1 国家と社会の呼吸作用

 今日はみなさんの、ぼくへの主題の注文は「ポーランドの問題について」ということなのです。このポーランドの問題について、ぼくなりの関心がありまして、考えていることをお話したいと思います。ぼく自身のひとつのモチーフが、つまり、どういうふうに伝えられればわかりいいかというモチーフがあるわけですけど、そのモチーフ自体は伝わると思いますけど、モチーフの場所っていいますか、ぼくのもっている関心の場所というのがあるわけです。その場所がうまく伝わるのを願ってやまないわけです。その場所のほうに働きかけて、場所というか、理想というか、その伝わり方が非常に重要な気がするので、うまくやれるかどうかというのはちょっと疑問なんですけど、しかし、とにかくやってみたいと思います。
 まず、ポーランドの問題というのに入る前提条件としまして、どうしても、ぼくの場所からの関心でいいますと、どうしても啓蒙的になってしまうのですけど、お話しておきたいことがあるわけです。それは一般的に現在の社会と、それから現在の国家というものとの関係といいますか、相互関係というのは一般的にどういうふうになっているのか、現在の国家といった場合に、だいたい先進的な資本主義国というふうに考えてくださればいいわけです。それがどういうふうになっているのかという一種の一般論から入らせていただきます。そうしますと、だいたいぼくがお話したい、あるいは、ぼくがポーランドに対して関心を抱いている場所というのがわかりやすいのではないかと思います。
 ここの1のところで「現代国家と社会の間」ということで書いたのですけど、一般的に現在の国家というものがありますけど、つまり、現在の国家とは何かということなのですけど、国家というものを、政治的な国家というものと、法的な国家というものとを、便宜のために、つまり、モデルとして便利ですからそういうふうに大別しておきまして、国家と法的国家ということが主として成り立っているというふうに考えることができます。
 その国家の下のほうにといいましょうか、つまり、下部のほうの構造として社会があるわけです。近代国家でしたら、それは市民社会というふうにいわれています。社会というものが国家の下のほうに、具体的な社会として存在しているわけです。
 ところで、その具体的な社会というのはどういうふうに分けたら考えやすいかといいますと、それはこう考えたら、三等分しまして、三等分というのは日常の生活というのが、つまり、24時間というのがどういうふうに営まれるかというようなところでだいたい三等分してみましょう。
 家族社会というのがあります。つまり、家族の一員として自分が社会に存在しているという、そういう家族社会というのがあります。それから、生産・労働社会というのがあります。一日8時間労働ですと、8時間はこのなかに労働者とか、サラリーマンとか、そういうのを考えますと、一般的に8時間が生産・労働社会の一員として存在するわけです。
 それからもうひとつあります。それは、一般的に消費社会という呼び方をする人が、社会学者とか、政治学者でいますけど、つまり、消費社会といわれている場所での社会というのがあります。これは、文化だったり、芸術だったり、娯楽だったり、その他、宣伝、広告、芸能とか、そういうのが横溢しているところです。それは一般的に消費社会と言われています。
 家族社会というのも考えようによっては消費社会なのであって、その場合の消費社会というのは、生産・労働社会というのをぜんぶ除いたのが消費社会だと考えられる、だいたい人間というのは、我々はどんな職種、どんな業務に就いていようと、だいたいにおいて24時間、この3つのところを横断しながら、あるいは縦断しながら、生活しているわけです。その上に、政治的な国家、あるいは法的な国家というものが存在しているわけです。そうすると、社会と国家との間というものは、だいたいにおいて、そういうかたちで存在しているわけですけど、では、社会と国家とは現代社会においてどういう関係があるかということが問題になります。
 だいたい、最も関係の深い関係の仕方というのはどういうふうになっているか、現代社会では、現代国家ではどういうふうになっているかといいますと、たくさんの関係の仕方というのがあるわけですけど、ここにいくつかあげてみました。
 たとえば、ひとつは累進所得税とか、事業税というものがあります。国家は累進所得税、あるいは事業税というものを介して、生産社会及び家族社会、もちろん消費社会もそうですけど、主として生産・労働社会に対して、累進所得税あるいは事業税というものを介して、国家が介入しているわけです。つまり、生産が大規模に拡大していけば、累進所得税はたくさんとられます。それから、個人でもたくさんの給料を頂戴している労働者及び市民、あるいはサラリーマンというものは、たくさん所得税をとられるというふうに、つまり、累進的に進むところの所得税、それから、企業・会社でしたら事業税というものを介して、国家というものは、家族社会、労働者社会、それからもちろん消費社会でもそうですけど、介入しているわけです。つまり、じぶんを関係づけています。
 それから、もっとありますけど、たとえば、みなさんの近いところでは、農産物の価格政策というものを介して生産・労働社会というものに関与しています。それから、国家予算というものを介して、主として生産労働社会というものに関与しています。それから、公共事業に対する投資、融資を介して、国家というものは生産・労働社会に介入しています。それから、社会保険とか、社会保障というのがありますけど、これを介して、国家は生産・労働社会とか、家族社会に対して介入しています。つまり、自分を関係づけています。これが一般的に、国家が社会に対しての関係の仕方のうち、非常に大きな重要な部分です。
 どうしてかといいますと、国家というものは、社会に対して、いま申し上げましたところを介して、呼吸作用を営んでいるわけです。呼吸作用ということはどういうことかといいますと、もし、景気が上昇して、各事業とも盛んになって、大規模になって、生産量も多くなり、また、利潤もたくさんでてくると、そうすると、所得税はそれに従って、国家が徴収する所得税が、それに従って増大していきます。国家というものはそれによって自分を肥やしています。ところで、生産・労働社会というものは、不況であるというふうになった場合には、国家は自分が累進所得税を介して、自分が保有しているその金のなかから、たとえば、国家予算を介して、国家予算の中から分けて公共事業に対して投資します。つまり、そこに貸し与えます。それで、そうすることによって、生産・労働社会の景気を刺激しようとしたり、それから、景気を調節しようとしたりする作用をするわけです。
 つまり、この累進所得、事業税というものと、それから、公共事業に投融資するということは、いわば、吐く呼吸と吸う呼吸みたいなもので、それによって現在国家は、それによって呼吸作用を営んでいるわけです。だから、これは一種の国家と社会との関係というものを一種の安定化するために呼吸をしているわけです。
 現代国家というのは、どこの国家もそうですけど、大なり小なり、そういう仕方でもって呼吸作用を営んでいます。またここにかえって、社会保険とか、社会保障というのは、いわば、国家にとってはそれは支出一方なわけです。しかし、それは生産・労働社会からは一定の社会保険・保障費というのが徴収されています。みなさんはあまり関心がないでしょうけど、みなさんのなかでサラリーマンとか、ご自分で仕事をしておられる方はおわかりだとおもいますけど、労働者、サラリーマンでしたら、ようするに、給料の中から社会保険・保障費というのは引いてあります、税金も引いてありますけど、ちゃんと引いてありまして、それは国家が徴収しているわけです。徴収して保有している予算を通じて、逆に今度は老人で病弱であるとか、生活の扶助が必要であるとか、あるいは、健康を害したという人に対して、保険料というものを徴収したかわりに、そういうことが社会の市民に、そういうことがあれば、そこに国家から予算が加算されて、そして治療を受けたり、また、生活扶助を受けたりということをしています。
 よく考えてみられればわかるように、国家というのは絶えずそのようにして、所得税あるいは事業税みたいなものを徴収することによって、じぶんの保有金を確保しています。それは国家予算ですけど、確保しておいて、そして必要であれば、社会のところに不均衡になりうる要素がある場合には、それを投融資することによって安定を保つというふうに、絶えず、赤で書いてあるところがそうですけど、そういう作用を通じて、国家が呼吸作用を営んでいることがあります。これが国家と社会との現在における関係のいちばん重要な点はそういうふうになります。

2 呼吸作用にならない国有化産業や公営企業

 しかし、国家はそれだけではなくて、ここの青いところに書いてありますけど、国家は社会に対して、別の介入の仕方といいますか、関与の仕方をしています。たとえば、非常にわかりやすいのは国有化産業というのがあって、鉄道とか、郵便とか、そういうのがあるでしょう、そういうようなものが国有化産業、国家自体が自己予算でもって営業、事業を営んでいるわけです。交通事業を営んでいるわけです。収入があれば、国家が還元するわけでしょうけど、よく新聞でご覧のように、だいたい赤字になっていますけど、いずれにしても国家が営んでいる産業です。
 それを国有化産業というんですけど、それは、日本でいえば国鉄とか、郵便とかいうものは、あきらかに国家が営んでいる事業に属します。それから、ヨーロッパなんかでは、国有化産業というのは、たとえば、フランスでもその他でも、もっと自動車産業の国有だとか、銀行が国有だとかいうことがたくさんあります。
 そういうふうに国有化産業ということを通じて、国家は社会に対して、とくに生産・労働社会に対して関与しています。それから、公営企業というのがあります。たとえば、NHKとか、電通とか、タバコの専売とか、そういうようなものは公営企業ということになっています。だから、ほとんど国有事業に準ずる営業状態を営んでいる、そういうことによって、生産・労働社会とか、家族社会とか、消費社会に対して関係を結んでいます。
 それから、ここに独占禁止法というのを書いておきましたけど、独占禁止法というのは、生産・労働社会における、主として経営者・資本家を対象とした独占的に事業を営んではいけない、一定の原則に従わなくてはいけないという独占禁止法として生産・労働社会に関与しています。干渉しています。
 それから、もうひとつ、それと対照的に労働基準法というのがありまして、これは、労働基準法の規定の範囲内の生産・労働条件というものを各会社は営まなくてはいけないとか、労働者はそれを守らなくてはいけないとかいう意味あいで、労働基準法というものを通じて、国家というものは、生産・労働社会、あるいは、それは家族社会にも間接的な面が及びますけど、そういう形で関与していくわけです。
 いまの青でいいました緑で書かれた部分は決して呼吸作用ではありません。これは一方的な国家の、つまり、これは国家主体が営んでいる事業に属するわけで、これは呼吸作用というものは営んでおりません。赤で書いたこっちの部分が、いわば国家が社会に対して営んでいる呼吸作用です。
 この呼吸作用というものが、健康でなくなれば、呼吸作用が不順になっていくわけで、この呼吸作用が正常にあるいは健全に営まれているかどうかということが、いずれにせよ、ある国家というもののイメージを決めているわけです。だから、いずれにせよ、国家というものは、市民社会というもの、あるいは社会に対して、どういう介入の仕方をしているかと考えますと、いま言ったような形で、たくさんの関与の仕方をしていますけど、そのなかで、いわば呼吸作用を営むように関与しているのは、こちらの赤で書かれた部分というのが、呼吸作用として国家と社会を関連付けているわけです。この関連付け方というものは、国家の干渉の度合いが100%であるか、あるいは、アメリカならアメリカですと46%ぐらいが関与していますけど、つまり、100%関与しているソ連とか、まあポーランドでもいいですけど、そういうところみたいものもありますし、アメリカとか、ヨーロッパのように、だいたい40%から50%近くまで関与しているというようなところまですでにいっている先進資本主義国というものもあります。
 日本の場合はどうでしょうか、正確にはわかりませんけど、だいたい30%を前後するんじゃないかと思いますけど、しかし、イメージとして言わせれば、日本の国家と社会との関係も、やはり国家の関与率というものがアメリカとかヨーロッパに近づいていくだろうというふうに考えられます。
 あんまり、こんなことを言っていると本体にいかないのですけど、このことはたいへん重要なことのように思います。それから、もうひとつ重要なことがあります、現代国家ということに対して。つまり、呼吸作用というのがどうなっているかということが非常に重要だということ、それから、いま言いましたように、国家の関与率、干渉率、市民社会に対する干渉の仕方というものがどの程度のパーセンテージかということが非常に重要だっていうことがあります。

