(司会)
それでは時間なので、オープニングセレモニーの第四部、吉本隆明氏の講演会を始めたいとおもいます。5時半くらいから、90分~120分話していただいて、その後、30分ないし1時間くらい、今回は特別に大幅に質疑応答の時間をとっておりますので、自由に質問いただいていいとおもいます。まず、最初に、6時半くらいには遅くとも終わりたいと思っておりますけど、最初にちょこっと今回のセレモニーに関しての位置づけみたいなものを山田先生のほうでやってみたいとおもいます。
(山田先生)
一部、二部、三部、四部というふうにありまして、映像と音と吉本さんというのがどうくっつくかということなんですけど、全然関係ありませんので、ようするに、この名古屋校16号館が新しくできたということで、簡単なセレモニーをやろうということで、何がいいんだろうかということで、できるだけ一般受けする映画と音楽をやっておいて、あとですこしハードな内容にしようということで、吉本さんにやってもらうということになったわけですけど。
それから、7月16日になぜやったかというのは、こちらはよくわかりませんでしたけど、どうも16号館というのと16日というのを単にかけただけのようで、吉本さん自身も呼ぶということについては、特別にどうのこうのという意味づけをする必要はないのですけど、ただ、予備校という場所、それから、今度できたこの建物そのものが、吉本さんのいう都市のイメージというところに近いところがありまして、いま入っているところが非常に新しくて立派なわけなのですけど、その隣にある15号館というのがいちばん最初にできまして、それから、もうひとつこちら側にある16号館というのがこれからできまして、そのあいだを繋いだのがこの新しいホールということで、ようするに、継ぎ接ぎなんです。継ぎ接ぎでどんどん古いものの中に、新しいものをつくっていくという、吉本さんはそういうところに都市のイメージをもっているようなんですけど。それと吉本さんの語っている都市のイメージとこの建物はそのまま接続するんじゃないかということもありまして、吉本さんが講演するにはふさわしい場所じゃないかというふうなことを考えまして、今回、呼んでみたわけであります。
吉本さん自身に関しては、いろんなものを書いてきている人がおるわけですけど、最初に吉本さんに接した、本を読んだのが、たぶん、ぼくが20代だとおもいますけど、いまもって、相変わらず、ある程度の知的な刺激を与え続けている人じゃないかというふうな感じがいたします。予備校そのものはかなりぐちゃぐちゃとした場所でありまして、継ぎ接ぎの世界だとおもいますけど、そのぐちゃぐちゃした世界をさらにぐちゃぐちゃしていただこうというつもりで吉本さんを呼んだわけですから、あとの質疑応答のところで、もっとぐちゃぐちゃしていただければ、今回の目的というのは果たされたというふうに考えていいんじゃないかとおもいます。以上をもちまして、最初の前置きでございますけど、これで最初は終わりまして、吉本さん講演に移らせていただきたいとおもいます。
吉本です。去年でしたか、今年でしたか、名古屋に一度来たことがありまして、そのときもこの手の地図を持ってきたような気がします。地方興行をしている旅芸人みたいな、出し物が決まっているという、そういう感じがしないでもないですが、できるだけ違うようにお話したいとおもいます。
さっそくはじめますけど、これはランドサットからの、大阪のほうは今日は言わないのですけど、大阪地区の周辺のランドサットの映像です。ランドサットの映像というのはどういう映像かといいますと、むずかしくいえば、むずかしいわけですけど、簡単にいえば、だいたい900kmくらい上空に人工衛星が飛んでいて、それで、地表から反射してくる普通の可視光線と赤外線と紫外線とがあるわけですけど。それを鋭敏に感受するセンサーが人工衛星の中にありまして、そのセンサーに反射する地表からの光をコンピュータで分析しまして、それをこの場合には、地上の中継所があって、そこでまたコンピュータ処理をして、色彩を処理して、こういう映像ができあがっているとおもいます。だいたい900kmぐらい上空から下のほうは200kmくらいの範囲の視界をもっているわけです。
今日はランドサットの地図にちょっと細工をしてきたんですけど。細工は、皆さんのほうから見えないでしょうけど、いくつか仕事をしてきました。そのことをもとにしてお話したいとおもいます。このランドサットの映像というのは何が特徴かというと、いろんな特徴があるわけで、いちばん大雑把な特徴というのは、こっちにくると吉野川ですけど、こういうような大きな川とその流域というふうに、ふつうの地図だったら、航空地図だったら、そういうふうに写らないわけです。ところが、これでやりますと、ここが中央構造線という、つまり、地質上の割れ目がここに通っているんだということが、なんとなくわかります。つまり、単なる河川の流域じゃないということがわかります。
これは紀ノ川のところですけど、よく見ますと、四国にも通りまして、九州もここで阿蘇山のところを境目にして、九州も分断されています。だから、そういう中央構造線というのが通っているのであって、その表れだということがわかります。このことは超航空じゃないとわからないところがあります。
それから、構造線というのは、中部地方のどこかで、糸魚川と静岡を結ぶ線で、よじれ目というのが日本列島にあるわけです。ホッサマグナというふうに言われていますけど、よじれ目というのもそれでわかります。ここらへんがよじれ目です。それもわりあいによくわかります。そういうことがさしあたって大きな特徴なわけです。
それから、ランドサットのセンサーの構造というのは、いろいろ面倒なことがありますけど、さしあたって、今日は言わないので、そういう映像で撮られたものが、この地図だということがひとつあるわけです。
ぼくが細工をしてきましたのは、何かといいますと、これは大阪ですけど、これはいわゆる大和・奈良地方なわけです。奈良盆地であるわけです。ここらへんのところはクンナカというわけですけど、奈良盆地であるわけです。それで、ここが吉野の山のなかであって、ここが大和盆地とか、奈良盆地とか言われているものです。つまり、何をやってきたかというと、ようするに、ここは日本国家創世期といいましょうか、つまり、創世期の様々な問題があったところだということがあります。
そのことでちょっと細工をしてきたわけですけど、四角い黒いポッチでもって貼りつけたところがあるわけです。ここらへんが金谷ですけど。こういう四角いポッチで貼りつけたところ、これが橿原です。それから、これが新沢です。こっちは吉野川の流域なわけです。ここは竹内です。四角いポッチは布留です。そうすると、四角いポッチでつけてきたところが、縄文期の遺跡があるところです。
そのあいだに三角でもってつけた場所があります。それはおわかりにならなくてもいいわけですけど、四角いポッチよりもやや内側に分布していることがあり、これは、弥生時代の遺跡があった遺跡跡で、いろんな発掘物が見つかったところが三角で、四角のポッチのやや内側にあるというふうに、そう考えてくださればいいとおもいます。
もうひとつ、最後に丸いポッチでつけたところがあります。これはようするに、『古事記』とか、『日本書記』でいいますと、神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神というふうにいくわけですけど。九代くらいの崇神天皇の前までの実在がどうか非常に危ぶまれている、そういう天皇がいるわけですけど、神話にはでてくるわけですけど。神話にでてくる最初の、実在を危ぶまれている天皇の宮殿があったといわれているところです。つまり、宮殿がここにあったと書かれていますから、それを現在のこっている地名に照らして、ここに貼り付けますと、だいたい、神話にあった宮殿がどこにあったかということがでてくるわけです。貼ることができるわけです。面倒くさいです、大変なんです、ほんとは。
