの場合、主に父親なんですけど、父親に対する関係なんですけど、カフカの作品の中には『父への手紙』という作品があります。まったく一人称で父親あてに、幼児、乳児、あるいは、青春期の体験について、父親に対して訴えたといいますか、批判した、そういう作品なんですけど。
 その作品を見ますと、カフカがいかに父親を頑強な絶対的な権威をもった、絶対的な存在でもって、小揺るぎもさせることができないで、じぶんに対しては絶えず、こうじゃなくちゃいけないということを言いながら、じぶん自身はちっとも実行しないという、そういうタイプのめちゃくちゃな、強大な権威をもった父親だったということをしきりに訴えているわけです。
 いちばん良い例は、食べ物の例を、カフカはかなり詳細にあれしているわけですけど、食卓に出されたものは、みんなちゃんと食べなくちゃいけないというふうに、あなたは、子どもの時、わたしに言った。きちんと食べなくちゃいけないというふうに言った。感謝しながら食べなきゃいけないみたいなことを、あなたは子どもには強いるように教えた。ちょっとでもそれに違えば、すぐに文句をがなりつけた。そういうふうにしたと、しかし、あなたはじぶんが気にくわない食べ物が出てくると、料理女に、「馬鹿者、こんなものが食えるか」というふうに怒鳴り散らしたと、それから、あなたはきちっと行儀よく食べなきゃいけないというふうに言うけど、あなたはまるで馬みたいに、バクバクバクバク早くご飯を食べちゃって、それでみんなが遅いと、早く食べろ、早く食べろって、せっつくみたいな、それから、そこらへんにべっちょりこぼしてあるし、テーブルの下にも食べ物がこぼれているし、じぶんはそういう食べ方をしている。だけど、子どもには、きちっと食べなきゃいけない、食べ残してはいけない、それを違反するとがなりちらしたというふうに、一事が万事そうであって、つまり、あなたはそういう強大な権威をもった、そのために私はこういう気の弱い消極的な人間になってしまったんだと言っているわけです。
 私はあなたから独立しようとおもった、結婚して別の家に住めば独立できるというふうにおもったんだと、じぶんは結婚すべき相手の人を探してきたんだと、そうしたら、あなたはなんて言ったかというと、おまえぐらいの歳になって、行きずりの女の人と仲良くなって、そんなに日数も経たないこの人と結婚するんだと騒ぎだすみたいな、そんなことしかできないものかねというふうに私に対して言ったと書いているわけです。
 つまり、それはじぶんにとっては、最大の衝撃だった。カフカというのは、婚約して、またそれを解消して、また婚約してということを繰り返して、結局ダメになったということを、1回か2回繰り返しているはずなんです、一生のうちに。つまり、太宰治みたいに心中しそこなったということを繰り返していますが、カフカの場合には、結婚しそこなったということを繰り返して、生涯の中で何回かやっています。それで結局、結婚できないわけです。
 それで、カフカに言わせれば、その原因は、あなたから独立しようとおもって婚約者を探し、そして、結婚しようとしたと、しかし、あなたがやったことは何かといったら、おれの手をがっしり握って、絶対に遠くへ行かせないようにがっしり握っておいて、しかもケチをつけるという、つまり、おまえはだらしなくて、そんなことしかできないのかみたいに言うくせにして、じぶんはがっしり私の手をつかんでいるという、象徴的にいえば、比喩的にいえば、あなたのやっていることはそうだというわけです。『父親への手紙』でカフカは一人称で書いているわけです。
 カフカの場合には、そういう生と死が超えやすいという資質というよりも、結婚不能者といいましょうか、性的に結婚が不能である、肉体的にじゃないのです。肉体的に不能というのではなくて、そうすると、それは肉体の病気になりますけど、そうじゃなくて、精神的な結婚不能者というものに私をしてしまったというふうに言っているわけです。
 これは生と死ということとは、太宰治の場合のように生と死が超えやすくなったというのとは違うのです。これはエロスといいましょうか、エロスがむずかしいのです。エロスが極度に超えやすい場合と、極度に男性から女性に超えやすい資質と、それから、極度に越えがたい資質が、一種のコンプレックスとして存在するというのが、たぶん、カフカの場合の結婚不能者です。結婚不能ということの意味になるとおもいます。
 それは超えやすいというだけの面でいえば、ようするに、エロスが超えやすいわけです。つまり、じぶんが女性であったり、じぶんが男性であったりということが、精神的にカフカの場合には超えやすかったんだ、ふつうの人以上に超えやすかったんだというふうに思われます。
 つまり、ふつうの人でもどこかで両性を何%かは具有しているわけですけど。そうじゃなくて、カフカの場合は、極度に、女性から男性へというエロスの敷居というのと、それから、男性から女性へというエロスの敷居というのが、カフカの場合には超えやすかったということだと思います。
 それをカフカのじぶんでつくりあげた理論によれば、父親に対して、おまえが絶対的な権威をもって子どもにのぞんで、おまえは束縛しつつ、だらしないと言いながら束縛しているということを繰り返しやったからだ、強力にやったために俺はこういうふうになっちゃったんだという言い方をしています。
 これは太宰治の場合には、そこは、それほどではないです。つまり、いくぶんかあれがありますけど、病的ということはないです。でも、もしそれを病的と言っていいとすれば、生と死の境界というのが、ふつうの人はなかなか超えにくいですけど、つまり、たいていのことは、我慢したり、耐えられたりしちゃうわけですけど。太宰治の場合には、そういう二律背反の場面に立ち入ったあと、すぐ死のほうにスッといっちゃうという、境界が容易くいけたということがあるとおもいます。
 それは、たぶん、そういうふうに一義的にまだいうことができないのですけど、資質からみた太宰治の文学とカフカの文学が似ているところと違うところだというふうに思います。それはとても太宰治の乳幼児から少年前期にかけての体験、つまり、育てられ方というものの資質がたいへん大きな意味を結果的にもったということが言えるというふうに、ぼくにはおもわれます。

11 一人称から六人称までのドラマの世界-『猿面冠者』

 ところで、いま申し上げましたように、だから太宰治の文学はこうなったんだとか、だからカフカの文学はこうなんだといったら、それは一種の単純な因果的な対応関係になってしまいます。
 そこで、これから次のことに入りたいわけですけど、太宰治の文学の方法というものと、いま申し上げました太宰治の資質といいましょうか、そういうものとは、どういうふうに関係がないか、あるいは、どういうふうなところは関係があると考えたほうがいいのかとか、どういうところが多義的なといいましょうか、一義的な対応はつけられないので、多義的な対応なら、もしかするとつけられるかもしれないということがあると思いますので、今度は太宰治の文学の特質といいましょうか、そういうものを簡単にお話して、そこへ入っていきたいとおもいます。
 太宰治の文学作品というのは、前期もあり、中期もあり、それから、後期もあり、それから、戦後もありということで、いくつかの時期がありますから、それぞれの時期で特徴・特質というのは違うわけです。しかし、違うにもかかわらず、この方法、あるいは、このやり方、この特徴だけは見え隠れして、いつでも、最後までつきまとっていたなという特徴というものをひとつあげるとすれば、いろんな言い方ができるでしょうけど、ここでは人称といいましょうか、一人称、二人称、三人称です。人称というもののドラマなんだ、つまり、人称のドラマというものが太宰治の文学の方法的な特質なんだというふうに言っておきたいわけなんです。
 人称のドラマを作品の中で演じているということが、太宰治の作品の特徴なんだと、これは初期から後期までいっこう変わらなかった特質だろうとおもわれるわけです。この資質というのが、文学的な方法の特徴というのが、さきほどの資質とおぼしい、関連づけられるところがどこかにあるとすれば、それが人称のドラマということが、一種の自己解体、つまり、一人称というものの解体ということ、そういうことと関連がついていた、一人称が壊れているとか、一人称がぐちゃぐちゃになっているとか、一人称が存在感としては極めて希薄であって、あるいは、一人称が自己存在を抹殺したいという願望が非常に強力であってということと、人称のドラマというのが関連づけられるところがあるとおもいます。
 ここを関連付けられますと、さきほどから申しました、太宰治の持って生まれたといいましょうか、そういう資質というものと、生と死の超えやすさということを言いましたけど、そういうことと、あるいは作品とを対応関係にすることができるかもしれないとおもいます。つまり、そこでならば、対応がつくかもしれないというふうに、ぼくは考えます。人称のドラマというのは、どういうことを具体的に指すのかということを、作品を例にあげて申し上げてみたいとおもいます。
 これは、初期の『晩年』という作品にあるわけですけど、「猿面冠者」という作品があります。この「猿面冠者」という作品は、それほど物語として筋があってというほどの、そういうような意味あいではそういう作品ではないのですけど、人称のドラマという意味あいでは、たいへん興味深い作品だとおもいます。極端に興味深い作品だとおもいます。
 太宰治はまず、私はこれこれという作品をいま書こうとしているのだけどというような始め方をするわけです。つまり、はじめから作品として壊れている、楽屋裏を全部さらけだして、それで書くというのが特徴なわけですけど。
 「猿面冠者」の中で、登場人物はこういう人物が書きたいんだということを言っているわけです。「この男」という言葉を使っていますけど、じぶんが書きたい「この男」は、じぶんでじぶんのことを「彼」というふうに呼んで、客観的に、じぶんはこうしたいんだというふうに言わないで、じぶんのことを「彼」はこうしたいんだというふうに言ったりする、じぶんのことを「彼」と呼ぶ、一種の特徴があるんだという言い方をします。
 作者を生身の一人称というふうにここで考えますと、作者である生身の一人称が、文章の中で、「この男」と言っているわけですから、「この男」というのは登場する主人公なんですけど、「この男」はと言っているわけですから、この場合の「この男」というのは、生の一人称である作者からみますと三人称であることがすぐにわかります。作者からみれば、作品の中に出てくる「この男は」という「この男」は、三人称だということがわかります。
 ところで、三人称である「この男」からみて、じぶんのことを「彼」というんだというふうに、作品の中に書かれているわけですから、作者の生身の一人称からみますと、「この男」という三人称からみて、「彼」というのは、また三人称であるわけですから、三人称の二乗で、つまり、六人称であるわけでしょ、これは太宰治の作品の場合には、人称のドラマの最大限のところです。
 つまり、最大にいいまして、作者の場所を除いて作品というふうに言えば,三人称からみて三人称という、つまり、六人称でしょ、つまり、太宰治の作品というのは、登場人物は三人称から六人称まで、あるいは、「私」、つまり、作者自身も入れれば、一人称から六人称まで、人称が変化して登場しているということが、皆さんが太宰治の作品をよくよく丁寧に読んでご覧になるとわかります。
 つまり、太宰治の作品のなかで、少なくとも、人称名詞といいましょうか、固有名詞が出てきても、三人称でもいいわけですけど、つまり、人称のドラマとしてみる限り、太宰治の作品は一人称から六人称まで、その中間の四人称とか五人称とかも含めて、六人称まで入っているということがわかります。
 つまり、この多様な人称のドラマというのは、太宰治は、あるときには、これはおれはちょっと自信があるんだ、つまり、おれの小説の新しさには自信があるんだという言い方をしているところもありますけど、たぶん、太宰治の作品の非常に特徴をなしているところで、同時代では比類のない、太宰治が意図的に実験したことは、そんなに初期を除いてはないのですけど、つまり、意図的に実験したわけではない部分が多いわけですけど、また、そういう作品のなかにいい作品が多いわけですけど。しかし、太宰治のように、一人称から六人称まで人称がでてきて、ドラマを演じられているという、そういう作品が、たぶん、太宰治を除いてはいないとおもいます。
 それから、太宰治の作品が、現在、新しい意味をみつけられるとすれば、たぶん、そこの問題だとおもいます。つまり、小説だって時代で進化しますし、変化もするわけですけど、現在の文学の方法的な新しさの極限というものを考えたとしても、太宰治のやりました、一人称から六人称まで登場するぜという、そういう作品の中の文体のドラマといいましょうか、それはたぶん、いまでも通用するし、いまでも決して古くならない問題なんじゃないかというふうに考えます。

12 物語のドラマと人称のドラマが入り混じる

 文学作品というのは登場人物のドラマであるわけです。本来的にそうなわけです。決して、人称のドラマではないわけです。つまり、一人称から六人称までの人物の描かれ方の位置といいますか、位相といいましょうか、そういうもののドラマでは、本来的に文学はないわけです。本来的には多様な登場人物が、六人の登場人物がでてきて、それがドラマを演じて、物語を演じて、葛藤したり、喧嘩したり、離れたり、くっついたりして、それが小説だということになるわけですけど、文学作品というのは、それ以外に人称のドラマといいましょうか、そういうものがあります。
 この人称のドラマというものからみますと、太宰治の作品が人称のドラマの際たるものだというふうにいうことができるとおもいます。この人称のドラマの変わりようといいましょうか、多様さというものと、それから、もうひとつは、はじめから作品の中に、楽屋裏がぜんぶ登場しちゃう、つまり、これは何々を書こうとしているということから小説が始まっちゃうというような、そういう一種の初めから解体された創作意識みたいなもので作られている、太宰治の作品の特徴というものは、しいて、先ほど言いました、太宰治の人間的な資質といいましょうか、あるいは、性格的な資質といいましょうか、そういうものと関連付けることはできるんじゃないかというふうにおもわれます。このことが太宰治の作品の、いってみれば、今日申し上げたいことのなかでは、非常に大きな要因のひとつなわけです。
 たとえば、「猿面冠者」の中で、短い文章をここに抜いてきたのですけど、「男は奇妙な決心をしたと、彼の部屋の押入れをかき交ぜたのだ」というふうにいった場合、普通の小説だったら、「男は」というのを受けているのは「彼」だということになるでしょ、つまり、「彼」と「男」は同じだということになるでしょ、たまたまこの文章だったら、同じと考えたって、そんなに誤差はないです。だけど、作品をお読みになればわかりますけど、明らかに、太宰治は「男」という言葉と「彼」という言葉を、「彼」は六人称として使っていますし、「男」は三人称として使っています。
 だから、この場合だって、「男は奇妙な決心をした、彼の部屋の押入れをかき回したのである」という場合の「彼」は、ようするに、「男」から見た自分という意味をもつんだというふうに、読むほうには読めるわけです。
 そこでもたらされる六人称と三人称の差異というのがあるわけですけど。これは、ふつう書かれる小説にはでてこないのです。文法的にいえば、「男は奇妙な決心をした、彼の部屋の押入れ」というふうに言ったら、「彼」は明らかに「男」という言葉を受けているということになるわけです。
 だから、それ以外の受け方はできないわけですけど、太宰治の「猿面冠者」の中で、よくよくご覧になればわかりますけど、「男」という言葉は三人称で、「彼」という言葉は六人称のときに使われていますから、「彼の部屋」という場合には、「男」が内面的にといいますか、じぶんのことを「彼」と呼びながら、だから、「彼の部屋の押入れをかき回した」という行為のなかには、ただの客観描写じゃなくて、「男」の内面描写というのがここに入っているんだというふうに、つまり、高速度写真で分解したように読めば、そういうふうにニュアンスが複雑になっています。つまり、ニュアンスが2つあります。
 一般的にいえば、「男」はこういう決心をしたといって、それで「彼」と書いてあれば、この「彼」は三人称である「男」を指していると、どうしたってそうなりますけど、この場合には、ほんとうは、「男」と「彼」は人称が違いますから、この「彼」というのは、作者一人称からみた客観描写であるとともに、「男」から見た、じぶんの内面の行為といいましょうか、内面というふうな含みがこのなかに入ってくることになります。だから、それ自体が複雑になっていきます。
 これを超えられるようだったら、ちっとも複雑におもわれないでしょうけど、作品の中で、この種のことが行われますと、皆さんが、どうしてこの作品はこういうふうな複雑なニュアンスで読めるんだろうかというふうに、皆さんが読むことが、太宰治の作品のなかにはでてきます。
 その場合には、この種の人称のドラマというのが、物語のドラマ、つまり、登場人物の演ずるドラマのほかに、人称のドラマ、つまり、作者が演じさせている人称のドラマが同時に複雑に入っているからだというふうにお考えになったほうがよろしいようにおもいます。それは太宰治の作品のたいへん大きな特徴だとおもいます。
 この特徴はたぶん、初期から後期、それから、戦後の太宰治に至るまで、見え隠れしますけど、失われていない特徴だというふうに思われます。この種の作品というのは太宰治の中から、たくさん見つけ出すことができます。
 この特徴というのを、もし先ほどの太宰治の資質というのを、自己存在を抹消したくてしょうがないんだというようなことのあらわれというのと、あるいは、じぶんの存在を確固とした形のあるものというよりも、ぐにゃぐにゃに壊してしまいたいんだというような、そういう願望が太宰治の無意識の中にあるとすれば、それと非常に遠くからつなげることができるとおもいます。遠くから関連させることができます。
 決して一義的に対応させたら、作品と作者を単純化してしまいます。だから、決して一義的にじゃないですけど、どこか遠い経路を通って、それは繋がっているかもしれません。それは皆さんがお読みになったら、きっとそういうことをたくさん発見されるんじゃないかとおもいます。ぼく自身がここでお話してもいいわけですけど、そんなことまでお話しなくてもよろしいんじゃないか、つまり、みなさんのほうでお読みになって、そういうことは見つけていかれたらいいんじゃないかと思われます。

13 太宰治の眼目-悪ふざけによってしか展開できない真実

 この種の意味あいで、太宰治の人称のドラマというものを、物語的なドラマという意味とは、また次元の違ったところでやっているという作品のなかで、一番いい作品は、たぶん、「道化の華」という作品だというふうにおもいます。これは初期の代表的な作品じゃないかなというふうにおもいます。
 物語は一番目の心中事件で自分だけ助かって、女の人は死んじゃうわけですけど、じぶんだけ助かって病院にいて、そこに悪友といいますか、親友といいますか、訪ねてきて、病院の中で、自分だけ生き残ってしまったという罪の意識というものを、どうやって裁いたらいいのかというのが、主人公がわからなくて、道化というもので、それを裁く以外にないと考えて、悪友たちと一緒に病院のなかで騒いじゃって、顰蹙を買ってもなんでも、そんなことはおかまいなしに騒いじゃって、じぶんが罪の意識とか、生き残ってしまったことの意識というものを消そうとする、そういう物語なんですけど、物語はただそれだけの物語なんです。
 そのなかに、真面目な人が二人ほどいるわけです。ひとりは兄貴なんです、長兄なわけです。それから、ひとりは自分の家の付き合っている知り合いの人で、家のいろいろ世話を焼いてくれる人、二人が病院に訪ねてきて、その二人が警察に行って、心中事件のあらましとか、これを自殺行為だとか、そういうことで起訴したりしないでくれというような、そういう交渉をやってくれるわけです。非常に真面目なもので、生き残ってしまった主人公の痛みというものを、痛みとはまったく別の次元でお説教をしたり、取り裁いたりということをやってしまうという、物語としてはたったそれだけなんですけど。
 この人称のドラマとして見ますと、物語としての展開と、それから、人称のドラマとが、うまくかみ合って、初期の代表的な作品で、これが芥川賞の、当時、候補になった作品だとおもいます。あまり、人称のドラマが激しすぎてといいましょうか、あまり道化といいますか、悪ふざけが、作品の中で強すぎて、普通の選者というのは、たとえば、川端康成が選者だったんですけど、川端康成なんかは、「才あれども徳なし」というふうな批評の仕方をするわけです。
 それで、また、太宰治は怒り狂って、食ってかかったりするわけですけど、この食ってかかり方は、最後の死ぬ時もそうなんですけど、死ぬ時は志賀直哉が相手ですけど、食ってかかるわけですけど。ようするに、おまえは心中しようとして、じぶんは死ぬよりほかないというところまで追い詰められて、心中して、相手の女の人は死んでしまって、じぶんだけが生き残った人というのの心というのはわかるのかと、道化と見せて悪ふざけして見せる以外に、これに耐える方法がないというところで、この作品が書かれているということを、おまえはわからないだろうというふうに川端康成に食ってかかるわけです。
 つまり、「才あれど徳なし」と言うけれど、それは逆なんだと、「徳はあれど才がない」というのが、ほんとなんだというふうに、太宰治は食ってかかるわけです。それはいまでもあるでしょう。いまでも誰でも当面するでしょう。つまり、うんと真面目な人には怒られることが多いわけですけど、だけど、その種の悪ふざけのなかにある真実とか、悪ふざけによってしか展開できない真実ということがありうるということが、太宰治の大きな文学の眼目でして、これはもっと時間があればお話しますけど、文学的倫理の眼目であるわけです。
 これは物議を醸した小説なんですけど、これは初期のとてもいい作品で、たぶん、いまの人称のドラマと、それから、物語の中の展開されている物語のドラマとが、たいへんよくかみ合ったという意味あいで、いい作品ですし、かつ、太宰治の方法的な特徴というものが非常によくあらわれている作品なんじゃないかというふうに思われます。

14 文学・芸術自体が倫理ということ

 次に、太宰治にとって倫理というのは何なんだ、あるいは、どういうものだったのかというお話に入っていきたいと思います。たくさん言うべきことがあるのですけど、第一に言いたいことは、太宰治にとっては、文学・芸術ということ自体が倫理だったということなんです。
 つまり、文学のなかに倫理的なことを描かなきゃいけないとか、文学はなんらかの意味で人を導いたり、導かなかったりしなきゃいけないものだという意味あいの倫理じゃなくて、ようするに、文学・芸術自体が倫理だったというふうにいえると思います。それが、真っ先に言うべきことじゃないかというふうにおもいます。
 つまり、倫理的なことが太宰治の作品の中で、物語として書かれていない場合でも、それから、書かれている場合でも、それから、倫理とは関係ないことが書かれている場合でも、作品の中に書かれている場合でも、そういうことにかかわりなく、つまり、主題にかかわりなく、文学・芸術というのは、太宰治にとっては倫理なんだ。
 つまり、これなくしては、生を保つこともできないし、また、生から死へすぐ行っちゃうわけなので、生から死へすぐ行っちゃうことを少なくとも留めるといいますか、止めるという作用をする、そういう作用を、やめろやめろという作用もまた倫理的な作用というふうに考えれば、文学・芸術自体が倫理だったということが、非常に大きな眼目だというふうに、第一にいうべき眼目だというふうにおもいます。
 これは例をあげてみましょうか、簡単にあげてみましょうか、これはわりあいに中期のといいましょうか、成熟期のといいますか、完成期の太宰治の作品の中に「走れメロス」という作品があります。これはお読みになった方も多いだろうとおもいますけど、これは、ようするに、シルレルの作品から換骨して作ったものです。
 ひとりのメロスという主人公がいて、横暴な王様がいるわけです。横暴な王様で、人を殺してもなんとも思っていないような王様がいて、どんどんじぶんの気に食わない家来とか、民衆がいると、みんな捕まえてきて殺しちゃうみたいな、そういう暴君がいるわけです。メロスが我慢できなくて、あの王様を殺してじぶんも死ぬんだと言っていくんだけど、捕まってしまうわけです。
 で、「おまえを殺せなくて残念だ」というふうにつかまって言うわけですけど、それで、王様のほうは意地が悪くて、「おまえは何か言い残したこととか、やり残したことはあるか、そうしたら、やらせてやるから言ってみろ」と言うわけです。「ひとつだけある」と言って、じぶんの妹が好きな男がいて、今日日、結婚する間際なんだ、おれは結婚の式をあげさせて、それでまた帰ってくるから、そうさせてくれるかと、だけど、王様が言うわけです、おれは放してやったら、おまえが帰ってくるなんて全然信じてないと、つまり、人間なんか全然信じてないと、だから、放したら最後だとおもっていると、メロスはそんな馬鹿なことはないと、おれの親友が街にいるから、おれが帰ってくるまで、そいつを身代わりにしておいてくれ、もし、おれが帰ってこないなら、そいつを殺していいと言うわけです。王様のほうはおもしろがって、これでまた一人殺せると思うわけです。それじゃあいいと言うわけです。
 それで親友を連れてくるわけです。これこれこういうわけで、おれはとにかく郷里に帰って、すぐ帰ってくるから、その間、幾日か猶予があるわけで、その間、おれの代わりにあれしてくれないかと言うわけです。それで、わかったと、大丈夫だ、おれは引き受けるといって、親友は代わりに王様に捕まっているわけです。
 その間、郷土へメロスは帰ってきて、妹と許嫁の男との結婚を、秋なのに、それまで待っていられないんだということで、急速に取り決めて、結婚させて、翌日、おれはちょっと用事をしなくちゃいけないことがあるからと別れて、しっかり頑張ってやれだの言って、帰っていくわけです。途中で盗賊にあったり、それから、大水にあって、川を渡れなかったみたいなことをあれして、かろうじて、時間間際になるのだけど、へとへとでぶっ倒れちゃうわけです。あきらめたとして、あいつも、おれが来ようと思ったのだけど、来られないというのはわかってくれるだろうというふうに、あきらめかけるわけです。
 だけど、なんか目が醒めて、また思い直して、すこし眠ったら元気が回復していて、やっと処刑になる寸前に到達するという、おれは途中で悪い夢をみたと、一度だけおまえのことを疑ったから、おれをぶん殴ってくれという、そうすると、友達のほうも、おれも途中でおまえはもしかすると来ないかもしれないと、途中で一度だけ思ったと、だから、ぶん殴ってくれといって、そこまでは、ごく当たり前の、おもしろい、非常にいい文章ですけど。完成期の太宰治の小説のいい小説ですけど。そこまではべつにどうってことないといえばないのです。

15 物語の倫理に垂直に格子を立てる

 あといちばん最後の数行のなかに、芸術・文学というものが太宰治にとって倫理なんだということを象徴できるところがあるわけです。いま、お話しました物語だけでも十分、これは倫理的な物語なわけですけど、太宰治の文学が倫理的だという場合には、そういう意味はまったくないわけです。つまり、主題のなかに倫理があるということはないのです。あっても、第二義的以下の問題、太宰治にとっては芸術・文学自体が倫理なわけです。ちょっとそこだけ、数行ですから読んでみましょうか。
 二人が抱き合ったと、王様は気分をあらためて、おまえ達みたいなやつは初めて自分は出会ったと、やっぱり人間は信じていいんだと、おれも思ったと、だから、おれも改心するから仲間にしてくれと王様が言うわけです。
 その後なんです、どっと群衆のあいだに歓声が起こった、万歳、王様万歳、そこからなんですけど、一人の少女が緋のマントをメロスに捧げた、メロスはまごついた、佳き友は気をきかせて教えてやった。「メロス、君はまっぱだかじゃないか、早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」勇者はひどく赤面した。というのが終わりの数行です。
 この数行がたぶん、太宰治のいう、文学・芸術というのが、太宰治にとって倫理だったということの非常に大きな意味合いになります。こんなものはあったって、なくたって、倫理的な物語はすでに終わって、大団円で終わっているわけです。いい文章で、いい作品なんです。
 だから、この数行というのは加えるか、加えないかというのは、もしかすると、文学的にちょっとした遊びをやってみようと、おもしろいことをやってみようという意味あいぐらいにしか受け取れないかもしれないし、受け取らないかもしれませんけど、ほんとうは太宰治にとってはそうじゃないのです。
 この数行がなかったら、文学・芸術が倫理だという意味あいは、文学の主題が倫理的だとか、反倫理的だという意味あいになってしまうのです。ところが、文学・芸術それ自体が倫理だという意味あいが、たとえば、この五行なら五行のなかに象徴されているものも、どうしてもなくては、どうしてもしょうがないということだとおもいます。
 この数行は何なのかといえば、太宰治の資質なんだといえば、そういうふうにもいえるんですけれども、たとえば文学・芸術というものと、それから、倫理というもの、つまり、文学・芸術が、本来もっている物語の展開、物語の流れというものを考える。そうすると、その物語の流れが、ひとつの倫理を表現していると考えるとします。
 その場合に、文学・芸術が倫理だという太宰治の意味というのは何かというと、倫理的な物語としての流れ、つまり、走れメロスでも、これは人間と人間との信頼物語ですけども、その信頼物語という倫理的な物語の流れというものを、あるひとつの太宰治に特有な格子があって、その格子が流れをせき止めていると考えます。
 その流れをせき止めていると、物語の意味としては、せき止められた格子のあいだから、やっぱり流れは流れていきますから、物語は流れて行くわけですし、多少、物語の早さは変わったりしますけれども、いずれにせよ格子の間の目を通って、流れは止まらないで流れて行きますから、物語も流れて行きます。
 だけど、そのときに、格子を立てまして、たとえば、流れに対して垂直にそれをせき止めるわけです。そうすると、せき止めると、そこで少なくとも流れが緩められたり、よどみができたり、渦巻きができたりするわけです。渦巻きができたり、よどみができたりすることは何なのだろうかと考えると、太宰治にとってそういうのが文学芸術だというふうに考えられていたのであって、太宰治が文学・芸術イコール倫理なんだ、文学・芸術が倫理なんだという意味合いは、そういう物語性の倫理あるいは反倫理の流れに対して、格子を垂直に立てて、流れは通るんだけど、そこであるせき止め方をする、それが芸術なんだよというふうに、太宰治は考えていたと思います。比喩していえば、そうじゃないかと思われます。
 それじゃなかったら、文学・芸術じゃなくてもいいので、倫理物語をうまく書いたか、まずく書いたか、あるいは反倫理の物語をうまく書いたか、まずく書いたか、ということだけが文学・芸術になってしまうわけですけども、そうじゃなくて、何かそういうものに対して、なにか垂直にといいましょうか、せき止める壁じゃないわけで、格子目であるわけで、格子でもって流れをせき止めてみる、そのせき止め方自体を太宰治は文学・芸術というふうに考えていた節があります。それを太宰治は文学即倫理なんだというふうに考えていた節があると僕は思います。
 そういうふうに理解すると、たいへん、方法上の太宰治と、それから、物語上の太宰治と、資質上の太宰治と、それから、物語の自己解体といいますか、一人称解体としての物語という、そういうものとがなんとなくぜんぶつじつまがあってといいますか、うまく理解できそうな気がします。だから、たぶんそれが、太宰治が考えた倫理のいちばん最初にくる問題なんじゃないかというふうに思います。

