1 語り手はどこに位置しているか

 吉本です。立ってる人、どこかあったら座ってください。なんか悪いような気がして。今日は、題は「物語の現象論」って、たいへん恰好がいい題をつけてありますけど、恰好がよくなるかどうかはやってみないとわからないところがあります。どこから始めようかなっていうふうにいちおう考えてきたんですけど、ある文学作品があって、それでその作品っていうのはどのように読まれるか、あるいは、どのように読むかっていうのは、読む人はまったく自由であって、どのようにでも読まれうるわけです。ただ、読むという体験をなぜ文字を介してやるのかっていう、つまり、いまではますます面倒なわけですけど、つまり、文字を介してなぜある文学作品を読むのか、つまり、そういう面倒なことをなぜするのかっていうことを考えてみますと、ひとつだけ共通なことがあるような気がします。
 それは読むということを何かに似せようとしていると思います。何かにっていうのは何かっていいますと、一種の生活の場面で、さまざまな場面で当面する問題と同じような体験、それに非常に類似した体験というのを、どこかで読むという体験のなかでしたいんだってことは、たぶん読むことのなかで、共通にいえるんじゃないかって考えます。
 それが現在では、非常にたくさんの、つまり非常に実質的な、お粗末な下宿へ帰って、夕食にカップラーメンを食べるっていうような、そういうお粗末なところから、非常に高度なイメージの世界まで連れていかれて、そしてまた、夜になってくると酒場から帰ってきて、またラーメンを食うっていうような、そういう生活のなかでの体験の落差っていうものが非常に大きくなっているっていうのが、たぶん、現在、読む人にとって、非常に大きな問題なんじゃないかって気がします。
 それから、もうひとつあります。つまり、もうひとつは様々な直接イメージ、つまり、映像とか、絵画的表現とか、直接イメージを喚起できて、スッとスイッチをひねるとすぐ映像がでてきて、すぐそれに入っていって、またパッて切れば、すぐにそこから抜けられるっていうような、そういう意味合いの映像、イメージの世界っていうのが、非常に大規模になって、またかつ、非常に普遍的になっていますから、そういうなかで、わざわざ文字というのは一種の概念のなかに入っていって、そしてまた、その世界にいって出てくるという、そういう七面倒なことをするっていうことに、なかなか億劫なところがでてくる、つまり、その問題は現在、読むということのなかにまつわる共通な点じゃないかっていうふうに考えられます。
 この読むっていうところから入っていってもよろしいんですけど、先にいま言いましたように、どのように読むかっていうのは、まったく読む人の自由に属するわけで、作品はひとつ、読む人はたくさん、それはまったく自由だってことになりますので、そうじゃなくて、文芸批評といいましょうか、批評っていう問題のところから、作品に近づいていった場合に、どういう問題がいま問題になるのかっていうところから入っていったほうがいいんじゃないかっていうふうに考えます。
 それはまた、文芸批評っていうところからどういうふうに入っていったらいいかっていうよりも、ぼく自身が文芸批評をやっている者として、どういうことが自分の中でかなり問題になっているかっていうような、そういうことも含めてですけど、そういうところから入っていったほうがいいんじゃないかっていうような気がするんです。
 いくつかあるんですけど、そのひとつはようするに語り手っていうことなんです。語り手っていうのをどういうふうに待遇したらいいのか、つまり、ある文学作品の中で文学作品を語っている語り手がいるわけですけど、その語り手っていうものをどういうふうに待遇したらいいのかっていうことが大きな問題のような気がしています。
 つまり、語り手っていうのは、どういうことかっていいますと、簡単なことをいえば、語り手っていうものの起源を考えればいいわけで、語り手の起源っていうのは、みなさんの知識教養でいえば、昔の説話だとか、もっと前にいけば神話だとか、そういうところで語られていること、それから、もう少し時代が下がってくれば、たとえば、『伊勢物語』なら「むかし男ありけり」っていう言葉から始まっていくとか、それから、『今昔物語』なら、「いまはむかし~がありき」とかっていうような形で物語が始まっていきます。その場合の、「むかし男ありけり」あるいは「いまはむかし」っていう言い方で言っている人が、語り手であるわけです。
 ところで、この語り手っていうのが、起源でいえばそうなんですけど、これがなかなか複雑なことになっていきます。つまり、起源のところでいきますと、語り手とは何かってことが一応言いやすいわけで、それは、あるひとつの原型的な共同性っていうものがありまして、その共同性っていうものの内側にあるか、外側にあるかっていうことだけが、起源でいえば語り手の問題であるわけです。
 内側にあれば、それは一種の説話とか、民話とかっていうものになっていきます。つまり、ある原型的な共同体、あるいは共同性に対して、その内側にあって語っているか、外にあって語っているか、外にあるとすればどういう外にあって語っているかってことが、語り手っていうものの性格を決める、起源のところでいえば性格を決める、非常に大きな決め手になるわけです。

2 『源氏物語』における語り手

 ところで、この問題は原型のところでは、つまり、起源のところではいいのですけど、時代が下ってくるにつれて、たいへん複雑な問題を提起するわけです。また、現在ならば、なおさらそうなんですけど、この複雑な問題っていうものが最初に、つまり、はっきりした形で出てきたのは、日本の場合で考えてみますと、それはたぶん平安朝の中期くらいで、いちばんうまくその問題を提示しているのは、『源氏物語』っていう作品がそうだと思います。
 『源氏物語』の作品で語り手の処遇ってことが、語り手がどういうふうに遇されているか、あるいは、どういうふうに理解されているかってことになるのですけど、これは、専門家のほうでは、「草紙地」という言い方をしています。「草紙」っていうのは、お伽草紙とかの「草紙」で、「地」は地面の「地」ですけど、つまり、語り手の問題のことを「草紙地」っていうふうに専門家は言っています。
 『源氏物語』の語り手の問題っていうのは、一応の意味では非常に簡単なわけです。そこでは、どういうふうに語り手がでてくるかっていいますと、たとえば、ある祝宴の場面があると、祝宴の場面で登場してくる人物たちがお互いに歌を詠むと、ある主題がでて、それに対して歌を詠むと、それで、これこれこれっていうふうな歌が詠まれたんだけど、えてして、こういう祝宴の場面みたいなところでつくられる歌っていうのは、あまりいいものがないからそれは省くことにするっていうような文章が『源氏物語』のなかにでてくるわけです。
 そうすると、この場合に、これを省くことにするって言っているのは、明らかに語り手であるわけなんです。つまり、語り手がそう言っているわけなんです。これは登場人物とも一応は関係なく、語り手がそう言っているわけです。
 また、いろんな限定の仕方をしています。でも、正確はただひとつなのであって、『源氏物語』における語り手っていうのは、表面でいえば、どういうことかっていいますと、『源氏物語』の構造を説話のようにいちいち語っていったら、そうしたらば、いつまでたってもキリがない、つまり、いつまでたっても同じ密度で面々と語っていかなければならないっていうような、そういう場面に当面しますと、『源氏物語』の語り手はすぐに、これこれこういうことが登場人物の間にあったんだけど、じぶんは女性であるので、そういう政治向きのことっていいましょうか、そういうことにタッチするのは憚りがあるから、触れないことにするみたいな、また、限定がやってきて、それはその問題はそこで切れるというふうに、そういうふうになっています。つまり、いつでも自己限定として語り手っていうのがあらわれてきます。
 この自己限定として語り手があらわれてくるっていうことは、非常に単純な理由によるので、つまり、もし語り手を限定的な箇所に、つまり、起源における語り、説話、あるいは神話みたいにして、語るとすれば、等密度に、同じ密度で、どんな些細なことだろうと重大なことだろうと、同じ密度でどんどん面々と語っていかなければならないみたいな、そういうことに遭遇することが作者にとって馬鹿らしいことだと思われたときに、語り手が登場して、語り手の言葉で自己限定するわけです。だから、こういうことはこれ以上書かないことにするとか、これは省略するとかいうものが出てきて、そして、それでもってその場面は終わるというかたちで語り手がでてきます。

