1 司会

2 陰の言葉・陰の声

 ただいま紹介にあずかりました吉本です。
 去年別のことで参ったときに宮沢賢治の話が出て、またそういうことがあったらおしゃべりに来たいな、ということを冗談半分に申し上げたんです。冗談が本当になったような感じで、今日、宮沢賢治のことをみなさんの前でお話しすることになりました。
 宮沢賢治の世界に、どこから入っていくか。どこからでも入れるんですけれども、今日のテーマ、主題に即して考えまして、「陰の世界」「陰の声」あるいは「陰の言葉」といいましょうか、宮沢賢治の作品のなかにある「陰の声」「陰の言葉」というところから入っていくと今日のテーマにぶつかるんじゃないかと思いまして、そういうところから入っていきたいと思います。
 みなさんご承知のように、宮沢賢治の作品のなかには、詩の作品のなかにも童話の作品のなかにも、至るところに陰の声あるいは陰の言葉というのが挟まれていることがあります。それは、たいていの場合に、小括弧でくくられていたり、あるいはふつうの鍵括弧の場合もありますし、もっと違うときには二重の小括弧にくくられている言葉が、童話のなかにも詩の作品のなかにも至るところに挿入されていることがあります。その陰の言葉、陰の声というのは何だろうかと考えていくことから宮沢賢治の作品の世界に入っていきたいと思います。
 すぐ考えればわかりますように、宮沢賢治の作品のなかに出てくる陰の言葉、陰の声というのは、どこから出てくるかということが問題になります。宮沢賢治の独り言のなかから出てくるのか、あるいは告白のなかから出てくるのか、あるいは説明したい心のなかから出てくるのか、あるいは今まで自分の書いてきた作品の物語の流れに対して、自分で異議を申し立てたいとか、それを否定してみたいとか、そこで少し流れを止めてみたいとか、さまざまな理由で陰の言葉が挟まれていることがあります。
 陰の言葉の流れというのは非常に多様でありまして、作品をよくよく見ていきますと、詩の作品でも童話の作品でもそうですけれども、さまざまな質を持っていることがあります。その質がなんであるかということを決めていきますと、宮沢賢治の作品の世界はたいへんよく決まってくるということが言えます。特に宮沢賢治の詩のなかにも童話のなかにもある「幼児性」というものに対して、陰の言葉あるいは括弧のなかに挟まれた言葉というもののさまざまな質というのを考えていくことで、とてもわかりがよくなることがあります。言うまでもないことですけれども、幼児あるいは子どもというのは、陰の言葉で思い悩んでみたり、陰の言葉で独白してみたり、あるいは陰の言葉でぶつぶつつぶやいてみたり、あるいは陰の言葉で弁明してみたりということは、しないわけです。子どもは考えたことがすぐに行為にあらわれますし、行為にあらわれたことはすぐに言葉にあらわれます。そう考えていきますと、子どものなかには陰の言葉あるいは陰の声、あるいは独白のようなものは、きわめて少ないというふうに考えることができます。
 そうしますと宮沢賢治の作品に出てくる陰の言葉というのは、たぶん宮沢賢治の精神世界、内面の世界における幼児性というものと幼児性でないものとの区別、差異といいましょうか、幼児性と幼児性でないものとの葛藤というものが、括弧のなかに括られた言葉と、括弧のなかに括られていない表現とのあいだのせめぎ合いの問題ということになっていくと思います。
 つまり、子どもにとっては、なんといいますか陰の言葉で滞って躊躇してということはないのですけれども、宮沢賢治の作品のなかには、子どもの世界で当然いつでも繰り返される、反復される事柄というものの、ちょうど節目のところに陰の言葉がしばしば挟まれていまして、その陰の言葉というものを中心にして、その作品が反復され繰り返される、主題が少しずつ返送されながら繰り返されるということがあります。そうしますと宮沢賢治の作品のなかにある陰の言葉というものは、宮沢賢治の作品における幼児性と大人の心との葛藤あるいは区別というものをあらわすと同時に、またそれは子どものように作品の主題が反復される場合の節目といいましょうか結節にもあたっているということがよくよく読んでみますとはっきりと浮かび上がってきます。そこのところの問題が、もしうまく解けるならば、あるいはそのことを展開することができるならば、たぶん宮沢賢治の世界というのはさまざまな接近のしかたができるわけでしょうけども、ひとつの接近のしかたができるのじゃないかというふうに僕は考えます。

3「革トランク」

 その問題をもう少し具体例に則して考えていってみたいと思います。
 たとえば宮沢賢治の作品のなかに、割合に目立たない作品ですけれども、「革トランク」という作品があります。決していい作品というもののほどではないんですけれども、その作品はどういう作品かといいますと、斉藤平太という非常に落ちこぼれ的な子どもが工学校に入って、教師が点数のつけ違いみたいなことをやったためにうまく学校を通っちゃって、首尾よく卒業しちゃって、卒業してから自分で建築図案設計工事の請け負いの仕事を自分ではじめるんですけど、そこでもすぐに仕事ができて、分教所と消防小屋を立てる仕事がやってくるんですけれども、はしごをつくらないために2階と1階が続かなくなってしまうとか、廊下をつくるのを忘れちゃったために渡ることができないとか失敗をやらかして、東京に逃げていっちゃうわけです。東京でさまざまなつとめをするわけですけれどもそれもまたうまくいかないで、また母親が病気だというふうにいわれて、革トランクのなかに東京へ着ていった一張羅の服と設計図面を三十枚入れて郷里に帰ってくる。郷里へ帰って路を歩いていると向こうから村長さんがやってきて行き会うんです。村長さんは革トランクを見て苦笑いする、そういう作品なんです。
 この作品は何なのかなと考えてみると、たぶん自分が上京して国柱会の仕事をしたりアルバイトをしたりしながら、童話を書いて、病気ということを契機に故郷に帰ってくるという、ある意味で自分の姿を戯画化してといいましょうか、矮小化したというモチーフがあるのだと思います。けれども、僕がここで申し上げたいのはそういうことではなくて、「革トランク」という作品は、括弧のなかの言葉というものを結節点として反復される作品の典型的な例なわけです。括弧のなかに入ってくる言葉はどういうことかというと、(こんなことは実にまれです)ということなんです。
 たとえば、ひとつくらい読んでみますと、「一年と二年とはどうやら無事で、算盤の下手な担任教師が斉藤平太の通信簿の点数の勘定を間違ったために首尾よく卒業いたしました」その次に括弧して(こんなことは実にまれです)という言葉がやってきます。また「大工さんたちはみんな平太を好きでしたし賃銭だってたくさん払っていましたのにどうした訳かおかしな顔をするのです」という表現の後に、(こんなことは実にまれです)という言葉がまた入ってきます。繰り返し繰り返しその言葉が入ってきます。括弧のなかに入ってくる言葉というものは、もしこの作品の、斉藤平太がこうした、という描写を作者が語り手に代わって、あるいは語り手に化けて作者が語っているという表現だとすれば、括弧のなかで繰り返し出てくる(こんなことは実にまれです)という言葉は、語り手とは違うところから誰かが語っている言葉にあたります。
 そうしますとこれは芝居でいいますと、語り手に対して楽屋の裏のところで全体の芝居の進行をみながら役者さんに間違えた台詞をあれしたり、あるいは忘れた台詞を教えたりしているプロンムターみたいな役割のところから(こんなことは実にまれです)という言葉が出てきていることがわかります。
 そうしますと「革トランク」という作品は、物語の流れは語り手に化けた作者、あるいは作者を象徴した語り手がそれを語っている、そういう次元で物語が展開していくんですけれども、そのなかに節ごとに繰り返し挟まれてくる(そんなことは実にまれです)という括弧のなかに出てくる言葉は、作品、物語の流れを司っている語り手とは違う言葉の位相、次元から出てきている言葉だということがわかります。この言葉がどういうところから出てきているかということが、宮沢賢治の作品を決定する非常に大きな鍵だと思われます。
 この場合には芝居でいういわゆるプロムプターのところからこの言葉が出てきているわけです。この言葉は何に帰着するのかということは非常にわかりにくいところですし、あえてあまり決めないほうがいいように思います。つまり宮沢賢治の世界で、この言葉がどこから出てくるのか、どういう質でもって発せられてくるのかということはたいへん微妙なことでありますし、宮沢賢治の世界全体に関係することですから、あまり決めないほうがいいように思います。つまりどこかから出てくる言葉であって、ただ明らかなことは物語を語って進行させている語り手の言葉の次元、位相とは違うところから出てくる言葉だということは、非常に確かなことです。その違いということが、宮沢賢治の最初の世界のなかでの「幼児性」というものとオーソドックスな内面世界との葛藤のように思われます。つまりある場合には、物語の語り手のほうが幼児性を持っており、括弧のなかの言葉を発するプロムプターのほうが大人の言葉である場合もあります。もちろんその逆の場合もあります。いずれにせよ宮沢賢治のなかに、宮沢賢治の世界を宮沢賢治の世界自身と区別しているものがあるとすれば、それは作品の世界のなかでは括弧のなかの、あるいはプロムプターの言葉と、そうでない言葉の違いのなかにあらわれてきているということがわかります。