3 「労働者ではない」という自己規定

 それから、もうひとつ重要だと思われることがあります。みなさんは学生さんだから一般論にはならんのですけど、みなさんの親父さんとかそういう人を考えればいいのですけど、そういう人を考えますと、だいたい8時間というのは、生産・労働社会のなかで働いているわけです。賃金を受け取っているわけです。そういうふうに働いて、8時間を過ぎて夜の時間になった、あるいは、休みの時間になったといった場合に、あるいは、会社の帰りに一杯飲みに行ったとか、映画へ行ったというふうにいきますと、すぐに生産・労働社会から消費社会へ、あるいは、文化・娯楽とか、芸術とか、芸能とか、そういう社会にすぐに移行していくわけです。
 そうすると、生産・労働社会において8時間のあいだに自分が獲得する様々なイメージがあるでしょう、貧しいとか、くたびれるとか、仕事がきついとか、そういうイメージがあるでしょう。そのイメージと、8時間を過ぎて、帰りがけに一杯飲みに行ったとか、映画を見に行ったとか、芝居を見に行ったというような、あるいは、レストランに行ったというところで受け取るイメージというのがあるでしょう。そのイメージの落差といいましょうか、落差が非常に激しい場合には、すかんぴんな味も素っ気もない職場から、いきなり妙にイメージだけはたいへん豊かな豪華な場所へ移行するわけです。
 そうすると、そのなかでひとりの人間の中でも、非常に大きなギャップを受け取るわけです。そのギャップが非常に大きくなるだろう、あるいは、なりつつあるだろうということは、非常に現代社会にとって重要なことだろうと思います。
 たとえば、社会経済学者でも政治経済学者でも、このことは生産・労働社会というものを主体にしないで、消費社会というものの問題を重要な問題として考えるべきだという考え方が一般的に非常に大きくなってきています。大きくなってきていることには理由があるのであって、たとえば、みなさんが卒業されて就職されればすぐにわかりますけど、じぶんが生産・労働社会にいるかぎり、つまり、8時間だけは自分は労働者であるわけです。まぎれもなく労働者であるわけですけど、8時間以外の時間に自分が存在する場所のほうが、もし、みなさんが、自分が豊かなイメージがもてるというふうであったとすれば、みなさんはたぶん、おれは労働者だというよりも、おれは市民であるとか、つまり、おれは労働者だと言いたくなくなると思うのです。そのことが非常に大きな問題になっていると思います。
 つまり、労働者というのは、いま言いました、アメリカとかヨーロッパというのはそうですけど、賃労働者の数、パーセンテージというのは増える一方なわけです。だから、西欧だったら、たとえば、90%以上が賃労働者であるわけです。賃労働者というのは増加する一方なわけです。しかし、賃労働者というのは増加する一方ですけど、労働者というイメージの内容はたいへんな違いであって、また、自分自身を規定する場合でも、労働者としての自分と規定しないで、いわば消費人といいますか、消費する人間としての、あるいは、豊かな社会で生存している、あるいは生活している人間としての自分というふうに、自分自身を規定するように労働者というのは段々なっていきます。
 だから、労働者というふうに自分を呼びたくもないし、呼ばれたくもないというようなかたちというのは、これからもまた増えていくだろうということ、しかし、それにもかかわらず、賃労働する人間というものは日本だったらまだ七十何パーセントだと思いますけど、しかし、西欧ではもはや九十何パーセントだと思います。つまり、賃労働者の数が増えていく一方です、先進的になっていけばなっていくほど、増えていく一方ですけど、それと反比例するかのように、じぶんを労働者として規定するか、あるいは、じぶんを豊かな消費人、あるいは文化人、あるいは娯楽人として自分を規定するかになっていくと、自分を娯楽人として規定してとか、豊かな消費者として規定していくというふうな既定の仕方のほうが愉快であると、楽しいという考え方がだんだん増えていくだろう、つまり、自分を労働者として規定していく仕方というのは減っていくだろうということ、そのことが減っていく趨勢性にあるということは、非常に大きな経済社会、国家社会の問題だと思います。この問題はよく考えなければ、おまえ、労働者の自覚をもてとか、労働組合を抜けるなとか言ったって、あまり、生産・労働社会、その他の消費社会における、つまり、一日24時間のうち自分が渡り歩くあれがあまりに落差があれば、やっぱり豊かなイメージのほうに自己規定していきますから、だから、じぶんを労働者としては規定したがらないというふうになっていきます。
 もちろん、それと相対的にいえば、労働者の生活条件というものも、相対的にはどんどん向上していきますから、明日の米が食えないというような労働者というのは、そんなにいなくなっちゃって、これは50年前とはたいへんな違いで、そんなにいなくなっちゃったってこともあるわけで、ですから、消費人としての自分という、あるいは生産人としての自分というよりも、消費人としての自分というような考え方の規定の仕方というのがだんだん増えていくだろうということ、それにもかかわらず、賃労働自体は増加していくのが一般的趨勢であるということが非常に重要なことだと思います。
 それから、もうひとつ重要なことをついでですから言ってみますと、現代社会、あるいは、これからの社会で重要なことというのは、教育とか、交通とか、一般的に文化と言われているものもそうかもしれないのですけど、典型的にとっていきますと、学校とか、交通とか、つまり、鉄道とか、それから、病院とかというのはそうですけど、そういうものの全産業のなかで占める、つまり、全生産・労働社会のなかに占める重量、重さ、割合がどんどん増えていきつつあるということが非常に大きな問題だと思います。
 つまり、それは学校の教育というものは、直接、物をつくっているわけではないわけです。それは教えるということをしていることで、何か無形のものをつくって、無形のものを与えたり取ったりしているわけでしょうけど、いわゆるこういう具体的なものをつくって、それで生産してそれを売っているとかいうようなものじゃない、そういう一種の学校は産業と言ったらいけないのかもしれないですけど、生産・労働社会には違いないのであって、そこでの具体的な眼に見えるものをつくっているものじゃないものをつくる割合というものが、増大していきつつあるということが非常に重要だと思います。
 それから、病院だって同じで、べつに病気の人は治したってもともとなので、物をつくっているわけでもなんでもないです。また、欠陥を手術すれば多少、くっつけたというようなイメージが浮かぶけど、そうじゃなくて、治したり、切った張った言ったって、何かつくっているわけではないのですけど、しかし、それは欠くべからざるほど重要である、つまり、健康管理は重要であるというふうに、そういうものを一種の産業だというふうに考えますと、それはいわゆる古典的な意味での物をつくってそれを売り飛ばしているというような、そういう意味でない産業です。それは、非常にそういう割合が大きくなりつつあるということ、それから、宣伝とか、広告とか、文化というものも、そうかもしれません。べつにこれを食べたから、ご飯を食べなくていいというものじゃないものなのですけど、一種の産業みたいなものとして成立しています。その割合は増大しつつあるということがいえると思います。そういう意味合いの産業といいましょうか、そういうものは増大しつつあるということも、非常に現代国家にとって、非常に重要な問題だというふうに考えることができます。
 これが、いま申し上げましたところが、だいたい、現代国家のもとにおける市民社会、あるいは社会というものの関係の仕方と、それから、そこで主にあらわれてくる重要な問題というものが、だいたいにおいて、いま申し上げましたところをよく突っ込んで考えていきますと、相当はっきりしたイメージとして伝わってくる、つまり、それははっきりすることができるというふうに考えます。

4 「連帯」が突きつけた21項目の要求

 いま申し上げましたことを前提条件として、ポーランドの問題というものは、本日のみなさんから与えられたテーマに入っていきたいと思います。ポーランドの問題を考える場合も、まったく同じモデルを使うことができます。ただ、違うところは、呼吸作用と呼吸していない作用とこっちで分けましたけど、ポーランドみたいな社会主義国家というものは、呼吸作用と呼吸しない作用と両方がどちらでもいいわけです。どちらでもいいというのは、どちらも区別つかないように、全部が呼吸しているといえば呼吸しているし、呼吸していないといえば呼吸していないというふうにいえる、つまり、全部がそういうふうになっているイメージですから、これと同じモデルを使えば、これを分けなければいいわけです。つまり、緑色と赤とを一緒にしておけばモデルはできるということになっていきます。
 ポーランドっていうのは社会主義国であるわけです。国家は、統一労働者党、つまり、ポーランド共産党ですけど、ポーランド共産党が国家を掌握しています。日本だと自民党ですけど、ポーランド共産党が国家を掌握しているわけです。本来ならばイコールじゃないので、党というのはこういうところにおいて、つまり、両方に対して脅威を働かせているというようなイメージがいいわけでしょうけど、一時的には国家=党と考えてよろしいでしょうから、こういうふうにしておきます。そうすると、このモデルと同じモデルで理解することができます。考えることができます。
 ポーランド問題というものは、いわば、ソビエト圏の、つまり、東欧圏の社会主義国の一般的な問題というふうに考えてもよろしいわけですけど、とくにポーランド問題というものは、近年、大きな事件として、意味合いとして浮かび上がってきている、現在なお進行中なわけでしょうけど、それは、まず最初にぼくらの視野の中に入ってきたのは、グダンスクの連合ストライキというようなものが、これは生産・労働社会の個々の企業内の労働組合の連合体なわけですけど、だから、この範囲の中にある企業内労働組合の連合体です。それで、その連合体が地域から全国的につながったものが、だいたい「連帯」というふうに呼ばれている運動がある、そういうものの性格をもっているわけです。
 連合体の中でいいますと、この生産・労働社会の内部にある労働組合の連合体組織であるわけです。それが、地域から、グダンスクの造船所から始まって、全国的な組織になったというものが「連帯」である、だから、「連帯」の位置及び意味というのは、まずどこにあったかといいますと、生産・労働社会の範囲内にあるということが、このモデルを使うと非常にわかりやすくなる所以なわけです。
 「連帯」というのは何かといった場合に、それはまず基本的にいって生産・労働社会の内部における労働組合連合であり、その連合が各事業連合から地域に固まり、地域からまた全国的に固まったということ、だから、モデルでいえばこの範囲内にあるのが「連帯」という運動なわけです。
 「連帯」という運動で、様々な矛盾を、ポーランド社会と国家及び社会と国家の関係、もっといいますと、国家と生産・労働社会との関係、そういうふうなところで戦後四十何年間のあいだの矛盾が積もりに積もって、それがひとつの要求になってあらわれてきたわけです。
 そのときにそのストライキ委員会が21項目の要求というのを国家に対して要求しまして、交渉して、21項目の要求を通したということが、ぼくらみたいな遠方にいて、かつ素人なわけですけど、遠方にいてかつ素人な人間にも一種の関心として迫ってきたのは、それ以降だというふうにいうことができます。
 この21項目の要求の中でとくに問題な要求というものをここにあげてみますといくつかある、この特に問題な要求というのは、いってみれば、ぼくが重要な要求だと考えているのであって、この項目を抜き出していること自体は、ぼくのポーランド問題に対する位置というものと一緒なわけですけど、関連するわけですけど、それを申し上げてみますと、党とか、つまり、雇い主から独立した自由な労働組合というものをつくらせろということ、つまり、労働組合というものは、党とか、雇い主とは、関係ないのだと、関係のない自由な労働者だけでつくられる、そういう労働組合というものをつくらせろという要求が、非常に重要な要求だったわけです。
 そのメカニズムをあれしてみますと、ある企業がございますと、ポーランドでも工場長というのがいるわけです。工場長というのは、党あるいは国家が任命しているわけです。それから、労働組合というのはどういうふうにできているかというと、一般の労働者がいる、それから、工場の副長、工場長の次にいる工場次長ですか、工場次長というのが労働組合に入っています。それから、管理責任者、たとえば、局長とか、職場の事務長とか、そういうようなものも労働組合に入っているわけです。そして、工場長とか、管理責任者というのは、企業内にいる党の執行委員会というのはあるわけですけど、その承認を得なければ、工場長とか管理責任者にはなれないわけです。ですから、労働組合自体は、ようするに、工場長だけが国家の任命ですけど、しかし、いま言ったメカニズムからいきますと、労働組合自体が必然的に自由に党と雇用主から、あるいは国家から、独立した自由な労働組合ではありえないわけです。つまり、そこの矛盾が非常に激化してきたところでこういう要求が出てきているということがいえます。
 このことの問題のあとは付随事項みたいなものですけど、二番目にストライキの権利、ストライキ参加者、支援者の安全を保障しろと、つまり、そういうふうなことをしたらクビになるというようなことはないようにしろという要求です。
 それから、言論・出版の自由という、それから、独立出版物の弾圧の禁止ということ、それから、宗教労働者にマスメディア、つまり、テレビとか、新聞とか、そういうのを提供する機械を与えろという、そういう要求があります。これは、言論・出版の自由という要求と独立出版物の弾圧を中止しろという要求は、たぶんこれは、一企業の労働組合あるいは連合体の範囲外の一般的な、つまり、消費社会にも、家族社会にも、全部あてはまる、そういうものの要求であるわけです。
 それからまた、宗教問題に対するとあれですけど、ポーランドというのはカトリックの信仰が強いところですから、その宗教代表者のマス・メディアといいますか、一般的に国家が掌握しているテレビとか、放送とか、そういうものに対して、宗教代表者に提供しろというあれになります。
 それから、マス・メディアに「連帯」の要求を公表させろ、つまり、国家・党のいうことばかりがテレビで放送されているのではなくて、「連帯」の要求がどういう要求か、労働者連合がどういう要求をしたかということもテレビで流してくれということだと思います。テレビとか、新聞とか、そういうので流すようにしろということだと思います。
 それから、これは一種の理想化に対するひとつの要求なのですけど、すべての社会集団に改革計画への参加の権利を与えろ、それは専制あるいは独裁じゃなくて、すべての社会集団に参加の機会を与えろということです。
 それから、もうひとつは党員かどうかによって、管理責任者といいますか、つまり、日本でいえば課長さんとか、局長さんとか、そういうことでしょう、それを党員かどうかということで決めるのは、ようするに、能力があるかどうかってことで決めるようにしろと、こういう要求であるわけです。
 それから、あとはまた今度は一般的な社会全体に渡る要求なわけですけど、党機関とか、それから国家保安警察とかの特権を廃止しろというわけです。その特権というのはどういう特権かというと家族手当を同じにしろと、労働者も、いわゆる党機関にいる人間も、それから、国家保安警察も、家族手当をふつうの労働者と同じにしろという要求です。これは4倍とか、5倍、こっちのほうがいっぱいとっているわけです。だから、それをとにかく平等にしろと、こういうふうに言っているわけです。
 それから、消費財の排他的分配制度という項目がありまして、これは物を買う場合に、党機関の人間とか、保安警察の人間というのは、そういう人達だけは、特別そこにいけば物を自由に買えるという、そういう店があると、そういうふうになっているわけです。そんなのをやめろと言っているわけです。
 主として21項目の要求で、これをそのときの国家が承認したわけですけど、承認した要求のうち、非常に主な部分と、それから、様々な問題を含んでいる部分は、いま申しましたところに尽きるわけです。だから、そういう要求というのをみなさんはどういうふうにお考えになるかわからないけども、このなかに様々な問題が含まれています。それは、社会主義とは何かという問題、それから、社会主義というのは本来的に何なのか、それから、具体的には社会主義というのはどういうふうになっているのかというような、様々な問題がいま申しました21項目のうち、いま申しました点をよく考えていきますと、それがそのなかに含まれていることがわかります。

