1 司会・挨拶(佐々木幸綱)

2 古典的な物語性の解体

 吉本隆明です。ぼくは、ここ一、二年、割合丁寧にいま日本で書かれている小説の作品に目を通してきたと思っています。そのあいだに出会った注目すべき作品をいくつか挙げてみますと、ひとつには大江健三郎さんの『「雨の木」を聴く女たち』という連作がありまして、この作品は際立って注目すべき作品だと思います。それに中上健次さんの『千年の愉楽』、しいてあげると小島信夫の『別れる理由』、この三つがあると思います。それから、これは去年の暮れから一昨年にかけてですが、若い作家で村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』という作品があり、これも注目すべきだと思いました。それと高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』という作品です。
 これらの作品を今日の主題にひきつけて考えてみますと、共通にいえることは、これまでの小説の特徴であった古典的な意味合いでの物語性を意識的に解体しようというモチーフが、それぞれの作品のどこかにあることだと思われます。このことをもっと突きつめていくと、作者自身がじぶんが書いている小説という文学形式を、それほど信じられなくなったということが含まれていると思います。いきおい作者自身の思惑や面影を多分に含んでいるとおもわれる主人公の「僕」とか「私」とかを作者があまり信じていないことになります。もっと極端にいうと、小島信夫の『別れる理由』なんかのように、作者の面影をたくさん背負っていると思われる主人公の永造が、今度は作中で作者を疑い始め、逆に批判しはじめるというようなことが、小説作品の中で行われたりします。つまり、作者が小説形式を本来的に信じられなくなった、ことに小説のもつ物語性を信じられなくなったということが、さまざまの作品の中で波紋を描いているわけで、小島信夫の作品の中にひじょうによく表れています。
 大江健三郎さんの作品では「雨の木」というのが、宇宙の木というか、曼荼羅の木というか、自分自身の世界をなぞらえ暗喩しているわけですが、これは古代の仏教が持っている完全な世界、人間の欲望とか、思考とか、理想とかが全て象徴的に含まれている、仏教でいう曼荼羅の世界なのです。そいうもののメタファーを、「雨の木」が象徴しています。しかし、この「雨の木」は、主人公の「僕」なり、「私」なり、「私」がかかわってゆく世界では、調和や完備された世界像はどうやっても実現されない。そういう形で現実の世界とをのなかでの「僕」や「私」の解体が暗喩されます。
 中上健次の『千年の愉楽』では、現在信じられなくなってしまっている物語性をどこか別のところに奪回しようとして、まったく別の世界をつくり上げようとしていると思われます。その結果、ひとつの理想の原型的な世界を設定して、その中でさまざまの人物がうごめくわけですが、その登場人物たちはありうべき現実の世界を想像することができなくて、ひとつの幻想の、死後の、現在として成り立ちようのない世界を設定することで、いま失われつつある物語を回復しようとしているように思われます。この中上さんの作品は、意図的に作りあげた古典的な形式をもった悲劇の集まりです。古典的な悲劇というのは、一定の型をもっています。作中の主人公が、ある事件に出会ってどうしようもなく追いつめられ、たいへんな心身の葛藤を演じ、その葛藤の場面をクライマックスとして主人公が徐々に自分を亡ぼしてゆく、あるいはよりよい自分を切り開いていく、またある場合には死の方向に自分を連れ込んでいってしまうというように成り立っています。つまりきちんと入口があり、クライマックスがあり終結があるという物語形式を中上さんのこの作品は踏んでいるわけですが、これは物語が成立しにくいという現在の小説の状況を知っていて意識的に現実にはありそうもない別個の幻想世界を設定して、主人公たちが自由に行き来できる古典的な意味合いの人工的につくりあげた物語の世界を可能にしています。