第一代の神武天皇というのは、橿原に宮殿があって、そこで即位の式をあげて、そこで政治を執ったというふうに書かれているから、橿原のところに宮殿があるわけです。それで、たとえば、二代目だといわれている綏靖天皇というのがいるわけで、綏靖天皇というのは、なぜか飛んで、ここらへんに宮殿の跡があるわけです。第三代目になります、安寧天皇といわれている天皇の宮殿の跡というのはここらへんにあるわけです。いずれにせよ、そうして、六代が孝安で、五代が孝昭です。それで、また四代目の懿徳というのがここらへんにきて、八代目も…最初から言わないとわからないな、神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・・・孝元天皇です。これがここらへんにあるわけです。ここらへんに宮殿を設けて、政治を司ったというふうに、そういうふうに記載されています。
しかし、歴史学者というのは、なかなか実在を怪しんでいる人が90%であって、あと10%ぐらいは、最近はそうじゃなくて実在している、たとえば、民間の歴史学者、古代史学者で、古田武彦さんという人がいます。古田武彦さんなんかは実在したと言っていますし、それから、関西の人で鳥越憲三郎さんという、関西大学の先生ですけど、その人もやっぱり、実在していると言っています。鳥越さんなんかは葛城地方に宮殿をもっていたので、葛城王朝があったというふうに、だから実在だというふうに考えています。そういう人も歴史学者にはおります。
いずれにせよ、そういう宮殿があって、初期の日本国家が、ほんとうはここから始まったのか、崇神天皇から始まったのか、わかりませんけど、実際に確定はなかなかできないのですけど、とにかく、そこらへんで日本国が始まったというふうに言われているときの宮殿跡はどこにあったかということをここにポッチをつけてきたわけです。
これだけのことをつけてきますと、どういうことがわかるかということがあります。たとえば、樋口清之さんという考古学者の考え方みたいなものが論文にありますけど。その論文によりますと、だいたい、樋口さんという人は神武天皇は実在だというふうには言わないのだけど、橿原というのはここにもありますけど、縄文時代の遺跡があるところです。ですから、縄文晩期に九州のほうから、元をただせば大陸ですけど、大陸のほうで発達した弥生文化ですね。いってみれば、稲作をもとにした文化が北九州から南九州までを占めていって、それが中央の近畿地方に進出してきた、つまり、弥生文化が進出してきたということを、神武東征というふうに神話ではなっているわけです。
それは、象徴していることがいえるんだと、神武東征という神話はようするに、弥生文化が、稲作文化が、近畿地方の、つまり、大和盆地に入ってきたということのひとつの象徴では確実にありうるんだというふうに言っております。そういうことで、だいたい縄文遺跡があるところと、初期の幻の王朝ですけど、あったかどうかわからない幻の王朝の宮殿があったとされるところとは、わりあいに対応しているところがあることは、なんとなくイメージでわかります。
樋口さんの考え方をあれしますと、奈良盆地あるいは大和平野というものは、弥生時代には海抜45mか50mか、そこらへん以上が陸地であって、それより海抜が低いところはぜんぶ湿地帯、あるいは、湖だったというふうに、樋口さんなんかは論文で書いています。
そうすると、弥生時代の遺跡というのは、すくなくとも海抜45mとか50m以上のところにしかない。樋口さんの論文の言い方によりますと、奈良朝以前では海抜45mなら45m以下の大和盆地には、いかなる住居跡もいかなる遺跡も見つからないというふうに言っています。それはいってみれば、そこは水だった、つまり、湖だったということを意味することなんですけど。
それから、縄文時代にはどうだったかというと、縄文時代の線というのは、だいたい海抜70mから75m線というのが縄文時代の線であって、それより海抜が低いところは、ぜんぶ湖だったというふうにいっています。
ですから、縄文遺跡が周辺部にあるというのは当然であって、縄文遺跡が中のほうにあったらおかしいわけで、水の中だったですからおかしいわけで、やっぱり、外のほうにあるのが当然です。これは、だいたい海抜70m線というのが、縄文遺跡の分布しているところだというふうに、樋口さんは言っています。
この大和盆地と大阪平野の地形・地勢についても、樋口さんは詳細に論じておられますけど。だいたいここらへんの地形・地勢というのは、約1万年ぐらい前には、こっちに琵琶湖があって、むこうに若狭湾というのがあるわけでしょ。そっちのほうから海の水が入っていて、ここらへんはぜんぶ海が入り込んでいたところだというふうに述べておられます。
それからだんだん、どういうことになったかというと、今度は紀伊半島というのが、地盤の隆起というのがそれ以降に起こっていって、若狭湾のほうから、ここらへんは海なんですけど、海になって、こっちの地盤が高くなって、紀伊半島の地盤が高くなって、それを押し返していった。そうすると、土砂がどんどん流れていくわけですけど、ここらへんのところに土砂がうんと溜まってしまった。土砂がここに溜まってしまったらどうなるかといいますと、ここは完全に海からの湾入しているところじゃなくなって、ここで土砂が溜まって、それでここを埋めてしまったので、ここが湖になってしまったと、つまり、海水湖になってしまったと、この海水湖はあるところで淡水湖に変わるわけですけど、それはどういうあれかといいますと、これは淀川ですけど、これは大和川なわけですけど、そのときに、水はここがふさがって、なお周囲の山から山水といいますか、雨水といいますか、それが周囲から湖に落ちてくると、そうすると、ここはいっぱいになって溢れてくると、どこへいったかというと、ここらへんの切れ目を通って大阪湾のほうに、ここの中の溜まった水は溢れていきます。そうすると、水が溢れていくものですから、ここに土砂が溜まっちゃうと、土砂が溜まったのが二上山というのがありますけど、二上山の麓の砂礫層というのが、そのときの土砂が溜まってできた地層なんだというふうに言っております。
そうすると、その後、水はどうするのかということになって、水はだいたいその頃から淡水に変わって、その水はここからあれして、現在の大和川というのになって、大阪湾に注ぐようになったというふうに言っています。
そういうことで考えていくと、だいたい海抜45m線というのは奈良朝以前には水だったと、それから、奈良朝よりももっと前、弥生時代から縄文時代の末期にかけてというのが、だいたいここらへんのところに海岸線といいましょうか、湖水線といいましょうか、それがあったんだというふうに言っています。
それで、もっと皆さんは歴史かなにかを勉強しているんでしょうから、もうすこしあれしますと、ここらへんに、平城宮跡で弥生時代の遺跡があったところです。遺跡物が出てくるところです。ここらへんに平城宮というのがあって、そうすると、だいたい海抜45m線というのは、この平城宮の右側のところをずーっと通っていた。そうすると奈良朝時代ぐらいまでは、ここらへんのところはできたばかりの陸地で、ここらへんの平城宮の左側のほう、西側のほうは、ようするに、湿地帯であったということが歴史的にも記載されていると言っています。
こちら側は干上がって、45m線を通っていて、だいたいその45m線のちょっと右側というのが、だいたい平城宮の真ん中を通っている朱雀大路というわけですけど。それは京都にもありましょうか、それが通っていたのが45m線のちょっと右側のところ、宮殿を貫くように通っていたんだというふうに言っておられます。