5 要求の本質は何か

 ポーランドの農村と労働組合、つまり、工場ですね、工場と農村、あるいは、工業と農業がどのようになっているかといいますと、工場ではいま申し上げましたとおり、工場長がいて、労働組合の委員長というのは無記名投票で決めるわけですけど、ただ、組合の役員が候補者名簿を提出することできるというあれがあるものだから、この委員長というのを、もし影響力を及ぼそうと思えば、国家・党の影響力を及ぼして選ぶことができるというふうになるわけです。
 それから、いま言いましたように、工場副長とか管理責任者というのは、それに任命されるためには、党から出ている執行委員会の承認を得なければなりまんから、これは当然、党・国家の影響下にあるわけです。それに対して一般労働者がいて、労働組合の人はこれだけを統括して、工場長は労働組合に入っていないと、こういうかたちになっているわけです。
 ポーランドの農村ですけど、農村はどういうふうになっているかといいますと、だいたいにおいて自営農業というのがだいたい80%、それから、生産物の20%は国営農業ですから、生産物の80%は自営農業でつくられる。人口の比率でいいますと、85%が自営の農家、それから、国営の農業というのは、15%が国営の農業の人工であるというふうになっている。
 ところで、自営農業というのはどういうふうになっているかといいますと、土地の相続税というのが地価の80%です。相続税というのはここの税金収入に入るわけですけど、だいたい地価の80%が相続税としてとられる。それから、自営農業の相続者というのは、国家試験を受けなくちゃいけない。国家試験に合格しなければ農家のあとを継ぐことができないというふうになっている、それから、収穫が不良だったら、その土地を国家がせしめて没収することができるという法律があると、そうすると、ここで土地の国家摂取が可能だっていうこと自体が、ここでいいますと呼吸作用のなかに入ってくるわけです。赤い字で書いてありますけど、この部分は自営農業といえども国家の干渉から成り立っているということになります。
 つまり、国家の衝動としては全部を国営農業にしたいという一種の衝動がありますから、そういう衝動をうまく実現したいために、とにかく接収して国家組織にしたいという場合には、農村の子弟を遠い学校へ転向させる、そうすると、そこへいかざるをえないから、土地は接収することができることになるということで、そういうことをやたらとやるやつもでてくることだと思う。それで、住宅建設も中止させる。
 それから、子弟を国営農場で働かせるために間接的に軍隊に徴収して、そして国営農場で働かせる間接的な方法をとる。それで、農業生産のためのスキとかクワの道具がいるわけですけど、そういう道具の購入はもちろん申請して、村長の許可を受けなければ交付されないというような、そういうふうになっていると、そういうかたちで、主としてそういう自営農業のところで、土地相続税、国家試験、それから、土地の国家接収というような、そういう事態が非常に早急にというか、不正にといいましょうか、無理に不正にそれがやられるということ、それに対して、異議申し立てをする可能性がほとんどないということ、つまり、異議の上申の使用がないということ、そういうあれがありまして、それが農村における「連帯」の運動の起こってきた非常に大きな基盤であるわけです。
 そうすると、「連帯」の要求は農村においても、工業においてもそうですけど、それは図でいいますとどういうことかといいますと、つまり、国家の呼吸作用と被呼吸作用における、国家の生産・労働社会に対する干渉というようなものがだいたい内部まで浸透していくわけですけど、資本主義社会ですと、御用組合だとだいたいそうじゃなくて、これと同じになるわけですけど、御用組合というのは、だいたいここらへんまで浸透しているわけですけど、だいたいポーランドなんかでも、ここらへんの中まで、国家の干渉というのが浸透していったわけです。
 そうすると、「連帯」の21項目要求というものの本質的な位置づけというのはどういうことかというと、生産・労働社会の内部にまで浸透している国家・党というものの干渉、あるいは強制力というものを、とにかく、この線まで、つまり、生産。労働社会の上限といいましょうか、この線まで押し返すといいますか、このなかだけは独立した自由な労働組合の裁量に委ねるべきだという、そういう要求になります。つまり、これが、「連帯」の要求ということの本質的な位置づけということが大切なところだと思います。
 こういうことを言っていることはどういうことを意味しているかということなんですけど、そのことはここまで浸透している生産・労働社会に対する国家の呼吸作用及び非呼吸作用の干渉度、関係付け方を、ようするに生産・労働社会の上限のところまで、ここまでとにかく押し返すといいましょうか、この内部だけは、労働者の自由に委ねるべきだと、自主的な裁量に委ねるべきだという要求として、だいたいにおいて、「連帯」の要求というのは位置づけることができます。
 つまり、それ以上の意味あいがある項目はほとんどないのです。出版・言論の自由、独立出版物の弾圧中止とか、宗教代表者にマス・メディアを提供する、マス・メディアに「連帯」の要求を公表させろという、そういう要求は、この範囲で、つまり、社会というものの上限にまで関係づけられる要求ではありますけど、この要求は「連帯」の本来的な要求からいえば、言ってみるだけだという意味あいのほうが強いです。
 だから、本来的に「連帯」の要求というのは何かといったら、一般的に生産・労働社会の内部にまで浸透している国家の呼吸作用及び非呼吸作用における干渉というものを、とにかく生産・労働社会の境界までは出てもらおうと、ここまで押し返すといいましょうか、そういう要求として位置づけるのが、最も考えやすい位置づけ方だと思います。
 そして、2,3の項目が全社会生活にまでわたる要求項目がありますけど、それは、さしあたって言ってみるだけだという意味あいが強いと思います。そこの問題だと思います。それから、国家と党機関の特権を廃止してくれという要求がそれに加わっていますけど、そういうふうに本質的には考えられると非常に考えやすいんじゃないかと思われます。

