1 演奏:吉本隆明「エリアンの手記と詩」から(与南ユキオ)

2 演奏の感想

 詩はぼくの初期の詩でして、持ち出されると恥多いという感じの詩なんですけど、それはそれとしまして、皆さんのご意見が気になります。<意見聞き取れず>

3 詩を書くということ

 これはぼくの非常に初期の詩で、学生時代か、卒業したとか、とにかくその頃の作品だとおもいます。元々、その頃は太平洋戦争が終わったすぐの頃で、ぼくらが戦争中に青春時代に影響受けた詩というのは、いわゆる四季派というところの詩です。つまり、代表的にいえば、三好達治とか、立原道造とか、伊東静雄とか、そういう人たちが、いわばそのときの詩の主流を形成していましたし、また、いちばん、活火山みたいに活動的な時代だったわけです。つまり、戦争前から戦争中にかけてはそうなんですけど、ですから、非常に詩が好きだとか、じぶんがひそかに書いているとか、そういう学生みたいなものにとっては、四季派の詩人たちの詩がいちばん感性的に近くてピンときていた時代だったわけです。たぶん、そういう戦争が終わった直後だと思いますけど、1年か2年後だと思いますけど、その頃、書いた詩ですけど、影響の土台は四季派の詩人の影響だというふうに、いま考えるとそう思っています。
 何が原型になったのか、つまり、何を原型にして、あるいは下敷きにしたのかといえば、これはやはり、戦争中から戦争の後、何年かにかけてわりあいに一般的によく読まれたアンドレ・ジイドの『アンドレ・ワルテルの手記と詩』というのがあるんですけど、それが、わりあいに、そのときの詩を書くときの原型みたいなものとしてあったように思います。
 それから、それだけあればできあがるわけですけど、その背後にいくらかの体験的な事実といいますか、真実みたいなものがそのなかに個人的にあって、そういうふうにして作られたと思います。ぼくらが自分たちの10代の後半から20代のはじめの感性的な、あるいは情緒的な基礎といいますか、それをつくりあげてきてくれた四季派の詩人、つまり、三好達治とか、立原道造とか、伊東静雄とか、津村信夫とか、そういう人たちの詩の感性というのを逃れるのは、なかなかむずかしかったように思います。
 しかし、ぼく自身は、戦争後は、だんだんそれから離れていって、意図的にも、無意識的にも離れていこうって考えて、じぶんの感性の基礎になっている情緒というものを、じぶんで違うほうにもっていこう、もっていこうというふうに心がけてきて、それで、そういうところのなかで、ぼく自身は戦後の「荒地」の詩人たちの詩の書き方、方法というものに遭遇して、それで非常に目が醒めるみたいな感じがして、四季派的な、あるいは戦争中じぶんが非常に影響を受けた感性的な土台というのを、じぶんから離れていくといいますか、抜けていこうとするひとつの大きな契機になったというふうに思っています。
 それからも、ぼく自身は自分なりに、もう一段くらい詩の中に変化が、詩の方法として、それから、感性的な基礎といいましょうか、そういうものとして、もうひとつくらい違うところへじぶんをもっていこうというふうに、意図的にも無意識的にもしていったというふうに思います。結局、「荒地」のもっている詩の方法をとにかく突き詰めていくみたいな、そういうところで方向が描かれたわけですけど、たぶんその方法はどこかでダメになっちゃったんだと思います。もはやどうしようもないというふうに、その方法はどうしようもないというふうになったんだと思います。
 他の人のことはともかく、自分としてはこういう方法で書けば書くほど、逆に自分の空虚さというのが露出してくるといいましょうか、出てくる空虚さというのを捉えることができないということがますます激しくなって、ぼくは詩を書くということを表現の第一義とするみたいなことをやめてしまったと思います。つまり、方法的な頓挫といいましょうか、挫折といいましょうか、座礁というものだと思います。
 これは一般的に荒地派の詩人にあてはまるのでしょうけど、つまり、他の方々はそれぞれ個々に書いておられますから、それぞれの問題であって、ぼくがそこでこれはダメだということで、方法的頓挫をしてしまったと思っています。それで詩を書くことを第一義とすることをやめてしまったように思います。
 しかし、やめてしまったんですけど、どこかで未練がましいところがあって、鮎川さんなんかから詩を書くのをよせよせってよく言われたんですけど、ろくなものが書けやしないからよせよせって言われたんですけど、ちょっとぼくは未練がましいところがありまして、何年間か批評文を書く後ろ側で、リハビリテーションと称しまして、詩を書いてきていることは書いてきているんです。
 ですけど、あまり自分で積極的に書いているということにも、それから、書いている詩の意味といいますか、そういうことについても、自分で積極的に意味づけたり、押し出したりといいましょうか、そういう気はさらさらないので、まったくそういう意味では消極的にリハビリテーションを行っているということで、それと何が問題なのかといいますと、詩を書くということだけからいいまして、ぼくにとって何が問題なのかといいますと、リハビリテーションということは、機能不全に陥った者が、少なくとも正常な身体的な機能、運動機能その他、正常な機能にまで、うまくいけば完全に戻るということのために行う一種の機能訓練のことをリハビリテーションというわけですから、目標は五体健全であったところまでもっていければいいということが、少なくともリハビリテーションの目標であるわけなんですけど、そうは問屋が卸さないわけで、リハビリテーションをしながら衰えちゃうということも十分ありうるわけなんです。個人的にいって自分にとっていちばん問題なのはリハビリテーションしながら衰えちゃうというのではなくて、リハビリテーションしながら、なんとかして五体健全のところまでもっていって、それから、今度は少し本気になって詩を書いてやろうといいますか、書こうかという、そういうふうにいけばよろしいわけなんですけど、たぶんそんな簡単なものじゃなくて、リハビリテーションをしつつ、全体的には衰えるというような、そういう問題にいちばん切実に遭遇するんじゃないかということが、詩を書いている僕にとっての課題であるような気がします。つまり、そこの問題のような気がします。
 いまリハビリテーションといいましょうか、そういうふうにして書いている詩というのは、たぶん、今日を曲をつけていただいたんですけど、そのときの言葉ときっと、言葉の位相といいますか、位置といいますか、それはたぶん違うはずだと思います。ああいう今日いただいたような初期の詩というのは、未熟であり、みずみずしいのですけど、たぶんああいう言葉の位相といいましょうか、それはいまのぼくの言葉の中にないと思います。リハビリテーションの言葉の中にはないと思います。
 あの言葉というのは、それはそれなのであって、それはそれという意味あいは、一回きりという意味もありますし、それから、いまそういう言葉の位相というものをとりますと、たぶん、一種の空虚さといいますか、それがたぶん出てきちゃうんじゃないかという気がしてしょうがありません。だから、その言葉の位相は、いまはとれないと思います。とれないし、必然的にとっていないというふうに自分は思っています。でも、あんまりじぶんの詩について言うことはないので、そのくらいにしますけど。