3 小島信夫『別れる理由』が象徴すること

 小島信夫さんの作品では、主題というものは自分や自分の家族、それを取り巻く知人たちに限られているわけですが、そこでは際立って悲劇を演ずることもできないし、たいそうな事件が起こるわけでもないし、救済がおとずれるわけでもない、そういった現実の状態というものを精密な図柄で描いているわけで、入口もなければ出口もない、ありふれた、ある意味でどうしようもない日常生活の状態が続いている主人公の家族を中心に展開されています。
 しかし、作者が現在のそういう状態に大して、どこかで抗弁したいところがあって、登場人物や、作者を象徴する主人公や、現実やさまざまのものが混合した世界に連れてきてしまうということを最後にしています。
 そして、そういうところで、主人公が逆に作者を批判したり、実在の人物と思われるものが書物的な代名詞として作品の中に入ってきて、さまざまの役割を果たしたり、もはや、作者であるか、登場人物であるか、作者の現実の交遊関係であるのか、そうでないのか、そういうものがわからないように全部区別なく作品の中に登場してきて、全部同じ次元で言い合ったりするといった世界に作品をもっていってしまっています。
 これは極端な例ではありますが、現在小説作品というものが表現しなくてはならない問題をひじょうによく象徴しているとおもいます。
 小島さんのこの小説は、一見すると作者を取り巻く家庭を中心にした狭い交遊圏を主題とした作品なんですが、現在の知識や人間関係の陥っている運命のような状態を、たいへん象徴的に表現している、とても現在的な作品です。表情はユーモアがあったり、悪ふざけをしているようにみえるのですが、それがちっともユーモラスになったり、悪ふざけになりきらず、かといって顔がこわばってしまうようなものにもならない。何かわかりませんが、それを空虚とか空白とかいうように考えますと、登場人物たちも全て空虚とか空白という無感情に陥ってしまう、そういうひじょうに現在的なものを暗喩している作品になり得ているとおもいます。

4 村上春樹と高橋源一郎

 大江さんや中上さんや小島さんの象徴的な作品は、現在、文学の伝統的な形式がつきあたっていることをとてもよく象徴して、しかもすぐれた作品になっています。
 村上春樹さんや高橋源一郎さんなどの若い世代の作品は、これらとやや違う意味を持つように僕にはおもえます。言い換えると違うように考えた方が、たくさんのことが得られるように思います。
 村上さんの『羊をめぐる冒険』や高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』という作品は、現代文学の伝統的な様式の流れのなかで書かれている作品というよりも、現在の社会自体が直接要請しているために、必然的に生み出されているサブカルチャーの厚みから生まれてきた作品です。
 現代文学の伝統的な様式の流れの中に言葉を入れ込むことによって生み出された作品というよりも、現代の社会が直接にたくさん生み出しているサブカルチャーの無意識の累積の中から、言葉を選びとってきて、たいへん高度な作品をつくり上げていると思います。ですから、村上さんあ高橋さんの作品は、出所が違うと考えた方が実りが多いんじゃないか、それが僕の理解の仕方です。つまり、これらは、現在、自分の肌に突き刺さってくる、現に自分がその中に入り込んでしまっている生活周辺の世界から、直接言葉を取り出しています。その言葉は、たとえば今から二十年前の言葉をもってきて比べるとすぐにわかります。二十年前でしたら、そういう言葉を使うとあんまり高度でない、どっかあなどられているところがある言葉の世界しかつくれなかったものです。大衆小説だとか、娯楽小説だとか、ゆとりとあなどりの気分で扱える面を多分に持っていたわけです。だが、村上さんや高橋さんの作品は、そういう言葉の出所から少しもあなどれない高度な世界を実現しています。
 そして、僕の理解の仕方では、サブカルチャーや大衆文化の中から出てきた言葉が、これらの作家によって初めてひじょうに高度なところまでもっていかれることに成功したんだと思います。
 だから村上さんや高橋さんを個々の才能として見るだけではなくて、ひとつの勢いといいましょうか、たいそう高度な勢いとなって今後もどんどん出てくるような気がするんです。