6 ワレサの構想

 ところで、ひとくちに「連帯」の労働組合連合というふうにいいましても、そのなかに様々な考え方の人と様々な本来的な主張の人が、全部、労働者、それから市民、それから知識人というものの一種の混合体といいますか、連合体になるわけで、本来的に統一した、一から十まで統一した主張をもっていて、それでやられたわけではなくて、非常に様々な要素をもった、様々な主張をもったあれが混合しているわけです。そのなかには、民族の独立があればよいというような、つまり、ソ連の干渉を排除すればいいというだけの人もいるでしょうし、もう社会主義というのはやめにしようじゃないかという人ももちろんいるわけです。それから、社会主義じゃなくちゃいけないという人もいるわけで、様々な構想の一種の連合体なわけです。様々な考え方が入り混じって形成されているわけです。
 しかし、それを根幹の部分といいますか、本質的な部分で、それをたどっていきますと、それは、何人かのいくつかの構想というものに象徴することができます。そうしますと、それらの人達がどういう構想を抱いていて、現に位置づけは、いま申しましたところですけど、位置づけだけに留まらないで、それぞれの構想があるわけで、その構想がどういうふうになっていたかということを、代表的な構想についてだけ、申し上げてみますと、そうしますと、またわかりやすいですから、まず「連帯」の委員長だったワレサという人の構想があります。この人は我々が考えている労働運動の指導者というもの、あるいは、政治運動の指導者とかいうものと、たいへん違う人だと思います。違うイメージで考えなければならない、非常に新しいといいますか、珍しいといいますか、初めてのタイプの人だと思います。だから、皆さんは総評の槇枝とか、そういうのといっしょくたに考えないほうがいいと思います。ワレサというのはああいうやつだと考えないほうがいいと思います。もっと優秀です。優秀ですし、ある意味で素人です。槇枝なんかに比べて素人だと思います。つまり、素人のよさというのと、よさじゃないというのもあるのでしょうけど、素人のよさをもっている人、もっと自由な人、内面では自由な人だと思います。つまり、自由なあれができる人だと思います。
 ワレサという人の構想はどういう構想かというと、基本的なことでいいますと、「連帯」というのは、国家とか、党とか、企業管理者から独立した非正規的な労働組合連合であるということが、ワレサという人の考え方で非常に重要な点です。
 つまり、図面でいいますと、生産・労働社会の内部にまで浸透してくる、党・国家の呼吸作用及び非呼吸作用における干渉というのは排しなくちゃいけない、それは受け付けないと、受け付けてはいけないんだと、そんな干渉してもらっては困ると、だから、この線まではちゃんと戻ってもらわなくちゃいけないと、ここは自由な労働者の意志によって、運営される労働組合じゃなくちゃいけないというふうなことで、ワレサの構想は基本的にここの構想を生かしているわけですけど、重要なことは、まずワレサはそれ以上であってはいけない、「連帯」というのが政治的な要求をしたり、政治的にふるまったりしてはいかんのだというのが、非常に重要な点だと思います。ワレサが考えた重要な点だと思います。
 つまり、ワレサの考えでは、ここまでやるために、党・国家の呼吸作用・非呼吸作用における干渉を排除しなくてはいけないけれども、しかし、あくまでも非政治的な労働組合連合でなければならないといいますか、図解でいえば、ここのところでピタリと「連帯」というのが止まらなくちゃいけないということだと思います。そのことがワレサの構想のなかで非常に重要なことだと思います。
 それから、もうひとつ重要なことがあります。こういうことは、専門家でないとわからないのですけど、ワレサは教会の役割は、つまり、歴史的にいってポーランドにおける教会の役割は非常に反体制的といいますか、反権力的だった。だから、教会の役割は尊重されなければならないというのが、ワレサの構想のなかに非常に大きく入っています。
 これは、日本なんかの場合にはそこまではいかないのではないでしょうか、たとえば、日本でいちばん多人数の、人数だけ大きな宗派というのは、浄土真宗とか、親鸞系統だと思いますけど、それの役割を尊重しなければならんということは、たとえば、富塚とか、槇枝が言ったとはちょっと考えにくいでしょ、しかし、これはたぶん、ポーランドの歴史的なあれによるんだろうと思いまして、これは僕らの解釈の、あるいは理解の範囲外にあるというような、よくわからないと思います。しかし、ワレサのなかには非常に重要な要素としてそれが入っています。
 それから、それにもかかわらず、ワレサが言っていることなのですけど、ヤルゼルスキイというのがこのとき国防相だったわけですけど、のちに首相になるわけです。ワレサはヤルゼルスキイというのは軍人で、純粋で、あんまり腐敗していないといっているわけです。だから、腐敗していないから、党・国家というのは、ヤルゼルスキイがやるよりしょうがないというふうに言っているのです。
 そういうところが素人だと思いますけど、つまり、ワレサという人がそう言っているということは、たぶんポーランドの民衆の大部分がヤルゼルスキイというのは、軍人で腐敗していなくて、純粋で、そして、不正に対してはいつでも厳格でやっつけるいい人であるというふうに、つまり、戦争中でいいますと、東条英機というのは純粋であまり腐敗がなくて、政党人みたいに腐敗堕落していないからあれはいいというふうに一般大衆が思っていたわけです、日本でも思っていたわけですけど。それと同じような意味あいは、ワレサの考え方のなかにあります。だから、そこがワレサが素人であるところであるし、ワレサのそういう考え方は、たぶん僕は、ポーランドの大衆のなかに相当多くあったのではないかという、つまり、大部分の人は潜在的には、ヤルゼルスキイならよくやってくれるみたいな、つまり、腐敗堕落とか、党員だけが特権的な待遇を受けている、そんなものはやめてくれるというふうに、だから、わりあいに期待感というのがあったんじゃないかというふうにぼくは推察します。
 これは、ぼくらでも第二次大戦、太平洋戦争中の僕らの体験といいますか、したことを考えれば、非常によく、そういうことは納得いくことがあります。ああいう軍人というのは、戦後はファシストということであまり評判がよくないのですけど、当時はそうでもなかったのです。変な腐敗した政党人よりも、東条のほうが、軍人で、悪いことはしないというイメージがあったんです。それは、大部分の大衆が潜在的に思っていたわけで、ワレサはそういう意識を象徴していると思います。
 それで、ヤルゼルスキイがやって失敗して、それでもソ連が介入してこなかったとしたらば、「連帯」というのは、政治的国家を担当する意志だけはあると言っているんです、ワレサは。つまり、政治的国家というのは、ようするに国家です。「連帯」が国家を担当する用意がある、あるいは、そういうつもりはあるんだと、そういうふうに言っているわけです。
 こういうのもやっぱり素人なところだと思うのですけど。図面でみれば非常によくわかるのですけど、ワレサの基本的な構想というのは、生産・労働社会の上限といいますか、限界のところにちっとも引っかかってきていないのです。生産・労働社会の内部に独立した労働組合をつくらせろ、つまり、労働者の自由な労働組合をつくらせろといっているので、この範囲をちっとも逸脱していない考え方なのです。
 それから、ご覧になればわかるように、それから国家までに至る道というのはこんなに距離があるわけなんです。だから、ここの範囲内で、自分の基本的構想というものをこの範囲内に、限界内に留めておいて、しかし、みんなダメだったら、俺たちは国家を担当する用意があるって言うというのは、ただようするに、言ってみるだけならいいのですけど、ご覧のように、ここまでで厳密に自ら限界づけながら、しかし、国家を担当する用意があるという言い方は成り立たないことがわかります。つまり、理論的には成り立たないことがあります。つまり、まだたくさんあるわけです。突破しなければならない様々な問題というのは、一般市民社会にもありますし、それから、社会と国家とが最もきわどく相矛盾する、そういう場面というのがあるわけです。そこも突破しなければならない。そこも突破しなければ、ここには到達できないわけです。だから、言ってみるだけならいいですけど、それは実際には自分の、ワレサの構想からいったら、ヤルゼルスキイが失敗してソ連が介入しなければ、「連帯」は政治的国家を担当する用意があるといっても、それは成り立たないです。つまり、なんらのプロセスといいましょうか、途中の過程を踏む、そういう構想なしに国家を担当すると言っているだけであって、それはほんとうに心からそう思ったわけですけど、しかし、それは結果的にみればといいますか、結果的に見なくても、それは言ってみるだけという意味しかないということがわかります。そのことはやっぱりとてもよく考えなくちゃいけないことのように思います。つまり、ポーランドの大きな教訓のひとつだと思います。

7 クーロンの構想

 それから「連帯」の理論家のなかで、ぼくらが見ていて一番優秀だなとおもう人はクーロンという人です。クーロンという人の構想を申し上げますと、雑感なんですけど、いくつかの重要な項目だけ申し上げますと、「連帯」というのは労働組合の連合体だと、労働者の利益防衛という範囲を逸脱すべきでないという考え方です。この考え方はワレサの考え方と同じです。同じで、たぶん、その考え方は正しいと思います。どんな場合でも正しいと思います。
 日本でやっても同じです。日本の労働組合というのは政治的なつまらないクチバシを入れますけど、そんなものは本来的に労働組合の役割ではありません。なすべき役割ではないのであって、本質的にのみいえば、労働組合というものは、生産・労働社会における、そういう自由な労働者の構想と、それから、利益を上申したりするという役割が非常に本質的なところであって、政治的なことにクチバシを入れるということは、たぶん、あったとしても副次的なものだと思います。クーロンの構想も、ワレサの構想も、たぶんそこのところは非常に本質的であって、いいんだと、ぼくは理解します。
 ところで、クーロンの構想のなかでは、労働組合運動のそのかわりといいましょうか、ワレサよりはるかに具体的なわけですけど、労働組合運動の外部に各種の自主管理組織をつくろうということ、それは労働組合の、つまり、生産・労働社会の外部にです。外部に各種の自主管理組織をつくろうと、こういうふうに言っているわけです。
 その主なものというのを言ってみますと、ひとつは労働者小議会をつくろうと言っているわけです。それから、もうひとつは、これはその前からあるわけですけど、工場評議会を労働者の意志が通ずるような意味あいで運営していこう、この工場評議会というのは、たとえば、労働者の社会基金とか、労働者が困った場合に融資する、日本でいえば、労働金庫みたいなもので、そういうものとか、相互扶助とか、そういうことを協議する評議会ですけど、この場合に労働者の意志がよく通りやすい、党・国家の意志ばかりじゃなくて、労働者の意志が通るような、そういう評議会をそういうふうな運営の仕方にしようということです。
 それから、労働者小議会をつくろうというのがあるわけです。労働者小議会というのは何かというと、労働生産問題に対して、労働者と政府側・国家側の議員とが平等の資格で論議して、そして、そこで決まったことの最終決定責任者は政府国家が担当して、しかし、労働者も政府側の議員と平等な資格で、つまり、一票一票で、そこの議員として参加しうるという、そういうかたちで労働者の小議会をつくろうという、クーロンはそういう構想をしています。
 それはクーロンの構想を図解しますと、こんなことはどうでもいいのですけど、図解しますと、この出っ張った部分だけ、つまり、ワレサの構想よりも出っ張った部分だけ、社会全般の事、労働者組合連合の外部といいましょうか、外部にそういうものを構想しているということで、図解しますと、ワレサに比べればこういうふうに、つまり、出っ張ったラインで要求を打ちだしていったわけです。だから、ワレサの構想よりははるかに具体的なことがわかります。
 この図面では、消費社会のなかに「労働者小議会」とか、「工場評議会とか、書かざるをえないから書いているわけですけど、これはほんとうは立体的にこういうふうに書くべきであって、そういうところだけがワレサの構想に比べると、クーロンの構想は具体的であることがわかります。
 それからもちろん、言ってみるだけのことはたくさん言っています。経済改革のため運動体をつくろうとか、社会生活のすべての領域で自主的な活動を組織しなきゃいけないとか、そういうことは言ってみるだけということになるのでしょうけど、具体的な構想としては、ワレサの構想よりもクーロンの構想のほうが、これだけは具体的かつ詰めているといいますか、切実になっているといいましょうか、つまり、社会主義的構想に対して、具体的になっているといいましょうか、これだけ具体的になっていることがわかります。

8 ビピフ、シュライフェルの構想

 それから、これは「連帯」の中堅、あるいは、「連帯」にいる非常にラジカルな知識人ですけど、つまり、理論家ですけど、ビピフとか、シュライフェルという人達の構想があります。この人達は日本でいうと革マルとか、中核とか、そういう左翼反対派的な人達のラジカルな評論家たちだと思います。
 このラジカルな理論家たちの要求といいますか、構想というのがあります。この構想は、いくつか重要なことをあげますと、「連帯」の運動は企業レベル、地域レベル、全国レベルで、経済社会権力を労働者階級が掌握するところまで拡大させるんだと言っているわけです。
 これはどういうことを言っているかというと、図面でいいますと、生産・労働社会における労働者というものを社会権力として組織すべきだと言っているわけです。つまり、力としてそれを組織すべきだと言っているわけです。協議会として、政治家・議員と同等の立場で協議するとか、そういうことじゃなくて、とにかく権力なんだと、労働者の国家権力じゃないですけど、あるいは政治権力じゃないけど、社会権力として組織すべきだと、企業から地域へ、そして地域から全国へ、そういうふうに組織された、言ってみれば「連帯」というのは、これはひとつの社会的な権力である、つまり、社会的権力の組織であるというふうに、あるいは、もっと別の言い方をすれば、社会的国家権力であるというふうに、とにかく「連帯」の運動を組織すべきなんだというふうに言っているわけです。
 それは自主的な労働組合連合体をつくれとか、あるいは、対等の立場に立った労働者議員として、政府側議員と協議して一票一票で決めようというようなものじゃなくて、生産・労働社会における労働者の「連帯」運動自体をひとつの社会的な権力として組織しよう。たとえば、それは要求が通らなかったら、権力を行使しようみたいなことも含めて権力として組織すべきだ、それが正しいんだという考え方です。
 それから、国会内に「連帯」の労働組合代表が参加する、国会と全国評議会の選挙を行う、これはいままであるところの国会ですけど、すでに存在している国会ですけど、そこのところに「連帯」の労働組合代表が、「連帯」の労働組合代表として参加できるような、そういう国会に国会を変えようと、こういう要求だと思います。変えようということを考えているわけです。そういうような選挙を全国的なレベルで、つまり、国会レベルでそういうものをつくれと、こういうふうに言っています。
 それから、三番目に労働者院をつくれと、こういうふうに言っているわけです。日本でいえば衆議院とか、参議院とかあるわけですけど、労働者院というのをつくって、それは日本でいえば、参議院の役割をするのか、衆議院の役割をするのか、知りませんけど、労働者だけからなる労働者院というものをつくれ、そこで、決議されたこと、あるいは、否決されたら、どれだけの効力があるかというのは、ぼくは詳細に構想を知りませんけど、しかし、とにかくある効力がある、つまり、決議されたことと否決されたことは、日本でたとえば、衆議院に通ったけど、参議院で通らなかった、否決されたのと同じ、差し戻しというのと同じような意味あいの、そういう権限がある労働者院というのをつくれと、こういうふうにあります。
 それから、そこのところまででも決定的なんですけど、もうすこし、4になったら決定的で、統一労働者党、つまり、ポーランド共産党です。ポーランド共産党は行政的権力を禁止しろと言っているわけです。つまり、ポーランド共産党国家というのは行政的な権力を行使することはやめだと、「連帯」の労働者の運動のなかにポーランド共産党自体も参加していって、その参加する過程でもって、自分を変え、そして、連帯しながら、新たなる国家という、もし国家が必要ならば新たなる国家というものをつくるための一員といいましょうか、一要素として参加しろとこう言っているわけです。国家として行政的権力を行使することはなしにしようと、だから、「連帯」の運動のなかに流れが入っていって、流動する過程で自分たちも変えるし、みんなも変わるしみたいなかたちで形成して、そして新たにもちろん理想形と考えられる国家というものをつくることに、そういうふうに参加すべきだと、こういうふうに言っているわけですから、4の項目に至って、もしポーランド共産党が国家を維持しようとしているならば、これは真っ正面から衝突することになります。つまり、4の項目というものは革命ということ、つまり、政治革命の要求ということを意味しています。つまり、ここに国家があっても、それはいまはないとしようじゃないかと、こう言っているわけです。おまえらが入ってこいと、ここに一緒に入ってこいと、その過程であれしながら、それで新しく理想となる国家というのをつくろうじゃないかと言っているわけですから、これは政治革命です。政治革命の構想、4の構想はそういうことに該当します。
 これがラジカルでないのからラジカルまで、「連帯」の運動を主導してきて、あるときは、ワレサの構想が勝ち、あるときは、クーロンの構想が大勢を占め、それから、非常にきわどくなったときには、ビピフの構想が、たとえば、若い労働者とか、学生さんのなかに浸透してきてというような、さまざまな特徴といいますか、「連帯」の運動は揺れたわけですけど、しかし、この3つの構想というものをあげますと、だいたいにおいて「連帯」というものは何を目指そうとしたのか、あるいは、何を目指そうとしてできなかったのかとか、あるいは、何を目指さなかったのかとか、そういうことっていうのが、だいたいにおいてつかめるんじゃないかというふうに思います。