16 負の十字架にかかるという主題的倫理

 それからもっと主題的な意味で太宰治の倫理というのは、太宰治の作品のなかで、しばしばあらわれます。それほど大きくない要素ですけれど、大きな要素のひとつを考えるとすれば、それは、自分は負の十字架にかかるんだ、あるいは、自分は滅亡する人間とか、滅亡する階級とか、滅亡する階層とか、あるいは、滅亡する民といいましょうか、そういうものの象徴を自分は演じるんだ、自分は到底プラスの役割というものを、社会に対してとか、人間に対して演じられる柄ではないんだと、いつでもそういう意味合いでは、自分はマイナスのことしかしてこなかったし、マイナスの役割しかできなかった。せっかく若いときに左翼運動なんかをして社会改革するというプラスの仕事をしようと思ったけれども、そこでもうまくできないで、じぶんは脱落してしまった。考えるに自分は、富んだ家に生まれて、もともと家自体もあまりプラスの役割はないという家に生まれて、やることなすことぜんぶマイナスの役割しかしない。そうだとしたら、じぶんは、ようするに、マイナスとしての十字架というのがもしあるとすれば、そういう役割を自分は演ずるということが、じぶんの目的なんだといいますか、じぶんの役割なんだというふうに考えて、それは太宰治の大きな主題的な倫理で、今度は主題の倫理になるわけですけど、主題的な倫理をなしたといえます。
 それは、初期からいちばん最後にいたるまで、太宰治の文学のなかに一貫して、自分は負の十字架にかかるので、正の十字架に受難者として、あるいは、改革者として、そういう役割を演ずるということは自分の柄ではないんであって、生きている意味があるとすれば、じぶんは負の十字架にかかって滅んでみせる。どういう滅び方をするかということ、滅んでみせることが自分の役割なんだという倫理がどこかにあったということです。
 その倫理がいちばん薄れた時期といいますか、回復した時期は戦争の時期だと思いますけども、やはり敗戦後に再び、負の十字架にかかるという考え方といいますか、主題的倫理を闇雲に拡大していくという、これは実生活上も文学作品上もそういうやり方を再びとって、最後に自殺までいったというふうに思います。だからこれはとても大きな役割を持った主題的な倫理だったというふうに思います。

17 辻音楽師であること

 それからもっとたくさんそういうことをあげることができます。もうひとつ言いたいことは、やはり文学・芸術自体は所詮は、太宰治は作品の中ではそういう比喩を使っていますけど、所詮は、これは辻音楽なのであって、自分は辻音楽師なのであって、こんなものは別にどうってことはない。偉いわけでもなんでもないわけだし、こんなものは、これをもって人を感奮せしめるというような、そんなものではないんであって、ただ辻音楽と同じなので、一条の辻音楽を演奏して、それで幾ばくかの喜捨を願って、それで暮らしていくという、そういうしがない生活をしてるというのが自分たちの、作家の作品とかの役割なんだという考え方がいっぱい出てくると思います。
 文学・芸術作品というのは決してポジティヴなものじゃないんだ。ネガティヴなものなんだ。うんとがんばったって、±0くらいのものであって、本質はネガティヴなものなんだ。だから、願望からいえば、ふつうの人になりたいというか、ふつうの人の生活をしたいというのが自分の願望なんだけども、それができないもんでしかたなしにこういうのをやって書いているというところが、文学・芸術のいちばん本質的なところなんじゃないかという考え方が、これも主題的な倫理、あるいは創作倫理として、太宰治にあったというふうに思います。
 いま申し上げましたところが、たぶん、太宰治の初期から最後までどこかに見え隠れしながらいつでもつきまとっていたものだというふうにおもいます。

18 倫理観の変化――戦争

 ところで太宰治の文学の倫理のなかで、生涯のうち大雑把にいいますと、主な流れでいえば、文学についての倫理が2回変わったときがあります。その2回を申し上げてみますと、1回は、初期から中期へ移って行くときだというふうに思いますけど、自己解体、悪ふざけ、自分をぐにゃぐにゃにしてしまうとか、それから、人称のドラマで物語のドラマ性をかき回してしまうという初期のやり方ですけど、それをある程度、収拾して、その収拾しているということを太宰治自身の言葉を借りれば、それは自意識というものを、さきほどの「猿面冠者」でいえば、「この男」が自分のことを「彼」というふうに見れるというようなことと同じことなんですけども、自己をじぶんがまた冷静に客観的に見れて、客観的にじぶんがやっていることをじぶんがまた見れるということなわけですけども、自意識という問題はどこかで何かに収束していかなきゃだめなんだと思った時期があると思います。その思った時期が、戦争の機会だと思います。
 戦争というのは退廃的で、残酷で非人間的な本質を持つものなんですけれども、見かけは違います。見かけは健康なものです。見かけは健康なんです。どんな不健康な人も戦争になってくると非常に建設的になってしまうわけです。
 そのなかでいちばん命が要らないという青年が自ら進んで敵の中に突っ込んで死んでしまうという、そういうことを躊躇なくそうしちゃうという、それがそうですけども。そういうあれは、たとえば、普段から身体を鍛えたり、鉄棒したりだとか、器械体操とか、とんぼ返りとか、そういうことをたくさん練習して、そういう身体の鍛え方をして、それから、精神の鍛え方も、健康に健康にという鍛え方をして、それでよし突っ込んでしまえというところに行くわけです。そうするとあれに習えということになるわけです。
 ですから、皆さんは、お年寄りの人はよくわかっているでしょうけど、そうじゃない人はわからないかもしれないけど、戦争というのは見かけ上はものすごく健康なものです。ぼくらは文学青年だったですけど、不健康な者でも健康にさせられちゃうし健康な人にものすごくコンプレックスを感ずるわけです。また命知らずな奴にものすごくコンプレックスを感じるふうになっていて、あれを模範にしろというふうに、世間もいいますし、自分もどうしてもかなわないなというふうになるわけです。つまり、それほど非道徳的なことはあまりしないというふうに、見かけ上はしないというのが一般的な社会風潮になる、それが戦争なんです。
 そういうことが、裏っ側がぜんぶ退廃なんです。退廃であり、非人間的であるというのが戦争の特徴なんです。だから太宰治もそういうふうに、負の十字架という主題的な倫理が戦争の健康さに入っていったときに、ものすごく苦しかったと思います。やはり不健康というのは間違いじゃないかというふうに思ったと思います。だから、この自意識という、自分もまた自分が見えてしまうとか、自分がやっていることを自分が見えてしまうとか、人がやってるいいことも、ほんとうは、その裏にはこういう思惑があってとかいうのがちゃんと見えてしまう、そういうのはよくないんじゃないか、つまり、そういうのは不健康なんじゃないかというふうに太宰治は躊躇しながら反省したと思います。戦争に入りかけたときに反省したとおもいます。
 ですから、反省したんだけど、しかし、おれは、ほんとうの心からそうはなれないというのもまたあったと思います。おれはやっぱり負の十字架だよなという、人を誹謗したり、人を操ったりするのはおれの柄じゃないなというふうに、どうもそうはなれない。だから、せいぜいなれたとして、矮小な1人の市民であって、人のいいことしている後からくっついていくくらいしか俺はできないなというふうな言い方をしていますけど、そこいらへんまでいくと、太宰治の芸術としての倫理というものが大きな反応を起こしまして、それに対して、そういうふうになっちゃう自分を反発する。反発するんだけど、それを固執していったら、まわりがぜんぶ健康ですから、まわりの文学者も健康ですから、まわりの社会もそうです、政府もそうですし、みんな健康ですから、どうしても強い社会からの力というのに一人で孤独であらがうということができない、そうするとまた、おれはだめなんじゃないか不健康なんじゃないかというふうに思って、健康なところに入っていくわけです。
 戦争期の太宰治の作品というのは、他の日本の文学者にくらべれば遥かに不健康であるわけですし、はるかにいい作品ですけれども、しかし、それでも太宰治の生涯の作品のなかではいちばん健康な作品を戦争期に生んでいます。

19 倫理観の変化――敗戦

 それからもうひとつ、太宰治の文学・芸術の倫理というのが変わったときがあります。それはやはり、戦争が終わったときだと思います。そのときに太宰治は、やはりおれはダメだった、戦争中におれも健康じゃなくちゃダメなんじゃないかなと思ったこと自体がぜんぶ嘘だったというふうにおもって、じゃあ自分は初期の頃思っていた文学についての倫理がやはりよかったんだというふうにもう一度考え直して、もう少し規模を大きくして、そういう作品を書いていったというふうにもいえるとおもいます。
 もうひとつはやっぱり、途中で幾度か転換をして、これはいかんというふうに思い直した。つまり歴史的な年輪、経験の年輪というのがありますから、今度は、おれはもう、負の十字架といいますか、反立法という言葉も使っていますけど、おれはマイナスの役割と言っています。今度のマイナスの役割は誰がどう言ったって、絶対もう直さない。つまり、これは死に至る反立法だといいましょうか、死に至る病といいましょうか、死に至る倫理というのがおれの反立法なんだというかたちで、戦後は一種の総合的なかたちで初期につくりあげたものを、再び拡大して生産していったというのが、太宰治のいちばん最後の倫理的な、文学・芸術を倫理とする倫理観が花開いたということの意味合いだというふうに僕なんかには思われます。
 ぼくらはちょうどその頃、太宰治に接続したといいましょうか、当面したわけです。ちょうど20代の半ばにかかろうとする頃、遭遇したということで、甚大な影響を受けたと思います。そのとき、あるいは、それ以前からも、戦争中からもそうなんですけど、ほかに読む人がいなかったのですけど、太宰治で、戦争中から戦後すぐで、ぼくがわからなかったことは、太宰治が左翼思想の洗礼を若いときに受けているんだというのだけはよくわかりませんでした。ぼくらが受けていないですから、ぜんぜんそこは見えなかったとおもいます。これは、もっと後になってそれを見たと思います。そのこともそうとう太宰治の方法とか、倫理とか、物語というのに重要な影響を持っているなということは後になってわかるようになりましたけれども、最初、戦争中から遭遇したところでは、それはとてもよくわからなかったことがあります。最後に遭遇した後です。
 何年か太宰治の渦中に巻き込まれて、頭にそれしかないというような何年かを過ごしたように思います。「太宰治論」を一等最初に書いた奥野健男というのは友達ですけど、二人で、太宰治が自殺したときは、今日はお弔いだとか理屈をつけて新宿の飲み屋さんで飲んで、荒れまくっていたという、そういうあれをいまでも覚えていますけども、ものすごい衝撃を受けまして、決定的な衝撃を受けたという、それが20代の前半から半ばまでの自分の文学的な頭につまっているものの大部分だったというように覚えています。
 それ以後、まとまって自分の考え方を述べてということを、そんなにはたくさんしていないんですけども、今度も自分なりの読み直し方をしまして、自分なりにどこでどういう話をあれしたらいいのかなというのを考えてきまして、いま申しあげました生と死の境界というようなものをどうやって超えるのか、それから、どうやって超えやすいのか、どうやったら超えにくいのかという問題みたいなものと、それから、文学方法上の問題というものと、それから、太宰治の文学の倫理、つまり、文学が即倫理であると考えている面と、それから、文学の主題が倫理であると考えている面とは、いったいどういうふうになっているのかという、その3つのことをお話しして、その3つのことはおぼろげにいえばどこかでつながっているようにおもいますけど、それはどっかで関連していると思われるわけです。

20 物語のドラマと人称のドラマ

 文学作品というのは言葉で書くわけですから、言葉というものの主なる機能は、皆さんがよくご存知のように、意味を述べるということが主なる言葉の機能であるわけです。
 ところで、文学における、意味を述べるという言葉の機能というものはある意味で明晰な意味の流れというものをかたちづくるわけです。つまり、物語の流れをかたちづくるわけです。しかし、この物語の流れをかたちづくる言葉の意味作用というのは本来的にいえば、それほど深い層まで入っていくという意味合いは、それほどはないんです。ある深さは持ちますけれども、その深さは限界のある深さであって、言葉の意味の流れというのはそこで主として作用するということになっているとおもいます。
 ところで、人間の心の深層というものを考えるとしますと、心の深層というものはどういうふうに比喩すると、いちばんわかりやすいかというと、やはりひとつは、こんなことはフロイトが無意識の世界ということで言っていることと同じことなので、変わり映えのしないことなんですけど。人間の心の深層というのは、夢に現れてくるのがすぐわかるように、物語は、作る場合、夢のなかで物語ができている場合もありますけど、できていないでとびとびの情景しかできていない場合もあります。
 それから、極端な場合には、言葉だけの夢というのを見ることもあります。教科書みたいのを、じぶんが声を出して読んでいるみたいな夢を見て醒めるみたいな、つまり、まるで場面はちっとも出てこないで、言葉だけが出てくる夢を見るというのもあります。
 それから、これは本当にこのまま小説に書いても物語になるぜみたいな、ようするに、筋がある夢をみる場合もあります。それから、まったく筋なんか全然ない、なんのことかわからない場面が出てくる場合もあります。
 つまり、夢というのは様々ですけど、その様々な夢のあり方というのを、いちばんいい比喩を使えば、さきほど格子面と言いましたけど、格子面の喩えをしましたけども、意味の流れが心の深層とか、夢とかじゃなくて、ふつうの文学作品みたいな表現のなかでは、意味の流れがあって、それが物語をつくる。それを今度は、格子目がありまして、意味の流れというのは人間の無意識のなかでは、神経作用でいえば神経のつながりみたいなのがあって、つながりからつながりの鍵のところに、節目があって、そこに伝達すべき連動が起こると、こっちの神経に伝わって、こっちに伝わってというふうにして、それで脳に伝わるみたいに考えると、意味の流れもやはり何かわかりませんけど、言葉の節目があって、それがつながって流れをつくる。それがある意味をつくる物語になっている。
 そういうふうに考えますと、無意識の深層のなかでは、それに対して、さきほど言いました、もうひとつ格子目というのがありまして、格子目というのはもっぱら、意味の流れをせき止める作用だけしかしない、そういう神経みたいなものを比喩として思い浮かべるとします。
 そういう格子目みたいなものがいくつかありまして、意味の流れがつながっていくという、つながりをそこのところでせき止めたりすると。そのせき止めた個所で、意味だけの流れにいかないでイメージが浮かんでくる。もしそのせき止め方にある時間とあるゆとりがありますと、そこで物語とイメージが同時にあるような夢をみたり、深層の風景が出てきたりすることもあり得るんですけども、たいていはそうじゃなくて、せき止められたところで意味の流れがせき止められて、その瞬間ぐらいにちょっとだけ、場面のイメージがせき止められた個所で浮かぶというような、神経の流れの作用にその2つの種類があるのと考えるのと同じように、言葉の意味の流れ方にも、表面から下に入ってしまうほど、格子目があって意味の流れをせき止めようとする。そういう作用がある。そういう世界になってしまう。だから、必ずしも、いい意味を形成する、物語を形成するとは限らないんですけども、しかしそれだって意味のある流れと、それから、意味の流れが喚起する、ある瞬間的なイメージであることには変わりはない。それはフィルムにうつったイメージもつくらないし、また、意味の概念だけのような、意味だけの流れでもない、その中間に挟まった流れ、中間に挟まったところに起こる現象なんですけども、ふつうの映像よりもぼやけている。しかし映像だけでできているのではなくて、意味作用からも同時に絡み合ってできていて、そういうイメージの個所があると同じように、そういうせき止められ方の個所というのがあると思います。
 太宰治の作品も、物語の流れだけから読めば、これはたいへん明瞭な物語をいつでももっている作品がいい作品として、つまり、完成された作品として、いつでもそれが登場します。
 ところで、どれが完成というのはおかしいですが、完成されていない作品、あるいは、実験的な作品というふうになっていきますと、さきほど言いました人称のドラマみたいなものが物語性としてのドラマ、言葉の意味がつくる物語とは別な、人称がつくるドラマ、これは目に見えないドラマですし、また、筋の起こらないドラマなんですけど、そういうドラマというのも太宰治の作品にはたくさんあります。
 この2つのドラマから成り立っているということが、とてもよくわかるように思います。そこのところが、たぶん、太宰治の作品のつかまえどころじゃないかと、ぼくには思われますし、そのつかまえどころは、まずどこで始めに形成されたんだろうか、つまり、資質として、どこに形成されたんだろうかということを考えますと、今日、最初に申し上げました、乳幼児から青春の入り口のところまでに、ある体験をした太宰治の体験というのは、たいへん大きな役割を演じているだろうなというふうに、ぼくはそういうふうに推察いたします。
 あとは個々の作品のなかに入っていくわけですし、それは皆さんのほうで一生懸命、すでに古典でありますから、ちょっとやそっとで滅びることもないですから、いくらでも読む機会がおありになるとおもいますし、皆さんはいわゆる郷土の作家でもあるわけでしょうけど、いままでも、いい研究とか、いい批評とか、そういうものがたくさんありますし、これからもまたたくさん出てくるんだと思います。そのなかで、みなさんの固有の読み方というのをつくって打ち出していくことも必要でありましょうし、また、それを心のなかで暖めていくこともいいことのように思いますので、そういう読まれ方をされることに少しでもお役に立つことができたら、ぼくの今日の役割は終わりということになりそうな気がします。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

21 第2部:司会

 菅谷規矩雄さんに、先ほどの吉本さんの講演にかかわる内容で、持論の展開を踏まえた講演をいただきたいと、わかりやすいものが吉本さんのほうから示されましたものですから、だいたいどういったところで、拾いあげていけばいいのかということは見えてきたんじゃないかとおもいます。それでは菅谷さんお願いします。

22 「いたたまれなさ」の世界(菅谷規矩雄)

 20分ほどしゃべらせていただきます。太宰治の小説の世界というものを一言で言い切ってしまうとしたら、どんなふうにそれは言えるだろうかということを考えてきました。その考えたことの幾分かは、今日、吉本さんのおっしゃったことと重なり合っているかもしれないし、また、うまくそこが言えるかわからないと思っていたところを、吉本さんが六人称ということでお話になったんですけど。
 太宰治の小説の世界を全体として一言で言い切ってしまうとしたら、それは、「いたたまれなさ」という世界といえるんじゃないかとおもいます。世界というものが、「いたたまれなさ」として存在しているとすれば、それは、じぶんがその世界の中に存在していないという、つまり、世界の中に存在しているという内在性をあらかじめ不可能にされてしまっている、そういう心の姿といいますか、そういうものが、いちばん太宰治の小説の世界の基本のイメージといいますか、そういうものとしてあるんじゃないか。
 ぼくは言いなれているから「いたたまれない」と言いますけど、太宰治は「いたたまらない」という言葉で使っています。実際の小説の中で何度も使っていますけど、「いたたまらない」という言葉が使われるときの「いたたまらなさ」というのは、ある意味で、それほど本質的な場面で出てくるものではありません。ただ、「いたたまらない」という心の持ち方というか、感じ方というものは、同時に、その場に自分はいられないということ、ですから、世界そのものがそういうものだとすれば、じぶんは世界というものの中に居場所をもっていないということだし、そして、あるじぶんが与えられた、あるいは、指定された場所があったとしても、その場所が常に居心地が悪いという感じなのです。居心地ということでは、それから、「いたたまれなさ」ということでもそうでしょうけど、太宰治はかなりはっきりと自覚してそれを小説に書いている。
 たとえば、『人間失格』の中で、左翼の非合法地下組織の中に自分が入っていく、その入っていくときに、なんでそこに入っていったか、ただ、じぶんに肌が合って居心地がよかった、居心地がいいからそこに座り込んでいた。それは、実際に左翼運動を経験してから小説を20年ぐらい書いてますか、最晩年の『人間失格』の中で、太宰治がじぶんの青年時代のひとつの重要な経験について書きたかったとおもいます。
 そうすると、逆にいえば、それ以外の場所は、太宰治の青年期において、居心地がいい場所として感じられることがほとんどなかったという、なんとなく居心地がいい場所というのではなくて、居心地のよさの中にのめり込んじゃっていくという、そうすると、その居心地のよさの中にのめり込んじゃっていくという、その挙げ句に今度は、その場所が、じぶんにとって背負いきれない、持ちこたえきれないものになって、そうすると、その場所がいたたまれなくなって、逃げちゃうしかないと、逃げて逃げて、逃げていった先がどういうことになるかというと、少なくとも、太宰治は結婚するまでに三度、自殺未遂、心中未遂を繰り返していることは事実であったでしょうから、ようするに、いたたまれなかったら、逃げて逃げて、逃げ場がなくなったら、切羽詰まってそこで死んじゃえばいいんだという、ただ、ある時期に、昭和10年代に入ってから、太宰治は、じぶんの青年期、つまり、生きることをやめて、死ぬことを始めるという、そういうことの繰り返しみたいだった時期から、逆に死ぬことをやめて、生きることを始めるという決心をつけたと、そして、それはじぶんが作家として立っていくことだと。そうすると、今度は作家の生活というものは、毎日、家にこもって原稿をじりじり書いていくしかないわけですから、ある時期に立つと、作家として書いていること自体がいたたまれなくなってくる。そうすると、どこにいくかというと、これは生きることをはじめているわけですから、死んじゃうことじゃないので、やっぱりとびだして、どこかに旅行に行きたくなる。そういう結婚直後ぐらいの時期で、昭和14年ぐらいに書かれた小説を2つ、取り合わせてみると、今度は死ぬことをやめて生きることをはじめた太宰治にとってのいたたまれなさというのがある。これは、日常的な感覚として、うまく出てくるというふうになるとおもいます。
 ひとつは『八十八夜』という小説で、それとちょうど重ね合わせるように『東京八景』という、この『東京八景』という小説のはじめのほうでは、いたたまれなくなって、とびだして、伊豆のほうに旅行に行くという話からはじめますし、それから、いたたまれないという言葉は使っていないけど、やっぱり、そういう料簡で、今度は信州の上諏訪のほうへ旅にいく話が書かれています、これは『八十八夜』というやつです。ここでは、いたたまれなくなって、旅にとびだして、その旅にでる目度をつけているわけです。目的というんじゃなくて、ある目度をつけている。それは、前に行った旅館で知り合った女中さんといいますか、仲居さんと、たぶん男女関係はなかったと言っています。旅館に滞在するという上では、その人がいなかったら、そこに行ってもつまらない、その人がいるかいないかということが、旅行の眼目の要になるような感じで旅館に行く、そういう描写があります。そうすると、その途中のタクシーかなにかに乗っていくところで、「あのひといるかな、あのひといるかな」と作品の主人公に言わせているわけだし、そして、いろいろ経緯がありますが、旅館の女中さんがいてくれて、その人に出会って、「ああ、いてくれてよかった」とひとことおもいます。
 この作品そのものは、ぼくはとても好きで、人がいてくれてよかったという、日常的ないたたまれなさが鎮められて、成就していくというんですかね、なんとなく居心地がいい場所にじぶんが居場所を見つけたという、ただ、それでも、居心地のいい場所を見つけて、それでも、旅館の女中さんが以前と変わらずいてくれるかどうかというところで、まさに、居心地を求めてのめり込んでいくという、その居心地を求めてのめり込んでいくというところがひとつの特徴です。
 ようするに、いたたまれなくなったときに人はどういうふうにするかというと、日常的な場面でそれをいえば、その場所から逃げ出しちゃうとか、それから、耐えるしかなければ、なにかじぶんの内部で崩れていくものを感じながら、そういう経験を重ねて、それに慣れていくか、折り合いをつけていくか、ただ、太宰治の場合には、いたたまれなくても、逃げ場がないというときに、そういう経験にどうしても慣れることができなかった。それは、最初に言った、あらかじめ、世界に内在する、世界に所属してその中にいるという、そういうものが成り立っていなくて、あらかじめ、世界を剥ぎ取られてしまって、内面だけが外に露出しちゃっているという場面を絶えず感じていたからなんじゃないか。
 そうしますと、逃げるということは、結婚以前の初期の時代の、いわば、生きることをやめて死ぬことをはじめるということの急速な繰り返しというふうにいえるでしょうし、それから、「いたたまれなさ」を、もうすこし別の意味で扱いかねるものを扱え得るものにしていく道はないかというふうに、いろいろ考えたとおもいます。
 これは、作家生活というもののなかに、じぶんがしょうがなくて、居場所を選んだわけですから、そこになんとか腰をおちつけることができるようになった状態において、あるもののいたたまれなさというものについての見え方がでてきたとおもいます。
 ですから、これは一種、いたたまれなさを感じている当人の「いたたまれない」という言葉よりは、むしろ、「いたたまれない」ということを感じている人が周囲に何を与えるかというのを非常に、それこそ理想的な形で描いたのが『右大臣実朝』という小説だったんじゃないかとおもいます。
 実朝という人は、周囲の人からみると、本質的にいたたまれなさそのものの上にしかいない人なのです。望むと望まざるとにかかわらず、将軍に押し上げられて、そしてまた、将軍に押し上げていった北条氏が、同時に実朝を暗殺しようというような、そういう場所にいざるをえない、その「いたたまれなさ」というは大変なものだったというふうに太宰治は理解しているとおもいます。
 ただ、そういう内面を実朝は内面として露出させない。つねに、なにかいたたまれなさを鎮める、鎮静する力をもっている、それをもっているから、周囲の者がとてもいたたまれないような思いをしたときに、かえって、その場所を実朝のほうがすくってしまう、たとえば、若い時に、実朝が疱瘡を病んで、その跡が残って顔が変わっちゃうというときに、母である尼御台が、もう一度、前の顔が見たいなということを露骨に自分の息子だから言っちゃうと。そうすると、周りの者はほんとうにどうにもならない思いでいるわけです。そうすると、実朝はいずれ慣れるものですと平然と言って、そうしたら、その場がスッと鎮まってしまうというような、あるいは、実際に「いたたまれない」という言葉で書かれている場面もありますが、ある侍が、捕まえてこいといわれた謀反の疑いをかけられた人間を、謀反の疑いが明白だからといって、首を斬って帰ってきちゃったときに、なぜ生け捕りにして連れて帰ってこないと質問されます。そのときに、実朝に聞こえよがしに、実朝を誹謗するみたいなきつい言葉をいうのです。そうすると、それを部屋で聞いている周りの者たちは、まさに、いたたまれない思いをしているのだけど、武者というものはあれでいいのですということで鎮めます。
 そういうふうに「いたたまれなさ」のなかに立ち尽くして、最後まで姿を失わない、そして、滅びていくというのが、「いたたまれなさ」の上に立っている、いちばん美しい人なんだというふうに、太宰治は理解していたとおもいます。
 これは理想なのであって、「いたたまれなさ」が、いわば、足元から崩れて落ち込んで、落ちていくわけです。そういうもののほうがむしろ、より本質的なんじゃないかというふうに考えたときに、これが『人間失格』という小説になっていく、『人間失格』の主人公は死なないわけですけど、それから、自殺を企てる場面は一度しか出てこないけど、すべての場面でいたたまれなさに立ち尽くして、下へ下へと崩れていく、ところが、この手記を書いた大庭葉蔵という主人公にすり寄ってくる人間というのはいっぱいいるわけだけど。そのすり寄ってくる人間から見ると、大庭葉蔵というのは、作者は必ずしも言葉として書いていないけど、どの人物にとってもひと時の息抜きとしては、じつに居心地がいい場所なんです。人物というのが場所としてあらわれているし、つまり、心中の相手という女性からみれば、大庭葉蔵という男は、行きずりではあったけど、まさに死に場所として最も居心地がいいという不思議な場所でさえあるということになっている。
 そうすると、横にいたたまれなくて、逃げて逃げて逃げていくという、横端にいくというのがひとつあって、それから、縦に姿を失わないで滅亡していくか、それこそ、逆に姿を失い尽して、『人間失格』の主人公のように滅亡していくかという縦軸になりますと、最後のところでは、戦後の太宰治というのは、生きることをやめて、死ぬことをはじめた青年時代と、それから、今度は死ぬことをやめて、生きることをはじめた壮年時代というんですか、30代、その2つの方向性が真っ正面からぶつかって、火花を散らしているみたいな、そういうことになるとおもいます。
 そして、これは凄惨というか、すごい場面がでてきますし、それが横に逃げていく逃げ方がギリギリのところへいく。しかし、それは、死ぬというところに逃げちゃうというふうには絶対にならないよという、そういう場面を作っているのが、たとえば、『桜桃』とか、『父』という作品で、じゃあ、このいたたまれない世界というのはどういうのか、亭主は家にいるのはいたたまれないから、女のところへ行って酒を飲んでいると、じゃあ、家に残っているかみさんだっていたたまれないわけです。
 そのかみさんは、そういうかみさんとしてのいたたまれなさを、ある世界を反転しちゃう、つまり、家にじっと耐えていたたまれない思いをしているのではなくて、逃げていった亭主を、ある策略、たくみとたくらみといいますか、でもってキャッチしてしまう、『ヴィヨンの妻』が、亭主がお金を盗んでしまって、そのお店に弁償にいくというような格好で、そのお店にいって待ち受けるという算段があると、つまり、見事にその亭主はそこへやってきちゃうという、だから、そうすると、「いたたまれなさ」というものが、世界を反転することで、一筋だけども光が見出せるような、太宰治はそこまで世界を見たけれど、やっぱり、じぶん自身は、これでいいよとおもったのが、あるいは、これでもう自分の見える限りの世界は終わったとおもったのでしょうか、ともかく、最後には2つの生きることと死ぬこと自体がもろにぶつかり合って終わってしまうというような、そんなふうだとおもいます。
 このいるということを、それから、居場所ということを、太宰治ははっきりある構造的な捉え方をしていたとおもうので、『親友交歓』という小説があるのですけど、これは戦後まもなく、青森に疎開しているときに、昔の同級生だといって、上がり込んでくる男がいるわけです。この男は上がり込んできて、そこに座り込んじゃう、座り込んじゃったら居心地がいいというわけです。もうそこに酒はないのかというような。入ってきたのは口実があって、同窓会をやろうなんていうような、これは口実であって、ほんとうの魂胆は別にあると、そうすると、居心地がいいからそこに居着いてしまう。そこに居着いてしまって、ありったけ酒を飲んじゃう、そして、酒を飲んじゃうだけじゃなくて、何をくれかにをくれというような、徹底して図太くなっていくわけです。
 迎えた主のほうがいたたまれないわけですが、主だから逃げるわけにもいかなくて、応対にこれつとめて、そして、最後にとるものとったし、得るもの得たからというところで、まさにいちばん最後の一言で、同級生と称する男はその主に対して「威張るなよ」って、耳元ではげしくささやくというんだからすごいことです。
 これが、つまり、「居直り」ということです。太宰治は居直るということは、ついにできなかった人です。だから、居心地というものに非常に過敏であったり、それから、何度か、居直りではなく、開き直ろうとして、開き直ってはみたけれど、だけど、いちばんうまく開き直ったのは、太宰自身というよりは、『ヴィヨンの妻』のかみさんです。そういう人物は書けたけれど、やはり、開き直りはそのへんまでなんだろうというところがあるんです。
 もうすこし、これは「いたたまれなさ」というものを縦の深さとして考えていくと、いるということに対して、人が死ぬことはいないということですから、いなくなるということと、いないということ、その2つが、たとえば、太宰治は、早い頃に父親を亡くしたりしているわけですし、兄弟もかなり若死にした。死んでいなくなっちゃうということがわからないということは、たとえば、『女生徒』という作品の中で、何気なく書いているけど、死んでいなくなっちゃうことがわからないという、そのわからなさがどのくらい縦に深いものかというところが出てくるとおもいます。
 それから、これも案外、はじめからいないから気がつかないことだろうけど、さっき吉本さんがおっしゃった、太宰治とカフカの共通点というのは、非常にたくさん見出せるのだけど、『変身』という小説は、カフカに妹が実際にいなかったら、たぶん、成り立たなかった小説じゃないかと僕はおもいます。
 だから、太宰治は11人兄弟だったそうですけど、姉さんたち、兄さんたちはいっぱいいたけど、妹というのは結局一人もいなかった。そうすると、そのことは、ある作家の、ある時期に非常に重要な問題をもってくるということを言えるだろうし、そのことは宮沢賢治に妹があったということ、カフカに妹があったということと、太宰治に妹がなかった、兄弟があんなにたくさんいたのに、ただ一人も妹がいなかったということは、なにか居場所ということについての意味をわりあいに示唆しているのではないか、そんなところから、もうすこし読んでいけるのではないかという、ひとまずそこまでで話を終わらせていただきます。(会場拍手)