5 小説作品がはらむ「詩」の問題

 これらの作品は今日のテーマである「詩」の問題をどこかで孕んでいます。
 大江さんの作品でいえば、主人公たちが、どんなにがんばっても、自分を象徴するメタファーをつくり得ない。メタファーをつくろうとすると、どこかで穴が空いていて、そういう穴の空き方しか実現できないという意味合いで、詩歌の問題を孕んでいるでしょう。中上さんの『千年の愉楽』の中では、物語の世界をつくろうとすると、生ある人間の世界と死後の世界を自由自在に行き来できる人物像を設定しないと成立しないというところで、詩歌の問題をそこから抜き出すことができます。また、小島信夫さんの作品でいえば、もはや作者というものは、個性ある自己発言というものが可能でなくなっている―、作者であるか、作者が作り上げた人物であるか区別できなくなっているし、また逆にいうと、作者が作り上げた人物が作者を批判しはじめるといった混沌とした世界としてしか、あるいは枠組みの壊れた世界としてしか、世界を実現できないものの世界と受け取れば、これは、詩的なものが現在当面していることにすぐにでもひき移すことができるのではないでしょうか。
 村上さんの『羊をめぐる冒険』という作品も、自分で自分がどういうものかわからない、自分の世界をつかむことができない、そういう主人公たちが、どこかで自分を確かめるための冒険というか、別の人物たちがたくらんだ世界に主人公が救済を求めて入っていたんだけれど、最後にフタを開けてみると、自分はたくまれた世界を救済を求めて彷徨しているに過ぎなかった、というそういう主人公たちの振る舞いでこの作品を受けとると、詩が詩を生み出す意味との間で当面しているのと同じ問題を、ここに象徴的に見ることができると思います。

6 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の詩のとらえ方

 高橋源一郎さんの作品は、まさに詩歌が当面している問題そのものであると言えます。作中の人物が詩をどんな風にとらえているかすぐにわかるところがあります。その部分をちょっと挙げてみます。これは、作中の中の「私」が詩の学校を開いている場所に出てくるものです。

 ―もしあなたたちの誰かが心の底から、詩を書きたいと思い、しかもどうやって、何を、書いていいのかわからなくて悩んでいるなら、ここへ来てもらいたい。
 わたしはあなたの話をきく。
 話すのはあなただ。
 どんな微妙なことでも、はずかしいことでも、つまらないことでも、あなたに話してもらいたい。地下室に二人きりで、性の話をしていても、わたしは決してあなたにとびかかったりはしない。
 話しているうちに、あなたはきっとリラックスできるようになるだろう。あるいは「計算をまちがえて危険日にかれとしちゃったので不安なの」と言って涙ぐむかもしれない。結構、泣きたければ泣きたまえ。死んじゃってからでは泣けない。
 そうして あなたは自分で、書くべきことを見つける。「よかったね」と言って、わたしはあなたと握手できる。―

 つまり、この箇所は何を言っているのかというと、この作品に登場してくる私の「詩」についての考え方、「詩とは何か」ということで、その何かはわかりませんが、鎧とか、冑とか、制約とか無意識の抑圧とか、そうしたものを全部取り払ったところで、言葉がもし濃くなるところがあれば、それは「詩」なんだということを言っているのだとおもいます。つまり「詩」とはそんな風に全部を取り払ったところで出てくる言葉で、しかも、その言葉に濃いところがあれば、それがどんな言葉であれ、「詩」なんだという考え方を象徴していると思います。つまり、この作品に登場する「私」という人物の「詩」に対する考え方をひじょうによく象徴しているところだとおもいます。
 この「私」のところに四人のギャングたちが訪ねてくるのですが、その中の「おしのギャング」に主人公が詩を教えるところがありますので、そこをちょっと挙げてみます。