4「四又の百合」

 もう少しそういう例を挙げてみましょうか。
 割合によく知られている「四又の百合」という作品があります。「四又の百合」という作品は、宮沢賢治の理想の菩薩像なんですけども、「如来正偏知」がヒームキャという町にやってくるという噂が広がってくる。町の人が喜んで道を掃除したり家のなかを掃除したりして、正偏知が町のなかに入ってくるというのを迎えようとして盛んに準備する。ある少年が四又の百合の花を持っていて、正偏知を迎え入れようと思っているんですけれど、ヒームキャの町の王様の大臣が、その百合を自分は譲ってくれないか、それを正偏知が町に入ってきた時に渡したいんだ、と言って少年からそれを譲り受け、王様に渡す。王様や大臣たちは川向こうまでやってきた正偏知を川のこっち岸で迎え、百合の花を捧げようとする、言ってみれば宮沢賢治の菩薩像みたいなものがどういうふうにやってくるのかを象徴的に表現した童話作品です。
 この作品のなかで、やはりプロムプターのような役割をする言葉があります。それは、「正偏知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるさうだ。こういう言葉が透き通った風と一緒に、ヒームキャの城の家々に染み渡りました」、そういう風のような噂の言葉が─これは鍵括弧で書かれていますけど─これがいわばこの作品のなかでのプロムプターの言葉です。短い作品ですけれど、繰り返し繰り返しこの言葉が出てきます。この言葉はいったい何なのだということが非常に重要なことのように思われます。この言葉は別に特別なことを語っていません。「正偏知はあしたの朝七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるさうだ。」というただそれだけの言葉です。その言葉自体のなかに何か意味を見つけようと思っても、別に言っている通りの意味しかないわけです。そういうことじゃなくて、この言葉が括弧のなかで括られ、それが繰り返し出てくるときに、それがひとつのプロムプターの役割をして、物語の流れを司っている言葉とはぜんぜん違うところからこの言葉が出てきているということです。これを作者に即して言いますと、「正偏知はあしたの朝七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるさうだ。」という言葉は、作者のなかでも語り手となって物語をつくっている言葉の次元と全然違うところから出てきているということがわかります。これが繰り返されるということが、宮沢賢治の作品を解く非常に大きな鍵になると思います。
 この場合に、プロムプターの役割をしているこの言葉は、噂の言葉ですから、音声となって出てくる言葉ではないわけです。また、これは書き言葉でもないわけです。物語の言葉でもない、あるいは人々の会話の言葉でもないわけです。これは噂の言葉ですから、声のない言葉であり、誰がそれを発したかということも不明である。どこからこの言葉が発現してきたかということもまったくわからない。しかしそれは噂として、町のなかにぜんぶ流れていくという言葉であるわけです。つまり出所がわからない噂の言葉としてあり、音声としては発せられないで、無声の言葉としてあるこの言葉の位相……
【テープ反転】
……プロムプターの言葉から物語を進行させている語り手が語る言葉とはどういうふうに位相が違うか、どういう差異があるか、そういうことを非常にはっきりと極めるということが、宮沢賢治の非常に多様な世界に接近していく場合に非常に大きな問題となって甦ってくると思います。つまりこういう問題は宮沢賢治の問題のなかにたくさん出てきます。たくさん出てくる言葉が、無署名の、誰が発したかわからない、無声の、しかし囁きとしては出てくる、そういう言葉が、どういうふうに出てきて、作品の結節点になって、作品が繰り返されるかという問題として大きな問題になって出てきます。明らかにこの場合でも鍵括弧になって出てくる「正偏知はあしたの朝七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるさうだ。」ということを作品のなかに差し挟むことは、それはつまり作品のひとつの童話性、幼児性というものに対して、宮沢賢治のなかの出所は指摘することはできないとしても、宮沢賢治の幼児性に対して対立するような要素、幼児性に違和を催す内面性の世界のなかからその言葉出てきているということだけは、確かに言えることのように思います。
 この言葉もまた、どこから来たのかということを突き止めなければならないのですが、これはやはり早急に突き止めようとするよりも、いずれからか知らないけれども宮沢賢治という人は、物語を語る言葉とは違う言葉を持っていて、その言葉はふっと作品のなかに出てくる。その言葉が出てくると、宮沢賢治は必ずそれを鍵に入れたり括弧に入れたりして挿入する、そういう方法、構成のしかたを持っているということだけをはっきりと受けとっておいたほうがいいような気がします。これがどこから来たんだということは、まだ追いつめていかないほうがいいような気がします。声のない、無署名な風のような言葉なんだ、けれども如来が風のように町にやってくる、人々はそれを歓迎して光明にさらされるという、世界の雰囲気というものをつくるためにこの言葉がどこからかやってきている。そういう性質のことだけをはっきりさせておけばいまのところよろしいんじゃないかというふうに思われます。これを突き止めるということは結局は宮沢賢治の世界を突き止めることの最後の問題になってしまいますから、それはどこかで誰かがしなければいけないのでしょうけれど、それを早急にするということも要らないので、漠然と、物語を語る宮沢賢治と、違うところから声にならない言葉とか、無署名の言葉をふっと作品のなかに挟み込んでしまう宮沢賢治の世界と、その2つの世界があるんだというふうに考えているとよろしいんじゃないかというふうに思われます。

5「どんぐりと山猫」

 いまのことは作品のなかにある、括弧のなかにプロムプターの言葉として差し挟まれた言葉を結節点として、作品が一種の幼児性の典型である反復、繰り返される構成をとるという例なんです。これはもう少し違う意味あいでも宮沢賢治の作品のなかに入ってきます。それは、プロムプターの言葉を契機にして構成が反復されるということじゃなくて、構造自体として反復されるというかたちになって出てくるときもあります。
 たとえばみなさんがよくご存知の「どんぐりと山猫」という作品をとってきますと、主人公の一郎が山猫に呼ばれて、山猫のところへ行く道々、栗の木とか笛のように鳴る滝などにしゃべりかける言葉があります。

  「栗の木、栗の木、 やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。
  栗の木はちょっとしづかになって、
  「やまねこなら、けさはやく馬車でひがしの方へ
  飛んで行きましたよ」
  と答えました。

 とあるでしょう。次には、

  一郎は瀧に向いて叫びました。
  「おいおい、笛吹き、やまねこがここを通らなかったかい。」
  瀧がぴーぴー答えました。
  「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ」

 これが次にいきますと、今度はきのこに対して、

  「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」
  とききました。するときのこは、
  「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ。」とこたへま
  した。

 最後はリスに対して、

  「おい、りす、やまねこがここをとおらなかったかい。」
  とたづねました。

 というふうになっていきます。
 こういうふうにして、繰り返し繰り返し栗の木に、瀧に、あるいはきのこにというふうに「山猫はここを通らなかったかい」という言葉で問いかけるというのが、「どんぐりと山猫」の反復構成される節目になっている言葉です。この場合には、明らかに「栗の木栗の木、やまねこがここを通らなかったかい」という言葉は音声となってあらわれている会話、問いかけの言葉です。先ほどの噂の言葉みたいに無署名の無声の言葉ではなく、声のある言葉です。つまり声のある言葉が、同じいい方をすればプロムプターの役割をして、作品を繰り返し繰り返し構成的に展開していくというふうになっていくという場合もあります。プロムプターの言葉となっている、言葉の多様性というのがあるわけですけど、出所がどこかということは、突き止めるに値するほど大きな意味を持っているわけですけれども、非常に多様だということが言えるわけです。
 声のある会話の言葉として、一郎なら一郎が作品のなかに登場する栗の木に対して問いかけたというように、問いかける人間の発した声と、それを受けるものもはっきりとした対象として指定されていて、決まった言葉である場合もあります。そうすると、この場合のプロムプターの言葉は、ちょっと考えればわかるように、「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい」というプロムプターの言葉は、幼児性そのものを象徴しているということがおわかりになると思います。この場合にはまぎれもない普通の子どもが樹木でも、空でも動物にでも、声を出して問いかけるでしょう。そういう子どもの言葉そのものとして、幼児性の言葉そのものとして、プロムプターの言葉が出現する場合もあるわけです。そうするとこの子どもの言葉そのものとしてプロムプターの言葉が出現するということを基準にして考えますと、さきほど言いました「正偏知があしたの朝この町へやってくるんだそうだ」という噂の言葉、声のない無署名の言葉というものが、幼児性に対してどういう位置を持っているかということがみなさんのほうでもおぼろげに考える鍵というものが掴めるんじゃないかというふうに思われます。これは宮沢賢治のプロムプターの言葉の多様性というように思われます。そう単純化してはいけないんですけれども、宮沢賢治の内面の幼児性の言葉、幼児性が素直に発現した場合には「どんぐりと山猫」の「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい」という声のある会話の言葉として作品のなかに出てくるというふうに考えますと、子どもにどうしてもなれない言葉というようなのが、先ほどのように噂の言葉になったり、声のない言葉になったりして出てくる。そのさまざまなニュアンスと位置というものを決定することが、単に作品の世界を決定するだけじゃなくて、宮沢賢治の内面世界、あるいは内部の世界の発現である宮沢賢治の理想のした世界というものの質、あるいは色分け、色合いの手触りをはっきりさせるために非常に重要だろうということが、おぼろげながらなんとなくおわかりになっていただけるんじゃないかというふうに思います。
 この問題をもう少しつっこんでいってみたいと思います。

6「オツベルと象」

 いまのような、反復のプロムプターの言葉というようのをピックアップしてきましたけれども、決してピックアップしなければないというんじゃなくて、宮沢賢治の作品の大部分のなかにそれがあるし、それはぜんぶの作品をプロムプターの言葉と語り手の言葉との葛藤とか違いとかの世界のバリエーションとして理解することができるんじゃないかと思われるほど、大部分がこういうことになっているということがわかりますから、それはみなさんがお読みになるときそういうことに気をつけて読んでいかれるとすぐに気づかれるだろうと思います。
 たとえば、「オッペルと象」という作品のなかでは、象が働いて汗を流していい気持ちになって、「ああ、せいせいした、サンタマリア」という言葉とか、こき使われ過ぎてくたびれちゃったときに象が「苦しいです。サンタマリア」ということを言います。それからまた、疲れ切って自分も命がないんじゃないかと思われたときに、象が「もう、さようなら、サンタマリア」という言葉をいいます。象が発するこういう言葉は物語の進行とともに少しずつバリエーションを加えていきます。物語の進行の度合いと、象がくたびれて死にかけていくことを象徴しますけれども、しかしこれはプロムプターの言葉であるということがわかります。この場合には象の独白です。人に聞こえない、自分の内側だけで発している言葉です。声として出てきているわけでもないし、人が聞いているわけでもありません。ただ苦しいから、象が「苦しいです、サンタマリア」とつぶやくとか、声のない声を発するという意味合いになります。
 声のない声を発する、独白する、人に聞こえないんだけど自分のなかで発するという言葉も、宮沢賢治の世界のあるところから出てきているということがわかります。このあるところはどういうところかということはよくわからないとしても、ただこれが幼児性に対してどうしても異議を申し立てなければいられないようなところから発している言葉だということがわかります。これはそういう意味じゃなくて、宮沢賢治のなかにあるヒューマニズムの言葉だというふうに理解されてもよろしいわけですけれども、ここではそういう理解のしかたをとらないで宮沢賢治のある幼児性に対して異論を申し立てる、そういう場所から発せられた独白、人に聞こえない言葉、自分のなかでつぶやいている言葉として象の言葉が作品のなかに出てきていることがわかります。
 たとえば「ざしき童子のはなし」みたいな作品では、物語が進行していって、終わりのところに「こんなのがざしき童子です」という言葉が繰り返し繰り返しでてきます。「こんなのがざしき童子です」という言葉は括弧のなかに入ってくる言葉です。本来的にプロムプターの言葉であって、作品の物語を進行させている言葉とは次元の違うところから発せられている言葉であることがわかります。この場合の言葉というのは、あっさり言ってしまえば、民話の言葉です。伝承とか民話が、語り継がれていくときの、語り継がれ方の同じ性質を持った言葉が、いわば「こんなのがざしき童子です」と終わりのほうにぽこっと出てくる、民話とか伝承が発せられるときの次元から出てくる言葉だということがわかります。
 こういう言葉も宮沢賢治の内面の世界のどこかには出所がありまして、その出所はさまざまなところから出てくるわけですけれども、その多様性がたいへん見事でもあります。この多様性を探ることが、たぶん宮沢賢治の世界を探ることになるわけです。しかしさまざまなプロムプターの言葉が、つまりさまざまな内面の言葉がさまざまな位置から、宮沢賢治の物語を進行させている言葉と違うところからふっと作品のなかに挿入されているということがわかります。それはみなさんが、括弧に入れてある場合も入れてない場合もありますけれども、括弧に入れてあるかないかということではなくて、言葉を読み分けていきますと、出所が違うという言葉に遭遇するわけです。出所がどこかということ突き止めることも重要ですけれども、出所が違う言葉だということを区別することが、宮沢賢治の作品を辿っていく場合に非常に大きな意味を持つということがわかります。
 この問題をとことんまでつきつめていってみるとしみます。
 たとえば、「セロ弾きのゴーシュ」みたいな作品のなかでは、ゴーシュが楽団の指揮者からへたくそだ駄目だと言われ、夜中に苦し紛れに盛んにセロの練習をする。はじめは三毛猫がやってきて、そんなに怒らないでシューマンのトロイメライを弾いてくれと言う。その次の晩にはカッコウがやって来てやはり同じように弾いてくれ、音楽を教わりたいと言う。次の晩には狸の子がやって来て、自分は小太鼓をやるんだけどセロを合わせてくれないかと言う。その次は野ネズミがやって来て自分の子どもの病気を治してくれ、あなたのセロを聴くと病気が治るんだと言う。毎晩違う動物がやって来て、ゴーシュに同じようなことを問いかけ、同じようなことを求める。その求める過程でゴーシュのセロの腕があがっていく。そういう節目節目のところにさまざまな動物がやって来て繰り返し繰り返し、同じことを要請して、同じことをゴーシュが応えて、という構成のしかたといいましょうか、動物がやって来て問いかけ、それにゴーシュが応えるというところが、この場合にはプロムプターの言葉らしい言葉ではないのですけれども、その場面自体がプロムプターの言葉の役割をしていることがわかります。つまりこの場合には言葉というよりも、もう少し幅を持たせまして、言葉の群れがあって、その言葉の群れが、夜中にゴーシュがセロを弾いているところへ動物がやって来て、問いかける。そういう場面で必ずプロムプターの言葉の群れが生まれて、反復されることによって作品が展開されているということがわかります。そうするとこのプロムプターの役割をしているのは言葉の群れであり場面であるということが言えると思います。この言葉の群れあるいは場面というものが、プロムプターの言葉、あるいは世界だということが、宮沢賢治の内面世界、作品世界の大きな枠をはっきりさせていく場合に非常に大きな意味を持っているということが言えると思います。
 つまり、この問題は、この繰り返しという構成は、宮沢賢治に限らず童話作品や民話作品のなかにはしばしばそれが行われているわけです。宮沢賢治の童話作品も童話の本質として、繰り返し、反復の構成をしているという意味あいでは少しも他の童話、民話、伝承の作品と変わりはないわけですけれども、そういう意味ではなく、反復される繰り返しの結節点になっているプロムプターの言葉のあり方というものが、宮沢賢治の世界のさまざまな段階における多様性というものの世界を構成しているということがわかります。