23 現代における太宰治の位置(村瀬学)

 吉本さんの話がすごくおもしろかったので、ひとりでよろこんでいたんですけど、いくつか、現在というか、いま読まれる太宰というのと、それから、今日の吉本さんのお話とつなげられるところを指摘して、マイクをまわしたいとおもいます。
 一昨日、朝、職場へいったら、大阪なんですけど、朝の車の中でいくつか質問されたんです。そのなかに、文庫本の中でいちばん読まれている作家は誰だと言ってたというわけで、ぼくは「夏目漱石の『坊っちゃん』やろ」って言ったんですけど、「違う、意外な作家や」というのです。ぼくは思い当たらなかったんだけど、答えは太宰治だったんです。それも『人間失格』なんです。それがいま、いちばん文庫本が売れている作家なんです。二番目が『坊っちゃん』じゃなくて『こゝろ』ですか。三番は誰か忘れたらしいです。覚えてないと聞いてます。
 意外な感じですね、太宰が読まれているというのは、たぶん、文芸評論家のあいだでは太宰はもう済んでいる人なんでしょうね。だけど、一般の学生さんとか、巷では読まれている。ぼくは吉本さんが言われているような意味で読まれているというふうにはおもわないので、数字の上で文庫本が売れているということは読まれているわけです。
 読まれているというのを考えると、作品が読まれているというより、題名にひかれているんじゃないかとおもいます。『人間失格』という題名をみつけて、たぶん、あの文庫本を買う人はいるんじゃないかとおもいます。そこの意味がやっぱり問われるべきだとおもう。
 それはコピーの力というんですか、題名のつけかたというんですか、糸井さん以上に、コピーの仕方というのにすごいものがあったんじゃないかとおもいます。だから、『人間失格』というあのコピーが、迫力があるというか、人に読まそうというか、ひきつけるものをもっていたという。あのコピーをつくりだす資質というか、一言を引っぱりだす力というのが、糸井重里の比ではないという部分があるんじゃないでしょうか。
 今日の話ですけど、吉本さんの話の中で、ぼくなんかがおもしろかったのが、人称のドラマというのもすごいよかったんですけど、文学自体が倫理であるという指摘がありまして、『人間失格』なんかはやっぱり倫理的に読まれて、弱さというか、あるいは、非倫理的な人間を描いていて評判が悪いです、評判が悪いというのは、一般の評論家にとってですよ。評判の悪かった作品なんですけど。ぼくはそれを問題にしようということで、じぶんの論をつくったとおもうのですけど。
 今日の吉本さんの話は、ぼくが問題にしたところじゃなくて、芸術自体が倫理であるという問題です。これはいまのコピーの問題と関係させて考えてみると、いまの太宰が、そういう芸術自体が倫理だという問題にいちばん近いのは何かというとコマーシャルだとおもうんです。
 最近の中村雅俊のペンギンがでてくるコマーシャルがあります。中村雅俊が前に立って、ペンギンが後ろを3人くらい歩いて、物語のドラマじゃなくて、人称のドラマというか、商品そのものを褒めないというか、商品そのものは倫理的にはパアにする。倫理的には書かない。商品は書かれない。
 だけれども、そういう作品、この商品をいいですよというふうに倫理的にオチをつけないで、作品の質を提示するというのが、それが現在のコマーシャルの性格やとおもうのですけど、そういう性格を太宰治の作品がつくっているというふうに吉本さんが言っているように、ぼくは感じたんです。それがまた、二部でつづけて、何らかの形でつなげられたらと思う点です。
 それから、もうひとつは、現在性として、太宰の現在性、写真というのをやっぱり問題にしたいなと、これは吉本さんの話の中で言っていなかったから聞きたいことなんですけど、言葉としては出なかったですけど、テーマとして人称のドラマという形で出されたので、写真の僕の問題意識を出していきたいのですけど。
 『富嶽百景』の中で僕のいちばん好きな場面は、パノラマ台に行ったときです。霧がかかって富士山が見えないのです。そうすると、その茶屋のお婆さんがでてきて、茶屋の奥から写真をもってきて、崖っぷちへ立って、写真を見せてくれるのです。ここにこんなふうに富士山が見えるんですよというふうにして、説明してくれるんです。それを見て、太宰が非常にいい富士を見たと、霧がかかっているのを残念に思わなかったというふうに言っている場面があるんです。
 ようするに見えないんですけど、見えないものに対して、写真を媒介として置いて、それを見ることで何かを得るというか、見たという気持ちになる。そういう媒体、さっきの人称でも自分というものを、一人称、二人称、三人称というふうに媒介をしておられるというふうに、吉本さんも言っていたとおもうのですけど。そのなかに写真という仕組みを考えるとすごいそれが出てくるとおもうのです。
 いまの老婆の話ですけど、『富嶽百景』の中にもうひとつ写真がでてきます。中間のあたりで、これで結婚しようと思ったと決心する場面があります。それは見合いの場所の部屋に写真がかかっているんです。それは飛行機から撮ったんでしょうか、富士山の火口が写っているんです。それが白い蓮の花のようにきれいだったという、ぼくはその時、この人と結婚しようとおもったという一行がくるんです。そんなふうに写真が使われています。
 それから、いちばん有名なのは、『富嶽百景』の最後に、二人の若い娘さんに写真を撮ってくれと言われて、富士山をバックに写真を撮るのですけど、ぴたっと寄り添ってポーズをとる娘さんを背景にしながら、娘さんを撮らないで富士山だけを撮ってしまうというふうにして、「はい、写りましたよ」と言って終わるというのが、有名な『富嶽百景』の終わり方なんですけど。
 ぼくはあそこで3回使われている写真のモチーフというのは、最終的には『人間失格』のいちばん初めに3枚の写真を読みとるというところから『人間失格』を始めたという、あのモチーフに根本的につながっていくというふうに読んでいるんですけど。あの写真の意識と、それから、今日、吉本さんが言われた人称のドラマの問題、それがどこかでつながっていくんじゃないかというふうにおもっております。
 それから、文学自体が倫理だという問題とかかわるとおもうのですけど、軽さという問題があります。現代における太宰ということを考えて、コマーシャルの問題と写真の問題をあげましたけど。いま、短小軽薄というのですか、短い、小さい、少ない、薄いというのですか、これがもてはやされるという時代、ようするに軽さが売り物になるような時代です。その時代に太宰が読まれるということがあるんじゃないかとおもいます。
 太宰は軽くなくちゃいけないということを作品のいたるところで言っているんです。ちょうど『正義と微笑』という小説だったか、『パンドラの匣』のどっちかだとおもうのですけど、『パンドラの匣』だったかもしれないですけど。モーツアルトを出してきて、モーツアルトが一番いいというんです。ああいう軽さがなくちゃいけないというふうなことを言っているわけです。モーツアルトがいいということは友達にも言っていると。
 ぼくは太宰を中年になって読んだんですけど、中年になって読んだ時期とモーツアルトを聴いた時期というのが重なっているんです、偶然にも。まったく偶然なんですけど、若い頃はべつにクラシックのファンじゃなかったんですけど。
 ちょうどモーツアルトというのが、太宰がそうであったように、いろんな方の作品、たとえば、太宰だったら、昔の物語であったり、西洋の物語であったり、今日の吉本さんの話の昔話の説話とか、ああいうのを自分の中に押し込んで、それに別な解釈を加えていくというやり方をやっていたんですけど。モーツアルトもそういうところがあるんです。
 あの人はヨーロッパのいろんなタイプの曲というか、リズムを自分の中に取り込んで、じぶんでは一つも創造しなかったとかいうふうに批評されるときもあります。彼は非常に深刻な「エリーゼのために」みたいな、綺麗なメロディでつくったかなとおもうと、すぐチャンチャカチャンというような、ふざけたような音を出すんです。
 だけど、おふざけというのが、太宰のおふざけではないですけど、軽さをつくっていく上で、ああいう『アマデウス』の笑い方というんですか、道化の仕方と似ているなと、ぼくは偶然それを感じたんですけど。そういう軽さの問題、それから、道化の問題が、いち早く太宰によって見抜かれているというか、太宰もモーツアルトに自分に近いものを感じていたかもしれんなというのを、ぼくはモーツアルトを聴きながらそういうふうにおもうわけです。その三点だけ指摘させてもらって、吉本さんの話を聞きたいなとおもいます。

24 太宰治の基本形(鈴木貞美)

 今日、わたしが長野さんに呼ばれてきたのは、どうも吉本さんの敵役をやれというような意図があったのではないかなというふうにおもって、なんとかいくつかの突っ込む点を考えていこうというふうにおもっていたんですけど、非常にやりにくいことに、吉本さんのお話がたいへん明晰なわかりやすいお話だったものですから、手ごわいなという感じがしたんですが、ただ、『悲劇の解読』の中の太宰論というのは、今日の話の一番最初の太宰治という人の無意識の部分といったらいいでしょうか、そこにそれを形成してきたというようなものを、お話になったものとだいぶ重なる部分があったとおもうのですけど。
 ぼくは文学作品を心理学的に解釈するということは嫌いで、拒否しようとおもっている人間なんですけど、ただ、太宰治の場合は、それがわりと必要になるのかもしれない。必要になるという言い方はおかしいのですけど、いろいろとむずかしいやっかいなところがありまして、太宰治という作家は、ほんとうにむずかしい作家じゃないかとおもっているのですけど。
 今日の吉本さんのお話を3つに大きく分けてなさったわけですが、ぼくらが作家なり、作品などに興味をもつとき、その作家というのはどういう人なのかなというふうに興味をもったり、それから、その作家というのは何をしたんだろうかというふうに興味をもったり、あるいは、それはどういう意味をもつのだろうかというふうに、だいたい大きく分けて3つくらいの角度で、いままで文芸評論が書かれてきたり、ぼくらの問題意識をもったりするんだとおもうのです。
 吉本さんの今日のお話の三部構成というのは、ちょうどそれに対応していて、太宰治がどういう人、どういう人というのは深層の部分です。「資質」としてという言葉を吉本さんは使われましたけど、分析の手掛かりを与えられたと。何をしたのかというところでは、「人称ドラマ」という言葉が出てきましたけど、そういう小説を書いたんだと。それで、それはどういう意味をもったのか、文学・芸術作品がそのままそれ自体が倫理であるというところがちょうど対応するように出てきていて、全体のというふうに言ったらいいのでしょうか、太宰に関する全体が提示されてしまったという感じがするわけです。
 いままで太宰治という作家が語られてきたときに、太宰という人がどういう人なのかということと、それから、太宰は何を書いたのか、どういう小説を書いたのかということと、どういう意味をもっているのかということは、いままでの評価というのは、ほとんどごちゃごちゃになっているんです。作品を読みながら太宰治という人を読んでいるというふうになっていたり、あるいは、逆の場合もあったり、太宰に関してはそれがおびただしいのではないかという印象を僕はもっています。太宰治の作品がそういう性格をじつはもっているので、読み手をそういうふうに誘ってしまう部分があるとおもいます。
 太宰治という人を一言で、太宰治という作家はどういう作家だというと、非常にうまい作家です。うまいというか、ずるい作家です、ぼくの言い方ですと。どういうふうにずるいのかというのは、時間もないので後に回しますけど。そのずるさというのはどういうところに発揮されているかというと、自画像を書くのがうまいのだとおもいます。
 太宰はどこから切っても同じ顔が見えてくるとか、あるいは、いまの菅谷さんのあれでいうと、「いたたまれなさ」というのがでてくるとか、誰でもどこかで感じているような、どこを切っても太宰治に見えてくるというような作品をずっと書いているわけですけど。それは全部、ある言い方をすれば、じぶんの自画像を書くのがうまいんです。
 単に絵ではないですから、小説ですから、言葉で書いたって非常に立体的にもなるし、書いていくときの運動があるわけで、そんな簡単に自画像とは言えないのですけど、そういう作家であるが故に、太宰治がどういう人だったのか、何を書いたのかということ、それから、それはどういう意味をもっているのか、みんなごっちゃになってしまうようなところがあって、すべて評論なり、批評なりが太宰の手のうちに入ってしまうようなところがある作家なのではないかと、ぼくは考えてきたわけです。
 それをすこしでも、どこかで突破していこうとすると、どういう人だったかというときに、いわば、深層心理的な問題に入っていくのが、ひとつの方法ではないかと思うのですけど、ただ、ぼくは『悲劇の解読』の太宰論を読んだときに、吉本隆明という思想家に大きな影響を受けながら、じぶんの仕事をやってきているつもりだったんですけど、ひどくがっかりした覚えがあります。それは、心理学的なところへ、吉本さんがどんどん入っていかれる、それを文芸評論として出てきたときにどうなんだろうかなという疑問も大きくあったのです。
 それは、今日の発表のじつに見事に3つ、どういう人だったのか、何をしたのか、どういう意味をもっていたかというのがうまくつながってきている。吉本さんは遠くから関連しているんだよというふうにおっしゃっていましたけど。うまくできてはいたけど、まだかなりひっかかるところがありました、わたくしには。
 ぼくは太宰治がどういう人だったかというのはあまり興味がなくて、太宰が何をしたのかというのが興味があるわけで、あるいは、どういう意味があるのかということに興味があるわけですけど。人称のドラマというふうにおっしゃったのは、かなり私の問題意識と重なるところがあって、「小説の小説」みたいなことで、昭和十年代に流行ったので、石川淳さんの、あるいは、中野重治まで含めていいのですけど、たくさんそういう入れ子の構造をもった小説を書いている。もっというと、小説を書くことも小説化する。太宰は『狂言の神』とか、『道化の華』とか書いているわけですけど。そのへんの太宰的なあり方みたいなものをなんとか明らかにしようというふうに考えてきたわけですから、それに対して、人称のドラマというのは、もっと太宰の場合は前から、必ずしも小説の形態として、「小説の小説」のかたちをとらない場合も常にあるわけで、小説を書く自分を書いているというのが、ちょこちょこちょこちょこ出てくるのです。それがさっき言った自画像というのと関係している。小説を書いている自分まで書いてしまわないと気がすまないみたいなところがずっとあると。それをはたして「人称のドラマ」というふうに言ってしまっていいのかどうかということが疑問としたいのです。
 だから、そもそもがその3つの関係、吉本さんの話に対する質問としては、最初の資質的なものというのと、それから、「人称のドラマ」というのと、それから、芸術作品を書くことが、すなわち、太宰治にとって倫理的な実践だったということとの構造的な関連です。これはもうすこし明らかにしていくような方向で考えられるのではないかということです。
 もうひとつ、それを明らかにするときに、私なりに考えますことは、吉本さんが三番目に、小説を書くことが太宰にとって倫理的な実戦であったときに、どうしても避けて通ることができないのは、フィクションというものでは ないかと、ぼくはおもっているわけです。
 つまり、太宰が小説を書くというのは、じぶんを虚構の糸に吊るしてしまって、かろうじて生きていくというような、それはフィクションでなくてはならなかったし、その虚構の糸の吊るし方で人称のドラマが生まれたり、あるいは、自画像というのが生まれたり、もっと様々なことをやっているわけです。自画像の書き方で、じぶんを5つの身体に分けてみて、非常に幸福な家族を描いてみるようなこともあるんです。
 ひとつだけいってみると、『愛と美について』ですか、それは兄妹が5人でひとつのロマンスをつくるという、非常にそれぞれが太宰の小説の中における兄妹の像であるから、そういうふうに太宰が作品に書いていた兄妹の投影などというふうにおもっていると思うのですけど、それぞれの特徴はみんな太宰がもっているものであって、5人兄妹であって、それぞれを書き分けながら、太宰は性格を書き分けているのですけど、子どもたちが皆でひとつのストーリーをつくっているわけです。
 ある意味で太宰の小説の作り方なんですけど、じぶんのわかりやすい言葉でいうと、分身たちがそれぞれ役割を担いながらストーリーを進めていくわけです。非常にある意味では幸せな家族を形成しているのだと、そこにもう一人、お母さんがでてきて、最後にお母さんが誰かが訪ねてきたと嘘をつく、子どもたちがシーンとなって、母親が一人で笑ったという場面があるのですけど。この母親というのはいったい誰なのか、太宰にとってですね。あるいは、小説にとって何なのかというのは、ぼくはちょっと解けない、いまのところ解けない問題なんですけど、そういう太宰が幸せな場所というのを描いているところ、それは菅谷さんの話と関係するわけですけども、居心地の悪さだけではないわけです、
 太宰の作品を見ると。その居心地の悪さがつくりだす一種の幸せな空間みたいなものをつくっているわけですけども。そのときの関係が兄妹であるということです。兄と妹の関係、そういう肉親の空間でしか、あるいは、太宰は、家族というんですか、空間を創り出せなかったのかもしれないという感じもありますし、それをもうひとりの人、つまり、母親、提起されているような作品があって、ちょっと話を戻しますけど、ロマンスをつくる、虚構をつくる、虚構をつくることでしか、じぶんを生きられないという作家はたくさんいるわけですけど、非常に危うい虚構の糸で自分を吊るさなきゃダメなんです。単に小説を書いたんじゃダメで、じぶんを吊るさないといけない。そうであるが故に、この人称のドラマが生まれたりなんかするという、そのへんがちょっとひとつ、小説家としての太宰治をフィクションという要素を入れて考えていくときに、もうすこし何かわかってくるんじゃないかなという気がしております。以上です。

25 ユニークな話体の作家(吉本隆明)

 村瀬さんと鈴木さんの、いまのお話というか、感想のなかで、ぼくにひっかかってきたことだけに触れて言いたいんですけど。文庫本でいま一番読まれているのが太宰治の『人間失格』で、その次が漱石の『こゝろ』であって、村瀬さんがおっしゃったので、ぼくは漱石の『こゝろ』というのは、文庫でいちばん読まれているのはどういうことかなっていうのは前から気になって、よくわからんなあなんて感じがしてしかたがなかったんですけど。
 太宰治の『人間失格』、これもよく、いま聞いていてわからないなあということのあれが加わった気がするので、ただ、漱石がよく読まれて、太宰治が読まれるということのなかには、ぼく流の言い方をすれば、両方ともすでに古典の域に達しちゃっているから、そういう意味合いでは、死んでまた生きているというのと、同じ距離感で読まれるところがありますから、そういう意味ではやっぱり読まれるんだなということがわかる気がするんです。
 それをぼくは、村瀬さんの言われた軽さということ、いまは軽さというのがある意味で、もてはやされているところがあるというのと、関連づけられたわけですけど。ぼくもそう思います。ぼく流の言葉でいっちゃえば、それは、「話体」ということ、「おしゃべり」ということなんですけど、おしゃべりと同じような文体で書くということなんですけど、太宰治というのは、「話体」の作家として、つまり、おしゃべりのように書く作家として、たいへんユニークで重要な作家なんだとおもうんです。
 だから、そういう意味あいで、いまの、ぼくの理解の仕方でいえば、カルチャーからサブカルチャーというところまで含めて、話体の領域の拡大の仕方、またCMというところまで含めていえば、拡大の仕方が圧倒的に、つまり、太宰治のこの時代よりも圧倒的に領域が広がっていますから、そういうところで、太宰治の作品というのは読める、つまり、軽いお話の文体として読めるところがありますし、太宰治自身もそういうことを自分が書いているように、落語とか、講談とか、元来はおしゃべりと一緒に消えちゃうものなんだけど、それを活字にしちゃうというようなのを、好んで書いていますけど、そういう意味あいでやっぱりたいへんよく読まれる要素というのもあるんじゃないかなという気がするんです。
 だから、そこのところは、なぜ太宰治がいまそんなに読まれるのかということに対して、ただ、一点だけ疑問、よくわからないなとおもっていることがあります。つまり、『こゝろ』と同じように『人間失格』が読まれているとすれば、決してこれは軽さとして読んでいないので、もっと違うものとして読んでいるところがあるんじゃないかと、そこのところがちょっとわからないところがあります。そういう感想をいまもったわけです。

26 太宰治のサービス精神(吉本隆明)

 鈴木さんのお話の中で関連して言えることがあるなあと思えることは、最後に太宰治が志賀直哉を『如是我聞』という文章で攻撃しているところがあるんです。そのなかで、おれはサービスしている、つまり、志賀直哉というのは、ちっともサービスしていないじゃないか、つまり、いつでもエゴの絶対みたいなところで、感想に似たものを書いて、愉快だったとか、不愉快だったとかという言葉で、小説の中で書いているだけじゃないか、つまり、おまえはちっともサービスしていないじゃないかというふうに、志賀直哉を攻撃しているところがあるんです。
 それに対して、おれの小説はそうじゃないと、おれの小説はサービスしているんだ。つまり、読者にどうやったらおいしい料理といいましょうか、作品といいましょうか、どうやったら提供できるかということを、おれはたえず考えている、たえず、物語を作ろう、作ろうという、あるいは、たとえ自画像であって、つまり、一人称であろうと、物語にしないで出そうという気はないんだと、つまり、生のまま食えということは、おれはやっていないと、だけど、おまえのはそうだ。つまり、生のまま食えという、それで、食わないやつは勝手にしろと、食えと言っているだけで、ちっともサービスしていない。そこはまるで違うのだということを言っているのだとおもいます。
 それから、もうひとつは。さきほどの倫理ということに関連するわけですけど、志賀直哉に対して、つまり、おまえの小説は詰将棋だと、つまり、必ず詰むに決まっている詰将棋じゃないかと、だけど、おれはそうじゃないと、おれは詰むか詰まないか、いつでもわからないという、おののきといいましょうか、風情といいましょうか、そういうのはおれの小説にはあるんだ。おれはそういうふうにしか小説を書いていない。しかし、おまえはそうじゃない。おまえは詰将棋だ。おまえの小説なんか詰むに決まっているという、そういうことを書いているんだとか、こういう言い方をしているところがあります。
 その2つが志賀直哉に対する太宰治の、つまり、自殺寸前のときの攻撃した要点、批判した要点だとおもいます。それに対して、じぶんの文学はそうじゃないと言ったことの要点だとおもいます。
 つまり、このサービスと太宰治が言っていることは、鈴木さんのいうフィクションにしないと自分さえ提出しない、自画像さえフィクションにしないと提出しないということと、いくらかは関連してくるんじゃないかなという感想をいまもって聞いていました。いまでも、その問題は非常に切実だとおもいます。
 たとえば、大江健三郎の小説というのは、サービスしない小説のあれです。だけど、たとえば、村上春樹の小説というのは、サービスしている小説だとおもいます。村上龍なら村上龍というと、もっとサービスしているとおもいます。
 それは、たくさん読まれるか読まれないかということに関連するわけですし、また、批評の問題とも関連するわけです。太宰治の言っていたことは、いまでも、ある意味ではもっと切実なので、つまり、サービスする必要があるかという居直りと、それから、サービスしなきゃダメだというのと、それから、あんまりサービスすると、エンターテイメントといいましょうか、サブカルチャーのエンターテイメントになっちゃうよという言い方もあるわけです。
 また、一方ではなったっていいじゃないかって、サービスも何もしないで、わけのわからないことを書いているのはなくなっちゃったほうがいいんだという、また一方の観点があるわけで、いまは、太宰治の志賀直哉に食ってかかった戦後すぐの時代よりもっと切実に太宰治がサービスと言っていることは、フィクションにしなきゃ自分さえ提出しないということと、お話の文体を基調にして書いている表現の問題ということ、それから、いわゆるそうじゃない文体で書いている、騒ぐことをしないという文体、小説はどうなのかという問題について、もし対立みたいなものがありうるとすれば、それはいまもっと切実に問われているとおもいます。
 たとえば、ぼくなんかに言わせれば、大江さんの『懐かしい年への手紙』なんて、もうこれは小説じゃないよ、つまり、文学じゃないよって、ぼくに言わせれば、文学作品は作れるのかという、おしゃべりしたことがありますけど、作れるのかということの疑問を最も提出している作品だとおもいます。ちょっと読んでいられないよっていう、もし、これをほんとうに読んだ人がいたらば、お目にかかりたいという、ぼくを除いたらそんなにいないはずです。つまり、それほど読めない小説です。文学というのはこうじゃないよという問題がもうひとつあるんです。