 ―わたしは「おしのギャング」に話しかけた。
「立ってください。おねがいします」
「おしのギャング」はのろのろと立ち上がると片手を腰のケースに入っているルガー•オートマティックの上に置き、いつでもわたしを撃ち殺せる準備をした。
「あなたが思っていることを話して下さい。あなたが考えていることを、感じていることを言葉にして下さい。どんなことでもかまいません。あわてずに、おちついて、ゆっくり話して下さい」と私は言った。
「おしのギャング」の唇はいつも閉じっぱなしで、コーヒーとサンドイッチをながしこむ時以外は開けたことがないみたいだった。
「おしのギャング」はソフトの下から、わたしの顔を見ると、コーヒーとサンドイッチ以外のことを考えるのは苦手だと言うように悲しみにみちた顔つきになった。
「むずかしく考えないで」とわたしは言った。
「おしのギャング」は自分の頭の中に書いてある言葉を探しはじめたが、どの頁もまっ白だった。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「コーヒーとサンドイッチ」「おしのギャング」の唇から荘厳な音がもれた。
「そうです。それでいいんですよ。つづけて」
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「コーヒーとサンドイッチ」「おしのギャング」はもう一度、悲哀をこめて呟いた。
残りの三人のギャングたちも、感心したように「おしのギャング」の唇が動くのをながめていた。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。そして、又しても、「コーヒー……」と呟いて、「おしのギャング」は黙った。「おしのギャング」は「コーヒーとサンドイッチ」の幻影をふりはらうかのように、片手を振った。
「おしのギャング」は、「コーヒーとサンドイッチ」以外の言葉を自分の人生から見つけ出そうとしていた。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「おしのギャング」の顔は蒼白になり、額に汗が浮かんだ。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「赤ちゃん」と「おしのギャング」はうめくように言った。
「頑張って!」とわたしは励ました。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「耳くそ」と「おしのギャング」はつぶやいた。「おしのギャング」は大きく肩で息をしていた。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「鼻みず!!!」
「おしのギャング」の目には涙がにじんでいた。それは絶望の涙だった。
「ゆっくり」とわたしは言った。
「ゆっくり見てごらんなさい。あわてることなんかないんですよ」
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「おしのギャング」はすっかりうちのめされた、ギブ•アップ寸前だった。
行けどもつづいている空白の頁の荒野に、
「おしのギャング」は力なくすわりこんだ。
「しっかり!止まらないで」とわたしは言った。
「ギャングだろ?忘れたか!」と「ちびのギャング」が励ました。
「挫けるなよ」と「でぶのギャング」が言った。
「ぼくたちはいつも一緒だ」と「美しいギャング」が言った。
「おしのギャング」は不屈の闘志をよみがえらせると再び歩きはじめた。―

「私」はおしのギャングに立ち上がって何でも言ってごらんなさいというわけですが、表現するとか、何か言う素養というのは、おしのギャングには何もないわけで、ただ食物を食べるときには「コーヒー」とか「サンドイッチ」ぐらいのことはあるかもしれませんが、他に言葉はないし、表現というものを何も持っているはずがないのですが、そういうおちのギャングに「何か言ってごらんなさい」と私がどんどんどんどん追いつめていくわけです。そうすると、追いつめられたおしのギャングは、言うことがなにもなくてただ「まっ白」「まっ白」というだけだったというのですが、つまり、こういう場面で出てくる「まっ白」「まっ白」という言葉自体は死になっている。それは詩なんだということをいっているとおもいます。
 つまり、詩というのは別段ひとつの詩的な伝統があって、その伝統の中で詩の言葉があって、その詩の言葉は、伝統の流れる中に自分の意識を入れ込むことによって出てくる表現というものが、私たちの考えている詩であり詩歌なのですが、そうでない詩というものがあり得るんだということを言いたいんだとおもいます。