7「若い木霊」

 このプロムプターの言葉の多様性ということが宮沢賢治の作品世界を大きな世界にしているわけですけれども、このプロムプターの言葉が壊れ目になっている世界の作品というのもないことはないんです。
 これもまた別の意味では、宮沢賢治の作品の世界をつかまえていく場合の非常に大きな鍵のような気がするんです。これはそんなにたくさんの作品はないんですけれども、僕は例えば、ここではふたつピックアップしてきました。ひとつは、あんまり目立たない作品ですから、あるいはご存じないかもしれないんですけれども、「若い木霊」という作品があります。それからもうひとつのほうの作品は、これはよく知られている作品で「ガドルフの百合」という作品があります。たとえばこのふたつをピックアップしてきましょう。すると「若い木霊」という作品も「ガドルフの百合」という作品も、非常にわかりにくい作品です。宮沢賢治の作品のなかで、なぜこんな作品を書いたんだということがわからんな、と思われるほどわかりにく作品です。わかりにくい作品という意味は、モチーフが不鮮明というか不透明といいましょうか、わかりにくいんです。別な言葉で言えば濁っていると言ってもいいんですけれども、どうしてこんな作品を何のためにどういうモチーフで書いているんだろうかということがたいへんわかりにくい作品です。
 それからもうひとつ印象的なことを言えば、この種のわかりにくい難解な作品のもうひとつの特徴はどう言ったらいいんでしょう、読んで愉快ではない作品です。一種の情緒とか情操が割れていると言うんでしょうか、裂けてると言うんでしょうか、割れている印象が作品の全体からやって来て、決して読んで愉快な作品でもないし、読んでモチーフがわかりやすい作品でもない作品があります。この一種の難解な作品というものがどういうところから来ているのか。このなかでいままで申し上げてきましたプロムプターの言葉というものがどういうことになっているのかということを、少しだけ細かく突っ込んで考えてみたいと思います。なぜこの作品のモチーフがわかりにくいのかということと、なぜこの作品があんまり愉快でない、情緒情念というものが割れているという印象をどうして受けるのだろうかということがある程度ははっきりしてくるのではないかと思われるのです。
 たとえば「若い木霊」という作品は、若い木霊が、春まだ浅いときに、春が来たんだぞ、というふうに周囲の柏の木とか栗の木とか宿り木とか鳥の■■■■とかそういうものに飛び回って問いかけたり目を覚ますんだと呼びかけるんだけれども、みんな目を覚まそうとしない、言ってみればただそれだけの作品だと思います。そいで若い木霊はがっかりしちゃう、というそれだけの作品だと思います。すこぶるわかりにくい作品なんです。この作品を解く鍵というものをどこからつかまえていったらいいかというふうに考えていくわけです。もちろん、内容からつかまえていけばいいところはあるんですけど、内容からつかまえてもさして物語の進行性があるわけでもありませんし、起伏があるわけでもありませんから、なかなか内容からつかまえてこの作品の意味を探ろうとしても、探りきれないところがあります。
 そこでいままで申し上げましたようにこの作品のなかでプロムプターの言葉と言いましょうか、括弧のなかの言葉、あるいは鍵のなかの言葉というものがどういうかたちで出てきているのか、ということを元にして見ていったとします。そうすると、いろんなことがわかります。ひとつはそのプロムプターの言葉が、この作品のなかではだいたい若い木霊の独白の言葉とか独り言とか呼びかけの言葉とかそういうかたちで鍵括弧としてあるわけです。この鍵括弧のなかにあるプロムプターの言葉がどういう質を持っているかということを見ていきますと、ある程度この作品の世界に接近しやすいということが言えるような気がいたします。
 「若い木霊」という難解で情緒の割れた作品なんですけれど、この作品のなかで若い木霊の言葉として括弧に入っている言葉というのを見てみますと、それは声のない言葉である場合もありますし、声のある会話の言葉である場合もあります。それから声があるとも声がないとも言えない、半分だけ声があるといえるような言葉もあります。そういう意味合いではこの作品のなかでのプロムプターの言葉というものがかなりな程度複雑なものだというふうに理解することができます。
 たとえば声のない言葉の例を挙げてみますと、若い木霊が、独り言のように言うところがあります。それは鍵括弧に入っています。「ふん。日の光がぷるぷるやってやがる。いや、日の光だけでもないぞ。風だ。いや、風だけでもない。何かかう小さなすきとほる蜂のやうなやつかな。ひばりの声のやうなもんかな。いや、さうでもないぞ。おかしいな、おれの胸までどきどきいひやがる。ふん。」これは決して誰かに語りかけている言葉ではありませんから、若い木霊の独り言のような言葉であるということがわかります。これは、声のない内面的な言葉です。かなり冷笑的な言葉で周囲の世界を見ている、そういうところに出てきている言葉だということがわかります。
 これはいわば内面的な声のない言葉です。ところで今度は声のある言葉の例もあります。「若い木霊はそっちへ行って高く叫びました。『おおい。まだねてるのかい。もう春だぞ、出て来いよ。ねぼうだなあ、おおい。』風がやみましたので柏の木はすっかり静まってカサッともいひませんでした。」これは柏の木に若い木霊が声をあげて呼びかけている言葉です。ですから、会話の言葉ではありませんけれども、音声のある言葉であることがわかります。これが繰り返しの結節点になっているプロムプターの言葉であることがわかります。
 声があるともないとも言えない言葉の質を持っているところもあります。たとえば「『えいねぼう。おれが来たしるしだけつけて置かう。』といひながら柏の木の下の枯れた草穂をつかんで四つだけ結び合ひました。」これは「えいねぼう。」というところだけは少なくとも声のある言葉に見えますが、その後にやってくる、「おれが来たしるしだけをつけておこう」という言葉はいわば半分自分の内側にこもっていく言葉です。これは言ってみれば声のある言葉から声のない言葉に移りゆこうとする言葉になっていることがわかります。こういう言葉が「若い木霊」という作品のなかで、構成が繰り返される結節点になっている言葉だということがわかります。
 この結節点になっている言葉が、声のある言葉から声のない言葉、声が半分しかないと理解するほかない言葉、さまざまな位置のところからプロムプターの言葉が発せられていることがわかります。そうするとこの場合の作者のモチーフというものは、物語作品がうまくいっているかどうかということは自ずから別のことなんですけれども、うまくいっているいないに関わらず、この作品をつくろうとしている作者のモチーフはかなりな程度の複雑で混濁しているということができます。これは声のある言葉で、無邪気で率直で明快な子どもの語り手の物語にしてしまうとしてもそうはいかなくて、半分だけくぐもってしまう言葉を作品構成の結節点に持ってこざるをえないという宮沢賢治の内面的な欲求もこのなかに入っています。ただそれでも足りなくて、声のない言葉でしか語れない内面の欲求が宮沢賢治のなかにあって、そのこともこの作品のなかで宮沢賢治が捨てることができない。そうすると宮沢賢治の作品のなかで「若い木霊」のような難解で情緒が割れているように見える作品というのは、いちばん幼児性というものが苦境に陥っていて、幼児性以外の宮沢賢治の欲求や願望、否定性というものがぜんぶ作品のなかに混濁して、複雑に絡み合ったかたちでこの作品のなかに出てきている。そのためにこの作品が非常に難解になっている。このプロムプターの位置、位相を辿っていきますと、難解な宮沢賢治の作品のなかでは幼児性がいわば危機に瀕しているといいましょうか、幼児性が虐げられたかたちで出てこざるを得なくなっている、そういう作品じゃないかということが、ある程度言うことができるんじゃないかと思われます。
 そう解明していってもこの作品が難解で、情緒が割れたあまりいい作品と思えないということは確かなんですけれども、この作品をいくつか生みださざるをえない内面の欲求というものがあったということは、別な意味で非常に重要なことです。これをまた無視して、除外して宮沢賢治の世界を考えてもいけないんじゃないかというふうに思われます。この手の作品はふたつだけ拾ってきました。

8「ガドルフの百合」

 もうひとつは、「ガドルフの百合」という作品です。この「ガドルフの百合」という作品も非常にわかりにくい作品です。これは旅を続けているガドルフという男が、ある町に入ってきて、夕暮れになって雨と雷がやってくる。どこかに家がないかと考えてみると、街道のところに黒い家が一軒あって、その家のなかに入っていくと、誰もいないわけです。泊めてもらおうと思ってなかいに入ると、雷鳴が走るごとに、窓の外に百合の花が白く浮き上がってくるというのが見えるわけです。それを見ているうちに、いちばん大きい百合の花が電光に撃たれて折れてしまう。あとの百合の花は雷鳴と電光に持ちこたえて、窓の外にある。そういうことで少しだけ勇気を回復して、雨が止んだらこの町を出て行こうとガドルフは思う、それだけの作品ですが、すこぶる難解です。
 なぜ難解かといいますと、もしこれがある旅の主人公がある町である瞬間に体験した内面の世界を描きたいというのなら、もっと内面世界の描写としてもっと見事に描写することもできるわけですし、またそう世界を展開することも容易なはずなんですけれども、たぶん宮沢賢治のなかではそういう欲求もないことはないこともないのでしょうけれども、たぶんそういうことではないのです。宮沢賢治は、この作品のなかでは曰く言い難い自分のなかの乾いて割れてニヒルになって自嘲的になってしまう精神の世界のある状態を、このなかで表現しようとしていると思うより致し方ながないので、ガドルフという主人公の内面の世界を描きたいがために、作品が難解になってしまっているというわけでは決してないと思います。もしそうだとしたらば、宮沢賢治という詩人作家というのは内面の世界を述べるのが不得意の人だったんだというより致し方がないんですけれども、たぶんそういうことじゃないんです。宮沢賢治の世界の意識性というのも無意識性というのもぜんぶ含めたうえで、宮沢賢治自身にもわかり難い割れた情念、情緒というものがあって、それはある触れ方をするとどうしても表現せざるをえないものとして出てくる。それがこの「ガドルフの百合」とか「若い木霊」のような一種難解な、混濁した作品をつくっているんjないかというふうに思われます。
 「ガドルフの百合」のなかでプロムプターの言葉はほとんどがガドルフの内面の告白とか独り言とかつぶやきとかそういう性質のものとしてあらわれてきます。プロムプターの言葉が「ガドルフの百合」という作品の構成の要になっていると理解することができます。
 たとえば、