27 売文の最小限のモラル ─ 旅芸人の精神

 それから、もうひとつあるんです。サービスということと、太宰治のいうことと、関連するわけですけど、つまり、文学とは何かとか、芸術とは何かといった場合に、あるいは、批評とは何かといった場合に、ぼくならぼくでも大江さんでも、たいして変わったことはしていないわけです。小説家と、批評家という部分を除けば、変わったことはしていないので、文章みたいのを書いて、それで、金もらって飯を食っているわけで、売文しているわけです。
 ところで、ぼくに言わせれば、売文ということの最小限度の心構えというか、最小限度のモラルというのが、あるいは倫理があって、それは、ようするに、じぶんが旅芸人だということなんです。つまり、つまらないことを言って歩いて、それで金をもらっているやつなので、太宰治流の言い方をすれば、普通の人の生活からどこか逸れちゃったんだという、どこかそれだから後ろめたいんだというのが、たえず、どこかにあって、だから、普通の人というのは何なんだということ、太宰治もそう書いていますけど、つまり、普通の人はどうなんだということをたえずいつでも気にかかってしょうがないのです。ぼくもそうですけど。普通の大衆、普通の人って何なのか、どうなんだって、それから逸れちゃっているとか、落っこちちゃっている感じというのは、どうしても付き纏う、それは旅芸人のこころだと、ぼくはおもいます。
 大江さんが何が足りないかというと、それが足りないのです。志賀直哉に何が足りないかというとそれなんです。つまり、どこかで普通の人より上等だと思っているところがあるんです。志賀直哉にもあるんです。そんなことおれは思っていないというかもしれないけど、それは無意識の領域まで入ってきますから、それは思ってなくたってそうだっていえるのであって、それは違うわけで、そこが違うとおもいます。
 つまり、サービスと太宰治が言っている部分というもののなかに、普通の人からじぶんが落っこちているという、そういう意識がものすごいあるとおもうんです。どうしようもないというくらいあって、だから、いつでも普通の人とか、普通の人の生活とか、健康な生活とかが、たえず気にかかってしょうがないという、それがあるとおもいます。
 それはしかし、ぼくにいわせれば、芸術がかつて芸術であった時代に、本質的にあったんだというふうに、ぼくはおもいます。それが太宰治を古典にさせているし、いまの人たちに読ませている何かになっていると僕はおもいます。
 だから、ぼくは、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』なんて、あんなのを褒めている批評家なんて、まったくダメな野郎だと、しょうがないやつだと、そんな作品じゃないです。読んでご覧になればいいです。イモじゃないか、これはイモの自慢じゃないか、こんなのが小説になるわけがないので、つまり、テキストからテキストへ渡り歩いたということを書いたことが小説になるかということなんです。
 つまり、これが文学作品かという問題なんです。それがテキストからテキストへ渡り歩くこと、それから、旅から旅へ渡り歩くことを記述して、それが文学作品、芸術作品になりえる唯一の鍵があるとすれば、それはじぶんが普通の人より落っこちているという、普通の人の生活よりどこかで逸れちゃっているといいますか、ダメなんだというのが、どこかにかろうじて無意識の中にあれば、かろうじてそれが小説になるかもしれません。太宰治にもそういう作品はありますし、つまり、かろうじて、小説あるいは文学・芸術といえるかもしれない。
 しかし、テキストからテキストへ、あるいは、本から本へ、要所から要所へ渡り歩いたという、そういう渡り歩いていることを記述したということがどうして作品になるのか、そういうふうに問うた場合に大江さんは失格だとおもいます。つまり、作家失格だとおもいます。
 なぜかといったら、そういうのが偉いとおもっているから、書かれているからです。偉いと思っていないと言ったって、ちゃんと読めばわかりますから、読む人は無意識まで読みますから、だから、それはならないですよ。それから、メキシコ行ったとか、どこに行ったとかいって、何を頼まれてこんなことをお話したとか、そんなことは、旅から旅へ芸を売って歩いたということが、どうして文学作品であるかということが問われることだとおもいます。
 それでそれに対して、太宰治にもあります、それは。旅から旅へ歩いて、新潟高校へいって講演したときの『みみずく通信』という、ぼくは好きな作品ですけど、それは、そういうことを書いているだけなんですけど、あれは立派な文学作品だとおもうのです。イロニーがたくさんありますけど、やっぱりじぶんは旅芸人といいましょうか、旅芸人なんだというあれがどこかにちゃんとあるからだとおもいます。かろうじて、これは芸になっている、つまり、文学になっているとおもいます。
 しかし、志賀直哉はそれがダメだったんです。それをそういうふうに読めなかったんです。なぜかというと、真面目な人だからです。主観的に真面目な人で、偉いと思っているからです、じぶんを。だから、そう読めなかったんです。だから、この『みみずく通信』というのを読んで、おれは不愉快だ、こういう批評をしたわけです、志賀直哉は。
 なぜかというと、こいつは卑下しているようにみえて、こういうところにきてしゃべって、新潟高校へいってしゃべって、なんかじぶんが自慢しているように書いている、それは不愉快である作品だと、こういうふうに志賀直哉は言ったわけで、それは、先ほど言いましたように、たいへんな見当違いで、太宰治のほうからいえば、たいへんな見当違いだし、太宰治のファンであった20代の僕もそうおもいました。これはぜんぜん読めていないじゃないか、これはそうじゃない、これは自慢じゃないんだよ、これは卑下なんだよ、つまり、じぶんが普通の人から落っこちていることの問題がここに出ているんだよ、だから、これは決して自慢たらたらの話じゃなくてあれなんだ。
 それに対して、太宰治はまた言い返したわけです。どう言い返したかというと、おまえの『小僧の神様』という小説があるだろう、ようするに、あれこそが自慢だと、おまえはなんか人にいいことしたようなつもりになって、小僧に施したような、どこかの飲み屋さんかなんかで小僧さんと出会って、その小僧さんに奢ってやったという話なんです。
 そういうことを書いて、おまえこそがようするに、おまえは金を持っていて、小僧さんに奢ってやったということを自慢たらたら書いていているじゃないかと、おまえのほうこそそうなんだと言っているんです。
 それはなぜかというと、奢られたほうの小僧さんの気持ちが、奢られた時にどういう気持ちになるか、おまえは全然わかっていないと、わかろうともしていないと、おまえの文学はそうだと、こう言っているわけです。それに対して、ようするに、じぶんはそうじゃないと、じぶんの『みみずく通信』はそうじゃないと、おまえはぜんぜん読み違いだということをいって食ってかかっていたわけです。
 そこの問題は、いまはもっと切実なんです。これは、鈴木さんだって、菅谷さんだって、みんなご存じだとおもうけど、いまは戦後すぐの時より、もっと文学の世界というか、文壇の世界といいますか、そういう売文家というものの世界というのは、もっと壊れているんです。もっと壊れて、ある意味じゃ非常に鮮明なんです。つまり、儲けてはいないんですけど(会場笑)、それで食っているやつと、食わないやつとが多いわけで、そうじゃないやつとの区別というのはものすごく鮮明になって、両方とも居直らざるをえないという、そういう場面にみんなきついところなんですけど。きつい場面なんですけど、そこに当面しているわけです。
 それは、たぶん、みなさんのほうには、つまり、読者のほうにはうまく伝わっていないとおもうんです。そこまでは伝わっていないとおもうのです。それは、このサービスということを志賀直哉が捕まえられなかったように、逆にいうと、大江さんが、じぶんのサービスのなさといいましょうか、あるいは、じぶんがサービスしているつもりのものが、全然そうなっていないんだという、自慢にしかなっていないし、それから、本から本へ渡り歩いているとか、それから、場所から、日本から、メキシコから、広島の原爆か知らないけど、渡り歩いて、なんかおしゃべりして金をもらって、そういうのが偉いか、つまり、社会の木鐸というか、文学者が社会のお手本になるみたいにおもっているとしたら、それは思い違いだよということがあるとおもいます。
 一方で、それは思い違いじゃないという人もたくさんいるわけですから、なんとも言えないですけど(会場笑)。その対立は言ってみればきわどいわけです。激しいわけです。それは、一重の操作で、皆さんがそこのところの問題を考えてわかってもらいたくないというのが、ぼくのモチーフです。
 つまり、もっとたいへんなことです。太宰治が倫理と言ったり、反倫理と言ったり、落ちてしまうというふうに言っていることとか、そうじゃなくて、真面目で健康で建設的だということはどういうことなのかということとか、そういうことの問題というのは、いまはもっと隠微だけどもっと切実な問題としてあるわけです。そういう問題の打ちどころというのは、太宰治がすでに初期において演じているわけです。文学作品というのの根本的に演じているわけです。
 それから、生き様でも、つまり、何回も死に損なって、自殺しそこなって、心中しそこなって、それで最後に心中を全うする。そういう生き様でもお手本を示しているわけです。方法的にも示している、それから、物語としても示しているわけです。つまり、非常に健康な小説も書いていますし、非常にデカダンスな小説も書いています。時期々々によって書いています。
 これは様々な意味で、昭和文学の中では大変な作家なんです。これから、なるべくこの人を突き詰めていかなくてはならないということの大変な作家だとおもいます。それから、鈴木さんが先ほど言われたように、鈴木さんは鈴木さんの方法で、それを突き詰めていかれるでしょうし、ぼくはあんまり、なんとなく持ち時間がないよって感じがあるものですから(会場笑)、太宰治の小説の言葉でいえば、「思うことにも心せき、感ずることにもいそがるる」ということがあって、なかなかそれが省みることができないんだと、今日がチャンスだったから、ぼくはいちおう作品を読み返したりして、やっつけてきたんです。それで、鈴木さんのお話とか、村瀬さんのお話とか、その前の菅谷のお話とかをひっからめて、あんまり答えとかは、からみあったようにならないで申し訳ないんだけど、ぼくが抱いた感想を申し述べて、どうでございましょうか。(会場拍手)

28 司会

 質疑応答の時間を若干とりたいと考えていたんですけど、予定の時間もあと7分というかたちで詰まっております。従いまして、ちょうど吉本先生のいいオチが出たところで、この問題は第二部のほうにもち越して、私も知りたいことがでてきたものですから、そちらのほうで展開していきたいというふうに考えております。本日はどうもありがとうございました。

29 第2部:司会

 壇上になっているのは、後ろの方が見やすいようになっておりますので、上に立っているつもりはないので、従いまして自由に討議をしていただきたいと、もちろん、討議する場合は手を挙げるなり、司会者のほうにわかるような、しかしながら、この会に関しては、司会をすべて通してまわしていくという形をとらずに、できるだけフリートーキングなかたちで、しかもそれがいいかたちになることを期待しておりますので、ぜひとも、いい質問あるいはご意見を言っていただきたいと、そういうふうにおもいます。とりあえず、さきほど、たくさんの問題を残しましたけど、そういったものをもう1回、おさらいというか、思い返す意味で、あるいは、問題点を明確化させる意味で、菅谷さんあたりから、口火を切っていただいて、それから次に入っていきたいとおもいます。

30 時代のなかの死

(菅谷さん)
 さっきの話、ぼくはちょっとかいつまんで申し上げて、その話が、今日、吉本さんが講演になったことと、どういうふうに関連あるいは対応づけられるかということを言ってみたいとおもいます。ぼくは「いたたまれなさ」という主題をひとつ取り出してみたんですけど、そのことは、吉本さんが太宰治という資質ですね、生と死の境を超えやすい資質の人だというふうにおっしゃったことと、たぶん、関連づけることができるだろうとおもいます。
 吉本さんのおっしゃったことのほうが、「いたたまれなさ」より、もうすこし深いところに達しているんじゃないかというふうにおもいます。それは、吉本さんは抑圧への耐え方にいくつかのパターンがある、そのひとつというふうに、ぼくは「いたたまれなさ」ということを言ったときに、「いたたまれなさ」に対処する逃げ方というのは3つあるとおもうのです。
 ひとつは隠遁しちゃうことです。世を捨てて、坊さんみたいになって、山の中に引きこもってしまう、そういうふうにして人の世を捨ててしまう生き方、それから、もうひとつは、韜晦ということ、正体を見せないで姿を隠してしまうという、そういう態度の取り方といいますか、対応の仕方というのがあるとおもうのです。そして、もうひとつは、身をやつすという、本来のじぶんよりもある一段低いものに見せていくという、やつし方という、太宰治という人は、その3つのどれもやりきれなかった人なんじゃないかという感じがします。
 ちょうど太宰治の時代で合わせていきますと、石川淳という人は韜晦のうまかった人といえるのではないか、それから、やつし方ということでいえば、これは太宰治が『女生徒』という作品の中で、永井荷風の『濹東綺譚』のことを触れていて、女学校の何回生かくらいの人があの小説が好きだというあれは、ちょっと太宰自身が出過ぎているんじゃないかという感じがするところですけど。永井荷風の『濹東綺譚』というのは、戦争がまもなくという、あんまりいい時代じゃなくなっているときの最後の身のやつし方みたいなのがある。
 それから、もうひとつは、太宰治とは関係ないけれど、吉本さんがおやりになった仕事の中では、ある重要な位置を占めているところで、隠遁ということをいうと、高村光太郎と、それから、吉本さんがお書きになっているものでは、良寛という、この2つのタイプの隠遁の仕方がある。高村光太郎は、戦争中、とくに戦後、岩手のほうに住んで、隠遁生活みたいなことをしていた。その高村光太郎の隠遁生活の仕方というのが、ある意味で非常におもしろいところがあると。
 それから、次に太宰治の文体というところでいいますと、吉本さんは六人称という言葉でおっしゃって、これはやられたという感じなので、ぼくはじつは「いたたまれなさ」ということが言葉になるということは、いったいどういう文学の表現の方法を導くだろうかということを考えてきました。
 それは、「いたたまれなさ」ということ自体は、非常に主観的で、言葉としては他人にまず通じようのない、だから、いたたまれなくなるのだけど、これは主観的であるということは、一種、言葉にならない一人称、絶対一人称、絶対温度という言い方があるように、絶対一人称、それが言葉をまさに抑圧してしまう、絶対一人称をどういうふうに解体して、つまり、言葉へもっていったら、いわば、太宰治の一人称がなぜ回復されるのかという、そうすると、太宰治の小説というのは、吉本さんがおっしゃったように、人称の解体のドラマということと同時に、言葉としての一人称をどれだけ作品の中で縦横無尽に活躍させることができるか。つまり、太宰治の小説は私小説によく似ているけど、私小説というのは、主人公を三人称にしちゃったら、いちばん書きやすいんです。これは島崎藤村の私小説なんかご覧になってみれば、私はという書き方はしないで、作者の分身とおぼしき、一連の作品に同じ名前で出てくる人物だったりします。
 そうすると、太宰治が私小説というのを逆手にとることで、フィクションとしての一人称をどれだけ獲得していくかという、そのプロセスだとおもうのです。そのことは、さきほど鈴木さんがおっしゃった、フィクションということと、それから、自画像のうまい作家だったこととも、やはり関連するんじゃないかと、そんなところがあります。
 それから、もうひとつ、これは、村瀬さんが『「人間失格」の発見』という本の中でちょっと触れていることで、作品でいうと、『父』という作品でしたか、家にいるということと、それから、人は家族の中では家にいる、でも、外にいったら、何かになるというそういう世界だという、そうすると、太宰治の場合には、家にいてもなおかつ、「父親」になる、「夫」になるという、なるという世界を家の中にまでつくらなくちゃならない。そういうふうに、結局、ぼくがさっき言いました、世界の中にいるという内在性が、つまり、場所がつくれないために、かえって内面が露出してしまうという、そういうことになるんじゃないでしょうか。そこのところで、たぶん、太宰治の最後の倫理みたいなものが、どうしても作品の中にあらわれてくるといいますか、そういうものは、あらわれてくるというよりは感じさせるわけです。
 それはたとえば、先ほど吉本さんがおっしゃったことのなかでも、作家というものは決して偉いものじゃないんだという、普通の人と比べて偉くはないんだと、なにかひとつ、普通の人よりは低いというか、そういう場所にいるんだということをよく知っていないといけないと、つまり、旅芸人だと、そうすると、室生犀星がよくそういうことを言うわけです。私はじぶんの生まれ育ちからいって、もし、文学というものがなければ、確実に泥棒か人殺しになっていただろう、そのことは一生、繰り返し繰り返し言っている。文学という救いがあったから、なんとか、泥棒にも、人殺しにもならないでやってこられた。たとえば、戦争中の作家のなり方というのは、これは資質とか、個性とかいうことでは、太宰治と室生犀星というのは、必ずしも対応しないかもしれないですけど、戦争中の作家の暮らし方というか、プロでやっていくんだという、そのやっていき方というのは、室生犀星と非常によく似ているところがあるし、じつは、そういうことを教えてくださったのは吉本さんだったのですけど。
 すこし個人的にいいますと、ぼくは太宰治がどこから始まるかというと、昭和23年6月です。太宰治が玉川上水に身を投げて、身を投げて死んじゃうというのは、死ぬ前に小説の中に書いているわけですけど、それが新聞にでかでかと社会面に載るわけです。その記事は鮮明に覚えていますし、それから、写真版やなんかで何度も見直しているから、確実な記憶というか、映像になっていますけど、そこで初めて、ぼくは小学校5年生でしたけど、「情死」という言葉、これが大人の世界、男女の世界というものを子供心に、あるショックで、見ちゃったという、見えたわけではないです、見ちゃったというところがある。
 太宰治の小説というのを、なぜかというと、ちょうど吉本さんぐらいの年齢の人が僕たちの中学校の先生たちなんです。この人達は熱烈な太宰ファンだし、ぼくらにも読め読めって勧めるわけです。中学校2年生ぐらいで、ぼくは『人間失格』を雑誌のバックナンバーで一章か二章読んだんです。そうすると、それから、だいたい十年ぐらい、太宰治をどう読んでいいかわからないのです。だから、夢中になって読むわけです。だけど、何を読んだかという距離がとれない、太宰治像というのが、じぶんの眼で描き切れないうちに、また別の関心にいって、三島由紀夫がやたら面白くなってくるという、昭和30年代ですけど、そういう時代があったということです。
 そうすると、不思議なのは、三島由紀夫が太宰治を非常に毛嫌いしていたというか、生理的に反発していたというところがあって、それがいったいどういうところなんだろうというのが、ぼくにはわかるようでなかなかわからない。そして、太宰も三島もどちらも文学者の死に方としてはその時代に衝撃的な死に方をしているということがあって、ただ、どちらが衝撃的だったかというと、ぼくは自分が子どもの時、太宰治の作品をぜんぜん読んでいないので、情死という言葉ひとつで受けた衝撃のほうが大きいんじゃないか、だから、それはかなり深いところで自分に影響しているんじゃないかという、今度、20年ぶりくらいに太宰を読み返したわけです。そうすると、おもしろいんです。楽しんじゃってひと月ぐらい、時々ふきだしたりという、じつに読ませてくれる小説だなという、そのぐらい申し上げると、吉本さんにも、鈴木さんにも、村瀬さんにも、話がつながるかもしれないし。

(鈴木さん)
 いまの菅谷さんのお話を聞きとらせていただきましたけど、最初に「いたたまれなさ」であり、あるいは、吉本さんの言葉でいえば、太宰の抑圧に対しての耐え方ということとつながるのですけど、菅谷さんが重要なことをおっしゃったとおもうんです。いろんな逃げ方があるのだけれど、逃げ切らなかったんじゃないかということなんですけど。
 それは先ほどの吉本さんのお話の二番目でしたか、引用なさった『魚服記』という、たいへん好きな作品なんですけど、すごく象徴的な作品だとおもいます。最後の場面で、なぜ滝つぼの方へ行って、最後に死んだというのはわかるのですけど、そういうふうに死を選ぶのか、そういうふうに考えてみますと、その前に伏線があって、吉本さんが詳しくお話になったからご承知のとおりだとおもいますけど。スワが大蛇になってしまっていたら、スワは死ななかったんじゃないかなというふうに、ぼくはおもっているのです。
 それは飛躍もちょっと、さっきからお酒が入って酔っ払っているのですけど、太宰が大蛇になれていたら、死ななかったんじゃないかなということとも関連するとおもうのです。だから、吉本さんがさっきおっしゃったカフカと太宰の違い、同一性と同時に違いといったことも関連するとおもうのですけど、変身願望もありながらも、しかし、太宰は変身しきれないというのが、変身したつもりになるんです、大蛇になったとおもって、だけど、作品を読んでいると、フナになっちゃったって、かわいらしいなと僕はおもうのだけど、それがスワにとっては、大蛇になれなかったから、じぶんのほうから死のほうへいく、お話の流れだとそういうふうに読めるのですけど、それは作品の中に象徴的にあらわれているんじゃないかとおもうのです。そういう作品を最初のほうで書いちゃったんです、太宰という人は。
 思いつくままにいうと、三島由紀夫もそんなところがあるんですけど、そういう部分は天才かなという気もしますけど、それはさっき言った「ずるさ」というのも関係するんです。「ずるい」って悪い意味で言っているわけじゃない。解き目がないように自分を書いちゃうんです。
 たとえば、小林秀雄みたいに、批評家が天才の肖像画を書こうとしても、あまりにも自画像がうまい肖像画を批評家が見てもしょうがないみたいなところがあるんじゃないかと、それが本質的な意味の太宰のずるさだとおもっているんです。何度もでるけど、道化だ道化だと、道化論で太宰を解きますけど、だけど、太宰はすでに自分は道化をやっているよと書いちゃっているわけです。いくら道化だといっても何の足しにもならないみたいなところがあって、それをうまさであると同時にずるさというふうに言ったのですけど、それがさっきの話との関連で、菅谷さんの話をひとつそんなことになるんじゃないかと、ですから、一人称で太宰を読むことや、吉本さんのように六人称でも、やっぱり、ひとりなんだなというところがあって、それを手を変え品を変え、いろんなことをやりながら、だけれど、いちばん誰よりもわかっているのは自分なんだと、じぶんは道化だよというふうに言っちゃうという、ダメなんだよというふうに言っちゃうという、だけれど、誰も追いつけないんです、太宰がじぶんのことを言っている速度に。そういう作家なんではないかなというふうにおもいます。

(長野さん)
 自己完結しているという意味ですか。

(鈴木さん)
 完結はしていないです。太宰も追っかけているんです、それを。だから、構築的な作家ではないとおもうんです、三島由紀夫みたいに。そうじゃなくて、運動する作家だとおもうのですけど、構築的に対して脱構築なんて言葉が流行っているから、使わないけど、手を変え品を変えどんどんどんどんいろいろやっているでしょ、やっている自分が見えてくるでしょう、それも書いちゃうでしょう、だから、それが一時期はらっきょうの皮みたいなことを言いますよね、らっきょうの皮むきというのは、中は何もないというのだけど、何にもないけどまだ書かなきゃいられないでしょう、らっきょうと違って、小説というのは、どんどん降ってきてしまうわけですから、何にもないというふうには絶対終わらないわけです。そういう運動の果てではないかとおもうのです。
 ただ、ぼくは村瀬さんがいらっしゃるので、『人間失格』というのは、やっぱり、太宰の中で、そんなにいい作品じゃないんじゃないかとおもうのです。というのは、村瀬さんが批判なさっている、いままでの批評家のああいうことじゃなくて、非常に作品がスタティックなんです。ぜんぶ見えちゃっている、じぶんの見取り図が、それを広げてみせたというような、さっきの吉本さんの第二の区切り目のところで、そういう作品がたしかにあらわれるような気がするんですけど、なんかもう進めなくなったというのか、運動が、非常にスタティックに書いちゃって、開陳して見せたというんですか、そんなふうな気がしていて、そういう意味で、あんまり買わないです。ぼくにとっては、太宰の運動しているのがすごくおもしろいとおもって、すごい好きなんですけど、そういうところがちょっと『人間失格』のなかにはないんじゃないかなぁと、もし村瀬さんと論争になればとおもって言ってみました。

31 映像の問題はローカルな問題である

(村瀬さん)
 第一部の続きになるんですけど、太宰の学生の頃ですか、写真集を見ると、藤田なんとかという人に撮ってもらったという、いろんな顔の写真があるんです。百面相の写真があるんです。写真のテーマになるんですけど、写真にこだわっているとおもうんです。最初の『虚構の彷徨』にじぶんの写真を入れるんです、口絵のところへ。第一作目もそうなんです、第二作目も口絵に写真を入れるんです。その写真に関しては、『小さなアルバム』という短編の中で気に入らないということをしきりに書いて、じぶんの写真の歴史に関して、自己註釈みたいなことをしているんです。
 写真のモチーフというのは、ようするに、写真を見るというのは実体じゃないものを見るわけです。彼の中に実体というのがなくて、映像だけがあるというか、そういう感覚が早くからあるんだとおもいます。
 その映像がどういう実体に対応しているかというと、実体がないということです。それが鈴木さんのいわれたフィクションの問題になっているとおもうのです。フィクションを好んでいるというよりか、早くから、いま問題になっているような映像の問題というか、実体のないところに生まれる映像の問題が意識されているようにおもうのです。
 それは実体があるということを基準にして論じる観点からしたら、映像の問題はローカルな問題なんです。ローカルというか、地域的というか、そういう問題になるんじゃないかとおもうのです。逆に映像の問題からみれば、実体の問題というのは、またローカルにならなくちゃならないということがあるとおもうのです。
 今日の話に出なかったですけど、ぼくは『津軽』という作品をいろんな作家の方が非常に高く買っておられて、ぼくは全然おもしろくないというふうに書いたのですけど、『津軽』の問題というのは、東京に対するローカルの問題なんです。
 『人間失格』が、人間のあるノーマルな正常な範囲を固定してみたら、失格者というのはローカルの問題になるんですけど、ぼく自身は知恵遅れの子どもたちと一緒にやってきたから、知恵の遅れる子どもたちは、知恵の遅れない子どもと比べたらローカルな問題で、まさしく東京に対する津軽のような位置の問題なんです。それは実体に対する映像のもっているような位置なんです。
 だから、知恵の遅れない子どもに対して、知恵の遅れる子を立てていくには、どうしたら立てていけるのかというふうに考えてる問題が、太宰としては東京に対する津軽の問題であったり、人間に対する人間失格の問題であったり、そのところから、ぼくの太宰の接近はあったとおもうのです。
 だから、太宰の批評・作品史の中で『人間失格』がどうだとかいう感じはあんまりないです、ぼく自身は。だから、文芸批評としての関心というのは、あんまりなかった。今日はすごく出てきましたけどね、話を聞いていて。ただ、文芸批評の関心じゃないところで接したものですから、『人間失格』を持ち上げているのかもしれないですけど、あれはすごいストレートな関心です。そういう映像の問題、それは、ちょっと冗談半分に吉本さんにお聞きしたかったんですけど、ランドサットから見た太宰治というか、生と死が、この距離では、はっきり見えるというか、境目がはっきりするけども、もっと下がってしまえば、境目が見えなくなるというような観点があるんじゃないか、太宰はある時、急にランドサットのような位置にいっているというような感じがしないでもない。

(長野さん)
 ある時というのは、年齢に関係があるのですか。

(村瀬さん)
 どうでしょうね、吉本さんが最初に言われた、生と死の境目が見えなくなるというか、飛び超えてしまうというか、あの位置というのが、もう一度、違うところで語ってもらいたいって、ぼくはおもうのです。それはたしかに、乳児期の問題もあるとおもうのですけど、それは、吉本さん自身が繰り返しウーマンリブから批判されるかもしれないというふうに言われてますけど、そこだけに固定できないとおもいます。
 そういう体験をした人が、ある時期に、それを確認させられるというか、たとえば、兄弟から、おまえは叔母に育てられたんだとか、そういうふうに再度の自己確認をさせられるような、言われるというような、そういう体験をした人が増殖させていくとおもうのです、じぶんの中で。
 それから、いろんな人からそれを確認させられるというか、その位置に立つというのは、そういうランドサットの位置というか、それとどう関係があるのかなとおもうわけです。それから、吉本さんの『津軽』という作品の批評というか、あるいは、今日の話の中で位置づけしてもらったらどうなるのかというところです。

(長野さん)
 そこで、書かれていることと、いまおっしゃったことのなかで気になるのは、映像ということ、写真ということでおっしゃったんですけど、それをローカリティの問題、比喩でしょうけど、そのことと、非常に重要だとおもうのですけど、『富嶽百景』という作品があるとおもうのですけど、あれはなぜ百景なのかというところがあるとおもうのです。で、『東京八景』ですね。つまり、風景の発見というものは、ちょうど中期の入り口のところから始まって、おそらくそれは、最終的には私がおもうには、『津軽』という作品までいくんじゃないかとおもいます。風景の発見とほとんど同時的に起こるのが、故郷の発見なんです。先ほど吉本さんがおっしゃったように、『黄金風景』という言葉で小説が書かれます。短い作品です。あれは故郷の人が出てくるわけです、海岸なんかに。あれは非常に感動的な作品だとおもいます。
 それの風景の発見というのが、自己の風景の発見であれ、他者の風景の発見であれ、いまおっしゃったローカルの、ローカリティでもいいのですが、そういうものの発見であるような、そういうことと、いま言った村瀬さんの写真というものは、非常に結びついている、あるいは、今日、吉本さんがおっしゃったような六人称ですか、それと非常に結びついているような感じがするのですけど。
 私はそういう角度から見る限り、『津軽』という作品をもしローカルという言い方をするならば、『津軽』という作品の中における太宰の位置ですね、視点というんですか、視点のほうがむしろ押さえられなければいけないんじゃないかと、単なるローカルという形で書かれていない構造をずっともっているのではないかなと、じつは、ぼくはそういうふうな感想をもったんです。

32 津軽というトポス

(村瀬さん)
 ぼくは、太宰がすごい相対の眼をかなりもっていた人やから、『新ハムレット』なんかでも、よい点も悪い点も相対化されて描かれているのに、『津軽』に関しては、『津軽』が持ち上げられすぎているというのがあるんです。だから、ぼくが知恵遅れの子を持ち上げすぎると、普通の子より良いよというふうに言うでしょ、そうすると、灰谷健次郎みたいになってしまうという(会場笑)。そこがあるから、やっぱり『津軽』は批判されるべきであって、知恵遅れも批判されるべきだとおもいます。そのへんが出てなかったというのです。『人間失格』には、きちんと『人間失格』の主人公を批判している部分があるんです。作品の構成としてはある。だけども、『津軽』にないなあと思ったんです。

(長野さん)
 サービスという言葉をおっしゃったけど、サービスする対象が変わったというか、そういう言い方をすれば、逆に『津軽』というところで、甘んじているものに対しては、いまおっしゃったことで当たっているのだけど、逆に太宰自身はあそこでそういう意味でのサービスと言ったら変ですけど、かなり実感のこもった何かがあるような気が、ぼくなんかはするのですけど、いかがですか、そのへんは。

(吉本さん)
 ここにいるのはみんな津軽の人ですから(会場笑)。

(長野さん)
 わかりやすく言いますと、太宰治の『津軽』があるから、ぼくは大学の先生もやっているものだから、よく言っているわけですけど。いまの津軽というのは、やっぱり、太宰の津軽というのは大きいわけです。わたしがここにきた動機もそうなんじゃないかとおもうのですが。

(鈴木さん)
 だけど、そこで太宰が言っている津軽人の特質ってそんなにいいものですか。

(長野さん)
 それはそうじゃないだけど。象徴的に、たとえば、たけなんかに、語られていくような、あるいは、風景として出てくるもの、やっぱりすごくリリックだとおもうのです。だから、この『津軽』という作品が弘前あるいは津軽の観光協会に歴史的に与えた貢献度というのは、印税を超えるんじゃないかと僕はおもうんです(会場笑)。
 だから、逆に『津軽』が批判されていいのは、そういうところであぐらかいちゃっているローカリティみたいなもの、これは批判されていいとおもいます。しかし、太宰のいたたまれなさ、まさしくそういったものがああいうかたちで出てくるところに太宰らしさがあるんじゃないかと、ぼくはそういうふうな感じで見ているんです。

(吉本さん)
 もうすこし聞いていいですか。あなたでも、今日の企てでもいいんだけどさ、太宰治論ということでやるでしょ。その意味は、たとえば、長岡にいくと、たいてい良寛なんです。もうすこし遡れば佐渡の北一輝、もうすこし遡ると河井継之助なんです。もうすこし最近になってくると、田中角栄になるわけで、つまり、郷土の偉大な人というんですか、郷土の偉大な作家というんですか、そういう偉大な人といいましょうか、そういうニュアンスがあるんです。そういうのと違うわけですか。

(長野さん)
 ぼくは違うとおもう。太宰に限っては違うような気がするんです。

(吉本さん)
 ぼくはわからないので、つまり、『津軽』という作品も、ぼくの中でもそんなにたくさん、良きにしろ悪きにしろひっかかってくる作品じゃないんだけど。たとえば、奥野さんなんかはそう言っているんだけど、太宰の文体というのを、二人称に対して語りかけているような文体の位置があって、それは津軽伝統の何とかだって言ってましたね。それのあれを無意識のうちに受けているんじゃないかというような言い方をしています。それだって、誰に対してもできるのです。宮沢賢治に対してもできますし、できるわけだけれども。そういう意味あいで。

