1 司会

 いまの山本さんのお話も『経済セックスとジェンダー』のなかに、たいへん多くの方々が加えた問題を出発点にして、さらにそこから理論を詰めていった。そういう性格のものだと了解しています。『経済セックスとジェンダー』という本でありますけど、新評論という本屋さんから出ておりまして、入り口にも積んでありますので、帰りながらでも立ち読みを新評論の編集者からお願いいたします。
 それでは、いまの山本さんの基本的な問題提起を受けまして、これから、性と労働の問題を詰めて考えていきたいと思いますが、それでは、吉本さんからお話をお伺いいたしますけど。それから、もうひとつ、ついでに付け加えておきますが、いま同じく山本さんのお話に出てまいりました「シャドウ・ワーク」という言葉がありますけど、これは申すまでもなくイワン・イリイチの著作のタイトルでもありますけど、これまた、昨年、日本語訳が出ておりますけど、いまの山本さんの問題提起では、イワン・イリイチが『シャドウ・ワーク』の中でもって提起した問題を新しいかたちでもって受け止めたものだと、そう了解をしております。以上、山本さんのお話についての多少のコメントと補足ということで付け加えさせていただきます。
 それでは、吉本さん、お話しいただきますが、いまさら、あえて申し上げるまでもありませんけど、吉本さんは『共同幻想論』以来、国家と性の問題をきわめて鋭角的に提起されてこられたわけです。その後、『共同幻想論』以後の吉本さんの仕事のなかにも様々なかたちでもって出現してきているわけです。みなさんもご承知のとおりだと思います。その上で、近年、吉本さんがイワン・イリイチや、あるいはその他の新しい仕事についての、吉本さんなりのお考えをお持ちであるということを色々な機会に伺っておりまして、この機会にひとつ、『共同幻想論』を出発点とした、これまでの吉本さんの基本的な思考方法、今度はどこへこの問題を展開されていくのかということも含めて伺えればとそう考えた次第であります。それでは、吉本さんよろしくお願いいたします。

2 古典近代モデル

 ただいま紹介にあずかりました吉本です。いま、山本さんのお話を聞いていて、イリイチの思想を山本さんは展開されて、非常に明確に展開されていると僕は理解しておりますけど。共同幻想論というところに入る橋を渡していただくようなお話をしたのですけど、ぼくは自分の現在、関心の深い場所から、イリイチの、今日のテーマである「労働と性」という課題に対して、やっぱり橋を渡してみたらどういうことになるかということをお話してみたいと思ってやってきました。だから、ちょうど、山本さんの問題について、逆のほうから辿っていくというかたちになると思います。そういうことで、うまくイリイチの「性と労働」についての考え方に、うまく到達できて、しかも、うまく接触点と交差点というのが、露出してくればいいというのが、ぼくの願いであるわけです。できるだけうまくやるつもりですけど、やってみないとわからないところがあるので、今日は図表とか、問題点の骨格を書いてきましたから、これに沿いましてやっていこうと思います。
 まず第一に、現在の日本も含めた先進資本主義社会、あるいは、資本主義社会国家ですけど、そういうものを現在というのはどういうふうに理解したらいいのかということを、とにかく前提としてお話してみたいと思うのです。しかも、今日の「労働と性」というところにできるだけ関連がありそうなところで押さえられていたら、話がしやすいような気がするのです。
 これは初めのところに書いておきましたけど、たとえば、マルクスが資本主義の興隆期から、資本主義の発生期から、勃興期から興隆期にわたるところで、近代国家モデルとして、マルクスが考えてきたことを図式化してみますと、いちばん右側にありますように、国家という幻想体が上にありまして、ぼくが最近使った、簡単な○と□とすだれでできているモデルなんですけど、それで単純化してみますと、つまり、モデルですから単純化してみますと、国家というのが幻想の共同体としてありまして、その下部に資本主義社会、いわゆる市民社会というのがある、市民社会において何が問題なのかといいますと、2つ問題がありまして、ひとつは市民社会というものは、ようするに、個人が自由に自分の能力と財力を発揮して、競争していって、そして、それに相応しい生産組織をつくりあげていく、そして、その場合に古典モデルで何が問題かといいますと、ひとつは、そのときに確かに自由な能力に応じた競争でもって、どのようなふうに富をいたすこともできるし、学問にいたすこともできる、知識・教養・文化を身につけることもできるというふうな社会であるといっても、その恩恵にあずからない部分が必ずあると、それはいわば労働者階級であると、つまり、主として生産労働に携わっている労働者階級そのものは、富と能力に応じて自由に競争できる、どこまでもいけるというような、そういうところから初めから労働者階級というのは疎外されている。
 だから、モデルでいいますと、下方に、市民社会の下のほうに、点線の部分で表現するより仕方がない状態に、どうしても労働者階級は置かれると、市民社会の支配層が富めば富むほど、労働者階級というのは貧窮化しているというか、困窮化していると、様々な悪条件にさらされるというのが、マルクスが初期資本主義社会において、マルクスがまず重要に考えたひとつの問題点なわけです。

3 現代モデル

 ところで、現代社会というモデルは、マルクスの古典的に描いたモデルとどこが違うかということを、簡単なモデルでいってみますと、これは二番目に書きましたようなモデルになると思います。これはどういうことかといいますと、ひとつは、国家の市民社会に対する干渉力、あるいは管理力ですね、管理力が非常に膨大になってきつつあるということなんです。
 だから、ほとんどアメリカならアメリカでいえば、40%くらいが、国家が資本主義社会に干渉していると、管理しているというかたちでとらえると、そういうふうに現代モデルをつくる場合に、重要になって、押さえなければならないのはそのことなのですが、国家管理というものが初期資本主義社会、あるいは興隆期の資本主義社会のように、国家がのほほんとしていたら、資本主義は成り立っていかないという状態になっていまして、つまり、国家の管理の度合いが非常に急速に大きくなっているというのが、現代国家におけるモデルのいちばん重要な点です。あとはアメリカでいえば40%ぐらいの国家管理が資本主義社会に対して及んでいます。
 だから、そこでは自由な競争というのが一見できているようにみえて、ほんとうはできていないのです。自由度の40%は明らかに国家が管理、あるいは干渉していますから、自由な個人が自由に能力に応じて自分をのばすこともできる、富をいたすこともできるというモデルは、現在ではそうとう国家の干渉を受けて、相当きつくなっているということはひとついえます。それは、現代のモデルでいえることです。
 それから、もうひとついえることは、それと関連するわけですけど、そうしますと、国家管理で、安定なマルクスで得られた古典期の市民社会のように、市民社会が強固な枠組みをもっていて、そこに強固な市民階級というのがいて、そして、教養も文化も強固に成り立っているし、また、強固な経済システムができあがっていて、それが微動だにしない秩序をつくっているというモデルは、国家管理の重圧のために成り立っていかないという面があります。
 そうしますと、絶えず、国家の管理から噴流を受けているということがいえるわけです。ですから、そこで現代社会における教養主義というもののはかなさというのが感じられてくる。つまり、教養主義というのが個人的には成り立ちます。つまり、能力ある個人とか、そういうことで教養主義も成り立ちますし、古典主義も成り立っているわけです。また、これからも成り立っていきますけど、全体としていった場合、不安定感にさらされて、安定した市民階級とか、安定した市民階級の文化、つまり、ブルジョア文化とか、そういうようなものの形成がきわめて不安定な状態で、絶えず噴流にさらされているということがいえます。
 この噴流にさらされているという様相は、マルクスが考えたような労働者階級というのは、市民社会からつまはじきにますますされていくというモデルで考えますと、労働者階級も絶えず、その噴流にさらされているということがいえます。ですから、労働者階級もまた流動的で、ある場合には、市民層の知識・教養、あるいは、経済レベルのなかに入り込むかと思うと、また、そこからでていくというかたちで、絶えず労働者階級自体も、古典モデルが成り立たないような、絶えず噴流にさらされています。これがいわば、現代社会における、現代社会になってからの労働者階級と市民階級というのが相互に両方とも受けている大きな不安特徴です。つまり、流動性の特徴だっていうふうにモデルをつくることができます。
 それから、今度はそういうところでいくつか特徴を言わなくちゃいけないのですけど、それはもうひとつ現代モデルでいえるとすれば、寡占的なとか、複占的なといいますか、少数ではありますけど、複数である大きな企業というものが、価格構成力ができるということが非常に重要なことなのです。
 つまり、価格というのは非常に現象的な言い方をしますと、原料費と商品をつくるのに要した費用と、つまり、労賃とか含めて、そういうものを足したものに利潤をプラスすれば、ある価格がでてくるということになるのですけど、現代社会において、重要なもうひとつの要素は、少数の複数の大企業、大きな企業というものは連合して話し合いをすれば、自分たちで人為的な価格がつくれるということなのです。それで、人為的な価格をつくる力が所持できたということなのです。それから、その力がありうることが相当あきらかになってきた。それに対しては、国家というものの管理が及ばない。つまり、国家の管理が及ばない要素というのがでてきつつあるというのが、非常に重要な要素だと思います。
 それから、現代社会においてモデルとする場合に、もうひとつ重要なことは、これはイリイチなんかも言っているわけですけど、消費に該当するわけですけど、ぼくはこのモデルですればいちばんわかりやすいのは、イメージをつくる産業なのです。つまり、情報産業とか、広告・宣伝とか、デザインとか、つまり、イメージをつくって、実質上の商品に対してイメージを付け加えて売るというような、そういう産業がそれ自体として、そうとう大きな量で、発生してきて、また、展開しているということが、非常に重要な要素だと思います。
 ですから、実質的な商品の価格というものとは、イメージが付け加わった部分だけ増えていくということがありまして、それが非常に重要な要素だっていうことがいえます。そうすると、どういうことがあるかといいますと、本来ならある商品というのは、化粧品なら化粧品でいいのですけど、化粧品は粗雑な容れ物と中身さえあればよい、それにたとえば、イメージでもって包装をきれいにする。それから、容器をきれいにする、金をかけるかたちで、価格が高くなりますから、高くなった分というのは、まったく資本主義が現在になって発達したための、資本主義の必然悪みたいなものとして、イメージ産業とか、イメージ文化とか、そういうものが商品に付け加えられる価値というのは、理解せられるということがいえるわけです。
 つまり、そういうことが、資本主義が発達したことの要素でもありますけど、同時に資本主義の必然悪として、どうしても出てくるんだというような、第三次産業なら第三次産業、あるいは、第四次産業として、それが出てくるということ、それは、高度資本主義の必然悪みたいなものとして出てくるという理解の仕方が成り立ちます。
 少なくとも、要点として、この3つのことを押さえていますと、現在社会のモデルがつくれるわけです。それから、マルクスが描いた、古典社会における労働者社会及び市民社会と、それから国家の関係というものにおけるモデルがどういうふうに修正すれば通用するかということの要点というものは、それで掴むことができます。

