1 司会

2 いい作品とはどういうことか――芝木好子『貝紫幻想』

 ただいまご紹介の言葉の中にもありましたけれども、ここ一年ばかり僕は月々に生み出される文学作品とか、月々に刊行される小説作品とかというものを、かなり詳しくといいましょうか、丁寧にたどって読んできました。読んできたところでどういうことが起こっているのだろうか、どういうふうに読んでいったらうまく読めたのだろうかという問題について少し考えましたものですから、そのことについてお話ししてみたいと思います。
 僕が、ある文学作品をこれはいい作品だとか、これは悪い作品だというふうに漠然と言うときに、いい、悪いというのをどこで判断しているかということを考えてみます。いくつも考えられますけれども、例えば登場人物の性格が非常に面白いとか、特異な性格の登場人物が出てきていろいろな事件を引き起こす。それが面白いとか、それがいいのだという言い方も成り立つでしょう。また、登場人物を非常にいきいきと描いている、いきいきと描かれているということが、この作品をいい作品だと言わせているのだという見方もできると思います。
 また、そうではなくて、小説を作った作者が優れた人なのだ。つまり、優れた人ということは優れた内面性を持っている、心の世界を持っている人なのだ。あるいは、優れた何か隠されたものを持っている。そのために、この作品がいい作品に結果としてなっているのだという見方もまたできると思います。こういうような問題について、少なくとも現代は少し詳しく、少し踏み込んだ考え方ができるようになってきたと思います。それで、少し踏み込んだ考え方ができるようになったというところから入っていきたいと思うのです。
 具体的な作品の例を挙げながらいきます。例えば芝木好子さんという女流の老大家がおられます。芝木さんが『貝紫幻想』という作品を現在書きつつありますけれども、非常に優れた作品なわけです。例えばこの作品を例に取ります。
 中心になっていく登場人物は泰男という男なのです。その男は大学で貝紫の色素の研究をしている研究者だというふうに設定されています。それを好きになる圭子という女性がいる。その圭子という女性と泰男というのは、血のつながっていない叔父にあたるわけで、つまり、近親であるわけなのです。でも惹かれて好きになっていくということになるわけです。
 そこから展開されていくわけですけれども、それに対して泰男の異母子、母親が違う姉である圭子の母親というのがいるわけです。母親は、そういう近親間の愛情だから愛情が進めば進むほど、そこで暗いものが必ずその拮抗の中に絡んでくるからということで、二人の仲が近寄っていくというのを阻止するといいましょうか、妨げるということが中心になってくる作品です。
 圭子の母親が、なぜそういう近親間の無意識の愛情が深まっていくのを阻止するかというと、自分に体験があった。自分の兄は死んでしまった画家なのですけれども、兄の病気を世話しながら、だんだん自分がきょうだい愛という限界をもう少し越えそうになってしまうというような体験を過去に持っていて、かろうじて踏みこたえたという体験の暗さというようなものが自分の中にあった。その体験の暗さを自分の娘に再び味わわせたくないというので、二人の仲を盛んに妨げようとするという絡み合いのところから作品が始まっていくわけなのです。
 この作品を例に取りますと、お互いに惹かれていく叔父とめいがいる。血がつながっていないのですけれども、もちろん叔父とめいであることはよく知っているわけです。それで、惹かれていくということもよく知っているわけです。ところが、自分がかつて兄との間に暗い体験をかろうじて切り抜けたことがあるということが、娘たちの仲を引き裂こうとしているモチーフだというように、母親自身が思っているわけです。ところが、作品ではそういうふうには思えないわけです。
 つまり、ここが問題なわけです。そういうふうに言いながら、母親のほうは自分が異母弟である泰男という男を好きだから妨げているのだというふうに、少なくとも作品の中では読めるわけです。もちろん作品の中に出てくる母親自身が、そのことを知っていないわけです。つまり、意識していないわけです。もちろん意識していませんから、ただ自分の過去の暗い体験に照らして、自分の娘にも同じような暗い思いをさせたくないので自分は妨げているのだというふうに、自分を納得させているわけです。
 ところが、作品というものの流れの中でそれを見ていきますと、どうもそうではなくて、母親というのは自分が泰男という娘の相手に惹かれているから、それを妨げているのではないかというふうに読めるわけです。つまり、このことは何を意味しているかといいますと、作者というのがもしかするとそのことをちゃんと知っていて、しかし作品の中では登場人物にそれを意識していないというふうに描こうとしているのかもしれませんし、また、作者自身もそのことは知っていないので、ただ、それを読む人間にとって初めてそのことがわかるということかもしれないということになるわけです。