  (楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉に代わったり、どこまで人をばかにするのだ。
  殊にその青いときは、まるで砒素をつかった下等の顔料のおもちゃじゃないか。)
  ガドルフはこんなことを考えながら、ぶりぶり憤って歩きました。
  それに俄かに雲が重くなったのです。
  (卑しいニッケルの粉だ。淫らな光だ。)

 ガドルフの言葉というのは独り言、ひとりでぶつぶつ言っている独白の言葉で、作品のなかには展開していきます。作品のなかでは声になって出てくる言葉というのはぜんぶありません。ぜんぶがことごとく声のない独白の言葉とか、独り言で嘆いている言葉とか、そういう言葉ぜんぶのプロムプターの言葉になっています。もうひとつぐらい読んでみましょうか。

  (みんなどこかへ遁げたかな。噴火があるのか。噴火ぢゃない。ペストか。ペスト
  ぢゃない。またおれはひとりで問答をやっている。あの曖昧な犬だ。とにかく廊下
  のはじででも、ぬれた着物をぬぎたいもんだ。)
  ガドルフは斯う頭のなかでつぶやき又唇で考えるやうにしました。

 つまりいずれもこの作品のなかで出てくる括弧のなかに括られてしかも作品の構成を展開してくる節目になっている言葉というものは、「頭のなかでつぶやき又唇で考える」という言い方をしていますけれども、それはたいへん見事な一種の比喩でありまして、プロムプターの言葉が「ガドルフの百合」のなかでどういう位置づけを持っているかといえば、それは頭のなかでしゃべり唇で考えているということにあたるところから出てきている言葉であるということがわかります。これは「ガドルフの百合」という言葉を展開している、作者が移行している語り手とはまるで違うところから発せられた言葉であることがわかります。しかも独り言の言葉というものはかなりな程度鋭く冷笑的な言葉であるということが言えそうに思います。
 鋭く冷笑的な言葉というものは、宮沢賢治の内面的な世界のなかでもいちばん屈折した、疲れた、近代のさまざまなニュアンス、デカダンスとかそういうものをまともに受けたところからこの言葉が出てきていることがわかります。こういう言葉が宮沢賢治のなかに存在するということと、宮沢賢治の作品のなかにこういう言葉が挟み込まれているということとは、決して同じことではありません。宮沢賢治の内面のなかにこういうことがあるからそれが作品のなかに出てきたというふうに短銃んに……
【テープ反転】
……なかにあるということは確実にあることなんですけれども、それを意識するにしろしないにしろ作品のなかに挟み込んでしまっちゃうんだということが、もうひとつ宮沢賢治の内面の世界を考える場合に重要じゃないかと思われるんです。

9 陰の言葉の運命

 これは詩の作品を見ても同じことが言えるんですけれども、括弧のなかのこの言葉を差し挟まなかったら、詩の作品と見て流れが非常にいいのにな、と作品鑑賞上思えるときでも、宮沢賢治はそこで流れをぶち切りまして、わざわざ括弧のなかの言葉というものを使って表現をしていることがわかります。作品構成上はそんなことはやらない方がいいですし、それは非常に不利なのであって、そういうことをしない方が作品としてはよくできるはずで、作品がよくなるということであって、宮沢賢治はそこに一重括弧をつくってそこにぜんぜん出所が違う言葉や説明を差し挟んだりするのです。
 たとえば「小岩井農場」なんて作品を読みますと、括弧というのは二重に出てきたりします。一重括弧で作品の流れを切って、まったく違う出所から言葉をそこに挿入してみたかと思うと、今度は二重の小括弧をして、一重括弧とはまた出所の違う言葉を差し挟んで、作品の表面の流れを切ってしまうということをしばしばやっています。
 これは詩の鑑賞とか作品の出来映えを測るということからすれば、そういうことは作品の出来映えを疎外しているとか、作品をおとしめているということが、しばしば宮沢賢治の作品のなかで起こっています。しかしそれでも、そういうことはたぶん宮沢賢治自身も承知であって、作品創作上そういう言葉を入れることは流れを途絶えさせることで、自分と同じ呼吸に読み手が入ってくれれば、そのとき別の言葉が差し挟まれる必然を読んでくれますけれども、自分と同じリズムで読み手がついてこなかった場合には、そういう言葉を括弧で差し挟んでしまうことは作品の流れをとどめて、ちぎってしまいますから、作品の出来映えを悪くしてしまうということが多いわけですけれども、宮沢賢治もそういうことは承知の上だと思うんですけれども、それにも関わらずあえてそういうことをしばしばやっています。詩のなかでも童話作品でもやっています。
 こういう内面世界があるからこういう言葉が差し挟まれるということはもちろんそうなんですけれども、そういうことと、こういう言葉を作品の流れを断ち切ってまでどうしても差し挟まざるをえないという宮沢賢治の世界のあり方というものも、非常に重要な意味を持つのではないかというふうに、思われます。
 これはある意味で宮沢賢治の詩の世界を独断的にしているところでもありましょうし、別な意味でいえば同じところが宮沢賢治の詩の世界、童話の世界を独創的にしている点であり、またそれをひとつのはっきりした宇宙にしてしまっている要素であるともいえると思います。それはいい面からも悪いからも眺めることができると思いますけれど、いい面か悪い面かということよりも、こういう言葉を差し挟まざるをえないという宮沢賢治の表現の世界のあり方、言葉の羅列のしかたのあり方というものが、やはり非常にひとつ重要な問題であるような気がします。その問題を無視するといけないような気がしてしかたがありません。
 そういうふうに考えていきますと、宮沢賢治のわかりにくいいくつかの作品の世界で、プロムプターの言葉、陰の言葉と、物語を表面的に語り続けている葛藤というものを、宮沢賢治のなかにある幼児性と、幼児性を否定しようとする欲求との対立、葛藤と考えますと、宮沢賢治の難解と思われモチーフが不透明と考えられるこういう作品がどういう意味を持つかといいますと、宮沢賢治のなかの幼児性というものの表現が危機に瀕している世界のあり方というものをこれらの難解と言われている作品は象徴していると思われるわけです。
 このような見方というのは詩の世界についてももちろん言うことができますし、また宮沢賢治のほとどんど大部分の童話作品の世界について、ほとんど同じようなことを言うことができます。たぶん僕の考えでは、それを明瞭に跡づけることは僕はしていないですけれども、たぶんそうじゃないかと思われるのは、宮沢賢治は晩年、死の間際に文語詩というのを書いています。この文語詩というものの評価はさまざまです。これは宮沢賢治の詩の世界の一種の衰退を象徴するもので、文語七五調みたいな音数律のある詩のなかに入っていってしまったんじゃないか、という評価もあります。しかしそうじゃなくて、この文語詩の作品は、いわば新体詩がいう七五調とか音数律の詩のようなものとはまるで違う異質の独自の世界を表現している、非常に凝縮された世界なんだという評価のしかたもあります。
 しかし僕は、そういう評価のしかたで宮沢賢治の文語詩の作品を考えるということもよろしいのでしょうし、それぞれの見解があってよろしいでしょう。しかしいままでここでお話してきた僕の考え方からすれば、宮沢賢治の詩のなかに出てくる一重括弧で出てきたり二重括弧で出てきたりするプロムプターの言葉が、だんだんと表面に出てきて、宮沢賢治の初期の詩、中期の詩を占めている、語りの詩の言葉が、プロムプターの言葉のほうに沈んでいって、初期あるいは中期においてプロムプターの言葉として出てきた言葉が、逆に表面に出てきて、表面に出てきたプロムプターの言葉がぜんぶを占めてしまったと考えられるものが、文語詩の世界だと思われます。
 ここで幼児性ということを複雑な意味でつかいますと、宮沢賢治の詩の見事なイメージを語り口の言葉で書き連ねた初期、中期の口語詩の世界を幼児性の世界とし、そしてこの口語詩の世界にときとしてふっと挟まれる言葉をいわばそれに対立するコメントをつけざるをえない、幼児性を否定しようとする宮沢賢治の心のあらわれだと考えると、そのあらわれが、だんだん後期にいくに従って、幼児性の世界が詩のなかでは裏面に沈んでいって、逆にプロムプターの言葉が表面に出てきまして、その移行が極限にまでいった部分が文語詩の世界だと言うことができるのではないかと思われます。この過程というものを、その中間がどこにあるかということを厳密に辿ったわけではありませんけれども、僕らがいわば陰の声、陰の言葉というものの意味あいから宮沢賢治の世界を見ていこうとしますと、必然的に宮沢賢治の文語詩の世界というものは、プロムプターの言葉が表面に出てそれが詩の作品のぜんぶを覆ったということが、晩年の文語詩の世界に該当するんじゃないかという理解ができるんじゃないかと思われます。
 これはみなさんがもし後づけをやってご覧になれば、たぶんそういうことが跡づけられるんじゃないかという気がいたします。僕自身も時間がありましたらそういうことをしてみたいですけれども、それはプロムプターの言葉と表面の言葉とが詩の世界のなかでだんだん逆転していって、ついにまったく逆転してしまって、プロムプターの言葉が無声のゼロ記号のプロムプターになってしまって、いままでプロムプターのだった言葉が全面を占めてしまったというものが文語詩の世界じゃないかと思われるわけです。

10 生まの倫理の言葉ーー「よだかの星」

 今度はプロムプターの言葉から、宮沢賢治の世界にとって最後の問題に入っていきたいと思います。
 宮沢賢治にとって最後の問題というのは何かと言いますと、表現的にいえばいま申し上げたプロムプターの言葉がどういう運命をたどったかということとがひとつあるわけです。もうひとつは宮沢賢治の倫理の世界がどういうふうに展開され、どういうふうに意味付けられるべきものだろうかということの問題が、宮沢賢治にとって最後の問題でありますし、陰の言葉、陰の声というものがどういう運命を辿っているかということの最後の問題でもあるわけです。その世界を同じような考え方から考えていってみたいと思います。
 宮沢賢治の倫理の世界、思想の世界というものは大きく言うとふたつあります。それは文字通りモラルの世界です。人でも動物でも殺してはいけないということからはじまり、人は誰でも生活それ自体において芸術というものを残しているのであって、別にそれ以外に芸術の作品なんてものがどこかにあるわけではない。どういう人間も自分の生活自体においてその後にひとつの世界を残していてそれが芸術なんであるという考え方があります。
 そういう宮沢賢治の倫理の世界というものと、さまざまな言い方ができるのですけれども、他界、死後の世界としてあるひとつの世界というものとして、宮沢賢治の倫理の世界というものが、考えられると思います。これはたとえば「銀河鉄道の夜」という作品が文字通りそうでありましょうし、この他界の世界として象徴される宮沢賢治の倫理の世界というものはいくつも宮沢賢治の作品のなかから辿り、取り出すことができると思います。この問題がどうなっているかということをプロムプターの言葉がどうなっているかということを関連させながら辿っていけるかということが、最後の問題になるように思われます。そこの問題に対して少しだけコメントしていってみたいと思います。
 たとえば具体的にあれしますと申し上げやすいから「よだかの星」というもののなかで、

  (ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてただひとつの
  僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。
  僕はもう無視を食べないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。
  いや、その前に、僕は遠くの空の向こうに行ってしまおう。)

 これはやはり「よだかの星」という作品のなかに小括弧のなかに入れられていわばよだかの無声の独白、独り言のつぶやきの言葉として作品のなかに出てきます。このプロムプターの言葉が象徴しているものは、宮沢賢治自身が持っている世界のなかでのひとつの倫理であるわけです。宮沢賢治のなかには、自分が他人を傷めるということに対する特別の痛み方があり、もっと極端に言いますと動物でも傷めたり殺したりということに対して特別の痛み方というのがありまして、それは宮沢賢治のなかにとけ込んでいる仏教の理念からも来ているでしょうしまた宮沢賢治自身の人間的な資質からも来ているでしょうし、さまざまなものから来ているでしょうけれども、宮沢賢治の内面のなかにある倫理としていまのような括弧に括られるプロムプターの言葉というものが出てきていることがわかります。これは子どもにもそれはあるわけでしょうけれども、子どもの場合には、幼児性がそれを持つ場合には、裏面にすぐに動物なんかすぐにひねり潰したり羽をもいで遊んじゃうという残忍性だって子どものなかにはありまして、それはいわばよだかの告白みたいな理念、思想、倫理としての言葉というのは、宮沢賢治のなかの幼児性を否定する、あるいは幼児性に対立する出所から出てきていることがわかります。それは仏教によって色分けされているかもわかりませんし、宮沢賢治の憐憫の心から色分けされているかもわかりません。つまり、宮沢賢治の幼児性を否定する世界からその言葉が出てきていることは確かなように思われます。

11 倫理性と幼児性の融合――「なめとこ山の熊」

 これはたとえば、この種のことは、「なめとこ山の熊」みたいな作品のなかでも、猟師の小十郎が熊に、どうして俺たちを殺すんだと聞かれて、殺したたくもなんともないけど、皮や毛を取って売って暮らしをたてなきゃならないので嫌なんだけどそうしているんだ、というところがあります。それからまた、終わりの方では熊の方が小十郎を襲うときに、おれはおまえを殺したくないんだけれども追いつめられたからしょうがないんだと言って小十郎を殺して、最後に熊が小十郎の死体のところに集まってうなだれていたという場面があります。こういう場面でやはり、人間に対してだけではなく、動物を殺すということに対しても、独特の宮沢賢治の痛み方というのがあります。こういうものは明らかに宮沢賢治の倫理なわけです。倫理性というものの表現なわけです。
 「なめとこ山の熊」の場合には、幼児的な世界に溶け込んだかたちでそういう倫理が出てきていますから、熊のほうが小十郎に問答をする場面というのはある意味で非常にユーモアが漂っている場面です。逆に小十郎が熊に襲われて殺されて、小十郎の死体をめぐって熊たちが集まってうなだれているという場面もある意味ではユーモラスな場面でもあります。幼児性というものと宮沢賢治のなかにある倫理性のあるプロムプターの言葉とが、非常に融合したかたちで、この場合には鍵括弧の会話のかたちで出てきています。この場合には幼児性とうまく調和して出てくるプロムプターの言葉も、もちろんあるわけです。
 先ほど言いましたように、声にならない無声のよたかの独白というかたちで文字通り倫理の言葉が作品のなかに挿入されるということももちろんあるわけです。今度は宮沢賢治のなかにある倫理観自体を象徴するプロムプターの言葉が幼児性と調和したかたちで出てくる、あるいは幼児性とは調和せずそれとは別の出所から生なの倫理の言葉として、宮沢賢治の思想として出てくる場合と両方ありますけれど、いずれの場合でも宮沢賢治の倫理の世界というものはいずれの場合にもどういうものをめざしているかというと、倫理の中性点と言っていいんでしょうか、いま申し上げました「よだかの星」のように倫理性が生まのかたちでプロムプターの言葉として出てくる場合も、「なめとこ山の熊」のように幼児性と調和した会話のかたちで出てくる場合も、さまざまあります。それらは宮沢賢治の童話作品として何を目指しているかと言いますと、倫理的な中和点を目指しているということがわかります。
 宮沢賢治は決して生まなままの倫理の言葉を作品にぶつけて作品をつくろうとしているわけでもありませんし、また倫理の言葉を幼児性とないまぜることによって作品にひとつの倫理的な色彩を帯びさせようと考えているわけでもありません。そういうふうに考えられた場合に、「なめとこ山の熊」みたいな作品はいい作品になっていますけれども、それでは「なめとこ山の熊」みたいなそういう動物を殺すことに対する独特の痛み方を言いたいためにこの作品を書いているのかとか、宮沢賢治が思想的な倫理性があってそれを表現したいために宮沢賢治は詩や童話の作品を書いているのかというふうに考えてみますと、それからはみ出してしまう世界がたくさんあります。もし仮にモチーフとしてそういうものがあったとしても、できあがってしまった宮沢賢治の作品自体はそれほど単調なものでないということがわかります。

12 倫理的な中性点――「黒ぶだう」

 そうすると宮沢賢治という人は、作品世界として結局何を目指しているんだろうか、何を目指さざるをえなかったんだろうかと考えていきますと、僕は倫理的な中性点というものをどこかに踏みたい、あるいはどこかで中性点をめざし、収斂したいということが宮沢賢治の作品世界の最後の意味あいになるんじゃないかというふうに思われます。最後の白熱した意味合いというものを取っていきますと、どうしても宮沢賢治の倫理的な中性点というものに作品を収斂させていきたい、あるいはそこに収斂することに成功しないまでも中性点というものをちゃんと踏んで通っていきたいということが、たぶん宮沢賢治の作品世界を最後のところでものを言っているところじゃないかと思います。あるいは、ものを言っていないにも関わらず、宮沢賢治の作品を最後に白熱させている問題というのはどうしても倫理的な中点を通りたい、踏みたいんだというモチーフが、最後には宮沢賢治の世界を決定しているんじゃないかというふうに思われるんです。
 倫理的な中性点というところから逆に考えますと、「よだかの星」という作品は、生まの倫理的に過ぎると理解することができます。それから「なめとこ山の熊」というのは非常によくできた作品ですけれども、これだけが宮沢賢治の世界ではないだろうなというふうに言うことができると思います。宮沢賢治の作品のひとつの世界ではありますけれども、この世界でもって宮沢賢治を覆うことはできないだろうなというふうに思われます。
 そうすると、先ほど言いましたように、宮沢賢治がどうして倫理的な中点を踏みたい、あるいはプロムプターの言葉というものをどこか倫理的な中性点のところに持っていきたいんだというモチーフが宮沢賢治の作品世界を最後に全体的に支えただろうと思われるのです。
 宮沢賢治の考えた倫理的な中性点というのはどういうことを言っているんだろうかということが問題になるわけです。
 あまりいい例ではないんですが、「黒ぶだう」という作品があります。これは宮沢賢治の〈倫理的な中性点〉というものがどういうことを言っているのかということを非常にわかりやすいかたちで示しています。
 「黒ぶだう」という作品は、赤狐と子牛とがふたりがいます。赤狐がいたずらの勧進元で、ふたりでいたずらをしまわって、そのあげくにベチュラ公爵の別荘が空き家でありまして、そこに入ってみようと赤狐が言うわけなんです。すると子牛のほうはどうも気が進まないんだけれども、断るほどの理由もなくて、あまりいい気持ちじゃないけれども誰もいない留守のベチュラ公爵の別荘のなかに狐の後をくっついて庭に入り込んで、家のなかに入ってしまう。家のなかを二階に上がったり、部屋のなかを歩き回ったり荒し回ったりとしはじめるわけなんです。そのところにちょうど、ベチュラ公爵の一家の人たちが帰ってくるわけなんです。帰ってくる音が聞こえるわけです。
 赤狐のほうは敏捷でさっそくその声を聞きつけて、自分は窓からサッと逃げてしまいます。嫌々ながら狐の後をくっついてやってきた動作ののろい子牛だけがまごまごしているうちに取り残されて、ベチュラ公爵の一家の人たちが、ヘルバ伯爵という友達を連れて子どもたちと一緒に帰ってきちゃって家のなかに入る。すると家のなかに子牛だけがそこにいるわけです。
 するとベチュラ公爵の家の人たちが、留守に子牛が入って遊んでたんだと言うわけです。友達のヘルバ伯爵の二番目の女の子がこの牛にリボンを結んでやるわ、と言って黄色いリボンを取り出したというところで作品が終わりなわけです。
 何が倫理的な中性点なのかと言うと、女の子の表現しているところと、いわば留守中にいたずら狐の後をくっついて嫌々ながら家のなかに入り込んでノソノソと歩き回って逃げ遅れてマゴマゴしている子牛というのがいるわけです。この場合に倫理的に言いますと、子牛というのは悪いことをしたと思っていて、それを真っ正面から見つかってしまったわけなんです。もっと悪いことをしたはずの狐はさっさと逃げちゃっているわけですけれども、自分もまた嫌々ながら悪いことをしているうちに、留守をしていた人たちが帰ってきて、真っ正面から見つかっちゃったということですから、もし倫理的に言えば、子牛のほうは自分でも悪いことをして見つかってしまったと思っているわけですし、傍から見ても、帰ってきた公爵から見ても、留守中に上がり込んで部屋中を歩き回ってあらし回ったんだから悪いことをした牛だと見えるわけなんですけれども、そこでこの作品の語り手が表現しているところによれば、「よだかの星」と違って、倫理的に自分は悪いことをしましたというふうに、牛に謝らせるわけでもないわけです。
 それからまたいたずらして荒らした牛を見つけてしまった公爵の家族の人たちと友達が、「けしからん牛だ」と外へ追い出しちゃうということをするわけでもないんです。ただ、牛が入り込んでいたわと言って、この牛にリボンをあげよう、と子どもが言ったというふうに終わっているわけです。そこのところが宮沢賢治の倫理的な中性点というものを非常によく象徴している場面だと思われます。
 作者がそこで「よだかの星」のときのように、また「なめとこ山の熊」のときのように、あるいは他の作品のときのように、これを倫理的に牛が悪いと反省するとか、悪い牛を追っ払って踏みつぶしちゃうとか、そういうふうに作品を展開させないで、牛の方はとまどった内面の状態にとどめ、それを見つけた方もそれを追っ払っちゃうとか殺しちゃうのではなく、入り込んでるわ、と言ってリボンをつけてあげようと子どもが言ってそこで作品が終わりという終わらせ方のなかに、書き手のモチーフを探ろうとしますと、モチーフは倫理的な中性点、ある事柄があった場合にそれを善と見なすわけでもない。あるいは悪とみなすわけでもない。善として反省するわけでもなく、悪として反省するわけでもないという、中性な内面のあり方のようなものをこの作品は象徴しているんです。
 この作品の象徴しているものを作者のなかにある倫理的な中性点がどういうところにあるのかということの象徴だと考えるとすれば、宮沢賢治の倫理的な中性点というのはいま申し上げましたところにあるということが言えるように思います。そうしますと宮沢賢治の作品というのは、本当はこの倫理的な中性点というところで白熱したかったかもしれないのです。
 ところで宮沢賢治のなかには過剰なといいましょうか、やむをえざるといいましょうか、不可避的な倫理性というものがあります。どうしても宮沢賢治の作品を倫理的な中性点で白熱化するということを妨げてしまって、非常に倫理的な作品になってしまっている場合とか、倫理的な作品としてうまくいっている場合とか、そういうふうな場合となっている作品がたくさんありますけれども、本当にもし宮沢賢治がこの倫理的な中性点で白熱したかったとすれば、「黒ぶだう」みたいな作品は非常にうまく白熱化したかたちでできあがった作品というものがたぶん宮沢賢治の世界のなかでいちばん中心核にある、あるいは倫理的な中性点にある、白熱化したモチーフのあるところはそこであったんじゃないかと考えることができるように思います。
 つまりそこが宮沢賢治が目指した世界だったんじゃないか。あるいは宮沢賢治が本当の意味で白熱したかったけれども、宮沢賢治のなかにやむをえざる人生や世界、人間の生と死に対する倫理性というものがあって、どうしてもその中性点にとどまることを妨げてしまう。すると宮沢賢治のなかに倫理性の色濃い作品、そして倫理性の色は構成的に中和されているけれど全体としては倫理をモチーフとしていると考えられる作品ができあがってしまう。それはある意味で宮沢賢治の見事な作品でありますけれども、ある意味では宮沢賢治がやむをえずつくった作品であって、本当はもっと違うところで白熱したかったかもしれないというふうに理解をしたら違うところが見えてくるということがありうるように思います。