(長野さん)
 言っているわけじゃないです。たとえば、萩原朔太郎です。それから宮沢賢治は花巻、岩手県ですね。太宰はここだと、わたしは3つとも行ったことがあるわけですけど。タクシーなんかに乗ったときの印象とか、いちばんびっくりするのは宮沢賢治ですね。宮沢賢治はそばを食ってても賢治先生ですからね。萩原朔太郎はそういう意味ではすごくかわいそうというか。

(吉本さん)
 でも、いくとちゃんと記念館みたいなものが。

(長野さん)
 ありますけど、そういう意味では郷土では変わった…。

(鈴木さん)
 そういうポピュラリティというのはない。

(吉本さん)
 つまり、郷里をいかに捨てたかとか、いかに郷里に埋もれたかというのが、いかに捨てたかという、どういう捨て方をしたかという、そこの構造の問題なんでしょうか。

(長野さん)
 それもあるでしょうけど。たとえば、宮沢賢治の音楽というのは、ぼくは、賢治はすごく好きですけど、賢治の音楽と比べると、萩原朔太郎の音楽というのは、おそらく賢治が残したものは多いです。譜面とかですね。しかし、本格的に音楽を、興味を持ち勉強したというか、そこに心酔したのは、遥かに萩原のほうが大きいし、具体的な言い方をすれば、群馬交響楽団とかをつくった元なんですね。宮沢賢治はじゃあ何をつくったかということなんです。
 そういう言い方をしますと、実際に残しているものがあるわけです。実際に残しているものが重要だとおもうのです。郷土が持ち上げるというのとはちょっと違うとおもうのです。郷土の人から愛されるということと、実際に、郷土に残すということは、意味が違うとおもうのです。そういう意味での違いを申し上げたいわけなんです。
 だから、太宰の『津軽』といった場合に、実際、ここに学生がたくさんいますけど、べつに太宰治なんて読まなくていいんだというところがあるとおもうんです。知らなくてもいいと、べつに郷土の英雄でもないと、演習なんてやってたらそうおもいますね。女の人をとっかえひっかえ何人殺したんだという、冗談じゃないんだけど、そういうことを言うのはいるんだけど、死んでくれるわけだから、ちょっと意味が違うのかもしれないけど、殺すわけじゃないけど。そういう意味で津軽というトポスを太宰というのが、私は少なくともそういうふうに見ています。見えちゃいますね。私はちなみに九州ですけど。

(質問者A)
 太宰に津軽の特質があるということですか。

(長野さん)
 全然そうじゃないです。津軽を津軽たらしめたのが太宰治ということです。それはフィクションの問題とからんでくるかもしれないわけです。それはからんでくるとおもいます。しかし、津軽を命名したのが太宰であって、津軽から太宰が命名されたのではないと、ようするに、そういうことになります。
 しかし、それが非常に複雑なところで、太宰は津軽から命名されたように作品を書くわけです。いかにも書くわけです。そのことが津軽を命名するという太宰の行為に現実に及んでいるという、その構造の複雑さというか、そこに太宰らしさというのがすごくでているような、つまり、津軽を食い物にしていないという、逆に命名しているという感じが、私はすごくします。
 ここにいて、5年ばかりですけど、実際に津軽に私が来て、津軽に太宰の風景があるかというとないんです。津軽には太宰の匂いはないんです。私が小説を読んだ感じからいきますと、むしろ宮沢賢治の北方の気圏みたいなものは、ピンピン感じるわけです。だから、賢治は非常に心酔したわけです、こちらに来て。見えないものが見えたことがあるんです。そういう意味で太宰というのは哀しいなというか、そこが太宰だろうという気がするんです。

(質問者B)
 いま先生のおっしゃった、津軽を太宰のほうで命名したということは、どういう意味でしょうか。

(長野さん)
 アイデンティティです。津軽というのは、じぶんのルーツを探るみたいなかたちで、『津軽』という作品が書かれたみたいに一般的に言われているわけです。故郷から出てしまったというか、逃げてしまったというか、追い出されたというか、そういうふうな意識で言われているわけです。それが長い曲折の間でようやく故郷に帰ることになったと、そういう思いがあのなかに描かれるわけでしょ。そうすると、自己確認の書という、そういう言われ方をされているわけです、一般に。
 ぼくはちょっと違うんじゃないかと思うんです。学生なんかも、なかなかいい論文が出てますけど、そういうふうな見方をした学生もいましたけど、ぼくはそちらの構造のほうがほんとうに正しいとおもいますし、自己確認というふうなそういうものとは微妙に違うものがあるようにおもいます。私がいう命名というのはアイデンティティの問題です。

(質問者B)
 津軽に来て、じぶんがじぶんであるということを確認したということですか。

(長野さん)
 違う違う、ぜんぜん違う。つまり、あなたがどこの出身かわからないけど。

(質問者B)
 ここの出身なんですけど。

(長野さん)
 だから、あなたは出身地がここであり、そして、家は何々という名前だと、それがあなたのルーツでしょ。つまり、命名されているわけです。あなたの家が大きければ大きいだけの命名のされ方があるわけです。つまり、家があなたを命名し、あなたの学歴もそうです。すべて、じぶんを命名するものがたくさんあるわけです。
 ところが、そういうかたちをしますと、太宰はそういうものを失ったから、逆に、故郷に求めていったというのではなくて、ぼくはあの作品が書かれた動機の根本みたいなものは、動機というのはちょっとよくないかもしれないけど、むしろ太宰が前にせり出している感じがするのです。構造としては引っ込んでいるんだけど、どちらかというとせり出している。故郷を愛してしょうがないわけです。愛しているといったら俗っぽいんだけど、そういうふうなネーミングの仕方、私が言いたいのはそういうことなんです。

(菅谷さん)
 こういうことじゃないかとおもうんです。つまり、近代ということについても言ってもいいし、現代ということについて言ってもいいだろうとおもうんだけど、それがそれぞれの地域の問題として、その地域がどういう地域であれ、あるいは、現代の構造を獲得するかといったときに、近代以前の、前近代でもなんでもいいけど、それを誰がどうやってぶち壊して再編成してみせるか。それは社会的にやられる場合もあれば、政治的にやられる場合もあれば、あるいは、文化的にやられる場合もあるんです。
 たとえば、こういう例があります。石川啄木という人は盛岡の郷里をぶっ壊しちゃっているわけです。自他ともに、じぶんの一家がそこで壊れちゃうわけですから、でも、石川啄木が実現したのは、東京という、そういう近代性だとおもうんです。それが何年か経って、やはり、同じ地域からでてきた宮沢賢治という人は、やはり、盛岡、花巻、あの辺のあたりのある時代をぶっ壊すことによって、宮沢賢治がぶち壊したその分だけ、たとえば、花巻、盛岡という地域は、ある現代性なり、近代性をいまになって獲得することができるようになっている。そういう場合に、岩手県の現代にとって、石川啄木と宮沢賢治とどちらが必要だったか、石川啄木はいらなかったかもしれない。だけど、宮沢賢治というものは不可欠なんだ。そういうフェイズというか、イメージというものを何か確保していなければ、その土地の現在性を獲得することはできないと、いまの時代に一緒にやっていけない。そういう問題が太宰治にもあったんじゃないか、太宰治のほうが、それはずいぶん時間がかかったとおもいます。つまり、太宰治がじぶんの家というものをぶっ壊していくわけでしょ。
 それから、太宰治自身が、戦後の土地改革問題やなんかで、完全に近代性を失ってしまう、そうすると、そういうものを含めた、津軽という土地の現在性がどこで回復してくるかという、それは社会的にいえば、弘前-盛岡と直通になるとか、でもまだ新幹線は回ってこないとかいうことがあると同時に、しかし、それでもなおかつ、弘前なら弘前という土地の現在性というのは、ぼくにはわかりませんけど、獲得するための指標、インデックスになるという、そういうものの不可欠さというのは、それぞれの土地にあるんじゃないかという気がします。
 そうすると、たとえば、金沢という町は室生犀星を現在として、ほとんど必要としていない。それから、泉鏡花という人を金沢の町は必要としたかというとそうじゃないです。やっぱり、泉鏡花というと、明治の30年代か、40年代の東京に必要な人だったというふうにいえるんです。これは江戸っ子以上に江戸っ子的というのが、泉鏡花に対する評価です、その後の江戸っ子というのが泉鏡花の時代にはなくなっていっちゃう、そういう江戸時代の江戸っ子が。
 そういうふうにしてみると、それぞれの作家が、じぶんの郷里なり、生まれ育った地方の現在、まさにいま1980年代の現在、どういう評価のされ方をしているかということは、その地域社会がもっている現在性というもの、それぞれの対応の仕方という問題なんじゃないでしょうか。長野さんが言おうとしているのは、そういうふうな意味じゃないですか。

(長野さん)
 北方の問題とは関係ないのかな。

(村瀬さん)
 口火を切ったから、津軽に、責任を感じているんですけど、ぼくは、これは映像の問題で津軽を出したのは、生と死の、吉本さんの最初の話で、境を超えやすいというか、その問題を、ぼくはとにかく映像を信じやすいというか、実体が信じられないというか、その問題として受け止めるわけです。だから、実体が信じられないというのが、母に育てられないというか、母がいなかったというか、そういう体験が映像を信じさせるようになっていくのかどうかということを、再度問うたわけです、
 ぼくは。その、映像しか信じられない、実体がわからないというか、信じられないという体験をじぶんのなかで補足していくために、津軽の問題に入っていったとおもうんです。ところが、あの作品では津軽が実体になってしまったんじゃないかなと僕からしたら。ほんとうはもっと映像の問題として『津軽』は取り上げられなければあかんのかなとおもったんです。それは吉本さんどうですか。

(吉本さん)
 そういうふうに言うなら、すこしわかるような気がするんですけど、なんとなくもう一枚、皮を剥いでくれという、聞いていて感じます。

(質問者B)
 いまの菅野さんのお話を聞いていても、長野さんのお話を聞いていても、ちょっと違和感が残るのは、どうして津軽にこだわるのかとおもうのです。太宰治のいちばん本質的な問題というのは、吉本さんの言葉でいえば、個人幻想、対幻想、共同幻想とあるわけです。津軽というのは、郷土というのは、共同幻想の問題だとおもうのです。さきほど菅谷さんのなんでしたっけ。居心地の悪さじゃなくて。

(菅谷さん)
 いたたまれなさ。

(質問者B)
 それがあったんですけど、それがどうしてかというと、やっぱり太宰治には、本質的に言ったら、個人幻想しかなかったんじゃないかとおもうのです。ようするに、家庭の問題というのは共同幻想の問題でしょ。

(長野さん)
 家庭がですか?

(質問者B)
 そうです。違います?吉本さん違いますでしょうか?

(吉本さん)
 ぼくの言葉でいうと対幻想です。

(長野さん)
 吉本さんの言葉だと対幻想になっちゃうんだけど、非常にわかるのだけど、ちょっと違うとおもうんだ。共同幻想というかたちで、そこに持っていきたいわけですか。

(吉本さん)
 太宰治の場合、あなたのいま言った言い方でいえば、じぶんのことだけを考えているということはできないと言っているんです。あの作品の中で、やっぱり、じぶんの使命ということを考えると言っているんです。それで、先ほど言いました、それなら人を指導するというのは柄にないことだから、じぶんは滅亡といいますか、滅びゆく人間だというふうに、そういう指摘といいますか、そういう使命というのをじぶんに課さざるをえないという意味あいのことをいっています。個人にはなりきれないということ。

33 人を信頼することは悪なりや?

(質問者A)
 吉本さんは人間を信じますか?

(吉本さん)
 抽象的にそういうのは困る、そういう意味あいでの人間というのはないんです。つまり、ヒューマニズムという意味あいでの人間というのはそうそうないんです。たいてい、そういうのをいけしゃあしゃあと言っているのは、嘘をついているとしか思えないところがありまして、どんなふうにじぶんがそれに近い振るまいをしている場合もそうで、だから、人間って一般を信じるかって、誰それを信じるかみたいに、そうういことの問題ならあります。この人を信ずるとか信じないとかありますけど。人間一般を愛するかとか、信ずるかとか、それはちょっと。

(質問者A)
 太宰の問題にあったとおもうんです。信仰とかそうじゃなくて、もし信仰があるとすれば、人間を信じられないから、信仰をもちたいとか、そういうことが太宰治にはあったんじゃないでしょうか。

(吉本さん)
 そういうことよりも、あなたの言いたいことを太宰治流の言い方をすると、ようするに、人を信頼することは悪なんだろうかということは言っています。つまり、あの人の主観の中では、人というのは誰かの奥さんであったり、女の人であったり、誰それの友達であったり、先輩であったりするわけです。そういうのを信じたんだけど、おれは裏切られたとおもっているわけです、主観のなかで。ほんとうに裏切りかどうかは調べてみないとわかりませんけど、そういうふうにおもっているわけです。
 だから、そういうのが積もり積もってじぶんのパターンになっていると、太宰治のなかで、それが蓄積されているから、だから、それでおれはいつでもそうだと、おれは信頼していたんだけど、いつでも裏切られてというパターンがじぶんのなかにあるという、だから、そんなに人を信じることが悪なのかという問いはしています。

(質問者A)
 『黄金風景』の場合は、つまり、信じられたときに書かれたものじゃないでしょうか。『黄金風景』とか、『満願』でもいいです。それから、後期に書かれたのは、『尋ね人』みたいなものでもいいですけど、ああいうのは実に人間というものを太宰は信じてもいたわけです。

(長野さん)
 つまり、そこに表現の問題が入るわけです。信じられて、コミュニケーションできたって、そうじゃなくて、私は噛み砕きたいわけです。そういう信ずるとか、あるいは、コミュニケートできるということは、逆に表現を必要としないところもあるわけです。あえて、それを風景化することがあるかみたいなことがでてくるから、それは一概にその問題ではなくて、おそらく中期の問題であるわけでしょ。そうじゃないですか。『黄金風景』の。

(質問者A)
 時代は中期の問題です。太宰の甲府に移った時です。

(長野さん)
 それがさっき吉本さんがおっしゃった、2つの転機の中に入っていたとおもうんです。初期から中期への移行という問題の中で、中期の作品ですね。それと戦争という問題があるわけです。その2つの問題だとおもうのです。それが他人を信じられるかという、信じられたから『黄金風景』を書いたと。

(質問者A)
 いやいや、信じようと努力もしたし、また、すこしは信じられるような状況というか、環境が生まれたんだというふうに思うんです。だから、飛躍するようですけれども、芥川が『蜜柑』を書きましたね、あれと『黄金風景』というのはすごく似ているとおもうんです。

(長野さん)
 そういうのはわかるんですけど、信じられるとはちょっと違うような気がします。

(鈴木さん)
 大学の教授っぽく整理しますと、太宰の『黄金風景』とか、『新樹の言葉』とか、それから、『花燭』とか、あのあたりでまとめてみると、それまでの故郷というのは、飛び出せるものですよね。たとえば、太宰が東京に出てきて、東京と東北の地方性みたいな問題になるかもしれないですけど、人でなしみたいなふうに自分を書きますよね。だけど、東京で人でなしみたいのがいっぱいいるわけでしょ。浅草あたりへいったって。
 太宰に人でなしという声が聞こえてくるのは、『津軽』から聞こえてくるんじゃないかな、単純にいうと。だから、甲府でも、『黄金風景』では、女中さんですよね、前の、それで立派な人になったなんて言われてなんかあるんだけど、いたたまれないけど、その作品としては救われちゃうんじゃないですか、主人公は。太宰が救われるかどうかは別ですよ。それから、甲府行ったやつの『花燭』でもやっぱり、乳母の息子が、血の兄弟じゃなくて、乳の兄弟で、最初どうしようとおもったけど、どうしようもなくなって、だけど会ってみて、一緒に飲んだくれて、やっぱりこの人たちはいいなという、新しい世代というのも重なってきますけど、そういう太宰の中で、少しずつ郷里と和解しているんです。したいんです、やっぱり。いきなりじゃないです。甲府に出て来た人と会って、わざわざ救われちゃったり。

(長野さん)
 でも、たとえば、『東京八景』の中で、人間の転機というのはわからないという、吉本さんも『悲劇の解読』の中で、黙々と整理、人間は自然であるということだけがはっきりと見えてきて、そして、立ち上がるという、ようするに、あれは小山初代とあの後ですよね。ようするに、嵐のように過ぎた何かだとおもうのですが、それが急にある一点から、急に霧がさめていくように、霧が消えていくような感じで、そういうような感じで中期が始まっているんです。
 もうひとつ重要なのは、『富嶽百景』の中で、単一表現という言葉が使われるわけですけど、それこそ今日の六人称ですよね、じぶんがこういう小説を書きたいんだと、一言で人間の何かをうがつような表現はないものかと、それが単一表現だと私は考えている。つまり、方法の模索なんです。小説の方法の模索がそのまま作品になっているわけです。私なんかは一時に来たような感じがするんです。

(鈴木さん)
 中期は中期の問題で霧が晴れるように、あってもいいかもしれないけど。

(長野さん)
 もちろん、完全に晴れないわけです。

(鈴木さん)
 いいんだけど。郷里の問題に関しては、手続きを踏んでいるんです、太宰は。それだけ違う、異質のものとして残っているんじゃないか。だから、『津軽』というのを、そんなにいいとおもわないですけど、そういうところが前に出るわけでしょ。長野さんは太宰が前に出過ぎていると言うけど。ようするに、はいしゃいでいるわけですよね、一生懸命。

(長野さん)
 『津軽』がですか。

(鈴木さん)
 『津軽』という作品の中で太宰ははしゃいでみせているわけでしょ。じぶんに対する演技かもしれないし、そういうところがあるんじゃないかとおもいますけどね。

(長野さん)
 そのへんは、おもしろい問題だとおもうのですが、すこしこのあたりに集中していますので、そのほかどうぞ、そこから手が上がりましたので、近いところのマイクを使ってください。

(質問者C)
 写真の問題が出たんですけど、写真を人間の心的作用の比喩みたいにして使っているわけですけど。それだけじゃちょっと不明瞭だとおもうんですけど。どういった意味のものですか。

(村瀬さん)
 太宰と同世代のロラン・バルトというのがいるんですけど、同世代というか5つぐらい年下なんですけど。彼も写真論をたくさん書いているんです。たとえば、一番新しい『明るい部屋』という写真論がありまして、あのなかに撮影される人という一章があるんですけど。あのなかで写真を前にすると、人間は四人になるという言い方をしているんです。
 ひとつは自分がカメラの前でポーズをとるということです。それからもうひとりは、じぶんがそうなりたいじぶんにポーズをとる、もうひとりは、写真家がこうしなさいと言ってポーズをとるんです。もうひとりは、写真家がこうであってほしいとモデルに望む、そういう四人になるんだというふうに言っているんです。
 だから、カメラを前にすると、人間は4つに分かれてしまうという、言い方はそうなんですけど、何かカメラを前にして、人間が実体を失うというか、どれかの形をとらざるをえない、それがポーズであると、そのポーズの意識というのは、太宰が早くから持っていたもので、彼は常に何かに見られているというか、その見られている前でポーズをとらざるをえなかったという意識があったとおもうんです。それがひとつの彼が映像にこだわる、ひとつモチーフやとおもうんです。
 誰かに見られている誰かというのが、いまの話では津軽であったかもしれないし、ある時期には神であったかもしれないとおもうんです。だけどやっぱり誰かに見られているという意識が常にあったというのが、それが彼の、ぼくは映像意識というか、原点にあるとおもうのです。それはひとつなんですけど。
 今日こだわったのは、やはり吉本さんの話で、実体ではなく映像を信じる原体験が母の体験というか、それがないところで映像にのめり込んでいくという体験が強化されたんじゃないかなというのをおもったんです。だから、単に母親に育てられなかったとか、乳を飲ませてもらえなかったということじゃなくて、そういう体験を誰かに強化されるというか、つまり、おまえは乳を誰かに飲ませてもらったとか、叔母が母親だとか、そういういろんなことを言われて、そのイメージがじぶんのなかにできてきて、実体としての母を失ったというか、それがどんどんどんどん彼をイメージの世界へのめり込ませていったんじゃないかと、イメージが実在なんじゃないかというか。
 その観点は、吉本さんがマス・イメージという、マス・イメージというのは百景のことなんです。百景というのは、吉本さんの言葉でいえばマス・イメージになるとおもうんです。幻想という言葉は、イメージの問題で、吉本さんが3つの幻想を分けられたというときに、実体というのが想定されていないんですね。その方法というのは、根本にイメージがあるというか、実体はないんだというふうな意味あいを込めて、ぼくは言われているというように、その問題意識というのは、いまのハイ・イメージに繋がっているとおもうんです。
 それは太宰の方法意識とすごく似ているとおもいます。とくに現在はイメージを論じる百景、それから八十八夜という言い方を太宰はしていますね。八十八夜であったり、ああいう言い方というのは、まさに百景の言い換えなんですね。マス・イメージの言い換えであるんですけど。そこらへんがいま、写真論と写真が太宰からでてくるモチーフやとおもって言ったんです。

(吉本さん)
 すこしわかってきました。

(質問者C)
 太宰の自意識というのか、そういうものだとおもっていたんですけど、だから、無機的な方向へ進んでいく。写真というのは結局、絵とかよりも無機的だとおもうのです。きめの細かさでも。

(村瀬さん)
 ぼくはイメージの比喩みたいな感じで、イメージのひとつの形として、写真というのを出したんです。ちょっと違うかもしれないです。

(菅谷さん)
 つまり、吉本さんは、「映像」という言葉と「イメージ」という言葉をかなり厳密に区別しておっしゃっているとおもうんです。たとえば、映像というときは、テレビの画面は映像というんですが、テレビの画面の映像のように、たとえば、文学作品が映を出せるかといったらそうじゃないわけです。言葉のイメージというものは、それよりは不利な条件というか、映像になりきれないものというふうに考えてるとおもうんです。
 それともうひとつはイメージというものはどこから発生するかというと、そのものが目の前にないというか、体験がなければイメージというのはできないんだというのは、これはもう随分早くから吉本さんが『言語にとって美とはなにか』の中でおっしゃってます。
 そうすると、ですから、いま村瀬さんのおっしゃっているイメージというものの、つまり、原体験のようなものが、実在というよりは、イメージだけしか信じられないという、そうすると、あるものがない、もっというと、人と人の関係の中で、ある人がいないという体験が非常に深く無意識的に深くなければ、それはそういう資質や性格にならないとおもいます。
 『津軽』という作品がそれほどのものではないというふうにおもうのは、太宰治は同じことを三度書いているんです。それは『思ひ出』の中で書いて、それから、甲府時代に『新樹の言葉』というのがあります。そして、三度目には『思ひ出』を引用しながら、『津軽』で、昔、じぶんを親身になって見てくれた女中さんに再開するという、そうすると、女中さんに再開するという話が文学的なイメージとして、より真実味があるか、それから『新樹の言葉』という作品の中では、その女中さんは死んじゃったことになっているんです。それで、じぶんと乳兄弟にあたるような兄妹が、兄と妹が、甲府にたまたま住んでいて、そうすると、じぶんを育ててくれた女中さんというのは、これは死んだ状態になってあらわれるみたいだけど、死んだ人がまるで目の前にいて、亡霊になってそこにいるようにして、とても酒なんか飲んじゃいられないなんて、重要なことは『思ひ出』の中では、その女中さんがあるときふいにいなくなっちゃったと、それだけしか書いていない。
 すると、この『新樹の言葉』の中で、それと似た話をもう一度書くときには、違うんです、イメージが。それはいなくなっちゃう晩に、どうやら夢の中にその人があらわれてきているというような、そして、冷たいものが顔に触ったというんです、これは何でしょう、涙かしらね。そして、それで起きろと言われたけど、どうしても眠くて起きられないで、次の日の朝いなくなっちゃうと、そうすると、そのときに、「つるいない、つるいない」って叫ぶんですね、「つるいない、つるいない」って自分が叫んだことを小説の中に書けたことで、初めて、じぶんにとって切実なある人がいなくなったってことを発見したんだとおもう。
 そして、何を発見したかというと、じつは、女中さんがいなくなっちゃったことによって、じぶんにとって、じぶんの母親というのは本質的にいないも同然のように、じぶんの幼児期には存在していたという、そのことを、現実にはいるんだけど、母親を生まれながらにして失っている、いなくなってしまっているということに、少なくとも自覚の上では、この時期にはっきり気がついたと、そこのところは、作家としては、太宰治のひとつの厚みがはっきり増えた時期ということで、甲府時代というのは不思議な時代だという気がするんです。

(鈴木さん)
 ちょっとわからないんですけど。『新樹の言葉』の中では、乳母をそれまでじぶんの母親だと思っていたとはっきり書いているわけですね、だから、母はいたわけですね、その主人公にとっては、それで、夢枕にほんとうに来たかわからないけど、もうひとつ大事だとおもうのは、あの作品の中で、もしあのとき自分が起きていたら、どうしたのかという、おそらく、ついていっちゃったか、つるさんが連れていったんじゃないかという、それが残ってしまった、じぶんが置いていかれたということです。やっぱり肉親の母親じゃなくて、二重の疎隔感があるわけでしょ。母親から離れて、ほんとうのじぶんの母親だと思っていた人がいて、その人がじぶんを捨てて、あるいは、じぶんはそれから引き離されたということを太宰が書いているわけです。それのどこが厚みなのか、作家としての厚みということです。

(菅谷さん)
 だから、ある人がいないということを、ほとんど無意識にふれるようなかたちで発見したという、それはじぶんにとって本質的にいなかった、あるいは、いなくなった、それは女中さんじゃなくて、母親だったということを、それを自覚したんじゃないかと、そのことで生きていく標みたいなものがひとつできたとおもうんです。むしろ生きていく力になったんじゃないかと。

(長野さん)
 ひとつおもうんだけど、ぼくが『津軽』の話を言ったのを誤解したら困るんだけど、あれが優れた作品だと言っているんじゃないです。優れた作品と意味のある作品というか、重要な作品というのは意味が違いますから。

(菅谷さん)
 『津軽』というのは、なんとか小説にしなきゃいけない作品なんです、成り立ちからいうと。ところが、なかなか小説になりきらない面があります。小説に確実になっているなとおもうのは、接待している人が呼んできて大騒ぎするじゃない。いろいろしゃべりまくって、そこのところで、しゃべりのおもしろさと、それから最後は、むかしの女中さんに再開できる。それは、ここにいるのに見つからないという焦りが運動会の場面で出てきますけどね。それでなんとか小説ができあがって、これは一篇つくりあげたなという感じが太宰にはあったのかな。

(長野さん)
 ここいらでちょっとどうですか。コメントを。

(吉本さん)
 コメントなんかないですよ(会場笑)。だんだん事態がはっきりしたというか。

34 再び、文学すなわち倫理ということ

(長野さん)
 どうでしょうか、その他、かなり質問したくても遠慮しているというか、決断がつかないでいらっしゃる方も多いんじゃないかとおもいますが。まだ質問していない方のなかでいらっしゃいませんか。

(質問者D)
 第一部のほうの講演の内容に関しての質問ですが構いませんか。第一部の講演の中で、意味の流れを格子目でせき止めるというようなことを、つまり、作品の最後の数行について、『走れメロス』について解説いただいたんですが、どうもよくまだわからなくて、というのも『走れメロス』のあそこのところで解説されたもので、ひとつはイメージ論のなかでこだわられている作品の入口と出口の問題、こういった問題とどういったかたちで関わってくるのか、そこのところのイメージがまだよくつかめないんですが。もし、よろしければ。

(吉本さん)
 そういう入口と出口というふうにいえば、女の子がマントを黙ってあげたというところの最後の数行というのが出口になるんじゃないでしょうか。それまではぜんぶ入口じゃないでしょうか。だから、それで数行で出ていってしまうということになるし、ぼくが言いたかったのは、格子、グリッドみたいなのがあって、せき止める作用をしているのは、この人の芸術が倫理だと考えているそのことなんだといったのは、つまり、『走れメロス』という作品を物語として読めば、あそこの数行というのはあったって、なくたって、大局は決まっちゃっているわけです。
 そういう意味合いでは、物語の流れとしていえば、どうでもいいものなんだけど、太宰治にとっては、あれがないとどうしても芸術にならないんだよ、つまり、おれが考えている文学にならないんだというようなことが、ぼくはあるとおもうんです。
 だから、そこは出口としてくっつけるという、あれをくっつけざるをえないところというのが、太宰治の文学が倫理だと考えているそのことなんじゃないかなと、そのことがなかったら、一般的に言われているように、文学が倫理的な内容を書いているときには、倫理的だと言うというふうに言うのと同じだということになってしまうとおもうんです。太宰治の倫理という意味あいも同じになってしまうとおもうのだけど。
 ちょっと違うんだという、文学が即ち倫理なんだと考えていることは、ちょっとそれとは違うことなんだとおもうんですけど。あれは二十代の時にやたらに感心したんです。この数行というのは、つまり、こういうのがわかるとファンなんだぞという、わからなければファンじゃないという、そういう感じくらいに感心したのです。

(菅谷さん)
 皆さんご存じかどうか知らないけど、この『走れメロス』というのは、問題になりかけたことがあって、それはどういうことかというと、太宰治が教科書に初めて採用されたのは、ぼくが22歳ぐらい、だいたい1959年ぐらいだったんじゃないか、高等学校の教科書に『走れメロス』が採用されて、ぼくはそれを教専かなんかにいって高等学校で教えてあげていたり、そのときにおもったのは、太宰も教科書に載せられたらおしまいだよって、おもったんです。
 それが今度は中学校の教科書に採用されることになったら、つまり、吉本さんがおっしゃる最後の三行、つまり、まっ裸の青年がいて、そこに女の子が赤いマントを着せるということ、まさに教育的配慮でそれを削っちゃうかということで大騒ぎになったことがあるんです。つまり、教育的に外れて読めばその三行を削ると、だけど、非教育的ですね、教育から外れて読めば、その三行を、つまり、ぼくらは教科書に載らないからこそ太宰治を読んでいたという、そういうつもりで読んでいけば、その三行を削られたら太宰治はどこにもいなくなっちゃう。