4 現在モデル

 もうひとつ、今度は現在というものをどこから、日本でいえば、これはたとえば戦後から踏んだほうがいいと思うんですけど、つまり、どこから踏むかは別にしまして、現在というもののモデルはどうやってつくれるかということになってきます。そうすると、ほぼ同じことになるわけですけど、しかし、さらに問題の点はいくつかあります。
 ひとつは、労働者階級のほとんどの部分が市民社会のなかに入り込んできているということがいえるわけです。つまり、入り込んできているということは、重要な特徴になってきます。そのことは様々な問題を提起しているとぼくは考えます。これは非常に重要なことなんだと考えます。
 そうしますと、たとえば、このモデルでいいますと、労働者階級というものが、あるいは、全般的にいって生産・労働社会、生産・労働社会が市民社会の半分まで入り込んでいると、そして、それは国家管理というのは増える一方ですから、先進資本主義社会では増える一方ですから、そうしておいて、国家管理からくる噴流といいますか、噴射というのを絶えず受け取っていると、しかも、もうひとつの特徴である労働者階級というものは、市民社会の中に入り込んでいる度合いというのは、ほとんど大部分が入り込んでいると、つまり、マルクスがいう意味での、明日、食事が食べられないんだという意味あいでの、労働者階級の貧窮性というものを想定する場合には、非常に少数がそういうふうになっているというのが全体としてはいえます。大部分がそういう意味あいでは市民社会の中に入り込んで、同時に市民社会というのは、もうすでに古典時代と違って、枠組みというものをとれなくなっていくと、つまり、市民社会としての枠組みというものは、もはや明瞭に輪郭をたどることがほとんどできないと、だから、絶えず噴流にさらされていると、そして、噴流のなかに、労働者階級というのの大部分が入り込んできて、噴流のなかに巻き込まれている。あるいは、巻き込んでいる状態が現在モデルをとる場合に、非常に重要な点だと思います。
 そうして、たとえば図面でいって、半分まで生産・労働社会というものが半分まで市民社会のなかに入り込んでいるとすれば、そういうモデルがつくれるとすれば、ここではもはや生産ということで、さっき山本さんのイリイチもそうですけど、つまり、生産ということで、労働問題、あるいは経済問題、あるいは文化問題というものを考えることと、それから、消費という概念で、使うんだと、使うという概念で労働とか、文化とかいうものを、あるいは、日常生活というものを考えても、同じ、等価だということになります。つまり、50%まで、生産・労働社会が市民社会のなかに入り込んでいるモデルというものを成り立たせていると考えれば、そうすれば、50%ですから、生産として社会を考えても消費として社会を考えても同じだ。つまり、等価だということになります。
 それはたぶん、この現在モデルというものは、たぶん非常にラジカルで前衛的な経済学者、それから思想家というものが、もはや生産ではない、消費の問題なんだというふうに、現在いっていることの僕なりの言い方での根拠だというふうに考えます。つまり、これが50%、60%を占めてしまったら、もはや生産という概念で、社会全体を捉まえようということは無意味であるというモデルになってきます。少なくとも、50%まで生産・労働社会が市民社会のなかに入ってきていると、つまり、入り込んできているというイメージが可能だとすれば、そこでは生産ということで、さまざまな労働問題、さまざまな文化問題を考えることと、それから、消費という概念で考えることとは、まったく等価の、イコールになってきます。そういうモデルをつくりますと、現在の先進資本主義社会国家のモデルというのは非常にわかりやすいというふうに考えます。
 そうしますと、現代モデルから現在モデルに転換するに際して、いくつかの修正点を必要とします。ひとつは、イメージ産業とか、広告宣伝とか、あるいは、情報産業とか、そういうふうに言われた、いってみれば、具体的な対象的生産物をつくって、それを再生産する産業じゃない産業です。それが非常に肥大化してきたということは、悪と考えても、善と考えても、同じだということになっちゃうのです。つまり、等価だということになっちゃうのです。資本主義の必然悪というふうに考えても、資本主義の必然善ということはないでしょうけど、つまり、そう考えても、少なくても等価だ、倫理的には等価なんだということがいえるということになります。
 そうすると、具体的にどういうことになりますかといいますと、その例がいちばんやりやすいから言いますと、宣伝・広告・コマーシャルみたいなものの現在におけるあり方を見ていきますと、商品をよく売れるようにという意味あいの宣伝・広告というのは、もちろんございます。現在でもあります。しかし、みなさんよく注意してご覧になればわかるように、こういう宣伝・コマーシャルというのは、商品のイメージダウンのためにやっているコマーシャルじゃないかと思われるほど、商品を売る売らないかということと、宣伝、あるいは広告、あるいはイメージというものが、商品についてのイメージの付け加え方がまったくマイナスの価値を付け加えているんじゃないかとか、あるいは、こんな宣伝・広告をしたって、商品と関係ないじゃないかと思われるような、かなり高度な宣伝・広告というのが現在でてきていることは、みなさんきっとテレビなんかご覧になるとすぐにおわかりになると思います。つまり、相変わらずこの商品はいいよという宣伝をしているコマーシャルもありますけど、そんなこととは全然関係ないイメージをあれしているコマーシャルもあります。逆にいえば、商品なんか売る売らないはどうでもいいと思っているんじゃないかというような、そういう宣伝・広告も出現していることがわかります。
 つまり、そのことは何を意味しているかといいますと、宣伝・広告産業というものは資本主義の必然悪として考えられるという段階から、すでに必然悪と考えようと、そうじゃない、これは資本主義の必然進展といいますか、展開と考えても、それは同じことなんだ。だから、これは悪と考えようと、善と考えようと、同じことなんだ。また、コマーシャルの内部でいえば、悪のコマーシャルをしようが、善のコマーシャルをしようが、商品の販売性にはそんなに関係がないのだ。むしろ、悪のコマーシャルをしたほうが、この会社は相当ゆとりがあるんだと、この商品を売る会社はこんな宣伝をしているぐらいだから、相当ゆとりがあるに違いないというので、かえって買うかもしれないということがありうるわけなんです。それほどまでに、宣伝・広告それ自体のなかに、すでに悪であるか、善であるか、これは資本主義の必然悪であるか、必然善であるかという問題を無化してしまうような問題というものが、現在モデルとしてでてきているということが、ひとつ重要なことだと思います。
 それから、もうひとつ重要なことなんですけど、これは漠然とした予感でも、あるいは、勘でも、どうでもいいんですけど、たぶん、みなさんのなかに本音を吐けばちゃんとあると思うのですけど、なにかどうも資本主義社会が変えねばならないみたいに言われていたそういうものと、資本主義社会というのがどこか違うところに入ろうとしているんじゃないか、あるいは、資本主義社会というのを、いままでのイメージで、古典的なイメージで捉えられない何か、そういう地平線といいますか、水平線といいますか、境界線というのがどこかに見えてきたんじゃないかというような漠然とした勘とか、予感みたいなものは、たぶん、みなさんのなかにもあると思いますけど、たぶん、ぼくは先進資本主義国が、現在、当面している問題というのは、どうもそこの問題じゃないかというふうに思います。
 つまり、なにか知らないけど、地平線か、水平線かが、みえてきていると、その先にあるものは未知であると、しかし、何かその先にあるんだけどわからない、その未知であるというのは、その境界線といいますか、水平線といいますか、それはおぼろげながらみえてきているというようなことが、みなさんのなかでも、たぶん、あるんじゃないかなという気がするのです。
 その問題に対して、一定の形を与えている思想家というのは、ぼくらみたいな無知な、あまり知らない人間にも、いくぶんか目につくわけですけど、今日のイリイチという人はあきらかにそのひとりなわけです。その境界線がどこでくるかということを、山本さんが先ほど説明されておられたように、交通の問題とか、学校の問題とか、医療の問題とか、そういうものを基軸にして、これは具体的にいうと、つまらないものを具体例にしていると思うけど、ほんとうはそうじゃなくて、これはかなりその3つというのは本質的な掴み方なのですけど、つまり、そこで限界点があるということが、あきらかに限界点があると、それ以上いったら意味がないとか、それ以上いったら逆に不利であるという境界線というのは引けるようになったということです。
 だから、その後がまた問題になるところですけど、それだから、もはや引き返すべきだという考え方の人もいるわけですし、あまり、引き返すか、引き返さないかということは、問題はまた別なんだという、ぼくらのような考え方の人もいるわけですし、そこはまた様々な問題で、そこまでいくといけないのですけど、ただ境界線が見えてきたといいますか、ある地平線がみえてきたという漠然とした予感、資本主義はたぶんそういう未知の段階にいま入りつつあるなといいましょうか、そういう予感というのは、相当、確実にあるんじゃないかと思います。その問題は現在モデルのなかで非常に重要な問題だというふうに思われるわけです。
 そうしますと、そこでさまざまなことを言いたいのですけど、そこは今日の問題とはまた違いますから、それは別としまして、いま言いましたような3つのモデルの段階というのを考えて、そして、現在のモデルというものを、みなさんがつかんでいってくださると、たいへんイリイチの問題に非常に近づきやすいわけですし、また、ぼくらのもっている問題意識が、イリイチの問題意識に、「労働と性」について近づいていくときに、非常に近づきやすいので、とにかく、そういう簡単なモデルなのですけど、そのモデルをお話しておきました。

5 分業(労働の分割)の起源

 今日の問題の本論に入っていくわけですけど、つまり、「労働と性」ということについて、ぼくらはマルクスにたいへん大きな影響を受けて、じぶんの考え方を展開してきているわけですけど、たとえば、マルクスにおける「労働と性」の問題というものは、どういう考え方がせられているかというお話をしていきたいと思います。そのお話をしていく途中で、もし皆さんがイリイチの思想について堪能、よく知っておられるなら、イリイチの考え方とここが重なるとか、ここが影の部分だとか、ここが重ならないなということをお考えになりながら聞いていただければ、非常にありがたいというふうに思います。
 イリイチが労働の分割ということで言っている、つまり、分業ということですけど、マルクス的な考え方で分業というものを考えていく場合に、どういうことが始めに出てくるかといいますと、分業の起源ということがでてきます。分業の起源はどこにあるかという考え方がまず問題になります。
 分業の起源というものは、まず第一に性的な行為における男女の分業ということが分業の起源であるという考え方になります。どうしてもそういうことになります。男と女が身体的に、あるいは生理的に分担せざるをえないもの、それから、その分担によって生じてくる幻想性、そういうようなものが、分業というもの、あるいは労働の分割の根本にあるものだという考え方がどうしてもはじめにでてきます。この考え方はマルクス自身が展開はしていないですけど、言及していることです。エンゲルスも別な言い方で言及しているところがあります。
 それから、もうひとつの分業、あるいは労働の分担というのは、起こりうる可能性というのはどこにあるのか、それは自然素質だということです。それは体力であるとか、体力の違いであるとか、それから、病気がちであるとか、あるいは、もし男性と女性が、体力の違いがあるとすれば、そういう自然素質の違いですね。それから、個々の人間でいえば、個々の人間の欲望の仕方の違いというようなもの、そういうような、いわば、相対的にいえば、自然素質による分業というものが必然的に生まれざるをえない。これが分業の起源であるというふうな言い方をしています。
 もちろん、もうひとつ付け加えますと、様々な偶然の分業というのはありうると、つまり、様々なおまえはこれやれよっていう、おれはこれやるからというような、つまり、その場その場で偶然におこなわれる分業というものも考えられる。そういうことが自然素質によるもの、それから、性行為における男女の分担といいますか、分担というものが、とにかく分業の起源に該当するものだという考え方に当然なっていきます。
 この分業の起源という考え方が成り立ちうるのは、少なくとも原始時代とか、その次の段階であるアジア的な段階とか、それから、古代的というと多少違ってくるわけですけど、つまり、未開とか、原始とか、アジア的という段階では、たぶん、性行為における男女の分業という概念、それから、自然素質による仕事の分割という概念が、たぶん相当程度、一般的な社会のあり方を占めていたじゃないかというふうに想定することができます。その段階では、性行為における男女の分業とか、それから、自然素質による分業の仕方というものが、ひとりでに行われたといいましょうか、ひとりでに自然に行われた段階というふうに、想定することができると思います。
 歴史時代というものは、こういう自然素質的に、あるいは男女の性行為における分業というような概念がどこか段々と片隅に、あるいは影の部分に押しやられているように、人間の歴史時代というのは展開してきているということが確かなわけです。もし、起源とか、発生という概念が、分業あるいは労働の分割という概念のなかで重要だとすれば、やはり、歴史時代以前の、あるいは、古代以前の社会のあり方というものにあるひとつの典型的モデルを求めるということは、ある意味で非常に当然であるように思われます。そこが、イリイチがしきりに求めようとしているモデルに近いんじゃないかなというふうに、ぼくらの概念からいくと、そういうふうに理解することができます。
 ですから、ここらへんのところの、ある意味でイリイチの考え方と、どこかで接触しているなと、ぼく自身は思います。ですけど、どこが接触しているなという問題に入ることなしに、接触線というものをおぼろげながら感じながら、次のところの段階にいくとします。

6 現実の分業

 そうすると、現実社会でのほんとうの意味での労働の分割というものが始まったのは、どういうふうに始まったかといいますと、それは、精神労働というものと、それから、肉体労働というものが、それが分割したときに、はじめて、経済社会的な概念のなかに、あるいは、現実社会の流通とか、生産とかという概念のなかに分業というものがはじめて導入されたわけです。はじめて発生されたというふうになります。
 現実の、産業化社会というふうにイリイチが言っている、そういう産業化社会における労働の分割、あるいは分業というものの起源というものをたどっていくと、どこにあるかといいますと、それはある精神労働と肉体労働との分割、あるいは分業ということが根本にあるというのが、ぼくらの考え方の基本になる考え方です。
 そうしますと、どういうことが生まれてくるかといいますと、これはイリイチに一時的に離れてしまうのですけど、そうすると、どういうことになるかといいますと、精神労働とそれから肉体労働というものが分割されるというふうになると、どういうことになるかといいますと、これはみなさんが個々の内面の中に、自分の中にそれを考えて、自分が部屋掃除しているときと、それから、なにか勉強しているときとかいうふうに、自分の中で考えられても、非常にわかりやすいと思うのですけど、あるいは、家庭内で考えられてもわかりやすいと思うのですけど、ようするに、もっぱら肉体を動かさないことを専門にするといいますか、ことを自分の能とする人間と、それから、コマネズミのように働くばっかりのことを能とする人間とか、それから、なにか物事を考えているのだけど、考えてばかりいるのだけど、外から見ると、ぐだぐだしていて、寝っ転がってぐうたら一日中しているというような人とかいうふうに、それぞれ分かれるということがあるでしょう。つまり、家族の中でも分かれるということがありうるでしょう。それは社会の中でもありうるということが、精神労働と物質労働を分割した非常に重要な問題なのです。
 そうすると、いまの言い方をもっと押し進めていくと、たとえば、家族の中でも、子供で、おれは遊ぶこと専門という子供もいますし、それから、働くこと専門という、つまり、山本さんの言われた「生産男」というのもいますし、それから、家事労働ばかりしている「生産女性」、あるいは家事人の妻という、シャドウ・ワークの妻という、そういう人も、もっぱらそればかりとなってくることが考えられるわけです。
 それから、もっぱら金儲けばかりするやつがいるかとおもうと、それから、もっぱら働いているんだけど金は減る一方というそういう人も出てくるという、社会的にも出てくる。つまり、それは階級の発生なわけですけど、つまり、いま言いました、精神労働と物質労働との分割ということが、意外に多方面な問題を提起するということがわかります。
 この内面性でいえば、どうも働くのは嫌だという、つまり、遊んでいるのが好きだという、遊ぶの専門という人もおりますし、また、働くの専門というわけじゃないですけど、必然的にそうなってくる人もいるわけですし、また、個々の人間の内部の、おれは5日間働いたから、あとは遊ぶことを専門にするよというやり方というのも成り立ちうるというより、そもそもそういうような区別・差別というもののあり方というものが成り立つ根本のところは、労働の分割、しかも、それは精神労働と肉体労働の分離、分割、分業ということが行われたということが、根本的な本質的な理由だというふうに、ぼくらの考え方からしていると、そういうふうになっていくわけなのです。
 これはきっと、イリイチの考え方と違和感をもよおす部分と、それから、非常に多く交差する部分と両方があると思います。両方があるということをはっきりさせようということは、今日のぼくのお話の非常に重要な眼目なんです。つまり、それができればいいというぐらい重要な眼目なので、そういうことをお考えになってくださるとよろしいと思います。
 そうしますと、もっぱら別な言い方をしますと、もっぱら生産ばかりしている人と、もっぱら消費ばかりしている人と、それが分かれていくということもあります。これは個々の人間の内面にもありますし、夫婦の間でもありますし、もちろん、共同社会の中でも、それはありうるわけです。もっぱら消費専門とか、遊ぶこと専門いう者と、もっぱら働くこと専門というような、そういう者との分岐の仕方というものは、自己内面的にもありますし、もちろん、家族性の中でもありますし、また、共同社会の中で、生産社会の中でもありうるということです。つまり、その大元がそういう問題になっていきます。
 こういう問題が個々の人間のなかであるのか、せいぜい家族の中であったならば、あいつは働くこと専門とか、おれは消費すること専門、おれは遊ぶの専門というのが、たとえば、家族の中にいたとしても、あんまり文句が出ないで、自然的に許されているということが成り立っていることがあるでしょう。たまには文句が出るけど、それは仕方がないのだというようなことで成り立って許容されるというもの、しかし、これが社会全体となって、あいつは遊ぶこと専門、あいつは消費すること専門、おれは働くこと専門と、こういうふうになってきますと、これは許されないという問題が出てくるわけです。これは、怨嗟、怨恨としてもでてきますし、また、いわばマルクスの階級性としても、階級的同一性としてもでてくるわけです。これは許されんと、おれは働く専門で、あっちは遊ぶ専門で、消費する専門で、これは許されないという概念は、社会的にも、共同的にも出てくるわけです。
 せいぜいこれが許されるのは、家族、あるいは自分の内部で、許されるだけであって、つまり、遊んでばかりいるときの自分と、働いてばかりいるときの自分というのを、自分では許しているわけです。それから、家族の中でも、働く専門の親父さんと、遊ぶ専門の子どもというのがいたって、親父さんがおまえ遊んでばかりいてけしからんとは、経済的には言わないわけです。それは許されているわけです。それは、家族というのは、いわば自然性からくる信頼感を基盤にしていますから、それは許されるわけです。
 その許され方というのは、現代家族においては、だんだんそうでなくなってきて、あの野郎けしからんと、家族内でそういうことが起こってきます。それはなぜかといいますと、現代社会だと家族の、山本さんの先ほど言われたシャドウ・ワークのあり方自体にさえも、そこに電気洗濯機が入り込んだとか、つまり、様々な近代文明社会の、技術社会の生産物というのは、家族労働のなかにも入ってきていますから、家族というのを固有の紐帯としてつくることが非常にむずかしくなって、枠組みの、社会全体の噴流のなかに、全部巻き込まれてしまう契機が非常に大きくなって、これが家族の崩壊、解体の現在のモデルになるわけですけど、そういうふうになってきていますから、そうなってくれば、親父であろうと、細君であろうと、子供であろうと、許しちゃおけねえ、つまり、あいつは遊んでばかりいてけしからんとなって、場合によっては金属バットで殺しちゃうという、殴っちゃうというふうに、相互にそういうふうになりつつあるというのが、現在の情況なわけです。
 その問題の根底というのを探っていきますと、それは、精神労働と肉体労働が分業したところに起源が置かれるという考え方が、ぼくらのとってきた考え方なのです。この精神労働と肉体労働とが分業した、分立したというのはどこかといえば、それは資本主義社会というものが成立して、はじめて社会的に問題となるくらいの大きさで、大規模な問題として出てきたという考え方をとるわけです。