3 登場人物・語り手・作者・読者が重なり合う世界

 かなり複雑なことを言いましたけれども、言いたいことはこうなわけです。つまり、ある文学作品の中には登場人物がひとりでに動き、そしてひとりでにしゃべり、そしてひとりでに行い、そして事件を起こすという世界があります。
 それから、もう一つ厳密に言いますと、それを作品として、あるいは作品の中といってもいいのですけれども、それを語っている人がいます。つまり、作品の中で登場人物がこれこれしたというふうに語っている人物がいます。その人物はもちろん「私は」というとか「彼は」というような言い方で出てこないかもしれないのですけれども、作品の登場人物を動かしているいわば語り手といっていいのでしょうか。語り手というのが厳密にいえばそこに隠れているということが言えると思います。
 もう一つあります。もう一つは、その語り手をも背後で動かしているかもしれない作者というのがいるかもしれません。つまり、ある文学作品というものを非常に丁寧に読んでいきますと、登場人物というのがかなりひとりでに行ったり、ひとりでに感じたりしている。そうすると、書かれている以上のことを登場人物が感じさせることがあります。逆な言い方をしますと、登場人物が語られている以上に感じたり、行ったりしている。作品の中でそういうことがあり得ます。それから、語り手が登場人物をかく意識して動かしているのであり、語り手に動かされているということを登場人物自身が知っていないというようなことがまた起こり得ます。
 それからもう一つ、語り手と作者とはまた別なのであって、作者は語り手にこう語らせてやろうというふうに思っている。作品の中で語っている人間と作者とは、本当は違うんだというふうに見えることがあります。つまり、厳密に文学作品を読んでいきますと、少なくともこの三つの世界が、本当は一つの作品の中に含まれていることがわかります。
 そうしますと、ある文学作品がいい作品であるとか、悪い作品であるというときに、登場人物の行い方とか、言い方とか、感じ方が悪いのであるか。あるいは、そういうふうに感じるように描いている語り手というものが悪いのであるか、いいのであるか。あるいは、この語り手もまた、背後で統御しているかもしれない作者がいいのであるか、悪いのであるか。
 つまり、ある文学作品がいいか、悪いか、あるいはよかった、悪かったという場合に、少なくとも厳密に押し詰めていきますと、その三つのことを一つひとつ検証していくといいますか、一つひとつ明らかにしていくことで、ある作品がいいか、悪いかということを初めて言い得るということが、本当をいうと成り立ちます。このことは皆さんのほうでもしかすると聞き慣れないことかもしれないのです。
 例えばある文学作品は作者があるとき机に向かって書いちゃったんだ。書いたら、こういう人物が出てきて、こういう事件が起こっちゃった。それはみんな作者がそういうふうに作ったのだ。作品がいいか、悪いかというのは、もちろん作者がうまく書いたか、まずく書いたか。それでいいんじゃないか。
 一見するとそういうふうに見えるわけですけれども、よくよく考えたり、よくよく非常に微妙なニュアンスというものを選り分けながら読んでいくと、ある作品のいいか悪いかを決定している要素として、少なくともいま言いました三つの元来は異なっている次元というものがある文学作品の中に含まれているというようなことはわかります。
 このことは何を意味するかと言いますと、現代の文学作品というものがいや応なくたどり着いてしまった一つの高度な世界である。つまり高度な世界が、そういうふうに登場人物と、登場人物を語っている、動かしている語り手というものと、作者というものとを、別々のものとして考えないとどうしても作品をうまく解けないのだというようなところまで作品自体が乗り上げてしまったといいましょうか。そういうことが確かに一つ達成としてあるわけです。
 言い換えますと、達成というのは一種の袋小路でもあるということが言えると思います。つまり、袋小路であり、達成であります。現代の文学作品というものが、いや応なく踏み込んでしまった世界として、そういうことを厳密に考えなければいけないというようなところまで行ってしまったということがあると思います。
 例えば芝木さんの作品の場合に、登場人物で最後、意識していないことを語り手が意識し、語り手が最後、意識していないことを作者が意識しているかもしれない。しかし、作者も意識していないことを読者が初めて意識するかもしれない。そのように何重にも複雑になった作品の中の人物たちといいましょうか、描くもの、描かれるもの、重なり合った世界といいましょうか。重なり合った世界自体が、一つの文学作品に芸術性を与えている一つの大きなポイントだということが言えると思います。
 つまり、ある文学作品が、何をテーマにして、どういうふうに描いて、どういう結論になったかということのほかに、例えば登場人物と、語り手と、作者と作者の思惑と、そして作者は気がついてないようなものを読者には感じさせるというような、多様な作用を一つの作品の中でしている。そのこと自体の中に、いわば文学作品の芸術性というのがあり得るのだという考え方を、文学作品を評価の中に持ち込んでこなければ、文学作品をよく読みきれないというようなところまで入り込んでしまった世界というようなものが考えられます。
 芝木さんの『貝紫幻想』は、いま言いました登場人物と作者と語り手と読者の四つが、せめぎ合い、重なり合うという世界があるということ自体が、この作品をよくしている一つの要素だということが明らかに言い得ると思います。この作品が別にそれだけではいい作品ということではないのですけれども、そこに描かれる情念の世界というものが非常に濃密であり、かつ非常に特異な世界があって、そのこと自体がまた作品をよくしていることの一つなのです。
 しかしそれ以外に、作品もストーリーのテーマとも、意味ともかかわりなく、ただそこで読者と作者と語り手と登場人物が、お互いにせめぎ合っているといいますか、重なり合って影響し合ったり、引っ張り合ったりしている。そのこと自体がこの作品をよくしているというようなことが言い得るわけです。つまり、このような作品の世界自体が非常に複雑な様相というようなものを示すということが、現代文学の作品の中にしばしば表れてくるわけです。