(長野さん)
 それで『富嶽百景』だとおもうのです。ようするに、富士には月見草がよく似合うという、月見草の部分がまさにいまおっしゃった数行だという、そうしないと絵にならないということがあるわけです。絵になるというのは言い過ぎかもしれないけど、じぶんの芸術にならないというか、そういう感じはあるとおもうのです。

(鈴木さん)
 裸というのが意味があるんですね、裸を包んでくれる人の登場、それを書かないと、太宰治の文学にならないというのがわかるんです。絵になるとかならないとか言われちゃうと、ちょっと違うなと。

(長野さん)
 絵というのは、『富嶽百景』の場合、さきほど写真のあれから展開した言い方で言っているわけで、ようするに、文学にならないというか、芸術にならないといったほうがわかりやすいとおもうのです。

(質問者B)
 『悲劇の解読』のところで、吉本さんはたしか同じところを取り上げられて、あそこで作品に肉体が与えられたと書かれていたとおもうのですけど、それはどういうことなのでしょうか。

(吉本さん)
 それも同じことです。いまのことです。つまり、彼が考えている芸術というもの、即、倫理だという、イコール倫理だというのが、いまあなたのいう肉体という意味あいと同じことになるんじゃないでしょうか。

(質問者B)
 倫理と肉体が同じなんですか。

(吉本さん)
 そういうふうに言ったら、問題が外れてしまうでしょ。あなたの質問の要旨とも、ぼくが言った容姿とも違ってしまうので。

(鈴木さん)
 ストーリーのお話の部分に血が通ったと言ってもいいし、息づいたと言っても、太宰のものになったと言ってもいいわけでしょ。そういうことでしょ、肉体ということは。

(吉本さん)
 それが芸術を倫理にしたというんじゃなくて、芸術=倫理という、即倫理といいましょうか、太宰治の中ではそうなので、そういうことがその数行にあらわれているということになりそうにおもうんですけど。あそこのイメージというのは、ものすごく鮮明だとおもいます。数行のイメージというのは。

35 津軽・津軽人とは何か

(吉本さん)
 津軽というのはどういうところなんですか。

(長野さん)
 津軽人に聞いているわけですか。

(吉本さん)
 そうです。そうです。なにか特別なところですか。

(長野さん)
 特別ではないとおもいます。どこにでもあるところだとおもいますけど。

(質問者A)
 『津軽』の中でも、太宰は魂の話をしようというふうに言っているんです。だから、それはべつに日本でも、世界でも、どこでもよくて、たまたま太宰の故郷は津軽であったから、そこの人々の魂の話をしようというので書いたんだとおもうのですけど。

(吉本さん)
 そういうふうに書かれると、津軽の人は興奮するわけですか。

(質問者A)
 ぼくは秋田ですからわかりません。

(長野さん)
 秋田だからわからないそうなんですけど、津軽の人がいましたら、申し訳ないんですけど。わたしも津軽の人は結構多いとおもうんですが、そこに南部の人がいますけど。どなたかいませんか。

(質問者E)
 それは結局、地理的な質問なのか、津軽人の気質ですね、それに対するクエスチョンなのか。答え方がかなりむずかしいです。

(吉本さん)
 どっちで言ってくださってもいいのだけど。たとえば、沖縄の人といった場合には、日本中どこだって同じだというのと、それから、人間。日本人は同じじゃないかというのと、それから、ちょっとだけ違う、もうひとつ、プラスアルファみたいなのがちょっとだけつきますよね。つきませんか。ぼくはつくんですけど。津軽といった場合、そういう意味あいを含みますか。

(長野さん)
 沖縄の意味はわかりますか。

(質問者E)
 私が何度かいったときには、居酒屋に入るんですけどね、そこで、内地の人と本土の人はわかるんです。雰囲気で。食べ物なんですけどね、山羊の刺身、それから、豚足、これを食べないと、話の中に入れないわけです。先生がいまいう津軽とはなんですかというのは、それを含むわけですか。

(吉本さん)
 それを含むわけです。そういうことです。

(質問者E)
 それでしたら、ねぶたと弘前の桜まつりなんかの夜の騒ぎですね。あれを一度ご経験なさると。

(吉本さん)
 それは違うところでは経験できないような何かがありますか。

(質問者E)
 できないとおもいます。

(吉本さん)
 そういうことを聞きたかったんです。

(質問者E)
 もう終わりましたけど。弘前城の夜桜を見て、笛と太鼓、それから、ねぶたですね。いまは廃れましたけど、津軽凧のうなり、経験していただければわかるんじゃないかとおおいます。

(吉本さん)
 それは初めて聞きました。

(長野さん)
 いまのおっしゃっていることは、たぶん弘前城の桜を言っているんじゃない、それから、ねぶたを言っているんじゃない、おそらく、騒ぎ方というか、異様さというか、それをたぶん言ってらっしゃるだろうとおもいます。

(吉本さん)
 それはぼくの聞きたいことだったんです。ぼくは盛岡に行ったときに、ぼくは山形県の米沢市に、学校はそこだったから、あそこは雪がすごく降るところで、冬はなんとかでとか言ったら、冗談じゃない、あれは東北のうちに入らないんだというわけです。つまり、あれは北関東だと、ほんとうの東北というのはそういうんじゃないんです、こう言われたんです。盛岡で。だから、えーっとおもって、これは風土の問題で、ああそういうことがあるのかというあれがあったんですけど。
 いま聞きたいのはそうじゃなくて、津軽というのは、津軽人でもいいですけど、とくに太宰治がかかわって、そういうことがさっきでてきたんですけど。そういうことを殊更いうことに何かあるのかなあというのは、ほんとうはよくわからなかったんです。

(長野さん)
 でも殊更なことがあります。

(吉本さん)
 ああそうですか。

(長野さん)
 青森県の中でも南部と津軽というのは、八甲田山を境に分かれるんですけど。年に何回か、必ず、津軽人と南部人がでて、民間の放送で南部と津軽の違いと、これは必ずやるわけです。そういうのを私は見ていまして、びっくりしたわけですけど。そういう意味ではいつもそういうのを確かめているような、そういうところがあるとおもいます。
 そういうところは私自身の好みではないですけど。そういうふうじゃないかたちで、私は南の人間だから、じぶんの故郷とか、そういうものの風景とかと比べてみて、違いというのは言えばあります。何かあるような気が、太宰の『津軽』じゃないけれど、そういう気はしないではないですけど。

(質問者F)
 いつか吉本さんが清水さんかなんかとの対談のときにおっしゃったことなんですけど。米沢の体験が宮沢賢治の童話を理解するのにたいへん役立ったというふうにおっしゃられていて、それは、ぼくがとても感激したことでして、柳田国男論で盛岡にいらしたときに、岩井くんという、そこで組織をした人が、吉本さんはもしかしたら津軽のほうに行くかもしれないから、そのときはよろしくというお話をいただいたことがあって、心待ちにしていたんです。そしたら、今日みたいな会があって、いらしていただいて嬉しいのですけど。
 先ほどの津軽の資質とおっしゃったこととも関連するのですが、今日、みなさんからあまり高い評価をいただいていない『津軽』、太宰の『津軽』ですけど、あの『津軽』のなかの運動会の場面ですね、戦争中に運動会の場面で、小屋掛けをしたり、いろんなことをして、おにぎりだとか、いろんなものを持ってきて、いまの桜の季節ですと、イカ焼きとバナナとしゃこかなんかでしょうけど、運動会の場面で華やかに宴会をしているわけです。それが戦争中の場面とは思えないという、一気にそこで盛り上がる場面があるんですけど、私はとてもあれが好きでして、吉本さんがおっしゃっている津軽的というのは、もしかすれば、あのことなんじゃないかという気がして、ひとこと。

(長野さん)
 いかがですか。おわかりになりましたですか。

(吉本さん)
 ああそうかなんて。

(質問者G)
 さっきから聞いていると、この企画、太宰の津軽論なのか、津軽の太宰論なのか、わからないような感じで。さきほどから一、二の津軽論、太宰の中における津軽論、津軽の中における太宰とかいうような、津軽というのはひとつの風土ですね、風土との兼ね合いでもって読み取っているようで、たとえば、弘前の観桜会を見てくださいと、桜祭りを見てくださいと、それから、いまのは運動会を見てくださいと、そういうふうなかたちで、津軽という風土を地域というか、ローカルというか、統一したかたちで捉えているんですけど。
 わたしは太宰を論じる場合、それは、太宰はたまたま津軽に生まれたので、これは、べつに津軽に生まれたから地主の子に生まれたわけではない、どこの地域にも、当時の社会では地主はいたわけです。それから、たとえば、乳母とか、そういうようなことだって津軽に生まれなくたってできるわけです。しいて、そういうようなローカル性をとやかく言うことはないとぼくはおもうのです。これにポイントを置いて、論を進めても意味はないとおもうんです。
 わたしも津軽人です。外から来た人から、あるいは、外から見た場合に、津軽に非常に魅力があるとか、おもしろいところだとか、わたしは津軽人だから、青森県のなかでも、南部と津軽で非常にいろんな生活様式から気質とかそういうものが、非常にはっきりと区別できると、たしかに、それはそれでそうなんだけど。それは意味がない。

(長野さん)
 そういうところに向かうつもりはまったくないですから大丈夫です。たまたま吉本さんの興味が。

(質問者G)
 吉本さんが津軽に取り立てて思い入れがない以上、たとえば、太宰というのは、津軽に生まれたから太宰が出たんだというふうなひとつの前提がない以上、そういうふうなことは議論してもしょうがないでしょう。

(菅谷さん)
 そういうことじゃないんだよね、意味がないとは僕は思わないんです。こういうことは、一度とことんやったほうがいいと、それは吉本さんも「西行論」の中だったと思いますけど、あるイメージが、つまり、西行の一首が、あれは柳田国男について書いてあったところだったか、京都の風景のところですけど、つまり、記号として了解されないイメージと、それが実感された上で了解されたイメージというのは、どうしても違うし、違うということが文学にとってはいちばんおもしろいことじゃないかとおもうんです。
 つまり、津軽という地名を出せば、だいたい日本人には通じるわけです。どの辺にあるかぐらいは、だけど、その土地に住んだことがない人には全然わからない面もある。そうすると、ちょうどその中間のところに、いってみれば、イメージというものが成り立つ領域があるわけで、両方なければイメージそのものが発生しようがないです。

(質問者A)
太宰の本質論とはべつにそれは。

(菅谷さん)
 常に文学の問題だということですね。どの土地についても、誰の体験でもあるということです。だから、太宰についていえば、それを論じてみる意味はある。津軽ということをね。

(質問者A)
 でも、あんまりおもしろくない。

(菅谷さん)
 地元の人がおもしろくないと言ったら、これは間違いじゃないか。

(長野さん)
 ただ、やっぱり今日来られた方がそういう意味で興味をもっているということが重要なのであって、そういうふうにローカリティを強調してもらっても困るけれど、それは動かない事実だとおもうんです。それは関心があるわけです。そのことは重要なことだし。

(質問者A)
 でも、吉本さんは津軽のこと知らないから、そうやって聞いているんでしょ。そういうことの話をしていたら、吉本さんが一方的に津軽の人についての感想を聞いているだけに終わるんじゃないですか。

(長野さん)
 そんなふうには終わらせませんから。

(質問者A)
 だから、やっぱし太宰論をやるべきだとおもう。

(長野さん)
 わかりました。ちょうど時間が半分立ちましたので、もうちょっと早いですけど、5分ばかり休憩をとって、タバコは外で吸えるようになっているとおもうのですが。

(長野さん)
 それでは引き続き、さきほどの展開に入っていきたいのですけど、どうですか。

(村瀬さん)
 また、『津軽』を引っぱりだした責任を感じるのですが、もう一度繰り返しますけど、心の持ち方のなかで、正当な心の持ち方というか、ふつうの一般の方々がそれでいいとおもわれる心の持ち方というのがあるとおもうんです。それは、ものがここにあって、そういうものがある世界を信じる、それで、ものを言ってくるというか、だけども、ものが見え方の数だけあるということを言う人は、世間のなかで認めてもらえないというか、それは、心の世界の形からいうと、辺境の問題になるんです。それはある意味では、人間の失格の問題であって、それを論じる角度が、常に太宰にあったと強調したいがために、ぼくは言ったわけで、そのひとつの形として、津軽に目がいったんじゃないかと僕は思ったのです。
 だから、津軽の問題は風土の問題はなにもなくて、やっぱり正当と言われている部分から外れている部分に、彼が、それを相対的に取り上げるというか、どちらも絶対化しないというかたちで、取り上げる視点が常にあったから、いったという面があるんじゃないかと思って読んだんですけど、そうじゃなくて、すごい実体化されていたというか、で、吉本さんどう思われますかと、吉本さんに返したとおもうんです。その話がちょっと違うところにいってしまった。

(長野さん)
 そうですね、どうも司会がまずいものですから。そのあたりどうですか。

(吉本さん)
 ぼくはコメントがないです。

(鈴木さん)
 それはそういうものとして考えればいいんじゃないですか。太宰にとっての津軽というのは。相対化できない、その枠を超えてしまうようなものとして、津軽を書こうとしたと、それはダメなところと、村瀬さんがお考えになってもいいかもしれないし、そういうふうに言っちゃわないと済まないのが太宰だとおもうかもしれないので、それは人によって分かれてくるとおもうんです。ただ、村瀬さんのいまの尺度を当ててみると、『津軽』というのは破れているということは言えるとおもうんです。

36 『人間失格』は文学的生涯の総決算か?

(村瀬さん)
 『人間失格』の問題が、そんなにいいことではないかもしれんという、吉本さんがどう思われるかまた聞きたいのですけど、平坦という印象があるかもしれないけど、ぼくは人間の生涯が描かれているというふうに思ったんです。生涯というのは、生まれてから死ぬまで描かれているとおもったんです。
 実際に、生まれている場面も死んでいる場面もないのですけど、意識の中で人間が生まれるというか、あるいは、意識の中で人間が死んでしまうというか、それが描かれているとおもいます。
 同時代の作家たちで、生涯を描いた作家がいるかというと、あまり思い当たらないという、『なんとかかんすけの生涯』、あるいは『或阿呆の一生』とか、そういう作品はあるのですけど、だけど、人間が意識の中で生まれて、意識の中で死んでいくという、その意識の中での生涯というか、それは『人間失格』がまず筆頭にあります。

(長野さん)
 そのことなんですけど、生涯が描かれているんだけど、たとえば、これはどの部分かなと、太宰の実生活のなかでの、この風景はどの時期かなと考えますと、シチュエーションからいくと、あれはパピナールのあそこの入院したところで終わっているんです。あそこで終わっているんです、『人間失格』というのは。現在じゃないです。わたしは、これはものすごく重要なことじゃないかとおもうんです。何度も反芻される風景なんだけど、あそこで終わるんです。

(村瀬さん)
 ぼくがいうのは、ふつうであればおぎゃーと生まれて、60歳で死んでいくという、あの生まれ方と死に方が、たとえ1年であっても、17歳の間であっても、17歳の春におぎゃーと眼が覚めて、17歳の終わりに死ぬということがあるとおもうわけです。意識の中でですよ。彼が生き延びていても、その一生というのを彼は主題にできた作家じゃないかとおもうのです。

(長野さん)
 そういう意味ではわかります。

(村瀬さん)
 ふつう、その一生というのは、幼児期があって、青年があって、大人があって、老人があるという、このパターンで、一生というのは終わるんです。そのパターンを彼は問題にしたとおもう、たとえ、短い間でも。人間の一生と考えると、ほんとうにそういうパターンでいくのかというのと、批評家は、たとえば、あれには成熟がないっていうふうに言ったんです。

(長野さん)
 何に対してですか。

(村瀬さん)
 『人間失格』という作品の成熟がないというか。それから、大人になれない。子どもの問題じゃないかという。類型としては、子どもがあり、次に青年があり、大人があり、老人がありというふうに死んでいく人間の類型というか、それ自体を彼が人間の類型なのかということを彼は問題にしたんじゃないかとおもいます。
 だから、最後に老人になって死んでいくのか、最後に子どもがあるのか、彼は最初にどーんと歳をとっています。だから、青年期に年寄りだったということです。そういう言い方で『人間失格』を書かれているとおもいます。年寄りであるというふうに。年寄りから始まって、彼は成熟しないで、子どもになっていくんだと、もしも、そういうパターンで生涯を描いたとしたら、ふつうの人が描く人間の類型じゃない人間の類型を描いたんですね。違う類型の人間があるんじゃないかなという可能性というか、そういう示唆はしたんじゃないかという、それはいま、たとえば、大人になれない子どもとか、あるいは、ふつう、ぼくらが持っている人間のメジャーなイメージは、いくらでもつくりだしているとおもうのです。そういう意味では、彼はずいぶん生まれて死ぬという人間の類型を、ふつうの人が知っているような類型じゃないかたちで提出しえているものがあるんじゃないか。これは深読みと言われたら、深読みかもしれんですけど。そんなふうにおもいます。

(長野さん)
 その場合の成熟は、太宰の実生活上の成熟の問題もあるでしょうけど、そういう意味での成熟はなかったかもしれないですけど、違った成熟はあったような気がするのですけど、どうでしょうか。

(村瀬さん)
 だからそういうことじゃないですか、ふつうに言われる成熟じゃなくて。

(吉本さん)
 いまの村瀬さんが言われたことというのは、ぼくの理解の仕方をすると、伝記的事実としては死ぬまで書いてあるわけじゃないし、そういう伝記的としてはそうだけど、あるいは、生涯を書こうとしていることは、ぼくは確かだとおもうんです。
 それから、ぼくが村瀬さんと違う読み方をしたことはどこかというと、簡単なことで、ぼくは同時代的に読んだと、そこが違うとおもう。同時代的に読んだというのは、ぼくの印象では、これは総決算だなという、つまり、この人の文学的生涯の総決算が、ここでやろうとしているなというふうに読んだという記憶があります。
 それから同時に、しかしながら、これはいい作品、つまり、最上等の作品、太宰治にとって、作品ではないな、だから、これは何なのだろう、これはたぶん、衰えだろうな、命の衰えだろうなというふうに、当時そういうふうに、同時代的にぼくは読んだとおもいます。その印象は、後からくっつけたんじゃなくて、それだけのことがあったとおもいます、読んだと思います。
 だから、村瀬さんの言われることもわかるような気がします。あれは確かに総決算として、もうすでに初期の頃から『思ひ出』でも書いているわけだし、何回も書いているパターンと同じなんです。だけど、結局、総決算でもう一回とおもった。そういう意味では生涯が中に入っちゃっていると読んで、読み過ぎじゃないんじゃないかなとて、村瀬さんの話を聞いていたんです。
 ただ、伝記的事実としては、べつに生涯が書いてあるわけでもないわけですから、それはあれなんですけど、ぼくもあの人は総決算だな。だけども、どうも違和感、それにしては、生涯の最高の作品であるかといったら、いや、というのが、当時のぼくの感じ方でした。衰えたなという感じ方なんです。
 これは太宰治自身が生涯の傑作とおもっていたかもしれないけど、ぼくはそういう意味では違うなと思いました。これは三島さんの最後の作品が、『春の雪』からの作品が、三島さんはじぶんの総決算、最高の作品とおもっているかもしれないけど、客観的にみれば、んんーという色んなことを言いたい作品だとおもうのです。
 それと同じ意味合いで、総決算というふうに思います。生涯をぶち込んだという。成熟がないとおっしゃったことと関連するんだけど、ぼくは書いたときには、生命の衰えというんでしょうか、それがうんと強く作用しているような気が、『人間失格』を書いたときにすでに太宰治は死のうと思っていたかどうかは知りませんけど、生命の衰えというのもあるんだなというあれを感じたとおもいます、当時。そういう感じでした、ぼくらは。

(長野さん)
 ちょうどその話題になりましたので、ついでに菅谷さんと、鈴木さんにも、そのあたりの『人間失格』の問題でコメントをいただきたい。

(鈴木さん)
 『人間失格』そのものは、さきほど言いましたから、ちょっとだけ、いまの吉本さんのお話に関連して、三島由紀夫の『豊饒の海』はたしかに総決算なんです。つまり、じぶんがやってきたことを全部ぶち込んでいるという意味で、ただ。太宰の『人間失格』は全部はぶち込んでないですね。そうじゃなくて、ちょっと意味合いが違うんじゃないかというのがあるんだけど。
 総合しているというのか、うまくいったかどうかは別にして、そういうことは太宰は企ててないですね、あそこでは。だから、ある意味で、ほんとうの決算をしたという感じはあるんですけど、その仕方が、吉本さんが、その当時、同時代的に読まれて、感じたことと同じかどうかはあれですけど、あれだけの作家が総決算として残したというには、ちょっとつまらないなという、つまり、太宰の『人間失格』ですけど、そういうことのほうが大きいです。

(吉本さん)
 ぼくはあれ以上のことは、体力的にといったらちょっと具体的になっちゃうんですけど、生命力というか、そういうものとしても、あれ以上の決算はできない状態だったんじゃないかなというふうに理解をとりますけど。そういう意味では病気も進行しているわけでしょう。衰えていて、あれが精一杯というんじゃないかなというのが、ぼくの感じ方なんです。

(鈴木さん)
 ある意味では、太宰という作家は、時々総決算というか、『人間失格』的な意味での決算をやりますよね。

(長野さん)
 何回もやっている。

(鈴木さん)
 井伏さんが太宰について書いている短い文章だけど、とにかく、自己否定みたいなことを作品の中でやるでしょ。それは筆に勢いをつけるために太宰君がやっているんだみたいなことをいうんです。それはひとつの作品のなかのことで言っているらしいんですけど、生涯を通じて、そういうことをずっと繰り返し繰り返しやった人じゃないか。
 だから、『人間失格』と吉本さんはおっしゃるけど、あれでまた心中して助かってたら、また違うかもしれませんから、もちろん、死にやすい人というか、境を超えやすい人というのはすごくわかるんですけど,無限に続く可能性みたいのが。

(長野さん)
 私は無限に続くというのが『人間失格』の構造の中で、やっぱり病院のところで終わっちゃうみたいな、プロットとしてですよ、そういう意味で、モチーフ自体として、底があるような気がするんです。結局、そういう意味なんです、私が言っているのは。

(鈴木さん)
 それが繰り返されると。

(長野さん)
 そういうことです。しかも、その現実生活からいきますと、あの後、中期が始まるんです。もうちょっとだけど。どちらかというとあの後、ほんとうに彼が作品をどんどん書き始める。いわば、明るいとよく言われる、明るいという意味はちょっと違うんだろうけど。

(鈴木さん)
 太宰にとってほんとうに自分が生きたというのは、そこまでで、筆の上で生きているということになるのかな。

(長野さん)
 そうですね、だから、そこでもうひとつ、戦争の戦前、戦後の問題がかかわってくる。どうですか、菅谷さん。

(菅谷さん)
 今度読み返してみて、『人間失格』というのはすげえ作品だなとおもうのは、こういう見方がもしかしたらできるんじゃないかというあれがあるんですけど、『人間失格』の主人公の手記のいちばん最後のところで、こういうことを書いているわけです、「ただ一さいは過ぎていきます、自分がいままで阿鼻叫喚で生きてきた所謂『人間』の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。」。
 この人間というのを、仮に「文学」というふうに置き換えてみたら、一さいは過ぎていきますというのは、書くということが自分の目の前に現前している、プレザンスですね、しているそのエクスタシーじゃないかという、そういうエクスタシー、もちろん書くということに、作者が乗り移っちゃって、しゃべりにしゃべるというのがあるけれど、それはいつでも、さっき鈴木さんもおっしゃった、何人もの自分が、自分をこまねずみのようにくるくるくるくる追いかけごっこをしているので、そういうエクスタシーというのは、いわば、じぶんから抜け出しちゃうというのはありますから、そういうことを許さない、そういう現在の持続だったと、それだから、とてもしんどいんだとおもうんです。
 だけど、ここで言われていることは、『人間失格』を書き終わるわけです、基本的には。そのときに感じたことは、もしかしたら吉本さんのおっしゃる生命の衰えというのがあるかもしれないし、何かあることを自分に許しちゃう、それは、物を書くということのエクスタシーの中にじぶんが入り込んでしまうことをここで結局、許すことができたというような、許しちゃったことで、まさに書くこと自体も、死を迎えるというか、終わりを迎えるというか、ただ、物を書くことのエクスタシーという点でいうと、これはもしかすると太宰が文学そのものを倫理であると考えたことと共通するとおもうんだけど、結局、書くことのエクスタシーってものに淫するものがないわけです。
 石川淳なんて、どの瞬間でも全部それをやっているみたいなところがあるわけです。それから、室生犀星という作家もかなりそういうことをできた人だとおもうんです。だけど、それはエロティックな話題を書いたからというだけじゃなくて、太宰治は、ただこの一瞬には、いっさいは過ぎていくという感じのなかで、生まれて初めて、書くことのエクスタシーというものを現前させて、書くことが終わってもいいんじゃないかという感じがあったのかなと思うんです。

(長野さん)
 構造的な意味での総決算になっているということですね、二重の意味で。

(菅谷さん)
 だからそれは、衰えも含むだろうけど、作家としてはたいへんな成熟だといえるとおもうんです。

(鈴木さん)
 ぼくがさっき言ったのは、村瀬さんの言っていることを否定しているわけじゃないんです。村瀬さんが人間失格論でおっしゃったことは、他の作品にも、太宰についてはいえるようなことであって、そういう意味で村瀬さんはすごくいい読みをなさっているし、ぼくは教えられることが多かったんですけど。ただ、文学の作品史的な位置みたいなことをいうとそうなってしまうということなんですけど。
 いま、菅谷さんが書くことのエクスタシーというふうにおっしゃったんですけど、それが太宰の、それがというのはエクスタシーのあり方が、太宰の固有なものがあるんじゃないかとおもうんですけど、そのときに最後のほうで吉本さんがおっしゃられたサービス精神ということに関係するんですけど。
 いつも絶対、観客を相手にしているんです、そのエクスタシーは。いつも人に見られるということで成り立っている部分がある。だから、語りという構造とも関係するわけで、語りというのは舞台の上で語ってるんです。高座にでて芸をしている、あるいは、高座じゃなくても、芸人が道端で芸をしているような、そういう、いつも緊張感が見ている人とのあいだで成立しているわけです。

(長野さん)
 エクスタシーのあり方が。

(鈴木さん)
 じぶんのなかで、高揚しちゃって自己完結して書いているんではないとおもうんです、絶対。それが太宰が言っているサービス精神だし、その饒舌の語りとも関係してくるとおもいますし、そのことは太宰の広く、石川淳だって饒舌はやるし、安吾だってやるし、ただ、太宰の姿勢は、いつも見ている人というのを意識しているということが、聞いている人じゃないんだ、おそらく、見られているみたいな感じが僕はするんです。
 それがいつも緊張関係としてあって、だから、奥野さんが二人称というのも、そこのことをおっしゃりたいんじゃないかなという気がするんです。それは演技として言ってみたり、道化として言ってみたり、いろんなことでいままで言われてきたことだとおもうのだけど、そんな感じがするんです。

(長野さん)
 そこでちょっと気になるのは、見える視線を意識するということは、見るに耐えない自分の問題もあるわけですか。どういうことなんですか。単なる自意識の問題ですか、自意識とかそういう意味ではないですね。

(鈴木さん)
 自意識といったって、自分が自分をどう意識するかということを、いつも太宰は、私はちゃんと自分のことをわかっていますと、他人からこう見られているでしょう、じぶんからこう見られているでしょう。それは、ほんとうに客観的だということじゃないですね、じぶんはそうだよと言いながら進んでいくやり方がそうだということだけで。

(質問者A)
 でも、それは太宰にとってはそうしなければならなかった何かがあるんじゃないですか。

(長野さん)
 すいませんけど、手を挙げて、了解を得て、それからにしてください。そうしないと、ほんとうに前だけがあれしてしまうというコーナーになっちゃいますので、それだけは申し訳ないですが。私が気がつかなければ、手を挙げて言ってください。

37 芸と倫理

(質問者H)
 吉本さんに質問したいのですけど、話の筋から逸れるかもしれないのですが、3番目であげられた、太宰にとっては文学・芸術自体が倫理であると、書くことそのものが倫理であるというふうに言われたのですが、倫理そのもの、それはどういうものなのか、のちほど芸、いま話に出ましたけど、芸と倫理というのを吉本さんの中でどういうふうに捉えられているのか、そこらへんを話していただけるとありがたいです。

(吉本さん)
 そういうふうに質問されると困ってしまうわけなんです。というのは、どういうふうに聞いてほしいかというと、芸術にとって倫理というのは何なのかといった場合に、あるいは、文学でもいいですけど、それは文学が語っている物語が非常に倫理的な物語だというふうに言われているとすると、太宰治の倫理観というのは、そうじゃないんだということをスッとこういうふうに感覚的にああこういうことをやつは言いたいんだなというふうにわかってくださるのがありがたいわけなんです(会場笑)。
 そうじゃなくて、いまのような言われ方をしますと、今度は倫理ということの定義から始めなくちゃならないわけです。すごく無駄な気がしてしまうんです。だから、一般的に文学と倫理とか、政治と文学とか、いろいろいう場合の言われ方というのは、ようするに、文学作品が持っている意味的な内容というもの、物語の内容というものが、非常に倫理的だとか、政治的教訓に富んでいるとか、つまり、主題がそうだというふうに、一般的にそういうふうに考えているわけですけど。
 それは太宰治の場合には、倫理というのは、そういうふうに考えられていないと、だからむしろ、そういうふうに考えられていないということを言葉でいうなら、芸術そのこと、文学そのことが倫理だとおもってたんだよというふうに言ったらいいだろうなと、こういうわけです。
 だから、やつが言いたいことはこういうことなんだなと、つまり、あまり主題主義的に、あるいは、意味論的に文学というのを読むというのは、ちょっとあまりよくないんだ、太宰治の場合には特によくないんじゃないかということを言いたいわけです。
 それじゃあ倫理がなかったのか、そんなことはないです。太宰治に文学・芸術についての倫理がなかったのかというとそうじゃない。そうすると、それは何なのかといった場合に、まず第一に、いちばん最初に根本にあるのは、文学・芸術そのことが倫理だと考えていたということが、いちばん最初にあると考えたほうがいいのではないでしょうか。こういうことなんですけど。