13 死後の世界の倫理ーー『銀河鉄道の夜』

 もうひとつ宮沢賢治の倫理にとって重要なことは、『銀河鉄道の夜』みたいな他界の世界、死後の世界と宮沢賢治が設定している世界というものが、非常に重要な世界なわけです。この死後の世界と設定されているものでいちばん象徴的なのは『銀河鉄道の夜』であるわけです。『銀河鉄道の夜』で、たとえば主人公のジョバンニは、他界の世界、銀河鉄道の世界にどういうふうにして入っていくかというところをよく検討してご覧になると、ここが通過点だ、という他界の世界に対する入り口というのがあることがわかります。入り口があるということはよく検討しなくてもわかるわけですけれども、よく検討したらきっと、他界の世界への入り口というものに対するひとつのはっきりしたイメージ、像というのをつくることができるのではないかという気がします。僕は完全にできたわけでもないですけれども、しかし他界への入り口がどうなっているかというのをちょっと申し上げてみます。

  「するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションといふ声
  がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火
  をいっぺんに化石させて、そら中に沈めたという具合、またダイアモンド会社で、
  ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛
  石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっ
  と明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまひました。」

『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニがそういうところからフッと他界の世界に入っていってしまいます。それから「インドラの網」のところで言いますと、

  「いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。素敵に灼
  きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流れ、鋼玉の小
  砂利も光り岸の砂もひとつぶずつ数えられたのです。
  又その桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはま
  るでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんと
  ひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえ
  ました。」

 眼を開いたところで、もう違う世界にすっかり入っているわけです。
 まだあります。「光の素足」です。

  「一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一そう強く楢夫を抱きし
  めました。
  けれどもけれどもそんなことはまるでまるで夢のやうでした。いつかつめたい針の
  やうな雪のこなもなんだかなまぬるくなり楢夫もそばに居なくなって一郎はたゞひ
  とりぼんやりくらい藪(やぶ)のやうなところをあるいて居りました。」

 そこのところで、他界の世界に登場している主人公たちは、他界の世界に入っていってしまいます。そうすると、この主人公たちはいずれもこちらがわの世界にいたときから、いまのような一種の、夢とも幻覚ともつかないような状態を経まして、他界の世界に入る。そこからまた物語が展開していくというふうになっていることがわかります。
 そうすると宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という作品を見ると典型的によくわかりますけれども、銀河鉄道のなかで、ジョバンニとカンパネルラがやりとりをする世界の風景を見ていますと、その風景自体とかやりとり自体を表現しているんですけれども、その表現していながらその世界自体をもうひとつ違うところから見ている視線というようなものがないと、ちょっとこういう描写はできないと思われるところがあることがすぐにわかります。これはジョバンニとかカンパネルラとかに即したひとつの視線があって、それがいわば列車のなかの風景とか窓から見える外の風景を見てるという描写はたくさんあるんですけれども、それだけでなく同時にもうひとつ別の視線があって、それは少なくともジョバンニとカンパネルラが列車のなかにいる姿も見えているし、それからふたりが列車から外へ出て河原に出てみるということもどこかで見ている。そういうもうひとつの視線というのを感じさせるものがあることがわかります。これがいわば宮沢賢治が死後の世界、他界の世界というものを童話作品のなかで展開する場合の非常に大きな特徴だと思います。
 こういうものを立体視と言うと、立体視の世界があって、そのなかに入り込んでいる個々の人の視線、個々の人の風景というのがあると同時に、そういう人を含めたもうひとつの視線がぜんぶを見ている、見ている人たちをも見ているもうひとつの視線がある。そういう立体視の世界がある。それが、宮沢賢治の童話作品のなかで、他界が表現されている場面の非常に大きな特徴であるということがわかります。
 この他界の世界、立体視の世界というものを理解しますと、このときこの世界に主人公たちが入っていく場合の入り口の夢とも現ともつかず幻覚ともつかない、入眠ですけれども、入り方のところで、「黒ぶだう」でいえば倫理的な中性点をそこでもって通過していることがわかります。倫理的な中性点を通過しまして、主人公たちは他界という宮沢賢治自身の世界観のなかの倫理性のある、死後の世界に入っていくわけです。その世界に入っていくためにはどうしても中性点である夢とも現とも幻覚ともつかない地点をどうしても通過していくんだということがわかります。
 重要なのは何かといいますと、通過していく、ということが重要です。通過している夢とも現とも何ともつかない地帯というもののこちら側には現世の倫理、この世界の倫理がありますし、通過した向こう側には他界の世界の倫理─それは宮沢賢治のなかでは主として仏教がつくりあげた他界の世界の倫理があるわkです。主人公たちは現実世界の倫理にまみれながら、自分もそれを発揮しながら生きているわけです。そこである倫理的な中性点である……
【テープ反転】
……すぐにそれがわかってしまうし、人と人が言葉を交わさなくてもわかり合えてしまうという世界が、他界の世界として想定されているわけですけれども、そういう倫理が通用する世界がそこに展開してしまう。そしてこちら側では現世のさまざまな倫理の世界が通用してしまう。そのちょうど倫理的な中性点にあたるのが、いま言いました幻覚状態で主人公たちが夢とも現ともつかなくなってしまうというところが、倫理的な中性点にあたるわけです。宮沢賢治の作品世界にとって重要なのはたぶん、他界の世界における倫理性か、現世における倫理性か、どちらかがたぶん重要でありましょうし、一般的に宮沢賢治の世界というものが重用し、意味を持ち、思想性を持つと考えられる場合に、そのどちらかの世界についてそれが言われているわけですけれども、本当は僕ら考えるべき、考えると宮沢賢治の世界に対する違った考え方ができるという観点から言いますと、倫理的な中性点─主人公たちがある理由で夢とも現ともつかない幻覚状態になってしまう、そこのところというのが本当はたいへん重要なんだと思われます。むしろそこをいわば、本来ならば白熱すべき宮沢賢治の作品の世界だという観点を逆にとりまして、そこから『銀河鉄道の夜』みたいな他界への倫理を展開した世界とか、「よだかの星」のようにこちら側の世界における倫理を展開した作品の世界─このように逆に眺めていきますと、別な意味が宮沢賢治の作品の世界から受けとれるんじゃないかというふうに思われるわけです。
 そうしますと、『銀河鉄道の夜』みたいに他界の世界を作品世界として展開している場合には、どちらかが括弧に入っていることになります。その場合にはこの世の世界が括弧に入っているのか、あるいは眼に見えない括弧に入っているのか、あるいは向こう側の世界が括弧に入った世界なのか。どちらでもありうるわけでしょうけれども、いずれにせよどちらかが括弧に入ったプロムプターの言葉の世界であって、どちらかが本来的な語りの世界であるというふうに考えることができます。
 そうすると、宮沢賢治の作品のなかのいわば陰の世界の声、あるいは陰の世界の言葉、あるいは括弧のなかに置かれた言葉をどうしても吐き出さざるをえないという宮沢賢治の作品世界の特徴というものに対して、倫理的な中性点に作品世界の中心があるという点から別な意味で宮沢賢治の世界が見えてくるということがありうるのではないかというふうに思われます。
 このことは僕自身にとっても、いままでこちら側の倫理の世界か、他界の倫理の世界かどちらかに重点を置きながら、宮沢賢治の作品の世界を読んできた僕自身にとっても、そういう倫理的な中性点、あるいは陰の言葉というものの意味がどこから出てくるのかということをはっきりさせていくということが、重要なことのように思われます。
 たとえばこれはみなさんが宮沢賢治の世界を追求していく場合にも、どこかで考えてみてくださると、新たな見方というものが宮沢賢治の世界に対してできるのではないかというふうに思われます。
 たいへん早急に通り過ぎたん感じがしてしかたがないのですけれども、これで終わらせていただきます。

14 司会

 それでは、先程お話ししました様に、時間が少しございますので、会場の皆さんからの質問などを□□□。で、一寸マイクがこの会場1本しか用意して御座いませんので、今私の声多分聞こえるだろうと思うんですが、ご発言なさる場合に大きな声でお願いしたいと思います。で、□□□出来ましたならお名前とそれからどちらからいらっしゃったか、ということも□□□ご発言願いたいと思います。どなたか□□□。