7 ラディカルな詩の概念はどこから出てくるか

 現在というのは、この実社会の中で飛び交っているひじょうに拙劣で混乱したわけのわからない言葉の中から、意識を感受してというか体得してというか、もしそこから言葉が押し出されるならば、言葉の素養もないし、もしおしであって言葉をいうこともできない、そういう人間から出てくる「まっ白」という言葉自体、そこでは詩でありうるんだということを言っているんだとおもいます。
 つまり、詩というものが別の個所で成り立ちうるとすれば、この作品自体が象徴しているように、なまのまま飛び交っている言葉というものにたいして、ある受け入れ方を示せば、そこから出てくるものは、そのままラディカルな詩になりうるんだという考えを象徴しています。
 こういう考え方はいつでも大衆歌謡や、もっとイデオロギー的な考えを入れ込んでいきますと、生活詩とか思想詩という概念に、得てして包括されてしまうものなのです。けれど、この作者が象徴している「詩」の概念はそうじゃなくて、大衆の生活をもりこんだ詩という地平に、詩が入り込んだときに、詩はラディカリズムを失ってしまうんだということがいいたいんだとおもいます。ラディカルな詩の概念が、どこから出てくるかというと、伝統的な言葉の様式からは出てこないで、縦横に何もかも虚しくされてしまって、現在の原初的な刺激を無意識の底から受け入れてしまったときに生まれるある言葉から出てくるかもしれない。そういった考え方が成り立っているのです。
 この作品の言葉は、サブカルチャーの貯水池から出てきているのですが、この作品の高度な質の作品にしている根本的理由は、そういった考え方だとおもいます。
 もし、この作者が、この作品を、民衆詩、あるいは生活詩風に、あるいは社会派的に、大衆社会で飛び交っている言葉を倫理的に受けとめてしまったら、それまでの民衆詩とか、大衆歌謡とか流行歌とかの言葉になってしまうわけですが、もっと無意識の底の方まで自分を解体し、解体しつくしたところで、街頭に飛び交っている言葉を受け入れることができるとすれば、それがどんな言葉で表現されても、たいそう高度な詩となりうるんだということが、この個所に象徴されているとおもいます。
 この個所は、この作品の「私」という登場人物の考えであるだけでなく、この作品のもっている性格をも象徴しています。この作品は、サブカルチャーの言葉のところから出てきているのですが、この作品はどんな純文学の作品よりも質が高いですし、その言葉自体、伝統の言葉の領域の中に自分を入れ込むんじゃにあ街路から、言葉を生み出しているということからすれば、最初から解体しつくしたところから出てきた作品だといえるのです。
 これは、現在の詩の問題の中で、いちばん大きな問題だといえます。つまり、ここで実現されているようなことが作品として可能になった基盤ができてしまったのです。また、詩でいいますと、そういう作品が現在の若い詩人によって生み出されつつあるので、それは、たいへん重要な現在の意味を象徴しているように思われます。
 こういう詩の言葉が伝統的な詩文学の言葉の様式とどこですれちがうのか、あるいは、ごっちゃまぜになりうるのか、またどこで反発して、それぞれの領域にとび散ってしまうのか、大きな問題です。

8 瞬間に成立するドラマ性――岡井隆『人生の視える場所』、塚本邦雄『歌人』

 この問題について、僕はそれほど緻密な分析者や観察者ではないのですが、これは、現在みなさんが関心をおもちの短歌の領域でも大きくあるんじゃないかなという気がして仕方がないんです。
 しかし、これは僕なんかが、意識してきちっとあたって出てきた結論でもなんでもないので、同じような問題がどのようなかたちで出てきているのかということを確認的には言えないんですが、詩や小説作品の領域でその問題が明らかに出てきていると思われますから、短歌の領域でも同じような問題が相当本格的に出てきているんじゃないかと思われてならないのです。ですから、いくらかの作品で、そのことを確かめてみたい気がするだけです。
 ここにたまたま僕が読んでいる作品があるので挙げてみます。たとえば岡井隆さんの『人生の視える場所』の中のなんでもいいんですが、何かひとつふたつ読んでみましょうか。