それが奈良盆地の地勢の様相だということです。ですから、ようするに、初期の幻の王朝である葛城朝というのは、縄文時代の末期、あるいは、弥生時代の初期に、ようするに、弥生文化が入ってきたという勢力の象徴では確実にありうるんだというふうに、もちろん、神武・綏靖・安寧・懿徳というのは、実在かどうかというのはなかなか確定するのがむずかしいけれど、それはここらへんがまだ水浸しであったときに、湖岸に突き出ていた場所であって、交通にも便利であるし、そこに弥生勢力の最初の村落みたいなものができあがったという、そういう象徴ではありうるというような言い方をされております。
ところで、もうすこしやりますと、歴史といいますか、古代史というか、神話を思い出していただきたいわけですけど。神話の神武天皇というのは、ようするに、九州のほうからやってきて、広島辺りのところに6,7年いて、それから岡山の辺りで3年くらいいて、そこから、おもむろに近畿地方に入ってこようとしたんだというふうに神話には書かれています。
そのときに、いまの枚方市というのがありますけど、ここに孔舎衙というところがあって、そこのところに長髄彦というのがいて、ここは海なわけです。この孔舎衙というところに長髄彦というのがいて、神武天皇の軍隊がここから上陸して、大和盆地に入ってこようとしたんだけど、これを阻止したために、敗退して、もう海に出ていったんだと、ここらへんは海だったということで、海に出ていって、仕方がないから、紀伊半島をこういうふうに回りまして、熊野のほうに行きまして、神話はそう書いているわけです。熊野のほうへ行きまして、熊野のほうから入ってくるわけです。それで、吉野へきて、いまの宇陀郡ですけど、ここらへんに出てくるわけです。熊野のほうへ上陸して山を越えて、吉野へきて、宇陀郡のところへ入っていって、おもむろに、ここらへんに勢力を拡張するというふうに神話には書かれています。
その場合に、一度、宇陀郡のところまで出てきて、神話をみますと、神武天皇というのはそこまで出てきて、今度は手軽な兵隊を連れて、吉野の地方へもう一度入っていったと書かれています。吉野の地方を吉野川に沿って、いろんなやつを征伐してとか、ようするに、縄文時代からいた豪族たちと和解をしたり、また、それを討ち滅ぼしたりということをやって、それから、おもむろに橿原というところにきてというふうに、神話の記載はそういうふうになっています。
そうすると、そのときに宇陀地方では、これは皆さんがよほど好きじゃないと覚えていないとおもうのですけど、宇陀地方では兄猾・弟猾という兄弟の豪族がいて、弟猾のほうは妥協的なんだけど、兄猾のほうは反抗的で殺してしまったというふうに書いてあります。兄猾・弟猾という土地の豪族がいたりするわけですけど。
また、吉野のほうには井光という尾っぽがある人間がいたと書かれていますけど、井光とか、岩押分という岩を押し分けて出てきた尾っぽのある人間というのが書いてありますけど、尾っぽなんかあるわけがないですから、つまり、神武が弥生時代の勢力を象徴するとすれば、縄文時代人の豪族たちがここにいたということを意味しているわけです。
そういうふうに、地名と人名がこみで出てきて、そいつを征伐したり、それから、妥協したり、和解したりということが出てきますけど、その場合にでてくる、土地に先住していた豪族の住んでいたところというふうに神話が記載しているものは、いま、ちゃんとあてはめてみると、ことごとく海抜70m線以上のところにちゃんとあるというふうに、樋口さんなんかはそう言っています。
神話の中にでてくる地名というのは、神武天皇が征伐したり、和解して妥協したりした土地の豪族と土地の名前とがでてくるわけですが、それは、十いくつ出てくるけど、ことごとくは70m線以上のところにちゃんとあてられていること、そういうことは相当確実な根拠があったということを意味するだろうというふうに言っています。つまり、もしそうじゃなかったら、デタラメなものだったら、必ず、湖の中だとか、海の中だとか、湖の中にそういう地名がでてきたりしてもよさそうなものだけど、ことごとくそういうことは出てこないという、だから、ちゃんと縄文時代に陸地であって、しかも、海の比較的そばにあった、つまり、湖の比較的そばにあった、そういうところの地名と、その土地の豪族というのの名前がでてきて、それがことごとく全部、例外なく70m線以上にあるということからも、相当確実な地勢的・致命的根拠があるというふうに、樋口さんはそういう言い方をしています。
その場合、もちろん、兄猾・弟猾というのもそうだし、熊野のほうで土地の豪族を征伐するみたいなのがあるんですけど、そういう場合でも、人の名前が兄猾・弟猾というような、兄弟の名前なんですけど、兄磯城・弟磯城とかというふうに、ここらへんのところに、兄磯城・弟磯城というのがいて、男兄弟の名前で二人でてきますけど、並べてでてきますけど、その場合には、だいたい兄のほうが宗教的な神事を司り、弟のほうが御託宣に則って政治を司るというのが、その頃からの風習でありますので、いつでも、豪族の名前が出てくるときには、8割方は兄貴と弟というのがこみで出てきます。
神武天皇というのは、自身の兄貴、五瀬命というふうに神話の中にでていますけど。五瀬命というのは、ここで長髄彦の軍隊と戦ったときに矢に当たってけがをしちゃって、熊野からこっちに入った途中でもって、死んじゃうんだとでてきますけど、その場合の神武天皇の場合にも長兄に擬せられている五瀬命というのは、神事を司っていた人物です。
それから、神武天皇は、ほんとうは末弟です。あいだに二人、兄がいるけど、その二人は神話の記載によれば、ここらへんに入ったとき、土地の豪族に阻まれて、それは神さまの祟りなんだと考えられていて、犠牲になって海の中に入って死んじゃうとか、常世の国にいっちゃうとか書いてありますけど。とにかく、いなくなっちゃうわけです。それで、神武天皇だけしか残らないわけですけど、これはいってみれば、軍事と政治を司っていて、それで五瀬命というのは神事を司っていたというかたちになります。
それから、その次の綏靖天皇というのがありますけど、綏靖天皇というのは、神武の二番目の子どもです。第二子です。第一子は神事を司っています。じぶんは結婚したりなんかしないで、一種の現人神的に籠っていて宗教ばかり司っているわけです。じぶんのほうは、結婚もしなければ、子孫も増やさない。
そういうかたちで、長兄というのはだいたいそういうふうに神事を司る、だいたい天皇になるのは、神武・崇神から開化天皇ぐらいまで、みんな次兄が、つまり、二番目の子どもが天皇になって、一番目の子どもは、なんだかんだ神話にはいろんな理由がつけてありますけど、神事を司る人として相続はしていません。そういうことが一般的な風習なわけですけど、土地の、さっき言いましたように、兄猾・弟猾とか、兄磯城・弟磯城というのは、並列して並べてある人名の場合でも、兄貴のほうは必ず神事を司る人間であり、弟のほうがその土地の政治を司っている人間だというふうに、そういうふうに記載されています。
そういうかたちで奈良地方の初期の幻の国家ができたか、できないかという時代の問題というのは、そういうふうに展開がされているわけで、それは神話の記載になっております。だから、実在かどうかはまったくわかりませんけど、あるひとつの、地質学的というより考古学的といいましょうか、つまり、縄文文化と弥生文化という分け方をしますと、稲作が近畿地方に入ってきた二千年から三千年の間みたいな、そういう縄文末期の遺跡のところと、初期、幻の王朝の宮殿のあったところとされるところとは、だいたいにおいて一致するものとなっているというのが、こういう問題なわけです。