3 『源氏物語』が提起したこと-語り手・作者・登場人物の分離

 しかし、この語り手の問題っていうのは非常に表面的な問題なんです。ところが、重大なことは、そういうふうに語り手を自己限定のところで、あるいは、場面限定のかたちで語り手を、『源氏物語』っていうのは登場させたために違うことが起こっています。
 こっちのほうが重要なことなんですけど、それはどういうことかっていうと、語り手と作者との分離っていうことが非常に明確に起こるっていうこと、あるいは、明確にこのことを感知してしまうってことなんです。つまり、『源氏物語』において、たとえば日本の物語では初めて非常に明瞭な形で語り手の問題が登場し、そして、語り手の問題を自己限定として、あるいは、場面限定として登場させたために、作者と、それから作中に出てくる語り手とが、必ずしもイコールではないという問題を初めて物語の中で提起しています。この問題がいったん提起されますと、もっと違うことが起こります。
 どういうことかっていいますと、今度は登場人物がひとりでに動き出すことが出てくるっていうことなんです。これは、作者が登場人物を描いているのだから、ようするに、作者が描かなければ、そう描いたからそうなっているんだっていうふうに、一応はそう思えるわけですけど、ほんとはそうじゃなくて、みなさんが読むってことをよく考えられればわかるように、そうじゃなくて、登場人物はいったんある場面に登場して、ある行いをし、ある事件を差し起こしますと、そうすると、その人物が登場人物として独自に動き出します。あるいは、独自な内面の動き方をします。
 それは必ずしも、作者に意識されているとは限りません。つまり、あきらかに具体的にいえば、作者が筆を動かしているから確かに書かれているわけですけど、作者はその登場人物がどういうふうに振るまうかまでは表面的に描いたかもしれないけど、そういうふうに振るまったときに作者が、登場人物がどう感じたか、どう内面で感じたかまでは、必ずしも意識して描いているとは限らないわけです。
 そこで、いったん語り手っていうものが自己限定として、作品の中に、あるいは、物語の中に登場しますと、様々な混乱といいますか、問題が起きていて、そこで作者と語り手とは、一応べつであるというふうな問題が出てくる、そして、それがまた混乱を引き起こして、複雑な問題を引き起こし、今度は登場人物と作者とはまた別であると、つまり、作者がそう描いたから登場人物はそう行動したといえる面と。確かにそう描いてそう行動させたんだけど、しかし、そのときに登場人物がその場面でよくみると、ある感じ方をしていると、こういうことを感じたことは、必ずしも書かれていないんだけど、読む人にとっては非常に明瞭に、このとき登場人物はこういうふうに感じたに違いないなってことは、読む人には明瞭であるっていうことがありえます。
 そのときに読む人は、いい作品の場合には、このことを登場人物はこういうふうに感じているに違いないことがわかっているのは俺だけじゃないか、つまり、じぶんだけにこれはわかるんじゃないかっていう感じを伴います。これはいい作品、優れた作品に非常に特徴的なことです。つまり、優れた作品にはいつでもそういうことはあり得るってことなんです。
 そのことは必ずしも作者が意識して描いたからそういうふうに感じられた、あるいは、言葉にそう描かれたからそう感じたかっていうと、そうではないんです。作者が無意識のうちに描いたとしても、なおかつ、その場面で登場人物がこういうことを感じたなとか、こういうふうに感じたに違いないなっていうことを読者には感じさせるものがあります。つまり、そういう問題が提起されてくるはずなんです。
 その問題が作者と語り手と、つまり、作中の中で物語を語っている語り手と、それから、登場人物とは、全部違うんだっていうこと、つまり、全部違うんだっていう問題が、文学作品における本格的な問題であるわけです。つまり、本格的な問題っていうのは、少なくとも、そこのところで始まって、それで大体において、現在でも、だいたいその問題で尽きると言っていいと思います。つまり、その問題が現在でも文学作品を批評する場合も、あるいは、本来的にいいますと、その作品を読む場合も、やっぱり、非常に基本的な問題であって、それ以上の問題はいまのところは、現在までの文学の作品の中では、それ以上のことを考えることはいらない、つまり、作品っていうものに対する理解とか、干渉とか、批評とかっていう場合には、それ以上のことは考えずに済むといいましょうか、それだけのことを考えれば、非常にわかりやすいんだと、事態は非常にわかりやすくなっているっていうのが、そういう問題として最初に、『源氏物語』みたいなのは現在でもあるっていう意味で通用するわけですけど、作品のところでそのことは非常に明瞭にあらわれて、そして、それから現在に至るまで、その問題を様々なかたちになっていますけど、その問題は依然として今もあり、そして、いまも依然としてその問題を非常によく理解すれば、たぶん、非常によくある文学作品を読んだっていうことにはなるだろうってことだと思います。その問題が現在どういうふうになっているかっていうようなことが言えればいいわけです。

4 文学の本質から見た私小説-島村利正『佃島薄暮』

 これは文学作品っていうのは、みなさんがご承知のように現象的には様々な風俗、時代、それから環境、様々なことが異なるわけで、それぞれ様々なことが時代時代によって異なっています、しかし、文学作品をある本質的なところで捉えてみますと、それほどな進歩とか、それほどの変化とか、それほどの質の違いとかっていうのはないっていうことが言えると思います。
 それは、文学というものを文学の本質として捉まえるっていうような、そういうところでみますと、人間の身体がたとえば、眼玉が昔の人間は2つだったのに、いまは3つになったとかってことが、まずまずありえないし、盲腸は多少小さくなったってことがありうるかもしれないけど、滅多にそういうことはありえない。たかだか千年や千五百年の単位でそんなに変化はないと、ある意味で同じように、本質的にのみ見れば文学作品もそういうところがあります。つまり、そんなに変化しないところがあります。変化しても服装が変わったとか、髪型が変わったとか、そういうような意味あいでの変化はありますけど、たいして変化していない面があります。
 そこの問題のところで捉まえますと、現在でもやはり同じような問題があります。現在でも依然として古い作品っていうものが存在しています。つまり、これは起源のところで問うたほうがいいのじゃないか、つまり、起源のところで、限定的な共同体に対して、共同性に対して、どこに作者あるいは語り手っていうものが位置しているかってことでいったら全部解けるのじゃないか、そういう意味では、というような作品も現在でも作れています。
 それの典型的なのが、たとえば、私小説だと思います。この私小説っていうものの様々な定義の仕方があるわけですけど、私小説っていうものが一応どういうふうになっているかっていうと、そこでは、作者と語り手と、それから登場人物とが、少なくともイコールであるっていうことです。少なくともイコールであるっていうことは、作者によって、私小説の語り手によってイコールであるっていうふうに、少なくとも思わせようってことが、つまり、そういうふうに虚構しよう、つまり、フィクションをつくろうということが、私小説にとって非常に大きな性格だっていうこと、あるいは、本質的な性格だということがわかります。
 もちろん言葉の表現ですからイコールであるはずがないのです。つまり、作者と語り手と登場人物がイコールであるはずがないのです。しかし、少なくとも作者はそれをイコールと思わせようというように虚構を構えているってことは、私小説にとって非常に大きな特徴だっていうことがいえます。
 その私小説作品っていうのは、現在でももちろん書かれています。例をあれするのがわかりやすいですから、例をあれしてみます。たとえば、島村利正って人の『佃島薄暮』っていう作品です。これは主人公のゴウゾウっていう老人がいるわけです。その老人が、自分の血のつながらない姪に病気の世話やなんかをしているうちに関係して、いわば姪を2号さんみたいにして、同棲しているんですけど、だんだん姪のほうが嫌になっちゃって、どこかしっぽにしちゃうっていいましょうか、出ていっちゃうと、それで寂しくなっちゃってそれを探し求めているんですけど、その消息が東京の茶屋かなんかで女中さんをしているっていうことがわかって、そこへ密かに、子どもたちには内緒で出かけようっていうところの場面なんですけど、ゴウゾウは早かった、翌日10時ごろ朝飯を済ますと、銚子の病院に行くと言って、背広に着替えて出かけた、ひとりで銚子の病院に行く例はいままでにもあって、ケンイチたちも特別のこととは思わなかった。ケンイチっていうのは子どもです。ゴウゾウはその日ほんとうに病院へ行った。心電図もとったり、いつもより綿密に診てもらった。待ち時間を入れて2時間くらいかかった。特別の異常は認められなかった。病院を出てから銀行へ回り、預金から50万円を下ろし、軽い昼食をやって、次に理髪店に行く、とこうあります。
 そうすると、初めのゴウゾウは早かった翌日10時頃といいます、これをいまの言葉でいいますと、語り手の語っている言葉になります。しかし、この語り手の言葉として始まるわけですけど、途中でもって、もはやそうではなくなります。すでに作者が半分ぐらいはゴウゾウっていう老人のなかに、作者が半分ぐらい入っています。言ってみますと、いまの言葉でいえば、語り手のなかに半分ぐらい作者が入り込んでいます。乗り出しています。あるいは、全部といってもいいのです。つまり、全部がもう作者、私がゴウゾウになっちゃっている。そういうふうになっています。だから、待ち時間を2時間くらいかかった、特別の異常は認められなかった。病院を出てから銀行へ回り、預金から50万円おろすっていう、こういう直接話法みたいになるわけです。ようするに、ゴウゾウっていう老人が下ろしてっていうふうに受け取れるわけです。つまり、読むほうでは受け取れるわけです。
 これは非常に微妙ですけど、微妙な行数の中で、ゴウゾウっていうものを作者が語るっていうようなところから始まって、この何行かのうちにすでにゴウゾウの中に作者が、自分が半分ぐらい身を乗り出して、自分が50万円を下ろして、軽い食事をとって、それから次に理髪店に行くっていう言い方をしています。つまり、そうすると、もはやゴウゾウっていう老人が書いている作者自身であるし、そしてまた、いままで説明していた人が、つまり、語り手であった人もやはりゴウゾウっていう人の中に全部一緒になっちゃった。つまり、集約されちゃったっていうことは、このたった何行かのなかにあらわれています。
 もちろん、あらわれているような便利な箇所を引用したわけですけど、しかし、このことは私小説っていうものの非常に大きな性格なのです。つまり、私小説っていうのは、私が何々したっていうのを書いているから私小説でもなければ、何々と何子っていうふうに書いているから私小説ではないというわけではありません。そうじゃなくて、語り手っていうものと、それから登場人物というものと、それから書いている作者っていうものとどこかでアマルガムにしちゃう、混入しちゃうっていいましょうか、一緒にしてわからなくしてしまおうっていうような、そういう虚構の仕方ですね、虚構の取り方っていうのが、私小説にとって非常に本質であることがわかります。そのことが私小説の一般的な特徴だっていうことがわかります。
 これは今年書かれた作品ですから、このような作品が現在でも書かれているってことがわかります。現在でもこれはむしろ千年くらい前の説話とか、民話とかっていうところにもっていったほうがいいのじゃないかっていうようなふうに思われる作品も、現在でも書かれているわけです。