15 質疑応答Ⅰ(8:33)
【質問者】(初め~0:29)
 今のお話しじゃあなく□□□思想とかイデオロギーというのは、幼児性が必要なのかというと、本当はそれが無いと駄目なんじゃないかと□□□。(以下、聴き取り不可能。故記述不可能)
【吉本さん】(0:30~)
 あのー。例えば宮沢賢治の場合で言いますと、今日お話ししました通り宮沢賢治の世界で言えば、宮沢賢治の中に幼児性というものと、その幼児性に対する否定というものとの1つの葛藤であったり、差異であったりというものが宮沢賢治の作品の構造を成している訳ですけども、その幼児性というものは例えば、宮沢賢治だけではなくて殆ど第1級の優れた文学者という者にも、それから思想家という者にも、必ず・どこかにある様な気がするんです。勿論、例えば、具体的に言いましても芥川龍之介にも童話作品というものはありますし、また、童話作品自体に表われなくても、その中で現実が全然無してしまうものでも、或いは現実が足を引っ張って引き留めてしまうものでも、それを振り切ってどこまでも行ってしまうものというものが、芥川龍之介にもありますし、宮沢賢治にも勿論ありますし―僕なんかは好きな作家ですけども―太宰治みたいな作家にもあります。優れた思想とか優れた文学・芸術の中には、どこかに現実が引き留めてしまうものをどこかで振り切ってしまって、とことんまでその世界を行ってしまうというものがどうしてもある様な気がするんです。
 文学者だけということではなくて、思想家でもいいんです。例えば誰(を)とってきてもいいですけど、ロシアの10年代から20年代にレーニン人という思想家がいる訳ですけども、レーニンという思想家は非常に幼児的な人で―幼児性を持っていた人で―ロシア革命というものを成就して、ロシア革命の指導者として国家とか民衆とかを統括していかなきゃあならないみたいな立場に成ってからも、「自分はボロ自動車しか乗らない」と言って頑張ってみたり、言ってみれば今のごく普通の政治家からいったらば、アホみたいなことを言ってる、アホみたいなことに固守しているというふうに言われる外ないのですけれども、「俺はボロ自動車しか乗らないんだ」ということに頑張ってみたり、それからそういう個人的な頑張りだけではなくて―今ロシアは駄目ですけれども―その頃は、始めの頃は良かったんです。レーニンは政府の役人というのの給料は普通の人・民間の普通の人の労働者・一般の人たちの賃金を、絶対越えてはいけないということを、非常に重要な柱として、強調した人なんですよね。そんなことを強調するのはアホみたいな者だと言えば、アホみたいな者なのですね。自分も国家の政府の1員だとすれば、レーニン自身も政府の1員ですから、自分の給料も普通の一般の人の・民間の一般の人の給料よりか多くとらないということを言ってる訳ですよ。そんなことを大臣とか総理大臣とかが言い出したなら気違いと思われちゃう訳ですよね。それ程アホらしいことなんですよ。馬鹿らしいと言えば馬鹿らしいことだし、そんなことはたいしたことじゃあないじゃあないかと言えば、たいしたことではないことなんですけども、しかしレーニンという人はそれを固守した人です。そういうことを主張して止まなかった人です。実行はすぐに破れちゃたのですけども、しかしそれは非常に重要なことな訳なんです。どうしてかって言いますと、そういうふうにすると政府の管理―役人・総理大臣・大臣という者の、政府高官とかそういうのの給料を一般の人達より多くしちゃうと、それに成りたがる奴がいる訳ですよ。だけどももし一般に人の給料より少なくしたら、あんまり成りたがる奴はいないのですよね。成りたがる奴はあんまりいなくなる。それは重要なことなのです。どうしてかって言うと、成りたがる奴が多くなると、要するに国家が大きくなっちゃんですよね。国家が肥大しちゃうんですよ。国家が肥大してどうしようもなくなっちゃうんですよ。だからレーニンは国家なんというのは小さい方がいいんだということなんですね。小さくてこんなものはいつだって壊れた方がいいんだ。壊れて替えられた方がいいんだという考えですからね。だから国家の役人という者は上から下まで、総理大臣から下っ端まで全部民間の人よりも多い給料は(を)取っちゃぁいかんのだということを強調したのですよ。そうすると国家に集中する人は少なくなるんですよ。本当に必要な人とかね、本当に嫌だけど人が言うからしょうがねえから遣るんだとかね、そういう奴だけが国家の役人に成る訳なんですよね。それが理想なんですよ。国家のね。だけどそんなことを強調することはきちがい沙汰であって、幼児的なことですよね。子供は何をアホみたいな、夢みたいなことを何言ってんだというふうに直ぐに言われちゃうことなんですけれども、しかしそれは非常に重要なことな訳ですよね。つまり、そういうことが幼児性と言うことの、僕は大きな現れだと思うんです。
 つまり一見するとこんな馬鹿らしいことを言うんじゃないと言う様なことでも、それが大きな理想と言いましょうか、そういうものに繋がる時には固守して止まないと言うこと、そのことが僕は幼児性の1つの現れだと思うので、宮澤賢治の場合にもそれが大変そのことがよく現れていまして、勿論だからこそ童話作品を終始書いていった訳でしょうし、また童話作品(を)書いていって、自分の中の幼児性を否定した様な考えをまた童話作品の中に入れようとしまして、今日申し上げました括弧に入る様な言葉もまたその中に入れてしまうことで、虚偽を避けようとしたということはあると思うんですね。だけども宮澤賢治が固守したものも、固守した一種の理想とか夢とか、そういうものも一種の幼児性だというふうに思える訳です。そのことはいろんな意味合いで重要で、非常に優れた人というのは失わないで持っていますし、またどうもそれを固守する様な気がして成らないのですね。

16 質疑応答Ⅱ(20:43)

【質問者】(初め~1:20)
 □□□宮澤賢治の中にある不健康□□□□□□□□□ (以下、聴き取り不可能。故記述不可能)
【吉本さん】(1:21~)
 後でまた聞き直すかも知れないのですが、忘れない内に最後のところから申し上げますとね、宮澤賢治が他界の倫理というのを考える場合に2つあると思うんです。1つは現世の倫理から他界の倫理へというふうに越えていこうということが1つと、他界の倫理の構造はどうなっているんだということの2つがあると思うんです。で、現世の倫理から他界の倫理へ越えていこうという場合に、宮澤賢治はどういうふうに考えたかというと、それは宮澤賢治は仏教、特に法華経の影響だと思いますけども、自分を粉にしちゃってもいいから、粉にして死んじゃっても勿論いい訳ですし、粉にしちゃってもいいから利他というものに―他を利する―他を利するとか、他を救済するということに徹するという考え方が、現世に存在しながら自分を、仏教語で言えば菩薩に化するということですけども、その場合の菩薩とは何かと言うと、自分を粉にしちゃって、利他的なこと全部を燃やしちゃうということだと思います。宮澤賢治という人は現世の倫理から他界の倫理へ自分が渡ろうとした場合に、あくまでもそれに固守した人だと思います。自分を出来るなら粉にしちゃって、人の為に利他的な行為で燃やしちゃおうというのが、宮澤賢治が終始自分が遣ろうとしたことで、勿論出来なかった―出来るはずがないから出来ないのですけども、しかし目指したのはそれだと思います。目指したことと出来なかったことの間にある1つの考え方をしますと、1つの不健康な欺瞞―欺瞞って言ったらおかしい。自己欺瞞。倫理的な響きを与えないで受け取って欲しいのですけれども―自己欺瞞というものが含まれる。必ず含まれてしまう訳です。その自己欺瞞の問題を宮澤賢治は、どうしたかということが問題になる訳で、そこのところで宮澤賢治の―僕の理解の仕方では―不健康さの要点が現れる様な気が致します。それはまた次のところで言いますけども、もう1つ。他界自体の倫理というのがある訳なんです。宮澤賢治が考えた他界自体の倫理というのは、仏教が考えている倫理とそっくり同じであって、他界―全てを身を粉にして菩薩と化した人達が創り上げている世界というものは、創り上げるであろう世界では、「雨ニモマケズ」で言えば、人のこと、人が何を考えているかとか、人がどういうことで苦しんでいるかが、直ぐに判っちゃうというのは、非常に理想的(?)な、菩薩的世界の条件なんですよ。仏教が言う。超能力な訳ですけどね。一種の察知力なんですけどね。推察力とか察知する力なんですけどね。察知する力において人間を越えられているものですね。誰かが、どこかで、何か苦しんでいるとすれば、直ぐに時間・空間を越えて直ぐに伝わっちゃうとか、自分がこういうことをしたいとか、してやろうと思っていると、それが直ぐに・その人に・全部・即座に・伝わっちゃうと言うのが、仏教が描いた他界の非常に理想的な姿の根本にあるものなんですよ。つまり一種の察知力―人間が到底出来ない察知力、或いはこの人を助けたいと思ったら直ぐに、その場に時間・空間を越えて直ぐに行けちゃう、行けてそれが実現することができちゃうという、それが仏教が考えている他界の構造の中で1番重要な倫理なんですよ。そういう世界というのが宮澤賢治が(は?)ありうるんじゃあないか、或いはそういう世界が考えられるんじゃないか、それは死の後に考えられるんじゃないかということが、宮澤賢治が終始死ぬまで固執し、疑問を持ち、また固執し、宮澤賢治は終始そういうことを捨ててないですね、そういう考えを。他界の倫理って様々ある訳ですけども、人のことは「ヨクミキキシワカリ」とか、決して「ワスレ」ないとか、「東ニ病気ノコドモアレバ」直ぐに助けてやるとか。その場合に直ぐに行って助けて遣るという意味合いは、直ぐ支度して行って助けて遣るという意味では決してないのであって、即座に出来るというのが大体、菩薩の世界なんですよ。非常に修練を積んだあげく、仏教で言うと修練を積んだあげく、どういう境地にいくかというと、直ぐに察知力で誰がどういう悩みを持っているか判っちゃう。判って直ぐに助けられるとか、直ぐにそこに行けるとか、その場に行けるとか。一種の超能力の世界ですけどもね。それは割合仏教が描いた理想的な他界の世界の根本にある倫理なんですよ。それは人間を越えるという意味合いなんですよ。他界の世界・菩薩の世界というのは、人間を越えるという意味合いなんですよ。そういう意味合いなんですよ。宮澤賢治は科学者ですから、それはペテンじゃないかとおもったり、そんなの嘘じゃないかと思ったり、思ってみたり。また信仰の厚い人ですから、「いやぁ。そうじゃない」と思ってみたりね。そういうことは終始、最期まで悩んでいますよ。最期まで両方を、捨ててないですね。それは宮澤賢治の他界の倫理の根本にあるものだと思います。察知力なんです。「あなたがなんで悩んでいるか」って直ぐ察知して、助けられるとかね。直ぐこうだと言って上げられるとかね。それはね即座に出来ちゃう。時間・空間は直ぐに越えられるというのは、それは割に理想の他界の倫理なんですよ。それは宮澤賢治もそっくりそのまま、自分の世界のものとして考えていると僕は思っていますけどね。
 それから不健康・健康ということに成る訳ですけどね。先程言いました様に、人間は人間を越えられるかと言う場合に、「否、そうじゃない」って。極端に言えば、「人間は煩悩具足の凡夫に過ぎないんだよ」って言うふうな考え方と、「それを越えられる訳がないんだよ、煩悩具足の凡夫という自覚において初めて人間というのは原点に戻る、あり得るんだよ」と言う考え方、仏教にもそういうふうな考え方―宮澤賢治の親父さんなんてそうでしょうけれども、そういう系統の宗教でしょうけれども―そういう考え方もありますし、そうじゃなくて宮澤賢治が自らの資質によって信じた仏教の1つの流派と言いましょうかね。流派の考え方に拠ればそうじゃなくて、人間というものは現世において人間以上のものになり得るんだ、人間以上のものになり得ることの実行点(?)の1番のポイントは、自分を粉にしちゃっても、粉にしちゃっても、人の為に燃やし尽くしちゃうと言うことなんだという考え方、それをあくまでも現世において遣っていかなくてはいけないという考え方というのが、宮澤賢治が信じた宗教において現世的な倫理の根本な訳です。宮澤賢治はそれを僕はある程度、最後まで―これも幼児性の1つだと思いますが―最後まで捨てなくて遣ろうとしたと思います。でも具体的にはそれは出来ないですよね。出来てないですし出来なかった。引き戻されちゃう。現実に。それはまた宮澤賢治にとって1つの悩みであって、それもまた死ぬまで捨ててないと思うんです。つまり超人的であろうとすることと、超人的であろうとしてはこっちに引き戻されちゃう。それは一種の嘘になっちゃって、超人的に振る舞うこと自体が嘘になっちゃって、こっちに引き戻されちゃうという、そういうことを宮澤賢治は繰り返していて、その繰り返しの中に人間と超人、人間と菩薩というものと、菩薩に成ろうという願望と、人間は人間でしかないよというものと(の)葛藤というのが宮澤賢治の中にあって、そこにいつでも不健康さの根本が僕ある様に思います。
その中で、大部分は不健康さというものは作品のどこかにそれを表現したり、どこかで解消したりしたんでしょうけれども、多分1番そこの問題が最後まで残ったのは宮澤賢治が独身であるとか、独身を通したとか、菜食主義であったかどうかは判りませんが、あんまり生き物を殺して食べるのは気持ちよくないとかいうことに固執してそれを捨てなかったということがあるでしょう。世の中には独身の人もいっぱいいる訳ですけども、独身で一生を送る人も沢山いる訳ですけれども、そのこと自体が別に不健康でもなんでないんですけれども、宮澤賢治はそれに理念・思想を付けていますよね。その思想を付けると言うことにおいてね、宮澤賢治は多分そこのところでは引き戻されて、裂け目を現したみたいなことは、そこではない様な気がしてしょうがないのです。独身を通して、それから豪語したという伝説もある位で、「自分は体内から精液を1滴も出したことがない」と言って豪語したという逸話がある位で、そういうことではあまりボロを出していない様に思うんですけどね。ボロを出していない様に思うんですけども、しかしそれは、僕はあまり健康でない様な気がするんです。事実が健康でないと言うことではなくて、そのことに(を?)理念付けにするところにおいてね、あまり健康でない様な気がします。その健康で(の?)なさというのは何に現れるかというと、1つは先程例に挙げましたけれども、宮澤賢治の作品の中に訳の判らない、愉快でない作品なんでしょ。読んでいて愉快でない、難解な作品なんですよ。僕その中にある様にある様な気がしてしょうがないですけど。健康で(の?)なさというものの。それをよく分析していくと、そこにある様な気がしてならないのです。
 もう1つ。独特のね、宮澤賢治には独特のジェラシーの表現というのがあるんですよ。『土神と狐』とか、『銀河鉄道の夜』でもいいんですけど、独特のジェラシー・嫉妬があるんですよ。表現が(あるんです)。これは割合偶然的ではなくて、割合と固執されてある、意味がある様にあると僕には思えるんですけど。それは相当健康でない様な気がします。そこには何かある様な気がしています。それは、僕上手く遣れないですけど、上手く遣ってやろうという気がしてしょうがないのですけれども、解明してやろうかな。それは別に倫理的に弾劾するとか避難するとか、そんなことではなくて、その問題を突き詰めてみたいなぁという気がしてしょうがないないとこがあるんですけどね。一種の―どう言ったらいいんでしょうかね―人間の認識の仕方の根本のところに、一種の―何て言いますかね―被害妄想とか追跡妄想とか、そういうパラノイアというふうに一般的にいわれているパラノイア的な構造というのが、人間と人間の関係の中にあるんですけどね、必ず。宮澤賢治という人は、その視線、向こうからの視線を過剰に感じる―向こうからというのは漠然としていますけど―兎に角他からの、他者でも他界でも現実でもいいんですけど、向こうからの視線を過剰に感ずる一種の感受性の起伏があって、(それを)上手く辿るとその問題は露出してくる様な気がしてしょうがないのですけれどね。僕、そういうところで一寸不健康っていうふうに言えちゃう様な気がするんです。
 そうするとあなたの仰るのは、逆の言い方をしている訳で、あくまでも正しい意志と正しい生き方と正しい意志で、自分の人生を燃やさなくてはいけないという言い方で、出てくるものというのは、健康なんじゃないかというふうに、みればみ(ら?)れるのですけれども、その健康さにおいてその不健康さというふうに受け取った方がいいような気がするんです。それで、もっとアレで言いますと、例えば詩の中に学校に行ってテニスを遣りながら、面白半分で教えている様な先生から何か習ったって、習うことより身体に刻みつけるようにして習ったそういうことの方が、はるかに「本統の勉強」なんだみたいな言い方をしばしばしていますよね。『ポラーノの広場』でも、その様な言い方を「キュースト」がするところがありますし。そういう言い方で出てくるものがあるでしょう。僕はそれはデカダンスということを、宮澤賢治は近代的なデカダンスというものを浴びてない、という意味合いでは健康なんでしょうけれども、僕はその健康さというのは、世界の狭さ―宮澤賢治の世界の狭さの様な気がするのです。そういう意味合いでは不健康だという気がするのです。そんなことはないんですよ。テニスを遣りながら教えたって何をしながら教えって、そんなことは構わないのであって、そういうことには教えるとか、受け取ることの中にそういう問題というのはなないのですよね。また身体に刻んだらいいのか、「本統の勉強」なんだというのは―「本統の勉強」の場合もありますけどね―そうじゃなくて、身体なんかに刻まないでここいら辺をこっちからこっちへ通って行っちゃった勉強がね、いい勉強だということもあるんですよ。あり得るんですよ。そういうことは本当に、本当に限定されないことなんですよ。物事を受け取ること、与えることとか、与えることと受け取ることの間には限定はあり得ないのですよね。どんなものがどう受け取られるかということには、限定はないのね。だから、こっちからこっちへ素通りとかね。弁当を食いながら先生の話聞いていることが役に立つこともありますし、そんなことは本当に判らないことなんで、それを宮澤賢治が敢えてそういうことを限定しようとするところというのは、沢山あるんですよね。それは僕、その世界は僕には健康でない様に思えるんですね。そういう意味合いを持つと思うんですよね。
 知識というもの―宮澤賢治のいう意味での本当の知識というのもありますし、嘘の知識というものもあります。本当の知識と嘘の知識というものを分けてやりたいという欲求というのは、宮澤賢治はしばしば表現していますけれども、それは僕らにもありましてね、分けてやりたい、その実験の方法はないかというふうにいつだって僕だって考えますけどね、しかし本当の知識と嘘の知識もね、知識というものには一種の必然力みたいなのがありましてね、知識というのは止められないし、嘘の知識でも何でもいいから知識をないものをある様にすることは出来るけれど、あるものを無い様にすることは出ないということがあると思うんですね。そういう知識には非常に何か妙なものがありましてね。宮澤賢治の言い方にはいつでも、その手の言い方には不満、不健康と言ったら不健康、不服を感ずるんですけどね。そういう問題の様な気がするんです。
 もう1つ、あなたが最初に言ったのだけども、それは忘れちゃったんですけども。
【質問者】(18:37~20:23)
 不健康□□□先程吉本さんがジェラシー□□□、例えばカムパネルラ□□□。(以下、聴き取り不可能。故記述不可能)
【司会者】(20:24~)
 会場の方の関係もありますが、もうひとかた□□□。(以下、聴き取り不可能。故記述不可能)