ところで、ぼくは何を言いたいのかといいますと、この問題をランドサットの映像で確かめてみたいという発想をとったわけです。今日のテーマに即していえば、この問題は確かめられるはずじゃないか、それはランドサットの映像に対して、もし、大和盆地のといいましょうか、奈良盆地のといいましょうか、奈良盆地の地質学的なデータを入れていきますと、そうすると二千年前にはこういう地形だったとか、三千年前にはこういう地形だったというのが、確実に出てくるわけです。もちろん、逆にいいますと、これから、現在の地勢と、それから、十年前の地図と、それから、五年前の地勢というのと、精密にそういう地質的、あるいは、地勢的、あるいは、都市・農村的データを挿入しますと、だいたい二十年後の奈良盆地というのはどうなるかみたいな、もちろん、そういう映像も出てくるはずです。
だから、これは、単に神話的記述であるか、それとも、あるひとつの学説であって、その学説によって幻の王朝だとおもわれているか、あるいは、それは実在だとおもわれているか、そういう識者の見解が分かれるとしまして、そんなことは、ランドサットの映像に対して、地質学的データを入れていきますと、たとえば、三千年前にはどうだったんだということ、それから、二千年前にはどうだったんだということ、そうだったら、神武天皇というのはいたかいないか、それは弥生勢力を象徴しているのか、あるいは、縄文末期の勢力を象徴しているのか、あるいは、実在していないんだとか、そういうことにある程度の決着がつくじゃないかとおもわれるわけです。
ぼくらはそういうふうに発想しまして、このランドサットの映像というのを、日本で人工衛星から解析しているのは、東海大学と筑波大学だということがわかりましたけど、ぼくは東海大学に電話をしまして、奈良盆地の三千年前の地勢がどうだったかというのを知りたいんだけど、あなたのところでそういうことはしているかと言ったら、してねぇっていうんです。してないまではよくわかったんですけど、あなた誰ですかって言われて、評論家だというわけにも、誰ですかと言われて困ってしまって、それだったら、公式にどこそこの研究所が三千年前の奈良盆地の地勢がどうだったか、どこまで湖があって、どこまでが陸であったか、四千年前はどうだったか、それから、二千年前はどうであったか、いま歴史家の大部分がいう二千六百年なら二千六百年くらい前にはどこまで水が入っていたんだというようなことというのを、どこか研究所みたいのがあって、それが正規に申し入れたら、それはやってくれるのではないかなという気もするわけですけど、いかんせん、ぼくらにはそういうあれはなくて、進退窮まったなということで、ぼくはそれ以上のあれが進められないので、こういう樋口さんとか、それから、奈良盆地のそういう幻の王朝時代と、それから、実在とおもわれている崇神天皇以降の時代とか、それから、古墳時代みたいな、古墳時代ということはすでに国家ができたことを意味しているわけですけど、確実に意味しているとおもいますから、そういうことの考古学的なことをやっている人たちの論文とか、そういうのを丹念に綴り合せまして、ぼくが勝手に水が入っているところをつくっちゃったというのが、このハイ・イメージのなかのひとつです。仕事なんですけど。それ以上のことは、ぼくらには手に負えないわけですけど。
しかし、理論的にいいますと、そういうことはまったく可能でありますから、いまにそういうことをやられたら、いろんな憶説というのがあるわけですし、いろんな抵抗説というのもありますし、様々な説があるわけですけど、たぶん、それらの位置の8割方は、そういうランドサットの映像地図をつくってしまったら、だいたいお開きになるといいましょうか、決まってしまうんじゃないかというふうにおもわれます。
そういうことは、ぼくらみたいな民間のといいますか、一介の物書きにはとても手に負えないことなんですけど、いまのところ、手に負える手段がないわけですけど、しかし、どこかの研究所とかそういうところは、そういうことを申し入れますと、いまにそういうのは出てくるとおもいます。ランドサットの映像をぼくらがいじって、今日のテーマでいいますと、そういうことについて確定的なことが言えるかどうか、言えないかどうかということを、ひとつのテーマとして、テーマの一分子といいましょうか、分野として、そういうことをしてみたかったわけです。その問題はいまのところ、そういうところまで、ぼくらがやったところで、あとは手に負えないわけなので、その問題は残してあります。
だけれども、問題はそういうことをどこまでやられるかとか、あるいは、みなさんがちょうど大学なんか卒業したりした頃には、そういうことはできあがってしまうのか、そういうことは皆さんの仕事なのかどうか、まったくわかりませんけど、そういう問題はひとつ、ランドサットの映像がここで存在しているということで、確実に適用することができる問題だというふうにおもいます。
そういうことだけじゃなくて、ランドサットの映像というのは、様々な適用の仕方ができるわけです。それは、たとえば、これなんか見ればわかりますけど、これは大阪の街でしょう、どこかここらへんは高層ビルディングが立ち並んでいるところだとおもうんですけど、あとは、人家が密集していたりというふうになっているところだとおもうのですけど、そういうところは、ランドサットの映像では区別がつかないわけです。一様に赤っぽく出てくるわけです。
しかし、漠然としていいますと、赤っぽく出てくる都市及び都市の伸び方、そういうものがどういうかたちで展開するだろうかという、それから、木が生えている緑地というものをどうやって駆逐していったり、どうやってそれを囲んだまま発展していくだろうかとか、あるいは、田畑というのをなかなか薄いところで区別がついているわけですけど、なかなか区別がつかないというのがあります。
しかし、いろんなタイプの都市みたいなものをそれでもって調べていきますと、そうすると、ひとつの都市の発展型といいましょうか、都市の展開型みたいなことというのも知ることができる面があります。そういうのもあるから出しますと、これは、たとえば、東京の中心地です。これはニューヨークの中心地です。それから、これはパリの中心地です。
そうすると、東京都とニューヨークとは、都市として何が違うのかということをいいますと、なんとなく、緑地みたいなものは、わりあいにニューヨークというのは保存していることがあります。たとえば、ニューヨークで公園の緑地が8.2%となっています。ところが、東京の場合には2.6%です。だから、こっちのほうが発達した都市なんだけど、わりあいに緑地が保存されているところがあります。
それから逆に今度は黄色いポチポチのところは農作地です。東京というのはごてごてした発達した都市なんですけど、農作地というのがかなり残っている、ニューヨークの中心地にはまるっきりない、存在の余地すらないというふうなことがわかります。それは都市の性格として、ずいぶん違う発展の仕方をするものだというのがあります。
これはパリというのは緑地が一目見て少ないです。農作地といいますか、耕作地といいますか、それはかなり残っていることがわかります。つまり、ニューヨークに比べたらかなり残したまま都市が発達しているのがわかります。
これでもって、アジア型の都市と、それから、ヨーロッパ型の都市と、それから、アメリカ型の都市と、大雑把に区別しちゃうといけないのですけど、ある程度はいまの言い方で、都市の特性を大雑把には言い得ているところがあるとおもいます。そういうことについても、ランドサットの映像というのは、意味をもつことができます。