5 民話と私小説の違い

 ところで、それじゃあ何が千年か千五百年前の説話あるいは民話っていうものと何が違うのでしょうかっていうことを考えてみます。そうすると何が違うかっていいますと、何が違うかってことは何が同じかってことなんですけど、それは千五百年前のある原型的な共同性っていいましたけど、原型的な共同性の内側で書かれているっていう意味合いでは、これは千五百年前の説話も、あるいは民話も、現在書かれている私小説も、まったく僕は同じだっていうふうに理解します。
 ただ、どこが違うかっていうと、原型的な共同性っていうものに対して、現在もし、そういう共同性が成り立っているのか、成り立っていないのかわかりませんけど、少なくとも作者が成り立っていると思いたがっているということが非常に重要なことなんですけど、作者がそういう共同性みたいなものが成り立っている共同性に対して何が違うかっていうと、ただ、時間の経過っていいましょうか、時間の経緯っていうものだけが違う、つまり、時間的な落差といいましょうか、そういうものだけが違うっていうことだと思います。
 それから本来ならば、私小説が成り立つべき基盤の共同性っていうもの、あるいは共同性的な原型っていうものが現在成り立っているかどうかってことがひとつ大きな問題であるわけなんです。その問題は私小説の作家にとっては無きに等しい問題だと思います。その問題は初めから外されていると思います。つまり、問題外とされていると思います。
 しかし、その問題はあきらかにあるわけです。現在も千五百年前も二千年前も考えられる原型的な共同性みたいなものが現在もありうるか、あるいはあるのかっていうこと自体が問題であるってことがあるわけであって、私小説は少なくとも作家にとっては、少なくとも、そういうものは問題として問おうとする意識はまったくない。
 そして、もうひとつは、そういうものが成り立っているという虚構性っていいますか、加工性っていいますか、それだけはしようとしているってこと、あるいはモチーフといいましょうか、衝動といいましょうか、そういうものがあるということが、現在存在している私小説にとって基本的な性格だっていうことがいえると思います。
 この問題は、ほんとは大きな問題なので、もうひとつ言わなくちゃいけないことは、だから私小説というのはいい作品じゃないかどうかってことはまた別な問題です。つまり、いい作品か、よくできた作品かどうかってこととは、いちおう別な問題です。別次元の問題です。関係はどこかであると思いますけど、それはいちおう別次元の問題ということにしておきます。
 しかしながら、現在もなお私小説のように、つまり、登場人物も作者も、それから語り手も全部いっしょくただっていう虚構が、あるいはフィクションが成り立っているっていう、あるいは、そういうフィクションをモチーフとして作品を成り立たせている、そういう作品が現在もあるっていうことは、非常に文学にとって重要なことのように思います。つまり、文学の本質にとってはたいへん重要なことのように思われます。
 この問題は、現在どのような文学が成り立っているか、あるいは書かれているかっていうようなことを掴んでいく場合に、この私小説っていうのは、いわばそういう成り立っている一種のいちばんベースに考えられる成り立ち方なんです。
 だから、この成り立ち方はいってみれば『源氏物語』以前の問題です。『源氏物語』以前の問題として、現在も依然としてベースとしてある、言い換えればそれは文学の、物語の起源の問題ですから、起源の問題はいつまで経ったってつきまとっているという意味あいで、現在もまたつきまとっているのですけど、作品の構造とかそういうものからみれば、もちろん、『源氏物語』あるいはそれ以前の日記というものがあるわけですけど、『蜻蛉日記』とか、何々日記というのがありますけど、日記類が書かれたときに、すでに私小説以上の問題っていうものは提起されているわけで、だからはるかに千年ばかり、そういう意味でいいますと古いわけで、私小説っていうのは、一種の古い構造をもって現在も成り立っている小説であるわけです。
 だから、日記文学の一種の集大成ともいえる『源氏物語』っていうものが書かれたときに、もはや語り手と登場人物と作者とは別々にふるまうことがありうるっていうような、そういう問題はすでに提起されてしまっているわけで、現在としても依然としてその問題は存在するというふうに考えますと、いちばんベースにおいてやはり高度なモチーフといいましょうか、あるいは、高度な作品の構造っていうもので、文学作品が現在存在しているのかって考えますと、非常に共感がしやすいわけです。現象論としては非常に共感がしやすいということがあります。