4 語りの言葉に対する否定の言葉

 言葉の位相ということを申し上げましたけど、ぼくは盛岡で宮沢賢治のことをおしゃべりしてきたんですけど、その足で来たわけですけど、宮沢賢治という人の詩をみて、ぼくらが気にかかることがあるんです。2つぐらいあるんです。ひとつは、宮沢賢治の詩というのは、河内節とか、何々節とかいう、つまり、語りの言葉で書かれた詩です。
 ところが、ふつうの語りの詩というのは、浪花節もそうだし、河内音頭とか、そういうのもそうですけど、ふつうの語りの詩というのは、仁義についての物語なんです。つまり、人間と人間の関係についての物語なんですけど、宮沢賢治の語りの詩というのは、同じような言葉遣いをしているんですけど、相手は自然の景物であったり、景観であったり、それから、天然のさまざまな現象であったり、相手はぜんぶ自然であるわけです。
 ですから、一度、退屈してしまいますと限りなく退屈してしまうというふうなものだと思います。白熱してくるとそうでないのですけど、退屈してくると、自然との会話ですから、心の起伏もなければ、べつに精神の葛藤があるわけでもないし、人間と他者との情念のやりとりがあるわけでもありませんから、そういう世界が一度煩わしくなったら、とにかく限りなく退屈してしまうような、宮沢賢治の詩というのはそうだと思います。
 宮沢賢治について、どういうことをおしゃべりしてきたかということをおしゃべりしてみますと、宮沢賢治の詩で問題なのは、そういうふうに、語りの言葉で、自然の景観、自然現象との様々な交換を語っていくわけですけど、語っていくところの途中で、括弧の中に入って、突然違う位相から語りの言葉でない言葉が入ってきたり、それからまた、そうかと思うと、それとも違う言葉が、二重括弧になって、また入ってきたり、そうすると、それは相対的にいいますと、たいていは自分自身による語りの言葉に対する否定の言葉になっていると思うんです。
 宮沢賢治という人は、とうとうと自然の景観といいますか、景色と風景とか、そういうものとの交換を投げずに語りながら、突然違う言葉を括弧に入れる。それからまた、それともまた違う言葉を括弧に入れるというようなことをやって、自分の詩の流れをしばしば切っていくわけです。切断していってしまう、そうすると、こちらのほうからみると、読むほうからみると、せっかくこれだけ流れているのに、どうしてこんな言葉をはさんで切っちゃうんだろうかということが、非常に怪訝に思われてくるわけです。
 宮沢賢治という詩人の本質的な問題というのは、その怪訝さといいますか、ようするに、こんな言葉をはさんだらぶち切りじゃないかというような、そういう言葉をサッとはさんでくる、はさんできたかと思うと、また、それの注釈みたいなものをまたはさんでくるというようなかたちで流れを切ってしまう、しかし、どうしてもそういう流れを切ってもそういう言葉を差しはさまざるをえないというのが宮沢賢治のなかにあって、それが宮沢賢治の詩の本質的なところであるし、またもっといいますと、宮沢賢治の世界がもっている非常に本質的な問題のように思います。
 だいたいぼくらは括弧の中にでてくる言葉というようなものを、宮沢賢治の詩の流れの言葉に対する否定性の言葉としてみたいわけです。つまり、どうしても自分でもって、語りの流れというものを否定しようとする、その否定性の言葉が括弧の中にいつでも入ってくる、それは突然入ってきて流れを切ってしまう、切ってしまってからまた始まるというようなかたちで、それの繰り返しというのが、宮沢賢治の詩の非常に本質的な傾向だと思います。
 そして、結局、宮沢賢治という人は最後には括弧の中の否定性の言葉として出てくる語りの詩に対して、否定性の言葉として出てくる、そういう否定性の言葉というものが非常に前面に押し出してきてしまう、それで、いわゆる初めの頃にもっていた、とうとうと自然との交換を語り、風景との交換を語りというような、そういう語りをぜんぶ背後に引っ込めてしまい、括弧の中に入って出てくる否定性の言葉を前面に出してきてしまう、それが、そういう性格をもっているのが、宮沢賢治の文語詩というのがあるわけですけど、晩年の文語詩というのがありますけど、晩年の文語詩というのはそういう意味をもっているように思います。そうすると、括弧の中に入ってくる否定性の言葉というものの性格というのは、何なのかということを確かめることが宮沢賢治を確かめることに結局はなるんじゃないかという、捉まえることになるんじゃないかというような主旨のことを話してきたわけなんです。