ぼくらは都市論というのをやったわけですけど、ぼくらはいま言いましたように、初期の王朝といいますか、初期天皇制といいますか、それの成り立ちとか、性質とか、それはどうだったんだという、それから、だいたい神武から8代、9代目まで、崇神天皇までの天皇というのは実在したのかどうか、そういうことについての関心といいますか、そういう関心というのをランドサットの映像みたいなものではっきりと目に見えるように映像としてそれは解けるはずだということを着想しまして、そういうことを考えたわけですけど、いま申し上げましたとおりのところでいきどまり、あとは誰かがそういうものをやられて発表されるのを待つより仕方がないのですけど、着想だけはそういうふうに着想したわけで、着想の優先権というのはちゃんと主張しておきますから、そういう問題は、ランドサットの映像のいいところは、ひとつの地図というものが、様々な歴史的時間というのを包括することができるということが、とても重要なことにおもわれたわけです。
ところで、この映像というものを人間は人工衛星ではじめて、この映像を持ちうるようになったんですけど、広くいいまして上から見る、つまり、鳥瞰映像ですけど、鳥瞰図ですけど、あるいは、俯瞰図ですけど、鳥瞰映像というのを人間が持つことができるだろうか、あるいは、人間があらゆる手段を使わないで持つこと、それから、手段を使って持つことができるものだろうかということを考えますと、すぐに2つのことが考えられます。
それは何かといいますと、ひとつは人間が鳥であった時の記憶というのが、もし、系統図的に存在するならば、ある瞬間には人間はこういう鳥瞰する映像というのを持ちうるはずじゃないかということがいえると思います。つまり、もし人間が胎内に宿って、それで体外へ出てくる10か月か11か月の間に系統発生的に、あらゆるアメーバから猿から人間まで、ぜんぶバーッと通過してくるんだという言い方がありますけど。それを意図すれば、鳥の時代もまた通過しているわけです。
それから、人間が死ぬときに、病気であろうと、事故死であろうと、自然死であろうと、まったく死にかけた時からまったく死ぬまでに生涯と、それから、もっといえば胎内の時代からの、それをぜんぶ通過するとすれば、そのどこかで鳥瞰の映像を人間は持ちうるはずじゃないかというふうになるわけです。それがひとつです。
それから、もうひとつは、高度のランドサットに対応するような、高度な科学技術というものを、あるいは、映像技術というものを獲得したときには、人間は鳥と同じ、あるいは、ランドサットの映像と同じような映像を持ちうるんじゃないかということが、2つのことが考えられます。
この2つのことは、いずれも、ぼくのハイ・イメージ論の基礎的な考え方になったわけです。ほんとうはそのことのほうが皆さんにお話して、そのことのほうが大切なような気がするし、そのほうが根本的なような気がするのです。ひとつの人間が鳥であった時というのはどういう時かというと、ひとつは胎内にあった時にそうであったに違いないと、あるいは、そこを通ったに違いないということがいえるわけです。
それから、もうひとつは死に瀕したときに、そこを通るに違いないということがいえるわけです。そういうふうに考えようとすれば考えられるわけです。ところで、死に瀕した時に、どうかという問題ですけど、ぼくは一生懸命、死に瀕して帰ってきたといいますか、生き返った人の記録を盛んに漁ったわけです。
漁ってみると、かなりな程度データが集まってきまして、だいたい、交通事故でも病気でもいいんですけど、死にかかってしまった時に、なぜか知らないけど、ベッドからじぶんの身体が浮き上がるような気がして、部屋の何メートルか上のところから下のほうのじぶんを見たと、そうすると、下のほうのじぶんは病気で横たわっていて、死にそうになっているものだから、医者や看護婦さんが慌てくさって、それを盛んに心臓マッサージやなんかを盛んにやっているのが、じぶんで見えたと、そういう記載がとてもたくさんあります。
そうして、酸素ボンベだとか盛んに騒いでいる、そういうのもぜんぶ聞こえるし、それから、見えるし、それから、近親の人たちがとりすがって泣いているようなのも、ちゃんと自分は見えたという、そういう記載がたくさんある。それで、そういうふうに時期をあれして、意識が覚めてみたらじぶんは助かったんだと、それで、来た看護婦さんなら看護婦さんに、あなた、じぶんが気を失ったときに、医者にこんなことをしゃべっていたでしょということを看護婦さんにいうと、びっくりして、そんなことどうしてわかるんだと、あなたは生きちゃいなかったといいますか、つまり、ぜんぜん死んだようなはずで、どうしてそんなことがわかるんだというふうに、いや、それはちゃんと見えたというふうに言ったんだということ、その手の記載とか、それからまた、そういうふうに死に瀕したときに、じぶんが、体が浮き上がったようにして、地上何メートルかのところをずーっと一緒に飛んでいって、どこかへいったら、死んじまった親戚やなんかの奴に出会って、なんでこんなところに来るんだと言われて、こんなところ来るんじゃねえとか言われて、追い返されて、そしたら、意識が覚めたとかいう、その種の手記というのはたくさんあります。それから、もちろん、民話の中にも、たくさんそういう記載があります。
それから、もっと重要なことといいますか、もっと大切なことは東洋における宗教という、仏教とか、ヒンズー教とか、そういうのは典型的にそうなんですけど、東洋における宗教というのは、だいたいそういうことに対する修練なわけで、つまり、生きながら瀕死の状態にじぶんをもっていくというのが修練になっています。少なくとも、密教までの東洋の宗教というのは、それの修行というのはたいていそうです。生きながら瀕死の状態にじぶんの意識をもっていって、じぶんは空中遊行ができるとか、あるいは、冥界の遊行ができるとか、胎内遊行ができるとか、そういう修練をして元へ戻ってくるというのが、だいたい仏教における修練というものの本質です、本体です。
これは、そういうふうに言っちゃうと身も蓋もないわけですけど、これは様々な伝説によってこれを荘厳化かなければ、宗教は成り立ちませんから、荘厳化したり、また、そういう体験というのは、必ずしもインチキというわけにもいかないので、そういう体験でもって、じぶんたちの現実社会で得られる体験とは違う人間の体験の拡張というのは、そういうことはできるわけで、それなりの有効性というのもありますし、それなりの良さというのもありますから、だから、宗教というのはインチキだ、仏教の修行なんかインチキだとは言いませんけど、その本質は身も蓋もなく言ってしまえばそういうことです。
つまり、意識が正常でありながら、あるいは、健康でありながら、瞑想の仕方を、手段を尽くしてやっていきますと、だいたい、じぶんでじぶんの身体から離れたという意識が持てるようになって、それでもって地獄極楽めぐりで、いろんなところを遊行して歩いて、元へ戻ってくることができるというのが、いわゆる高僧が修練してできたということは、そういうことにしか過ぎないといえば過ぎないわけです。
しかし、それは体験としては得難い体験ですから、体験の拡張としては様々な意味づけというのはできますけど、身も蓋もなくいってしまえば、そういうことなんです。だから、東洋はそういうことのわりに専門なところなのです。だから、そういう状態というのは、人間が鳥になったときの状態というのは、人工的にも作ったりする人がいますし、また、それは瀕死の人たちがしばしば、そういう体験をしたというふうに述べています。そのことは、ぼくにはとても重要なことのようにおもわれました。