7 分業(労働の分割)の現在性

 今度はそういうところから分業というものの現在におけるあり方、精神労働と物質労働、あるいは肉体労働との分離、分業というものを近代以降の問題、つまり、資本主義社会が起こって以降の問題の、非常に根本的な問題というふうに抑えるとしますと、そうすると、現在というものは、現在における分業のあり方というものは、どういうふうになっているだろうかということを考えるのが、次の段階の考え方になっていきます。
 その考え方をとっていきますと、ここにいくつか要点をあげておきましたけど、この要点に従って申し上げていきますと、精神労働というものと、それから肉体労働、あるいは物質労働といいましょうか、そういうものとの分離しつつ混合している、あるいは、無茶苦茶になりつつある、たとえば、この例はあまりよくはないのですけど、たとえば、典型的にアルバイト学生というのを想定しますと、アルバイト学生というのは、以前だったら小遣い稼ぎというかたちでアルバイトをして、それを映画行って使っちゃうみたいな、そういうことも成り立ちえたわけでしょうけど、たとえば、現在では必然的にアルバイトをしなければ、学費も得られない。経済的には、それだけじゃなくて、アルバイトすることが、ほんとうは学校で勉強するのと少なくとも同等、あるいは、それ以上の精神的な糧になっているみたいな、そういう精神労働と肉体労働と両方混合しながらやっているという、アルバイトを、それをしかも必然的にやっている一人のアルバイト学生というイメージを思い浮かべてくださって、このアルバイト学生というのが社会全体だというようなイメージをとってくださると、言っている意味がわかりやすく、理解していただけるんだと思います。
 現在においては、精神労働と肉体労働との分裂、分離という、近代社会以降の問題というものが、漠然とまた再び混合、混和され、あるいは、混乱されつつあるということが、ひとつ社会的な、全体的な現象としていえるのではないかというふうに思われます。
 そういうことがよく言われる素人性というような、素人が通用しちゃうという、昨日までどこかでカラオケを歌っていた人がピックアップされたら、あんまり専門家とたいしてレベルが違わなくて、ピックアップされて、オーディションかなにか受けたら、翌日からでもないのでしょうけど、とにかくプロの歌手になっちゃったとか、つまり、素人の作曲家が作曲したものがプロとして通用しちゃったとかいう現象がある部分では非常に多いでしょう。つまり、こういう素人と玄人の専門家とそうじゃないものの区別というのは、非常に大きなものもあります。
 たとえば、お相撲さんの世界みたいなものは、つまり、素人の横綱と専門の横綱といったら比べものにならないわけです。格差がありますから、違いがありますから、素人の横綱が相撲界に入ったら横綱になっちゃったということは、まずほとんどありえないということがありますけど、そうじゃないある分野では、素人とそうじゃない専門家といわれている人の区別がつかなくなったということがありうるでしょう。
 それから、文化でもありうるでしょう。つまり、古典主義的な文化・教養としての音楽性みたいなものとそうじゃなくてポップ的な音楽性みたいなものとが、もはや混合して区別がつかなくなっちゃっているみたいな、そういう問題というのは、しばしば現在的な特徴として見出されるわけです。
 この問題は、さまざまな面で全部一様にそれを見つけ出してピックアップすることができます。そういう一種の素人の時代と素人性みたいなものがでてきたということ自体が、すでに精神労働と肉体労働との根本的な分離・境界というものが強固になって、精神労働と物質労働、あるいは肉体労働との分岐というものは、必然的に都市と農村との分離ということを地域性、あるいは土地性としては前提としているわけです。または、同一となっているわけです。
 ところで現在、都市と農村との分離じゃなくて、また混合性みたいな、混和性みたいなものが出てきているということは、ひとつありうると思います。つまり、農村の都市化というようなことがありうるかと思うと、都市が農村部に侵入してきてということが現在ありうるんだということはあると思います。
 それから、もうひとつは、都市と人工都市との分離性ということがありうると思います。つまり、人工都市というものは、近代以後の発生概念からいいますと、都市というものは、精神労働と肉体労働とが分岐したときにはじめて、肉体労働をもっぱらという者と、それから、多少なりとも精神労働をもっぱらという者が地域的に集団をつくりまして、それがいわば都市と農村というものの分離を非常に大きく促進した要素であるわけですけど、そういう意味あいでいいますと、たとえば、現在の都市というのではなくて、逆に今度は消費とか、消費専門センターといいましょうか、集会みたいなものが、集団みたいなものが先にそれをつくっておいて、その周りに人を集めてしまうというような、いわば人工的な都市というものが、現在ではポツリポツリと出現するということがひとつあるということがあります。日本でもさまざま埋め立てられたところで人工的な都市というものがつくられていると思います。
 人工的な都市というのはどういうふうにつくられるかといいますと、まず、消費センターとか、商品の販売センターというものが先にそこにできてしまいまして、その後に、マンションとかアパートとかいうものをつくる、それで、その後から募集してそこに入る人をいれるというような、それでそこが都市ができ、学校ができというふうなかたちで、人工的につくられるというかたちが、現在、日本でもいくらかずつ出てきていると思いますけど、そういうようなものもまた、根本的にいいますと、精神労働と肉体労働といいますか、物質労働というものの、近代以降の分離のされ方があるひとつの別の、なにか言うことができないとしても、なにか別の転回点に立ちつつあることの大きな象徴だというふうに考えることができるだろうと思います。これは分業という概念が男女の労働と、それから性というものに、どういう徹底的な影響を及ぼしたものなのかということについての説明になります。つまり、お話になります。

8 マルクスの考え方

 これこそ、今日のテーマであるイリイチのテーマに、本論のところに近づいてくるわけです。ぼくらもそういう考え方ととってきたわけですけど、これはイリイチの考え方と同じ、あるいは、イリイチがもしかするとマルクスの影響を受けたのかもしれないなと思えるのですけど、非常に同致される部分と、そうじゃない部分とがあります。これは非常に微妙に交叉すると思います。
 ぼくらがとってきた考え方というもののお話をしてみます。なぜ、生産、とくに19世紀以降の資本主義社会が起こってから以降もそうですけど、なぜ、男女の性別というものが、労働生産過程において、なぜ無視することができるかという、それをどういうふうに考えるかということなわけです。
 例をあげますと、ひとつはこういうことなのです。たとえば、太郎、次郎、花子という兄弟なら兄弟がいたと、兄妹じゃなくてもいいです。これは、男性、男性、女性でもいいわけです。つまり、太郎、次郎、花子という三人がいたと、三人がそれぞれ別の生産労働に携わっていたと、ところが、太郎は30日働いたと、労働日は30日だったと、それで次郎は労働日は20日だったと、花子は労働日が10日だったと、そういう割合を保っているとすると、そうしますと、太郎、次郎、花子は、それぞれの生産の場でつくった生産物があります。生産物の価格というものは、価格の変動というものは、様々ありうるわけですけど、この労働日の30日、20日、10日という、3:2:1という割合で価格変動するということには変わりないという考え方をとるわけです。
 ですから、労働日、あるいは労働時間ということの問題が、非常に重要なのであって、どういう生産物をつくったか、あるいは、どういう質の労働を加えたかということは、そういう差異というのはあったとしても大したことがないという考え方がマルクスの考え方ですし、ぼくらがとってきた考え方です。
 この割合は変わらないと、そうすると、生産物の価格というのは、生産物の価値の、銭による、つまり、貨幣による表現の事を価格というふうに、こっちの概念では厳密にいうとそう言うわけなのですけど、この価格の変動というものは、労働日が30日、20日、10日であったとすれば、ある一般的な社会的な現象の中で、価格変動が起こったとすれば、その価格変動の割合はやっぱり3:2:1の割合で変動するだろうと、そうだとすれば、花子が作ったものだからどうだとか、次郎が作ったものだからどうだとか、太郎が作ったものだからどうだとかいうことには、意味がないという考え方だと思います。あんまり、それは意味がないのだと、影響を及ぼさないのだという考え方をとります。
 これは、労働の生産物は、花子が作ったのは花瓶であり、それから、次郎が作ったのは農産物であるとか、太郎はまた別のものだということとは、全然かかわりないですし、また、どういう質の労働かということとも関わりないわけです。とにかく、労働日が30日、20日、10日という、この労働日の割合が保たれているかぎりは、男が作ろうと、女が生産しようと、生産物の価格変動、あるいは相対的価値、生産物の価値の変動には関わりないということ、つまり、同じ割合で変動するから、3:2:1で変動するから、生産労働において男女の差別をつくるということには意味がないのだ、あったとしても、それほど大きな意味あいはないのだという考え方をとります。
 こういう考え方が、つまり、イリイチ、山本さんの考え方からいうと、ものすごく批判に値するわけです。だからこそ、こんなことを許しておいたからこそ、こういう社会になっちゃったんだと、こういう社会というのは様々な意味あいがありますけど、つまり、こういうにっちもさっちもいかないような社会になっちゃったんだという考え方は、イリイチのなかで根本的な考え方です。
 それは置いといて、とにかく、そこが、イリイチがいう、産業化社会において男女の性別が無視されて、中性的、全部、生産者として中性化されてしまう、あるいはユニセックス化されてしまうと、それからまた、生産社会過程に入ってくると、女性もまた中性化するという、必然的にいかざるをえないというような、そういうふうになってしまうという根本的な原因というものは、マルクスはそういう言い方で同じ問題をそういう言い方で言っています。
 根本的にはそういう言い方をしているということが、お考えくださると、そうするとイリイチの考え方が非常に考えやすいと思います。つまり、アッとこの人はこういうふうに言っているということの、つまり、他の人がどういうふうに言っていることに相当するのだろうかということが非常にわかりやすいだろうというふうに思います。