9 なぜ「連帯」には政治革命の構想がなかったのか

 そうしますと、だいたいにおいて、こういうかたちで、こういう構想が主導しつつ、「連帯」の運動というのが流動していったわけですけど、たぶん、遠くから傍からみていて「連帯」の運動が最盛期に盛り上がったときには、ワレサじゃないけど、構想力さえもっていたら、国家を担当するだけの力量と、それから、そういう勢いといいましょうか、そういう勢いと力量と、そういうものが最盛期にはあったと思います。
 だから、もしはじめから政治革命という構想をもっていたとしたら、また、やりようがずいぶんあったわけですけど、ご覧のとおり、政治革命の構想というのは、ワレサとか、クーロンとか、「連帯」運動の主導的な人達のなかにはなかったと言っていいと思います。ほとんどないわけです。つまり、言ってみるだけのあれはあるわけですけど、ほとんどは、生産・労働社会の範囲内をそんなに出ないところでの改革要求なのです。
 これは、どうしてなかったかということが問題になるのですけど、ぼくの理解の仕方では、はじめからなかったような気がするのです。はじめから政治的国家を担当しようとか、政治革命をやろうとか、そういうところまで、はじめから考えが及ばなかったということが、ひとつあるんじゃないかという理解の仕方だと思います。
 それから、もうひとつは、みなさんのお伝えすれば、つまり、もしあれだったら勉強してほしいと思うわけですけど、ぼくの考えでは、クーロンとか、ワレサとかいう人達の、先ほど言いました、国家と社会と、それから生産社会と、その中での、その3つの間の、国家と社会全体との関係、あるいは、国家と生産社会との関係、国家と消費社会との関係、そういうようなものの関係について、ようするに、立体的なイメージをもっていなかったんじゃないかという気がして仕方がないのです。
 たいへん平和的に考えて、盛り上がってこれだけ力があるんだからもうひと押し、ひとつぶしだというくらいのところで、あまり国家というものと市民社会というもので、とくに社会全体と生産・労働社会がそのなかに占める位置、それから、生産・労働社会と消費社会というものがどういうふうになっていたかということ、つまり、ポーランドというものは、世界の10番目ぐらいの国民所得、成長率をもった国ですから、消費社会と生産社会のイメージというのは、だいぶ格差があるはずなのです。そういう問題ということについて、それから、労働者というものが自分をどういうふうに規定したいと思っているかというような、そういう問題についての、ぼくはあまり考察が足りないんじゃないかと、そこがほんとうにできていなかったんじゃないかというふうに思われることがあるのです。そこが問題なわけです。
 それから、もうひとつはもちろん、基本的にこれは労働組合運動に党・国家の干渉を排する、つまり、日本みたいな資本主義国でいえば、御用組合は嫌だと、御用組合はご免だと、こういう要求にとどまる、もともとその要求をそんなに出なかったんだけど、そこに市民とか、一般の人たちの、あるいは学生さんとか、そういう人達の、一般的に鬱積した、戦後四十何年経ってからですけど、戦後四十年の鬱積した国民的不満とか、不服とか、そういうものが、加算されて、ひとつの勢いとしてはたいへんな勢いになったのだけど、しかし、よく考えてみると、その勢いに比べたら、この範囲内でしか、この構想力をもっていないということになります。
 到底、政治的国家に到達すべき構想力というのは初めからなかったということ、それから、初めからなくてもいいのだと思っていたんじゃないかという気がして仕方がないのです。いいんだというのはどういう意味かっていうと、つまり、それで正しいんだと思っていたような気がしてしょうがないのです。つまり、国家と社会というものを、とくに現代国家における国家と社会との関係というものに対する洞察、それから、労働者、つまり、生産・労働社会における人間というものと、それから、社会全体における人間としての人間、それから、生産・労働社会においての人間というような概念との隔たりとか、そういう問題について考えなくてもいいと思っていたんじゃないかという気がして仕方がないのです。
 だから、そこのところがもしあったとしたら、それはこの人達が悪いのであって、この人達の欠陥なのであって、それはぼくらがポーランドに対して、多少でも関心をもってあれしていくとすれば、そういう問題に対して、自分たちがどういうふうに考えるか、考えていけばいいかということを具体的に考えて補っていく必要があると思います。
 それを考え抜いていくことが必要だと思います。つまり、国家と現代国家との関係というものに対して、よくよく微細なイメージを自分たちの国家についても、西欧の国家についても、一般的に先進資本主義国、及び、一般的に先進的な国家における社会と国家との関係について、もっとたくさんの考察、それから、具体的なイメージをもっていることが必要じゃないかというふうに思われます。
 それは、そのことを補ってあげるっていう言い方はおかしいですけど、補うことがべつにワレサに通ずるわけでもないし、ポーランドに通ずるわけでもありませんけど、通ずるとは限らないわけですけど、しかし、通ずるか通じないかということは問題じゃないので、あるいは、問題としても第二義的な問題であって、そうじゃなくて、これらの人たちが、主導的な人達がもっていた構想力の欠如というものを、あるいは、社会と国家との関係付けの関係に対する考察・洞察の欠如というものに対して、ぼくらがそれを補おうとすることができれば、それはポーランドの教訓であるし、また、ポーランドに対する僕らの寄与だといいますか、ぼくらが支援したことになるというふうに、ぼくはそういうふうに理解しているわけです。
 だから、これを具体的にポーランド支援の会というものをつくって、ワーッといって、そういうことが支援だと、必ずしも思わないのです。そういう支援があるでしょうけど、しかし、そうじゃないのであって、これは、本質的に欠いていたところの構想を、あるいは、本質的に欠いていたところの洞察それから分析、そういうようなものを自分たちがなんとかして補っていって、追究して補うことができるということ、より具体的にそういうことができるということができれば、そうすればそれ自体が通ずる通じないは第二義的問題であって、それがポーランドならポーランドに対するひとつの寄与だというふうに、ぼくはそういうふうに理解します。だから、みなさんは学生さんなので、それこそ「連帯」したい人もいるわけでしょうけど、血の気の多い人もいるわけでしょうけど、必ずしもそうだけじゃなくて、追及すること、それは社会学というかたちで、あるいは、政治学というかたちで追及してもいいわけだし、あるいは、マルクスの思想というかたちでもいいわけですし、あるいは、一般的に社会の変革というのはどういうふうになされるのかとか、そういう問題として追及してもいいわけでしょうけど、とにかく追及して具体的なイメージというものを構想していくということが、それが一種のポーランドに対する支援であるし、寄与であると考えるわけです。
 なぜかといいますと、これらの人たちは、少なくとも、社会主義国家のなかで40年を経ているわけです。つまり、社会主義国家で40年経ているということは、社会主義に対して具体的に非常によく知っていることを意味しています。
 その知っている人達の構想のなかに、なおかつ、欠陥と思われるものがあるとすれば、その欠陥を補うということは、たぶん、世界の現在の政治社会思想というものにおいては、最も先端的なことを考えることを意味します。そのことができあがることを意味します。だから、そのことは非常に重要だというふうに、ぼくはそういうふうな理解の仕方をとります。