人嬬のみなうつくしき春先の街あるきかもつのぐめや蘆
朝々の卵料理のかなしさは塩うすくしておもふちちはは

 こういうものがあります。それから塚本邦雄さんの割合最近の『歌人』という作品から、

水仙蒼きつぼみつらねて剣道部反省会のしじまおそろし
みちのくへ三日旅して白露にあけぼのいろの母がくるぶし

 塚本さんや岡井さんのこういう作品は、円熟したたいへん見事な作品だと思うのですが、その見事だということの根底には、僕はドラマがある、一瞬のうちに成功しているドラマがひじょうに鮮明になっている気がします。それが岡井さんや塚本さんの作品が、たいへん円熟したというか、ひとつの完成に近い姿になっている根本的な要因だとおもうんです。
 そこで、この短歌一首のドラマ性ということを詩や小説の作品と対応させるために、たいへん端的にいうとすれば、このドラマ性は、詩や小説の中では希薄であり、ほとんど求められないわけです。つまり、詩や小説の中で物語性を成立させようとすれば、無理すればできないことはないのですが、ドラマ性というのを成立させることは、もはや現代の小説や現代詩の中ではできそうもありません。けれども、塚本さんや岡井さんの作品が実現しているドラマ性は、理論的な意味合いをもっていまして、つまり物語文学の後にドラマ性があって、物語性を無意識のベースに沈めた上で成立するドラマ性ということです。これは定型というものがあってはじめて成立しうるものであり、定型が失われると、このドラマ性は解体し、単に物語性というものに転化してしまいます。
 岡井さんや塚本さんの作品が初期の作品に比べて完成度が高くなっているという意味をどこでつかまえればよいかというと、瞬間に成立するドラマ性が、たいへん鮮明に成立することができるということだとおもいます。

9 短歌的枠組みの解体の表現――福島泰樹「中也断唱」、佐々木幸綱『直立せよ一行の詩』

 ところで、その成熟性とか完成度とかをひとつの基準におきますと、短歌の世界の枠組みの解体を象徴しはじめているのが、福島泰樹さんや佐佐木幸綱さんの作品だとおもいます。僕には、この人たちの短歌は、世界の枠組みが解体しはじめると一緒に、ドラマが成立できずに解体しかかっている表現、あるいは解体せざるをえない必然の表現している、最初のひじょうに典型的な兆候だったようにおもえるのです。
 任意に作品をあげてみますと、たとえば福島泰樹さんの作品で、これは詩の雑誌で見たことがあるのですが、「中原断唱」という中原中也をうたった連作の作品です。

中也死に京都寺町今出川スペイン式の窓に風吹く雀であった

こういう作品になっていきますと、短歌的世界として成立している枠組みが、もはや解体しはじめたときの言葉、あるいは、解体させてゆく言葉だとおもいます。
 だから、固有の彫り方というかレリーフの仕方ができなくなって、それは全体としてひとつの棒である、棒となって表現されています。これは、佐佐木さんの作品を持ってきても同じで、たとえば『直立せよ一行の詩』の中からいいますと、

秋の穴のぞくあの子はあばれ者あれあれ明日天気になあれ
十本の杭打ち終えて水を飲むあおむけの喉照らされている
たんぽぽの金のきらきら悪友の旅立ちの日を咲き盛るかな

など、どれをもってきてもいいのですが、ここには短歌的彫り方というのは、そんなに成立していないということがわかります。佐佐木さんの自分のうたの解説によれば、一首がいわば一語であって発光体であるような短歌をつくったんだ、自分はひとつの響きが全体として与えられるような、そんな作品をつくりたいんで、起承転結があり、序詞があり、枕詞がありクライマックスがあり、終末がある、そんな短歌的骨法の作品をつくろうとしているのじゃなく、全体としてひとつの発光体であるような、そんな作品を目指しているんだと主張されています。
 これはたいへん見事な自己解説なんですけど、僕が今日申し上げている言葉でいえば、短歌的世界の枠組みでいう一種の解体の表現になっている。つまり、解体したところで成立している一種の自己表現ということができます。
 僕はあまり短歌の世界のことをよく知らないのですが、たぶん、佐佐木さんや福島さんの作品あたりから、短歌的な枠組みが解体してゆく表現が必然的に出てこざるをえないような兆候が出てきたのじゃないかとおもえるのです。
 こういう言い方をしますと、お前は形式的問題しかいっていないとお受け取りになるかもしれません。「何を」、「どう」ということについて何もいっていない、あるいは何を主題とするか、どういう個性がありどういう主体性があって、それどそう表現するかについて何も触れていないんじゃないかと思われるかもしれません。それを触れることはできるのですが、そういう触れ方をするとそれは個人の歌人論になってしまいます。
 個々の歌人が何をどう唱っているかという問題は、ここではわざと避けられています。形式的問題をとらえて、短歌的枠組みの解体ということに対して、どういう振る舞い方をするのかということが、いま大きな問題としてたぶんあるのではないかと申し上げているわけです。