ぼくはぼくなりに、宗教家でもないし、あんまり信仰はないですから、ぼくなりに解析したんですけど、ぼくの得られた結論は、なぜそういう状態が起こりうるかという場合に、ぼくの理解の仕方は、死んでしまう直前の意識の薄れたといいますか、朦朧とした状態といいましょうか、意識が微かにもう一歩で死んじゃうという、その寸前のある状態の範囲のときに、たぶん、鳥と同じ、昔、鳥だった時が蘇るのかどうかわかりませんけど、意識が朦朧として、人間的意識がなくなっていって、死の意識の直前までいったときの状態の時に、たぶん、上からの視線というのを獲得するある瞬間があるんじゃないかというのが、つまり、それは意識の朦朧状態というか、崩壊状態の、完全に崩壊しない、寸前の時の意識体験のところで、たぶん、鳥瞰的な鳥の目というのを、じぶん自身に対してこうしたり、下の風景に対してこうしたりすることができる瞬間というのはあるんじゃないかというのが、だいたいぼくの解釈の仕方です。
ぼくは宗教的な解釈では密教的な解釈はしないわけで、ぼくが好きなのは、そういうのは嘘だと言った宗教家、つまり、親鸞というのはそうですけど、そういうのは好きなんです。親鸞というのは初めてそういうことを言ったわけで、そういう修行というのはやってもしょうがないので、やってもそれは幻覚の問題であったり、心理状態の問題であったり、意識の朦朧状態の問題であったり、それをいかに人工的につくれるかという問題なので、そういう修行というのは自力でやってはダメだという、それはいらないことだ、そんなことをやったら、浄土へはいけませんよというふうに、はじめて親鸞が言ったわけです。親鸞はそういうことを認めねえよって、だから、修行なんてやめろ、するなというのが親鸞の考え、したらダメだぞ、したら浄土へはいけませんよというのが、親鸞の考え方です。
その種の修行というのは、言い方は違うんですけど、もっと婉曲に言っているわけです、親鸞は。とてもそういう修行は及び難いから、じぶんにも及び難いし、凡夫にも及び難いから、そういうのは、そういう高僧に任せて、じぶんたちは自力でもって、じぶんを修練させて人間以上のものになろうみたいなふうに考えたらダメであると、そういうところは、いわば受け身のほうがいいんだというふうな言い方をして、婉曲に言っていますけど、ほんとうは心の中ではそうおもっていないわけで、その手の修行というのはダメだというふうに言っているわけです。それは日本の浄土教、あるいは、もっと進んでいいますと、親鸞の浄土真宗というわけですけど、そういうもののイデオロギーといいますか、理念の核心であるわけです。つまり、仏教の浄土教というのは、とうとう日本でもって、最後のいくところまでいったということになるわけですけど。
だから、宗教的な解釈はしませんけど、その手の記録というのはたくさんあるんです。それに対して、様々な解釈がなされていますけど、宗教的な解釈も、キリスト教的な解釈もなされていますけど、ぼくはそうじゃなくて、たぶん、意識が完全崩壊のある寸前のところで、そういう鳥瞰的な鳥の目の映像というのが、まず可能になる場所があるんじゃないかというのが、漠然とぼくの得た、到達したところです。そういうふうにしまして、人間は体験上、こういう鳥の目というのを持てないかというと、そういうふうにして持てるということがひとつあります。そういう持てるという体験が記載されています。
もうひとつ、ランドサットと対応するような高度な技術社会、つまり、現代ですけど、現代社会において、鳥瞰の映像というものを同時に獲得するということが技術上できるんじゃないかということがありうるわけです。これは、ぼくらがハイ・イメージ論というのを展開する場合の非常に基礎的な考え方のもとになったわけですけど。
それは、ぼくは、一昨年、筑波の科学万博というのがあったわけですけど、そこでコンピュータエレクトロニクスの会社のひとつである富士通が富士通館というのをそこの万博でやっていまして、富士通館で作っている映像というのは、まさに我々の普通いる視覚、つまり、立体映像に対して、もうひとつ、鳥瞰映像といいましょうか、鳥瞰視線といいましょうか、上からの視線が同時に行使されたのと、結局、対応的には同じだという映像を富士通館だけが作っていたわけです。それは、ぼくにはものすごい新鮮な体験でした。
つまり、ぼくの考えでは大げさなことをいいますと、人類がかつて体験したことがない映像をそこではつくったというふうに、ぼくはおもいました。ぼくの体験はそうです。富士通館にぼくは2回行きましたけど、時間がきて門が開くと真っ先にそこへいって、並んでいる小学生たちと、それから、農協やなんかのおっさんたちと、それだけがかつてこの映像は人類がはじめて体験する映像だということをわかっていた人だとおもいます。もちろん、農協のおっさんも、小学生も、論理的にそれがわかったわけではないのですけど、しかし、もう直感的にこれはすげぇということがわかったとおもいます。だから、そこに集まったんだとおもいます。ぼくはすげぇとおもいました。これは大げさに言いますと、やっぱり人間がはじめて作ったなという、そういう映像が富士通館のあれでは作られていました。
それは、原則的には、簡単でもないけど、誰でも考えられることです。それは、どういうことかといいますと、これは条件を揃えることが工夫だということになるわけです。あとは、技術的に可能なことばかりなんですけど、条件を揃えることが、他のところでやっていなかったことで、富士通館だけがやったんです。その条件はどういうふうに揃えたかといいますと、部屋のドームとか、周辺といいますか、全体を映像膜と同じように、機能するようにひとつはしたということです。
もうひとつは、それを見ている人の座っている椅子を高くしたといいますか、つまり、空隙を設けないようにしたわけです。高くしたわけです。ですから、よっぽど意図的にしないかぎりは、どこを見渡しても、ようするに、映像空間だけしか体験できない。
同じことをやった他の館というのはあったんですけど、それは、スクリーンを見ている限りは、同じような高次の次元の映像が出現しているんですけど、スクリーンからちょっと目を逸らしたら、現実の空間がすぐに見えちゃうわけです。だから、そこですぐに転落しちゃうわけです。そうすると、これは転落しますと、1次元だけ空間が減ってしまいます。軽減されてしまいます。
ところが、富士通館だけが、だいたいよほど意図的に目を移さない限りは、転落する空間がどこにもない。つまり、現実空間がどこにも見えないというふうに座席をやったし、スクリーンも、ドーム全体をスクリーンにするみたいなことをやったわけなんです。
それだけの場所的な設定をしまして、色差式の眼鏡をかけますと、映像が飛び出してくるという、そういう映像を作ったわけです。映像がここらへんを具体的に飛び交うわけですけど、映像として飛び交ってくるわけなんですけど、そういう体験のなかで座ってそれを見ているじぶんを、つまり、映像として飛び交ってくる物質ですけど、その物質と同じ次元にじぶんもいるというふうになるわけです。じぶんも映像として飛び交っている物の立体的な映像と同じ次元にじぶんも飛び交っているというような場所でもって、その映像を見るということが可能になって、どこに目を逸らしても転落する空間がないわけです。だから、まったく高次な映像がそこで出現してできたということになるわけです。
もちろん、ランドサットが技術的に可能ですから、他の館でも同じようにスクリーンを作って、そこに映像を投射して、やっぱり色差式の眼鏡をかけまして、立体映像が飛び交ってくるというような、そういう映像を作っているところは、もちろん他にもありました。しかし、それは手間を惜しんだのか、金を惜しんだのかわかりませんけど、スクリーンの範囲内で見ていればそうなんだけど、ちょっと目を逸らしたら普通の空間があるわけです。だから、もうそこでもってダメだという、またすぐに引き戻されるわけです。これは嘘だと、これはただの映像だというふうに、絶えず引き戻されてしまうわけです。ですから、次元が1次元低くなってしまいます。