9 男女の労働の差異はなぜ無視できるとみなすか

 いま申し上げました、太郎であろうが、次郎であろうが、花子であろうが、つまり、男であろうが、年少の男であろうが、女性であろうが、それは変わりないんだ、つまり、生産物の価値、あるいは、価格の変動の仕方というものに対しては、あまり関係ないんだという、そういう言い方が成り立ちうるのは、太郎と次郎と花子が同じ生産物の競り合い社会のなかにあるということを前提としていえるわけで、これが全然関係なかったら初めから競り合いもなにもないというところであれされていたら、そんなことは関わりも何もないということなのです。つまり、花子さんが家の中で寝子の靴下を10日間編んでいたかどうかということとあまり関係がない。同一の生産社会、生産過程における競り合いのなかにあると仮定した場合に、いま言ったように、男女の区別ということは、生産・労働の場合にも関係ないし、もちろん、体力も関係ないし、性も関係ないし、全然関係ないことです。ただ、労働日の割合だけが関係ありますよと、生産物の価値に関係がありますよという考え方をとるわけです。
 それから、もうひとつ、そのような男女の性的区別というものは関係ないと、生産社会において関係ないというふうに考えるには、いくつかの大きな前提がもちろん存在しているわけです。ひとつは、近代社会、つまり、資本主義社会以降であるということが前提なのですけど、そのことはどういうことかというと、つまり、極度に分業化されていると、あるいは、機械化されているといっても、ある意味ではいいのですけど、極度に分業が発達していて、極端になっているために、個々の労働の質的な違いというものは、近似的にはみんな同じだと、どういう部門で、どういう生産物で、たとえばネジを作っていようと、あるいは、ボルトを作っていようと、ナットを作っていようと、それはとにかくボルトを作っているから質が上等だとか、ナットを作っている人は上等じゃないんだとかいうふうに、労働の質とかなんとかを区別することはほとんどいらないと、あまりに極度に近代社会において、分業化が発達しているために、個々の労働の質の区別をつけることには、そんなに意味がないんだというようなことが大前提になっていると思います。
 それから、もうひとつは、これはほんとうは具体的にいうと必ずしもそうじゃないのですけど、また、そうでないということをいわば復活させようという考え方がイリイチの考え方だと思いますけど、近似的にいいますと、労働によって作られた商品、あるいは生産物というものの価値というものに関係があるのは、ようするに、労働量だけであって、どういう質であるかとか、作ったやつが怠け者だったかとか、勤勉だったかとか、そういうこととは一切関係ないのだと、あるいは、関係あるとしても無視できるほどの関係しかないんだということが前提となっています。
 ですから、太郎さんの一労働時間、たとえば、1時間労働した労働と、それから、花子さんが1時間労働した労働とは違うわけなんですけど、逆に今度は言いまして、一単位の労働時間の太郎さんと一労働時間の花子さんとは同じなんだということなんです。つまり、太郎さんが1時間働いたのと、花子さんが1時間働いたのとは、とにかく違うのですけど、逆に一単位の労働時間の太郎さんと一単位の労働時間の花子さんは区別しなくてもいい、つまり、別のもんだと考えなくていいという考え方を根本的にとっております。ほんとうは違いますけど、違っても大した違いにはならないんだという考え方を、つまり、言うに足る違いにはならないという考え方をとるわけです。
 ここにも書いてありますけど、きわめて常識的に考えますと、労働する人の太郎さんの年齢と体力、それから、花子さんの年齢と体力、それから、男であるか女であるか、それから、花子さんが勤勉であり、太郎さんが怠け者であることとは、さまざまそういうことというのは、具体的にいいますと、労働に、あるいは、生産物に様々な相違を生みだします。つまり、太郎さんが1時間で作れるものを、花子さんは30分で作っちゃうということがありうるわけですし、様々なニュアンスで違いが具体的にはありうるわけですけど、もし、労働生産物に付け加えられる、自ら生みだされる価値というものが、生産物の価値、あるいは、価格というものが、労働量だけに依存するのであって、労働の質には関係ないんだというふうにみなせるという前提をとるならば、体力の違いであるとか、勤勉であるか、怠け者であるか、それから、女性であるか、男性であるかということの区別の差異、違いというものは、せいぜいたくさん差異があったとしても、それは全体的にいえば、無視するに足りうるものだ、あるいは、質的に違いがあったとしても、量的には無視することができるものだという考え方を前提としてとるわけです。

10 男女の労働の差異はなぜ現在とりあげるべきか(イリイチの見解)

 そうしますと、今度はイリイチの問題に入っていくわけですけど、イリイチなんかがしきりに提起している問題に入っていくわけですけど、イリイチの考え方によれば、どうしてそれじゃあ改めて、つまり、近代社会から現代の社会、あるいは、現在の社会に至るまで、あるいは、それを経済機構の発達の過程からいえば、資本主義の発生期から現在における興隆期、あるいは、一種の停滞期といいましょうか、それに至る人類の歴史のなかで、一様に生産労働社会においては、男女の違いなんていうのは無視してもいいのだと、それから、男女はまた逆にいいますと、生産社会に入ってくるかぎりは、男であるとか、女であるとかではなくて、ユニセックス的に、あるいは、性別なんてないところに、必然的に入らざるをえなくなってきたと、なぜ今どき、つまり、現在の資本主義社会の一種の停滞期といいますか、停滞しつつ成長するといいましょうか、停滞成長期において、どうして改めて、労働における、あるいは生産過程における性という問題を、どうして改めて取り上げなければならないのかというものは、イリイチの非常に根本的な問題意識だと思います。
 イリイチの考え方をその面でだけ申し上げますと、こういうふうに、資本主義の発生期から現在における停滞成長期に至る歴史過程で、つまり、19世紀から、現在の20世紀を終わらんとしている、後半の時期までの、百何十年の間ですけど、その間に資本主義が発生期からとにかく興隆期を経て、そして、一種の停滞成長期に入っていると、この間、すべての期間を通じて、完全にそれが成立していた、生産過程、あるいは労働過程における男女の差別、あるいは区別というのは、なしていいんだということを、あるいは、必然的になしになっちゃうんだという、マルクスが理論的に解明しているわけですけど、なしになっちゃうんだというあり方が改めて現在、停滞成長期の先進資本主義社会でどうしてそれが改めて取り上げなければならないかという問題なのですけど、それに対するイリイチの考え方というのは、いくつかあると思います。
 ひとつは、そうは言いながら、そういう生産社会過程において、女性というものは、男性の賃金の半分くらいしかもらっていないということがあるわけです。これはここにもあげてありますけど、これは僕のデータではなくて、イリイチのデータです。イリイチが言っていますけど、まず、アメリカの女性をあれしていますけど、アメリカの女性の年収入の中央値をとってきますと、その中央値は、現在も、それから100年前の、つまり、資本主義の発生期、あるいは興隆期においても、男性の59%ぐらいです。こういうことは一世紀経っても変わってないと言っているわけです。理論的建前として、生産・労働社会では男女の区別なんかないんだという、また必然的になくなっちゃうんだという、無視していいんだというふうになってきながら、しかし、実質上、男性と女性と賃労働における収入を比べたら一世紀前も現在も男性の収入の59%しかないというデータをあげています。ぼくはこれを確認したわけでもないけど、このデータはたぶん相当正確なんじゃないかというふうに思われます。だから、それはおかしいじゃないかということが第一にイリイチの根本的な問題意識のなかにあると思います。

11 シャドウ・ワークの問題

 それからもうひとつ、たくさんあると思いますけど、重要なイリイチの問題意識のなかには、これは先ほど山本さんも言われました、イリイチがシャドウ・ワークと言っているものです。つまり、影の労働といいましょうか、典型的な主婦の家庭労働といいましょうか、家事労働みたいになるのですけど、この家事労働というのは賃金なんかをもらっていないわけです。
 この賃金なんかをもらっていない家事労働をしている女性がいて、家事労働を主体とするシャドウ・ワーク、影の仕事というものは、資本主義が発達すればするほど増えていくという考え方をイリイチはとっているわけです。それで、家事労働を典型的な一例とするシャドウ・ワークといいますか、影の労働、つまり、賃金を支払われない労働というものの割合は、ますます増えていく一方だということなのです。
 そうだったら生産・労働社会における労働だけを問題にして、賃金が支払われない労働というのを問題にしないのはおかしいじゃないかということなのです。つまり、それはおかしいじゃないかということになります。これは先ほど山本さんが説明されていますけど、マルクスの概念でいえば、シャドウ・ワーク、家事労働というものは、亭主、つまり、社会生産過程に入っていく男の生活を再生産するために家事労働というのはちゃんと加味されていると、亭主の生産力を再生産するために、労働力を再生産するためにちゃんと主婦の家事労働の価値は付け加えられているから、これは言ってみれば、亭主の賃労働のなかに含まれているという考え方をとります。
 もしそれで、亭主の賃金が低いというならば、つまり、主婦の家事労働も含まれるような賃金なんかもらっていないというならば、それは資本主義が悪いんだ、つまり、それは資本主義社会が悪いんだ、つまり、社会のメカニズムの問題であって、決して家事労働だから、ようするに、賃金が支払われないということじゃないのだ、家事労働は旦那の生産社会における賃労働のなかに、あるいは、労働力の価値のなかにちゃんと本来的に入っていると、入っているだけの給付を受けていないとすれば、給付をしてくれない資本主義社会の欠陥になるのだという考え方をとるわけです。
 ところで、この考え方はいいように僕は思うのですけど、いいように思うというと全然お話にならないので、つまり、イリイチと交叉することができないので、ぼくがいいように思うのは間違いじゃないかというふうに思われることをいくつかあげますと、そんなことを言ったって、男性も家事労働をしていると、女性が生産社会に労働に出かける、こういう例も少なくとも女性と同等程度にあるのだったら、これはいいじゃないかという、つまり、これは資本主義社会のメカニズムの問題であって、支払われない労働はどうということはないんだと、改めて言うことないじゃないかということになるのですけど、これも具体的に実際的にいいますと、現在、家事労働に従事している女性のパーセントは圧倒的に多いだろうというふうに思います。
 これはやがてはそうじゃなくなって、50%50%になるかもしれません。そうなってくると、その根本的なシャドウ・ワークの、問題にしなければならない根本的な理由のひとつは解消するわけです。つまり、50%50%家事労働に男性と女性が従事するという社会がやってきた場合には、少なくとも、女性に対する支払われないじゃないか、不当じゃないかという根拠は消滅していくと思います。

12 消費を主体に考えた場合のシャドウ・ワーク

 だけど、もうひとつあるわけです。これはイリイチが言っているわけじゃなくて、ぼくがイリイチのために橋を架けたいわけなのですけど、それは、マルクスが分析していることはある意味で正しいだろう、少なくとも、ぼくは主観的に正しいだろうということに加担したいわけですけど、根本的には正しいだろうということに加担したいわけですけど、しかし、マルクスが、その考え方が通用するのは、たぶん資本主義社会の発生期から興隆期までのところしか通用しないんじゃないか、つまり、現代社会、あるいは、現在資本主義社会においては通用しないものがあるんじゃないかというふうに、こういうふうに橋を架けてみたいと思います。
 そうすると、その橋を架けるとすると、どこが通用しないのかといいますと、先ほど言いましたように現在社会のモデルをもってくると、生産という概念と消費という概念がイコールだ、どちらで考えたって同じことだよというふうに、つまり、交換可能だよというふうに、現在の資本主義社会は地平線といいますか、境界線というものが見えてきているように思うのです。つまり、境界線を基準として考えるならば、これを、消費50%、生産50%というふうになった場合に、生産という考え方を基準にしようと、消費という考え方を基準にしようと、それは等価じゃないか、そのことは非常に大きな、現在からこれから以降の先進資本主義社会の展開過程においては、非常に重要な意味あいをもつんじゃないかというふうに思われるわけです。
 そうしますと、当然、消費という概念からしますと、家事労働というものは典型的な消費の大なるものというふうになっていくわけです。しかも、これはイリイチが非常に緻密にあげているわけですけど、たとえば、昔ならば、主婦というのは、玉子屋さんから買ってきて亭主に食わせるという場合に、それはフライパンで目玉焼きを作って食わせる場合もあるでしょうけど、そのままお醤油でもかけて、亭主のほうもそうやって食べるということがありえたけども、いまもありうるかもしれないけど、たとえば、いまの主婦は卵をなんとかあれして、それに何々を入れて、加工して、つくって、ハイッというふうに、つまり、加工する過程で、家庭製品になっている、技術社会で生みだされる技術的な製品というものの手段として使う、様々な技術的な高度な手段を使って、料理を作るみたいなことは、必然的に負わされる、そうすると、これはまったく消費過程の典型的なものであるにもかかわらず、その中で、機械というか、技術製品が使われ、料理自体の価値付加をやっているじゃないかという、こういう矛盾というものが、非常に高度になっていくということはありうるわけです。
 つまり、消費ということを主体にして考えた場合に、シャドウ・ワークといわれている、主として女性が現在のところ担っている家事労働みたいなもののウェイト、あるいは、そのほか付加的なシャドウ・ワークと言われているものの増大していく割合というものに対して、どこかで根本的な考察を加えなければダメなんじゃないかというのが、イリイチの問題意識として出てきていると思います。ぼくがマルクスなんかの考え方で、橋を架け渡せると考えるところをみると、だいたい、そういうところが最終の橋を架けられるところじゃないかというふうに思われるのです。

13 先進資本主義社会の境界線

 ここでもってイリイチの問題意識に接近するために、もう少し付け加えますと、現在の先進的な資本主義社会というのは、どういうふうになっているのだろうかということなんですけど、さきほど、価格構成が人為的にできるということ、その価格構成を人為的にできて、それは国家の管理の範疇をはみ出すという過程がますます増えていくだろうということ、これが非常に大きな問題のひとつなんですけど。
 もうひとつは、おぼろげながら、先ほど水平線といいますか、境界線が見えるというふうに申し上げましたけど、その境界線の象徴的イメージをあげてみますと、現在ではたぶん、こういうことが、ある生産社会における、ある生産分野では、なんのためにこんなにたくさんの物を生産しなくちゃならないのか、なんのためにこれだけ労働費用を使って生産物をたくさん作らなければならないのかということの目的意識性といいますか、少なくとも、目的意識性は、すこぶる曖昧になっている分野がありうるということなのです。出てきたんじゃないかということなのです。
 もちろん、資本家のほうは、企業家のほうは、それで儲けるんだという一種の衝動が、あるいは、大きくなるんだという衝動があるかもしれないけど、少なくとも、働いている人の、つまり、労働者のほうからみると、なんでこんなにたくさんこんなものを作らなくちゃならないのだろうか、たくさん作ったら、その割合で賃金が増えるかというとそうでもない、なんで、こんなたくさんの膨大なものを作らなくちゃならないんだろうかというような、つまり、作っていることの目的性というものがデカダンスになっている、そういう産業分野というものがあるんじゃないかというふうな、出てきているんじゃないかと思います。
 だから、そこの生産分野では、すでに境界線というか、むこうの地平線が見えていると思います。それ以上、生産を拡大していくことは意味があんまりないんじゃないかということが、だんだん本格的にデカダンスになってきて、資本家のほうもデカダンスになってきて、労働者もデカダンスになってくるということが、ある産業分野では出てきているんじゃないかということがあるわけです。
 そうしますと、もうそういうところでは、生産を主体に社会を考察しても、消費を主体に社会を考察しても同じことだ、むしろ、消費を主体に社会を考察したほうがずっと建設的だという考え方が出てくることは、たぶん、そこのところでありうると思います。これはマルクスの考え方を、ぼくらが延長して考えてみたとしてもありうるわけです。そういう考え方が成り立ちうるわけです。ですから、そこでたぶん、イリイチの問題意識は、かなりな部分、正当だといいますか、非常に鋭い大きな問題意識なんじゃないかということはいえるとぼくは思います。