10 若い歌人の作品――物語の場面への固執

 若い歌人の作品を読んでみますと、一様にこだわっているようにおもえる主題がみられます。こだわっている主題を、形式論としてどう理解したらいいかと考えますと、主題というのは場面のことです。自分はどういうことに関心があり、どういうことをうたっているのだ、自分はどういうことから逃れられないか、自分は逃げたいんだけど、逃げることができないから、そのことにこだわってるんだというような内容の問題は、形式論的にいえば、いわば場面ということになると思います。
 そして、場面とは何かというと、物語性の場面だと理解することができます。これはドラマの場面だといいたいところなんですが、佐佐木さんや福島さんの作品は、内容からいうとドラマではなくて物語性だと思います。たとえば啄木の三行書きの口語短歌のようなものが、無造作にみえてほんとは高度な質をもっているのはなぜかを考えますと、物語性としての場面を成り立たせているからだとおもいます。啄木の口語短歌と同じような意味合いで短歌的枠組みを解体してしまったために、短歌的ドラマは成立しなくなった。そこのところで、物語性というものが、ネガティブな消極的な解体の表現として大きな意味を持つようになっている、それが佐佐木さんや福島さんの作品の特徴ではないかとおもわれるのです。
 そうしますと、佐佐木さんや福島さんよりももっと後の年代の短歌作品は、物語性という枠組みをとっぱらわれてしまったあとに、何がどう可能なのか、それをどうするのかといったことが、内容と形式の両面から切実な課題として出てきているんじゃないのかなというのが、僕の漠然とした理解の仕方です。
 断定的にいうことにためらいを感じるのですが、たぶん現在の短歌が当面している問題は、場面の物語性というものをどのように処理したらいいのか、短歌的枠組みの解体というものをどう組み直すのか、そこへ進んでいるような気がします。それを佐佐木さんや福島さん以降の短歌の共通の問題としてつかまえることができるんじゃないか。
 いくらか、その例を拾ってきましたので挙げてみます。三枝浩樹さんの作品。

曖昧に生きつつ来たる長崎に遥くルドヴィコの痛みを分かつ
旅宿にて古きノートを繙くはとめどなくいづかたへ堕つるゆえ
滝耕作さんの作品。
愛欲さえや須臾にして過ぐゆうぐれをわが掌より鉄の匂いたちたり

もうひとつあげてみましょうか。これは吉岡生夫さんの作品。

憎しみを育てつつある浴槽にゆうべ浮かせているわれの首
汗だくになりて艶技をつづけている京塚昌子のごときおどりこ

 これらの作品で何が問題なのでしょうか。三枝さんや滝さんの作品では主題となる物語性の場面が自分に内在していて、本来ならば、もっと明るく朗らかな場面に逃げ出したいんだけれどどうしても固執を解くことができない、あるいはこれこそが現在の世界というものの意味だからこれに固執せざるをえない、そのどちらかであるようにみえます。どちらかは、端からは解らないのですが、どちらにしろ固執する画面があって、その場面への固執から離れられるか、離れられないかというのがおおきな内的モチーフになっているような気がします。
 吉岡さんの作品はその意味では、はるかに自由で、自由な場面に自分を移しかえていると思います。けれどこの自由な場面という意味も、主題という意味合いで自由といえるだけで、表現として物語性が解体されるという問題は、すこしも解かれているわけではありません。そこから逃れられることができていないといえましょう。つまり、物語の場面としては、はるかに自由なところに移行しているわけですけど、短歌の形式が当面している問題の圧力をたえず自分の中にもちながら表現するというところから少しも逃れられていないし、またそのことを逆に現在の問題とするというところが、ラディカルにあらわれていると考えることができるとおもいます。

11 短歌の現在的無意識

 この内在的なモチーフの場面をもう少しあげてみます。これは道浦母都子さんの作品ですが、

明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし
燃ゆる夜は二度と来ぬゆえ幻の戦旗ひとかにたたみゆくべし