10 「連帯」最盛期の基本綱領に欠けていた構想力

 「連帯」の最盛期というのは、これは81年の10月7日なんですけど、そこで基本綱領というものが採択されています。その基本綱領のなかで非常に大切だと思われることをあげてみますと、ひとつは労働者による自主管理と民主的改革、社会管理下における経済改革、これは、ワレサとか、クーロンの基本的な構想のことを別な言葉で言い換えただけだと思います。それをより包括的な言葉で言い換えただけだと思います。
 それから、多少の違いをあげてみますと、法的な、あるいは組織的な、財政的に国家から独立した地方自治体が地域住民の代表であるというふうな、そういう考え方があります。これは、日本でいえば、岩手県なら岩手県というのを、中央政府からかなりな程度、独立した予算と、それから県民の意志と県民の利害によって動かされるような、予算もそうだけど、そういうふうにしようということと、いってみれば同じようなことだと思います。そういう構想を立てています。
 この「連帯」に対して、地方自治体というものを考えると、ここらへんに自主的な地方自治体のあれを地域的につくれというふうに言っている、それは全部こういうふうに考えて、ぜんぶ関連する地方自治体の、国家とは独立した財政的な基礎をもった、そういう地域住民にとってのひとつの小さな国家ですね、そういうものをつくるべきだということを言っていると思います。
 それから、自主管理とか、自治とかいうもの、この範囲内での要求というようなものがどんどん発展していった場合には、社会・経済を担当する国会の第二院をつくるべきだと、つまり、この人の構想でいえば、最もラジカルな構想でいえば、労働者院の設立ということと同じだと思います。つまり、生産・労働社会における労働者の利益を第一義とするような、そういうひとつの衆議院に対する参議院みたいな、そういう第二院みたいなものをつくれと、こういう要求だと思います。
 この要求が「連帯」の最盛期の基本綱領というのを考えでいきますと、だいたいにおいて、基本的にはワレサ、それから、クーロンの構想というものが基本的になっていて、それに対して、ビピフとシュライフェルの構想というものが気分として加味されているというふうに考えると、だいたい「連帯」が最盛期にもっていた基本的な行動綱領みたいなものは考えることができるのではないかと思います。そこらへんが「連帯」の最盛期の基本綱領であったわけです。
 ところで、この「連帯」の最盛期の基本綱領に対して、「連帯」自体はいま申しあげましたとおり、一種の労働運動あるいは労働運動連合体としての構想というものは、この範囲では、非常に明晰に、非常に強力にあったわけですけど、それ以外の社会的な構想とか、とくに政治的な構想というものは、ビピフなんかのこういう構想を除いては、ほとんど存在しなかったことがわかります。
 しかし、ビピフ・シュライフェルという、こういうラジカルな構想というのは何を代表しているか、たぶん労働者の意志を象徴していたと思います。つまり、少数であるけど、ラジカルな部分の意志は象徴していたと思います。だから、「連帯」のなかで、ラジカルな部分の構想が、いわば若いもの同士、あるいは市民、それから、ラジカルな知識人というもの、あるいは、学生というもののなかから出てきて、「連帯」の運動を相当ラジカルな部分に押し出していった要素というのがあったと思います。その押し出していった要素というものが、極まっていけば、いってみれば、統一労働者党国家というものの一種の否定あるいはリコール、それじゃなければ、政治的革命といいましょうか、つまり、リコールして否認するというようなところの勢いまで、当然、ビピフの構想を、とくに第四の構想をたどっていけば、どうしてもそこへいくわけです。それがポーランド国家、統一労働者党国家にとって、もはやこれ以上あれしたら、統一労働者党国家というのは潰れる、つまり、自分たちは潰れると判断したときに、クーデター、つまり、軍事独裁下でもって、軍隊と警察を動員して、そして、「連帯」運動を潰すって、運動の根拠というものを吸収して、それで潰すという挙に出たというふうに思います。
 つまり、当然、ビピフの構想というもの、たぶん、若い労働者とか、学生さんとか、ラジカルな市民とか、そういう人たちのもっていた要素、その要素が、もはや統一労働者党の国家にとっては、もはやどうすることもできない。これ以上進めていったら、自分たちが潰れる以外にないといったときに、弾圧を執行したということで、「連帯」が一挙に潰れたと思います。
 潰れたということは、誰がどうやったって潰そうと思ったから潰れたということでしょうけど、しかし、ぼくはもう少し「連帯」に、単に生産・労働社会における労働者連合体というもののあり方の構想だけではなくて、都市全体が社会全体に対してもある構想をもつ、それからもちろん、政治的国家、あるいは法的な国家に対しても、一定の構想力をもって、その構想力に対してどういうふうに近づいていくかというような、そういうものが具体的なイメージにされていて、それが、ちゃんと入っていたとしたらば、これはまだ、やりようがいくらでもあったわけでしょうし、衝突するにしても、不用意な衝突の仕方をしないで、衝突の仕方というのがありえただろうと思います。
 しかし、いままでたどってきましたとおり、基本的にいえば、「連帯」の運動は、この範囲内に、生産・労働社会の範囲内に基礎をおいているので、この範囲をどうしても逸脱したくない、あるいは、しようとしないという、逆にいい言葉を使えば、分をわきまえすぎているといいましょうか、そういうあれがあったように、統一労働者党国家に対して幻想があったり、様々ないろんな要因が重なって、この範囲を逸脱することがなくて、しかも、勢いとしては「連帯」の要求というのは、どんなことをしても通るというぐらいの勢いと旗印を示したと思います。
 だけれども構想力がちっともないというような、そういうところで流動しているときに不意打ちされて一気に潰されたといいましょうか、四分五裂されたというふうに、ぼくは思います。それが「連帯」運動がぼくらみたいな者の視野のなかにあらわれて、そしてそれがある軌跡を示しながら消滅していった、そういう過程として、非常にはっきりと見える点です。
 現在、みなさんも新聞ではご存じだと思いますけど、10月9日に「連帯」を解散して、国家統一労働者党の御用組合しか認めないという新労働法というのが国会で可決されて施行されていくことになっている状態になります。そういう状態までいっているわけで、「連帯」運動の初めから終わりまでというようなものというので、いわば、地上で見えてるといいましょうか、ぼくらみたいな遠くにいる者が、新聞・雑誌を読んで分析しうる範囲での「連帯」の運動の盛り上がりから、何を構想して、どういうふうに消滅していったかという過程は、いま言ったようなことで尽くすことができると思います。そのなかに、もし問題意識さえあれば、様々な問題が、追及したり、補ったり、構想したりしていくべき問題が、たくさん含まれているということができます。

11 資本主義と資本主義「国」

 社会主義というのと社会主義「国」というのは、似ても似つかないものであるわけです。それから、資本主義というものと資本主義「国」というものとは、もはや似ても似つかないものであるわけです。
 現在では、資本主義というのも、たとえば、初期の資本主義でしたら、ちゃんとした市民社会で市民が賃労働者を傷めつけるわけですけど、しかし、市民が自由な意思と自由な競争というものが許されて、そして自由な競争をすることができる。そして、市民社会はそういう産業社会の資本主義的発展というものを背景にして、リベラルな考え方、リベラルな文化・芸術というものが交流して花を咲かせるというような、そういう資本主義なら資本主義は初期にそういう構想とそういうイメージを抱き、ある意味で、賃労働者の犠牲においてではありますけど、そういうものをある程度、実現してきたわけです。
 ところで、現在、先ほども少し説明しましたように、現在の資本主義国家をみればよくわかるのですけど、資本主義国家というものは、先進資本主義であればあるほど、国家管理がアメリカで46%ぐらい、つまり、ほとんど国家管理なしに資本主義社会は成り立っていません。だから、初期資本主義が描いたような、あるいは高揚期の資本主義が描いたような、自由競争を自由にやって、自由な市民社会が栄えて、そして、文化も栄えてなんていうようなイメージは、先進資本主義国では存在しえないわけです。
 だから、絶えざる流動とか、サブカルチャーとかいうようなものが、アメリカでもそうですけど、流動常なき形であって、クラシックな胸像とか、クラシックな音楽なんていうのは聞いちゃいられないということで、ロックが流行るとか、こういうふうになるわけです。つまり、そういう安定した自由な市民社会とか、教養ある市民社会というものが背後にあって、そして、自由競争の生産社会があって、そこで労働者は多少、傷めつけられるわけですけど、その労働者が傷めつけられる基礎の上で、しかし、資本家たちが、企業人たちが自由にふるまうことができるみたいな、そういうイメージを現在の資本主義国に描いたら大間違いであって、現在の資本主義国はすでに西欧でもアメリカでも、すでに40%から50%近くが国家管理なしには成立しないようになっています。
 それから、もっと違うことを言うことができます。先進資本主義国が、国家管理がそのように進んでいるというふうなことと同時に、先進資本主義国における大企業といいましょうか、寡占的な企業というものは、すでに自分たちだけの連合体の連合でもって、話し合いでもって、生産物価格というものを決定する力をもっています。
 つまり、これは生産物の価格というものは、原料費があって、労賃があって、利潤を上乗せすると、そしてだいたいでてくると、生産物の価格がでてきて、それを市場で売買すると、利益がどのくらいになるのかというイメージなわけですけど、現在の先進的な資本主義国では、だいたい少数の巨大企業というものは、自分たちの相互の話し合いの上で、商品の価格を勝手に決めることができます。つまり、価格構成力をもっています。
 その価格構成力に対して、ある部分は国家はそれを統御することができなくなっています。つまり、国家の統御外に出ていってしまっています。全部が出ていってしまわないですけど、出ていってしまっています。ですから、国家管理はますますパーセントが大きくなって、50%以上だったら国家社会主義でしょ、だけど、四十何パーセントまでいっているわけです。それにもかかわらず、しかし、巨大産業の連合体は勝手に価格構成をすることができます。植え付けることができます。それに対して、国家は統御することができないという状態になっています。
 ですから、これはたとえば、ヨーロッパでいえば、イギリスとか、イタリアとかみたいに、ようするに、社会党とか共産党が政権をとろうが、労働党がとろうが、保守党が政権をとろうが、国家を握ろうが、そんなことは関係なく、全部、巨大産業というものの価格構成力を統御できない。だから、半不定労働者といいますか、その層の業種に対して、つまり、失業の増大ということでしょうけど、それに対しては、ほとんど統御することができない。両方に対して統御できないということで、つまり、これはなんか衝突があると、ほとんど暴動みたいになっているでしょう。
 こういうふうに、資本主義というものを、みなさんのもっているイメージと、それから、現在、先進的な資本主義国が当面しているイメージとはまるで違うということがあります。つまり、これはまったく違うことです。だから、それは厳密にいいますと、専門家は違うことを言うかもしれないけど、ぼくは現在の資本主義「国」というものと、資本主義というものは違うんだというふうに考えられたほうがいいと思います。
 資本主義の初期の理想があったわけですけど、自由なる企画とか、自由なる競争とか、イメージがあったわけで、理想主義があったわけですけど、そんなものはとうの昔に成り立っていないということ、それから、それにもかかわらず、国家というものの統御力というものは、巨大産業に対しては及ぶことができない部分がでてきています。そういうことを勘定に入れますと、相当な強烈な、つまり、40%から50%近くの国家管理下における資本主義というものが、現在の資本主義国のイメージだと思います。

12 社会主義と社会主義「国」

 社会主義というもの、レーニンが抱いた社会主義と現代の社会主義「国」とを同じだと考えたら全然違うと思います。社会主義が成立するための初期のマルクスやレーニンが考えた社会主義のモデルというものは、いくつかの項目で描くことができるわけです。
 言ってみますと、賃労働者が存在しないということ、賃労働者が存在しないということは、賃労働的なことがあっても過剰に働いたり、そういうことがないようになっていると、働いた分ちゃんと還ってくると、もちろん保険控除とかを除いてですけど、働いた分は完全に還ってくるっていう、そういう賃労働が存在しないということ、それから、労働者、大衆、市民のなかの、自分たちの直接の合意で直接に動員できないような軍隊や武装弾圧、つまり警察、そういうようなものはもたないよと、それから、国家というのは、存在するのはよくないことなのだけど、存在しているかぎりは、労働者、大衆、市民に対して開かれていること、いいかえれば、いつでも労働者、市民、大衆の無記名の直接投票で、いつでも国家というのはリコールできることです。それから、誰かが私有していたり、誰かが多く持っていたりしたら、労働者、大衆、市民の利益にとって、障害となったり、不利益になったりするような生産手段があったらば、それは社会的所有としてそれを適用すること、このくらいの項目があれば社会主義というもののイメージを描くことができます。
 つまり、マルクスが描き、初期のレーニンが描いた社会主義のイメージは、人によって違うでしょうけど、ぼくがいわばこの4つぐらいの項目を成り立たせることができるならば、社会主義のイメージは描くことができます。社会主義に近づく、あるいは、社会主義になることができます。
 しかし、ご覧のとおり、ただの一項目も、現代の社会主義国はこのなかで条件を満たしている項目はございません。だから、社会主義「国」と社会主義ということとは、別に考えたほうがいいと思いますというのがぼくの考え方です。だけど、これは人さまざまであって、別に考えたって、ないものを考えたってしょうがないじゃないか、だから、あるもののまま、少しでもよくしていくとかしたらいいじゃないですかという考え方の人もいるわけで、人さまざまですけど、ぼくはそう考えています。
 だから、そういうふうに考えていきますと、ポーランドの問題というのは社会主義国の問題のひとつの典型的なあらわれ方というものをしているわけです。人はさまざまであって、理解の仕方もさまざまでして、今日申し上げましたのは、ぼくの理解の仕方なのであって、ポーランドは自由を求めているんだという理解の仕方をしている人もあります。それから、ポーランドの市民たちは社会主義なんてやめにして、西欧のように自由な資本主義国家で議会制のある民族が独立して民族国家をもった、そういう自由な西欧型の国家にしたいという要求をしているんだという理解の仕方をしている人もいます。だから、この理解の仕方も様々なんですけど、ぼくの理解の仕方は、もちろん、そこの部分は全部この中に包括されると思います。含まれると思っています。含まれてなおかつそこの部分でポーランドの問題を捉えたらダメなんじゃないかということで、一種の社会主義の理想化のイメージ、つまり、社会主義というものが一体どういう条件を満たさなければならないかということに対する理想のイメージを求めてのあるひとつの運動と、それから、構想の仕方のあらわれというものがポーランドの現在、あるいは、ここ数年、とくに著しくなった「連帯」運動の問題なんだというふうに、ぼく自身はそういう理解の仕方をとっています。
 これもまた唯一の理解の仕方でもなんでもありませんし、これはぼく自身の理解の仕方からとらえた問題点というものがこういう形になっていくわけです。だから、西欧でも比較的に、うまくいっているかは別なんですけど、これをほんとうに分析したらわからないですけど、たとえば、西ドイツとか、フランスとかというようなものは比較的にうまくいっているように思います。比較的にうまくいっているということは、ポーランドみたいな騒動が起こらないとか、イタリアみたいな暴動が起こらないとか、衝突が起こらないとか、イギリスみたいな労働者のひどい失業状態が、暴動みたいなのが起こらないという意味で、さしあたって無事平穏という意味あいにしかすぎないかもしれないですけど、フランスとか、西独とかいうものは、かなりうまく表面上はやっているように思われます。
 やっているように思われることで、非常に大切なことは2つあって、たとえば、フランスなんかは社会主義政党が政権をとっているわけですけど、社会主義政党というものは、いま言いましたように、社会主義政党が国家を掌握しているか、していないかということは、社会主義が実現するかしないかということとは、あまり関係がないことなのです。あるいは、実現しているかどうかも、ちっとも関係ないことです。それぞれの場所にいるわけですけど、その場合に、少なくとも国家社会主義であること、つまり、国家として、労働者に対しても、市民に対しても、国家として閉じてしまわないということが、とにかく、ほんとうの意味での社会主義というのがフランスなんかで実現するかしないかということのいちばん根底にあるのは、どういうふうにすれば実現するかというのは、ぼくらが干渉したり、言ったりする理由も何もないわけですけど、やってくれというだけですけど、しかし、少なくとも、前提条件が、社会主義を実現するための前提条件がいるわけです。その前提条件のいちばん重要なことは、ぼくはさしあたって国家を開くことだと思います。なんとかして開くことなんじゃないかというふうに思われます。
 国家を開くということは、具体的にいっちゃうと、ようするに、タチが悪かったら、いつでも無記名の直接投票でリコールできる、つまり、社会主義国でも、資本主義国でもそうですけど、ここからいろんなかたちで選挙して選ばれていって、そして、地方議員からなにから選ばれていって、国家議員になって、国家の重要項目にサインをして、賛成・反対だとか、多数だとか言っているわけなんですけど、それは国民の代表がいっているって、確かに言っているわけでしょう、つまり、選挙でそういうふうに選んだのだから、多数がそれを選んだのだから、国民の代表で選んだのだから、代表として選んだのだから、ここで論議されて決まったことは、国民は大部分が代表して選んでいるんだというふうに理屈上はなるわけだけど、みなさんもちっともそうは思えないと思うことがあるわけでしょう。
 それはなにかといいますと、それは、みなさんの考え方と自民党の考え方が違うとか、みなさんの考え方と社会党の考え方が違うという、単にそれだけのことじゃなくて、いったん選ばれたものに対して、文句があったら無記名の直接投票でリコールできる、国家を構成しているあれをリコールできるとか、それから、政治国家をリコールできるとか、直接投票でリコールできるという、いま自民党がよくないと思ったら、みなさんの直接投票で、つまり、自民党の中でどうとかじゃなく、自民党と社会党で政権競争して社会党が勝って、自民党が少数派になったから自民党が代わったというのじゃなくて、みなさんが自民党を気に食わないと思ったら直接投票でもってそういうふうにできるという、そういうことが、国家が開かれていることだと思います。
 社会主義国でも同じです。市民、大衆、労働者というものが気に食わないと思ったら、直接投票したらリコールできるということになっていたら、もちろんこんなのはいらないわけです。「連帯」運動が潰れてどうとかいうことはありえないわけです。だから、ぼくは、資本主義国は一種の議会制度をとって、一足飛びに国家を開くことを要求してもしょうがないので、社会主義国は、それは可能なわけだから、もともと労働者のための国家ということなのだから、可能なわけですから、いつでも労働者主体なのですから、ここが嫌だというなら、直接無記名投票で、バーッとやめだということで、クビだって、そういうことができるようにするということが非常に重要、それがなければどうしようもないという感じがします。どうしようもないことのような気がします。
 だから、どうしようもないということはどういうことかといったら、自分たちが社会主義ということを考えるときにはそういうことはせんよっていう、あるいは、ああはせんよって思うか、それとも、そういうこととは関係なく、社会主義ということも、ポーランド問題のひとつの教訓といいますか、ひとつのあれとして、社会主義というのはどういう構想になっていくんだということを、イメージを具体的に詰めていくという、それが一種の政治についての学問とか、社会についての学問の研究とか、あるいは探求とかいうことのひとつの重要な課題なんだというふうに、それを自分たちでこしらえあげていく、それはどう利用されるか利用されないかに関わりなく、それをこしらえ上げていくってことを考えるか、それよりしょうがないというふうに思います。
 つまり、そういうことしかできないので、たとえば、資本主義国であったらば、あんまり国家主義的になってもらったり、民族主義的になってもらったり、民族至上主義的になってもらったら困るという、それはまったく困るんだというくらい、国家を開くということにたいしていえることは、資本主義国ではそのくらいのことしかいえないと思います。言えないけれども、しかし、ぼくは国家を開くということが、開く方向にいくということが、たいへん重要なことのように思います。唯一の重要なことのように思われます。
 だけども、たぶん、それほどは、どこかで実現してどうなるということは、到底、近い将来に考えられるということはありえないと思います。だから、そういう問題は、具体的な問題としていくらでも残ってしまうわけですけど、しかし、ぼくがポーランドの問題というものを、いわばひとつの大きな何かを求めて、何かを試みているんだ、あるいは、何かを構想しているんだというふうに、これを見た場合、その構想のなかで何がこちらがもらえるものか、自分たちが手に入れられるのか、何が折り合いをつけなければならない問題かということを、ぼくらがよくよく選り分けていくみたいなことが、非常にさしあたって重要な問題になっていくんじゃないかというふうに、ぼくには考えられるわけです。
 ぼくなんかがポーランド問題に関心を抱いて、素人ですから、つまり、新聞・雑誌というものを丹念に読んで、丹念に切り抜いて、そして、丹念にそれを分析してということ以上のことは何もできなかったわけですけど、ぼくらが自分の関心といいますか、もっている問題意識といいますか、関心に基づいて、ポーランド問題について追及してきたことのあらましというのは、今日みなさんにお話できたというふうに考えます。だから、ぼくの話に意味のないところと、それから、意味のあるところと、多少はあるかと思いますけど、ここからどういう教訓を、あるいは、どういう示唆をみなさんがもらってくれるかということは、まったくみなさんのほうに委ねるほかないので、ぼく自身は自分が関心をもってきたことについてお話しようということでしたので、この機会にじぶんの関心の主要なところはお話できたというふうに思っています。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

13 質疑応答1

(質問者)
 「連帯」が国家に関わろうとした、ソ連が許さないということはあるかと思うのですが。

(吉本さん)
 それはやってみないとわからないところじゃないでしょうか。やってみないとわからないという言い方は曖昧なようですけど、やりますとあなたのおっしゃるとおりになるかもしれないです。ぼくは権力というものをそういうふうに考えていないのです。つまり、あなたのおっしゃるとおりにならないかもしれないと思えるのです。
 どうしてそんなことを思うかというと、どうしてぼくはそういうふうに国家とか権力とかいうものを、あるいは、それに対して覆いかぶさって、もっと国家をまた支配しようという、そういう意志に対して、そういうふうに考えていないかということ、ちょうど太平洋戦争が終わったときに、やっぱり、同じことを考えたのです。つまり、全然意味は違うのですけど、同じことに直面したわけです。
 我々はそのときに学生だったのですけど、あなたと同じぐらいだったのですけど、そのとき日本の国家というのは、主にアメリカと、極東とか、ソ連とかいるわけですけど、戦争をしていまして、敗戦につぐ敗戦になったわけです。
 国家はアメリカと、日本の国民が1億いるとして、1億ぜんぶ死ぬまで、とにかく本土に日本国に上陸してきたら、1億ぜんぶ死ぬまで戦うというふうに言っていたわけです。その気になっていたら、とんでもない話、つまり、その前にあっさりやめちゃったわけです。そうすると、わずかにアメリカ軍の上陸を受けて、被害を被った、内戦といいましょうか、内部戦争をして被害を被ったのは沖縄だけであります。あとは全部、アメリカ軍は上陸していないのです。戦おうと思うし、そういう意志があるなら、民衆にあるなら、戦えるわけです。それは山の中にこもって戦ってもいいわけですし、しかし、やめているわけです。
 少なくとも、やめたときに、極端なことをいいますと、1億人全部いなくなっちゃったと、全部死んじゃったという場合と、鉄砲一丁なくなっちゃったと、大砲一丁なくなっちゃったと、それならば戦いをやめるっていうならわかるけど、そういう権力というものは、何かをやめちゃったり、それから、放棄しちゃったり、逆に支配したりということは、とことん抵抗を排除して支配したり、とことん力がなくなってやめたり、そういうのではないということを、ぼくはそのときにものすごく考えたのです。
 おかしいんじゃないかという、ぼくは学生で工場動員してましたけど、いい加減に嫌になった。つまり、こんなアホらしいことはないと思って、馬鹿な話はない、これでやめるということはないだろうというふうに、おもしろくないと思っているわけです。何か月か工場の跡地にいて、帰ってきたわけです。そうすると、列車の中に、軍人が食料品をいっぱい担いで、鉄砲なんかをもって国に帰ってくるわけです。どういうことなのって、つまり、どうして戦わないのということは、ものすごい疑問だったのです。
 それは非常に幼稚な疑問なんだけど、そういうことと権力というもののあり方というもの、それから、権力の消滅の仕方というもの、権力がどういうふうに力を放棄するのか、それは武器とか武装力がなくなったから権力が力を放棄するのかというと、そうじゃなくて、権力というのは意志を放棄したとき、権力意志とか、国家意志というものを放棄したときに権力は崩壊すると思います。これは意志が崩壊するということは非常に重要な要素だと思います。
 だから、ぼくは、あなたのおっしゃるとおり、そんなことをしたら、ソ連が来るだろうと、そんなのはわかりきっているじゃないかとおっしゃるかもしれないけど、ぼくはそう思えないところが何%か、何十%かわからないですけど、ぼくは思っているわけです。
 これは意志の問題であって、これは意志をベタッとしてしまったら、そんなことできないんじゃないかと思えるところもあるのです。そんなことはできないだろうと思えるところがあります。つまり、意志というものと、やり方というものがピタッとしていたら、それはできないのじゃないか、武装力の問題でいったら、あなたのおっしゃるとおりになるわけですけど、ぼくはどうしても戦争が終わって、敗戦ということで、日本の国家権力というのは崩壊して、アメリカ占領軍が入ってくるまで、たくさんの、何か月かの期間はあるわけです。そのときに何かがあっていいわけでしょう、だけど、ないわけなんです。国家もないわけです。国家も権力の意志を放棄しているわけです。民衆も何かあっていいわけでしょう、民衆もないのです。もちろん、鉄砲や大砲が何もないかというと、そんなことはなくて、勝てるか勝てないかだと、勝てないだけのあれじゃないでしょうけど、ないわけじゃない。だから、ぼくはそういう具体的な武装力とか、鉄砲が何丁あるかとか、戦車が何台残っているかとか、素手であるかどうかとか、そういうことと関わらない意志の放棄、あるいは、意志の形成というものの、意味あいというものは、ぼくは信じられてならないのです。全面的にそれを信じるわけじゃないですけど、それが何十%か、あるいは、何%かわかりませんけど、それが、決定するんだということを信じられてならないです。
 そうじゃなければ、一般的にある国家とある国家の戦いでもいいですし、ある権力とある権力の戦いでもいいですし、ある国家権力とそのもとにおける市民、大衆、労働者の戦いでもいいのですけど、そしたら、武装力をもっているものが勝つに決まっているわけです。あるいは、武装力が多いほうが勝つに決まっているわけでしょ。だけれども、ぼくは必ずしもそうじゃないと思います。そうじゃない神がかって、精神力だ、あるいは、根性だって言っているわけじゃありません。それとは、別の次元で意志というもの、国家権力の意志というものが決定する要因というのがあるというふうに僕は思っているわけです。
 だから、そこのところは、ぼくはちょっとだけ違うので、あなたのおっしゃるとおりになるかもしれないけど、新聞なんか見ると、「連帯」運動のラジカルな人は、ソ連が入ってきて、なおさらポーランド国民が苦しむから、だからあれしたんだと、また、ヤルデルスキーを信じている人達は、ヤルデルスキーはソ連の介入を避けるためにこうしたんだと、こういう言い方をしているんです。ぼくは信じていないです、そんなことは。それは意志の問題だと思います。ぼくはそういう理解の仕方をします。
 つまり、多少の敗北があり、多少の譲歩がありということがあるかもしれないけど、ぼくは、それはあなたのおっしゃるほど、あるいは、新聞の論調がいうほど、あるいは、ヤルデルスキーを正当化する人たちがいうほど、ソ連の介入を避けるためにそうしたんだということを信じていないです。そうじゃないと思います。権力というもののあり方のなかで意志の次元の重要さというもの、これは僕はあるというふうに理解します。

14 質疑応答2

(質問者)
 先進国のなかでは消費社会の社会と生産・労働社会のあいだに○○を失っていると、それは最終的には社会にとってプラスになるのかマイナスになるのか。

(吉本さん)
 ぼくはそれはプラスとかマイナスの問題ではないと思います。もしも、資本主義があって、資本主義が高度になっていく、発達していく過程で消費社会の様々な問題が出てくるときに、そういうものは、無意識に歴史を進展させていったことのひとつの到達点といいましょうか、現在点とするなら、それはいい悪いじゃなくて、それは、ひとたびは資本主義の高度に発達した段階の、ひとうの具体的なあり方といいますか、具体的にそういうふうになっているということの分析が大切だと思います。いいか悪いかということじゃないと思います。
 それは無意識のうちにあれしてきたらば、それぞれの段階でいいと思う方法をとっていって、無意識に発展していったらこういうふうになった。総和としてこういうふうになったと見ることが大切じゃないかと思います。そして、そこでどんな問題があるのかというような問題だと思います。
 だから、たとえば、社会主義国というのは、ポーランドは違いますけど、たとえば、中国なんかはちょっと前までは、5年か10年くらい前は、一種の無菌状態だったわけです。資本主義国とあまり交通しない、ソ連もそういうところがありますけど、いまでも。自由に交通したら、歴史も無意識ですから、こうなるということ、無菌状態で囲っておけば、こういうふうになるわけです。資本主義国みたいな消費社会が民心を究めるというふうにはなっていないですけど、無菌状態にしないで、交通をちゃんとしたら、こっちのほうになると思います。
 どうしてかというと、こっちが歴史の無意識ですから、こっちは人為的に無菌状態にしているわけですから、それは異なるだろうと思います。そういう意味あいで、一種の歴史の無意識というのがつくりあげてきた、いまの段階の問題というふうにそれを理解されたほうがいいんじゃないかと思います。
 なお、好き嫌いというのはあると思います。あなたが、贅沢が嫌いだとか、消費社会が嫌いだから、中国風な、日本でいえば国民服、戦争中の国民服は、洋服が3種類くらいしかなくていいと、あんまり遊ぶことなんてなくていいんだと、それがおれはが好きなんだという人もいるでしょ、そうじゃなくて、おれはおもしろくて、楽しくて、おかしくて、金がなくてもいいから、そっちのほうがいいという人もいるでしょう、それは個人の個々の人の好き嫌いというのは様々なわけです。それは別問題です。全体の社会の問題として理解するならば、それはひとつの歴史の無意識がつくりあげてきた産物だというふうに理解されて対処されるのがいいんじゃないでしょうか。

15 質疑応答3

(質問者)
 賃労働者が増えて、生産・労働社会で生きる、労働者としての存在と、消費社会で生きるイメージのなかの存在、吉本さんの最近の仕事を拝見させていただいて「○○の現在」とか、それから「マス・イメージ論」とか読ませていただいて、ぼくらはそういうところで現在的にある意志というものが、吉本さんの言われるエンターテイメントの文化とか、それから、国文学とかいう言葉を使われますけど、こういうところにすごくあらわれているなというふうに、そういうのは読ませていただいて、やっぱりすごいなというふうに思うことがあるのです。
 だけれども、そういうところが、吉本さんの言葉をお借りすれば、それが歴史の胎動だっていうふうに言われていますけど、そういう言い方もすごくわかるわけなのです。歴史というのは、いい意味でも悪い意味でも、前にしか進まないというので、ただ、そのときにこだわる部分というのは、やっぱり、そういう文化とか、社会とか、あるいは伝統とか、そのなかに自分がいる場合に、じぶんの自己というのはどこにあるのかという、そういうものを戦後過程のなかで出てきた自己という問題と、戦後過程というのは全体制みたいのをどこかに築かないとやっていけないというか、そういうことが根本的な問題となると思うのですけど、そういうものがどこで拮抗していくのか、あるいは、現在、歴史の胎動だって言われるマス・イメージの潜在的な意識とか、その象徴としての文化とか、あるいは、構造主観性とか、そういうものがあると思いますけど、そういうものをどういうふうに実行していけるか、あるいは、自分の思想の中にどういうふうに繰り込んでいけるか、そのあたりはすごく重要に思えるわけですけど、そこのところをひとつ具体的にお聞きしたいと願います。

(吉本さん)
 あなたが重要だとおっしゃることは僕も重要だと思うわけです。重要だと思うもので、マス・イメージ論というのも、そこを攻めたいわけです。接近したいわけでやっているわけです。たとえば、「マス・イメージ論」というのは、自分の中では、じぶんはかつて「共同幻想論」というのをしたわけですけど、それは、いわば歴史時代ではありますけど、国家が成立する以前の村落社会とか、あるいは地域社会とか、あるいは氏族社会とか、部族社会とか、そういうものの段階でもって起こってくる問題について、ひとつの理解軸をつくろうということで、「共同幻想論」というものをしたわけですけど、いま、ぼくは「マス・イメージ論」ということでしていることは、いわば、「共同幻想論」というのを現在のさまざまな問題を軸に「共同幻想論」をしたいというのが、ぼくの現在的なモチーフなわけです。
 ですから、あなたのおっしゃる意味でいえば、期待がどういうふうに振るまうかとか、期待の運命はどういうふうになっていくかということに問題を集約するよりも、村落共同体もなくなり、それから、地域共同体もそれほど自然発生的なものはなくなり、つまり、すべてが自然発生的な意味あいではなくなっていく、しかし、大枠としての民族国家、つまり、国家の共同幻想というものは存在すると、民族国家の共同幻想というのは存在すると、そのほかの経済社会的な要因は全部そうですけど、社会関係の要因というものを全部、共同幻想というものをある意味で解体していこうとする。つまり、消滅させていこうというような衝撃、衝動力が、社会の中に、歴史の胎動としちゃいましたけど、胎動というよりも、歴史の無意識としてそういうものが出てきていると、それに対して、かろうじて、民族国家というものが、社会主義国であろうが、資本主義国であろうが、共同幻想として拮抗している。あとの共同幻想というものは、ほとんど自然発生的な意味あいであるし、つながる意味合いでは、解体に瀕しているところで、どういう問題が出てきているのかということを追及したいわけです。追及して、少しでもあなたのおっしゃる重要な問題というものに近づきたいというのが、ぼくのモチーフなわけなのです。具体的に何かいえるほど、なかなかうまく近づけないのですけど、ただ、近づこうとしているわけです。
 それだけの問題意識はいま言ったように明瞭なのであって、現代社会の中にある衝動力というのは、共同幻想というものをすべて消滅させてしまおうという、少なくとも歴史時代と関連して、自然発生的に出てきて発達した意味あいでの共同幻想は破壊してしまおうというような衝動のところに、だいたい移行しつつあるというのが現在じゃないでしょうか、つまり、歴史時代から展開してきて、自然発生的に展開してきて、ある到達点になったという意味あいでの、社会の中にある共同幻想という意味あいは、崩壊に瀕しつつあるというような、崩壊してどこにいくかまったくわからない、まったくよくわからないと、これは分析する以外にないわけです。現在、分析する以外にないんだというふうにあるけれど、ただ、崩壊の方向にいきつつあるということだけは、どうも現状把握として正しいように僕は思えるわけです。
 そうすると、あなたの言われたことと、もう少し近づけていえば、主体というのはどうなりつつあるかというと、主体というのは崩壊しつつあるのではないかという問題意識をもっているわけです。つまり、自然発生的な意味で、かつて村落社会では、村落共同体の意志が、村落共同体のメンバーとして個々の人間が存在したとか、個々の家庭では家父長の意志のもとに存在したというふうにあった。そこから、近代社会がそれを逆転していって、村落共同体は破壊されたと、壊れたと、しかし、個人というものも自由な自発的な考え方と、自由な意志と、それから、競争とが入ってきた時代を経たと、しかし、それから、だんだん発達して、現代社会というものができてきたんだけど、そこのなかにおけるそういう意味あいでも、個人とか、個性とか、主体みたいなものは、あらたに自然発生的な、歴史的な意味あいの個人、個性という、自由な競争とか、自由なリベラルな意志とかいう意味合いでは、やや衰退期に、崩壊期に到達しているんじゃないかというのが、ぼくの理解の仕方です。
 ですから、個々の主体は、自ら崩壊期に再開しつつあるというふうに考えることが、第一に重要なことなんじゃないですか。おれは崩壊していないと考えてもよろしいわけでしょうけど、それはいちおう全体的には崩壊に向かいつつあるという基盤の上で、おれは崩壊していないと、こう考えるべきであって、一般的におれは崩壊しないぞというふうに考えても、たぶん、それは無効であろうというふうに理解したほうがいいと考えています。
 それから、もうひとつは、崩壊したら、どういう崩壊の仕方と、それから後にどういうのがくるんだという問題があります。その問題の中には、あなたならあなたの考え方の意志といいましょうか、おれはこういうふうに構想する意志とか、構想力とか、あなた自身のそれこそ主体的な構想力とか、イメージとか、あるいは、理解力とか、追究力とかいうことが、重要だということがいえるんじゃないでしょうか。つまり、それは、いままでのどこかの本を見たら書いてあるというふうには、もはや、存在しないというふうに考えたほうがよろしいんじゃないでしょうか、それは、あなたが主体的に構想し、主体的にイメージし、それから、いよいよ具体的なあれにぶつけてみて、間違ったところは修正しという意味あいで、あなたが主体的に構成していく以外には、どこかの普遍的なあれを誰かが説いてくれているということは、まずないと考えたほうがいいと思います。みんなが説いてくれていることは、まずまずぜんぶ終わっちゃったと考えたほうがいいと、ぼくは思います。
 だから、あとは自分が構想しなくちゃいけないとか、自分が探求しなきゃいけないっていう問題であると、そういう意味では、主体だけが頼りだよってことになるんじゃないでしょうか、でも、いわゆる歴史時代の19世紀での個人主義、自由主義とか、そういう意味合いの個人、個性というものは、もはや、相当危機に瀕しているといいますか、崩壊に瀕しているというふうに考えたほうがよろしいんじゃないでしょうか、それは、だいたいぼくらが基本的に何をしようとしているかということ、それから、どう掴んでいるかということの基本的な問題はそういうことなのです。
 それ以上のことは、ぼくはわからないです。わからないけど、なんとかわかろうとするといいましょうか、そういうふうにしていることの試みのひとつが「マス・イメージ論」とか、「アジア的」ということもそうなんですけど、それはわかろうとしているということなのです。だいたいそれ以上のことは僕のあれにはないし、もっていないです、わからないです。
 それから、どこか本を読まれても、そんなにわかってしている人はいないと思います。いるでしょうけど、翻訳されているのはそんなにないんじゃないでしょうか。でも、いくらかの人は相当よくやっているなと思う人はいるのですけど、それを、おう、わかったというふうにはなっていないです。というのが、いまの一般的な状態じゃないでしょうか。だから、それはもうあなたならあなたの、それこそ主体的になるよりしょうがないことのように思います。

16 司会

 まだまだご質問もあるかと思いますけど、会場の都合もありますので、今日の講演はこれで終わりにしたいと思います。もう一度、吉本さんに拍手をお願いします。(会場拍手)



テキスト化協力:ぱんつさま