5 声のない声-『どんぐりと山猫』『四又の百合』

 この宮沢賢治のなかの否定性の言葉というのを、今度は童話作品の問題として考えてみますと、童話作品のなかではキーワードになって出てきていることがわかります。詩でいえば括弧の中に入ってでてくる言葉というのは、いわゆるキーワードとして出てきているように思われます。
 たとえば、例やなんかをあげることができるのですけど、『どんぐりと山猫』なら『どんぐりと山猫』というのでみますと、一郎というのは、栗の木なら栗の木に対して、「栗の木さん、栗の木さん、山猫さんはどっちの方向に行ったか知らないかい。」というふうに言う言葉があるんです。それから、リスに出遭うとリスに対して、「リスさん、リスさん、山猫博士はどっちの方向に行ったか知らないかい。」というふうに問いかけるというふうになっています。そうすると、いまの「何々さん、何々さん、山猫博士というのはどっちの方向へ行った。」というのが、それが『どんぐりと山猫』のキーワードになるわけです。
 このキーワードというのが、一見すると、さりげないわけで、このキーワードは普通の童話作品によくありがちのパターンを繰り返しながらやっていく、そのときの繰り返しの言葉、あるいは、繰り返しの場面というのにあたるわけで、一見すると、「栗の木さん、栗の木さん、山猫はどっちの方向に行ったか知らないかい。」という言葉は、ほんとに童話の中で登場人物の子どもとか、あるいは動物が交わす会話の言葉にしか過ぎないわけです。そういう性格をもって、それが繰り返されて『どんぐりと山猫』という作品ができあがっているわけです。
 そうすると、このキーワードは登場人物の会話の言葉のように一見すると見えますけど、しかし、よくよく考えてみると、このキーワードをいわばテコにしてといいましょうか、結節点にして、構成が繰り返し反復されているというふうにできあがっているということがわかります。
 そうすると、この何気ない、ただ登場人物が「栗の木さん、栗の木さん」というふうに呼びかける言葉というのは、一見すると、なんでもない会話の言葉のように見えるけど、実は非常に重要なキーワードで、これは何なのかということを、これの性格を突き詰めていくということが、宮沢賢治を突き詰めていくことに該当するということがわかります。
 どうしてかといいますと、いまの例ですと、もっとたくさんあるんです、キーワードの性格は。いまのは子どもらしい登場人物の会話の言葉にすぎないでしょ、それが、繰り返しのパターンのキーワードになっているだけですけど、たとえば、『四又の百合』みたいな作品になってくると、「如来正遍知が、明日の朝、川を渡って、ヒームキャの町へおいでになるそうだ」という言葉がキーワードです。これは何度でも繰り返されて、そして、『四又の百合』という作品ができあがっているんです。
 そうすると、今度はすこし、「栗の木さん、栗の木さん」という会話のキーワードの性格と、言葉は正確じゃないですけど、「明日の朝、7時頃、如来正遍知が川を渡って、ヒームキャの町へ入ってこられるそうだ」という、そういう噂が町で取り交わされるわけですけど、その言葉と若干違うことがわかります。少なくとも、最初の言葉は、「栗の木さん、栗の木さん」というのは、登場人物の子どもなり、あるいは動物なりが言う、いかにも子どもらしいといいますか、会話の言葉にすぎないけど、今度は『四又の百合』の繰り返しのキーワードである「明日の朝、如来正遍知がヒームキャの町へ来るそうだ」というような、そういう言葉はすでに子どもの言葉ではないことがわかるでしょう。かなり、宮沢賢治にとっては真面目な言葉であるということがわかります。しかも、まじめな言葉であって同時に『四又の百合』という物語を進行させているのが一人の架空の語り手としますと、その語り手の言葉とはぜんぜん違うところから出てきている言葉であることがわかります。この「明日の朝、如来正遍知が町へやってくるそうだ」という、その繰り返しの言葉というものの、今度はその性格をはっきりさせるということで、もうひとつ、宮沢賢治というものの世界の違う出所があるということが、今度はまたそこから出てくると思います。
 それから、もうひとつのことは、「栗の木さん、栗の木さん」というのは、少なくとも、『どんぐりと山猫』という作品の中では会話の言葉でしょう、つまり、登場人物が声を出して会話する言葉でしょう、ところが、「如来正遍知が明日の朝、ヒームキャの町に来るそうだ」という、そういう噂の言葉は、噂の言葉ですから、つまり、声に出てくる言葉ではないでしょう、つまり、噂の言葉というのは、囁きではあるかもしれないけど、それは有声音ではないでしょう、つまり、無声の言葉でしょう、声のない声の言葉でしょう、この声のない声ということも、ぼくの考えでは、たいへん重要な意味をもつように思います。
 つまり、声のない声、それから、囁きの声、噂の言葉ですから、囁かれている声というようなかたちでの、そういう言葉が、いわば、『四又の百合』なら『四又の百合』という作品のキーワードになっていて、それがまた、構成の反復、繰り返しの結節点にあたっているという、そういうことは、ぼくはまた、宮沢賢治の世界として、童話の世界、あるいは、詩の世界もそれでいいのですけど、たいへん違う意味合いをもつだろうというふうに思います。

6 独自の言葉-『ガドルフの百合』

 それから、もっと違う言葉もあります。たとえば、宮沢賢治の作品のなかで、非常に難解な作品があります。難解な作品というのは何かというと、難解というのはむずかしい言葉が書かれているから難解というのではなくて、ようするに、何が言いたいか、この作品は何をモチーフにして、どういうことをやろうとしたのかというのが非常にわかりにくい作品ということの意味になりますけど。
 たとえば、よく知られた作品でいえば、『ガドルフの百合』というような作品がありますけど、『ガドルフの百合』というような作品はものすごく難解です。つまり、何をこいつは、この作品は書いているんだというのが、あんまりよくわからない、一体何なんだこれはというのがよくわからない作品です。
 大雑把に作品をあれしてみますと、ガドルフっていう、みすぼらしい作業をしている男があって、それが夕暮れになっちゃって、雷が鳴り、雨が降り、嵐みたいな模様になってきて、それである町に入ってくるわけです。そして、どこか雨宿りをしたいと考えると、街道のそばに黒い大きな家があるわけです。それで、その家に旅のガドルフが疲れてそこに入っていくわけです。入っていくと誰もいないわけです。それで部屋を、誰かいないかとおもって、家の中を探っていくわけですけど、誰もいないわけです。
 ところで、雷と稲妻と雨とが、風と一緒に窓のところでゴーゴーと吹きまくるわけです、そうすると、稲妻が光ったときに、窓の外を見ると、白いものがいくつか揺れているわけです。それで、なんか人間が覗いているのかなと思って、窓のところへいってみると、白い百合の花が何本か、雷に打たれていたり、風に折られそうになったりというふうにして、揺れているわけです。
 そうしているうちに、なんとなくガドルフというのは、いま雷鳴と風で揺れ動いて折れそうになっている百合というのはじぶんの恋人なんだと、そういうふうになんとなくそう思うわけです。
 そうしているうちに、いちばん背の高い百合の花がポキッと折られたと、崩れちゃうわけです。それでも雷鳴も風も止まないわけです。だけどその後は、何本かの百合の花は揺れているんだけど倒れたり折れたりしないで揺れている。それをガドルフが見て、なんとなくしょげていたのが勇気づけられて、雨が止んだらここの家を出ていこうというふうに思うわけです。
 いってみれば、それだけの作品なんです。ぼくがこういうふうに言うとすっきりしているから、いかにも、それじゃあわかるじゃないかと思うけど、ほんとはそんなにスッキリしていなくて、全然わからないです。何がわからないかというと、モチーフがわからないし、情緒が割れていてといいましょうか、ひび割れていてといいますか、そういう意味あいで混濁していて、よくわからないです。
 ですから、混濁していることのなかに何かがあるに違いないのですけど、この混濁しているところのなかに何かがあるとみないで、先ほど言いましたキーワードというのがどういうふうになっているかというふうに考えますと、この『ガドルフの百合』の中では、詩の中と同じで、キーワードにあたるものが括弧に入ってでてきます。
 その括弧に入ってでてくるキーワードの言葉はどういう意味あいをもつかというと、だいたいガドルフという旅の人物の一種の独白といいましょうか、独り言といいましょうか、独白の言葉としてそれがあることがわかります。たとえば、この百合の花というのは、おれの恋人なんだというふうに、独白の言葉として言うところは括弧の中に入っている。その『ガドルフの百合』という作品の中でキーワードに該当するのは、小括弧の中に入っているガドルフの独り言といいましょうか、そういうものとして吐き出される言葉がこの作品のキーワードだということがわかります。