富士通館だけはまずまず目をどう逸らしても、立体映像が飛び交うなかに自分も浮かんでいるという、そういう映像の取り方というのを失うことはないわけです。ですから、そうしますと、1次元だけ高次な立体映像が周りに飛び交ってくる、そういう体験がそこでできたわけです。たぶん、これは現在考えられる最も高次な映像だっていうふうに、ぼくはそうおもいました。
これはいったいどういうことを意味するかというふうに、ぼくは考えていったわけです。それは考えていったらわりあい簡単なわけで、我々が一般的に行使している視野と視線というのは、じぶんの眼の高さと同じ次元から視野が左右とか、上下に開ける、その範囲が、一視野で見ている視覚的な映像です。それに対して、もう一次元、同時に上のほうから視線がもうひとつ加わっていたと考えれば、それはいいわけなんです。
つまり、普通の立体的な視覚像に対して、それに上の天空のほうから直行する視線を、もうひとつ同時に行使されているというふうに軸を分解しますと、単純にそういう4つの軸でもって、映像の成り立ちというのは解析しうるというのが、ぼくらが考えた、非常に簡単なことですけど、やってしまえば簡単なことですけど、そういうふうに換言することができるというふうに考えていったわけです。
そこから、ぼくはじぶんのハイ・イメージ論というものを展開していこうというような考え方をもつようになってきたわけです。そうすると、ぼくらがやりましたことは、今日の問題もひとつですけど、都市の問題というのもひとつあったわけです。大きなテーマとしてあったわけです。
現在の大都市のなかに、大都市を象徴するにたる場所、それから、視覚映像というのは2つあります。ひとつは、たとえば、ビルの片側をちょっと見ると、最もモダンでない住み家がみえるとか、もっとそれが極端に押し進めてしまいますと、ビルディングの15階の中にお茶室があって木が生えているとか、池が掘ってあってとか、そういうふうにされているところがありますけど、そういう元来が地べたにあったり、元来が地べたに建てられていたり、地べたにあるべきものが、ビルの内部に入ってしまうというような、そういう矛盾した箇所というのはありますけど、その箇所が現在の大都市にかかるひとつの要点だということがわかります。
それから、もうひとつ、現在の大都市というものの展開の仕方を測る要点があります。それは何かといいますと、高次映像ということと関連するわけですけど、名古屋はわからないんですけど、東京だとしばしばそういうことはありますけど、東京だと、あるビルディングの20階なら20階にたまたまレストランならレストランが入ったと、そうすると、20階にあるレストランから隣にあるビルが見える、それはべつに不思議がないわけで、ひとつの視野のなかに隣のビルが見える。隣のビルの部屋のなかで、人が働いているのが見えるとか、人が何かして動いているのが見えると、そこも不思議じゃないですけど、それのビルの窓越しのむこうにまた違うビルディングが見えると、違うビルディングの通しガラスの窓越しに向こうから国電が通っているのが見えたと、もっと極端なことをいいますと、有楽町のあたりですと、国電の中に人が立っているのが見えたとか、こういう場所があります。
つまり、元来、都市の常識上、ビルディングとビルディングが密集していない限りは、過密でない限りは、一視野のなかに当然これは映るはずがないよというような、折り重なった像が映るというような過密箇所というのがあります。
それは、新しいビルと古いビルとが重なっている場所とか、古いビルの上に新しいビルが継ぎ足されたとか、中心部にそういうところがしばしばありますけど、一視野に到底、映るはずがないと、つまり、一視野の常識では映るはずがない視覚像がいくつも重なって一視野のなかに映る、そういう場所があります。
そこのところでは、もし空を映らないように、視線をそういうところへ行使しますと、この映像はかつてなかなか得難い高次な映像だということがわかります。つまり、普通の一視野の映像ではない、二つの視野を同時に重なって行使されたと同じような効果をもった、そういう光景が見えるところがあります。それは現在の大都市のなかで、とても重要な箇所のようにおもわれます。
それはなぜかといいますと、都市というのは、生物に例えていいますと、アメーバのように、無限に周辺を呑併しながら、つまり、呑み込みながらどんどん展開していっちゃうという、そういう動き方と、それから、同時に内圧を高めていって、つまり、過密の度合いを高めていって、もはやこれはちょっと、現実にはこんな過密な折り重なりというのはありえないんじゃないか、あるいは、それはとてつもないんじゃないかというふうな、一種の危機感を感じさせるような、そういう場所、つまり、過密な場所があります。それは都市がアメーバのように収縮するという作用のときに、収縮した場所にできあがる映像です。
それから、本来、田んぼや畑のなかに、あるいは、地面の緑地帯にあるべきものがビルの中に入っちゃっているみたいな、つまり、これは都市がアメーバのように外を内の中に取り込みながら伸びていくような、そういうことの象徴が一ビルディングの中で見られる場所があります。
その2つの場所というのは、現在の都市の問題を解析する場合に、分析する場合に、重要な2つの箇所だということがわかります。それは、ぼくらが、そういう高次映像というのが、すでに実現されている限りは、理論的にといいますか、技術的に実現されている限りは、高次映像に該当する、都市の現実的な場所というのは実現されているか、あるいは、実現可能に違いないというふうに、ぼくらが考えていって、都市を解析する場合の非常に大きな支柱になったわけです。
それはしかし、考えてみますと、最初の発想というのは、いま言いましたように、ひとつは、人間が歴史的にもっているといいますか、肉体的にもっている、あるいは、人間という生物としてもっている意識のあり方のなかに、高次映像の問題が求められますし、それから、ひとつはそういうふうに高次な技術社会が、現在、実現してしまった高次映像ということのなかに、映像の問題の極限というものは想定できるんだという最初の着想に由来しているわけです。
その着想から都市論みたいなものを展開してみたり、もっと極端な場合には、人工都市論みたいなものが、いったいどういうふうに可能であり、それから、どういうふうに作られるだろうかというような問題もまた解析していくということをやったわけです。それは、今日、申し上げたテーマと、テーマとしてはいくつかに分かれながら、そういう問題を追及していったわけです。逆にやりたくてしょうがないのですけど、できるかどうかわからないことで申し上げますと。
もうひとつは、文学というのは、言葉の芸術なんですけど、文学というのも、一種の高次映像の論理から、逆に文学というのを照らし出すことができないか、それから、もっと基本的にいいますと、言語、あるいは、ほんとは学問じゃないですから、言語学といいませんけど、言語の問題というのが、やはり、高次映像の問題から逆に展開したり、また、解析したりすることができないだろうかということの、ぼくなんかのハイ・イメージ論のテーマになってきたわけです。
そういうテーマで現在もまた展開しているところではあるわけですけど、やってみないとどこまでできるかというのはわからないわけですし、この場合のように技術的に、ここでは、民間の一介の物書きには、技術的にいってここで止まりだといいますか、これ以上のことは、組織といいますか、そういうあれがないとか、学校とか、そういう場所がないと、それ以上のことはできないよといいますか、技術的にここでストップだと止まってしまうテーマももちろんありますし、それから、理論的にといいましょうか、じぶんの考え方が至らなくて止まってしまうというようなことも、もちろんあるかもしれないわけなので、そこのところももちろん、まだどこまでやれるかということはわからないのですけど。それが大きなテーマになっていったわけです。