14 家族の崩壊現象

 それから、もうひとつ重要なことなのですけど、これは、現在における家族というものの崩壊現象というのが一様に存在するわけです。それは、どうして存在しうるかということは、いくつかの理由があります。
 根本的ないくつかの理由をあげてみますと、ひとつは先ほど言いましたように、みなさんがマルクス主義を真似ようと、そうじゃないものを真似ようと、国家、近代社会というものに対する一定のイメージをもっておられると思いますけど、それのイメージと、考えられているより、はるかに違っていますよというふうにいえることは、先ほど言いましたように、国家の資本主義社会、あるいは、市民社会に対する干渉の度合いといいますか、管理の度合いというのは、ほとんど50%、アメリカなんかは四十何パーセントだと思いますけど、50%近くなっているわけなのです。
 この国家管理というのは、みなさんが意識されないでしょうけど、国家が相当な程度、人為的な呼吸作用をちゃんと資本主義社会に対して、ちゃんと与えているのです。それは眼に見えないですから、みなさん、漠然と直観するとか、部分的な現象でそれを判断される以外にないわけですけど、あるいは、実感することしかないわけですけど、ほんとはかなりな程度大きな人工的な呼吸作用をみなさんの生活に与えているということがあります。この呼吸作用から及ぼされる、みなさんが住んでいるこの社会でも、管理的な呼吸作用をさんざんやられていることがたくさんある、しかし、それを個々の職場を取り上げても仕方がないので根本的なことだけいえば、先進資本主義国の国家の管理の度合いというのは半分近いくらい、つまり、半分超えたら社会主義国ですけど、現代の社会主義国ですけど、それに近いくらいで、国家の管理というのが人為的に呼吸作用を営なませていますから、みなさんが影響を受けていることは、みなさんがおれは受けてねえと言ったって、それは通用しないので、あるということ、そのことの大きさというのは、たぶん、みなさんが抱いているどんなイメージともたぶん違うと思います。つまり、もっとそれはあるんですよということがあるのです。
 それは相当、先ほど言いましたように、市民社会というのを絶えず流動しているわけです。つまり、自分は上層市民だとか、中産階級だといって、昔だったらかなり安定した教養と、安定した教育を受けて、安定した生活を営んでいるということがありえたでしょうけど、いまはかなり上層の市民階級でも、たぶん、いつでも生活的にも、精神的にも不安で、いつでも噴流を受けていると思います。いつでも、どうなるかわからないみたいなものを受けているというふうに理解します。
 これは逆に労働者社会も同じで、あいつらはいいことして、おれたちはダメなら、ぶっ壊しちゃえばいいんだというふうに、転覆しちゃえばいいんだというふうに、資本主義の発生期か興隆期には、それでいちよううまくいっていたのですけど、たぶん、いまは労働者階級というものも市民社会のなかに半分近くまで浮上しているものですから、絶えず噴流を受けていますし、また、意識としてはそういうデータが出ることもありますけど、中産階級の意識をもっているというふうになります。
 なぜもつかというと、もつのは当然であって、古典的なモデルでは測れないほど、市民社会のなかに、労働者階級というものも、噴流として入ってきてしまっていますから、だから、中産階級の意識、中層の市民社会にいるという意識というものを、自分ももつのだけど、しかし、絶えず流動にさらされているという、絶えず、不定形な労働者になりうるんじゃないかとか、絶えず失業するんじゃないかとか、うちの会社が倒産するんじゃないかとか、絶えずそういう意味合いでは、いつでもどん底の、市民社会から完全に疎外された階級、その場所にいきうるというような、そういうところで、しかし、市民社会のなかに組み込まれながら、絶えず噴流を繰り返していると思います。そのことは、家庭、家というものの崩壊の大きな要因になっているだろうと思います。
 それから、もうひとつは、ぼくの言葉でいえば対幻想の崩壊なんです。つまり、夫婦がダメになるということなのですけど、それはやっぱり亭主が生産社会に出て、主婦が家事労働をするということを想定してもそうなのですけど、つまり、亭主の労働日、あるいは労働時間というのは、資本主義が発達すればするほど低下していきます。だから、週休二日制というのにだんだんなっていく。
 それから、それが週休三日制にもだんだんなっていくかもしれないというように、それは技術の発達ということと、それから、もうひとつは、生産社会における地平線が見えているということと、つまり、なぜそれほど生産しなければならないかというモチーフはすこぶる怪しくなっている分野があるという、そういうことも加味される。しきりに労働日が減少する一方であるということ、それから、主婦の家事労働というものは、便利になりますから、主婦の家事労働の時間というのはかなりな程度短縮される、短縮された短縮時間というものをどういうふうに使用するかという問題が起こってきます。
 それから、女性が職場に入ってきても、職場にどんどんどんどん進出してきても、男性50%になるまでは進出していくだろうと思われますけど、その過程で、先ほど言いましたように、女性の中性化といいましょうか、ユニセックス化といいましょうか、そういうものは、必然的に生産社会に進出すればするほど促進されますから、家族ということが、本来的にイリイチのいうように理想的な性ということを考えますと、これは、家族というものは、共同社会でも、それから、個人とも、まったく違った位相に閉じられているということ、つまり、強固に閉じられているという形が、家族における理想像なのですけど、たぶん、それがいま言いました要因から、様々な噴流と影響を受けているということが、現在の家族というものの崩壊にさらされている、非常に根本的な原因なんじゃないかというふうに思われます。

15 イリイチのモデル

 そういうふうに考えていきますと、つまり、マルクス的な考え方、つまり、ぼくらが考えてきた考え方から、イリイチの問題意識にかぎりなく近づくということができるかどうかわからないのですけど、これからの問題はわからないのですけど、ある程度、問題意識に近づけていって、そこで様々な対話がなされたり、また、対立がなされたりということの、少なくとも接触点、交叉点というものは非常に可能なんじゃないか、イリイチの、なぜ、現在の「労働と性」について、改めて問われなければならないか、あるいは、改めて、「性」ということが問われなければならないかという問題意識が大きな重要な問題だということは、ぼくらがとってきた考え方からしても、考えうる大きな要素だと思われます。
 そういうふうに考えて、イリイチの、ぼくらが使っている○、□によって、イリイチの現代社会のモデルを、ぼくなりに翻案してみれば、こういうことになります。つまり、消費社会と生産社会というものが半々ぐらいになっていると、半々ぐらい労働者階級というものは市民社会のなかに浮き上がってきていると、このモデルは、イリイチはそういう言い方で言っているわけじゃありませんけど、たぶんそのモデルについては同じだと思います。つまり、ぼくらの考え方と同じモデルじゃないかなと推察することができます。
 それから、どこが違うかといいますと、労働・生産社会、あるいは労働者階級というふうに言われているものを、もっと細分化してみれば、賃労働が支払われている生産社会と、それから、賃労働が支払われていない労働社会と、その2つに分けられるんだということが、イリイチの問題意識です。
 しかも、支払われない労働社会に携わっているのは、主として現在までのところ女性であるということです。これからはわかりませんけど、これからは男性も半々ぐらいで50%50%ぐらいになるかもわかりませんけど、少なくとも、現在のところ、大部分が、女性が支払われていない労働社会を占めているということ、それがイリイチのモデルの特徴だと思います。
 それから、もうひとつの大きなモデルの違いがあります。それはイリイチが性ということはどういうふうに貫徹しなければならないのかというと、イリイチはとにかく、赤い点線で真っ二つに上から下へ引いてありますけど、つまり、性というのはそういうふうに国家を貫徹し、社会を貫徹し、それはどういう社会になろうと、国家を貫徹し、社会を貫徹して、真っ二つに貫徹していなくちゃ少なくともいけない、つまり、50%が男性だとすれば、50%は女性、それは国家においてもそうだと、それから、社会においてもそうだと、消費社会においても生産社会においてもそうだという問題意識がイリイチの問題意識だろうと思います。
 イリイチという思想家は大きな思想家だとぼくは思います。イリイチの思想の全貌について言及するには、いまこの場所は、ぼくに与えられたテーマはふさわしくないのですけど、ただ、今日のテーマに即して、イリイチのモデルをじぶんのモデルとできるだけ近づけていくとすれば、描くとすればそういうことになると言っているだけで、イリイチがこれだけの思想家だと言っているのではないのです。非常に重要な思想家です。そして、ある部分は、ぼく自身はある部分はたいへん批判的です。ぼくらと逆になります。反原発とか、逆になるところはあります。ぼくらはそうじゃないんじゃないかというふうに言いたいところはたくさんありまして、それから、非常に多方面の思想家だということは、やはり境界線といいますか、先進資本主義が到達していく境界線のむこうに何があるのか、ぼくらはむこうに何があるか、むこうにどういうモデルを描くべきかという、そういう考え方をとるわけですけど、たぶん、イリイチはもうすでに境界線が見えたと、そこから、ある意味では引き返そうじゃないかっていう、大雑把にそう言っちゃいけないのですけど、大雑把にいわせますと、そこから引き返そうじゃないかという考え方が割合に強いと思います。
 ぼくらはそうじゃなくて、到達点の地平線のむこう側にあると、そこでどういうモデルが国家に描けるかというのが勝負だと、勝負というのはおかしいですけど、それが問題なんだという問題意識をもちますから、大雑把にいうと、いろんなことを言わなくちゃいけないのですけど、しかし、非常に地平線が見えているという問題を、これほど明瞭な意識でどこが限界かという押さえ方をしている思想家というのは、現存ではなかなか珍しいと思います。そんなにいないと思います。
 だから、そういう意味で大きな思想家で、そんなに簡単な人じゃないのですけど、今日の問題意識に即しまして、つまり、「労働と性」という問題意識に即しまして、しかも、ぼくのモデル並みに卑小化して申し上げますと、今日、申し上げましたようなところが、たぶん接触点になり、たぶん交叉点になるということになるのではないかというふうに思われます。今日お話しましたことが、何かこれから考えていく場合の参考に供せられたら、ぼくは、それでよろしいので、それ以上の意図は、もともとイリイチのほうが主催でして、ぼくにはそれ以上のあれはないので、それが非常にわかりやすく出ていって、いささかでも参考に供せられたら、非常に満足であるというような結論です。(会場拍手)

16 司会

 たいへんありがとうございました。熱演でして、偉大な思想家というのは、こういうふうに語るのかと、これはイリイチの場合と同じような印象でありますが、ありがとうございました。ところで、再三申しましたように、いまの山本哲士さんの問題提起と、それから、吉本さんのいまのお話を踏まえてパネル討論ということにしたいのですが、時間も少し経っておりますので、休憩ということに致しますが、休憩を致します前に、「フォーラム・人類の希望」、イリイチフォーラムと申しましたけど、正確には「フォーラム・人類の希望」と申しますが、フォーラムのほうからトドフカフミヒコ運営委員長がご挨拶申し上げたいと思います。

17 主催者挨拶

 今年度の「フォーラム人類の希望」の運営委員長を務めさせていただいております。…このなかに詳しく書いていまして…、私たちはもともとはイリイチフォーラムという名前でスタートいたしましたけど、みなさんのお話にありましたようにイリイチの問題提起を受けながら、ともに語り合っていく、そういった公開の場をつくっていきたいということで、その後「フォーラム人類の希望」という名前に変えて、過去3回にわたってシンポジウムをやってまいりました。今日おみえになっている方にも、過去のシンポジウムの討論に参加していただいた方も多いんじゃないかと思います。ささやかな試みでありますけど、偉大な思想家イリイチというのを解きほぐして受け止め、そして、問題を深めていく、そういった場として、あるときはシンポジウムを通して、あるときは様々なセミナーを通して、これからもやっていきたいと思います。
 そこでぜひみなさん方にお願いしたいことがございます。私たちの会は決して閉じられた会じゃございません。そのしおりの3ページに書いてありますように…、これからの準備をしていきたいと思っています。そのためにぜひ今日の会に来られた方のなかで、まだフォーラムの強力会員になっていない方は、ぜひフォーラムレターの購読者になっていただきたい、そのために、フォーラムの申込書ならびに…よろしくお願いいたします。また、あわせてアンケートをぜひ帰りに提出して渡していただきたいと思います。それから、フォーラムの事務局のほうからぜひ伝えていただきたいということで、お詫びが一点あります、と申しますのは、フォーラムのほうで最初に予定しておりました今回のシンポジウムではじつはこの後にパネル討論会に関して、「歴史の中の性と女性」ということで、宮田さん、安永さん、お二人の方にもご参加いただいて、パネル討論を予定しておりましたが、ご覧のように…繰り上げいたしまして、いずれまた、4月、5月あたりに、第三部といたしまして、性と労働を問うとしていきたいと思います。本日はたくさんの方にお越しいただきまして、この後1時間の…どうもありがとうございました。

18 司会

 講演を受けまして、時間の許すかぎりディスカッションをしたいと思っておりますが、これまで考えられてこられた、吉本理論と、イリイチ理論というのが、どこで相関点をもつかという問題が、問題に関心をもつ非常に多くの人間の共通の関心であろうかと思います。一度、イリイチさんと吉本さんとの…。かつてミシェル・フーコーが日本に来ましたときに、フーコーと吉本さんと、公の場所ではなく…、ああいう場所が、今後どこかで設定できるのではないかというか、夢をもっておりますけど。それはさておきまして、それでは、河野信子さんから、これまでの問題提起、あるいは報告に関して、コメントと書いてありますが、お考えを伺うことにしたいと思います。河野さんはこれまでもいわゆる吉本論を含めて、さまざまに現代社会の問題、あるいは女性と性の問題に関して発言をしてきておりまして、今日は再三申しましたとおり、九州からこのために無理においでいただいたものであります。

19 コメント(河野信子)

 私は女性たちが現代社会の鍵を握っていますが、どこの鍵を外せばいいかというのを、10年ぐらい言い続けたわけですが、その問題をここでまとめるとなりますと、非常に抽象的になりますので、九州のひとつの例を出すことで、どこで引き返す、Uターンするそういう可能性がどこにあるのかということを考えるためのひとつの素材を提出したいと思います。
 といいますのは、対馬なのですが、対馬というのはご存じだと思いますが、対馬の○○に浅茅湾というのがあります。そこで行われています、いますといっても、最終回が昭和28年、1953年ですので、クジラとイルカ獲りの話をします。
 それでクジラ、イルカというのは、クジラのほうが多かったのですが、日本近海からクジラがかなり減りまして、どうも最後のほうはだんだんイルカのほうに近づいていったようですが、イルカは食用になるイルカのほうでありまして、イルカもたくさん種類があるようですが、そのクジラ、イルカを獲る際に、どういうことが行われているかということを話して、そこからいわゆる男性と女性の労働の可能性、それから、遊びと労働、祭りと労働というものを、ひとつの共同体がどういう具合に注意深く構成していったかということの材料を提供したいと思います。
 わたくし、どこかに書いたような気もしますし、もうたぶん、ご存じの方はあると思いますが、対馬のイルカ獲りというのは、いつというように決まっておりません、決まるわけがないです、自然が相手ですから、イルカ、クジラがやってきたとき、それを見つけたときに行われるわけです。まったく相手方任せ、クジラ任せ、イルカ任せというふうになるわけです。それを見つけますと、ひとつの部落、ひとつの村で獲ることも許されていません。それから、個人でも見つけた個人が捕まえるなんてことはできませんから、それも許されておりません。浅茅湾一帯の7つの部落、いくつかの部落で話し合いが始まるわけです。その話し合いをはじめて、どういう基準でやるかということが話し合われるわけですけど、これは長年やってきた同じやり方をするわけです。
 まず、村の代表が集まりまして、はだしを選びます。女はだしをそれぞれの部落から選ぶわけです。はだしは必ず女ということになっています。対馬のクジラやイルカを獲る場合には女性でなければならない。ご存じだと思いますが、蛇足だと思いますが付け加えますけど、はだしというのは銛をクジラに打ち込む仕事です。揺れる船の上に乗って、仁王立ちになってクジラに向かって銛を打つ仕事です。その仕事です。クジラに打ち込むその作業が、必ず部落から選出した女性がやるわけです。
 まず湾内にクジラを追い込まなければなりません。それで若い男女がクジラを追い込むわけです。それで追い込んでおいて、完全に湾内がクジラの山、あるいはイルカです、時によって違うわけです。その山になった段階で、いよいよイルカ獲り、クジラ獲りというのが始まるわけです。イルカ獲り、クジラ獲りの日に選ばれた女はだし、これはどうして女性になっているかというのは、民俗学をやっている方々に考えていただきたいと思いますが、女はだしはそれにむかって、近所の人達も、着ている衣類はまったく祭りと同じように正装するわけですけど、これは振袖を着たりとか、そういう正装ではありません。法被とか、着物みたいに決まっておりまして、法被を着て、足袋を履いて、非常に労働用の正装になっています。鉢巻はそれぞれの部落からそれを着けるわけです。そして船の漕ぎ手になるのが、これは男性女性の部落の中央になる人が乗ります。それぞれ選ばれた女のはだしを乗せるわけです。
 それと岸には誰がいるかといいますと、男性たちとそれぞれ見学に集まった部落者たちが集まるわけですが、それは部落の競争になっているわけです。どの部落のはだしが一番に銛を打ち込むかということになっているわけでして、じぶんのそれぞれの部落のはだしを応援して、だけどこれは非常に…、競争で一位になったということになりますので、一位になった部落というのは、一年中鼻が高いといいますか、部落の名誉がかかっているわけです。だから、相当賑やかなものになりまして、まず、銛を打ち込みまして、それを今度は舟を岸のほうに、必ずしも打ち込まれたクジラやイルカが大人しくはしていないので、相当に暴れるわけです。綱を引いていきまして、そして、海岸にいる若い男性たちの青年団みたいなものでしょうか、そこ向かって男性たちが銛を投げるわけです。銛の先に綱がついているので、その綱を女性に投げますと、それを今度は海岸から引き寄せるわけです、男性たちが。なかには、とても海岸で待っておれなくて、水の中に飛び込んでくる男性たちもかなりいるわけです。
 そういう感じで、クジラ獲りというのは、ずーっと年々おこなわれてきまして、そうして最終回がいつまでやったかということを、ほんとに女はだしをやられた何人かに聞きましたら、昭和28年が最後だと、なにも19世紀末の話ではありません。昭和28年が最後でその後はどうしたんだと言ったら、もうあまりクジラも来なくなりましたからということで、クジラとイルカそのものが対馬から消滅してしまった。
 ところが、これに関して、観光案内とか、それから対馬のことに関するいろんな噂話とか、そういったものには、対馬の風俗・風習というものがどういうふうに書かれているかといいますと、なんだか対馬というのは、イルカ獲りを誰がやってどういう具合にやっているかってことはほとんど飛ばしてしまっている。とにかく、獲れたイルカに対して女性がたいへんな権利をもっていて、赤い腰巻をイルカの上に、もしくはクジラの上に、何頭も獲るわけです。部落のかければ、それでそれは女性たちの所有ということになって、誰もそれに対して口出しができないのだと、そういうようにしか書いてありません。対馬のクジラ獲りに対しては、現代社会というものが、現代の情報が何に関心をもっているかというのは、男性と女性が労働の最も最高のものを交換しないように共同体がつくりあげたものではなくて、そういう腰巻を上にかければ、それが女性の所有になるという妙なことになっている。
 なぜ、そういうことになっているかと申しますと、これは集団の女性グループの所有というような部分がひとつあるわけです。ようは何か女性たちは信がいます、何をするにも。個人の所有ではないわけです。ところが、それを個人の所有なのか、誰かお婆さんがやってきて、勝手にそういう具合にすれば、男性といえども口出しできないんという書き方をしていますけど。そうして非常に歪められた情報というものが伝わっておりますが、これはみんなクジラ・イルカを家庭用に消費するわけじゃありませんし、市場に商品として売り出すわけですから、それに対してその金は女たちの労働用のものに使うということ、それと、もうひとつは、分配はまったく誰がどれだけ働いたかが、何時間働いたからとか、どういう華やかな仕事をしたから、たとえば、はだしとして先頭に立ったからたくさん分けるというふうにはしておりません。クジラそのものを分ける場合は、その家の人数によって、どのくらいの食料が必要かということで分けて、そういったかたちで分けるということになっております。
 そうして、対馬といいますところは、共同体がきめ細かなところで、どうやれば…ということを考えておりまして、ご存じだと思いますが、六観音参りというものが成人の儀式としてございます。六観音参りというのは、これは日本政府が禁止しました、軍国主義に入っていく段階で、盆踊りと、それから六観音参りという、金がかかることはやめてしまえ、何の意味もないじゃないかということでやめましたが、この六観音参り、ご存じだと思いますけど、対馬ではこれは車でまわっても2日くらいかかります。六観音を車で一つずつまわろうと思えば、2日かかりますが、だいたい二週間ぐらいかけて、16歳になった全員が、16歳になる者だけ全員、6つの観音をまわります。そういう行事がたしか1月にありまして、これはよほどの病人でないかぎり、参加しないということはないといったかたちで、村々をまわって、そして、東海道あたりに泊まりますけど、その地の青年たちと交流するといったようなことをやっております。
 これを禁止しましたのは、昭和初期の日本政府ですけど、それと盆踊りというのは、非常に金ばかりかかって何のためにやっているかさっぱりわからん、そういったことで禁止してしまいました。だから、現在の日本の成人式なんかとは、比べものにならないほどの歳年の深さというものをもっていまして、これはもちろん、部落が応援して送り出すわけです。帰ってきた場合の各地の報告というものを聞くようにしております。
 それともうひとつは、畑なのですが、対馬は非常に山地の畑というのが多いわけです。そうすると、年がら年中畑にいっているわけじゃなくて、ある期間、畑の近くに小さな小屋を建てて、そうしてそこに、家族の一部分、部落の中で誰かがその小屋に住めばいいような状態で、その山の小屋にその部落で結婚した新婚の夫婦を送り込む、そこでずっと農閑期はそれぞれの小屋の番で、作物の管理をしてもらう、そういう制度があります。
 それともうひとつは、○○の時なんかに見られますような、歌垣という掛け合い歌の伝統というのが非常に長く残っておりまして、これはいまでも50歳以上の人々は、掛け合い歌というものを、じぶんたちはどういう歌とつくって、相手に出させたかというようなことを、時々、記憶を探りながらですけど……。
 ……どうすれば、それぞれの、ジェンダーの問題に関わってくるわけですけど、たとえば、男性が女性の上位にいて、女性が…否定されながら影の部分を構成しているというものではなくて、常に両方の性をどこで輝かせるか、それもただの祭りにぞろぞろ歩いたり、それから労働までお互いに交換しうる、最高の内容をお互いに交換しうる、どういう場合があるかということを考え、それを実際につくっているわけです。
 それから、若い者たちを次の世代として、親そのものを継いでもらうためには、何が必要であるか、たとえば、六観音参りなんかもそのひとつだと思いますけど、何が必要であるかということを十分に考えてきたのだと思うわけです。この六観音参りに対しましては、日本政府のほうがかなり干渉してきたのは、まったく経済的な理由だったのかどうかという問題もありますが、シモーヌ・ヴェイユの話を出して恐縮ですけど、シモーヌ・ヴェイユが『根をもつこと』ということを書いています。『根をもつこと』のなかに、十代で国内旅行をさせるように、『根をもつこと』というのは、これは新しい戦後のフランス社会に対するひとつの提言として書いてくれという要請で書かれたもののなかに、まず10代では、フランス国内を旅行させる、それも観光旅行ではなくて、農村をまわって、そこで行われていることをじっくり相互に交換しあえればいいではないか、20代では世界旅行をというように言っているわけです。その世界旅行ももちろん観光旅行ではありません。それぞれの仕事を通じて、そして、そこで別な地方で行われていることを、じっくり見て帰って、その内容を交換することができればいいのではないかというようなことを言っているわけです。そういったようなこと、それほど大がかりなことというのは、対馬伝統ではできませんけど、それと似たようなことを、すでにずっと長い間、日本政府が禁止するまでの長い間やってきたというような状態がありまして、…かたちで対馬というものは許されたのですが、これは対馬が島だったから、長く残りましたが、この傾向はおそらく日本の各地の農村、あるいは寒村に、かなり根強く残っていたのではないかというように思うわけです。
 さっきのおそらく分業、性的な役割とか、性的な分業という問題が、まったく同じことをやるようになってしまうでしょうし、自然の方向というのは、だんだん変化というものがなくなって、似たようなことをやっていくに違いありませんけど、まったく同じようなことではなくて、何を交換できるか、どういったような内容が交換されるかということ、それはあるいは幻想にすぎないかもしれません。なにも女が一番というか、とにかく、クジラを獲る時の銛を打ち込むのは女でなければならないというのは、それはすべての部族、すべての人間、女性の特性からきたものではなくて、やはりひとつの幻想を交換し合っている幻想からきて定着したものだと思うのです。そういう部分がなければ、やがて精神的な崩壊が次の段階に起こるであろうという予見というのが、村を形づくってきた人々、それをずっと維持してきた長い歴史の中でつかまれてきますというように思います。
 おそらく、そういったものは、現実の法則理論、それだけではなくて、何によって人が生きていくか、生き返っていくか、生き返るひとつの手立てに、どういうものが必要になるかということが考えられて、六観音参りだとか、イルカ・クジラ獲りだとか、それから、山の畑の新婚夫婦を小屋の畑に一年間なりなんなりそこにいてもらうとか、そういったような、そんなことが考え出されたのだと思います。
 おそらく、こういった労働の内部で価値論といったようなものからは、ひとまず出てこないのであろう、価値論というのは、なんとも品の悪いというか、ほんとに気味が悪くて、どういうようにあがこうと、さっきも吉本さんがおっしゃいましたけど、誰が作ろうとどうしようと、どのような呪いをこめようと、どのようにしようと、ひょっとしてどこか影の部分が、その呪いがひょろっと顔を出すかもしれませんけど、まずは社会の表面では、仮にあったとしても、そんなものは表面にはでてこない、すべてがある物差し、ひとつの物差しによってどこまでも人間を追い詰められるであろうということを言ったに違いありませんし、そして、それをそのままの状態で許容するかぎり、男性と女性が幻想を交換し合うことによって、よりそれぞれの内容を高めていく、それぞれにケンカをしたり、分離したり、そして、お互いに無縁だということを宣言しながら、お互いに去っていくのではなくて、なにか内容が高め合っていかれる。そういったものが、おそらく、かつて昭和28年ですか、1953年まで、ひとつの共同体に考えられていた、これは純粋な形でいまに残りましたけど、すべてのことが、村落というものが、なんらかの形でこれを考えていたんじゃないかと思います。
 そういったことにひっかかりながら、ずっと家事の問題とか、女の自立の問題とか、そういったことをずっと考えているわけですけど、話をちょっと飛ばしますが、内容が男性と交換できないまま、家事労働の価値論争というものが、かつて1950年からずっと起こりました、1960年、それから70年代と、そしていま論争の後を振り返ってみますと、1960年までは、なんとなく、○○時代の論争です。家事労働は価値を生むとか、生まないとか…、70年代に入りました論争からは、家事が何をやっているかわからない、とにかく、労働それ自体が世の中にとってプラスなのか、マイナスなのか、どっちかさっぱりわからなくなった。善なのか、悪なのか、善悪そのものもわからなくなったといった感覚の論争だと、70年代からは増えてまいります。おそらく、労働それ自体のデカダンスというのは、家事のなかにも入っていて、懸命に家事をやることがいいことなのか悪いことなのか、掃除をひとつするにも、掃除に対するひとつの文化というものをつくりあげて、やたら磨き上げることによって、この世をマイナスのほうにもっていく可能性、付加を乱発して、あるひとつの平均的な掃除文化みたいなものをつくって、またなくす、そういったものをつくりあげているのではなかろうかということ、そうして、掃除をバタバタしたせいで、世の中はその10倍ぐらいの労働をつぎ込んで、後始末しなくちゃならなくなったというような問題というのをとってきまして、70年代からの家事の論争というものは、善なのか、悪なのか、労働それ自体に対する非常に懐疑的な疑問というのが増えてまいりました。
 おそらく、対馬の例を出しましたが、恐ろしく唐突にみえたでありましょうけど、対馬がもっている、対馬でかつてやられた、おそらく放っておけば自然に崩壊していくであろう部分というものが、今後、なんらかの形で逆戻りするためのひとつの指針になるかどうかという問題でありまして、ひとつの材料として提出させていただきました。たいへん失礼いたしました。(会場拍手)