7 言葉の位相の差異

 そうすると、この独り言として吐き出されるキーワードの言葉というものは、宮沢賢治という人の世界を解く場合に、一種のキーワードの幅を測るのに、この『ガドルフの百合』のわけのわからないガドルフの独白みたいなもの、それを一方の極端というふうに考えますと、もうひとつの極端が、先ほど言いましたように、『どんぐりと山猫』みたいな、「栗の木さん、栗の木さん、山猫博士はどこに行ったか知らないかい」というふうに言う言葉が一方の極にある。そうすると、もう一方の極のキーワードは、いま言いましたように『ガドルフの百合』みたいに、わけのわからない独白みたいのを主人公のガドルフが独り言として、つまり、囁きでもないし、内面的なじぶんのなかで消えてしまう言葉といいましょうか、なかであれしてなかで消えてしまうような、そういう無声の言葉ですね、声のない言葉といいましょうか、そういう言葉で書かれたそういう言葉が一方のキーワードの極だというふうに考えることができると思います。
 そうすると、それを違う言い方をしますと、宮沢賢治のなかにある一種の幼児性といいましょうか、子ども性というものを、たとえば、「栗の木さん、栗の木さん」というキーワードの言葉が象徴しているとすれば、宮沢賢治のなかにある得体の知れないといいますか、つまり、混濁した大人の独語としてしか存在できない、そういう言葉というのが宮沢賢治のキーワードの一方にある。これは、思い悩んでいるのか、混濁しているのか、あるいは、じぶんがじぶんでわからないのか、とにかく、あんまり得体が知れないわけなんですけど、少なくとも幼児性に対しては最も強烈な否定性をもった、そういう言葉というのがキーワードになっているという、そういう両極があることがわかります。その両極の中間にさまざまな半分声になって半分声にならないとか、囁きの言葉であって、それはいわゆる音声のある言葉じゃないとか、そういうさまざまなバリュエーションでもって、宮沢賢治の言葉の、童話の世界のなかでのキーワードというのが発せられていることがわかります。
 そうすると、このキーワードがどこから発せられているかというのを突き詰めていくことは、宮沢賢治を突き詰めていくことでありましょうけど、それを突き詰めることよりも、そういうキーワードの言葉自体がさまざまなところから出てきているわけですけど、それがどこから出てきているか、どこから出てきているかというのは宮沢賢治のどこから出てきているのかというよりも、言葉というものの、言葉の発せられる、あるいは表現される言葉の位置といいましょうか、位相としてといいましょうか、位置として、どこから発せられているのかということです。つまり、どういう位置から、場所から、言葉のどういう場所から発せられているのか、あるいは、どういう位置から、あるいはどういう位相から、フェーズから発せられているのかという、そういうことをはっきりさせていくことが、たぶん、宮沢賢治の描いた童話の世界を非常によくはっきりさせることの根底になるんじゃないかと思われます。
 そういう場合に、いま現在、流行りの言葉でいえば、童話でいえば、物語を突き進めている語り手の言葉の位相というものと、それから、そのなかに会話の言葉、あるいは括弧の中に含まれている独白とか、あるいは、その中間にある様々な言葉として、少なくともキーワードとして、括弧の中に、あるいは鉤括弧の中に括られてでてくる言葉との位相の差異というものをはっきりさせていくことが、宮沢賢治という人の内面の世界に収れんさせるということは大変むずかしいことだし、童話作品と詩作品ですから、無理なところがありますから、そういうふうに具体的に収れんさせていくことが重要なのじゃなくて、言葉がキーワードとして出てくるものと、それから、語りの言葉として出てくるもの、あるいは、詩の場合でもそうですけど、語りの詩を展開している言葉の位相と、それから、キーワードとして括弧の中に括られて、突如として出てくる言葉の位相との差異というものがどうなっているのかということをはっきりさせていくということが、たぶん、宮沢賢治の童話作品の世界をはっきりさせていくことにつながっていくのではないかと思われますということを話してきました。
 それじゃあどういうふうにそれを問題にしたいかということがあるのですけど、それはキーワードというものを構成の反復の結節点というふうにあるものと考えていきますと、宮沢賢治の世界にある一種の幼児性、子ども性というものと、それから、宮沢賢治のなかに含まれている得体の知れない大人性です。大人性というものとの、いわばその両方との差異というもの、両者の差異、あるいは両者の否定性と媒介性の関係性にある言葉の差異というもの、そのことをはっきりさせていくことになっていくと、そうすると、それがたぶん、大雑把にいえば、宮沢賢治の作品の中で終始一貫、宮沢賢治を葛藤せしめた、根本的にあるのはそういうことなんじゃないかなというふうに思われるわけです。