17 質疑応答Ⅲ(5:39)

【質問者】(初め~0:52)
 東京から来ました□□□「心像スケッチ」□□□。(以下、聴き取り不可能。故記述不可能)
【吉本さん】(0:53~)
 はいあのー、仰る通りで、僕近似的にはそれで宜しい、そういう考え方・理解の仕方で宜しいんじゃないかというふうに思いますけども。それはあくまでも近似的に考えれば、それで宜しいという意味合いになるんじゃないかと思うんです。で、そうじゃなくて、僕今日お話ししましたことは、言葉というもの、或いは言葉の表現というもの、言葉の表現というものがどこから出て来て、どういう位相の差というものを創るかという観点。つまり仰る通り□□□言葉であろうと、ヒョッと出てくる言葉であろうと、心象スケッチとして書き留めているというふうな理解の仕方を、僕近似的に宜しいと思うんですけども。そうしますと宮澤賢治の詩の世界は、一種の差異のない世界・差別のない世界・差別のない言葉の世界として考えられてしまうと思うんです。そうすると、差別のない世界として理解されてしまうと、宮澤賢治自身にとっては思う壺と言いましょうか、有り難いことな訳でしょうけれども、宮澤賢治の無意識と言いましょうか、宮澤賢治さえも、もしかしたら意識していなかったかも知れない様に、言葉が出て来たということも考えに入れた上で、入れた上で作品の世界を考える場合には、宮澤賢治の無意識というものを敢えて意識化してしまって、意識立ててしまって理解することによって、宮澤賢治の世界を・詩の世界をより良く理解しようというふうな観点に立つならば、ぼくは敢えて言葉(の)差異をなくしてしまうよりも、言葉を(に?)差異を付けて、【3:30】、出所が違うと言葉の位相が違う、言葉と言葉との間に差があるって言いますか、空間的な差も時間的な差もあるということ、つまり同一性でなくて差があるんだということで、言葉の世界を考えてみますとね、宮澤賢治が無意識に―勿論、意識して表現したところは勿論ですけども―無意識に表現したところも、ハッキリと捉まえ得るということがあるのではないでしょうか。
 ですから僕はあなたの仰ることは宮澤賢治の無意識、表現として書いている現場と言いましょうか、書いている現前と言いましょうか、現状と言いましょうか、その瞬間瞬間を考えれば、大変宮澤賢治に即して理解されておられて、宮澤賢治にとっては大変有り難いというふうなことに成る様に思うんですけども、そうでなくて宮澤賢治がその中に自分でも意識してなかったという世界も、勿論宮澤賢治の世界(とは?)何だ、というふうに理解しようとすれば、今度は逆に僕が申し上げました様に、括弧の中でポンと出てくる言葉とか二重括弧で出てくる言葉とかは、みんな出所が違ってみんな差異があるんだ、同じ様に同じ行の間に挟まって(い)たって、同じ一篇の詩の中に入ったって、全然違うところから出て来ているんだというふうに理解した方があのー、僕もっと広く・深く宮澤賢治の世界を理解できる様に、僕はそう思いますけどね。別に違いはないと思います。仰ることで宜しいんだと思います。違いはないと思うんですけど、僕はその方がもっとハッキリ宮澤賢治を理解出来る、宮澤賢治の世界を理解できる様な気が僕はしますけどね。

18 質疑応答Ⅳ(3:24)

【質問者】(初め~0:37)
 (聴き取り不可能。故記述不可能)
【吉本さん】(0:38~)
 もうだいぶ幼児性を段々失ってきてしまって、僕堕落してしまって殆ど無くなってしまったんですよ。それで今日宮澤賢治のお話をしたから、宮澤賢治のことに絡めて、宮澤賢治が言ってることに絡めて言いますとね、かろうじて僕の中に一種のドン・キホーテ性と言いましょうか、幼児性として唯一保持されているのは、何とかして「ほんとうの考え」と「うその考え」というのを絶対に分けて、分ける方法はないのかとかね、こうやったら絶対分けられる筈だとか、ということについての追究と言いましょうか、探究と言いましょうか、そういうことは未だドン・キホーテ的に固執しているところがあると思うんです。かろうじてそこいら辺くらいで、後は全部幼児性を失ってしまって、駄目な奴―昔はそうでなかったっていいますか―宮澤賢治の作品に初めて接して、甚大な影響を受けたというのは十代の後半だったんですけどね、戦争中だったんですけどね、その頃は自分も宮澤賢治みたいになれるみたいに思って思ったりして、アレを捨てなかった時があったんですけども、それから堕ちていく一方で、とてもとても今はそんなアレがなくなってしまって、かろうじて僕心のどこかとか、考えのどこにどうしても最後までまだ引っ掛かっているのは、今申し上げました、「ほんとうの考え」と「うその考え」というのは分けることが出来るんじゃないか。出来る方法はあるんじゃないか。実験の方法はないでしょうけども、比喩で言えば実験の方法というのがあれば、分けられるのになぁ。分けられれば悔しい思いをしなくていいのになぁと、個人的に言えばそうですし、公的に言えば嘘の考えが栄えるということもない筈だとか、そこいら辺のところは未だにどこかで固執している様な気がしております。そこはドン・キホーテ的異変(?)で、後は多分全部駄目という、駄目でつまんねぇ大人になったという感じがしています。
(以下略)

19 司会(1:11)

【司会】(初め~)
 予定しております時間□□□。(聴き取り不可能。故記述不可能)今日はこれで講演会、終了□□□。
どうも有り難うございました。(拍手)



テキスト化協力:14~19 石川光男さま