(質問者I)
 いまのあもうさんのご質問は、吉本さんがおっしゃられている、そのことは彼もわかっていたかとおもうんです。それをわかった上で、芸と倫理という微妙なところがあるとおもうのは、さきほどのお話と重ねていいますと、たとえば、志賀直哉という人との違いとおっしゃいましたけど、志賀の場合、戦後になって、父親との対立をもとにおいていた、対立のモチーフがなくなってくると、書くことがあまり彼にとって必要なくなって、晩年は志賀の日記には麻雀という単語ばかりでてくるとか、そういうことで、もう書かなくて済むわけです。そういうふうになることができる人というのは、おそらく、文学もしくは芸術が倫理ではないだろうという言い方に、そういうふうに言われるとわかる気がするんです。
 それに対して、さっきの菅谷さんのお話なんかもありましたけど、書くことに、生涯、エクスタシーを求め続けるほかないタイプの人があって、その人にとっては、そこでまた、もうひとつ分かれるんだということ、さっきの鈴木さんの話なんかでもわかったんですけど、じぶんにとってのエクスタシーだけでいいのか、そこで観客を必要とするということで、すこしエクスタシーが分かれてくるとおもうのですけど。
 さきほどのあもうさんの質問とすこし重ねていうと、安吾の場合、一緒に無頼派とか、新戯作派とかいうわけですけど、安吾と太宰とイメージが違う感じがあって、というのはさっきの吉本さんの昼間のお話と重ねていいますと、マイナスとか、負という言葉をお使いになったけど、安吾はまさに『堕落論』といって、「堕ちよ、堕ちよ」というわけですね。その「堕ちよ、堕ちよ」という言い方はなんか、非常に芸というよりも、正面切った感じで読める感じがするんです。
 正面切った感じというのは、明治以来の文学史でいいますと、たとえば、士太夫といいますか、士人の文学なんかを正面切って、天下国家とか、そういう感覚で文学に関わろうとしたような面があって、現代でいえば、大江健三郎が、いささかそういうものを引き継いでいる意味あいがあるとおもうのですけど。
 昼間のお話ですと、大江は、もちろん括弧つきですけど、かなり太宰と違うというような側面を強調なさったというのがあったとおもうのですけど、にもかかわらず、じゃあ安吾はどういうことになるのか。ただ、そう言いながらも、いっぽう安吾が登場したときには、牧野信一が評価したように、それは生真面目だという要素で評価したわけではないわけです。
 これは、安吾と太宰は重なるようだけど、違う感じもするし、いま言った堕落論だけで考えますと、非常に真剣勝負を表からしているところがあるんじゃないか、その点では太宰も芸術を書くことに賭けているわけだけど、太宰の場合はいつも武士的な真剣勝負という感じはしない、別の形での倫理性をもっている、そういうふうなことをさっきのあもうさんは質問したかっただろうし、私もそのへんで関心があるものですから、ちょっとお聞かせいただければ。

(長野さん)
 畑有三さんですけど、司会を代わったほうがいいんじゃないかと思うぐらい。いまおっしゃったことについて。

(吉本さん)
 同時代的というのはおかしいのですけど、同時代的な言い方からすると逆なんで、たとえば、太宰治も、織田作之助も、それから、坂口安吾も、石川淳も、みんな含めちゃって、一種の無頼派的な言われ方を同時代的にはしていたところがあるわけですけど、それはいずれにせよ、堕落論でいえば「堕ちよ、堕ちよ」なわけなんですけれど。
 太宰治でいえば、負の十字架といいましょうか、反立法、つまり、滅亡ということを、じぶんでもって身をもって示す以外に、じぶんの倫理はないんだという、そういう考え方自体を無頼派的といえば、無頼派的の中に入っているわけですけど。
 そのなかでとび抜けて、ぼくらが読んでいたところでは、とび抜けて真剣だったのは、つまり、太宰治がそういう場合には、これは文学の問題じゃないなというくらい、とび抜けて真剣におもえたんです。太宰治がとび抜けてそうです。あとの人はやっぱり遊んでいる、「堕ちろ、堕ちろ」といったって遊んでいるという、そういうふうにしか逆にとれなかったんです。
 だから、ぼくは倫理といった場合に、太宰治が芸術・文学それ自体が倫理だというふうに、ぼくがそういう言い方をした場合には、ほんとうは太宰治の生命自体はそうとう、いつでもきわどいところを歩いていて、つまり、そういうことがいちばん倫理として問題になるところだというふうに、ぼくには思えたわけです。
 ところが、表現をみますと、それにもかかわらず、いつでも太宰治というのは、作品というのは、ほかの、たとえば、坂口安吾だったらば、織田作之助でもそうですけど、いくらそういうデカダンスということをやれやれというかたちで作品を描いても、それはエッセイとか、スローガンで、そう言っているという感じしか、ほんとうはないので、太宰治というのは、真剣なんだけど、しかし、様式としてはいつでもフィクションというのを媒介にして、つまり、文学作品の表現ということを媒介にして真剣なんだなという実感を与えるというふうに、同時代的には読んだわけです。
 だから、おっしゃったような志賀直哉みたいな人というのは、あれは欲望ということ、つまり、欲望の、あるいは、欲動の表現ということがひとりでに文学作品になっているというふうにいえば言えるわけで、あるいは、欲動の行為自体を描写すると、それは文学になっているんだ。立派な文学になっているんだ。
 そうすると、なぜそうなるんだろうか、なぜそんなことが、誰だって欲動の表現を書いたら文学になるかというと、それはならないです。志賀直哉の場合にはどうしてそうなるかといったら、ようするに、並外れた一種の決断力みたいなものが、行動を規制する直感的決断力みたいなものがあって、それをすいすい切っていきますと、じぶんの行動を規定していきますと、それがちゃんと自分の欲望、あるいは、欲動に最も正当な行為の描写になっているというような、そういうところが志賀直哉の文学だとおもうのです。その欲動というのがなくなっちゃったら、これ以上なくなっちゃったら、書くいわれはないというところに行っちゃったとおもうのです。
 太宰治はそういう意味あいでは、おれはそうじゃないぞと、いつでも、ちゃんとフィクションに作っているぞということがあったとおもうのです。それで、おれの文学というのは、欲動の、つまり、欲望の文学じゃないぞ、つまり、欲望の行為を表現しているんじゃないぞ、おれはようするに倫理を表現しているんだと、倫理の表現というのは、じぶんの場合には、個人の倫理じゃない、つまり、歴史的という言葉を太宰治は使っていますけど、それはちょっと大げさになっちゃうんですけど、一種の使命なんだと、おれは使命をもっていると、それがじぶんの倫理なんだと、その使命、義ですね、それはおれにはあるけど、志賀直哉には欲望しかないぞ、欲動の表現しかないぞ、それで欲動の決断力が並外れてすごいということだけしかないじゃないか、ほかの無頼派の人たちというのは、個人の倫理はあるし、個人に堕ちよという、ひとつの倫理観というのはあるわけで、それは、また時代に対して、最も表面からぶつかった倫理観で、そういうのがあるんだけど、使命感はないでしょうというのが、太宰治の内心で思っていたことであろうとおもいますし、ぼくらは並外れてこの人は真剣だというふうに思えたのは、ぼくはそういう気が、そこのような気がするんです。
 つまり、一種の使命感というのは、ほかの無頼派の人たちにはないんです。やっぱり、あれは個人の倫理観です。個人の倫理観の違いと、非常によくマッチしてきたと、戦後の混乱期の時代とマッチしたというところで、作られているとおもうんです。太宰治の場合には、たぶん、一種の使命感、つまり、どうしても個人にはなりきれないという、そういうのがあったとおもいます。
 ぼくがいまおっしゃったことの位置づけというのを、ぼくなりに頭の中で描いているところをしてみれば、そんなところになっちゃうんです。そういう読み方をしていたということになっちゃうような気がするんですけどね。

38 母が、世界が、もてないということ

(質問者J)
 さきほど、故郷というか、津軽、津軽といわなくて故郷で僕はいいとおもうのですけど、故郷と作家の関係がちょっとでてきましたけど、もし、象徴的な意味で母を持てなかった、あるいは、思春期まで至って、そこでもまだ母が持てなかった、おそらく、先ほどから繰り返し言われたように、世界が持てなかったということだろうと思いますけど、そうしたら、おそらく、太宰が故郷を持てなかったのではないか、もし『津軽』が作品として書かれる必然性があったとしたら、そういう持てなかった津軽を取り返そうとするものの試みだったんじゃないかというふうにおもうんです。それがうまくいったか、うまくいかなかったか、あるいは、文学作品としてどうであったかということは置いておきますけど。
 そこでもうひとつ問題になるのは、おそらく、太宰にとって母を取り戻したいというか、あるいは、世界の中にじぶんがあるということを取り戻したい、それをやるためにおそらく文学しかなかったんだろうなという感じで、おそらく、それが倫理ということにつながっていくんだろうとおもうのですけど。
 しかし、それをやっていくなかで自殺が何度か企図されて、最終的には自殺を完遂してしまうわけですけど、それはそういう何度かの自殺企図が彼の文学の中にどういうふうに影を落としているのか、そして、そういう文学的な行為の中で、彼の最終的な死というのはどんな意味をもっていたのか、ということをもしお聞かせ願えたらありがたいです。

(長野さん)
 先ほどのあれと少し関連しています。どうですか、吉本さんが少しお疲れでしょうから、とりあえず、材料を提供する意味でも。

(鈴木さん)
 彼のおっしゃった前半の部分は、ほとんど同一のことを書いて、タケと出会ったというのは、母の回復だという、そういう言い方をすれば、母は何度も出てくるわけです。さっき言った『愛と美について』かな、ああいうところでも、お母さんがすごくいい役目を果たして、それはやっぱり太宰の夢だったかもしれないし、それをあたかも津軽で見つけたというふうにやったのが、タケと出会ったというものだったりするわけだとおもうんです。
 それとさっきの倫理というのは違うんだとおもうのです。書くことと、書いて発表することということ自身が倫理になるということで、中で展開されたものをぼくらがどう読むかということは違うことだとおもうのです。ただ、そこのところがすごくいまのところ入り組んでいるし、その時々によって展開していくので、そこが違うのです。そこがいちばんむずかしいところだとおもうんです。

(吉本さん)
 いま質問の方がおっしゃったことは、ぼくは少しだけ短絡的な気がするんです。太宰治の作品に出てくる言葉でいえば、『HUMAN LOST』かなんかだとおもうんですけど、じぶんは快楽を求めて娼婦と付き合ったりしたことなんか一度もないと、ただ、母を求めていったんだというふうな言い方をしているんです。
 快楽を求めて麻薬なんか打ったりしたことは一度もないんだ。ただ。ようするに、じぶんの苦悩というのをどうするか、そういうことがいつでもあって、おれは麻薬中毒みたいになったりしたけど、こんなものを打って楽しもうというのは、全然おれにはなかったんだという言い方をしています。
 ですから、母という問題ができた場合には、太宰治の作品の方法というものと、すぐに結びつけないほうが、ぼくはいいとおもうんです。それよりも、生活上、つまり、どうしてこういう女の人と一緒に心中しちゃったんだとか、何回もそれをしちゃったんたということのなかに、きっと母の問題があるわけですし、どうして麻薬中毒になるくらいまでやっちゃったんだということのなかには、やっぱり母の問題があるという、そういう次元では結び付けることができるでしょうけど、作品と結び付ける場合には、非常に慎重にしたほうが、ぼくはいいような気がするんです。

(質問者J)
 母というのを持ち出したのは、母そのものとか、あるいは母のイメージとかいうことではなくて、おそらく、母というのが、世界と自分の関係だろうなという、それは故郷と自分の関係でも同じで、それは母と自分の関係と言い換えても、基本的に同じじゃないかな。ようするに、母が持てないということじゃなくて、ようするに、世界が持てないという、世界を自分にとっていかにして可能になるかというようなことなのではないか。
 おそらく、発生的には、吉本さんがおっしゃられたように、母との乳幼児体験という問題があるだろうし、あるいは、村瀬さんが念を押されて何度か言われたように、それを思春期まで、もち越してしまって、おそらく、それをきちんと癒すことができなかったということはあるかもしれないけど、しかし、母そのものではなくて、おそらく、それは世界とか、あるいは故郷というふうに、あるいは津軽というふうに言い換えても同じなので、ぼくはその津軽を太宰が書こうが、津軽を彼は手に入れられなかったんだろうなというふうにおもうんです。あるいは、フィクションとしての津軽しか手に入れられなかったんだろうなとおもいます。

39 詩人的資質と作家的資質

(質問者K)
 すこしいまのお話とかかわりがあるようにおもうのですけど、作品と作者というようなお話がさきほどの講演の時にも何度か出ましたけど、鈴木さんだったとおもうんですが、作品と作者がごちゃごちゃになっちゃうような記憶しにくい、そういういままでの従来の研究がたいへん多いと、多いのが太宰論の特徴だとおっしゃいましたけど、それから、吉本さんの、作品、つまり、フィクションというのをかたちづくる、創り出すんだというところに、文学=倫理だというのがたちあらわれてくるという、そういうお話なんですけど。
 ごく端的に言っちゃいますけど、つまり、作品と作者との癒着といいますか、非常に解きほぐしにくい性質というものと、それから、フィクションを構成するプロフェッショナルな技術、菅谷さんの言葉でいえば「巧み」というんですか、そういったものが一瞬ない交ぜになった、やや特異なかたちの詩、ポエジーのほうの詩ですけど、ものすごく端的に言ってしまえば、一言で詩人の性質、詩人の特質みたいな、そういう方向で、ぼくなんか非常に思い切っていっちゃうんですけど。
 たとえば、イメージの問題、写真の問題、これは村瀬さんがおっしゃっていましたけど、それから、自画像の問題、これは鈴木さんがおっしゃっていましたけど、そうて、写真とか、自画像、あるいは、写真を解読するところから『人間失格』がはじまる、あるいは、富士山の写真というのが出てくる、そうした、肖像画、つまり、自画像とか、写真という形の解読、つまり、自分自身を読む、あるいは、風景に託した自分を読む、そうした自分自身を読んで表現することがその作品になる、その作品になるというときに、詩人が行っている行為というのを文学というふうに呼ぶと、そうすると、表現行為を行うような切実さというのでしょうか、イメージを読んだり、あるいは、またそれを再構成したりという、そういうところに出てくる太宰の肖像というものと、それから、その肖像をつくっている作者・太宰というものが、いつも合わせ鏡でつくったり、つくられたりという形で出てきちゃう、照り返しみたいな形で、ですから、そういった循環みたいなものが、作品と作者のあいだにいつも動いていて、それを追っかけっこみたいな言い方もしますし、それから、たとえば、格子で、そこにイメージが流れを変えてイメージを作りあげる。
 それから、たとえば、ちょっと取り留めもなくなっちゃいますけど、『津軽』というものが完全なフィクションにならなかったというのも、そこの目の前にある津軽との距離ですね、つまり、眼に見えないものでなければイメージにならないという、そういった眼に見えないものをイメージ化するという、これを詩人の性質というふうに言っちゃうと、最終的に吉本さんに伺いたいのですけど、そうしたイメージをつくっていく、あるいは、イメージを解読していく。たとえば、詩人といっても、ただ歌うだけじゃなくて、詩とは何かということを論じつつ、批評しつつ、そしてまた、そういった批評にからめとられないような詩をまた作っていくという、そういう批評とうたうということとの両方持った詩人というイメージをひとつ想定するとして、そうした太宰がフィクションというところ、あるいは、技術とか、あるいは、流動的であれ、構築的であれ、作品をつくるという行為、作品化するという、じぶん自身を詩人としないで、詩人ではなくて、彼は小説家になったというところが、ぼくなんかはいちばん、太宰治という人が、もともと疑問におもって、わからないところなんです。
 たとえば、萩原朔太郎であれば、晩年に自分自身の生涯を振り返って、たとえば、『氷島』という詩集が出る、あるいは、『宿命』という詩集を出す。これがイメージではなくて、自分自身の生涯というものを語るというんでしょうか、うたうんじゃなくて語るという形で、フィクションを創り出しているという言い方もできますが、どうも彼はあくまでもそれを詩でやったと、太宰治は終始一貫して、それを小説の世界でやっているというのは、非常にわかりにくいところなわけです。
 もう一言だけ、吉本さんの言葉で、かなり古いものですから、いまはどう思われているか知りませんけど、詩の定義というようなことをおっしゃっているのが、非常に頭に残っていまして、「現実の世界の中では、口に出してしまうと世界が凍るかもしれない、そういうことを書くという行為であらわすのが詩だ。」と、まさしくそういう表現を太宰はしているということで、太宰の作品をポエジーというふうによんでしまってはいけないのかという点です。
 それから、もしそうだとすれば、なぜ太宰は小説家になったのかという、非常に素朴な質問に最後還元して伺いたいとおもいます。

(長野さん)
 どうもありがとうございました。ようするに、作者と主人公の距離の問題なんかにも絡んでこようかとおもうのですが、どうですか。

(吉本さん)
 いまおっしゃられたこと、方法の問題、つまり、詩の方法と小説の方法、つまり、散文の方法というのは、あるいは、批評の方法って、それぞれあるわけですけど。方法の問題に還元してしまえば言えそうな気がするんですけど、そうじゃなくて、倫理の問題として、それをおっしゃっているんだったら、たいへんむずかしい問題で、これは最後の問題のような、つまり、最初の問題のように見えるけど、ほんとうは最後の問題なんじゃないでしょうかというふうに受け取ってしまうわけなんですけど。

(鈴木さん)
 一言で嘘ですって言ったらいけないんですか。答えとして、その答えが、太宰の答えは嘘です。嘘をつくことですって言ったらいけないですか。太宰に答えさせたら、それは嘘をつくことですっていう、そういうことでは答えにならないですか。

(吉本さん)
 つまり、嘘をつくのがうまかったという。

(鈴木さん)
 嘘をつかなきゃ生きられないし。

(質問者K)
 資質の問題とかそういうのじゃなくて。

(鈴木さん)
 嘘をつきますと言っちゃうんじゃないかと。それは散文と詩との答えになっているような気もするんですけど。

(吉本さん)
 つまり、それは距離感の問題だから、つまり、詩というのは嘘をつかなくても、ギリギリの言葉というのがもし可能だったら、それはちゃんと詩の作品になるという自信、確信みたいのがあって、持てるかもしれないですけど、すべての事物というのはそういうふうにできていなくて、嘘によってしかどうしてもいえないということにこだわりを持っていたら、フィクションといいますか、散文とか、そういうことになるんじゃないでしょうか。なぜ小説を書いたかということの答えとして、そんなことでいいならそういうことになるんじゃないですか。
 それから、批評というのは何なのかということも、ちょっとどちらとも違うような気がするんです。ぼくらみたいなのは、そういう悲劇はないんですけど、もっと一級の人には悲劇がありますから、一級の批評家って、小林秀雄でもなんでもいいですけど、やっぱり相当悲劇的な人ですから、とおもいます。批評というのは何なのかというのをやった人というのは、やっぱりそうとう悲劇的な人だという気がするんです。
 それはぜんぶ違うのですけど。あなたは素朴な質問だと言われるけど、ほんとうは最終的な問題だぜということも言えそうな気がするんですけど。それは最終的な問いなのであって、一見するといちばん最初の問いのように見えるけど、ほんとは、それはなかなか人類じゃなくて、文学の歴史というだけでもいいのですけど、文学の歴史というのは、もうすこし先までいかないと解けないという問題のような気もするんですけど。

(質問者K)
 私が素朴といいましたのは、言葉のあやではなくて、そういうふうにいうと詭弁のように聞こえるかもしれないけど、最も素朴な問題というのが最後まで残るという意味での素朴という意味であったわけですけど。ですから、大問題だとおもうのですけど、つまり、詩的な性質とか、あるいは、創造的な言語の用法だとか、つまり、太宰の中に、詩人としての資質というのは間違いなく僕はあったとおもっているわけなんです。
 それで、なぜ詩を書かないで小説を書いたのかという疑問は、そう簡単に解きほぐせる問題でもありませんし、ただちに全面的な回答をというふうに求めているつもりもないわけです。ただ、その可能性として、いってしまえば、物を書くというやくざな行為の本質的な部分というのが、そういうのを僕は詩人の行為というふうに、とりあえず名付けているわけですけど、そういった詩人の素質というものを太宰の小説の中に、どの程度、見出すべきであって、また彼のフィクションのなかにどう位置付けていくべきなのかという、つまり、詩人としての太宰を彼のフィクションのなかでどう位置付けるかという問題です。私自身の問題意識でもありますから、そういうことで伺っているということで解釈していただいても結構なわけですけど。そのあたりを幾分なりとも時間の許す範囲内でお聞きできればありがたいという。

(吉本さん)
 ひとつだけ、ぼくが頭に思い浮かんだことでいいますと、太宰治の作品の中で『きりぎりす』という作品があるんです。つまり、作家の奥さんの眼から、作家といいましても、あなたの言葉でいうとたぶん詩人なんですよね、資質として詩人な人が、仮に形式としては小説を書いているんです。あっ、絵か、絵を描いているわけです。その奥さんの眼で見て、こんな絵を描いているし、世渡りもまずいし、こんな人が流行るはずがないとおもっているうちに、流行っちゃってくるわけです。
 なぜか、流行っちゃってくると、そうすると、いいかげんな生き方といいましょうか、生き方とか、処世とか、そういうのも交えてくるようになってきて、奥さんが嫌になっちゃってお別れしますという、そういう手記だと思うのですけど。
 その場合の奥さんの眼を設定して、あなたの言葉でいえば、詩人的資質をだんだん芸のない散文家といいますか、小説家の資質にじぶんを追い立てたりして、その場合には、絵描きとなっているわけですけど、そうしておいて、しかも流行るものを書くようになってしまったという、そういう、いってみれば、じぶんに対する自分の批判といっていいのでしょうか、そういうものをフィクションとして書いているというか、じぶんに対する批判といいましょうか、それを書いているそこのところに、わずかに太宰治の詩人的資質が残っていたんだというふうに理解すれば、なんとなくできそうな気がすると、いま考えたんですけど。
 だけど、ほんとうをいうと、むずかしい問題だとおもいます。『きりぎりす』という作品自体がそうですけど、ぼくは、非常に好きな作品のひとつですけど、あれはなかなかむずかしい、あれについて、いくらでも言いたいことは、ぼくはたくさんあります。あるんですけど、あの一種の批判をやらせて、奥さんというシチュエーションの人物にやらせてお別れしますという、そういうのを書いているところというのは、わずかに詩人的資質というのが残っているんだろうなとおもうんですけど。これは形式の問題じゃなくて、何が詩人であり、何が散文家なのか、そういう問題として。

(長野さん)
 詩人というのが、だいぶ質問と違うのかなという感じがするんですね。たぶん、山田さんが質問されているのは、作者と主人公とでもいいましょうか。その距離感が、ようするに、フィクションの場合は、遠い場合もあるけれど、抒情詩の場合は、特に近いというような意味をおっしゃっているんじゃないかという感じで聞いていたんですけど。

(菅谷さん)
 太宰治の時代というのを考えてみると、詩か小説かという二者択一の問題というのはたいへんな問題だとおもうのです。簡単にいえば、萩原朔太郎は小説を書いて売らなくたって飯が食えたわけです。室生犀星は詩だけ書いていたんじゃ食えないから、やむにやまれず小説を書くわけです。だから何度も「詩よ、君とお別れす。」なんて言って、詩というものに対して、決別の辞を書く。それは室生犀星がポエジーを失ったんじゃなくて、もしかしたら、ポエジーということにおいて、朔太郎以上だったかもしれない室生犀星が、簡単にいえば、身過ぎ世過ぎのために詩を書くことを断念する。ただ、プロとして小説を書き始めれば、どんな詩人としての資質を持っている人でも、詩作品そのものは、時代の水準のトップにいた人が必ず下に落ちるんです。どうしてもそうなるとおもうのです。これは例はいくつもあるとおもう。
 そうしますと、もうひとつは、昭和7,8年くらいから、太宰治が亡くなる昭和22,3年ぐらいまでに、いったい、だいたい20代から30代に成長していく詩人としての資質を持った人にどんな日本語が可能であったかということです。
 ぼくの考えでは、四季派を除けば金子光晴しかいなかったくらいになるわけです。ただ、金子光晴という人は、四季派が詩に関心をもつように、その当時から注目されてたのと違うように、ある意味で完全に埋もれているし、だいたい日本にいないんだから、何年間も、ただ、いま読んでみると、たとえば、萩原朔太郎以後の可能性として、最大のスケールというのは、金子光晴と宮沢賢治ぐらいに尽きてしまうと、そうすると、じゃあそのときにどれだけの詩が可能であったか、これはやったら相当な悲劇に、もう4,5年でなっちゃうんじゃないかというところがあるんです。
 それは四季派の人たち、たとえば、立原道造が、中原中也も四季派に関連する人ですけど、それ以上のものを作りださなければ、太宰治という小説家が小説をやらないで詩をやったということの意味がたぶん出てこないとおもう。
 ただ、そうじゃなくて、小説を書いたが故に、戦争中も耐え抜いたし、詩の世界では、荒地派の人たちが戦後詩人として登場してくるまでのわずか数年だけれども、たいへんな時代を見事に生き抜いてみせて、その敗戦の時から、太宰治が自殺するまでの何年の間に、つまり、戦前の詩人たちは何が書けたかというと、もう伊東静雄はほとんど書けない状態になっているし、三好達治もそうですね。やっぱり、それは戦前の最前線にいた人たちです。
 それから、立原道造はもう死んじゃっていますし、そうすると、詩人的な資質ということと、実際に詩作品を書くか、小説を書くかということは、ある意味では単純な選択の問題なんです。つまり、その当時の日本の社会では、詩を書いたんじゃ飯を食えなかった。だけど、小説を売れば食っていけた。太宰治は結婚というのが目前に、これから生きていくことを考えたら、小説を書くしか食う道がない。それは室生犀星が小説を書くしか食う道がなかったというのと対応している狭い場所での選択だったんじゃないか。
 だから、太宰治は詩というものに対する憧れもやっぱり。『右大臣実朝』の中では十分に書いたけど、あれは、じぶんがいかに詩というものを断念して、大事な宝物として置いておくかという、そういうところから、小説は書けば書くほど脱落していくというか、なってくるんだとおもいます。だから、詩を書くことが許されなかった、そういう条件の中にいてしまう小説家の悲劇というものもあるいはあるでしょうし。

(長野さん)
 あの時期、萩原朔太郎が『詩人は散文を書け』というエッセイを書くわけです。だから、昭和という時代にも関わってくるのでしょうけど、いまの非常に自家撞着に近いようなことをいうわけです。だから、むしろ散文とか、小説を書いている人の、あるいは、評論を書いている人のなかに、むしろ詩人が多いのだと、いわゆる詩人のなかにはないんだと、それと、たぶん、いま菅谷さんがおっしゃっていることは、すごくかかわりがある、そういう意味では、伊東静雄なんかは、ほとんどあだ花というか、狂い咲きのような形で、一回限りのものが出たような感じだったのかもしれないですけど。

(菅谷さん)
 もうひとつ、文学としてものを書くということをあるところまで問い詰めていっちゃうと、詩と小説の区別が、本質的になくなる場所があるだろうという気がするんです。
 カフカという人は、べつに作品を売らなきゃ食えないから小説を書いたわけじゃないけれども、いったい、カフカという人の作品の、ある究極のところを見ていくと、これを小説と呼んでいいのかどうか、ぼくの大好きな作品では、これもやっぱり実体はよくわからないだけど、土の中に巣をつくって生きている獣の話で、いまの新しい訳だと『巣穴』ってことになっているのかな。昔の訳だったら『家』という、これはまったく一人称で書くわけです。
 その一人称で書かれれば書かれるほど、ある実在感に近いようなイメージを膨らませていくわけです。まさにこれは人間じゃないわけです。まったく人間じゃないけれど、しかし、おれといってもいいし、わたくしでも。一人称そのものになっていくという、できあがる空間というのは何かというのは、これは、+、-の世界じゃないわけです。つまり、リアルに対するイマージナリィだから、つまり、虚数の世界、数学でいう、つまり、話そのものがすべて虚をうがっていく話だから、これは小説といえばいえるけど、書くことそのものだというところまでいっちゃっている人だし、そこのところで、ぼくは、小説という形式はある意味で近代の出版産業に支えられている面が非常に大きいわけですから、そういう極限はたぶんあるだろうという。

40 政治と文学

(質問者L)
 ちょっと話の腰を折るようですけど、さっき菅谷先生がおっしゃった、太宰治の情死という言葉がありますね、それは、たとえば、大正天皇が崩御されたときに、『改造』という雑誌を持っていただけでも、表現は悪いですけどブタ箱に入れられたということと関連しまして、太宰治の文学と政治とは、どういう関係をもっているか、ちょっとお聞きしたいとおもいますけど。情死についてからめて政治と文学に(会場笑)。

(菅谷さん)
 女と一緒に身を投げて死んじゃうということは、政治の世界というのは完全になくなっているということだよね。太宰治がいいのは、たとえば、人の死に方にいい、悪いはないとおもうけど、実際にそういうことがあったと考えられるから、事実のレベルでいってもいいとおもうけど。
 左翼運動に加わっていって、だんだん仕事が持ちきれなくなって、重たくなっていって、行き詰まってというか、逃げてくなった時に、どういう逃げ方をするかというと、女と海に飛び込んじゃう逃げ方をするんです。
 それは太宰治という人の中に、本質的に政治というものが介入しうる場所がなかったという、そういうまれにみる体質というか、あるいは気質というのかをもっていて、そのことはいってみれば、専門文学のなかで、太宰治が、もう40年も前に死んじゃうわけだけど、まだ、文学としては生き残っているけども、戦後の文学者たちの多くは、結局、政治に足元をすくわれて、まだ、いまでも足をすくわれて、足を洗えないで、そして文学をダメにしていってしまうという例は、やっぱりいっぱいあるだろうと、大江健三郎でもやっぱり、そういう意味での政治的なるものから、足がぬけない。ぼくは、あの人は1960年に足をぬいたらよかったとおもうのだけど、むしろ1960年以降に、本来、政治なんかない世界を書いて作家になったはずの人が…。