8 反復性とは何か

 今度はそういう話をしましたということじゃなくて、なぜ、そういうふうな話になってきたかということの、ぼくのなかにある根本的な関心になるわけですけど、それはどういうことかというと、宮沢賢治だけじゃなくて、広く普遍化させてしまいますと、童話作品とか、民話みたいな伝承の作品みたいなもののなかには、お年寄りじゃないからあれだけど、子どもさんがおられる人はすぐ理解されると思いますけど、子どもというのは繰り返しがものすごく好きなんです。なんかおもしろいことを言ってやると、もう一度やって、もう一度やってって言って、何回でもやらせられて、なかなか寝ないとか、そういう経験というのはあると思うんです。今日で終わるかと思うと、昨日のをまたやってって、明日になるとまた同じことを言いだして、また同じことを言っちゃうっていう、だんだん大人のいらだちと、子どもの繰り返し、反復性というものとの葛藤を生じまして、うるせぇというふうにだんだんなっていくという経験は、しばしば子どもが幼児期である時期には、誰でも体験することなんですけど、つまり、一通りの意味でいえば、構成的繰り返しというのは、いわば幼児性のひとつのいちばん大きい象徴だというふうに言うことができるわけです。ですから、童話作品とか、民話の作品は多く、天然自然にといいましょうか、無意識のうちに構成的繰り返しというのをたどる、ある意味でごく当たり前で、当然だということになるわけなんです。
 ところが、この反復性というものが、宮沢賢治の童話作品なんかはそこが複雑だということが興味深いことなんですけど、つまり、繰り返しの結節点になっているキーワードというのが、多種多様なところから出てきているということと、また、そこから構成が繰り返されるという一般性をもっているということ、そのことにひとつの意味をつけようというふうに考えていきますと、何が問題になるか、この反復ということ、反復性とは何なのかということ、それから、反復性というものと、差異とか、差異性とか、同一性というものとは、どういう関係にあるのかということと、それから、もっともっと引っぱっていきますと、否定性ということ、つまり、弁証法的否定性というのに、否定性とか否定の否定性とかいうものは、いったい反復・差異というものとどういう関係にあるのかとか。

9 表現・自己疎外・同一性

 それからもっと僕の固有の関心に引き寄せてしまいますと、自己疎外、あるいは疎外ということと、表現ということと疎外というのは少なくとも言語表現の世界の内部に限定すれば、表現ということと、疎外ということは、同一のことを意味します。同一性を意味します。表現すなわち自己疎外であるわけで、それは同一性のことを意味します。
 そうすると、この同一性ということは、相違性ということ、あるいは、差異性というのは何かということと関わるわけですけど、表現即自己疎外であると申し上げましたけど、あるいは、表現というのは自己疎外なんだという、表現したときには表現した自己はじぶんから枠外ししてしまうと、疎外してしまうものなんだというふうに理解されてもよろしいですけど、あるいは、表現即自己疎外なんだという場合に、表現と自己疎外は同一性なわけです。
 ところが、同一性というのはイコールじゃないわけです。どうしてかというと、かたっぽは表現でありますから、つまり、言葉の表現であったり、宮沢賢治の童話でいえば、半音声の表現であるとか、音声の表現であるとか、無声の表現であるとか、ようするに、表現というのは表現ですし、自己疎外というのは、あることから隔てられるとか、枠組みから外されるという意味あいをもちますが、それは決して同等では、イコールではないのです。でも表現は自己疎外と同一性であるわけです。
 そうすると、同一性ということを突き詰めていきますと、必ずあるひとつの差異性というものの本質に到達するということが非常に重要な概念であるわけです。疎外・表現というのは僕の概念ですけど、差異性・同一性という概念は、これはハイデガーの概念です。ハイデガーはよくそういうことは緻密にやっていますけど、言葉では言えないくらい緻密なことを言っていますけど、同一性というものをどんどんどんどん本質的なところまで突き詰めていってしまいますと、そうすると、必ず差異性というものの本質があらわれてくるんだという概念が成り立ちます。
 これはそういうことの一等最初のあり方ということを、いまの今日のお話のところであれしてみますと、たとえば、子どもというのが成長するということを、いまの言い方で言ってみますと、成長するということにおいて、成長するということの表現だと考えるとします。それは身体の表現であったり、それに伴う精神的、心理的な世界の表現であったり、たとえば、子どもが成長するということは表現なんだというふうに考えるとすると、成長することのたびに、子どもは自己疎外されて、つまり、子どもでありながら子どもから疎外されて、自己を疎外してしまうということが同時に伴うことを意味します。
 だから、この成長という概念を子どもにとっての表現というふうに考えますと、そういうふうに考えていきますと、今度は成長するたびに、あるいは、表現するたびに、ようするに、子どもはじぶんをじぶんでなくしていく、あるいは、じぶんをじぶんから外していくということになります。ですから、そこでは成長=自己疎外です。子どもにとっての自己疎外ということになります。
 その自己疎外とか、表現という概念をそういうふうに使いますと、今度はもうひとつ違う使い方をしてみましょうか、今度は差異性と同一性という概念を使うとしますと、子どもが成長するということは、子ども自身がじぶんでじぶんを差別することだ、あるいは、じぶんでじぶんを差異づけることだということを仮に成長というふうに理解するとします。そうすると、今度は成長した子どもというのと成長しない前の子どもというのは、同一であるという概念がでてきます。そうすると、成長という概念はイコール同一性であるというふうに、今度はそれをいうことができます。
 それから、もうひとつ、ここで盛んに訓練しているわけで、つまり、弁証法的概念というのと、ハイデガーとか、ハイデガーの強い影響下にあるジャック・デリダとか、ドゥルーズとか、そういう人たちの考える差異性という概念と、弁証法的概念と、それと疎外という概念はどういうふうに関連付けられるかという話をしているわけで、頭の中であれしていってみます。