20 司会

(司会)
 ありがとうございました。知らないことで、女はだしという、クジラに銛を打ち込む、そういう労働が互いの性を輝かすための位置をしめていたという興味深い話がありました。いま河野さんが提起された問題は、ある部分では、先ほどの吉本さんのお話とつながるところ、触れ合うところがあると思います。それぞれ、山本さん及び吉本さんも含めまして、いまのお話を受けたかたちで、お考えをと思うのですが。
 その前に、わたくしのほうから、先ほど吉本さんのお話を伺ったことも含めて、これまでの問題提起といったら大げさですけど、少し私からのコメントさせていただきたいと思います。先ほどの吉本さんのお話の中でありましたように、太郎と次郎と花子が同じ時間を働く、たとえば1時間ずつ働くのは経済的には同一の労働で、本来でいえば同一の賃金が支払われるべき労働であると、つまり、その間には腕力の差であるとか、あるいは男女の差であるとかといったものは、経済学的には、あるいは、経済過程としては無視されると、このような労働が、近代資本主義あるいは、さらには高度産業社会のなかでもって発達しているというようなお話であるわけで、そこから、吉本さんのお話でいえば、現在の私たちの存在と、私たちの労働の状態と非常に複雑じゃないかと思うのですが、なおしかし、今日のお話を伺っていて、同時に解けない疑問がまだあるような気がするのです。つまり、太郎と次郎と花子、それぞれ個々に異なった労働能力と労働意志とそれから異なった特徴をもった人間が労働しているわけであって、これに対して同一の賃金が支払われるというのは、きわめて市民社会と産業社会の形式的論理であるということになりますけど、そうであれば、なぜこの問題を、男と女という問題、つまり、性差の問題として考えなければならないのか、むしろ個々にみんな違うのであるとすれば、たとえば、腕力が強い人間と弱い人間、あるいは、背が高い人間と低い人間と、あるいは、その他、若い人間と若くない人間といった、さまざまな違いがあるわけで、それは労働力の違いであり、同時に生産そのものの、あるいは、労働そのものの違いでもあるわけです。そうした様々な種類の違いがあるにもかかわらず、なぜそこで男と女の問題に、つまり、性の社会的なあり方の違いとして、いまとくにとりわけ重要な問題として浮き上がってきているのかということを解かなければならないという気がします。
 いまの河野さんの話でもそうですが、たとえば、女はだし、銛を打ち込むのは女性でなければならないという、そのことによって、性の違いを労働によってより互いに輝かせるようなシステムというものがあるとするなら、どうしてそれが女性でなければならないのかと、たとえば、それは女性でなくて、何月何日生まれの人間というか、あるいは、背は160cm以上の人間だけとか、逆に150cm以下の人間とか、いろいろなやり方があるわけだけど、なぜこの問題が性の違いとして、つまり、男と女として浮かび上がってきているのかという問題が、なおありうるように思います。
 したがって、ここから先は、私たちもどう物事を進めてみていいかわからないのですけど、そうであるとすれば、今日は時間の都合ということもあり、おそらく、それをおもんばかってお話にならなかったのでありましょうけど、吉本さんが対幻想という概念をされている、そこで議論されている問題があるかと、これは共同幻想論以来、さまざまな形でもって吉本さんも発言されているわけですけど、つまり、男と女という対、これは明白に私たちの感じのなかで対として受け止められているわけです。これに対して、150cm以上と150cm以下というのは対概念ではないし、したがって、対幻想をモデルとする差異にはならないわけですけど、おそらく男と女というのは、全般的に私たちの感じのなかで対としてあらわれる、したがって、社会的には対幻想としてのかたちを構想しているということになると思います。
 そうであれば、おそらく吉本さんが最初に言われました、分業の最も初期的な形としての精神労働と肉体労働という、このふたつも、おそらく分業そのものが非常に早くからあったにしても、精神労働と物質労働、筋肉労働、肉体労働が明白に対の形をとって、資本主義社会、もしくは市民社会のなかでも重要な意味をもつのは、明白に17世紀もしくは18世紀以降の問題であるわけです。そういう言い方をすればデカルト以降のことです。私たちが近代哲学、もしくは近代思想というかたちをとって、精神対肉体とか、物と心とか、物心二元論というようなかたちで問題を立てはじめたとき以来、私たちには明白に精神と肉体というひとつの対、あるいは、その表現としての対幻想というものが擁立していると思います。
 おそらく、生産と消費というのも同じでありまして、たぶん、精神労働と肉体労働というものの区別があるとするならば、生産労働と消費労働というような、分業というものが私たちの感覚のなかに登場してきたわけです。それもやはりひとつの対次元として、ある者が生産し、ある者が使うと、昔、わたし作る人、わたし食べる人というテレビのコマーシャルがあって、あれがひとつの対、あるいは男と女の関係であってもいいわけですけど、対という形をとって実現したのが、おそらく資本主義、もしくは市民社会という社会のなかにおいてであったと、ところが問題は、そのような市民社会、もしくは初期の資本主義社会に、資本主義社会が19世紀以後、従来考えられていた以上の、それとは違った形の展開をすることによって、私たちはかえって、対幻想、あるいは、対関係といったものが、きわめて見にくくなってきてしまっていると、それは吉本さんが語りました対幻想の崩壊と使われましたけど、つまり、男と女という問題に関していえば、いわば、男と女という対幻想というものが、資本主義社会、もしくは高度な産業社会のなかで崩壊していくと、それから、おそらく生産と消費というものが、先ほどの吉本さんの話、あるいは、山本さんの話でもありましたように、等価性、つまり、物が生産からみても消費からみても同じだという、この考え方は、基本的にはやはり高度資本主義社会以後に明白にあらわれてきたものであると、つまり、生産と消費というのがいつも対の関係にあるわけではなく、あるいは、いつも生産と消費とどちらからみても同じなのではなくて、先ほどの話にもありましたように、私たちの社会の歴史のある段階において、登場してきた、きわめて歴史的な命題であるように思います。
 そうなると、男と女という、男女の分業というのは、いってみれば、これは男の労働からみても、女の労働からみても、物事は同じだということになりかねませんけど、実際には、現在の市民社会においては性差別というのはきわめて強固に残っているわけで、それはちょうど、肉体労働と精神労働の区別が曖昧になってきたよりは、まだはるかに問題が残されていると思います。これはよく様々なかたちでいわれているとおりだと思います。
 しかし、どうも私の考えでは、そのような男女の分業といわれるところは、もう何年もすれば、ますます女性の職場進出というものが、この男女賃金差というものがある意味で縮まっていくだろうと、縮まっていくことによって、労働は男からみても、女からみても、同じだということになって、それによって男女の問題が解決するのかというと、そうではないだろうと、むしろ逆に男と女という対幻想が崩壊したところからそういった問題がなおますます深刻になっていくだろうという気がいたします。
 それは生産と消費というものが、私たちにとっては、どちらからみても同じであるということがきわめて重大で複雑な問題を提起しており、あるいは、肉体労働と精神労働がある意味では、非常に似通ったものになっていることに、ちょっと深刻な問題があるのと同じように、ますます、ふたつの間では、かえって男女の賃金がより差が少なくなり、あるいは、男も女も同じ仕事ができるようになればなるほど、問題はかえって隠されていくだろうという気がするわけです。それまでは問題状況を私たちはこれからどう引き渡していくことができるかという局面に立たせられているような気がします。
 先ほど山本さんの提起で問題提起がはじまりまして、様々な角度から議論していただいたわけですけど、残りの時間もわずかになってしまいまして、ほんとうはもう少しゆっくり討論をしたいところですが、みなさん、たいへん情熱的な人でありまして、時間もわずかになってしまいましたけど、これまで議論されたところにもとづきまして、そういう議論とは違うんじゃないかという反論も含めて、意見を伺いたいと思うのですけど、まずは山本さんが、先に問題提起をされて、問題を放り出されたところでございますので、放り出されて返ってきたボールをどう受け止められるか、カーブと考えるか、シュートと考えるか、そういうようなところから、まず山本さんお願いしたいと思うのですが。

21 コメント(山本哲士)

 吉本さんのお話を聞きまして、非常に感じたのですけど、吉本さんと何度か対談をしたりしながら、こちらのあれを受け止めてくださっているという手ごたえみたいなものがございまして、今日はそれがはじめて返ってきたような感じで、それはどこのレベルで返ってきたかとみますと、社会構成体の問題として受け止めてくださって、やはり、資本主義が高度資本主義というかたちで言われるような、吉本さん自身がかなり古典的なタームから戻してくれたといえると思います。
 そのときにやはり消費=生産といわれるような、非常に同感なんですけど、消費=生産といわれるような水準があるわけですが、そのときにもうひとつ問題として登場してくるのは、国家の管理的な性格というものがかなり見えない部分に対して、テコ入れが始まっていると思うのです。というような次元と絡み合って出てきたと思うわけです。
 率直なぼくからの問題なんですが、たとえば、こちらのイリイチモデルであたりますけど、吉本さんに見事にやっていただきました赤い点線で国家までかち割るというような次元があったという、あそこのところなんですが、そのかち割っていくときに、賃労働社会、それから、支払われない労働社会、それから、消費社会というものが、非常に噴流するという言い方を吉本さんがしましたけど、その噴流した時に、非常に特殊な政治形態、あるいは、特殊な象徴的な政治形態というものが、かなりな程度、疎外されていると、そのかなりなレベルで疎外されている象徴的な生活がいわゆる国家の完璧な生活だというかたちで吉本さんがおっしゃられているのです。そのときの象徴的な政治の次元のレベルに男と女の経済ではなくて、文化の質の問題が絡み合っているはずなんです。男と女の文化の性格も見抜いていかなければいけない、そういう水準があるというふうにぼくは考えます。
 そうしますと、男と女の文化の水準というのはどこかといいますと、精神的労働と物質的労働というものが登場してくる、そういった精神的労働と物質的労働が登場してくるような、それをある意味では古典化させてくるような、いわゆる幻想の表出の問題、疎外の問題といいますか、その根源は一体何なのかというような問題のあり方になってくると思うのです。これをもっと別なもので言い換えますと、太郎と次郎と花子の労働日という形であらわれてくるわけですけど、太郎と花子がなぜ労働しなければならなくなったかという、そういったレベルの問題が質的にはいえると思うのです。太郎と花子が労働するというようになった、労働するというようになってしまう文化的な根拠は一体何なのか、そこのところを問い直すことが、やはり吉本さんの言っているように、対幻想、あるいは幻想論の本質のレベルと、それから、高度資本主義との兼ね合いの質の問題になってくるんじゃないかということを僕は考えています。
 吉本さんの思想のあり方としては、高度資本主義は高度資本主義の教えとしてそちらに向いて、本質論は本質論のほうに向いて、アジア的はアジア的なものと、見方を変えるというふうに吉本さんはおっしゃっているわけですけど、どうも男と女の問題を経済の問題から文化の問題に移してきたときに、消費社会というものと労働社会というもの、あるいは、市民社会というものが一様に噴流しはじめていたとき、そこに表出されてはじき出されてくるものは、本質論のレベルから見ていかないと、たぶん、見えない質じゃないかというふうに考えております。そこのところが吉本さんがいちばん接近してほしいというところと、こちらがいちばん接近したいというような次元の問題なのです。
 そうしますと、国家と質が、共同幻想論の水準でおわかりになると思いますけど、共同幻想論をよく読みますと、高い段から対幻想論に移る過程、巫女論とか、○○の問題があるわけですけど、ぼくが見ている限りは、非常に男と女の問題として展開されてきている。共同幻想論を、国家の質をかち割っているのは、男と女なんだ、共同性の象徴の水準を巫女なら巫女というものが性的な対幻想の対象にしてしまう、男と女の質として国家の構造が構成されると、そういった質がかなり現代資本主義社会のなかにおいて、かなりストレートにみえる形で、現出し始めているんじゃないかと考えるわけです。
 ですから、消費の質というのは、おそらく、生産イコールと言った場合には、文化としての資本主義、あるいは文化としての生産と消費という質から捉えだしていけば、そういった問題の捉え方を我々にしいているだろうというふうにいえると思います。
 もうちょっとイリイチのレベルまで落としますと、どういうことかっていいますと、イリイチが現代社会を問題にしたときには、産業革命以降の社会となっている、シャドウ・ワークにも出てくるように、1492年のネグリ派の統一文法という、言語が統一文法あたりから標準化されてくる、国家言語になってきたという、そういう次元になってくるわけです。これはもはやエコノミーの水準じゃなくて、文化の水準でもって、言葉を、統一言語を我々はしゃべっている、日本語という標準言語でしゃべり合うわけですけど、そういった標準言語でしゃべりあうような文化の質のところに産業的な根底があるんだというふうに言っていると思いますし、それから、ミシェル・フーコーなんかをみてみますと、やはり三世紀あたりの教会制度をなくすタイミングのときのサービス制度のあり方というような質として出てくる。おそらく、同じような質で天皇制の国家の発生というような問題で、吉本さんが共同幻想論とおっしゃられているんですね、そういったレベルの質が産業社会、あるいは資本主義社会というものを明らかにしていく、そういう質で語られるんじゃないかというふうに思うわけです。
 そこらへんのところは、これからまだまだ解明していかなければならないと思うのですけど、やっととにかく高度資本主義の質の問題として、かなり交叉点が提示されたというふうにみますし、ここで展開されたことに、ぼくとしては全然異議がないと思いますし、イリイチとの違い、自分でもかなり同質性みたいなものははっきり出てきたと、異質性みたいなものの違いはたぶんやはり本質論といいますか、そこの問題が社会主義国ではなくて、社会主義の質を問うというような、かなり高度な思想のレベルで展開されてくることを期待しているわけです。そこらへんがぼくのほうからの感想であるところで、これから相当真剣に考えていかなければならない問題だというふうに思います。以上でございます。