(質問者L)
 いや、そういうことじゃなくて、たとえば、見られるということです。じぶんでは政治を志向していなくても、どんな文学者でも、たとえば、『改造』という雑誌をもっているだけで官憲にみなされるという、そういう太宰治のみなされ方ですね、そういうことと全然関係ないですか。

(菅谷さん)
 そこのところはよくわからないな。そういうみなされる時代には、太宰治はじぶんで非合法組織の中に飛び込んじゃって活動してきたわけです。そういう次元なら平気なんだよ、みなされちゃったって、それから、戦争中だって、じぶんは日本の国と運命を共にするぐらい本気になってやっているのに、なおかつ軍部だとか、それから、官憲とか、いわば、『右大臣実朝』を「ユダヤ人サネトモ」と読むというバカをやって、いわば、文学を抑圧しにかかっているという、それは太宰治にある時期からの体験で、政治というものを解体しうる力というか、もののわかり方があるのかというような、だから、みなされたって、みなされなかったって、かまわないわけです。その程度のことなんか。

(質問者L)
 その程度のことならばですか。

(菅谷さん)
 だって女と死んじゃえるんだから、そういう結末のつけ方も経験してきているわけだから、そういうふうにいえば、みなされるとか、みなされないとかいうのは。

(質問者L)
 たとえば、女と心中することぐらい江戸時代の近松の文学でも出てるわけですよね。ですから、そうたいしたことでもないとおもうのですけど。

(長野さん)
 近松が何度も心中したということですか。

(質問者L)
 文学にでてますから、近松の。

(菅谷さん)
 大したかどうかというのは、それは、ぼくがさっき述べたのは、じゃあ小学校5年生が文字を読み始めて、はじめて文字の世界で、何かを読みとった時の読み取り方が、たとえば、情死という言葉だったとすればどういうことか、つまり、ぼくは小学校1年生くらいには、戦争になっていましたから、新聞を毎日読むわけです。何を読むかというと、敵艦を何隻撃沈とか、轟沈とか、そういう漢字を先に覚えるわけ、轟沈があって、撃沈があって、大破、中破、小破とあるわけ、それはいまの子どもでいえば、ホームラン、三塁打、二塁打、シングルというような、そういう感じだよね。

(質問者B)
 いまちょうど政治の話がでたので、前からどうしても吉本さんにお聞きしたいとおもっていたことを聴きたいとおもいます。さきほどちょうど『人間失格』の評価のところで、吉本さんの話は終わったとおもうのですけど。そこで、吉本さんは『人間失格』をそんなに評価してらっしゃらないと、衰えがみられるというふうにおっしゃっておりましたけど、ぼくがちょっと対象的だとおもいますのは、『人間失格』の新潮文庫の解説を奥野健男さんが書いてらっしゃるのだけど、奥野さんは逆にすごい『人間失格』のことを称賛しているわけです。ほかの作品が消えても、これだけは永遠に残るだろうと、ぼくが読んでいちばん印象的だったのは、そこでドストエフスキーを出してきているんです。
 どういうことかというと、ようするに、これは『悪霊』ですとか、『カラマーゾフの兄弟』ですとか、そういった作品に比べて、そういったすごい壮大な展開こそないけれど、その深さの点では、『地下室の手記』を超えていると、そういうふうなことを書いてらっしゃったんです。
 『地下室の手記』というのを読むと、『人間失格』と構造からなにからすごい似ているわけです。ある意味でそういう世界から疎んぜられているといいますか、そういった人のなかば半狂乱の手記みたいな形を2つともとっているわけなんですけど、いちばん違うのは、太宰がそこで終わったわけです、『人間失格』で。逆にいえば、ドストエフスキーはそこから始まったわけです。やっぱりそこは似ているんだけど違うところだと。

(長野さん)
 でも、初期の作品でも似ているんじゃないの、ある意味では。『晩年』のなかに収められたものとか。

(質問者B)
 わたくしが言っているのはそういうことじゃなくて、ようするに、その2つが象徴的に似ていると奥野さんも言っているわけで。

(長野さん)
 奥野さんの話でしょう、それは、奥野さんの言っている話でしょう。

(質問者B)
 誰が読んでも、ある程度はそういう意味が理解できるとおもうので。

(長野さん)
 それはちょっと違うので。

(質問者B)
 いや、違います。ちょっと先生、口出さないでください。
 おれが言いたいのは、そこのところで、どうしてその作品が同じような作品なのに、ひとつが出発点となって、ひとつが終着点になったかというと、その前提となる政治体験の重さといいますか、そこで何を二人が掴み、何を掴まなかったかというのがひとつのポイントになるんじゃないかとおもうのです。
 いま政治というのが出てきましたけど、ドストエフスキーにとっては、政治体験は、すごいハードなものだったんじゃないかと、小林秀雄なんかも言っているんですけど、それは、文学青年の一時的な気の迷いですとか、そういったものではなくて、実際、銃殺にされる直前までいったと、そういうふうに理解しているわけです。
 太宰の場合は、逆にそれは麻疹のようなものだったんじゃないかと、いまでいうと、ロックをやるとか、暴走族をやるとか、そういうのと交換できるぐらいの比重しかなかったんじゃないかという感じがするんです。
 で、菅谷さんも先ほど政治的なものに染まらないみたいなことをおっしゃっていたので、なんか僕はそういうふうな感じがするんですけど、そこらへんのところで、ちょっと吉本さんのお考えを聴きたいなと思っていたんですけど。

(吉本さん)
 ぼくは、あなたの理解の仕方というのは大雑把すぎるような気がするんです。だから、そのことに直接答えることになるかわからないけど、奥野さんの、これは傑作で後世まで残るだろうという言い方をされていたのを、ぼくは読んでいないですけど、されていたとすると、ぼくが同じ言い方をすれば、太宰治の作品といいましょうか、あるいは、作品群でもいいですけど、それはたぶん、さきほどは古典というふうに言いましたけど、これは後世まで読まれるでしょうと、ぼくはおもっています。
 そういう言い方ならば、奥野さんのあれと同じような気がするんですけど。『人間失格』の作品がと限定してということじゃなくて、太宰治の作品、あるいは作品群というのは、たぶん、これは古典として残るぐらい読み継がれていくでしょうというふうに、ぼくはおもっていますけど。ぼくだったら、そういう言い方をしますということがひとつあります。
 それから、先ほどの菅谷さんのあれと、つまり、政治と文学という、そういうことと関連していいますと、微細なことを言うんじゃなくて、原則的なことをいいますと、政治ということに非常に関心が深い作家というのがいるわけです。野間宏でもいいし、中野重治でもいいわけですけど。小林多喜二でもいいですけど。そういう作家がいるわけです。
 それと太宰治とどこが違うかというと、タイプが違うような気がするんです。つまり、たとえば、中野重治という人は、政治というのを文学的にやり、文学というのを政治的にやる、類型としていえばですよ、ニュアンスはいろいろあるんです。それなりにたいそうな人だな、たいへんな人だなとおもいますけど。そうじゃなくて、ニュアンスでいえば、そういうタイプがひとつあるんです。
 いまの大江さんでもそうだとおもうんですけど、大江さんは政治というほどじゃないけど、政治にくっついたり、離れたり、そういうことを文学的にやる人と、それから、文学を政治的にやる人と、そのどちらかでやっているタイプと、それから、政治はあくまで政治だという、文学は文学で、関係なんかありゃしないよというタイプでいく人と、大雑把にいいますと2つあるとおもいます。太宰治はやっぱり政治は政治で関係ないよ、文学なんかというのが太宰治のやり方だったとおもいます。
 だから、あの人はどこまでというのは、これこそ研究家の人に聞かないとわからないけど、かなりな程度、政治的に深入りしています。ふつうの文学者がなんとかに署名したとか、そんな程度じゃなくて、ようするに、かなり行動的に深入りしたんです。つまり、本郷なんとか地区とか、神田なんとか地区の行動隊長だったって書いているところもあります。小説の中で。やっていたということを書いているところもあります。つまり、政治ということにかなり深入りしています。
 そのときには、太宰治という人は、文学というのはようするに社会的抑圧からでた屁みたいなものなんだみたいなことを言いもし、また考えもしていたとおもいます。ところで、今度は必然的にそういかざるをえなかったわけでしょうけど。文学をやったわけです、今度は。始めたわけです。
 それで、ある意味で、これでもって食べていこうとも思ったでしょうし、これでもって自分が若い時から表現したいという欲求がなんかあって、それをぜんぶ解き放とうという感じもあったし、それからまた、これなしには、じぶんはもう生きていることができないよみたいなこともあったと思いますけど。
 そういうことで、文学を始めたときには、政治なんか問題にしないです、関係ないと思っているわけです。ただ、ようするに、わずかに残っているとすれば、使命感という言葉でいいとおもう、つまり、じぶんは負の役割をするんだという、小説の中でそれはでてきます。倫理としてもでてきますけど。そこにわずかに残っているので、文学と政治なんていう考え方はなかったとおもうんです。
 政治は政治であり、文学は文学である、政治は具体的な行動であり、それから、文学というのは紙の上のフィクションの問題だというふうに、そういうふうに考えて、そういうタイプの人と、両方あるとおもいますけど、太宰治はそういうタイプだったとおもいます。だから、こういうタイプの人もいないことはないんです。
 たとえば、いまの現存している人でいえば、埴谷雄高という人がいますけど、この人がそうだとおもいます、ぼくは。政治をやっている時はかなり深入りしていると思います。そのときには、文学なんてあまりあれだと思っていたとおもいます。
 ところが、いったん文学を始めたら、ほんとうをいうと政治なんてどうでもいいんだという、具体的、現実的政治がどうなったって、なんとかに署名したしないとかはどうでもいいんだとおもっていたのが、それでもいろいろやるわけでしょうけど。本音をいうと、そんなことぜんぜん問題じゃないというふうに、構造はなっているとおもいます。
 つまり、大別するとその2つの構造があって、太宰治はそのひとつの構造のほうの人です。だから、あなたのような疑問というのは、ぼくは太宰治の場合には、あんまり生じていないとおもうんです。

(質問者B)
 じゃあ、もし現存しておりましたら、やっぱり、吉本さんが物議をかもした『「反核」異論』ですね、ああいった署名に対して、やっぱり吉本さんのように、建設的な、偽善的なことはやっちゃいられねえというふうに対応したとおもいますか。

(吉本さん)
 少なくとも署名はしないです(会場笑)。そういうことにあれじゃないとおもいます。構造が違うんです。政治というものと、文学というものの考え方の、同じ次元では決して考えないタイプの人だとおもいます。だから、ずいぶん茶化して、ほんとうをいうと、小説の中では、政治行動というのをうんと茶化して、情けなく、だらしなく書いているけど、ほんとうはそうじゃなかったと思っています、ぼくは。そうとう真面目に、そうとうな深入りをしたとおもってます。
 ただ、その深入りの動機というのは、じぶんの場合には、じぶんの家が大地主の家で、いってみれば、政治的な意味あいでは没落する以外に取り柄がないような家に育って、そういうようなところで自分はだらしなくあれしてきているというのが、これはどこかでそれを解消したいみたいな動機があってやっているから、そんなにいいあれじゃないんだという言い方をします。それはたぶん、本音なような気がするんです。
 だけど、やっていることはそうじゃないです。そうとう深入りして、そうとうやっています。そして、やめたら文学で、文学と政治というのは関係ないですよという、そういうタイプの、大別するとそうだとぼくはおもいます。

41 『人間失格』には生涯が見える

(長野さん)
 時間もあと25分、予定していた時間からいきますと、25分と迫ってまいりましたから、村瀬さんが先ほどから大いなる沈黙を守られていらっしゃるようですけど。

(村瀬さん)
 頑張って『人間失格』を弁護しないかんと思っているんですけど。ぼくは何度読んでもすごいなと思うんです。人生が描かれている、生涯が描かれているということを言ったんですけど。たとえば、漱石の『門』であったり、『こゝろ』であったりする場合は、三角関係であったり、人間のしがらみが書かれていて、あそこから人間の生涯が見えてくるというのは、かなり深読みしないと見えてこないとおもうんです。
 だけども、『人間失格』は生涯が見えるという、その見えるというのは、たとえば、歌謡曲の中で、あのとき私は死んだとか、あのとき私は生まれたとかいう歌詞があります。あなたと出会って生まれた。やっぱり、生まれて、あの人と別れたから死んでしまったんだという感じの歌詞もあるとおもうのです。だから、生まれて死ぬというのが、それが生涯だとおもうのです。それを核にして、それをどういうふうにいかすのかというのがあるとおもうのです。太宰はあのとき生まれて、あのとき死んだとおもうのです。それを核として持っているとおもうんです。
 ぼくは障害児のお母さんでも、かなりしんどい子どもを自分が産んで、世間との関係で一旦死ぬようなことがあるとおもうんです。死んだ後はやっぱり子どもみたいに生きようとか、笑って生きようみたいな、そういう開き直りもあるとおもうんです。『人間失格』というのは、いったん自分が死んだ、その体験を、吉本さんの言葉でいえば、臨死体験というんですか、上のほうから、高みから、初めて見られているような、ああいう作品構造になっているとおもうんです。
 だから、その高みまで上がれたというのは、あの作品以外にないとおもうんです。だから、じぶんがなんか中毒したとか、心中起こしたという事件は、確かに何回か書いているけど、あれだけの生涯として、あれだけの生涯と見える高さまでのぼったというのは、あの作品しかないんです。
 だから、逆にいえば、結局、そこまでのぼったというのは、半分死んでいるというか、そういう意味で、吉本さんの言われる、もう半分死んでいるから書けたということもあるとおもうのです。だけども、あの溺死体験というのが、その生涯が見えるところまでのぼっているというのは、他の作家ではないとおもうのです。そこらへんで弁護したかったというのはあるんです。
 最後に、さきほど、障害児の方が一人おられて、ぼくは他には言わなかったですけど、太宰に一人、障害児の子どもがいるんです。知恵遅れの子どもがおられる。二人目だとおもうのですけど、これは津島祐子さんの新しい作品にダウン症という形で出てくるとおもうんです。本当にダウン症であったかどうか、僕はわからないのですけど、伝記を調べている人に聞かなわからないわけですけど。

(鈴木さん)
 津島さんは、ずっとそのお子さんのことを若い時から書いていますから。

(村瀬さん)
 実際の子どもというのは全然知らないのですけど。知恵遅れの子どもさんというのは、『桜桃』の中にも出てきますね、言葉がしゃべれない子どもで。そういう問題と、ぼくは吉本さんを以前、「知恵遅れとしての吉本隆明」ということでしゃべったことがあるんです。このモチーフは、今日はしきりに言ったんですけど、やっぱり、津軽がもっている位置というのは、辺境の位置になるんです。辺境というか、そういうものにこだわるというか、知恵遅れの置かれている位置になるんですけど、それにこだわるこだわり方が、太宰とまた違うんです。
 吉本さんは『南島論』というのがあるんです。あれが、太宰の中では津軽の位置になるんです。だけども、吉本さんは『南島論』を辺境というか、素晴らしい南島人がいる、南島記述がある、そういうこととしては捉えておられないです。あくまで中央との関係で相対化しようというかたちで、あの『南島論』を書かれていると、ぼくはその位置に津軽を見たかったんですけど。太宰はそれをやらなかったということで、ただ文句を言っただけです。あの試みというのはすごく評価しているんです、太宰の。
 それと、「知恵遅れとしての吉本隆明」という意味では、その位置に『人間失格』があらわれている。中央の人間に対する辺境の人間の、相対化して考えるという、そこらへんの試みとしてはすごいなとおもって、誰がやっぱりもうひとつだなと言われようと、やっぱり弁護していきたいなとおもう作品です。

42 表現史のなかの太宰治

(鈴木さん)
 やっぱりどうしても言いたいことを、吉本さんの先ほどのお話で、ぼくはぼくなりにすごくわかりやすくいえば、太宰治というのは、どういう人だったか、あるいは、太宰治は何をしたのか、それはどういう意味あいがあるのかと言ったんだけど。
 ぼくはそもそも太宰治がどういう人だったかは全然興味がないんです。どんな人だっていいんです。最後は何をやったかということだけで僕はいいんです。だから、どんな人だっていいじゃない、どんなことをやれたかということで、作家というのはどういう小説が書けたのかということで評価したいということなんですけど。
 そのときに、吉本さんが先ほどチラッとおっしゃったことと関係するんですけど。こういう資質の人が、こういう小説を書きましたというふうに、そして、こういうふうに意味がありますと、非常にうまく説明できるとします。今日は、吉本さんから初めて聞いたことがいっぱいあるし、これからもっとうまく構造化できるとおもうんですけど。
 もうひとつ、どうしても加わってくるファクターがあるとおもうんです。それは言語ということでもいいし、先ほどの菅谷さんの話と関係することでいえば、時代におけるフィクション、小説なら小説とか、規範性みたいなものはどうしても背負うんです。これは絶対に誰も抜け出せないことです。いや一歩は抜け出すかもしれない。その時代における小説の規範。
 たとえば、太宰治の小説を誠実さということで読むとするじゃない。私はこんなに誠実に生きてきましたという、いくらでも訴えますよね、太宰は。でも裏切られたとか、すごく傷ついているとかやるでしょ。だけど、それは、そこで捉えているかぎり、葛西善蔵と変らないですよね。そのことをいうかぎり。こんなに誠実に私は生を生きているのに、じぶんの生を生きているのに、みんなに馬鹿にされて、社会から排除されて、でも私はって、すごく美しく書くわけでしょ。抒情詩っぽく書くわけです。そういうふうにいっちゃったら、葛西さんとある意味では変わらないでしょ、太宰の小説は。そうじゃないんです、太宰は。一歩、葛西を超えたとしたら、吉本さんが言っていた人称のドラマとか、それが加わってくるから太宰なんです。そうだと思うんです。
 だけど、そういうことは、さっき畑さんが、牧野だって人称のドラマみたいなこと、人称のドラマと言っていいかわからないですけど、分身を自分でいっぱい作って格闘させてみたり、すごく苦労しているわけです。その時代の文学者が、じぶんが時代の中で生きていくことをなんとか表現しようとしてやっているわけです。
 だから、そのなかで、太宰が何をできたのかという時には、やっぱり、吉本さんが「言語美」でやった、ぼくは表現史という概念を使うのですけど。もっと作品の形態とか、表出とか、表現とかの、自己表出と指示表出の、あのシェーマじゃなくて、作品が形態をとる時に、そこに作家の思想があらわれるというんでしょうか。書いてある内容じゃなくて、吉本さんがずっと言われていたでしょう、ストーリーの主題のところじゃなくて、最後のところに、たとえば、「メロス」だったら、太宰が出てくるとか、倫理だとか、あるとおもうんです、そういうところって。それはやっぱり、完成度とか、作品の形とかいったら、余分なものかもしれないけど、その付け加えざるとえない、エネルギーみたいのがあるとおもうんです。
 そういうかたちで、一つ一ついままでの規範を破っていくことに、やっぱり太宰が太宰である、他の作家と違って、ぼくらに訴えかけてくる。もちろん他のいろんな要素があるかもしれませんが、とりあえずいうと、作家の資質と方法とでは免れ得ない、それだけでは太宰治という作家を説明できない。何を太宰が破ったのかという、その時代をどう超えたのかということです。
 表現の時代を、時代の表現をと言ったらいいのか、そこのところで吉本さんは、今日は、はっきりと人称のドラマとおっしゃったけど、すごくそれでヒントを得たことはあるわけですけど。それは、ぼくは吉本さんの責任だとおもうんです。それをやっていただくことが。
 もちろん、それなりにぼくらも考えるわけですけど、ぼくらが『言語にとって美とはなにか』に学生時代、すごく影響を受けて、吉本さんが自己表出と指示表出といったって、やっぱり、作品を説明している時は、吉本さんでもそれだけの説明していないんです。やっぱり、作品の筋を言い、構造を言い、でしか説明できなかった。ぼくらは、それをやらなくちゃと思って言ってきたつもりなんです、表現史とか僕がいうときに。それでぼくは、さっきがっかりしたと、『悲劇の解読』で。あえて。
 もちろん、『共同幻想論』やなんかで、フロイトとか読んだときも、仕事は仕事なんだけど、それを文学の世界にかえってくるときに、『言語にとって美とはなにか』の吉本隆明が、今日では、僕はまだ満足していないというのがあるわけです。表現の規範性とか、その問題は吉本さんどこにいっちゃったんですか、今日はそれを言いたいがために来ました。

(長野さん)
 たとえば、それは一人称の中に六人称が入っているみたいなところがあるとすると、そうすると、一人称が詩の世界だとすると、そうすると、詩を破って小説を破ったみたいなところがあるんじゃないですか。噛み砕いちゃえば。詩も破ったし、小説も破っちゃったみたいな。そういう意味での形だみたいな。

(鈴木さん)
 それは太宰だけが破っているんじゃなくて、いろんな人が少しずつ少しずつ噛み合っていることでしょう。それがぼくは歴史だとおもうんです、表現の。

43 いま、批評はどう可能か?

(吉本さん)
 いま鈴木さんの言われたことで、わずかに言えることがあるとすれば、そんなに僕は進歩が速くないからあれなんだけど、とにかく『悲劇の解読』のとき、鈴木さんはそういうところは読まなかったかもしれないけど、おれはわずかにあそこは、初期の読み方というものをわずかに足したんです。それはたびたび言うんだけど、ようするに、初期の作品の読み方というのは、普通の人の読み方で、誰でも同じで、ようするに、ある作品があると、そこの非常に印象深い箇所がいくつかあって、場面があって、それを繋ぎ合わせて、一種の作品の印象をつくると、そうしておいて、この作品はこういうのだとやっておいて、これはどこからでてくるかというふうに論ずるみたいな、そういう言われ方が自分なりに面白くないなとなっていたんです。
 そうしておいて、だからそこのところで、むしろ、なんかそういう読み方からすると、あまり、印象に残らないところが捕まえられない批評というのはダメなんじゃないかなと、ぼくはおもいだしたわけです。それで、すこしそういうことを批評の中に取り入れて、そういうことができる批評というのは可能かどうかというのをやってみたいというのがあって、『悲劇の解読』の太宰治論のそのなかに入るわけだとおもいますけど。そういうふうな試みをして、じぶんなりにちょっとだけ俺は進歩したというふうに、ぼくはおもっているわけです。
 ところで、あなたのおっしゃったように、だけど批評というのは、批評がどういうふうに可能なのかといった場合に、あなたのおっしゃるとおりで、なにもひとつの文学作品が、筋書きがこうであります、そして、それに対して、これはこうおもいますし、ここはまずいし、ここはうまいし、ここは作者のどういうところから出てきてみたいな、こういう馬鹿なことをいう、これはダメなんじゃないかとおもいだしたわけです。思っているわけです。ぼくはいまでも思っているわけです。それはあなたの回答といいますか、つまり、ぼくもそう思っているわけです。だけどそれはなかなかできねえなと、むずかしいなということがあるんです。これはつまり、批評の言葉の無策なんです。
 それから、これは文学作品を見ても、はじめからうんざりするという作品はたくさんあるわけです。こんなのは冗談じゃないですよみたいな、そうすると、根本的に突き詰めていくと、やっぱり、文学作品というのは、いま可能なのかみたいな問いになっちゃうわけです。批評というのは可能なのかと同じで、それから、だいたい読むことは可能なのかという、作品を、そういう問いになっちゃうわけです。それは、ぼくは現在抱いている問いなんです。
 これはやっぱり、鈴木さんが言われたことは、やっぱり、ぼくも課題であるわけなので、これは、ぼくはどこかでやっぱりできなくちゃ嘘だとおもいます。どこかでやるべきじゃないかとは思っています。文芸批評の課題として、それがぼくの答えです。
 けっして、いま言われたことを、ぼくは『悲劇の解読』のところで、ぼくはとどまっているわけでもなんでもないです。いつも考えているわけです。批評というのはそうだとすると、作品のいつでも後を追いかけていって、内容がこうなってこうできていますとかいうことを言うというのが商売みたいに、それが仕事みたいになっている、これはとんでもないことなんだというふうに、いつでもおもっています。
 そうじゃないはずなんだと、そうじゃない批評の様式があるはずなんだというふうにおもって、批評って一般的に文芸批評でいいのですけど、それは、ぼくもたえず頭にあるんです、課題なんだということは、鈴木さんのいま言われたことに対する僕の回答なんですけど。けっしてうまくできていないんだよなということがあるんですけど。考えて、いつでも課題として持っているということはあるんです。そこらへんがぼくのあれなんですけど。

44 イマジナリーナンバーとしての太宰治

(長野さん)
 いま、ちょうど『悲劇の解読』に戻ったから、オチにいいところにいきたいなと思うんですけど。でも、吉本さんは初期で高村光太郎論の中で展開したものも、ある意味で『悲劇の解読』になっているとおもうんです。そして、いまちょうどここに、いい格好の方が、菅谷規矩雄さんという方がいまして、『悲劇の解読』で展開している、いわゆる菅谷さんの言葉でいえば、「原理的批評」とでもいうのでしょうか。一つの生成の原理みたいなところで、等身大に作家を見ていこうという。そのへんで、菅谷さん、最後にちょっとこう、いまの関連した話で。

(菅谷さん)
 ぼくがいまやりたいと思っていることは、太宰治という思想というものをまったく読み替えてみたいということです。どういうことかというと、太宰治の思想ということを論じた人はいっぱいいるだろうとおもうけど、その論じたものを、吉本さんがひとつだけ指摘していることを除けば、これは太宰治は無思想だって言っちゃったほうが、話のわかりがいいんだという、そこのところから出発できるとおもうんです。
 そうすると、吉本さんが負の十字架という、魂というものの行方を負の方向にという、その負の方向というのは、じつはこれはプラス・マイナスのマイナスではないとおもうんです。いってみれば、虚数単位だということ、つまり、それはどういうことかというと、さっきドストエフスキーのことを持ち出しました。そうすると、たぶん太宰治の非合法組織での政治体験というのは、埴谷雄高がじぶんのことについて書いているのと、ほぼ同じぐらいのことはやったと言えるとおもうんです。
 そのときに埴谷雄高はいわゆる「転向」という言葉で世界を反転させますが、これは無限に観念を肥大させるというやり方、それによって政治の世界というか、左翼思想を一度ふっきってみたい、太宰治は、それはあるものをゼロに還元してしまったときに、じぶんは虚数単位ですね、イマジナリィナンバーのイマジナリィ、二乗したらマイナス1にしかならない、そういう次元を探り当てるための努力をしたんだとおもいます。
 そして、それはどういうことかというと、それこそ太宰治の時代というのは、日本にハイデガーの『存在と時間』をはじめとする現象学の理論が導入されてくる時で、それから、だいたい50年以上経っているんだけど、つまり、ハイデガーの存在するもの、現存在というものがある、それと存在の区別でいうと、現存在というのは「いる」という、フェイズというか、位相に存在するものです。
 存在という言葉自体は、だから日本語では「ある」ということと、「いる」ということに分裂しているのであって、そのことを日本の小説家たちが、「いる」という言葉と、「いない」という言葉を、どれだけ意識して使っているかということで、まったく日本語として、それは読み替えることができるんだということを、ぼくは言いたいわけです。
 そのときにはじめて、太宰治の、ぼくが言った「いたたまれなさ」というのが、つまり、ハイデガーの言葉でいえば、実像という言葉と関連するんだけど、「実像」と言ったら思想に聞こえて、「いたたまれなさ」と言ったら、単なる日常的な感覚で、いわば無思想のレベルにしか立てないようなことと感じられるんだけど。
 埴谷雄高という人は、まさに観念の観念という形で提出されたものとして読んできたときに、あるとき、ハッと気がついたのは、埴谷雄高という人には「いなくなる」という言葉、それから、「いる」という言葉をある意味で取り払ってしまえるというか、「ある」ということと、「いる」ということは、日本語では位相が分裂しているということを問題にしないで済んじゃっている。
 だから、これは日本語の思想じゃなくてもいいというか、もっといえば、文学というのは、日本語の核心から思想を汲み出せる力というものを持っているはずで、それはつまり、ハイデガーを翻訳するよりは、太宰治を読み解いていくほうが、日本語の現象論というものの領域が開けるんじゃないか、そういうことを考えているんです。

45 司会

(長野さん)
 どうもありがとうございます。非常に最後、『悲劇の解読』のところに戻りまして、むしろ、鈴木さんの提案もありましたように、吉本さんがいちばん意識している部分、あるいは。やらなきゃならないと思っている部分というところに触れて、いいオチができたのではないかと、そういうふうにおもいます。
 このまま続ければ、たぶん、キリがないところまでいってしまうでしょうし、吉本さんは今回、一か月すこし前に、たいへんアクシデントがありまして、今回、こちらのほうに来られないんじゃないかとおもって、我々スタッフも非常に心配したのですけど、無理をおして来ていただきました。これ以上、引き伸ばしてするのは、体調の問題もございますので、このあたりでお開きにしたいとおもいます。みなさん、拍手をお願いいたします。(会場拍手)
 弘前大学の近代文学研究会のほうから、ささやかながら4人のゲストの方にお土産をさしあげたいとおもいます。温湯のこけしです。一尺二寸のこけしです。津軽のこけしです。どうもありがとうございました。

(スタッフ)
 今日のシンポジウム、これですべて終了となりました。一部から数えますと、およそ8時間、いろんな言葉とか、おもいとかが、浮かんだり、溢れたりしていることとおもいますけれど、これでシンポジウムを終わりとさせていただきます。今日は、皆さま、ほんとうにご来場ありがとうございました。(会場拍手)



テキスト化協力:ぱんつさま