10 否定の仕方の位相-精神性と身体性

 今度は、子どもが成長するということは、子どもが自身を否定することだというふうに考えるとします。そうすると、子供が成長して成長した子どもになることは、はじめの子どもということから考えれば、それは子どもの否定性であるわけなんです。今度はもうひとつ、成長したということは、子どもが自己に対して否定性を行使したということに成長という概念はあたるわけです。
 今度は子どもの成長性というものをまた否定したとします。これは、はじめの子どもから考えれば、否定の否定ということになります。子どもの成長性というのは子どもにとって否定性であると、それで今度は子どもの否定をまた否定する、つまり、否定の否定というのは何なのかというふうに考えると、それは幼児性ということだと思います。だから、子どもは子どもの否定性として成長して、大人になっていくわけなんですけども、その子どもの否定性をもう一度否定すると、それは幼児性という概念なんです。
 この幼児性という概念は子どもの成長性という概念から、いわば枠組みを外した概念としてありうるわけなので、この分離の仕方の、位相という言葉が使いやすいので使うのですけど、この否定の仕方の位相というのが、ようするに、非常に重要なことなのです。それは一種の生理的な身体性からの否定という概念、あるいは、否定の否定という概念、あるいは、幼児性という概念はどういう場所にあるか、どういう位相にあるかということをはっきりさせるという、そういうことのために非常に重要なことなわけなのです。
 もし、子どもの否定性ということを身体ということだけに限れば、これは一種の自然必然律がありまして、この成長性というのは止めるといいますか、これを否定することはできないわけです。つまり、身体性という概念のなかでは、これを否定することができないのです。
だから、これに対して、もう一度否定を行使する、否定の否定を行使していく場合には、これは幼児性という概念になってきて、この幼児性という概念は大人の概念です。つまり、子どもの概念でありますけど、成長することに対する否定性としては子どもの概念でありますけど、否定の否定という概念にとっては、これは身体性ということから、ある跳躍したところのある位相にある概念なんです。この概念が、ようするに、観念の度合いとして、人間の生理的な身体性とか、あるいは、身体図式性、つまり、身体像、身体イメージですけど、身体像というものから、どういうところの位相に否定の否定性である幼児性なら幼児性という概念がどういう位相のところに設定、つまり、決めることができるのか、考えることができるのかということをはっきりさせるということは、たいへん重要なことなわけです。
 これはあながち幼児性という概念だけに限らないで、我々も少なくとも概念構成をするような、あらゆる精神の作用、観念の作用とか、思考の作用というのはあるわけですけど、その場合に、その作用が、いわば身体図式性といいましょうか、そういうものから、どういう隔たりのところにあるかということをはっきりさせることは、あらゆる観念とか、思考作用とかいう場合に、非常に重要なことなわけです。
 そのことがはっきり定まらないと、様々な概念的な混同といいましょうか、混同というのが起こるわけで、これは大雑把な意味では、つまり、近似的な意味あいでは、いっこう構わないんですけど、概念的な混同を起こしていたり、あいつのいうことはちょっとおかしいじゃないかと言うんだけど、どこがおかしいかというのはなかなかよくわからない、つまり、一通りの意味でいえば結構いいことを言っているとか、あるいは、他人のためになることを言っている、だけど、どこかおかしいじゃないかということというのはたくさんあるでしょう、つまり、そういう場合には身体性といいましょうか、そういうものに対する否定の否定性である、ある概念構造がどこの場所にあるのか、どこの位置に、隔たりにあるのかということが明晰にはっきりされていない場合に、しばしばそういうことが起こりうるわけなのです。
 つまり、倫理的な妥当性というものと、それから、概念構成のデタラメ性、インチキ性というのとは、一緒にしばしば入ってきたりするということはあるんです。それは、何が原因かというと、そういう意味あいで、構成が否定の否定である概念構成の隔たり、位置づけ、あるいは、位相というものが、はっきりされていないということが原因なのです。これは、非常に緻密なことを言う場合には、非常にそのことは重要なわけです。

11 ヘーゲルとハイデガー

 そうすると、否定性とか否定の否定性という概念は、非常に俗にいえば、これはヘーゲル・マルクス的な概念なわけなんです。あるいは、起源でいえばヘーゲル的概念なのです。ヘーゲルの強烈な影響を受けているハイデガーという人はこれに対して異を唱えて、じぶんは違うんだって、この否定の否定性とか、否定性というのと違うんだということで、じぶんの思考の場所というものを差異性ということと同一性ということの、そういう概念のところに本質的な場所を移し植えようというふうにハイデガーはヘーゲルに対して考えたわけです。それで差異性あるいは同一性という概念がでてきているわけです。
 ですから、この差異性という概念は、ヘーゲル的概念でいえば、Aに対して否Aであるとか、Aに対してAの否定性が対立しているという、弁証法的に対立しているというふうに、ヘーゲル的概念でいえばそういう概念にあたるものが、ハイデガー、あるいはドゥルーズ、デリダでいえば、差異性という概念はそういう概念に該当するわけです。
 今度はヘーゲルにとって理念の絶対性というものが確信にあるわけです。理念の絶対性というものが確信にあるわけです。この理念の絶対性というものに向かって、歴史的事物も、空間的な事物も、つまり、時間的な事物も、必ず理念の絶対性に対して、ある向かい方をしている、あるいは指向性をもっているというふうに、ヘーゲルは歴史であってもそうだというふうに考えていくわけなんです。
 ところが、ヘーゲルにおける理念の絶対性というものに該当するものは、たとえば、ハイデガーのいう差異性・同一性という概念の本質にとって一体何なんだということが問題になってきます。それで、その場合にハイデガーの本質概念である差異性・同一性というものにおいて、理念の絶対性というものに該当するものは、いわば差異の絶対性なんです。あるいは、もちろん逆な意味で同一性の絶対性でもいいのですけど、差異の絶対性というのは何かということは、たとえば、起源の概念でいってしまいますと、じぶんがじぶんの存在性を差別するというのが、起源の概念なんです。
 まず、じぶんが存在しているものとしてのじぶんというものとじぶんが存在するということとは違うんだということなのです。つまり、これは言葉の遊戯として違うということじゃなくて、あるいは、論理として違うということじゃなくて、存在しているじぶんと、あるいは、もっとやさしく、通俗化して、存在させられているじぶんというものと、じぶんが存在するということとは違うんだという、その差異性がいわば起源の概念として、非常に本質的な概念です。つまり、差異性ということの本質的な概念はそこにあります。
 論理一般論でいってしまえば、存在ということと存在するということとは違うという、あるいは、存在ということと、存在するものとは違うということなのです。つまり、存在というものと存在するものを最初に区別するということが、それが重要な理念なんだということなのです。つまり、そのことが重要な理念ですよという、理念的に重要なことですよというのが、起源のところまでもっていけば、ハイデガーならハイデガーの根本的な理念の場所になっていきます。