6 東峰夫『天の大学』の高度な物語構造

 そのような、もちろん私小説ばかり現在書かれているわけではないので、そのような作品も、もちろん現在存在しています。そのような作品の、とにかく、例をあげてみましょうか。これは、東峰夫っていう人の『天の大学』っていう作品の一節です。これは「私」が主人公ですけど、私が性的に目覚めて、性欲に駆られて、母親と関係をしようというふうにいこうというところの描写なんです。
 居間では父と友人がお茶を飲みながら雑談をしているようだった。母は居間を通り抜けて寝室に入っていったので私も後を追った。父と友人が後ろ姿を見ているに違いなかったが平気だった。気づかれたらダメと母は言った。すぐに父の友人が寝室に飛び込んできた。それはいかんよ、それはない。でも、わかってほしいよ、おじさん、全身が震えて、声も泣き声になっていた。おじさんはわかってくれるはずだろう、何人も奥さんを取り替えたんだもの(会場笑)、おじさんはいいよ、得をしているよ、まあそのことは言わんでくれ、私は父の友人の腕に取りすがって、壁のところまで引っぱっていった。そこに座って、洗いざらい打ち明けたいと思ったが、しかし、何から話せばいいのかわからなかった。ずっと我慢していたんだ。だから、私は口ごもってしまった。そういっても、それはいいわけだ。それで見境もなくお母さんに欲を覚えたとは言わせんよ。私は呻き、もう何も言うことがなかった。
 こういう一節があります。この作品は、みなさんがお笑いになったように、私が、つまり、自分が実際に母親をつかまえて、寝室へいこうとした。で、父親と友人が居間で話しているところを通り抜けようとして見つかっちゃったというふうに、みなさんはこのまま読みますと、そういうふうにとれるでしょうけども、ほんとうはそうじゃないのです。
 これはまったくのフィクション、まったくの虚構なんです。つまり、作者のモチーフはそういうところになくて、これは架空のモチーフなんです。つまり、架空のことを書いているわけなんです。これは作品をぜんぶ読むと一目瞭然なんですけど、文句言うことないのですけど、ここだけ読むとそういうふうに読めますけど、それはそうじゃなくて、これは、ただこの中で真実といいますか、つまり、リアリティがあるのは何かっていいますと、ここで登場する私というものの欲望といいましょうか、欲望のあり方といいますか、あるいは、欲望が描く線といいましょうか、曲線といいましょうか、そういうものだけがこのなかでリアリティなのです。あるいは、この東さんという作者が言おうとしているリアリティはそれだけにあるわけなのです。
 枠組みを見てみますと、みなさんが読んで感じられたように、これは事実をそのまま、つまり、私という人物が母親をとらえて、父親と友人がいる居間のところを通って寝室のほうへいこうとした。そうしたら見つかっちゃって、父の友人が追っかけてきて、それはよせよせって、いくら欲望を覚えたって、母親にそんなことをしちゃおかしいじゃないかっていうのを、私っていうのは、それは勘弁してくれ、そうは言わんでくれって、こういうふうに言っているようにとれるわけですけど、ほんとうはこのなかでリアルなのは、真なのは、ようするに、私の欲望っていうことなのです。つまり、欲望が描くひとつの曲線っていうものを描きたいために、こういう場面を架空に設定しているわけなのです。まったく架空に設定しているのです。つまり、これはシュールレアリスティックな場面なわけなのです。
 ここの場面に至って、私と書かれているわけですけど、まったく私小説ではないのです。つまり、これは物語自体の枠組み、あるいは、少なくとも私と登場人物と作者とが、あるノーマルな関係といいましょうか、ノーマルな関係にあるならば、当然、考えられるような場面というものを、あるいは、そういう場面設定の物語というものを、もはやずっと遥かに超えたところに、ほんとうは作品のリアリティというものを求めているわけなのです。だから、このなかでリアリティがあるのは、私というものの欲望というものが、あるいは、エロス的な欲望というものが描く曲線といいましょうか、その曲線だけがリアリティなのです。あるいは、作品のモチーフなんです。
 だから、それがようするに逆にいいますと、作者が読んでもらいたいのは、作者がこの作品を誤りなく読んでもらいたいとすれば、それを読んでもらいたいわけなんです。ある人間の性に目覚めたころの、あるいは青春伝記になったあるひとつの私という男の子の抱く性的、エロス的な欲望というものが描く曲線というもの、ほんとは、これは我々の潜在意識のなかに隠されていて、誰もそれを実際には解放しようとしないのかもしれないけど、その年齢の私というものの欲望の描く曲線というもの、それがどういう曲線の描き方をするかっていうこと、それを読んでもらいたいっていうのが、それを読むということがこの作品を読むということに該当するので、この作品の個々の場面というものは、もちろんリアリズムでもないしなんでもないのです。ありそうに描かれているわけでもないという意味あいもないし、もっとこれはまったくのフィクションの上のフィクションです。つまり、フィクションのまたべき乗といいましょうか、そういう意味あいで、こういう場面が存在しているので、この作品は全部そうです。
 全部がそういう場面で、一見リアルに存在するように描かれているのですけど、この『天の大学』という、早稲田大学と違って、『天の大学』というのですけど、この『天の大学』というのは、作者の象徴によれば、これはようするに人間の抑圧されたといいますか、エロス的な欲望の描く曲線といいますか、その曲線のあり方というのを教える学校というのが『天の大学』という、そういう意味なんだっていうふうに、作者はそういうふうに『天の大学』という題名を使っています。
 この作品もたぶん、それなのであって、そういう眼に見えない欲望を描く曲線をなんとかして言葉にして言語化したいという、そういうところでこの作品が成り立っていることがわかります。ここでは、もはや登場人物というものと、それから「私」と書かれているものと、それから、登場人物と私がいさえすれば、また作者がいさえていれば、描かれるはずの物語の枠組みというものは、はるかに無視されていることがわかります。いい言葉を使えば、それを超えられていることがわかります。
 こういう作品というのは、いわば先ほどの私小説的な作品というものを底辺におくとすれば、この作品は頂点におかれるべき作品だというふうに考えます。またここで改めてお断りしなければなりませんけど、この頂点におかれている、底辺におかれているというのは、作品がいいか悪いかってことは、いちおうは別の問題なんだっていう、そういう意味あいで受け取られないと、話が全然違ってきてしまいますから、そういう意味あいではありません。
 ただ、この作品は先ほどからいいますように、物語の構造っていうものから考えていきますと、最も高度なところに存在する作品だということが言うことができます。だから、こういう作品を頂点におきますと、その中間のところに様々なかたちの作品というものを想い描くことができるわけです。

7 山川健一『さよならの挨拶を』における陰影

 もうひとつだけあげてみましょうか、これは山川健一の『さよならの挨拶を』をいう作品です。これは、主人公は僕というかたちで出てくるわけですけど、僕という主人公がトルエン中毒なんですけど、トルエンを吸って酩酊したときの状態の描写なのです。
 夏だというのに体は冷え切っていた、手のひらは凍えてしまいそうだ、何もかもがまだ始まったばかりだというのに凍えてしまう。ぼくの怒りや道を照らすカンテラの明りや、ささやかな希望が凍りつく肉体の中心に一点の、たとえば氷の破片のようなものがあるのだと思う。そいつが少しずつ大きくなる、少しずつ、しかし確実に肉体は熱を失っていく、すべてが凍えてしまわないうちに、もう一度やるのだ、たとえば、腐った林檎みたいな匂いのこもった家に火を放ったように、もう一度やるのだ。時間がない。時は信じられないほどの速さで過ぎていきつつある。一度立ち止まれば、もう二度と再び歩き始めることはできないだろう。やり直すことができないのだ。ぼくは台所へ立った。ヒロシの背中に、ヒロシっていうのは友達です、密かに呼びかける、ヒロシ、ぼくらは短い人生のほんの数秒しか訪れない輝かしいときを精一杯光り輝かすために毎日息を殺して生きているので、その瞬間がなければ、誰も長い砂漠を超えていくことはできないのだ。ミルクを飲む。ヒロシが用意してくれた熱いミルクを飲む、砂漠の中に火が見える、輝く太陽の下で炎が揺らめいていた。ぼくの家が、過去の時間がびっしりつまった家が燃えている。そして、炎のむこうにアラブの軍馬が見えた。その上に乗っている男が火を放った犯人だ。そう、この僕だ。最後まで始末することができずに手元に残ってしまったカード、ジョーカーだ。こうあります。
 ここでやはり、ぼくというかたちで作品を語っているように見える存在なんですけど、その語っているような存在と、それから作者と、登場人物としての僕と、それから、それを地の部分で語っている語り手と、その語り手がまったくそもそも分離していることがわかります。いつも別々なことを考え、別々なことを言っているという複雑なかたちというものが、いま読みました合計20行ぐらいだと思いますけど、20行ぐらいの中に、たいへんはっきりと、ある意味でたいへん見事に表現されています。
 そうすると、ここでこの場合に何を読んだらいいのか、それはたとえばこうなんです。このなかに物語の筋の展開を読もうとしても、この20行で何も展開されていないと言っていいくらい展開がされていません。この割合はこの作品全体にいえるわけで、この作品全体で何百行か何千行あるか知りませんけど、何千行のなかで物語の展開として筋の展開として考えたらば、そんなにたくさんの展開はありません。だから、あきらかにこの作品は、筋の展開を面白おかしい物語が書かれているからそれを読んでくれと言っているのではないことがわかります。つまり、そういうものが作品のモチーフでないことがわかります。
 何がモチーフなのだろうか、それはまず全体を読む以外にないのですけど、しかし、文芸批評的な根性から言わせてもらいますと、これは登場人物と語り手と、それから作者とのかかわり合いの陰影というものを読んでほしいのだっていうふうに思われます。
 モチーフというのもあるのです。倫理的なモチーフもあります。それはトルエン吸引者である、心弱くて、やさしくて、世間的に非難されているといいますか、そういうような、どうしようもないような、素面ではとてもこの社会に生きていけないようなふうになっている、そういう精神状態に存在する、ぼくというトルエン吸引者の一種のやさしい自己主張なんですけど、つまり、やさしくて弱々しい自己主張の倫理があるわけなのです。それは、それを知ってほしいというかたちでしか、それをわかってほしいんだと、しかし、誰もこれをわかってくれないならば、じぶんはそれをできるだけ説明しようじゃないかと、しかし、じぶんはそれを説明したとしても、トルエン吸引者の内面というものを誰も理解してくれないかもしれないし、それを評価もしてくれないかもしれない、しかし、もしこれをわからせることに意味があるとすれば、それはたとえばひとつの倫理でありうるというような、そういうふうに言ってしまうといけないのですけど、いってみれば、そういうモチーフというものは、微かに立ち上ってくるのですけど、本来的にいえば、ようするに、語り手というものと作者という者と、それから、登場人物という者とが、あるときに出会ってみたり、あるときに別れて、語り手が地の部分として説明しているかと思えば、ぼくはこれこれというふるまいをして、これこれのことを感じていると、作者のほうは、これこれという感じをしている僕というものを描きながら、こういう人物を描いているおれというのは、つまり、作者というのはいったい何なのだろうかっていうことを、自らじぶんで問いかけているというような、そういうある時には、そういうふうに作者も登場人物も語り手も全部分離してしまうと、それで、あるときには、ある場面ではそれら3つが一緒になってしまって、あることを消極的にですけど言おうとしていると、あるときにはまたそれが別れてきてしまう、そういう複雑な一種の起伏があるわけですけど、そのことをたぶん、この作者は、この作品で語りたいわけなのです。
 この作品は先ほど言いました、頂点と底辺といいましたけど、たぶん中間に挿入される作品というふうに言うことができると思います。ただ、作品としていえば、たぶん、この作品はいちばんいい作品だと思います。つまり、いちばんいい作品で、たぶん、昨年度に書かれた作品のなかで、いくつかのなかに入る優れた作品だと思いますけど、だけれども、いま言いました意味合いでいえば、つまり、物語というものの一種の構造みたいなものからいえば、その中間に属すると思います。中間に属するひとつの作品のあり方だっていうふうに思います。

8 イメージの価値の深化と表現形式の変化

 さきほど頂点と底辺と言いましたけど、頂点と底辺の間にさまざまなバリュエーションで語り手と、それから登場人物と、そして作者との、さまざまなバリュエーションで、さまざまな形っていうものが、形態というものがとられるというのが、現在の文学作品を非常に本質的なところで捉えようとした場合に出てくる問題なわけです。
 これだけのことを申し上げると、いちおう現在の物語のありうべき様々なかたちのある典型というものを抜き出せたことになるのですけど、たぶん、みなさんのほうでは若干、不服、不満があるんじゃないかと思うんです。ぼくもちょっとこれだけだと不満があるところがあるんです。
 だから、そこのところでもうひとつ問題を出していきたいわけですけど、それは何かっていいますと、それは言葉の表現の様式、形式といってもいいですけど、様式の問題なのです。この様式の問題というものがどういうふうになっているかってことが非常に無視することのできない現在の文学の大きな問題であるように思われるのです。だから、その問題をできるだけ本質的なところで申し上げてみたいわけなのです。
 先ほどもちょっと触れましたけど、現在、テレビなんか見ますと、非常によくわかるのですけど、実質的なといいましょうか、あるいは、物質的な、あるいは、物体的なといいますか、物体的な存在感というものに対して、イメージの存在感というものが非常に大規模な意味あいをもってきているというのが、どうしても現在の文学の中で抜かしてはならない問題のように思われるのです。
 だから、非常に典型的にわかるのは、テレビなんかあれなのですけど、たとえば、テレビの化粧品なら化粧品というもののCMならCMをみればすぐにわかるのですけど、物質としての化粧品というのは、たぶん、それほど変わりがないように思うのです。つまり、どんなものをもってきてもたいして変わりはないと、あるいは、どこの社のどこの製品をもってきても、それほどの変わりはない、そうすると、それに対して、イメージの価値といいますか、つまり、物体、物質性をもたない価値ですけど、イメージの価値をこれに付け加えようということがあります。つまり、この付け加え方が容器の形になったり、容器の質になったり、あるいは、色彩になったり、あるいは、それを宣伝している女性の顔になったり、あるいは、人気度になったり、そういうふうなかたちで様々なイメージとしての価値が物質的あるいは物体的な価値に付加されるというようなことが、その規模が非常に大きく、かつ深い層をなして存在するようになっているということが非常に大きな問題である、つまり、その問題が文学作品に対してどういう影響を与えるかってことが非常に大きな問題のように思われるのです。
 ひとつのことは簡単なことで、人々はそのように付加されるイメージというものを、イメージと同じように瞬間的に、たとえばスイッチをひねれば、瞬間的に感覚の中に、あるいは、視覚の中に入ってきて、瞬間的にわかっちゃう、次の瞬間にはもうそれは消えてしまう、そういうようなかたちで存在するイメージ、あるいは、映像のあり方っていうものに大規模に晒されていますから、文学作品といえども、やはりそのようなかたちでつくろうというモチーフというのが当然あらわれてきているわけです。
 だから、その場合には言葉を映像と同じように使おうとするわけです。映像と同じように使おうという場合に、ほかの特質は抜きにしまして、いちばん根本的なことは何かっていいますと、ようするに、瞬間的にある中心に入っていって、そして、瞬間的に中心から出てきちゃうっていうような、そういう作品形成の仕方をやはり文学作品自体もやっぱりやろうとするっていうことが当然、必然的に起こってくるだろう、あるいは、起こってきつつあるということです。これは、非常に若い年代の作家のなかに非常に多くあらわれてきます。
 これは意識してそうなされている場合もありますし、そうじゃなくて無意識のうちに、もはや映像がいきなり中心にパッとあらわれ、そしてまた、パッと消えるっていうような、あるいは、次々移っていっちゃうっていうような、そういう映像のイメージに慣れているために、言葉もやはりそのように使いたい、あるいは、小説もそのように構成したいっていうような意識的な意図の場合と、それから無意識のうちにそうなってしまうという、両方の場合がありますけど、それは若い年代の作家のなかに非常に多くあらわれてきています。この問題は、ぼくは現在の文学作品を考える場合に無視することができない問題のように思われるわけです。

9 田中康夫『なんとなく、クリスタル』-イメージだけの生活概念

 たとえば、例をあげればいいでしょう。きっとみなさんが読んでおられる田中康夫って人の『なんとなくクリスタル』っていう作品があるでしょう。『なんとなくクリスタル』という作品は、みなさんはいいと思う人もいるし、こんなものはダメだという人もいるわけだと思うのです。だけれども、そんなことはどちらも対して問題ではないのです。つまり、いいと思おうが、悪いと思おうが自由であるし、また、たいした問題じゃないのです。そこには、あんまり問題はないのです。
 この作品の基本的な性格は何かっていいますと、これは簡単なことで、ようするに、これは意識して作者が書いているわけですけど、意識された一種の風俗的な道行小説です。つまり、この道行小説という概念は、やっぱり古典時代からある概念なのです。つまり、東海道五十三次をこういうふうに渡って、浜松では何があって、それと同じ意味合いで、現在存在する風俗を導くふうに、辿っていくということがこの作品を書く場合の作者の根本的なモチーフです。これはかなり意図的な、つまり、意識されたモチーフです。そういうものを描きたいわけです。
 ところで、描きたい場合に、これだけの作品かっていうことなのですけども。ところが、そうじゃないのです。これは、みなさんがそのことは気がついておられると思うのですけど、そうじゃないのです。この中にも微弱でありますけど、自己主張と自己限定があります。
 それは何かっていいますと、ひとつはようするに先ほど言いました、実質的、あるいは物質的、あるいは物体的な価値概念、あるいは生活概念でもいいのですけど、そういう概念がまったく存在しない、つまり、イメージだけの生活概念というものに登場人物たちを限定しようとしているということです。
 つまり、登場人物たちは学生さんだったり、モデルをアルバイトにしている学生さんであったり、あるいはデザイナーであったり、そういうふうにするわけですけど、それらはいずれも職種がそうであるように、実質的な、あるいは実体的な生活を営んでいるというよりも、ほぼイメージの生活を営んでいる、あるいは、イメージをつくりあげることを職業とする生活を営んでいるっていうようなところに登場人物たちを限定していることがわかります。つまり、この限定はなぜそうされるかというと、作者が登場人物たちをようするにイメージの価値、つまり、イメージだけの価値のところで、登場人物たちを動かしたいということがこの作品の自己限定だと思います。
 これは作者が意識していたかどうか、半分ぐらいしか、たぶん意識していないと思うのです。半分は無意識のうちに、じぶんにとって最も描きやすい世界だったからそうしたということかもしれないのですけど、だから、半分ぐらいしか、たぶん意識されていないのですけど、しかし、あきらかにそれは重要なことだと思います。
 つまり、実質的な生活とか、物体的な、あるいは物質的な生活を営んでいるというような次元で起こる様々な問題ではなくて、たぶん、イメージの世界、あるいはイメージがつくられたイメージの中の世界で生活している、そういう人間が当面する様々な問題というようなところに、登場人物たちを限定しているということが、非常に重要なことだと思います。この限定の仕方というものがある意味で非常に現代的なわけです。
 たとえば、みなさんがこの作品をある意味で非常に現代的だと思われるとおもうのです。その現代的だと思われることの理由は何かといいますと、もちろん、先ほど言いました、現在の風俗が描かれているから現代的だとも言えるでしょうけど、それはたぶん、表面的なことにすぎないので、この作品をほんとうに現代的だと思わせている根本的な理由のひとつは、たぶん登場人物たちをイメージの生活、あるいはイメージをつくることに加担するといいますか、つくることにたずさわっている、そういう職業の人物たちの当面する様々な問題というものを描いているというところを、そこがたぶん非常に現代性を感じさせるところの非常に大きな問題のように思えるのです。
 そのなかで、たとえば、作者のもうひとつ、その奥にひとつの自己主張があります。その自己主張はこういうふうに取りだしてしまえば身も蓋もないのですけど、そういう取り出し方をしますと、自分たちはこうだと思います。自分たちというのは、作者の生の主張じゃなくて、登場人物に言わせる主張ですけど、自分たちは拘束されて生きるのは嫌なのだと、だけれども、まったく自由に生きるっていうことも嫌なんだ、あるいは、できないんだと言ってもいいです。つまり、自分たちは拘束されて、拘束されてという意味あいは様々ありますけど、ごく単純に親父さんからお前は誰それと見合いをして、結婚して、会社に就職してどうしろと、こういうふうに親から言われていると、それを嫌だと言えば、親との衝突が起こるという場合に、親のそういう意向を拘束と感ずるという、そういう意味あいでもいいのですけど、とにかく、いずれにせよ拘束されるのが嫌であると、自分たちは拘束されないという次元で、自分たちは生きたいということ、生活していきたいということがあると、そうすると、今度は逆にまったく非拘束であったらば、自分たちは困るのだ。たとえば、主人公はバンドをつくっている男の子と同棲しているわけですけど、そうすると、まったく自由に男の子と同棲はしているけど、男の子は男の子で勝手自由に振るまえば、自分は自分で勝手に振るまえば、たちまちのうちに同棲生活というのは壊れてしまいます。主人公はあきらかにそういうふうに壊れてしまうのは嫌なのだと言わせています。そういうふうには壊れたくないのだと、しかし、さればといって、恋愛して同棲しているのだから、生活の隅から隅まで相手に拘束されるというのは、自分は嫌なのだと、そういう意味では、自分がほかの男の子と遊びにいって、また同棲している男の子のほうは、ほかの女の子と遊びに行ったりということはありうるのだと、それから、あるときにはお互いに背中合わせで別々のベッドで寝るということもありうるのだというふうに、そういう意味合いでは拘束されたくないのだと、恋愛し、結婚し、こうしたんだからというふうに、だから拘束されるとか、愛しているなら拘束するという意味あいで、きつく拘束されるのも嫌だと、だから、そういう意味では拘束されたくないのだけど、それじゃあ非拘束という原則にすれば、同棲なんてものは3日と続くわけはないので、これは普遍的な真理であって、時代にかかわりのないことなのです。つまり、そういうふうに振るまった場合には、かならず、それはすぐに壊れてしまう、主人公はやはり、そういうふうに壊れたくはないのだ。また、この生活は壊したくないのだっていうふうに、そういうふうに主人公に言わせています。
 その主人公に言わせていることのなかに、ある意味で作者の倫理的な主張というのは、あるいは、もしかすると世代的な主張なのですけど、そういうようなものは、そこに間接的ですけど、こめられていることがわかります。つまり、拘束と非拘束というものの間に自分たちが存在したいんだと、しかも、その間に存在したいということと、しかし、自分たちの生活はだいたいにおいて、イメージの中の生活といいましょうか、イメージ自体を生活と考える、あるいは、イメージ自体をひとつの価値と考える、そういうなかで自分たちは生活したいんだということが、この作品の、要約してしまいますと、大きな自己主張になるだろう、あるいはモチーフになるだろうというふうに思います。
 みなさんたちはこの作品を読んで反撥されようと、肯定されようと、それはたいしたことはないのですけど、しかし、いずれにせよ、反発されるところも、肯定されるところも、いま僕が申し上げました作者の自己主張、ないしはモチーフのところに、反撥ないしは肯定されるってことは、ぼくは相当はっきりしているんじゃないかっていうふうに、僕には思われます。つまり、そこのところがみなさんの反発または肯定される要素だろうというふうに、ぼくには思われます。
 だから、そういう意味あいでこの作品を読みますと、この作品がなぜ新しい意味合いをもつのかということと、なぜ新しい意味合いをもつにもかかわらず、ほんとはかなり特殊なものなんだっていうようなことの意味あいというものも、ある程度はっきりするんじゃないかっていうふうに思われます。
 しかし、この問題は無視することができないというふうに僕には思われます。つまり、様々な意味で、現在、文学というものは、このイメージ増出力といいましょうか、あるいは、イメージ価値といいましょうか、そういうものの規模の大きさというのが大規模になってしまったというの、また、だいたいすべての人が24時間を過ごせば、必ずその中の半分ぐらいはイメージの価値が猛烈に大規模に、それからある程度の深さをもって存在するそういう世界といいましょうか、地帯といいましょうか、そういう帯をくぐらなければ、やっぱり24時間のうち何時間かは、そこをくぐらなければ一日は終わらないというような、そういう場面にみなさんが当面しているとすれば、そのことは無視することはできないし、たとえば、現在の文学が、若い人ですけど、微弱な主張で、かつ風俗的な主張ですけれど、その問題を無意識のうちに、あるいは非常に受け身なかたちで、その問題を表現しつつあらわれてきているということの問題は、かなり大きな問題として考えなければいけないんじゃないかというふうに思われます。
 それは、たとえば、現在、言葉によって描かれる世界というもの、あるいは言葉によってつくられる物語、あるいは文学作品の世界を考える場合に、非常に大きな問題になるだろうというふうに思われます。

10 イメージの世界を枠組みにするエンターテイメント作品

 だから、この問題をいちばんよく体現しているのは、現在におけるエンターテイメントというものの世界とその作者たちがいちばんよくそれを体現しています。これも様々なエンターテイメントの作者っていうのは、様々な形で、様々な質で存在するわけですけども。そのうちのかなり質のいいというような部分をとってくれば、それは典型的にそのことがわかります。
 典型的にかなり質のいい人を誰でもいいのですけど、さっき鈴木さんのあげておられた筒井康隆でもいいのですけど、この筒井康隆という人が野放図に娯楽作品を書いているときは、それはそれで面白おかしいのですけど、ちょっとまじめになって純文学の作品みたいなのを書こうみたいにまじめになってくると、どういうことをするかっていうことを考えればわかります。
 つまり、何もすることがないのです。2つしかないのです。ひとつは新しいパターンというものを考えることです。つまり、物語というものを構成としてじゃなくて、パターンとして新しいパターンをいつでも考えるということです。この意味あいでは、たいへん労力と、それから思考力を費やしていることがわかります。非常に絶えず新しいパターンというものをつくろうとか、絶えず新しいパターンを中心に作品をつくっていこうというような、そういう努力といいますか、そういう努力はちょっとしのぎを削るくらいに、非常に熾烈だっていうことがわかります。
 この熾烈さというのは純文学の作家にはないものなのです。純文学の作家というのは、そういう意味合いでいえば、たいへんのんきです。のんきで持ちあげで書いていればいいくらいに思っていて、たいへんのんきなので、むしろエンターテイメントの作家の優秀な人のほうが絶えず新しいパターンをつくろうということについては、絶えずよく勉強していますし、よく考えています。そういうことがわかります。
 しかし、問題はエンターテイメントの作家たちのいる世界というのは、住んでいる世界、あるいは、言葉を行使している世界というものは、いま言いました、イメージ生活の世界というもののなかで、それがなされているということが、いちばん大きな問題を喚起するところなのです。だから、筒井さんでも、栗本さんでもいいのですけど、非常に優秀なエンターテイメントの作家が絶えず考えている新しいパターン、それから、しのぎを削りあっている新しいパターンというものの努力というものは、幾分かですけど、幾分か、つまり、資生堂とカネボウとはどういうふうに化粧品を売るかってことでしのぎを削っているでしょう、入れ物から、宣伝の場面から、しのぎを削っているでしょう、それと同じところがあります。宣伝のパターンの新しさでもって勝負をするといいましょうか、それと若干似ているところがあります。若干似ているところっていうものを本来的にいえば、構造的には、同形なのです。同じなのです。つまり、そこが大きな問題なのです。つまり、それらの努力というものが、現在のエンターテイメントの作品を非常に質のいいものにしています。優れた作品にしています。
 しかし、それと同時に、エンターテイメントの作家たちが言葉を行使している世界というものは、いま言いましたイメージだけが存在する、あるいはイメージの生活世界というものに限定されると言っていいくらい限定されています。だから、そこが問題なのです。そこが問題であって、そこがまたエンターテイメントである所以なわけなのです。だから、この問題を本質的に考えられないかぎりはどうすることもできないです。
 だから、筒井さんのもうひとつの努力は何かというと、言葉の努力です。あるいは、語り口の努力です。これが文学作品の努力になっています。これは筒井さんよりももう少し上等な、たとえば、田中小実昌なんて人をみればよくわかるのです。この人の努力も語り口の努力です。語り口を非常に的確に、非常に端折ってといいましょうか、削り落として削り落として中身だけみたいな語り口、それで語り口の転換をまた非常に見事にやれて、そこに文学作品としての努力を集中していることがわかります。
 つまり、そこでどうしてそういうふうになるかといいますと、いま言いました、イメージ生活の世界というものを作品世界の全部というふうに、あるいは、物語の枠組みというふうに考えているから、そういうことになってくるわけです。また、そこ以外に努力のし場所がないわけです。

11 文学の本質的な衝動

 ところが、もしも本質的な文学作品というものを考えようとするならば、もう少し違うことを考えなければならないということがわかります。すこしその問題を遠回りして説明します。お話してみたいと思うのですけど。
 つまり、どういうことかといいますと、この世界というものをつかまえるために、ぼくはかつて青年の時に、いちばん有効なんだと、このことを知らないために、自分はたとえば戦争中ダメだったなっていうように、つまり、ムードとか、情緒だけで、たぶんいったからダメだったなって思って、世界っていうものを把握するのに非常に便利だっていいますか、便利な方法として経済学的な方法というのがあるのです。社会経済学的な方法というのがあるのです。
 この社会経済学的な方法というものは、これでもってまた世界が逆にわかっちゃうというふうに考えると、またとんでもない簡略化みたいのが起こるわけですけど、逆に言いまして、そういう欠陥もあるがためにまた、世界というのを把握するのに、それが一番把握しやすいって、いろんな質とか、差異というものを全部そぎ落としまして、非常に把握しやすいということがあるわけなんです。
 ちょっとだけその概念を変えさせていただきますと、なぜイメージの生活の世界というものが、大規模に大きな深さでもって、なぜ存在するように現在なっているのかというふうに考えますと、それは基本的な衝動は非常に簡単なわけなのです。
 たとえば、物体的な価値、あるいは物質的な価値というものは、たとえば、先ほどの例でいいますと、どの化粧品会社の化粧品でもたいして変わりはないでしょう。しかし、これの販売ということになるでしょう、つまり、これを売るとか、与えるとか、そういう場面になっていきますと、それをどうするかといいますと、これをあとは物質的な部分で、つまり、化粧品の中身でいくというよりも、中身以外にイメージの価値を付け加えまして、実質的な価値、プラス、イメージの価値でもって競争する以外にないわけです。そこのところの熾烈な競争の仕方のなかで、イメージの生活世界というものが膨大に現在なってきているということが言えるわけです。
 だから、絶えず、みなさんがおわかりになるように、もし、みなさんの実質的な生活のなかで、実質的な生活と極めて飛び離れてしまったイメージの世界があったとしても、みなさんはそのイメージの世界に入ることができないでしょう。しかし、みなさんの実質的な生活の世界に対して、それよりも若干イメージが加わった世界というものをそこに展開すると、みなさんはそのイメージの世界に入りたいと考えるわけでしょう。入ろうとするわけでしょう。だから、絶えず、実質的な生活世界が要求する欲求、願望よりも、絶えず、若干だけ高い欲求、あるいは願望のところにイメージの世界を絶えず付け加えようという、そういう衝動というものは、いずれにせよあるわけです。生じてくるわけです。
 その問題は、膨大なイメージ生活の世界を現在大規模に展開させている大きな理由であって、私たちが24時間生活するならば絶えず、実質的な生活世界からそういうイメージの世界へいき、また、そこから降りてきて巡るということをやらなくちゃいけない。どうしても、そこを通過していかなくちゃいけない、必然の通路みたいなものとして、それは存在しています。
 その世界を通路として存在せしめている根本的な衝動は、いま言いましたように、物質的な価値とか、物体的な価値というものに対して、イメージの価値を付け加えたりというような、イメージの価値で競争したいという根本的な衝動というようなものが、そういう世界を非常に膨らましているというようなことは非常に明瞭なわけです。
 もしも文学作品が、このイメージだけの世界というものも通過しながら、なおかつ、これでもって自己主張したいとか、個性をそこでつかまえたいとか、個性を表明したいとか、なお、ありあまる作品の価値をつくりあげたいというふうに考えるならば、文学というものの根本的な衝動というものが、いずれにしても、現在存在しているイメージの世界の厚さと規模というものを、いわば、くぐり抜けて、なおかつ個性的である、そういう世界というものは、なおかつ価値がある、そういう世界というものを実現したいというふうに考えるならば、その必須な条件というもののひとつに、いま言いましたイメージの世界というものを、とにかく、くぐり抜けて、その上に出るといいましょうか、上に出るという言い方が悪ければ、くぐり抜けて、その果てに出るといいましょうか、その端に出るといいましょうか、そういうことがどうしても必須の条件になるわけになります。つまり、文学作品にとって、文学作品をもし本質的に問おうとするならば、どうしても現在つくりだされているイメージの世界というものを、とにかく、くぐり抜けて、なおその果てに出るということが、どうしても必須の条件になります。
 もしもそうじゃなければ、そうじゃなくて、つくられている、できあがっているイメージの世界の中で操作するのが文学だというのならば、それも文学なのですけど、そういうふうに考えるならば、それは、現在のエンターテイメントの世界がかなりな程度良質な、つまり、優れた作品として、それは実現しているところがあります。
 だから、その世界でもっとそれを実現すればいいので、もしもしかし、文学にとって本質的な衝動というものが、そうじゃないのであって、現に存在する膨大なイメージの世界、あるいは、イメージ生活の層といいますか、厚みといいますか、それをとにかく、くぐり抜けて、なおかつ、やっぱりひとつの個性ある作品としての自己主張をしたいということが、文学にとって本質的な問題だったとしたらば、どうしてもここをくぐり抜けて、なおかつ個性的でありうる、つまり、良識的に現実性をもちうるというような、そういう世界をどうしても実現する必要があると思われるのです。

12 経済学的な方法から得られる世界像

 それじゃあ、どうやってそれが実現可能なのだろうかっていうようなことが、ようするに最後に出てくる問題です。批評にとっても、想像にとっても、最後に出てくる問題のように思われるのです。これはもしここでどういう作品がそういう作品としての条件を備えているのかというようなことになっていくし、また、どういうふうにしてそれは可能なのかということが問題になってくると思うのです。
 つまり、どうしてそのような作品の実現が可能なのかということは、いわば問うこと自体が無意味なのであって、あるいは、可能にするには、可能にする人が可能にするだろうということにすぎないのかもしれないのです。ただ、それをまだ実現されていない作品とか、実現されていない物語とかいう意味で、その条件といいますか、いくつかの性格というものを言おうとすれば、何を考えればいいかということがあると思うのです。
 これは、経済学的な方法というものをもう1回、のしイカのようにのして見てみますと、つまり、構造的に考えてみますと、現在、たとえば、実質的な、あるいは物質的な、実質的な生活世界とか、生活世界にまつわる、つまり、生活世界のある部分を何時間か、8時間なら8時間のものを占めているものをつくっている世界とか、そういう世界ですけど、そういう世界というようなものは、いわば働きにいって、労働して、働いて、そして賃金を得て、帰ってきて生活してどうするというような、こういう片っぽじゃそういう世界の人であるし、片っぽじゃそこで賃労働からあり余ったものがあると、あり余ったものをどういうふうにこれを分けようかということを、現在でいえば、国家なら国家というものが単位をもってそれをやっている、そういう世界です。
 こういうふうにのしイカのように延ばしてしまいますと、こういう世界に対して、どういうふうに国家がある制御装置でもいいのですけど、制御装置がどういうふうにそれをコントロールするかという形で平面化して考えて、つまり、のしイカのように延ばしてしまいますと、そういう世界のひとつの像が得られます。
 つまり、のしイカのように賃労働している人達の世界がある。そして、その賃労働から得られた余剰分というものをある装置が管理していて、その装置が管理した装置が、それを自分たちが適当に足りないところに補うとか、余ったところから取るとか、そういうふうな形でそれを管理している場合もあるし、また部分的にだけ管理している場合もありますけど、そういう管理している装置があって、そしてあとはのしイカのように賃労働しては一日を暮らしているみたいな、そういう人達の世界が増えているというような、そういうのしイカのような世界像が得られるわけですけど、そののしイカのように得られる世界像のなかで、たとえば、管理装置である国家が100%そういうのしイカのような賃労働者の世界を管理している、そういう世界から、またそうじゃなくて、日本のように十何パーセントだけ管理していると、そういう世界と、それから、ヨーロッパのように30%なら30%管理されている世界とか、それから100%管理されている世界とかというふうに、管理の度合いが違っていても、そういうふうに管理されている世界像の中にのしイカのように、賃金労働者みたいなものが、現在の非常に高度な資本主義国では、たとえば、90%ぐらいが賃労働者になっています。これはいまに100%みんな賃労働者になります。しかも、賃労働者になっておいて、賃労働者自体は自分を中産階級だと思っています。しかし、だいたい100%そういうふうになっていくと思います。
 つまり、もっとそののしイカの度合いを、もっと極端に持っていきますと、100%が賃労働者であって、全部が自分たちは中産階級だっていうふうに思っていると、そういう世界に対して、たとえば、管理装置が30%の管理装置の、西欧のようにそういう世界もありますし、社会主義圏のように100%の管理世界であるところもあります。それでいまに西欧だったら30%がだんだん40%、50%というふうになっていくだろうというふうに思われます。
 いずれにせよ、そういうふうになっていって、管理世界では100%じゃちょっと無理なんじゃないかっていうので80%にしようじゃないかみたいな、ポーランドみたいな、そういうふうな世界に、多少修正が起こるみたいに、だいたいそういうイメージでのしイカのようにのすことができます。あとはぜんぶ賃労働者というふうにだんだんなっていくみたいな、そういう極端なイメージを浮かべますとだいたい世界像の平面図というものが得られるわけです。

13 拡大する管理装置をどう考えるか

 ここでもって、たとえば、先ほどいま言いましたイメージの世界に文学作品、つまり、言語表現の手段というものをその世界に限定していく人達のそういう作品が一様にパターン化していく、あるいは、パターンの新しさを問題にする以外にないというふうになりつつあるし、純文学の作品というようなものは、そういう問題意識に耐えられないで、そこのイメージの世界を突き抜けていこうとするのだけど、突き抜ける力がなくて、失墜してしまうというものが、たぶん現在の純文学の作品の大部分だと思うのですけど、つまり、そこのところで、もし問題の意識を、そこのイメージの世界を突き抜けて、なおかつ存在しうる、存在感をもちうる作品というものが、文学にとって望ましいものであるとするならば、それはたぶん、ぼくの考えでは、いずれにせよ、管理装置というものをどういうふうに考えるかということが問題なような気がします。
 つまり、管理装置というものをどういうふうに考えるかという場合に、管理装置は少なくなり、そして、なくなってしまうということが、たぶん、イメージとして、範型としてといいましょうか、理想形として描きうる世界だっていうふうに考えられます。ぼくは考えます。
 しかし、現在のところではそうでないのであって、文学作品に基本的な無意識を規定している一種のシステムというものは、だんだん管理50%以上に近づこうとしているし、すでに100%だというところは、たぶん、管理80%以下60%にしようじゃないかというふうな、そういうふうなところの衝動に向かいつつあると思います。
 いずれにせよ、だいたい僕らの考えられるかぎりでの、現在の文学をたぶん無意識のうちで司っているシステムの世界というものは管理を拡大するというところにたぶん行きつつある、日本はもちろんそうですけど、つまり、管理を拡大するというところに行きつつあるように思われます。
 だけれども、ほんとうに描かれる範型というものは、世界イメージというものはそうじゃなくて、管理を減少させる方向というものが描かれる世界だというふうに考えます。つまり、この管理を減少させられるというような世界地図といいましょうか、世界地図というものを範型として描いたところで、いかにして作品が成り立つのかということが、たぶん、現在における文学の本質的な問題として残るんじゃないか、つまり、あるんじゃないかという気がします。
 しかし、現に行われつつある、移行しつつある場面はそうではありません。この場面は変わることはちょっと考えられないのですけど、ちょっと短い期間では考えられないのですけど、たぶん、そうじゃなくて、管理装置というものの拡大の方向に、とくに日本の文学というものを無意識のところで規定しているシステムというものは、たぶんそれを拡大する方向にいくだろうというふうに考えられます。だから、当分の間、管理イメージというのは拡大する方向に、そして、アトム化する方向に、そして、個性もパターンが問題なんだっていうような、そういう方向にたぶん当分の間は、文学というものは必然的にいってしまうんじゃないか、それに耐えようとする形の作品というものがどこまで耐えるかという場合に、その方向性といいましょうか、指向性といいましょうか、そういうことはたぶん、もう少し先のところに管理というものが減少されたときに何が起こるのかというような、そういう問題のところに、たぶん問題の本質的な部分があるんじゃないかというふうに考えられるということなのです。
 こんなことはいくら考えたってどうしようもないことで、具体的に作品をつくる人は具体的につくるのであり、また具体的に突破してしまう人は突破した優れた作品を書いてしまう人は書いてしまうのですけど、意識的であれ、無意識的であれ、書いてしまうのですけど、ただ、批評というものが、やはり批評固有の問題というものを抱えながら、しかしその固有の問題というものがどこを目指したらいいのか、あるいは、どこにひとつの究極的なといいましょうか、どこにイメージを、原型を描いたらいいのかということを考えた場合には、若干そういう点でいえるような、つまり、はっきりさせられるようなところがあるように思われるのです。
 つまり、そこの問題はたぶん現在における、どうやって物語がつくられるのか、あるいは、つくれないのか、どうしてそれが壊れてしまうのかというような、そういう問題にまつわる、非常に現在の根本的な問題のあり所だっていうふうに、ぼくには考えられます。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

14 司会

 たいへん長時間にわたりましてお話しいただいたのですが、質問を少し受けてくださるそうでございますから、一人か二人ございましたら出してください。

15 質疑応答

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 それは様式論の問題だと思うんです。つまり、様式の問題と言ったって、表現様式ということでいえば様々あるわけですけど、そうじゃなくて様式の社会性とか、現実性という問題だと思うんです。だから、ようするに、フランス人がエクリチュールって言っている問題だと思うのです。
 つまり、文学作品の様式というものは個々につくりだされるわけですけど、個々の作家がつくりだし、個々の作家の同時代性がつくりだすわけですけど。それをある取り上げ方をすると、その様式の共通性が取り出せるということと、その共通性が社会の現実性といいますか、現在性といいますか、それとある対応がつけられるということがあると思うのです。
 つまり、もちろん、ある文学作品の様式というものをほんとうに個々の作家がひとりでにつくっちゃうわけですけど、つくっちゃえば結果としてできちゃうわけですけど、それにもかかわらず、そこに形式の現実性みたいな、そういう概念を考えることができるということのように思うのです。その考えることができる形式の社会性とか、現実性というものは、それは非常にいい抽出の仕方をすると、ある社会システムというもののあり方と対応づけることができるということの問題のように思うのです。

(質問者)
 語り手の問題と様式の問題というのは同じような問題になってくると思うのですけど、東秀雄さんとか、山川さんの作品の例に比べて、作者、登場人物の問題が、底辺の問題には詩や短歌の問題が入ってくると思うのですけど。様式の問題が語り手の問題にどういうふうに、そのときに作者というのと語り手の分担の境をどこらへんにおくのか、語り手の問題というのがよくわかるというのなら、作者の問題もよくわかるわけです。

(吉本さん)
 こうだと思うのです。ぼくもそういう言い方をしたかもしれないけど、語り手の問題と作者の問題というのは、よくわからないというところからいったほうがいいと思うのですけど、そのことは逆に言いまして、それは語り手の問題にしても、作者の問題にしても、どちらの問題にしてもいいということだと思うのです。
 それはどちらの問題にしてもいいということはどうしてかというと、結局、読み手の問題からいきますと、つまり、読み手の問題というのを考えますと、そうすると、作者の問題と語り手の問題を反対にひっくり返してみて、作者はこういうふうにしたくなかったのだけど、語り手はこうしちゃったんだというふうに考えても、それから、作者はこうしたかったのだけど、語り手はそうしなかったんだという問題と考えて、それから登場人物は語り手の言うがままだったんだけど、読み手からみたらそうじゃないのだと、つまり、登場人物と語り手はまるで違うのだと、つまり、語り手の思惑どおりに登場人物というのは動いていないし、そう考えてないというふうに、読み手からみるとそう見えるみたいな、そういう問題に還元されてもいいと思うのです。だから、作者に引き継がれるものと、語り手に引き継がれるものとは、逆にしたって、それは逆に考えても、どちらに考えても、それはぼくはよろしいのじゃないかって思いますけど。
 それから、様式という問題で、短歌とか、詩とかいう問題が、おっしゃるように出てきたし、それから、私小説の問題とか、そうじゃない、非常に高度な作品の問題だとか出てきましたけど、その様式の問題というものは、あるいは、様式の社会性とか、現実性といったらいいのでしょうか、現実性の問題というのは、どこで考えたらいいかといいますと、ぼくの考え方では、原型的な共同性というのに対して、語り手なり、作者なりが、どういう位置になければならないかっていうこと、あるいは、どういう位置にあるかっていうことが様式の現実性の問題のように思うのです。
 そうすると、原型的な共同性というものは、いかにも抽象的に考えられるかもしれないのですけど、具象的に言ってもいいのですけど、具象的に言わないほうがいいような気が僕はしているのです。ただ、こうだと思うのです。神話とか、説話とかありますね、それから民話とかありますね、神話とか説話とかというものが最初に生みだされたある時代の共同体というのを考えると、それがようするに原型的な共同性だと思うのです。
 ところが、そのなかで神話とか、説話というもののある部分は原型的な共同性の外で語られたとか、外でつくられたものだと考えます。内側でつくられたものが、たとえば民話的なものだというふうに考えます。民話的な語りみたいなものは、その限定的な共同性の内側でつくられたもので、神話とか、説話とかいうのは、たぶん外側でつくられただろう、だから、架空でいえば外側にそれをつくったやつがいただろう、つまり、ある原型的な共同体の、あるいは共同性の…。


テキスト化協力:ぱんつさま