もうひとつ、申し上げますと、これは一種の理念的なテーマになるわけですけど、現在、ランドサットの映像は、先ほど申し上げました、地上から900kmのあたりで飛びながら映像をつくっているというようなことになるわけです。それで、これはランドサットですからアメリカの人工衛星です。そういう地表の映像を通過したときに撮っているわけですけど、もちろん、これは軍事映像としても、もちろん使えるわけです。
たとえば、軍事映像の場合、ぼくはデータだけしか知りませんけど、『宇宙から見た日本列島』という本ですけど、この本に書いてありますけど、軍事映像の場合には、150kmぐらいの上空から15cmくらいまでなら見えるという、たとえ話がここに書いてありますけど、静岡から東京にあるラグビーボールぐらいの大きさが点としてなら見えるという、そういう緻密なものです。だから、そういう軍事的な目的にも使えるわけだとおもいます。
そうすると、こういう鳥瞰視線といいますか、それが900km上空であれ、150km上空であれ、上からの鳥瞰映像というものの機能が実に多種多様であるわけで、もしそれを現在のように軍事的に対立している、典型的なのはアメリカとソ連ですけど、アメリカとソ連がこういう鳥瞰映像の得られる人工衛星についていうならば、地上900kmから地上百数十kmとか、その範囲の軍事的いえば制空権をどっちがとるかというのが、たぶん、軍事大国であるアメリカとソ連の、現在の、ぼくらにはわからない、しのぎ合いといいましょうか、競争の競り合いの舞台になっているんだとおもいます。
ところで、ぼくらが富士通館の映像では、瀕死の人間の映像から、ぼくらが考えました、上から垂直に下ってくる視線が同時に加えられているという、その視線というのは、どういう視線かといいますと、イデアールにいいますと、理想的な視線として設定しますと、それは無限遠点ということになります。無限遠点から垂直におりてくる視線というのが、ぼくらが理論的に設定した視線であるわけです。
ですから、軍事大国である米ソは、いずれにせよ、900kmから150kmか、そこらへんの範囲で争っているということになるわけで、こんなのは、両方とも否定したほうがいいとぼくはおもいますけど。両方とも否定するにはどうしたらいいんだというのを、鳥瞰視線だけについていいますと、ようするに、無限遠点からの視線というのはありうるんだということ、考えうるんだ、ありうるんだよということ、それから、それは人間の立体的な視覚像に対して、同時に行使されるという、そういう無限遠点から下ってくる視線というのはありうるんだということを、もし、もちろん皆さんが獲得し、それから、皆さんが獲得するだけじゃなくて、川崎徹流にいえば一般大衆ですけど、一般大衆が無限遠点から上のほうからくる視線というのが、人間の立体的な目の高さの視線に対して、同時に行使されるという、そういう映像は作れるんだし、可能であるし、それから、そういうところから見るという見方というのは成り立ちうるんだよということを、もしそういう人たちが、一般大衆が獲得したら、そうしたら、それは具体的じゃないですけど、一種の理念的には、米ソというか、両大国というか、そういう軍事大国を超えたことになります。超えられたことになります。ぼくはそれを求めます。
皆さんはもちろん簡単に、いまでも、それからまた、大学に行かれたらすぐにそういう視線は獲得する可能性を持てるでしょうけど、知識的にも持てるでしょうけど、そうじゃなくて、ごく普通の人が、そういう無限遠点からの視線から見ると、ようするに、米ソの900kmから150kmで争って、どっちが大国だとかいっている、そういうあれなんていうのは、だいたい下のほうに見えるんだよという、一般大衆がそういう視線というのを獲得していったとしたら、それはつまり、理念としては究極の理念であるわけです。
そうなったら、理念的といいますか、理論的にはその手の軍事大国の対立が醸し出している様々な緊張と歪みと、それから、共犯関係と、それから、対立関係とが醸している様々な問題というのは、ぜんぶ理念的にだけならば、それで解体してしまうというあれで、ぼくらだけがそれを持ってたって、ちっとも解体しないわけです。
だけれども、一般大衆のレベルとして、それを獲得したときには、その手の理念というのは、だいたい遥か下のほうになってしまうんだ。つまり、遥か時代遅れなものだということがわかってしまうんだということ、一般大衆にわかってしまうんだということ、そういうことが理念というものの究極のひとつのあり方だというふうに、ぼく自身は考えております。
だから、そういうことも映像は物語るわけです。この映像を相対化することによって、そういう視線というものを獲得しようとおもえばできるわけですし、そういう問題というのもつながっていくわけです。
残念ですけど、現在のところ、皆さんがうんと勉強されていい学校に行かれても。そこで流行っている考え方はどっちかです。つまり、アメリカ的であるか、ソ連的であるか、アメリカシンパシーであるか、ソ連シンパシーであるかというのが、だいたい全体的にそのどっちかじゃないかとおもうんですけど、だから、あんまりよくはないです(会場笑)。
でも、そんなことを言うと、意欲を失くしてしまうから、うんと勉強されていい学校に行かれて、そうすると、いい学校にどの程度の先生がいるかという、どの程度の考え方の人がいるのかというのが、よくわかりますから、それは非常に貴重な体験だとおもいます。河合塾の先生のほうがいいかもわかりませんから、それはそういうことを体験されたほうがいいとおもいますけど。
このハイ・イメージ論の問題というのは、依然として、ぼくは、イメージとしてはどこが究極かというようなのがわかるような気がしますけど、現実はなかなかそういうところにいかないのであって、その前で、様々な問題が起こったり、様々な歪みが起こったりしているのが現状だっていうふうに、ぼくにはおもわれます。
しかし、理念として、あるいは、理論としてならば、その問題は解くことができるわけですし、また、それは自分たちの力量にもよりますから、どこまでできるかわかりませんですけど、しかし、その問題は、ぼくらにはひとつの大きな主なテーマのひとつですから、その問題をこれからもできる限りは展開していきたいと考えております。
皆さんのほうも、うんと勉強されて、目的の学校にいかれて、まだもって勉強されて、もっと先までいっていただけたら、大変よろしいんじゃないかとおもいます。そんなに勉強されなくてもいいんですけど、それはしかし、勉強しなくてもいいという建前で塾にいるというのは矛盾でありますから、勉強するという建前で、あくまでも頑張って勉強されて、やっぱりでも、どこが壁なのであるか、それから、壁を超えたら、どこにまた壁があるのかということについていいますと、それはちょっとキリがないですから、ここで終わりみたいなことは、その手の問題はありえないですから、だから、やれるんだったら、どこまでも先へ先へといいましょうか、あるいは、どういう恩恵を受けるかわかりませんけど、先へ先へ勉強されていってくだされば、たいへん、ぼくらはつまんない話をしたけど、すこしぐらいの意味があることになります。どうかなんか頑張って、うんと勉強していただきたいというふうにおもいます。いちおうこれで終わります。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま