1 司会

 

 で、お話しを聴くという会を設けております。で、昨年は小説家の安岡章太郎さんをお呼びして、お話しを聴いた訳ですが今年は批評家と言っていいでしょうか、あるいは思想家と言っていいでしょうか、吉本隆明さんをお招きして2時間に亘ってお話しを聴きたい。その後たっぷり時間を用意してありますので、様々な質問をして頂いて、そこで活発な討論をして頂きたい。今日は吉本さんがお話になるのは、作家論の周辺(?)という形でお話になりますが、その中心は夏目漱石を大体中心にして作家とは何か、或いは作品とは何かと言う様なことについて、もう少し究極的には文学とは何かというのがあると思いますが、それについてお話になると。で、現在身体論あり、文化記号論あり、大変方法的にかまびすしい現状であります。これについては必ずしもプラスの評価ばかりして■■■ことはできない訳ですが、究極的にはこの状況は作品論と作家論というものを巡って、こうした現状になっている言うふうに考えていいかと。で、吉本さんのお仕事は私の方からご紹介するまでもなく、戦後の歩みと大体等しい訳でして、世界をいかに認識するかという壮大な体系が吉本さんのお仕事になっている訳です。ですから制度的な学問の分野で言いましても様々な領域に関わっている訳で、それを全てを我々は問題にすることは出来ませんし、ここでは近代文学を対象にして吉本さんの仕事を、あるいはお話しを受け止めていきたい。で、比喩的に言いまして吉本さんのこれまでのお仕事というのは我々にとってある意味「毒」であり、「薬」でもあった。そういうものを我々が飲み下していくと言いますか、あるいは拒否する場合もありますけれども、兎に角ある程度制度化された何かを我々の内部で壊していくと作業も一方で必要だろうと、その意味で今日は吉本さんの話を聴いて、そして遠慮なく批判される方は批判して頂きたいと、論争の渦をやはり創っていきたい。大会はどうしても儀式的になりますが、例会は自由にフランクに兎に角自由に喋る会になっておりますので、どうぞ遠慮無くこの後、吉本さんのお話が終わった後、もう一度そういう形でやりたいと思いますので、遠慮なく批判して頂きたいし、また質問をして頂きたい。前置きが長くなると良くないものですからこれで終わりまして、早速吉本さんのお話を■■■。それでは吉本さんどうぞ・・・

2『彼岸過迄』の挿話

 

(拍手)。ご紹介に与りました吉本です。今日は作家の、標題には作家論の周辺、作家論を巡ってみたいな話になっておりますが、僕自身は漱石を巡って位なところでお話ししたいと思います。どうしてそうなった(か)と申しますと、漱石はいろんな意味で魅力的な大作家でありますし、何回おさらいしても、一寸おさらいしきれないみたいなところがありますので、おさらいしてくるにも大変都合がいいということで、漱石を巡ってと言うことについて(続いて?)、もう少し普遍的な問題に何かこう捉まえどころを与えられたなら、捉まえ所を得られたならと思っています。で、漱石の作品が魅力的な点というのは幾つか、幾つもある訳ですけれども、一番魅力的な点というのは僕なんかには、作品の登場人物を自分なりに設定しながら、ある箇所にきますと、どう言ったらいいんでしょう、作者自身が作品の中に乗り出してきまして、作品の登場人物の中に感情移入して白熱するところがあります。その白熱する所の魅力(?)の所で―ご紹介者のあれで言えば―作品と作者が融合しちゃう点がありまして、その融合した点のところで作品が一番白熱してしまう。それから登場人物の内、主な登場人物と言いましょうか―主人物と言いましょうか―主人物が非常に白熱てくると言うことがあります。それで白熱した主人物の中には―勿論物語ですから架空に設定されたものですけれども―しかしそれはある意味で作者、或いは作家・漱石の、もっと根底にある人間漱石みたいなものの感情移入と言いましょうか、自己移入があるんじゃないかっていうふうに思わせるところが必ずあるように思います。つまりそこのところが漱石の文学の一番の魅力であるというふうに思います。さて漱石の作品というのはどこからは入っていってもよろしい訳ですけれども、今度おさらいして来ましたところでは、『彼岸過迄』という作品から入っていきたいと思います。で、ご承知のように『彼岸過迄』という作品は、幾つかの小さな小分けの作品から成り立っている訳ですけれども、その中で一番面白いっていいますか、興味深いといいますか、それは敬太郎という主人公が―あるいは語り手なんですけれども―語り手であり主人公である敬太郎が学校を卒業する、それで就職したいということで友人の須永の叔父さんに当たる、田口という人物のところへ尋ねて行くところがあります。尋ねて行って、田口から今日4時から5時位の間に、小川町の停留所に三田の方から来る電車から降りてくる人物がいる。その人物っていうのは―いろいろ特徴を言う訳ですけれども―一番の特徴は顔の眉と眉の間にホクロがある。降りてきたその人物が停留所を降りてから、2時間の間どういう行動をとるかというのを兎に角みていて、探ってって言いましょうか、観察してそれを要するに教えてほしい。報告してほしいって言われるところがあります。それで敬太郎という人物は、ロマンチストでもありますし探偵趣味もありますものですから、言われた通りに小川町の停留所の側で隠れて待っている訳です。そうすると、多少時間が遅れますけれども、一人の人物が降りてくる。それでその人物が停留所のところで女の人と待ち合わせていて、待ち合わせた女の人と連れだって近所にある洋食店に入って行く訳です。それで敬太郎はその後を追っかけて行って自分も洋食店に入ると。洋食店に入って、側の椅子に腰掛けて聴いていると、食べながらその二人はいろんな話をしているんですけれど、その話の中で女の方が自分になんとか首飾りか真珠の首飾りみたいなものを私に下さいって言ってねだっているって、それでそんなに欲しいならあげるよみたいなことを言って、そういう会話を交わしながら出て行く。それで2時間という期限があるんですけれど、敬太郎は自分が先に料理店から先に出て、道の向こう側から監視している、視ている訳ですけれど、そうすると男と連れの女が出て来て、もとの小川町の停留所の所で、女の人を三田方面の電車に乗せると自分は人力車に乗って走って行く。そうすると敬太郎も後から人力車を雇ってその後を追っかけて行く。それでほぼその人物が自分の家と思われる家に入るところまで大体見届けて、自分は下宿である本郷の方へ人力車を引き返して帰って来るという話です。そこのところで敬太郎は、頼まれた田口という人物のところへ行って報告しなければならない訳です。それで、その間に料理店で会話を小耳に挟んだりして、あるいはこの人物は一体何だろうか、この女はこの人物の何に当たるんだろうかっていうふうに様々な空想っていいますか、推理を巡らす訳ですけれども、そんなに輪郭をよくつかめる訳ではない。それでそれを田口という頼まれた人物のところへ行って、それを報告する訳です。

3 敬太郎の探偵趣味

 で、いずれにせよ敬太郎が探偵の真似事をして、頼まれた通りある人物のその2時間に亘る行動を追跡した。追跡したその体験を自分で回想する、回顧する―回顧って言ってもおかしいんですけども―家へ帰って顧みるところがあります。その顧みるところが非常に重要と思われるんですけれども、どういうふうに顧みているかって言いますと、作品によれば自分は頼まれて小川町の停留所で潜んでいて、その人物の―何とか分からない人物の―降りてくるのを見つけて、その人物だと大体確認して、後西洋料理店に入るのを追っかけ(て)、そういうふうに自分が追跡した自分の行動といいましょうか、行為とういうものが何か自分で―そういう言葉が書いてありますけれど―本当の夢っていいますか、本当の夢みたいな感じがした、感じを伴った。自分がその人物を追っかけて行って、何か知らないけれどもびくびくしながら近くのテーブルに座って盗み聞きをしたり、その後追っかけて人力車に乗ったり、人力車に乗って街を走って行ったり、そういう自分の体験というものは顧みてみると、本当の夢みたいな感じで、何かボンヤリしたっていいましょうか、何か無我夢中の精神状態で何かボンヤリと灯りのともっている街の中をさまよって歩いたという奇妙な、夢みたいな、または本当の夢みたいな印象だっていうふうに考える訳です。それで田口という頼まれた人物の所に行って、その過程をズーと報告する訳です。田口という人物は、その人物はどういう人物だということが分かったか。どういう身分だと分かったか。女はどういう人物か、と尋ねられるんですけれども全然そういうことまでは判らなかった。唯、兎に角そばまで追っかけて行って確認して、そしていろいろ推測を巡らしたんだけれども、その人物がどういう人物だということまでは摑むことは出来なかったと言うふうに田口に対して報告する訳です。そして唯その時に敬太郎が田口という人物に、自分はそういうことをしてみたけれども、結局考えてみるにこんな間怠っこいことをするよりも直接その人物にぶつかっちゃって、そして「あなたはどういう人ですか、そしてこれからどうなさるのですか、この女の人はどういう人ですか」っていうふうに、自分は直接訊いちゃった方が良いって言うふうに思ったっていうふうに敬太郎は田口に言う訳です。田口はそこで大変興味深いことを言う訳ですれども、「あなたは、君はよくそこまで考えられた」っというふうに言う訳です。本当にそうなんだ。何もその人物の後を知られないように追っかけて行くみたいなことをしなくても、一見迂遠の様に見えるけれども、直接にその人物にぶち当たって、あなたはどういう人だとか、これからどうするんだとか、この女の人はどういう人かっていうふうに、直接訊いちゃった方が本当は早いし、またその方が本格的・本当なんだっていうふうに。あなたはそこまで気が付いたら大変立派だって言うふうに田口という人物が敬太郎に言う訳です。敬太郎はそこで田口という人物に紹介されて就職が決まる訳ですけれども、そこで何が問題なのかと言いますと、漱石の中でしばしば探偵―広い意味での探偵的な人物とか、探偵的な行為というものが作品の中でしばしば行われる訳ですけれども、その中で漱石は探偵に対して下している定義っていいますか、意味づけがある訳ですけれども、漱石は探偵というのは結局、何らかの意味で人物―ある人物の素行を探り、本体を探りって言うふうにして、何らの意味でその人物を陥れようという下心をどうしても免れないというのが探偵の宿命である。だらか、そういうことが非常に嫌なことであると。敬太郎にそう言わせる訳です。非常に嫌なことであると。唯探偵というのは別の意味で言えば―そういう言葉遣いがしてありますけれども―人間の異常なる器官が暗い闇夜に運転する有り様を眺めている、そういうのを探偵というふうに考えれば、それは謂わば一種の魂の探偵というところまで探偵という概念を押し広げることが出来るというふうに、そういうふうに敬太郎に言わせています。漱石の中で探偵という概念は、もし拡張して使いますと漱石の全ての作品を覆うに足りる程の大きな意味合いを持っているということが、ある意味では言うことが出来ます。

4 好奇心、ロマンティシズム、パラノイア

 

 そいで、そこのところで問題になる訳ですけれども、何が問題なるかって言うと、敬太郎という人物が自分は探偵の真似事をしてみて実際やってみて、本当の夢見たいな感じだったと述懐するところと、それから田口がその人物がどういう人物かということを君が知りたいならば俺が紹介状を書いてやるから直接に行けって言う訳です。それで何となく好奇心があって行きたいからって言うと、田口が紹介状を、眉間の所にホクロがある人物に紹介状を書いてくれる訳です。で、そこに尋ねていくと、それは言ってみれば田口の義理の弟に当たる人物であって、その停車場で待ち合わせていた女の人というのは田口自身の長女、つまり娘である訳なんです。そういうことが判る訳です。そうすると、事実として敬太郎が2時間の間、追っかけて探偵して―いろんな関心を持ちながら探偵した、そのことは事実としてみれば田口の要するに娘が自分の叔父さんと停車場で待ち合わせて、何かご馳走して下さいと言ってご馳走してもらって、叔父さん持っている真珠玉みたいなのを下さいって言って、そんなに欲しいなら上げるよみたいな会話を交わして別れた。唯それだけの事実しか無いので、それだけの事実だけを取ってくると、ここにはどんなミステリヤスことも無ければ、どんなロマンチックなことも無い、唯親戚の親父が親戚の娘にご馳走して遣ったという、唯それだけのことなんですけれども、それだけのことを例えば敬太郎が追跡して自分が感じることは、本当の夢みたいなものを感じたんだ、つまり様々な空想とか想像力とかを働かせながら、その人物は一体何だろうかというふうに、いろんな様々な意味を作るんですけれども、事実と意味のつけ方との間には、天地の懸隔・隔たりがある訳です。つまり天地の隔たりということが漱石の作品の中で一番の核心に当たることだと言えば言える様に思います。つまりどういうことかって言いますと、敬太郎がなぜその探偵の真似事をした、つまりたった親戚同士のおじと姪が停車場で待ち合わせて会食して別れた、というたったそれだけのことを様々な意味をつけたり想像力を巡らせたりして、それを追っかけて行く探偵の真似事をするという、なぜそういうことを頼まれて敬太郎がそれに応じたかと言いますと、それは勿論敬太郎が自分の中にミステリーが好きだという、好奇心とかロマンチックな心情とか、そういうものが敬太郎にあるからであるということは間違いないことなんですけれど、もう一つ本質的なことを言いますと、漱石の中で何が考えられて、漱石の作品の中で何が重要かって言いますと、これは漱石にとっても無意識なところがある訳ですけれども、敬太郎の持つそういう好奇心といいますか、ミステリヤスなものに対する好奇心というもの、好奇心というものをもう少し、もう少しもう少し突き詰めて行きますと、それは一種の神秘主義、或いはロマンチシズムみたいなものになっていきます。それをもう少し突き詰めて行きますと、それは一種の追跡妄想ということになります。追跡妄想とか被害妄想とか、一般的に精神学上のことで言えばパラノイアなんですけれども。一般的にパラノイアというふうに呼ばれているものの精神構造にまで、それは深めて行くことが出来ます。つまり敬太郎の持っている好奇心、単なる好奇心というものが事実とロマンチックな、或いは想像力を巡らして探偵で追いかけて行くという、そういう行為の間には謂わば好奇心から始まって追跡妄想に至るまで、人間と人間と(の)関係の仕方とか、人間が人間に対してどういうふうに関係をつけていくかという、関係の仕方に対する基本構造みたいなものがその中に含まれていることが判ります。謂わば追跡妄想、ないしパラノイア、被害妄想、追跡妄想に至る好奇心から始まって、或いは探偵趣味から始まって追跡妄想、或いは被害妄想に至るまでの、深まっていく人間と人間の関係の仕方の構造というものは、漱石の作品の中の基本的な構造に相当しています。この基本的な構造というものはあるところまでは漱石自身が意識しているところですけれども、あるところ以上は漱石自身が意識していないところです。つまり意識していないで、漱石は作品の人物の中にしばしば追跡妄想ないしは被害妄想の人物というものをどうしても生み出していってしまっています。生み出していってしまった作品の中の人物というものは、ある程度先程言いました、つまり漱石が白熱して、自分が物語の人物として設定した人物であるのも拘わらず、その中に自己移入する・自己感情を移入するとか、自分の内面を移入するという形で、自己投影している人物が、自身が持っている精神構造の中に被害妄想とか追跡妄想というものが現れていることがあります。つまりこのこと・この構造というものは、漱石自身がある程度まで意識しながら、ある程度以上は、漱石自身が無意識のうちにやっている作品の構造であるし、また漱石の作品の登場人物、主人物の中の非常に顕著な・著しい、誰にでも判るような特徴がこの追跡妄想ないしは被害妄想を持っている人物というふうに考えることが出来ます。で、こういうふうに考えていきますと、今・現在の流行りの言葉で言いますと、パラノイア的構造―人間と人間との関係の仕方における被害妄想ないしは追跡妄想という考え方、つまり他者、もっと単純化して言ってしまいますと―他者の視線がいつでも自分に対して一種の被害として受け取られると。過剰であるか少ないかは別として他者の視線がいつでも自分に対して被害として感ぜられる、或いは他者と言うふうに人間と人間との関係だけに限定しないで、世界というものが自分に対して被害として、世界の視点がいつでも自分に対して被害として感ぜられるという、そういう人間と人間との、或いは人間と世界との関係の仕方というのは、現在の言葉でいえば人間と人間との関係の仕方、或いは人間と世界との関係の仕方の非常に基本的な構造に当たる訳です。本質的な構造に当たる訳です。ですから漱石の作品というものを非常に本質的にならしめている一つの要素は、漱石が明らかに被害妄想的、或いは追跡妄想的というふうに考えた方がいい人物を、必然的に設定せざるを得なくなっているし、また漱石がそれをある程度自己移入して、白熱化してそういう人物を描かれざるを得なくなっている、そういうところに謂わば漱石の作品の謂わば永続性といいましょうか、本質性といいましょうか、そういうものが横たわっているというふうに考えることが出来るだろうというふうに、思われます。

5 須永の話

 

 で、この問題は直ぐに例えば『彼岸過迄』の中でも、「須永の話」という敬太郎の今の探偵の話の直ぐ後にやってくる、「須永の話」という章がある訳ですけれども、その「須永の話」という章の中に直ぐに出てきます。須永という人物は白熱化したところで、漱石が非常に夢中になって自己投入を自分の影というものを須永の中に投入してきます。須永という人物は非社交的な、嫉妬妄想というものを沢山持った、そういう人物なんです。それで自分は眉間のところに、否、田口と言う人物の娘・長女である千代子という娘と幼い時から親同士の何とない約束みたいのがあって、許嫁という訳では無いのですが許婚者という訳では無いのですが、何となく二人は一緒に成ったら良いみたいに周囲から思われているし、本人達もある所ではそういう親密感を持ったりし、あるところでは反撥しってな形でいるんですけれども、一番白熱化したところで言えば、親戚達が一緒に鎌倉の海か何かに遊びに行く訳ですけれども、須永もお袋さんを連れて来ないかって言われて行く訳ですけれど、そこに一人の青年が遊びに来ていて、その青年は千代子という娘の友達の兄に当たる人物なんですけど―高木という人物なんですけれども―その人物に対して千代子は無意識のうちに親密感を持つ素振りをする訳です。素振りをする訳です。それがいちいち、須永にとってはいちいちそれが一つの―どう言ったら良いでしょうか― 媚態と言いましょうか、媚態というふうに思われて仕方がなくて、自分は嫉妬妄想に駆られて、嫉妬に駆られて何か自分は素っ気ない顔をして、いつでも朗らかでなくて、素っ気ない顔をしている。それでプイッと海から帰ってしまう。そういうところがある訳ですけれども、そこで千代子は須永に対して、「あんたは卑怯だっていうふうに言う訳です。少しも男としての雅量って言いますか、度量って言いますか、度量と言うものが少しも無くて、いつでも拗ねた様な素振りばっかりしている。それに比べれば高木という人物は雅量があって、あなたのことだって何とかして仲間として話を交わしたりして、いつでも気を遣って遣って(いるのに)、あなたはそうじゃない。自分が一寸高木という人物と親しそうに話をしていると、そこからプイッと面を背けてしまう、あなたは詰まるところ雅量がない、卑怯な男・人物なんだ」というふうに千代子が怒るところがあるんです。それに対して須永は「そうかも知れないけど、自分はそうじゃない、高木という人物が生まれつきみたいに、謂わば天から与えられたみたいに、何か人を楽しませ、人を喜ばせるみたいなことが出来る、自分はそれに対して非常にいつでも孤独で一人で引きこもりがちでそういうことが出来ないんだ」というふうに、お前なんかから卑怯だなんて言われる、いわれはないなんてみたいなふうにそこで争いが起こってしまう訳です。
 ところで、どうことが漱石は白熱して、須永という人物の中に自己投入しているかって言いますと、須永という人物から視ると女性が持っている、須永にとっては千代子という従姉妹の女性の中に高木に対する無意識の行為というものがあるから、だからああいう素振りが出来るんだ、もしそれが無かったならああいう素振りは自分がいる所ではできない筈だというふうに考えている訳です。ですから千代子は決して意識して無いのだけれども、意識して無いのだけれども、しかし無意識のところでは高木という人物を好いているから、そういう振る舞いが自然に出てきちゃうということになるんだというふうに、須永はそういうふうに理解する訳です。それで、須永の中にはもう少し妄想がありまして―もっと突き詰めた妄想がありまして― 一般的に女性というものは、異性に対して、異性というものを特定できないんじゃないかという考え方が須永の中にある訳なんです。つまりそれは白熱したところで言えば、漱石の中にそういうものがあるということを意味すると言ってもいいくらいなんです。女性というものはどの男性が好きであるというふうに、本当に突き詰めて行けば特定することができないんじゃないか。つまり女性というのはその意味では【5:54】汎(?)性的と言いましょうか、そういうものなんかじゃないかという、一種の疑念が須永の中には人間に対する基本的な認識としてある訳なんで。ところが千代子にとってはそんなことないのであって、そんなことないのであって、自分は非常にひとりでに―好きだ、嫌いだというのではなくて―ひとりでに振る舞っているだけなんだ。例えば高木という人物に対して振る舞っているだけなんだ。或いは一般的に男性に対してそう振る舞っているだけなんだ、というふうに千代子はそう思っている訳です。ところが須永の方から言わせれば、そうじゃない。無意識のうちに高木という人物を好きだから、そういうことが出来るんだというふうに須永は考えている訳です。で、須永のそういう謂わば嫉妬妄想というものの構造をもう少し突き詰めて行きますと、突き詰めて行ったところに謂わば漱石の持っている女性像っていうものがある訳ですけれど―女性認識というものがある訳ですけれども―もう少し突き詰めて行きますと、女性というものはどういうふうに考えても男性を特定できないという、それが女性の本質じゃあないのかという疑念を須永の方は持っている訳です。漱石の方が持っているといってもいい訳です。漱石はそういう女性認識を基本的には持っている訳です。ですから女性は例えば、男性がその女性を好きだというふうに特定した場合には、それに応じてその男性を好きだと言うことが出来るのだけれど、一般的にいって女性というものは、性を特定するといいますか、異性を特定するということは女性は出来ないんじゃないかというふうな考え方が漱石には基本的な女性観の中にはそういうものがあります。それで結局は須永の嫉妬妄想というようなものを突き詰めて行きますと、そこのところのくい違いが、女性の側と須永の認識とのくい違いというものに迄、到達していってしまいます。で、この基本構造はさっきの被害妄想・追跡妄想と併せて謂わば、一種の人間と人間との関係におけるパラノイア構造なんですけれども、パラノイア構造なんですけれども、この構造というものは人間と人間との関係を司っている、或いは人間と世界との関係を司っている基本構造・本質構造であるというふうに言えば言えるものなんで、この本質構造の問題を巡って謂わば漱石の作品というものはズーと展開されているというふうに考えても宜しいかと思います。

6 ホモジニアスな性の世界と女性

 で、この問題は例えば現在の考え方からいきますと、どういうことになるかといいますと、つまりこれは須永の中に、要するにフロイト流・フロイト的に言いますと―同性愛なんですけれども―須永の中に同性愛的な傾向っていいますか、同性愛の傾向が本質的にあると、だから本当は千代子に対して嫉妬しているのではなくて、本当は須永は高木という人物に対して同性愛を抱いていると、同性愛的な親愛感を抱いていると、それに対して、高木に対して千代子が謂わば親密な度合い(情愛?)を示してたりするものであるから、須永は嫉妬妄想に駆られるというのが、謂わばフロイト的に言ったパラノイア的構造の基本的な理解の仕方です。つまりこれは漱石の作品の中では、少なくともそうでなくて、須永という人物の中に非社交性と孤独な内向性があって、自分と何となく、周囲から小さい時から許嫁的に何となく思われてきたその女性が―千代子という女性が―全然知らない男性と親しげにしている。しかも自分のいる前で親しげにしているというところで、嫉妬妄想に駆られるということになるのですから、これは千代子に対する、千代子の振る舞いに対して、須永が嫉妬妄想を抱くというのが、作品の中に―漱石の作品の中にいつも現れる、三角関係の中でいつでも現れる構図はそういうことに大体なる訳ですけれども、これに対する基本的な解釈の仕方・理解の仕方はフロイト的にいえばそうではなくて、須永の中に謂わば同性愛的な構造があって、その為に高木に対して同性愛的な親愛感を持ってて、同性愛的な親愛感を持っている高木に対して自分の知っている千代子が親しげな素振りをする、振る舞いをするということで嫉妬妄想に駆られるというのがフロイト的な解釈の仕方になります。すからこの解釈の仕方というものは、漱石からいきますと漱石にとっては無意識にある訳です。漱石はそういう意味合いで自分が白熱して自己投入している嫉妬妄想・追跡妄想、それから被害妄想の世界というものがある訳ですけれども、それに対して漱石自身が無意識である訳なんです。ですから漱石自身の精神構造というものをフロイト的に理解の仕方をしますと、漱石自身の中にホモジニアスなセックスというものがこの世界を覆っているという考え方がありまして―無意識がありまして―その無意識に対して女性がいつでも異なった性、或いは全く想像も及ばない性として、そういう自分が描いているホモジニアスなセックスの世界、この世界はホモジニアスな世界で塗り込められているという考え方を、漱石の基本的な人間認識だと考えますと、そこのところに対して女性というものは絶えずそれに対する違和感として、或いはそれに対して、絶えず全く世界の外から遣って来るものみたいな形で、女性というものはいつでも遣ってくると、そしてそこの漱石が世界として理解しているホモジニアスな性の世界に対して、いつでも女性というものは違和感をもたらすものだ、或いはそこに対していつでも攪乱をもたらすものだ、或いはそこに対していつでも激しい対立をもたらすものだというふうに、漱石自身の中では潜在的な認識の中では、或いは潜在的な無意識の中ではそういうふうにこの世界が理解されている、或いは女性というものは理解されているというふうに考えることが出来るんだろうというふうに思います。つまり漱石がこの世界をホモジニアスなセックスの世界だというふうに、世界が塗り込められているというふうに漱石が考えてくという場合の、ホモジニアスなセックスの世界というのは、所謂フロイト的な意味での同性愛というふうに限定しなくても宜しいので、単一の性・均一な性・均質なセックスって言いましょうか、均質なセックス、或いは単質なセックスと言いましょうか、そういうものとしてこの世界が塗り込められているというふうに、そういうふうに広義な意味で、広い意味でホモジニアスなセックスというものを理解して頂ければ、非常に都合がいいのですけれども。つまり精神的な世界な問題まで拡張できる訳なんですけれども。漱石にとってはホモジニアスな世界としてしかこの世界は存在していないというふうに、少なくとも作品を介して理解された漱石というものの世界は、そういうふうに考えられると、非常に世界の成り立ちというものが明瞭になって来るというようなことが言えるように思います。つまりそこに対して絶えず女性が違和感、或いは異なった、或いは全然及びも付かない世界から遣ってくる人との異なった性といいましょうか、セックスといいましょうか、そういうものとして女性が漱石の世界に、或いは漱石の管理(?)の世界にやって来ると、そこのところで様々な違和感をかき立て、様々な問題を引き起こしというふうになってくるのですけれども、それに対して漱石は唯の一度も作中の人物を介して、或いは作中の人物の認識を介して、唯の一度も自分の世界に対する認識の仕方を、唯の一度も修正しようとしたことはないと思います。それから、唯の一度も自分の女性に対する考え方というものを修正しようとしたことはないと思います。漱石は意識的であるにしろ、無意識的であったにしろ女性というものに対していつでも違和をもたらすもの―それは様々な言葉で作品で言われていますけれども―違和をもたらすもの、或いは自分の考えているホモジニアスな世界というものを世界というふうに考えれば、世界の全体と考えれば、それに対して絶えず全く異質なところからそこへ遣ってくる異なった性、或いは及びもつかない、想像もつかない性として、つまり不可解な性と言いましょうか、そういうものとして女性というものはいつでも漱石にとっては考えられているということは、少なくとも作品を介していえば直ぐにそういうことが理解されます。それで、そういう認識が謂わば作品の登場人物の中で白熱してきたという場合に限って、漱石の作中人物が非常に白熱してしまうという場面が描かれるということが直ぐに理解されます。多分その問題は―今のような理解の仕方が正当であるにしろ無いにしろ、漱石の作品の世界から窺うことが出来る漱石の世界というものの中で、非常に大きな位置づけを持って、位置づけを占めていただろうということは多分言えるんじゃないかというふうに思われます。

7 『それから』─魂の探偵としての代助

 で、漱石の作品の特徴というのは、今言いました様にそこの中で世界というものをホモジニアスなセックスの世界だというふうに考えている様な、意識的・或いは無意識的に考えている様な主人物が必ず登場する―それは男性ですけれど―登場すると言うことと、それに対して最も激しい形で違和感、異なった違和感をもたらす性として登場する女性の像がやってきて、そこにくると漱石の作品が白熱すると言うことが言えると思います。それは例えば初期の『虞美人草』の藤尾から始まりまして、『三四郎』の中の美禰子から『行人』の中のお直に至るまで、『道草』のお米(? 御住(おすみ))でしょうか、そういうのに至るまで、漱石の作品の中で主人公、或いは主人物のホモジニアスな世界・セックスの世界といいましょうか、世界認識に対して、絶えず違和感をもたらす人物として設定される女性というのがいつでもいる訳ですけれども、この女性は無口であって、あんまり愛想の無い愛嬌の無い、冷たい切り口を持った女性がいつでも出てくる訳ですけれど、その女性のイメージが出てくる時、主人公である男性のホモジニアスなセックスの世界に対して、違和感をもたらす様な振る舞いに及ぶ時には、多分いつでも漱石の作品は非常にそこの箇所で白熱していくということが、言えるんじゃないかというふうに思えます。例えばそういう人物が作品の中でどういうふうに象徴しているかって言うことを、考えてみますと、例えば『それから』という世界で言えば、先程言いました『彼岸過迄』の敬太郎の探偵趣味・追跡妄想みたいなものと引き比べて言いますと、例えば『それから』では、どういう構造(?行動)になっているかと言いますと、代助という主人公が、自分が嘗て旧友に世話をした友達の妹と何年か後に親密になっていく動機があって・・・。【音声中断】 夫婦仲が悪くなり、経済的な貧困に陥り、赤ん坊を流産したりして、謂わば不幸な形で自分と再会した時に、その女性に対して段々親密感を加えていく訳ですけれども、その場合に代助という主人公の挙動・振る舞い方というものを、『彼岸過迄』の須永や敬太郎と同じ様に、探偵だ、一種の魂の探偵なんだというように代助の振るまいを考えてしてしまうと、代助が魂の探偵として友人の平岡の奥さんになって、三千代―嘗ての旧友の妹なんですけれども、その妹の不幸を感受して、その不幸に対して同情を持ち、同情が愛情に変わりというふうに、段々接近していくに従ってどういう世界が現れてくるかというと、『それから』の世界の言葉で言えば代助が平岡に対して告白する時に、こういうふうに告白する時があります。君が三千代さんと親しくなって、三千代に愛を抱くというふうに成るずっと以前から自分は三千代さんを自分は好きだった、唯自分は好きだったんだけども、しかしお前が俺に対して三千代を好きだと、お前は親しいから三千代さんにその意を伝えてくれというふうに言われた時、友情というものに対して譲るって言いますか、へりくだるということが、自分は三千代に対して抱いていた愛情に対する本当の応え方だというふうに、自分は考えたからお前に一緒に成るように、自分は世話をした、斡旋したんだ。しかしそれは自分は間違いだということが今判ったんだという言い方をしています。その時何が重要なのかと言いますと、それは本当に必然的に作品が描かれているかというと、必ずしもそうではなくて、そこの描き方は失敗した箇所だというふうに思えるんです。その時に平岡に対して代助が告白する時に、お前が三千代さんを好きだったよりずっと以前から、俺は三千代さんを好きだったんだと言うふうに、そういう告白の仕方を代助がするというところが、大変重要な様に思います。そこのところで現れてくる過去の世界というものに対して、どういうふうにして、なぜ触発されてきたかというと、代助が魂の探偵として、『彼岸過迄』の敬太郎と同じ様に、平岡と三千代の夫婦と再会した時に、その夫婦の間がどういうふうになっているかということに対して、代助が接近していってそれを探ろう探ろうというふうに、探ろう探ろうというふうな形で自分が接近していった時に現れてくる謎と言いましょうか、現れてきた謎というものが何かというと、自分は三千代に対して平岡が好きになったよりもずっと以前から本当は好きだったんだという、自分の過去の精神構造というものが、そこで謎として浮き上がってくるという構造に『それから』という作品はなっている訳です。そういうふうに考えていきますと、代助というのは漱石の作品の主人公としていつでも現れてくる一種の魂の探偵なんだ、魂の探偵がある事柄に対して、平岡と三千代の夫婦の魂の在り方に対して、それを解明しようとしてそれに近づいていった時に初めて浮かび上がってくる謎というのが何かというと、平岡と三千代が不和であるとか、夫婦仲が悪いとか、そういうこと(で)はなくて、自分が過去に平岡より先に三千代に対して本当は愛情を抱いていたんだという構造が謎として、潜在化されていた謎として在ったものが、それが代助の魂の探偵的な行為(を)に触発されて、それが浮かび上がってくるというのが『それから』という作品の本質的な構造になっています。こういうふうに考えていきますと、魂の探偵、或いは追跡妄想ないしは被害妄想、或いは嫉妬妄想みたいな、世界と人間との関係の在り方としてのパラノイヤ的な構造というものを、被害の視線といいましょうか、そういうものは漱石の作品を(の)全体を覆うことが出来るというふうに考えることが出来ます。これは皆さんがいちいち精密に遣ってご覧になれば、多分そのことは非常にハッキリと出てくるように思いますけども、ザッと当たった限りでも、漱石の作品の主人公達は必ず魂の探偵として振る舞って、振る舞うという行動(が)を作品の中でやらかします。そうするとやらかした行動に対して何が謎として、魂の探偵が解明して浮かび上がらせる謎として、何がやってくるということが漱石の作品の構造の基本になっているということが判ります。で『それから』という作品の場合には自分の心に中に隠されていた、過去として埋められていた、自分は平岡よりも先に三千代を好きだったんだという構造が謎として浮かび上がってくるというこの基本構造が押さえられますと、『それから』という作品は押さえられたということに成って来ます。

8 『こころ』─『それから』と裏返しの世界

 『それから』という作品と丁度裏腹な作品が『こころ』という作品だと判ります。この場合には自分が非常に本然的に振る舞おうとした場合に―自分というのは『こころ』では先生ですけれども。『こころ』という作品に出てくる先生ですけれども―先生が下宿屋の娘さんに対して好意を抱いている。自分が世話して同宿させた友達もヤッパリ、好意を抱いているということが判る。その時に友達が自分に告白する。告白すると自分は先を越されたということになって、その友達を出し抜いて、結婚を申し込んで娘さんと結婚してしまう。そのことが罪悪感として残って、先生は自殺してしまうということが『こころ』という作品の筋、物語としての筋ですけれども、『こころ』という作品の基本構造は、『それから』と丁度裏返しの世界でして、この時は先生は自分が下宿屋の娘さんを好きだということの本音を生かそうとする為に、代助と違ってその場で生かそうとする為に友人を出し抜いてしまう、出し抜いて裏切ってしまうという形になる訳です。しかしこの場合には僕らの考え方からすれば、こういうことは出し抜こうが出し抜くまいが、それは性というものは一人の人間が必ず他の一人の人間を特定する以外にありませんから、性の世界は成り立ちませんから、出し抜こうが抜くまいが、先生の振る舞いは正しい―正しいというのはおかしい言い方ですけれども―それは当然なんであって、それはどうっていうことはないのだということに成ります。いずれにしても成ります。そこのところで三角関係があった場合には誰かが脱落するということは致し方ない、またそれ以外に方法は無いということに成ります。ですから先生の振る舞いは決して別に罪悪感に価しないし、また自殺に価しない訳ですけども、この場合どうして自殺に価しないかっていいますと、この場合には、『それから』の代助とは逆に下宿屋の娘が好きだということを貫こうとして、友人を出し抜いてしまうということに成る訳です。出し抜いてしまって一緒に成ってしまう。その為に友人は自殺してしまう訳です。自分もそれが罪障感・罪悪感として残って自分もやがて自殺してしまうということに成っていく訳ですけれど、この場合には、『こころ』の先生は代助とは反対に、非常に本然的に―漱石の好きな言葉で言えば―本然・自然的に振る舞って、女性に対して振る舞って、その為に友人を出し抜いたということになる訳です。しかしここで罪悪感が二つあって、一つは友人が自分が下宿屋の娘さんに結婚を申し込んで承諾を得たということを友人が知った、その晩に友人が自殺してしまう。自分もそれが一生の間引っ掛かっていて、やがて自殺してしまうというふうに漱石の作品・『こころ』は成っている訳ですけれども、ここで基本的に問題なのは、先程のパラノイアというものに対する―パラノイアを世界と人間との基本的な関係の仕方の構造というふうに考えますと、そこで問題になるのはこの問題をどういうふうに理解するかということになります。漱石は明らかに自分が友人・親友を出し抜いて、親友が下宿屋の娘を好きだということを自分に告白しているし、知っているのにも拘わらずそれを出し抜いて、友人に何も言わないで出し抜いて結婚を申し込で、自分は獲得してしまったということ、それから友人が自殺してしまったということ、自分が(は)それが生涯罪障感として引っ掛かって世に出ることもしないで、やがてそれにも耐えられないで自殺してしまう。こういうふうに作品を漱石は創り上げている訳です。しかしこの漱石の作品の創り上げ方の中には一つの無意識があります。無意識は何かと言いますと、この場合基本的な構造というものを考えていきますと、そういう理解の仕方にならない、つまり別様の理解の仕方が出来る訳です。先程申しましたように漱石の中にはこの世界というものを、ホモジニアスなセックスの世界として塗り込められているという世界認識がありまして、その世界認識から考えますと、下宿屋の娘さんの方が漱石自身の世界に対して、或いは『こころ』の先生の世界に対して違和をもたらすものとして、本当は存在しているという構造に成ります。そして自殺した親友―これが下宿屋の娘さんを好きだと自分に告白して、自分に先を越された、出し抜かれたということを知って黙って自殺してしまう―この親友というものに対して『こころ』の先生は同性愛的な情感というものを無意識の内に持っていたという構造に成ります。ですからこれが自殺してしまった時に自分が世界として設定している、ホモジニアスな世界というものが自分から脱落してしまった、その世界の鏡が壊れてしまったということを本当は意味することに成ります。そうすると壊れてしまった自分のホモジニアスな世界というものを、永い間『こころ』の先生は辛うじて維持していく訳ですけれども、それがとうとう最後に維持しきれなくなって『こころ』の先生は明治の終わり、作品の中では明治天皇が死に乃木大将が殉死してしまった時に、それを暗示として受け取って自分も自殺してしまうという形になります。しかし作品自体は『こころ』の先生の中に一種の強烈な倫理観があって、それが生涯引っ掛かっていて遂に自殺してしまったというふうに構造に作品自体は成っています。漱石自体は自己内省の中で自分を内省した場合に、自分をそういうふうに限定しいていた、つまり漱石は自分の資質をそれに準えていたというふうに考えることも出来る訳ですけれども、多分その漱石自身の準え方は無意識だ―本当の構造はそうではなくて漱石自身の中にこの世界をホモジニアスなセックスとして塗り込めているものがあって、その塗り込めているものに対して『こころ』の先生の親友・自殺してしまった親友というものはそれに対して全く違和感のないと言いましょうか、ホモジニアスな世界に叶う人物であり、下宿屋の娘さんがむしろホモジニアスな世界に対して一種の違和感をもたらす、そういう人物なんですけれども、自分のホモジニアスな世界に全く溶け込むことが出来ている、謂わば影みたいに溶け込むことが出来ている親友が自殺してしまった時に、自分のホモジニアスな世界というものがズタズタに切られてしまう、破れてしまって、その破れ目というものを『こころ』の先生は生涯に亘って塞ごうとして、塞ぎながら辛うじて生を保っていく訳ですけれど、最後にどうしても塞ぎきれないで自殺してしまう、そういうことに成ってしまうというのが漱石の内的世界の構造というものから眺めた『こころ』という作品の・構造の理解の仕方ということに成ると思います。この理解の仕方というものが、この理解の仕方というものが、うまくこの構造が摑めた時に多分『こころ』と言う作品は摑めたことに成るのではないかと思います。『こころ』という作品は、多分『それから』という作品と謂わば表裏を成す作品なんだというふうに言えるのではないかと思います。