12 幼児性と反復性

 それはどういうことかっていうことを展開することは大変だと思いますけど、しかし、簡単だから起源の概念で言ってしまいまして、今日の話でもってくれば、もっと具体的にいうことができるので、最初の、つまり、子どもが成長すると申し上げましたけど、最初の子どもが成長するという概念の起源のところまでもっていけば、それは人間が母体から人間が分割されるという、ようするに、分娩してこの世に生まれてくるということですけど、母体から分割されるというところで、はじめに起源の概念があります。成長ということの起源の概念がそこに考えられます。
 だから、そこのところで、子どもは子ども自身の否定性というのが、成長という概念にあたるとか、子どもがじぶんからじぶんを疎外する最初のところ、あるいは、差異づけるといいますか、差異づけるというところの最初の起源の問題があるというふうに考えれば、それが成長の起源にあるものです。
 そうすると、子どもの成長ということは、先ほど言いましたように、止めることができないのですけど、止めることができない成長は、子どもが子ども自身を自己否定として成長するというふうに考えてみますと、それの否定としての幼児性というのがあります。そうすると、この幼児性というものは何に当たるかというと、人間の存在が最初に分割され、それで、生まれ、そして、放っとけば成熟し、そして、死に至るということになるわけです。
 ところが、この否定の否定性である幼児性というものは、この黙っていけば成長し死に至るという、人間の避けがたい一種の身体性といいますか、あるいは、宿命性といいますか、それに対してある場所から異を唱えている、つまり、この執行猶予を求めることが、ある場所から執行猶予を求めることが幼児性ということに該当するわけです。だから、幼児性というのは幼稚であり、また、未熟であるという、様々な概念が、そういう不完全概念といいましょうか、そういうものが伴っていますけど、それは一面にすぎないので、幼児性というものは、否定の否定性としての子どもの成長から成熟し死に至ってしまうという人間のあり方に対して、ある場所から異を唱えていることが幼児性だというふうに理解することができるわけです。
 ですから、この幼児性という概念はその意味では死をせき止めているといいましょうか、人間が死をせき止めているという概念としても、幼児性という概念はもちろん成り立っているわけで、死をせき止めるということによってしか、また逆に人間は生きていないわけですから、いずれにせよ、死をせき止めるということのなかで、幼児性という概念も考えられてくる、また、幼児性という概念のキーワードであるところで、繰り返し、繰り返し、構成的な、あるいは構造的な反復が起こる、それはしばしば宮沢賢治の作品だけじゃなくて、一般論としていえば、すべての童話的あるいは民話的作品の中に必ず含まれている構成的な、反復というのは、概念なわけです。
 どうして、民話とか童話とかにそういう概念が含まれているかというと、これは一種の反復性といいましょうか、キーワードをもとにした反復性というのは、一種の音声ある言葉というのは主体なわけですけど、つまり、伝承とか、神話とか、それから、幼児の語りとか、そういうもののもっている一種の身体といいましょうか、言語の身体みたいなものなのです。つまり、言語が身体から未分化であるというような、そういうところでは、その象徴である構成的な反復性というのは、必ず伴うものだということができるわけです。
 言葉というのは、そうは問屋が卸さないので、だんだんだんだん自分の肉体性というのは失っていくといいますか、肉体性をどんどん失っていって、それ自体として世界を作ろうとする作用というのを歴史の中で言葉はやってきているわけです。ですから、構成的な反復の結節点のなかに宮沢賢治の場合でも、必ずしも反復性のキーワードというのは幼児的な、つまり、「栗の木さん、栗の木さん」というような、「山猫はどこにいった」というふうな、そういう言葉だけではなくて、もっと大人びた、あるいはわからない、混濁した、どこからどういうふうにでてきたか得体の知れない言葉というものもまた反復のキーワードの中に含まれてきて、これは、幼児に対する否定性というもの、それから、否定の否定性というものの出所の規模といいましょうか、大きさの規模というものを非常によく測るものになっているわけです。
 だから、この反復という概念については、非常によく突き詰めて、キェルケゴールというデンマークの哲学者がいたわけですけど、キェルケゴールは『反復』という文章がありますけど、それはたいへんよく反復性ということに対して、たいへんよく突き詰めてあります。つまり、キルケゴールというのは、反復というのは何かというと、それは、未来に対して、あるいは、前方に対しておこなわれる追憶がほんとの反復なんだと、この過去に対しておこなわれる反復というのは追憶なんです。前方に対しておこなわれる追憶というのがほんとの反復なんだという言い方をしているわけです。
 そうすると、その反復性というなかには、いつでも現前性といいましょうか、現在性といいましょうか、瞬間性といいましょうか、現前性しかないから、反復性というのは精神的にいえばいちばん充実しているといいますか、いちばん混濁がないというのが反復性なんだ。そこにはもちろん、とてつもないこともないかわりに、とてつもないしくじりもないし、とてつもない苦しみもない、反復性というのは、非常にぴったりハマった着物みたいなもので、影とか混濁とかはない。非常に明晰な現前性だけから成り立っている、これが反復の特徴なんだという言い方をやっています。反復ということについては非常によく考えてあります。