 ここでは、固執する場面、ここから逃れられない場面というのがひとつの問題です。それと、この作品は、よくわかるように短歌的彫り方としては、たいへん解体しているということができるとおもいます。一本の棒でもってひとつの作品であるという形式としての問題をひきずっている作品であり、あるいは、それ以外には短歌というのはつくれないんだということが問題であるといえば問題であるところでもって書かれている作品だとおもいます。それと、主題としてある物語のその場面から逃れられない、逃れられることができないというのがひとつの問題です。つまり、道浦さんの作品は、この二つの問題を同時に、二重にもっているということが、たいへん注目される作品になっているのだろうとおもいます。つまり、僕らなんかみたいな素人にも読んでいて響いてくるものが感じられるゆえんだとおもいます。
 そうすると、物語の場面への固執という内在的なモチーフが、形式的には短歌的枠組みの解体に直面しているということが、現在、短歌がある意味では必然的に踏まざるを得ない現在的無意識なのではないでしょうか。現在というものが、そこで生活しそこで息をしそこで考え行為しているそういう人間に強いている無意識の必然であり、これは、人工的にどうかして避けることは可能でない気がします。これに対処するためには、意識化するしかないのですが、意識化したからといってどうかなるか、あるいはどうにもならないか、量りしれない問題のようにおもわれます。無意識の中に沈めておくか、あるいは意識化したらどうなるかという問題だと思えるのです。ここで固執する場面というのは、作者が全く固有に固執する場面であるわけで、なぜそんな場合に固執するかというと、その場面から逃れてもっと広い場面に出て、自由自在の場面の選択というところに行きたいんだけど、どうしても行けないんだから仕方がない、そういう必然が固有に存在するんだとおもわれるのです。そして、この固有の体験というのは、ある意味で世代的体験でもあるのでしょうか、それに対して何がいえるかというと、それはたったひとつしかなくて、こういう場面から逃れたら、倫理に反してしまうのではないか、この場面に固執することをやめたら、自分が思想を喪失することと同じなんじゃないかという危惧とか倫理感とかあるとすると、それはその個人の固有の問題としてだけであって、それがはたして倫理の一般性として存立する根拠をもつものなのかどうか、それが現在問われているのだとおもいます。この場面に固執することに倫理的意味があるのかどうか、これに思想的意味があるかどうか、それを根底的に問われているというのが、現在のいちばん大きな問題だと考えております。
 道浦さんの場合は、このふたつの問題というものを抱えながら行かれるのでしょうし、また三枝さんや滝さんの固執する場面というのは、本質的にはどういうものなのか、あるいは場面に固執するのとしないのとでは、作品の倫理的価値としてどう違うのか、作品としての意味付けはどうなるのか、そういったことが問われるところに自己展開して行かれるとおもいます。そしてこれらのことは現在の若い年代の作者たちの根底に潜んでいる課題のような気がしています。

12 若い歌人はどこに修辞的な達成を求めてゆくか

 若い世代の作品ではこういう課題からははじめから全く解放されていて言葉自体の本質に固執してそこで悪戦しているという作品がかならず意味ある問題として存立しているようにみえます。そうした作品は少ししか見つからなかったのですがひとつあげてみます。

運命の星やいずこに真夜中の自動販売機に缶落ちる音

 こういう作品はもっと前の年代でいえば、河野愛子さんとか、柏原千恵子さんとか、山中智恵子さんとかの世代の歌人たちが固執している作品に行きつくわけですが、若い年代の歌人はどこに修辞的な達成をもとめてゆくのでしょうか。どうしても、そういう課題を内包しているような気がします。
 これは短歌的な暗喩の問題に行きつくことになります。短歌に固有な暗喩の問題は、もちろん古典時代の短歌の時期からずっとあるわけですが、現在の詩的な表出の余てが直面している物語性の解体というところで、短歌的な暗喩が習字の表面を重層化してゆく形で展開されるのではないかとおもわれます。何をうたうべきかとか、どういう主題に固執すべきかとか、こういう主題はつまらんのじゃないかとか、こういう主題こそ意義があるんじゃないかというような、内容の論議は個々の歌人の内在的な関心にゆだねられることが、ますます明瞭になってゆくとおもわれますが、形式の論議の方からできるかぎり現在の詩的なモチーフの在りどころに触れようとしてみました。至らない把握ですが、これで終わらせていただきます。