9 『門』

 で、ところで一見すると漱石の作品世界の中で、今申し上げた世界と一種対照的に思われる作品があります。それは沢山、幾つもあるんですけれども、例を挙げてみますと『それから』の後にやってくる『門』という作品がありますね。『門』と言う作品。それから一番最後の作品としてやってくる『明暗』という作品、もしかすると違う意味でそうなんですけども、『明暗』より少し前なんですけども、『道草』と言う作品があります。この作品は多分魂の探偵がどういうふうに探っていくと、つまり魂の探偵たる作中の登場人物があることを探っていくと何が謎として浮かび上がってくるか、それが過去から存在する一つの世界として浮かび上がってくるかということを基本構造、漱石の先品の基本構造から言いますと、全く異質の様の思われる作品なんです。この作品は一見すると異質のように思われるんですけども、この作品には本当はヤッパリ同じ様な意味合いを込めて理解することが出来るように思われます。込めて理解できるというところを一つ簡単な言い方で言ってしまいますと、一種の『門』という世界も『明暗』という世界も、もしかすると『道草』という作品の世界もそうなんですけれど、一種の同一性の世界と言ったらいいんじゃないかと思われます。こんな言い方は別にしなくてもいい訳ですけども、外延(外縁 ?)を砕いてあれすればいい訳なんですけれども、話を判りやすくする為に申し上げますと、同一性の世界だと言えば言えるんじゃないかと思われます。同一性ということの意味になる訳なんですけれども、同一性ということは作品世界・作品の登場人物の世界というものを一種のどの様に異なった性格(の)・どの様に異なった振る舞いをする人物がやってきて描かれていたとしても、それは究極においては本質的に言いますと同一性だ・同じだというふうに考えられる。同じだというふうに考えられる作品の世界だという意味合いに取って下されればいいと思います。沢山の異質な登場人物が出てくる訳ですけれども。例えば『門』という作品では、宗助という主人公ともう一つ出てくる、崖の上に住んでいる大家さんの坂井というお爺さんが出てくる訳ですけれども、宗助という主人公と坂井というお爺さんとはまるで異質の性格を持った、異質の登場人物です。しかし、本質的に言いますと宗助という人物が作品の中で可能性としてどういうふうに振る舞ったとしても、坂井という崖の上の大家さんのお爺さんの振る舞い方と格別、本質的に違った振る舞いが出来ない様な世界として描かれています。もっと判りやすく言えば宗助という人物がどの様に思い悩んだり、どの様に自分を破滅させよう、或いはどの様に思い悩んで自分は禅寺を訪ねて行って、自分の悩みや不安を解決しようみたい禅寺を訪ねたりする訳ですけれども、いかに思い悩んだり不安に駆られたりするにしても、宗助という人物は決して『門』という作品の中で破滅したり、特別生き方を変えたりすることが出来ないというということは予め決められた世界だということがお判りになりましょう。宗助と奥方とはひっそりと崖の下で何気ないように毎日宗助は役所に出ていって、勤めては帰って来て、それを毎日のように繰り返して、帰ってくれば炬燵・火鉢を挟んで二人で寝るまでぼそぼそと世間話をして、二人で寝てしまうという生活を静かに、静かに繰り返している訳です。漱石はその世界を大変よく描いている。僕なんかは大変好きな作品ですけれども、宗助たちの(が)崖の下でひっそりと生活している(その)世界があって、その世界は宗助がどんなに思い悩もうが、どうしようが、どういう振る舞いを仕様が、決してそれが破れてしまうとか壊れてしまうとか破滅してしまうとか (を)想定することが出来ないということが初めから判ります。例えば、宗助という主人公はどういうふうにして不安に駆られるかといいますと、崖の上の大家さんである坂井というお爺さと泥棒に入られたということを契機にして少し口を利いて仲良くなって、口を利くように成って少し世間話をするように成る訳です。それで、その世間話の中で坂井というお爺さんの弟が満州とか蒙古とかそっちの方に行っているんですけれども、東京に帰ってくるんだという話がたまたま世間話で出てくる訳です。坂井というお爺さんの弟の友達である安井という人物も一緒に連れてくる、連れて蒙古から帰ってくるという話がたまたま世間話の間に出てくる訳です。それを聞いて宗助は不安に駆られる訳です。不安と驚きに駆られる訳です。どうしてかっていうと、その安井という人物は嘗て自分と京都の大学の学生の友達であり、安井が同棲していた女が今自分の奥さんになっているお米だった。そこで三角関係に成って自分はお米を取ったという形になって、安井は悩んだ果てに満州とか蒙古とか、そっちの方に行っちゃった。自分は学校を中退するという形で東京に出て来て、安井の生涯を狂わしてしまった自はもう世間に出られないし、出る気もないんだという形でひっそりと崖の下で、お米と一緒にひっそりと平和に暮らしている。そういう過去がある訳ですけれども、坂井というお爺さんがたまたま自分の弟が満州から帰ってくる。それによって弟の友達である安井という男も帰って来る。そういうことを聞いて宗助は動揺し、不安に駆られる訳です。お米に対してそれを告白して、安井がもしかすると崖の上の坂井の家に来るかも知れないんだと、お米に告白しようと思うんだけれども、それを告白してお米を不安の中に巻き込むのは忍びないという形で自分だけが悩む訳です。悩んだけれど、どうしてもそれを解決できない、悩みが深まるばっかりだということに成って、勤め先の同僚の口利きで鎌倉の禅寺に不安と悩みを鎮めようと思って座禅を組みに行く訳です。お米に対しては、自分は一寸この頃神経衰弱気味だから少し休養してくるんだ、休養したいんだ。鎌倉辺りの禅寺で安く泊めてくれる所があるからそこでのんびり過ごして少し休養したいと思うんだというふうに奥方にはそういうふうに言うんです。奥方の方は本当にそれでは行ってらっしゃいというふうに、本当に少しこの頃疲れ気味のように見えるからいってらっしゃいみたいに言われて、唯休養してくると言いながら、奥方には言って休暇を貰って禅寺に行って、そこで盛んに座禅をするのですけれど、ちっとも悩みが解決するというふうにならないで、そのまま帰って来る訳です。この場合でも宗助の悩みや不安がどんなふうに拡大されていったというふうに考えても、奥方にも言うことが出来ないし言わないし、それは外にも本当は表れないという形で籠められてしまっていて、宗助がそれを経験して自分の平和な・平穏な日常の影のような世界・生活を壊してしまうということは到底、作品の可能性として考えられないように初めから設定されているということが判ります。結局、作品の筋立てとしては、そのように悩んで悩んで禅寺に行っても解決できないで帰って来る訳ですけれど、帰ってきた時に安井はもうここに来ているんだろうかっていうふうに考える訳ですけれども、それを言い出せないでいるんだけれども、ある時ふとしたことから坂井のお爺さんから、弟は都合があって来なくなっちゃたんだというふうな、安井はそこに来なかった(?来なくなった)、そういうことで以て作品自体としてはそのまま波が収まってしまうっていうふうに作品の筋自体はそうなっています。

10 同一性の世界

 しかし、そういうことよりもこの作品の構造として、この『門』という作品は、構造として基本的なのは何かというと、そういうことではなくて、『門』の登場人物というのはどういうふうに設定されていても―登場人物がどういうふうに設定されていても―その登場人物は同一性の範囲というものを踏みだすことはないと言うふうな作品の構造が取られているということなんです。様々な性格・様々な境遇・様々な設定として登場人物は設定されていても、この登場人物は本質的なところまでいってしまえば、同一性という範囲を出られない様に、初めからこの作品は設定されていると言うことが―作品の世界が設定されているということが―非常に基本的な構造だということが判ります。この基本構造が押さえられた時に、『門』という作品は押さえられたと言うことが出来ます。なぜこの同一性ということが―同一性と今言いましたけれど―どういうふうに考えてもこの作品の世界では、登場人物たちは同一性という範囲を出られないように設定されているということが、なぜ重要かって言いますと、同一性という考え方の裏に当たるものが何時でも漱石の―先程言いました様に―魂の探偵がどこまで自分を追跡妄想に駆られながら、どこまでも追跡していくと、魂の探偵の追跡に従ってなぜか謎のような世界が蘇ってくるというのが、一つのラジカルな、極限まで行った、漱石の作品の極限まで行った 一つの構造だとすれば同一性という構造は極限までいった漱石の作品の世界の構造の丁度裏と言いましょうか、対偶と言いましょうか、そういうものに当たるということが判ります。どこまでも突き詰めていくと同一性に成ってしまうんだ。突き詰めていかない限り作品の世界の登場人物は、様々な境遇を持ち、様々な性格を持ち、様々に設定されているのですけれども、どこまでも突き詰めていくと、その人物は全部同一性の範囲を出られないというふうになって行ってしまう。これは謂わば先程のどこまでも突き詰めていくと魂の探偵が登場人物の関係を破壊しそうに成り、破壊しそうに成るとすると謎が浮かび上がってくるという、そういう極限構造を一つの構造とすれば、丁度裏に当たる訳です。どこまでも突き詰めていけば、最初に異なっている様に、或いは最初に差異があり様に見える登場人物達の世界が全部が同一性というところに収斂してしまう、突き詰めて行けば同一性というところの収斂してしまうということは、この漱石の作品の中のもう一つの裏に当たる作品に該当します。しかし裏といい表といい、これは世界というものの構造としては、同じことだということが判ります。世界の構造というものと、言語によってそれが表現された作品の構造というものに、ある対応性がつけられる・対応性が考えられるというところでは世界の構造・基本構造としての、どこまでも突き詰めてしまえば同一性に収斂してしまうと、異なったように見える人物・イデオロギー・思想、それから世界・境遇、そういうなものがどこまでも突き詰めていってしまえば同一性に収斂してしまうか、或いはどこまで突き詰めて行けば、突き詰め方に従って世界が壊れてしまい、そして謎が浮かび上がってくるというふうに世界の構造は存在するかということは、世界の基本構造としては同一性だということがわかります。それは基本的な・本質的な構造としてそれがあるんだということが判ります。つまり漱石の作品というものを、もし言葉の作品というものを、現実の世界というものとの対応性がつけられるものというふうに想定しますと、漱石の作品もまた二色の世界に分離することが出来ます。分離された二つの世界というものは、結局のところは一つの世界の本質というものを語っているということが言えると思います。

11 『明暗』─漱石の内面世界の謎

 で、これは『明暗』という作品の世界というのも、僕は同じじゃないかと思います。『明暗』の作品の世界というものはまだ未完の作品ですから、これを究極的な言葉で言うことが出来ないのですけれども、『明暗』の世界の作品の特徴、誰にでも判る特徴は何かといいますと、そこに漱石の作品の中に顕著に登場してくる、被害妄想・追跡妄想、或いは嫉妬妄想に駆られた人物というものが、大なり小なり漱石が白熱した場面で自分を自己投入している様な、そういう人物が登場しないという(こと)です。『明暗』の世界に登場する人物はそういう意味合いから言いますと、漱石が自己移入することがあまり出来ない、或いは自己移入が出来ないような人物だけが登場すると言うことが出来ます。だから『明暗』の世界の登場人物はいずれにせよ作者・漱石にとっては自分がいつでも相対化することが出来る世界の人物です。いくら白熱しても、例えば津田という人物に漱石は自分を投入することは出来ないでしょう。津田の細君であるお延さんという人物の中に自分の理想の女性像を投入することも出来ないでしょう。そういう設定として誰一人として、漱石の世界―内面の世界を自己投入出来る様な人物は、『明暗』の中には登場していません。そういう意味合いでは、大変見事な距離を置いた作りもの世界だということも出来ます。巧みな世界だともいうことが出来ます。しかし、巧みな世界の顕著な構造は何かといいますと、登場人物は津田やお延と小林という社会主義的な言辞を弄する人物がいる訳ですけども、その小林とか吉川夫人とか、登場人物としても漱石の作品の中では一番多様な人物が、性格を持った登場人物が登場してくる訳ですけども、しかしそれらの登場人物は先程のいい方でいいますと、どう様に突き詰めて行けば、どの様に振る舞っても同一性という範囲をどうしても出ないだろうという人物だってことは、予め『明暗』という作品が終わらなくても多分予め判っているというふうに言うことが出来そうに思われます。どの様に『明暗』が展開しても、多分その中の唯一人の人物も破滅したり、その中の人物もが突如として漱石が自己移入出来る様な人物に変貌したり、或いは漱石が理想の女性と考えた女性に変貌してしまう様な人物に、変わってしまう様なことは、到底考えられない様に初めから描かれています。この様に考えますと、漱石にとっての作品としては一番円熟した、一番多様な性格を持った登場人物を描き分けることが出来ている訳ですけれども、しかしこの作品の世界は突き詰めて行ってしまいますと、同一性という範囲をどうしても出られないという、そういう世界の登場人物だということは、多分予め決められている様な気が致します。同一性という範囲(を)出られないという、そういう世界の設定は、先程言いました様に漱石の世界の・文学的世界の広い本質的な構造を成しています。この問題が多分、漱石にとって一番謎な問題であって、漱石が非常に―現在でも現在的っておかしな言い方ですけれども―現代でも一寸モダンな、真新しい様な、つまり被害妄想・追跡妄想・嫉妬妄想に駆られた人物を見事に造形したり、している訳ですけれども、そういう人物を登場させているかと思うとしますと、初期の作品がみんなそうなんですけども、また初期の作品が■■■一見すると漱石の世界から段々■■■している様に見えるんですけれども、謂わば一種東洋的なつくりの世界みたいな物がありまして、例えば『行人』の一郎が漱石の登場人物として、一番漱石が自己投入できている人物であって、嫉妬妄想と被害妄想に駆られている人物を描いている訳ですけれども、この主人公の一郎という人物を裏側からといいますか、内在的に一種の理解者として描いているHという親友が書簡の形で描いてる、内在的な一郎の世界がある訳ですけれども、そこで一郎は最後に自分はきちがいに成るか死ぬか、でなければ宗教にいくか、道がないんだと言って、そこで一郎が描く宗教とは何かと言ったら一種の救済、禅的な、割に東洋的な宗教、禅的な宗教、救済の宗教―つまり救済というのも平癒救済といいましょうか、自己同一化・自己絶対化ということに拠る救済みたいな、割合東洋的な意味合いの宗教というものが描かれたりしています。つまり漱石の中に謎があるので、漱石は世界というものを非常にモダンに、相当モダンに考えていたのと裏腹に、漱石は世界を融和として考えているみたいなところがどこかにありまして、その二つの兼ね合いといいましょうか、兼ね合いが漱石の世界の中で、つまり内面世界の中では一番謎に当たるものでしょうけれども、この謎に当たる部分は、多分どういうふうに理解したらいいのかと言えば、今で言いますと、どこまで突き詰めていけば世界と自分も(?)破壊、世界も破壊してしまうし、また同時に世界の謎も露出してしまうという突き詰め方と、どこまでも突き詰めていきますと、異なったものがみな同一性という範囲内に収斂していってしまうという、漱石の世界に対する考え方みたいなのがありまして、この考え方は謂わば漱石にとっては、盾の両面―裏・表みたいなもので、それは一つの融合でも無ければ、別個・個別的でも無い、唯裏と表なんだ、本質の裏と表なんだという形で存在するというところが漱石にとって、究極的には世界の謎であるだろうと思われます。その謎をどの様に理解するかということが、漱石を理解する最後の鍵になるというふうに思われますけれども、それを漱石の作品でいいますと、『門』とか『明暗』とか『道草』とかの世界に該当するというふうに思われます。

12 中性的な描写

 で、例えば『明暗』の世界で、よく■■■ご覧になればお判りになりますけれども、小林という人物が一種の―漱石の世界でいえば― 一種の罪障感、被害妄想の謂わば象徴的な人物として、小林という人物が作品の中に出たり入ったりしてくる訳ですが、小林という人物の描かれ方というのは漱石の罪障感といいますか、被害妄想といいますか、被害妄想を象徴する一つ(一人?)の人物として大雑把に言ってしまえば、言って宜しいかと思いますけども、この人物の描き方というものと―この小林という人物のどこの場面でも取ってきてもいい訳ですけれども―津田と一緒に屋台の■■■に入って、そこに職人さん達が一緒に飲んで、■■■そういう所に入って行って、小林が酔っ払ってくだを巻くところがあって―津田にくだを巻くところがあって―お前なんか上品ぶって、こういう人たちの世界を知らないだろう、こういう人たちの世界の方がずっとお前達たちよりも率直で正直な良い世界なんだみたいなことを喚くところがあるんですけれども、その喚くところを描く時でも、その描かれ方というのは一種の冷酷な・冷淡な描き方をしている訳です。冷淡な描き方をしていて決して同情的な描かれ方ではありません。この描き方・描かれ方、例えば津田の奥さん・お延さんという者(人?)が津田が胃の手術をするというその日に、つまり手術をしたその直後に約束があるからと言って、芝居見物に行ってしまうと言うところがある訳です。芝居見物に行っていいでしょうということで、津田と一寸言い争いみたいに成る。津田の方からすれば何で亭主が胃の手術をして切ったばっかりなのに、約束があるからと言って、なぜ芝居見物にいきたがっちゃうのだろうかという様なことが、どうしても不可解でしょうがないというふうになるのですけれど、片方の方から言えば前からの芝居に行きたいという約束もあって、亭主もお腹を切ったんだけれども、あんまり悪いことも無くて、もう安全安心だと言うことが判ったんだから、行ってもいいだろうというふうに、行ってもいい筈じゃないかというふうに思っています。しかし、もっともっと突き詰めてってしまいますと、津田の中には、もしかするとこの細君は俺と一緒に病院にくっついて来たけれど、本当は俺の為にくっついてきたんじゃ無くて、芝居に行くつもりで晴れ着を着てやってきて、手術が終わったらさっさと芝居に行こうと思って、初めから決めて来たんじゃなかろうか。つまり俺のことを病院の手術に付き添うみたいに俺のことをのせたんだけれど、本当はそうじゃ無いのでは無いかというふうに津田は疑いを持つみたいに成って、もう少しそれを突き詰めて行くと、漱石の本質的な、一方の・裏側の作品の世界の構造に成ってしまうんですけれど、せいぜいその位のところで、『明暗』の世界は終わっちゃっているんですけれども、このお延さんという人物(を)・女の人を描く描き方と、小林という人物を描く描き方とは、多分描かれ方として一つの等距離だ、或いは描かれ方として中性だ。この中性の描かれ方というものは、多分この世界の同一性ということも象徴する一つの表れだということが出来ると思います。このような箇所はいくらでも見つけることが出来るので、多分この『明暗』という世界は幾つかの同一性というものの場面、或いは同一性という場面のこうじょう(?)というものを幾つか掴むことが出来れば、幾つか抽出することが出来れば、多分『明暗』という世界は終わってはいないですけれども、この世界の基本構造というものは押さえることが出来るだろうというふうに思われます。

13 『道草』─漱石の生涯における同一性

 で、これは『道草』というのは、『明暗』とか『門』とかに比べれば、自伝的な要素が大変に強くて、リアリズム、或いは私小説の要素が大変強くて、殆どがフィクション無しの―事実関係として見れば、フィクション無しの漱石の家庭生活、或いは夫婦生活とそれを取り巻く人物の動きというものを、殆ど自伝的な要素を交えて描いているんじゃないかというふうに思われるものですけれども、この世界は漱石自身が、東京大学の教授であり、朝日新聞の社友であり、優れた小説家でありというふうに、漱石自体の生涯が謂わば同一性の、突き詰めていってしまえば同一性の世界というものを外れることは無かったということ。つまり言ってみますと、誰でも、どこに(でも)いる・どういう人物でも、(その)人物の生涯と漱石の生涯を突き詰めて行ってしまえば、少しも違うものでは無かった、同一性という範囲を外れるものでは無いという生涯を事実として漱石自身は踏んでいる訳です。ですから事実関係を非常に投影した『道草』という作品は当然、どこまで登場人物を引き伸ばしていっても、これは破滅というところにはどうしても成らないとか、世界が壊れ、そして謎が現れるみたいな、そういう世界は当然『道草』の世界でもやってこない訳です。またここで罪障感として、妄想を象徴する人物として出てくるのは、島田という名前で出てくる老人です。この老人は嘗て自分の養父であり、自分を子供の時何年間か養ってくれた養父であり、その養父は自分を唯利益に駆られて養ってくれただけで、自分をいつか恩返しさせようと思って■■■。養父が年を経てお金をせびりに、自分の家庭の周辺をいつでも影の様に付きまとってくる。■■■。断ちますみたいな証文を取るということで、やっと島田という老人の影を振り払うことが出来る。自伝的に言えば、自分の養父の影を振り払うことが出来るというところで作品は終わる訳ですけれども、この人物が作品の罪障感―漱石で言えば罪障感、妄想の世界というものを象徴する人物なんですけれども、しかしどの様に(な)考え方をしても、『道草』という作品の登場人物たちがどこかで破滅してしまうとか、相互の葛藤の為に壊れてしまうということは、あり得ないということは初めから決まっている、突き詰めて行けば同一性という範囲を登場人物たちは逃れられない、或いはそこを外れるということはないという作品だということは判ります。この作品の中で重要な自伝的な要素と成っている、そういう要素は漱石自身の作品の影の様に―例えば『道草』という作品の裏側は、丁度『行人』という世界・作品の世界だと思いますけれども、『行人』の一郎という者は、『道草』の中の健三の昇華された、観念化された姿だというふうに思われる訳ですけれども、この世界は事実性の影を追っている限りは、同一性という範囲をどうしても出られない。その作品の同一性というものを最後に支えているものは、漱石の生涯における同一性ということに帰着するということが判ります。漱石自身は―中野重治的に言えば、素町人的な根性というものがいつでも付きまとっているのだというふうな言い方をすれば、そうなんですけれども―漱石自身は自分は秀才であり、大学の教授であり、高等学校の教授であり、小説家であり、朝日新聞の社友であり、東西の最も優れた作家であり、そういう世界というものを、全うする形で漱石は自己同一性の世界というものを貫いた訳です。同一性の世界というものを貫いた漱石と、その裏面に当たる、どこまでも魂の探偵としての漱石自身の自己追究の後というものをどこまでも突き詰めて行きますと、それは一種の世界の破壊に至る、世界を破壊してしまう、そして世界を破壊してしまった時に現れてくる基本的な構造というものは、謂わば一種のそれまで、誰も摑むことが出来なかった世界の謎というものがそこに浮かび上がってくる、謎として浮かび上がってきたところで、考えられる世界というものは、一種の本質的な世界であって、そこで漱石自身が浮かび上がらせているものは、明治以降のどんな作家に比べても遙かにそれを上回る様な、そういう意味合いでは何世紀に一人にしか考えられない様な巨大な形で、世界の本質的な構造というのをそこに浮かび上がらせる、そういう世界というものを裏の方では実現していく、裏の方で実現されている漱石の世界、魂の探偵とその魂の探偵が暴き出した世界と言いましょうか、そういう作品の世界というものと、それから同一性として全うされた漱石の実生活と言いましょうか、生涯の選び方・選ばれ方と言いましょうか、そういうものの基本的な関係の仕方・関係の構造というものは、多分漱石の世界全体を覆っている様なものではないかと思われる訳です。

14 文芸批評にとっての最後の問題

 一つの文学作品―こんなことはこれで終わりにしてもいい訳ですけれども、少しは作品とは何かに引っ絡めて終わらせて頂きますけれども―全ての文学作品、言語の作品、言語表現によって得られた世界なんですけれど、全ての文学作品というものには、フッサール流に言いますと、ノエシス的な面とノエマ的な面というのがあります。言語というものにはそういう面があります。もっと易しい言葉で単純化して言ってしまえば、全ての言語には・言語表現というものには主観的な面と客観的な面というふうなものがあります。主観的な面と客観的な面との絡み合いというものがあります。ですから主観的な面、ノエシス的な面から文学作品を関連づけていきますと、一つの文学作品はそれを創った作家の自己表現と関連される面(?)が出て来ます。作家の自己表現というものは作家の人間性・人間というものと関連されるということが出来る面がでてきます。しかし、多分このやり方が文学作品の、或いは文学とは何かという理解の仕方の、唯一の理解の仕方ではないのです。言語表現、言語作品の表現というものは、ノエマ的と言いましょうか、一つの客観性としてみる時には、一人のそれを創った作家、或いは作家を司っている作家の人間性というものとは無関係に、それは一つの時代の言葉の表現―網の目と言いましょうか―網の目の一つなんだって言うふうに理解することが出来ると思います。その面から作品をみていきますと、作品は作者に還元することは出来ません。作者に還元することが出来なくて、時代の―何と言いますか、何て言ったらいいんでしょうか― 一般構造と言いましょうか、普遍構造と言いましょうか、そういうものと関連されるものとして、作品は理解することが出来ると思います。で、多分勿論この理解の仕方が唯一の理解の仕方ではないと思います。それはある文学作品・言語表現の世界というものをノエマ的な部分・面から断面を切り裂いた時に得られる理解の仕方というふうに考えることが出来ます。だから一つの文学作品というものは、一端それは表現されてしまうとノエシス的な面からも、或いはノエマ的な面からも、或いは主観的な面からも、主観的な面から作者に、或いは作者の人間性故に、語尾を(?)連ねることが出来ると同時に、それとは全く違う様に作者にいっこう(に?)還元することが出来なくて、それ自体が客観的な一つの世界であり、その客観的な世界というものは、幻想する世界の言語構造というものの、編み目の中の一部分の中に納まってしまう、或いは一部分を構成してしまうと言う様な形で、その作品を考えることも出来る訳です。で、何が問題なのかと言いますと、皆さんはその両方のことを一度に遣っておられるだろうというふうに思われます。またある意味誰でもそれは一度に遣る以外に方法は無い訳です。しかし問題はそうではなくて、一度にやるほかないのですけれども、ある文学作品はノエマ的にも或いはノエシス的にも理解することが出るんだと言うことが、先ず初めに明瞭に分離されているということが、非常に重要なことである様に思われます。それを分離された上である作品の理解の仕方・介入の仕方・論じ方をしていきますと、何か新しい何かが得られることがあります。これは僕自身の体験で言いますと、僕自身は少し自分の文学作品批評というものが、一寸進んだじゃないかなと言うふうに思っているところがあるんです。ところが人から見るとあの野郎(?)衰えたんじゃないかなと成るかも知れない、そこはいいんですけれども。自分ではそう思っているところがあります。それは非常に簡単なことで、何回か言ったことがあるんですけども、ある文学作品を読みましょう。そうするとその作品の中で最も印象深かったこと、最も自分の印象に残ったこと、或いは自分の現在の問題意識と言いましょうか、そういうものに最も引っ掛かってきたことがあると、そこの場面が幾つか残る訳でしょう。残ってきて、それが総合されて一つの作品の印象ということに成る訳です。正に今日、短時間にザッて言っちゃえという時には、そういうふうに遣るより仕方がない訳です。そいうふうになる訳ですし、「おまえ『こころ』っていう作品読んだか」、「おおっ、読んだ。読んだ。」と言う場合に、その人が「読んだ」って思っていることはどこで言っているかって言うと、『こころ』の中で一番印象に残った場面を幾つかつなぎ合わせて「読んだ。読んだ。」と思っていると思うんです。それが記憶というものと作品に対する理解というものが係わっていく場所です。そこが作品というものがある人間に―ある人間の文学鑑賞、或いは文学批評というものに係わっている基本的なものです。記憶というものと作品との係わり合いの部分です。そこで引っ掛かっている訳です。ところで、文学批評というものは鑑賞でいいんですけれども、鑑賞と鑑賞を突き詰めたものがあるとすれば、どこにあるかと言いますと、その先にあると思います。その先とは何かと言いますと、一番分かり易いのは一番引っ掛からないところを、作品から引っかけることなんです。これは口で言えば簡単なことです。作品の中で作者も無意識であり、作中の人物も無意識である。それから物語としても無意識であるという文を皆さんがお読みになれば、すぐに判りますけれども、その部分は読んでいるとこっちの中にスースー入っているんだけれども、ちっとも記憶に残らない、引っ掛かって来ないで入っているということが判ります。そこの部分は謂わば今の読み方からすると、重要でない部分です。記憶という基本的な人間の内面作用からみますと、そこに引っ掛かってこない部分です。だから引っ掛かってくるものが重要だと考えれば、重要ではない部分です。しかしながら言語表現としてみるならば、これは大変重要な部分です。スースーとここから入って来ちゃって、「あれ? 書いてあったのか」というふうに後から考えると、何だか書いてあったのかちっとも引っ掛かって来ないや、というふうに思われる部分というものが、作品も無意識であり、作品の語り手も無意識であり、登場人物も無意識であり、全部が無意識であり、全部が重要とは考えていないんですよ。だからこれを読みますと、そこのところはスースーと入ってくるんですけれども、ちっとも引っ掛かってこない、記憶に残らない部分です。その部分をどういうふうに理解するかということが文芸批評にとっては、その先にある非常に重要なことです。【重要なこと】だということが判ります。皆さんが文学批評というものを―文学研究ではなくて文学批評というものを―ある時、志されることがあるとしますと、きっと参考になると思いますけれども、作品の世界の基本構造、及び引っ掛かって来る重要な部分、そういうものが過ぎた後、その後何をするんだって言ったら、引っ掛かってこない部分をどういうふうに浮かび上がらせるか、どういうふうに再現するか、或いはどういう再現の仕方をするかということが文学批評にとって文学批評にとって非常に重要な問題だということが判ります。そのことがお出来になれば、多分現代の文学批評にとっては最後の問題です。文学の批評にとっては最後の問題です。勿論文学の研究にとっては、最後の問題でも最初の問題でもありません。それはあってもなくてもいいことです。だけど文学批評とってはそれは最後の問題です。だから文学批評家と名乗っている人達は沢山いますけれども、この批評家が優れた批評家かそうでないか、或いはこの文学批評・文芸批評・作品批評、或いは作家論は優れた作家論かそうでないか、或いは失敗した作家論かそうでないかということを分別したいとお考えになるとすれば、多分無意識にスースーと入って来る、来てしまう作品の部分をどの様にその批評家が再現しているか、或いはそこを再現できてなくて、記憶に引っ掛かって来る部分、つまり重要な節目・節目だけを採っているか採って論じているだけか、それとも引っ掛かって来ない部分をどういうふうに如実に再現出来ているか、そいうことが出来てるかどうかということで、多分批評家、批評というものがうまくいってるか、いってないかということの鍵にすることが出来るというふうに僕は考えます。だからもし皆さんが批評というものに関心を持たれ、文芸批評というものと文学研究というものと(が)分かつところがどこにあるのかということがあるとすれば、ある部分は皆同じです。文芸批評も文学研究も同じです。ですけども、どこが分かつのかといったならば、そこが分かれ道だと思います。それはよく出来ている時には多分その批評はよくいっている批評です。それからその批評家はいい批評家です。そういうことが言えると思います。ですからそれは多分作品論、作家論というものを批評としてされるならば、文芸批評としてされるならば、それは多分現在のところ最後の問題だっていうふうに思われます。現在のところ最後の問題であって、これが批評にとって究極的な問題かどうかということは全く判りません。つまりこれからの問題であります。これからどうなるか判りません。皆さんのある意味では肩の上に掛かっている問題であって、どうなるか判りません。しかしそれは非常に重要な問題だということがお判りになる(か)と思います。

15 文学作品を中性点として読む

 謂わば引っ掛からないもの、スースーと入ってスースーと出て行ってしまう。それで何となく過ぎてしまう、その問題をどの様に再現できるかという問題は―基本的な言い方をしますと―文学にとって、或いは文芸にとって、文学作品にとって中性点というものは何かと言うことを、中性とは何かということ。倫理的に中性であり、思想的に中性であり、芸術的に中性である点とは何かということを解明するということを意味している訳なんです。なぜ中性ということは、文学的に―文学を倫理として読む、或いは思想(?)として読む、或いは役に立つ教訓として文学作品を読むということではなくて、文学作品を文学作品として読むということの中には、文学作品を中性として読む、中性点として読むということ、中性点を通過して文学は倫理になったり、イデオロギーになったり、思想になったり、様々な面を表す訳ですけれども、しかしその様々な面を表す場合にどこが重要かって言うと、ひとたび文学的中性点というものを必ず通るということが文学にとって重要なことなんです。文学作品にとって重要なことなんです。その中性点を通らないで倫理にいき、イデオロギーにいき、思想にいき、或いは教訓にいくということでしたら、それは別に文学作品を必要としません。そうでなくてもいい訳です。もしかするとそれより良いやり方があるかも知れない。しかし文学作品はあくまでも中性点というものを通って、世界の中性点というものを通って、倫理とか思想とか、或いは教訓というものの中に入って行く訳なんです。この構造を読み分けると言うことが、批評にとっては現在までのところ、最後の問題の様に思われます。或いはもしかすると最初の問題かも知れません。最後の問題かも知れません。現在のところ最後の問題かも知れません。だからそこの問題が一番重要な問題として浮かび上がってくるだろうというふうに僕には思われます。漱石は非常に偉大な作家であるという点は、多分そういうことが非常に明瞭に、且つ悪い意味で深刻にって言いますか、本質的にそれが(を?)を浮かび上がらせていくことが出来ていることだというふうに思われます。漱石の中性点というのは、大変難しい点だと思います。でも、それをどう理解するかということが、多分漱石後にとっては―漱石に対する文芸批評にとっては多分最後の問題じゃないかと思われます。そんなことは言わなくてもいい訳なんですけれども、少し本日設定されたテーマに申し上げてみたわけです。これで終わらせて頂きます。(拍手)

16 司会

【聞きづらく視聴困難。故、文字化割愛】

質疑応答1
(質問者)専修大学の■■■と申します。先ず漱石の具体的な作品ではなくて、全体的な問題として■■■、二点御座いますので、一寸伺いたいと思います。先ずは作家―漱石の作品を例えば■■■作者を抜きにして読めること(?)が出来るか、出来ないかという問題。この問題に関して吉本さんは漱石の生涯と作品とは同一性において重なると、そのような形で結びつきを仰った様に覚えています。しかし話の中には無意識の部分と言うのと意識の部分と言うのがあると、そういう問題も入って参ります。要するに私が伺いたいのは、漱石と吉本さんが仰る場合に、漱石の一体何を意味するのか。執筆中の作家であるのか、生活者であるのか、或いは作品全体を■■■してそう仰るのかということを一寸伺いたな思う訳です。それは最後に仰った思想・倫理・芸術のニュートラルな、所謂中性な点という問題、これと吉本さん■■■使用価値と■■■漱石という作家を■■■価値として捉える、漱石の作品というものを使用価値として捉える、こういう文脈の中で吉本さんのものをいろいろ読んでまいりましたが、■■■ということ。つまり作家としての漱石とは一体吉本さんにとって何だったのか、これを一寸伺ってみたいと思いました。
 もう一点は同性愛の文脈で、様々な関係妄想で■■■これは漱石個人の問題として仰いましたのですけれども、例えば■■■や丸谷才一さんが仰っている様に、明治文学全体の問題として、或いはもっと広く戦前の男性中心社会というものが全体に持っていた同性愛的な社会の構造と、つまり先程■■■還元しますと■■■方法で漱石だけの問題ではなく、捉えることは出来ないのか、その二点について伺えたら■■■。
(吉本さん)
 あのー、今のご質問の最初の件ですけれど、これは僕はお喋りの中で申しました通り、先ず結論から申し増すと、作品論であり作家論であり作家の人間性論であり、あなたの言葉で言えば生活している一人の人間としての漱石と言うことですけれども、論(?)であり、というものが全部一緒に入っていて、全部一緒に入っていてどれとして採られても多分良いんだって言うふうにお喋りしたつもりでおります。だから、どういうふうに三つのどれであっても宜しいと僕は考えています。もっと丁寧に漱石を論ずる場合には、作品論というものと作家論というものと、それから漱石の人間性はどうだったんだとか、性格はどうだったんだとか、家庭生活は具体的にどうだったんだとか、ということは別々に論じなければいけないと思います。ですけれども、こういう時間の範囲でつづめて言う場合に、どうしてもしょうがないので、その三つをどれとして採られても良い様に自分は言ったつもりで、また混同されたら困るという範囲のことは出来るだけ言わない様にしたつもりでおりますから、どういうふうに理解せられても、作品論として理解せられても作家論とし理解されても人間論として理解されても、僕は基本的には良いんじゃ無いかというふうに考えています。それから、この同性愛ということは、漱石自身の構造ということだけではなくて、例えば明治の文明開化、日本の文明開化、近代の曙と言いましょうか、そういうもの全体の謂わば構造だったんじゃないか、またそれは男性優位のということも含めて、そういうものではないかという理解の仕方というのは、僕もある程度そういうふうに理解されるのではないかなと、謂わば文明の三角形みたいな、或いは文明の三角形関係みたいなふうに理解できる、そういう理解の仕方が出来る筈だというふうに思われますから、仰られる通りだって言うふうに思います。そういう理解の仕方が出来ると思います。その点漱石は作品の中では作品の登場人物にもしばしばそういうことを言わせていると思います。自分がこういうふうに成ったのは、一つは例えば『行人』の一郎なら一郎が言う所があると思いますが、自分がこういうふうな性格になって、こういうことを細君に対して疑いを持ったりする様に成ってしまった、そういう原因は一つは科学があまり発達しすぎたからなんだと、一つは日本(の)産業が西洋に追いつこうと思って矢鱈に無茶苦茶にあちこちで煙を出したり工場を作ったりして、無茶苦茶に遣り出している、そういうことが本当に凄まじい形で、凄まじくまた乱雑な形で成されているという、そういう問題が自分を不安にさせちゃっている、そういうことの(が?)非常に基本的な原因なんで、これはヤッパリ時代の所為なんだということは、漱石自身も作中人物もまたそういうことを言ってる部分があると思います。だから勿論僕は同性愛的構造というのは文化・文明の同性愛的構造というふうに言っても勿論いいし、またそういう面から漱石の作品の登場人物を理解することも全く出来るのではないかというふうに考えておりますから、全くその通りだと思います。潜在的―歴史の潜在的な部分で言いますと、明治時代までの方が、つまり江戸時代までの方が―古代から江戸時代までの方が―潜在的には日本というのは母系的な社会だったんで、潜在的には母系優位の、女性優位の社会だったと言うこともまた潜在的な歴史の部分で言うことが出来ます。それを根底的に西欧化してしまって、潜在的にあった女性優位の社会というものを根こそぎ浚っちゃった、壊しちゃったというのが、多分明治以降の日本の文明、近代文明の構造だと思いますから、勿論そういう面からも多分同性愛■■■登場人物、或いは漱石が必然的に被らざるを得なかった同性愛的な構造というものは、明治全体の問題だということが言うことが出来るんじゃないでしょうか。歴史学者に言わせると江戸時代だって、例えば男の方が三行半を書くと、女の方はいつでも離婚させられちゃうんだみたいなことは言われているけれども、そんなのは大嘘だ、逆にその時に女の方が嫁入り先から、実家から持ってきた嫁入り道具の内で旦那がそれを使っちゃったやつが一つでもあったら、それを種に訴え出れば、つまり家の旦那は自分が実家から嫁入り道具を持ってきたのに、ハンカチを使っちゃったとか訴えれば、逆に三行半なんか全然無効に成っちゃうんだ、というのが本当なんだそうだというふうに聞いたことがあります。つまりそれ位古代から明治までの、否、原始から明治までの潜在的な歴史を司ってるのは女性優位な、母系的な社会の優位なあれが司っているところがありましたから、明治で根こそぎ壊れちゃったということもまた言えますから、それは仰る通りの理解の仕方が出来ると僕は思います。それに対して僕の(が?)今日申し上げましたことは、基本的に・本質的に言うにはその様に言う以外にない訳で、そう言いましたけれども、それは最後に補いました通り、文学的な・意識的なという言葉で補いました通り勿論作家、或いは作家の人間性に還元しないで作品一般的な言語として理解することが出来ると申し上げました通り、そういう理解の仕方をして宜しいんじゃないかというふうに考えます。

質疑応答2
(質問者)
 吉本さん、先月の■■■柄谷行人、蓮實重彦■■■、漱石に関して蓮實さんの漱石論が面白いですけれども、■■■最後に言われたことに対する吉本さんなりの一つの■■■蓮實さんなんかの場合は■■■世界的■■■ある意味では■■■。
 今日は全くそういうものを排除して背後に拡がっている意味されるものを深く追究なさっていると思うんですけど、■■■無意識の世界というふうに悟達していると思うんです。非常に面白かったんですけど、一つだけ、例えば二つの一つは無意識に拡がっている魂の関係というふうに認めまして、一つの作品系列を注視(?)なさった訳ですけれども、もう一つの■■■の世界は裏の関係で提示されました。私は漱石■■■、こういう見方は如何でしょうか。例えば『門』という作品で宗助が崖下の家に住まっている、崖上に描かれている、吉本さんは老人として■■■そんな歳はとっていないと思います。■■■十年位だと思うんですけれど、その坂井という人間と交渉し始めて、宗助はもしかしたら坂井はあり得たかも知れない自分なんだと、そういうふうに考えているところがある訳で、結局漱石の作品とは間違わなかったら、つまり不可知な状況に落ち込まないで順調に―京都大学の学生と言うことですけれども―京都大学を出て■■■あり得たかも知れない。しかし自分は■■■を廻って、或る■■■地方を点々としてやっと■■■。そういう構造というのは、もう一つの同一性の世界で言いますと、『道草』の健三なんかでも島田に養子に■■■、そう言う様なことを言われて怖かった、言えない■■■。もし、島田と同一のルートを辿って行くんじゃないか。ところが■■■。東大の教授―あの時点で教授じゃなくて講師、一髙の教授ですけども、あえてドロップアウトした島田的な生き方を取ったかも知れない。あり得たかも知れないもう一人の自分、Kの場合だって信用してストイックな生活をしている訳ですけども、あれだって先生■■■。或いは平岡だって三千代と結婚した訳ですけれども、大好きな三千代と結婚してから平岡■■■。そしてあり得たかも知れない自分というものが絶えず裏にありまして、それを廻って出来て(い)る作品がある訳です。それは『明暗』に相応しい■■■■ある訳で、その力点の置き方によって■■■。そういうふうに考えられるかどうか、一寸質問したい訳です。
(吉本さん)
あのー、今のあれで申し上げますと、僕基本的に二つの裏表の構造があって、一つは同一性に収斂される、一つは魂■■■矢鱈に世界を切り裂いていくと、そうすると謎が現れくるみたいなそういう世界と言いましたですけれども、基本的にそう思いましたけれども、仰る通りで小刻みに言いますと、一つの作品の中で或るところは、今言いました一つの場面であり、それから次の同一性の場面に行きという意味合いで、仰る通りで小刻みに作品の方はそうなっているというふうに、理解できるのではないでしょうか。それは仰る通りだと思います。それから坂井(は)老人では無いという、僕は作品の印象で老人、老人と言うんだけれども、仰る通りで老人じゃないですよね。あのー、僕は作品の印象・イメージで老人という印象、これは間違いですね。そして、もう一つ言われました―最初に言われました―僕も蓮實さんの漱石論というのは読んだことがあります。一度読んで面白かったんですけれども、作品論として或いは漱石論として面白いんですけれども、そういうことよりも何が特徴かって考えたら、誰の・どの影響かと言えば、漠然として言えば、それは現在の構造主義的な―フランスの構造主義的な批評の影響だというふうになる訳ですけれども、何が面白いかって言った場合に、僕は批評自体をね、ナンセンスにしようとしていると言うことが面白いと思いましたね。つまり作品というのは作者に構造主義批評(?)というものをしばしばそういうことについて厳密な理論付けを遣っていると思うんですけども、作者に還元するとか作者の歴史に還元するとか、或いは内面性に還元するとかは、古くさいことなんだと言いましょうか、そんなことは嘘なんだと言うふうに言っている様なことがあるんでしょう、またそれを厳密に裏付けていと言いましょうか、理論付けているところがありますけれども、そんなことは嘘っぱちだと思っているんです。そんなことはないです。特に漱石の作品だったらそんなことはないんです。誰がどう考えたって、例えば『行人』の一郎ということの中に、作者の内面の投影がないと考えることは不可能ですよね。そんなことはないんですよ。だからそういうことをあんまり僕は感心しないですけれどね。それが一つの態度だったらいいんですけれどもね。作者の内面すら絶対認めないんだとか、人間性なんて認めないというふうに、文学における人間性なんて認めないとかね、そういう理解のしかたは認めないと言うのはフランスの文学・哲学の流行りですから、それはいいですけれどもね、それは一つの態度(?)としていいんだ、それはイデオロギーですよね、態度としていいんだ、そうだけどね、そんなことは僕ちっとも感心しないので、そうじゃ無くて、蓮實さんの批評は、ナンセンス批評だからいいんですよ。つまり漱石というと、倫理的にこうだこうだといっても、非常に真面目に、まともに遣られちゃうと息苦しくてしょうがない、息苦しさの上にまた息苦しさが重なって、漱石という人はめくらですからね、めくらな人は一世紀に一人ぐらいめくらな人、そういう人が書いた作品をめくらに解釈してどうしてくれるだって。こんな阿呆らしいものは読んでいられない、遣ってられないってなっていくとナンセンスにしちゃえというふうに。僕それは面白いと思うんです。その態度と言いましょうか。それは僕新しいことだと思います。ナンセンスにしちゃおうじゃないかとかね。ちゃんとナンセンスに出来ている部分と真面目になっている部分とありますけれど、あれしかしナンセンスにしちゃう基本的な態度、だから蓮實さんの批評はこっちから入ってこっちへ出していけばいいという、漱石論を読んだけれども、面白いなー(会場笑い)。雨降って、いつも雨降って面白いなー。蓮實さんの批評、それ以上読んだってしょうがないんですよ。しょうがないから読むなというふうに言っていると思うんですよね。意味づけるなって言っていると思います。そこが面白いんであってね。一つの従来の漱石以外に対する一つのアンチテーゼに成っている訳ですね。山と積まれることに対して壊そうじゃないか、少なくとも漱石論は壊そうじゃないかという、そういうモチーフは非常に明瞭だと思います。スラスラっと読めばいい、スラスラっと読んでくれればいいというふうに基本的には成っていると思います。それでも真面目になっちゃっているとことはありますけどもね。だけども基本的にはそうだと思います。そのことが大変な・大切なことじゃないでしょうか。それは蓮實さんの漱石論の非常に重要な点じゃないでしょうか。重要なまた意味じゃないでしょうか。漱石研究の歴史の中で重要な意味じゃないでしょうか。でも、僕は心理がそこにあるとかね、構造主義でも心理がそこにあるというふうにちっとも思ったことはないですよ。ないですね。だけどもそれは態度として判ると言うことがあるんですよ。どうしてかって言うと、僕が理解している、フランスと言うのは違うんですよ、日本と。日本の現代とフランスと全然違うんですよ。基盤が違うと思いますね。もっと凄いことに成っていると思いますね。つまり少なくとも相当な敏感・鋭敏な人、つまり漱石が現在生きているみたいな、そういう敏感な人にとっては凄まじいことに成っていると思っています。ヨーロッパ、西欧、僕らがそんなことを言っちゃ成っていると思います。そのことを考えないといけない様に思います。だから一つの態度と思っています。僕らがそんなことを言っちゃったら、ちょっと余っちゃうん(?)ですよ。そういうふうに言っちゃうと。余っちゃいますよね。作品は表層だけでいいんだとか、そんなことを言っちゃったら余っちゃうんですよ。それもいいんですけどね。そういう方法とはこれからの方法ですから、いいんだけれども、そういうふうに言ってあれされると余っちゃうんですね。どうして余っちゃうかと(言いますと)、そういうふうに言ってる人の中に、デコンストラクションと言いましょうかね、構築を壊しちゃえとか、脱化しちゃうとか、そういう意識が本当に身についていて言っていると人間性なんか認めねえとかね、作品の内面性なんて認めねえと言うふうに言うと、それは一つの態度・思想なんです。いいだけども、そうじゃない人が言うとね、冗談で言って貰ったら困るというふうに成っちゃうところがあるでしょう。それはなぜそう成っちゃうかって言うと違うと思います。フランスの現状と―現実からビンビンくるものと、日本の現在からビンビンくるものと、もの凄く似ているところもありますけれども、違う・どっか違うところもあると思いますよ。その問題じゃないんでしょうかね。だから僕はそういうふうに蓮實さんのあれも理解しますけどね、だから蓮實さんが・・・・。

質疑応答3
(質問者)
 ■■■何の質問の御座いませんけれども、小さなところで、言葉尻の問題に過ぎない様なことなんですけど、蓮實さんの話が出て私半分しか言えないんですけれど(?)、今仰った話なんかとてもよく判りまして、そういう蓮實さんの話の後にこういう時代錯誤の野暮な質問をするのはどうかと思うんですけれども、エーと私ネクラでは無いんですけれども、先程先生の話が出ました時に、先生の自殺、その前に三角関係に成った時にああいう形で■■■ですけども、それ自然としてみれば当たり前なんだと言う話があった■■■。あのことに関して■■■当たり前だって言っていて、■■■先生は自殺に値する恋■■■。で、Kに自殺が無ければ死ななかったと思いますので、Kの自殺と言うことがKの責任に■■■その点ではそうなんですけれど、三角関係■■■あそこは自然の問題以前にKが先生に言った時に、そこで■■■友情関係の在り方の問題だけが問題であって、代助■■■。【以下意味不明。聴き取り不可能。~4:30まで】
(吉本さん)
 あの-、他の人のそこの理解の仕方というのを僕、知らないのですが、僕はね、こういうふうに考えてみれば割に明瞭■■■。仮に先生が身を引いて、『それから』の代助と同じ様に友達の為に斡旋して遣って、口利いて遣って、あいつはお前のこと好きなんだから、あいつと一緒に成らないかというふうに、『それから』の代助と同じ様に斡旋して遣ると言いましょうかね、口を利いて遣るみたいなことをしたならば、それじゃそれは成り立つだろうかと考えるとしますね、僕先生の友達の造形の仕方を、描き方をみていると、到底僕そういうふうに思えない様に描かれている様な気がするんですよ。自殺した人物というのは自分でも遺書のところにそういうところが書いてありますけれども、つまり一寸永く自分は生きすぎたんだというふうに、自殺した所(の)机の上に遺書みたいなものに書いてありますね。作品の中である訳なんですけれども。それと同じ様に到底、何かそうしたら(なら)ば、結婚し、それはうまく成り立っていくというふうに斡旋して遣ったならば、先生が斡旋して遣ったらそうなるというふうに考えられるかと言うと、僕にはそういうふうに考えられないですね。ですから自殺するかしないかということの問題は、確かにそれは一つのそのことはきっかけでありましょうけれども、僕はそうじゃ無くても自殺するかも知れないことをいつでも持ってた様な気がするということが一つあるんです。僕の基本的な先程言いました理解の仕方は、一寸そうではないところがあって、漱石が描こうとしたのに沿って言えばそうなのですが、そうじゃなくて本当に漱石の無意識というのを、一緒くたにして考えればそうじゃ無くて、本当は先生と自殺したその友達が謂わば、肉体関係なき同性愛的な、そういうあれがあって、そこの問題が例えばあなたの仰る様に打ち明けられなかった、なぜ友達に「俺、好きなんだ」「俺もそうなんだ」と言って、「じゃあしょうがないな」。どっちが■■■遣るよりしょうがないなと言う様に、どうして言えなかったかって言ったならば、僕その友達と要するに先生とはね、同性愛的な関係と言いますか―関係とはおかしいんですけれど―人間関係として言いますと、精神構造の関係として言いますと、同性愛的な関係性というのが非常に強くて、それが打ち明けられなかった原因・理由じゃないかという解釈の仕方を採りたい訳ですよ。それは漱石の『こころ』という作品に沿った理解の仕方じゃあなくて、漱石の解釈・理解とは違って漱石の無意識をも含めて解釈したらそうなんじゃないか、という理解の仕方を採りたいところがある訳ですよ。だから必ずしも儒教的な倫理がそうだったからだとか、男と男の関係・友情とはそんなもんじゃないだぞ、と言うことが強固にあった時代に、言わないで出し抜いたことの様に僕は理解の仕方を採りたくなくて、もっと基本的な人間と人間との精神構造の在り方みたいなところで『こころ』の先生というのと、自殺した同性愛(的な)友達・親友とは、一寸その意味では友情としても非常に特異な友情と言いましょうかね、精神的な関係の仕方・親密感も親和力としても特異な、普通の友情よりももっと親密と言いましょうか、自分の影みたいな親密にあったと言うことが、打ち明けられなかった理由であるし、また自殺したあれが一言も、つまり「お前が出し抜いたから俺、自殺するんだ」と言う様なことを一言も言わなくて、遺書の中には全然そのことが入っていないという。なぜそういうことに成るかということの、基本的な問題はそこじゃないのかというふうに解釈したい訳です。僕が。だから例えば、あなたがそういう関係に成ったらとか、俺がそう成ったら、どうかなって考えたら、言わないで出し抜く様なことはあんまりしないだろうな、そこまではしないだろうなという気がするんですけど、そのこととあの作品の理解の仕方とは違いますから、僕はそういう理解の仕方をしたいんですけどね。だから仰るのは、友情としては当然じゃないか、当然のことをしなかったということが自殺に値する、引っ掛かったんで、それは明治だから尚更そうなんだという。例えばあの作品を乃木将軍が、西南戦争の時に軍旗かなんかを、西郷軍に奪われたと言うことが一生涯引っ掛かっていて、それで自殺したという。それと同じ様に作品の中では書かれているけども、僕はそれとは違う様な気がするのです。先生が引っ掛かっている根本的な原因と言いますかね。それは違うんじゃないかなと。先生が理解しているのとも違うんじゃないかな。先生が自分でそう思い込んでいるのとも、違うんじゃないかなというふうに、理解の仕方を採りたいんですけどね。お前もそうするかって言われたら、一寸首をひねりますけどね。そこまでしないだろうなって。だけども大なり小なり、性というのは一人の人間と他の人間(と)の関係ですけから、どうしても一人が自殺しようがしまいが排除される、自分が排除される場合もある訳ですけども、排除されということはどうしてもそういう構造に成りますね。それに対して引っ掛かって三者三様、自殺しちゃう。そうでなければ最小限にそれをくい止める為にそれをどうするかという問題は必ず生ずるんじゃないでしょうか。だから実際問題として難しいですけれども、僕の解釈の仕方はそういう解釈を採りたいんですけどね。

質疑応答4
(質問者)
■■■最後に仰った批評とはどこを最終的に■■■というお話しと重なって、【以下意味不明。聴き取り不可能 ~1:38まで】
(吉本さん)
自然ということは当然ということではなくて、誰でも性ということに関して■■■自然という、自然じゃないかということで、遣ることは自然・当然じゃないか。一寸(違う?)
(質問者)
■■■【意味不明。聴き取り不可能】
(吉本さん)
 漱石は独特な意味合いで自然という言葉を使っていて、我々もそれに忠実■■■。漱石は本然的とか、自然的とか■■■。つまりそういう欲求を生じたという時に、欲求のままに振る舞うということは自然なんだ■■■。あることについて欲求が生じた時、生じた欲求を行い移した時に(?)、初めて■■■。欲求が生じた時にそれを行うのは本然・自然なんだという言い方をしていると思います。そういう使い方をしている。そうすると■■■欲求の自然みたいな【意味不明。聴き取り不可能】

質疑応答5
(質問者)
■■■【意味不明。聴き取り不可能】
(吉本さん)
言う、言わないというところで先生が引っ掛かって自殺までいっちゃうという、あの先生はね、僕、過剰倫理というふうに理解したいのです。過剰倫理というふうに。病気というふうにまだいかなくとも過剰倫理だ。過剰倫理だから■■■とか詰まらないことだとかいうふうに言いたくない。ただ倫理としては過剰倫理じゃないかと言うことは言える様に■■■。
(質問者)
■■■。漱石の作品をパラノイアという視点で■■■捉える(?)ものと、同一性という視点から捉えるものと二分されまして、これは漱石の■■■浮かび上がってくる■■■同一性と意識の世界観、人間観というのが■■■。で、この二面の捉え方は表と裏■■■と仰られたんですが、■■■■これは作品の方でいいますと、同一性の世界を捉えている作品の中に、『門』が入っている為に■■■『門』を省いてしまうと『道草』と『明暗』と、それまでの作品世界とが明確に分離される。これは■■■と並んでいるのではなくて、一つの■■■漱石の世界観においては■■■である(と)、捉えるのではないか。と申しますのは、作品の方からしますと『明暗』とか『道草』位は確かに仰られる通り、作者からすると等距離に描かれている。等距離に描かれている背後に漱石の、自分の生涯も(?)また■■■の生涯とも同質であるという認識は■■■。詳しくは思い出せなかったのですが、初期の作品を読んでみますと、■■■のあるものと、そうでないものとを区別する様な(?)■■■用いていますので、比喩的に言いますと硝子と虫で(?)、硝子戸を開け放った漱石とそうでなかった漱石とは■■■。そうでないと雛子の死であるとか■■■の大半というものが漱石の人生観に与えた影響というものが抜け落ちてしまう。■■■【意味不明。聴き取り不可能 ~3:00まで】
(吉本さん)
 あのー。仰ることは非常によく判る。ある意味で漱石の作品■■■、時間的に並べていきますと。仰る様に、僕変質というふうに思わないんですけれども、重点の移動って言いましょうかね、重点の移り変わりというものは、確かに仰る通りあるのではないでしょうか。でも変質というのは、大事です(?)。どうしてかって言いますと、例えば、漱石の中で引っ込むと言いましょうか、■■■大袈裟なんですけれど、『門』の代助(宗助?)なんか見ていると、隠遁・引っ込んでひっそりと生活している。漱石の中で引っ込んでひっそりと生活しているという、そういうことをどういうふうに意味づけるか、或いは位置づけるか、演出(?)という概念ではなくて、重点は確かに掛かっているでしょう、それは同じですよということが言えるんじゃないかなっていう気がするんですよ。で、漱石の中に引っ込むという概念、『門』と■■■、『門』の宗助みたいな引っ込むという概念、それから『門』と『三四郎』以前の作品、初期の作品がありますね、つまり『草枕』とか『吾輩は猫である』でもいいんですけど、そういう作品、初期の作品のきちょう(?)に成っている一種の■■■。漱石自身が考えた■■■また沢山持ってたし、また文学概念として非常に重要な位置を占めている、漱石の重要な位置を占めている一種の東洋的な文学概念というのがある訳ですか、文学というものは人事に関係するのではなくて、人事を逃れて自然とどう関係するかと言うことの中に文学の本質があるという概念を漱石は、東洋の文学或いは漢文学の基本的な概念と考えていて、それを自分の中では重要な要素として考えていると思うんですけれども、自然とどう関係するかという関係の仕方というのは、これもまた引っ込む、引っ込んで生活する、世界から引っ込むとはどういうことなんだということに、同じ様に考えますと、漱石の中で見え隠れして、大変重要な様な気がして、これがまた初期の様に露わに現れ来る場合もあるし、『明暗』の様に一種の相対的な世界、つまり絶対化しない・人間を絶対化しない世界として現れて来る場合もあるし、『門』の様に引っ込むという形で現れてくる場合もある。謂わば、先程も言いました同一性というものの本質の中に何があるのか。もしかすると、これは初期の漱石の重要な文学概念である自然との交渉とか、自然への没入とか、そういうことが同一性という概念■■■もっと根底的に漱石の中にあるかも知れなくて、それは初期から晩期まで本当は一つも抜けてないというふうにもし言うとするなら言えるかも知れない。僕自身は、そういう考えをするんですね。だけど仰る通り、確かに重点が換わっていますよね。『三四郎』以降の作品で言っちゃえば、重点が明らかに仰る様に換わっていると思いますね。それを勿論仰る様に変質というふうに考えたっていっこう差し支えないと思いますけれども。それは初期というのを含めて漢文学からの素養から受けた、漱石の本質的な文学概念、或いは東洋的な文学概念なんて、かなり漱石から抜けてないと思います。様々な形で。それは晩期まで、『明暗』まで抜けてない、則天去私みたいな感じからで(?)、抜けてないと考えればそれは潜在的出てくるか顕在化するか、そういう形で終始あったというふうに考えることは僕は出来るんじゃないかと思いますけどね。でも仰る通りでも全く結構だと思います。

17 司会

 もっといろいろお聞きしたいし、私自身■■■喋っちゃいけないという■■■封じ込めれられていますので、■■■残念ながら5時に成ってしまいました。吉本さん2時間お話し頂いて、そのあと1時間■■■。で、この後5時からこの学食で簡単な■■■会議というものを開いて■■■、そこで今日の■■■。一応これでこの例会は終わりにして頂きたいと。どうも長時間■■■。(盛大な拍手)



テキスト化協力:石川光男さま