13 賢治の反復性と倫理性

 宮沢賢治の反復性というのは、次にどこにいっちゃうのかということになるわけですけど、ついでのことであれしますと、宮沢賢治の場合には、先ほど言いましたように、詩の場合には、結局、文語詩というのにいっちゃうわけです。宮沢賢治の文語詩というのは、一種の詩的な衰弱というふうにも、もちろん言えるわけですけど、そこで片が付かないところが非常に多くあります。
 片がつかないところは何かといったら、童話でいえば反復性のキーワードになるというか、そのキーワードの言葉だけから宮沢賢治の文語詩というのは作られているということが、これを単に詩的な衰えだというふうに言うことができない理由です。
 それから、もちろん、これは詩的な衰えにすぎないといえる所以は何かというと、やはり一種の音数律といいましょうか、昔ながらの音数律といいましょうか、七五調みたいなあれに完全にハマっているからです。七五調みたいのにハマると、どうして衰えというふうにいっちゃうのかといえば、それは日本語の音韻的にいって、反復性のいちばんあらわになるのが音数律でしょ、つまり、七五調でしょう、ですから、もろに最も基本的なところまで、そういう意味合いでは詩なら詩の基本的なところまで退化させちゃってと言えば言えるものですから、だから、これは衰えだというふうに言えば言えるのですけど、それだけで言い切れないものがあるのは、なぜかといったら、ほとんど括弧の中に入っているキーワードの言葉だけで、文語詩というのはできているから、だから、それは単に衰えといえないわけです。宮沢賢治の反復性というものの運命というのは、だいたいそういうふうになっていってしまうわけです。
 童話作品でいえばどういうふうにいくかというと、それは一種の広い意味での倫理性というものとして出てきていると思います。たとえば、『なめとこ山の熊』みたいな、熊が猟師の小十郎にどうしておれのことを殺すんだというふうにいうと、小十郎のほうは、おれはちっとも殺したくないんだと、ただ、毛皮と肝とをもらって売らないとじぶんは暮らしていけないんだというから、仕方なしに撃つんだというふうなところがあります。それから、たとえば、逆に今度は、小十郎が熊に襲われて、熊のほうが、おれはちっともおまえを殺したくはないんだけど、仕方がないんだといって熊が小十郎を殺すというような、そういう一種の仏教でいえば慈悲ということでしょうけど、惻隠の心というものを単に人間だけじゃなくて生物全部に対して、そういう慈悲というものの作用は絶対的に同一なんだといいましょうか、差異性がないんだという、そういう概念が宮沢賢治にはあるわけです。倫理にあるわけです。
 それは宮沢賢治の倫理のひとつのあらわれ、またこれは言語表現に即していえば、べつに文学をやっているとか、芸術をやっているとか、音楽をやっている、そういう人間だけが芸術をやっているわけじゃないんだという、人間というのは誰でも生活において、その後に眼に見えないひとつの世界を残すのに、その世界はその人にとっての芸術なんだという言い方があるでしょ、つまり、それが宮沢賢治の倫理の別のあらわれであるわけです。
 それからもうひとつは、一種の他界の倫理みたいのが、『銀河鉄道の夜』みたいに、他界の倫理みたいなのがもうひとつあるわけです。その他界の倫理によれば、人間は他者の心というのを即座にわかって、それは時間・空間性というのはべつに障害にならないので、時間・空間性はぜんぶ障害にならないで、即時に他者の心とか、他者の悩み事とか、他者の不幸とかというのは、すぐにサッとわかっちゃって、それでよく理解してそれを助けることができるというふうにいつでもできるという、それから、必ずじぶんがこう思ったことは必ず他人に即座に通ずるというようなこととか、そういう一種の人間以上の超人的な者たちの世界が他界として想定されているわけですけど、その枠組みはもちろん宮沢賢治のなかにおける仏教がその世界の倫理を決めているわけですけど。仏教というのはだいたいそういうものですから、そういう世界を想定しているわけですから、理想としているわけですから、だから、そういうものとして、宮沢賢治の倫理というものは、他界の倫理というものとしても、もちろんあらわれてくるわけです。

14 倫理の中性点

 ここからまた先は、そういう話をしてきたんですってことになっていくわけですけど、そこのところでも重要だと思われることは、宮沢賢治の倫理の世界はどうなっているかということを突き詰めていきますと、宮沢賢治という一人の童話作家であり、詩人であり、またある意味で思想家でもありという、そういう一人の人間に収れんしていくわけですけど、一人の作者といいますか、人間に収れんさせるのではなくて、重要なことは何かというふうに考えていきますと、宮沢賢治の表現した様々なかたちでの倫理ということじゃなくなっていって、言葉でいえば表現という概念でもいいし、また、同一性と差異性という概念でもいいし、否定性あるいは否定の否定性という概念でもいいのですけど、その概念が拵え上げる表現あるいは自己疎外でも疎外という概念でもいいですし、また、差異性あるいは同一性という概念でもいいですし、また、否定性あるいは否定の否定性という概念でもいいのですけど、その概念が成り立つ場合における一種の中性点といいましょうか、ゼロ点といいましょうか、それが重要になってくるわけです。
 そのゼロ点を過ぎれば、こちら側にもこちら側の倫理があり、それから、向こう側にも向こう側の倫理がある、こちら側、向こう側というのは比喩として考えて、宮沢賢治でいう、この世と他界ということ、死んだ後の世界ということでもいいですし、なんでもいいのですけど、中点、ゼロ点といいましょうか、その点を過ぎてむこう側の世界では、あるひとつの倫理があり、また、中点、ゼロ点のこちら側の世界でもまたひとつのある倫理があるんだと、そうすると、しかし、大切なのはゼロ点のところの差異性、同一性でもいいですし、また否定性あるいは否定の否定性ということでもいいですし、また、表現、疎外あるいは自己疎外ということでもいいのですけど、つまり、そこでの中性点といいましょうか、ゼロ点といいましょうか、そこのところが非常に重要だということになります。
 つまり、これが重要だという概念は、たとえば、宮沢賢治なら宮沢賢治の作品の中の言葉がどこから出てきているかという、言葉の位相の違いというものを考えていく場合、あるいは、もっと一般論としてある作品の言葉がどこからどういうふうに出てきているかということの問題として、いちばん重要なのはゼロ点なわけです。そこが非常に重要だということになると思います。人は誰でも向こう側の世界にいく場合も、こちら側の世界にいく場合も、必ず重要な中性点あるいはゼロ点というものを通っていくわけなんです。
 通っていくんだけど、通っていくことは気づかないこともありうるわけです。どうしてかといいますと、それは本質的な差異性と同一性の場所でありますし、また、本質的な否定性と否定の否定性の場所でありますし、また本質的な表現、自己疎外の場所でありまして、それはあんまりよく見えるというふうには限らないので、必ずそこを通ってどこかの世界にいくに違いないのですけど、あるいは、いるに違いないのですけど、その倫理的中点といいましょうか、ゼロ点といいましょうか、それを見つける、あるいは、じぶんのなかで絶えず白熱させているということは、たいへん重要なことであり、そんなに簡単じゃないように思う、そこのところが、宮沢賢治なんかの世界が語りかける最後の点のような、ぼくらがひっかかって、宮沢賢治の作品の中で括弧の中に入ってでてくる影の言葉といいましょうか、キーワードといいますか、それがたいへん気にかかっているということと、それから、じぶんらがよく基本的なことで言葉の表現のことで考えてきたことと関連させて、いろいろ考えてみたところの問題としていえば、そこらへんのあたりがいちばん肝心なところじゃないかというふうに思われるわけです。というふうにお話してきたわけなんですけど、重複しているところもありますけど、重複しないでここだけでいったこともありますので、そういうことで話は終わらせていただきます。(会場拍手)



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