22 司会

 ありがとうございました。そうとう深刻な問題として提起されまして、吉本さんが先ほどのところで十分展開しきれなかった関係の問題でお話になられたこともあるかと思いますので、河野さんのお話も含めまして、申し上げたところも踏まえて、吉本さんなりのお考えを伺いたいと思うのですけど。

23 コメント(吉本隆明)

 ぼくはもっぱら、「労働と性」という今日のテーマもそうなんですけど、労働における性というのを改めて問題にしなくてはならないという、イリイチの考え方を山本さんは、ずいぶん進めているところがあって、それはぼくらのいままでの考え方からすると非常に虚を突かれる場所のような気がするのです。
 つまり、ぼくらが言い得たのは対幻想という位相、具体的にいえば家族なんですけど、家族という位相の問題をはっきりと共同社会の問題と別な位置のところに強固に導けないとダメじゃないかという問題意識を提出したときには、それほど深刻な意味あいを、ぼくはもたせることができなかったんです。
 深刻な意味あいをもたせることができたとすれば、歴史概念のなかでそれはできているので、対幻想あるいは家族の位相というものを問題にしなければならないということは、歴史的にいうとどういうことかといいますと、原始的な段階、時代から、ぼくらの問題意識でいえばアジア的な段階なんですけど、そこらへんのところで人類が一様に通ってきた社会形態というのがありまして、その社会形態のところの問題を大きく問題にしなければダメなんじゃないかという問題意識を含んでいるので、その形態のところでは、家族というものが、社会形態の主要な家族及び親族ということなんですけど、社会構成の主要な要素を占めていたわけで、その占めていた箇所での様々な問題、河野さんの言われた問題もそうですけど、そういう問題というのは非常にはっきり踏まえられなければならないというような、問題意識まではあったのですけど、現在における先進的な資本主義社会で、いま現在みたいに成長と停滞とが同時にやってきている。あるいは、発展と停滞といいますか、それが一緒にやってきている資本主義の現在の段階で、それは改めて問題にされなければならないということは、ぼくらの考え方では虚を突かれるというか、非常に新鮮な問題意識のように思えたわけです。
 それで、ぼくらの対応の仕方はお話したところでも、かろうじて対応しているのであって、ぼくらの考え方は国家の問題だ、つまり、先進資本主義社会の問題というのは、資本主義という意味あいをもっと抽象的な意味合いを含めますと、現在の世界史で通じている大きな問題はたぶん国家の問題だろうという、つまり、国家が開けるかどうかという、そういう問題じゃないかという問題意識が、ぼくのなかには第一義的なといいますか、第一級の問題としてありまして、それから、高度資本主義がこれから展開して地平線、あるいは水平線といいますか、その境界線が見え始めたところではじめて、ぼくの問題意識ではマルクスの思想というのは、はじめて問われるだろうというのは、ぼくなんかの問題意識です。
 そこのときにはじめて、その向こう側に何があるのか、どういうモデルが理想形態で描けるかとか、そういうところではじめてマルクスの思想というのは試金石でさらされるだろうと、だから、現在初めて、先進資本主義社会のなかで、はじめて試金石にさらされているというのが、ぼくらの根本的な現在に対する問題意識なのです。
 これは現在、伝承している社会主義国家というものの問題ではないわけなのです。あるいは、マルクス主義の問題ではないのです。つまり、ぼくらがマルクス主義という場合には、マルクスの思想のロシア的な展開の仕方というのをマルクス主義というふうに明瞭に考えて、ぼくらは使っているので、マルクスの考え方を自分は現在あれしていると言っているからマルクス主義ではないので、マルクスの思想とマルクス主義とは、まるで違うことです。
 しいて類縁づけるとすれば、ぼくらのいうマルクスの思想のロシア的展開と考えているものは、むしろエンゲルスの思想のロシア的展開というふうに考えたほうがいいくらいなので、それはずいぶん違うことで、そういうふうに先進資本主義国が、これから水平線の彼方で、どういうふうになっていくんだという問題を問う場合には、現代の社会主義国というのは、全然問題にならないというふうに理解しているわけです。だから、そういう問題じゃないと考えています。
 それとはまるで別だという、それがそれぞれのポイントであって、それからやっぱり、国家という問題だろうなというのが、ぼくらの、現在の先進資本主義が当面している問題のなかでも、いちばん大きな問題意識で、この性といいますか、男性と女性の問題は、ぼくらはアプローチしきれないです。つまり、虚を突かれる問題意識でして、だから、今日もおっかなくてしょうがないです(会場笑)。山本さん、あるいは、河野さんも、ほんとうはそうじゃないかもしれないですけど、やっぱり、知識的ですから、そういうところから入って、普遍的に説明しているからあれだけど、そうじゃなくて、おまえどうしているんだと、おまえ日常どうだと、こういうふうにやったら泣き往生で、心配していたという、それは虚を突かれる問題意識だということが非常に明瞭にいえるということしかないです。
 それから、今日、河野さんの言われたことで、関連していえば、ぼくが多少の関心をもってあれしてきた琉球・沖縄というところでは、古代というのは、口分田制度つきで、2、30年前までそうやってきたところというのはあるのですけど、口分田制度とか、班田収授、つまり、班田制というのをひいて、2、30年前までそうやってきたところというのはあるのですけど、そういうところでも、口分田、つまり、この男性が60歳なら60歳、50歳なら50歳で死んじゃったから、あるいは、50歳になったから、この田んぼを取り上げて、これを何歳以上になった人間がいるから、そこに分け与えるみたいな、そういう班田収授法みたいな、あるいは口分田法みたいなのがあるわけです。
 その場合に、部落、あるいは村落の口分田を、最終的に管理するのは、女性なわけです。むこうでいえば、根神とか、根の人、根人というわけですけど、そういう部落の大元の家と、それから枝分かれしたような家族があるわけですけど、そのなかの娘でしょうか、長女でしょうか、厳密にいえば。長女というものは村落の祭祀を司るわけですけど、同時に口分田の配布に際しては、管理責任というのはそういう女性にあるわけなんです。その女性の管理のもとに、あるところに田んぼを分けるか、回収するかということが、司る場合に、そういうふうに女性が相当大きな管理責任も負わされてたとか、少なくとも数十年前までは存在したわけです。
 そうすると、その存在の仕方というのは何かということがあるわけですけど、それは今日いう「労働と性」という場合の女性の本質的なあり方、あるいは、理想的なあり方を象徴するもののひとつと数えられる面と、それからもうひとつは、どうもそこも日本国というのは、折れ曲がっているような気がするのですけど、それは、西と東に分ければ、西のほうの地域での、古くからの一種の母権制といいますか、母系制といいますか、そういうものの慣習のあり方というのは残っているという面と、ぼくは両方あるような気がして仕方がないのです。
 つまり、東のほうから、関東とか、東北とかになってくると、どういうふうに漁ってみても、探ってみても、そういう意味合いで、女性が管理責任をもっているみたいな村落というのは、どうも想定することができないのです。ただ、その場合でも、女性は娘組もあります、それから、主婦組もあって、それから、それぞれが村落の中に組をつくっていて、それがたとえば、ある一定地域の漁業圏の村からちゃんと分与されていて、それで自分たちの組の経済に使うとか、独立に使うとか、そういう老女組といいますか、老人の女性組、それから、主婦のつくる組、それから、娘がつくる娘組というのがあって、それぞれが独立にあって、そして、それぞれが独立の経済基盤というものを、村落から女性の手に委ねられているというのが、日本国も折れ曲がって、東のほうではよくそうなるようになっています。そのことはうまくよくわからないことがあるわけです。
 それから、山本さんのあれでいえば、天皇制の問題が出てきましたけど、天皇制でもって、これは根本的にいえば、西ないし南のほうの方であって、天皇よりも皇后のほうが権威があってというようなかたちが、その御託宣といいますか、宗教的な影響のもとに暫定の天皇が政治をする。それが、日本国がアジア的な村落形態の存立状態から、統一国家、天皇制国家ですけど、天皇制国家へ移っていったときに、違う水準のかたちのところに、そうじゃないかなというふうに思われるのですけど。これもまた、歴史のなかでは逆転してあらわれていまして、みなさんが見られたとおり、『古事記』とか、『日本書記』になってくると、神武天皇がいて、なんとか天皇がいてとか、こういうふうになって、男のほうが優位になって記録されているのですけど、これもすこぶる怪しいので、そうとう男性が強くなった以降の慣習に従って、そう記録していたので、もっと天皇制が、少なくとも成立当初においては、女性の祭祀を司るものが強くて、そして、それの宗教的な交わせに基づいて、天皇制が成立していたと考えたほうがいいのかもしれないけど、これもすこぶるよくわからないところで、つまり、母系制ということが重要なのか、それとも、そうじゃなくて、ある原始段階からアジア的段階というふうに、そういうふうに入っていったときに、その時期において存在した女性の社会的、あるいは労働的な、生産的なあり方自体が、非常に理想なかたちで、存在したためなのかということは、なかなかうまくぼく自身は分けられないような気がするのです。
 それが現在の問題意識のなかでは、向きが逆になっていまして、アジア的ということをほんとうの意味で現在はっきりさせなければいけないという、世界史的にはっきりさせなければならないという問題意識のなかで、ぼくの場合はその問題が出てくるわけです。
 河野さんの言われた問題もでてきて、それから、山本さんの言われた問題も出てくることはきたんですけど、先進資本主義国が、現在、当面している社会というような問題意識のなかで、そういう向きのなかで、ぼくのなかでは逆向きなんですけど、自分が使い分けているわけですけど、つまり、二つの軸で使い分けているわけですけど、向きが逆なのであって、その逆の向きにはまったく虚を突かれる考え方なのです。
 また、ある意味で、すごく唖然としちゃうところもあるのです。そうじゃないのですけど、一種の電子生活の礼賛みたいなふうになっているところがあるのです。ぼくは向きを変えたときの問題意識ではちょっと唖然とするのです。そうすると、目をつけるところが全部、暗黒消化ということになってくるのですけど、元本の消化、形相の消化ということなのです。
 形相というのは、世界史的段階、現在、地域的にさまざまでありうるというのは、個別的でありうるというのは、ぼくらの理解の仕方で、形相じゃなくて、必然的進展というもの、社会の歴史の必然的進展というもののなかでは、形相が問題になるのではなくて、必然がどこで停滞するか、あるいは、どこで境界線を踏まえるか、あるいは、境界線に到達するか、どこで崩壊線に到達するかということ、このことが主たる問題になるわけです。
 もし、これが崩壊させるほうが正しいのだとすれば、どういうふうにすれば、これは崩壊を促進させることができるか、せいぜい自然崩壊に対して、手を加えられるという意味あいぐらいしかないのかもしれないけど、しかし、どういう境界が崩壊しているかという問題意識は、先進資本主義社会のほうの問題意識に向いているうちには、その問題は問題になるのですけど、そのときは形相があることは十分承知しているわけですけど、しかし、そこに目をつけることが普遍的ではありえないという問題意識のほうが、ぼくなんかにはすこぶる虚を突かれるような気がするのです。
 だから、その問題意識にかえってくる場合には、ぼくは反対を向くわけです。つまり、向きを向き直すわけです。そして、ぼくのアジア的という問題をどうやったら普遍的な問題として現在取り出せるのか、つまり、アジア的というのは現代の問題では何かといいますと、これは第三世界がアジア的段階に近づきつつあるということに、大雑把にいうと、ぼくらの考え方はそうなるわけです。
 それから、大雑把にいいますと、日本というのは、ようするに、アジア的段階を離脱しつつあるというふうに、ぼくらの問題意識はそうなるわけなんです。だから、そこの問題として向きをかえますと、そうすると、形相の問題と、健康なる人類の時代というのは、どこにモデルを求めたらいいかという問題、あるいは、もし、現在、日本みたいなものはアジア的段階を離脱しつつある日本みたいなものが、なお、アジア的問題意識というものを、あるいはアジア的意識とか、アジア的村落形態というものを存続せしめているとすれば、それをどういうふうにしたらプラスであり、どういうふうにあれしたらマイナスになっちゃうのか、どういうふうに温存したらマイナスになっちゃうのかという問題になると思うのです。
 そういう問題として向き直すと、この問題意識に近づきますし、たいへんよくイリイチフォーラムのみなさんも、いままでやってこられたフォーラムの問題意識に、たいへん近づいたり、疑問をもったりする問題に、ぼく自身の問題意識としては近づくことができる。だから、ぼく自身は二重に使い分けているわけでして、二重に使い分けていることが、ぼくは非常に重要だと、現在、非常に重要なんだというのが、ぼくの問題意識で、これを単一化するならば、形相に目をつけるか、それじゃなければ、無限に生産力も発達して、資本主義も無限に発達する、どこまでも発達するんだという、そういうにいってしまうと、どちらかにいっちゃうに違いないというのが、ぼくらの問題意識にあって、だから、いかにして、向き直し方をうまくやるか、二つの軸の向き直した方をうまくやるか、非常に正確にやるかということが、非常に大きな現在の問題なんだというのが、ぼくの問題になるわけなのです。
 だから、すこぶる、イリイチの問題意識もそうですけど、山本さんが展開されている性と労働について、展開されているところはあるわけですけど、それなんかは、ぼくらもびっくりしているという、虚を突かれるというのが、非常に正直な感想で…。



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