4 表現のなかのせめぎ合いがない例――遠藤周作『沈黙』

 この問題というのは、はっきりさせたほうがいいので申し上げますけれども、例えばもう少し単純な作品というようなものを持ってくれば非常によくわかると思います。単純な作品というものを、典型的に、具体的に思い浮かべてみます。みなさんが月々の作品とか単行本とかを読めばすぐにわかりますけれども、ほとんど大部分の作品というのはそれほど複雑な人物の世界の重なり合いというようなものを示していないのです。
 いちばん多いのは「彼は何々をした」とか「何時にどこどこへ行って、誰と会った」というような場合。「彼は」というふうに言っても「私が」というふうに言い換えても、また「何子はどこそこへ行って誰と会った」とか「何々をした」とか、何子とか何夫と書こうが、彼と書こうが、私と書こうが、いっこうに差し支えないといいましょうか、作品の文体を変える必要もないし何も変える必要がない。ただ、彼と言うか私と言うか、何子と言うかが、全く偶然でしかあり得ないというような作品が非常に大多数です。多数の世界というのはそういうふうに成り立っています。
 その種の作品というのは、必ずしもよくない作品だとは言えないわけですけれども、少なくとも現代の文学作品の条件の中で、人物自体の重なり合いというもの、登場人物と作者と語り手と読者とが、影響し合う世界がかもし出す一つの芸術性からは、初めから排除されているということは確実なわけです。しかし、排除されても別の要素で優れているということがあり得ますから、それだけでその作品が優れていないとは言えないのですけれども。
 つまり、彼と書こうが、私と書こうが、何子と書こうがいっこう差し支えない。変わりはない。何子、何夫と書こうが変わりはないというような、そういう言葉の表現の仕方で作品を形成しているということは、言い換えれば作品の人物の重なり合いというようなもの、あるいは影響のし合いというようなものが作り出す芸術性を、初めから排除しているのと同じことを意味しています。
 この種の作品を例として挙げます。皆さんはこれをご存じかもしれないのですけれども、遠藤周作さんの『沈黙』というような作品、『侍』というような作品。ある意味で優れた作品ですけれども。例えば遠藤さんの『沈黙』とか『侍』というような作品が典型的にそういう作品だと言うことができます。
 ここでは、セバスチァン・ロドリゴは、日本でキリシタン弾圧が激しくなったときに、その弾圧の中でキリスト教を布教しようと決心して日本へ潜入してくる宣教師です。宣教師が「私がこうこうした」と、私の手記とか書簡というような形で作品が展開されているわけです。「私はこれこれこういう体験をした」「これこれこういう場にこう感じた」というような言い方が、例えば作品の中で非常に行き詰まってきたときには「彼は」という言い方に言い換えるわけです。つまり、「彼は、これこれこういうふうに歩いていった」とかというふうに、彼という言葉に言い換えるわけです。
 ところで、この場合に「私」というような表現で作品を展開していっても、「彼は」という言い方に言い換えても、いっこうに作品の文体、あるいは作品の表現されている位置というものは変える必要がないというふうに書かれています。つまり、これは作者が「彼」というものを一種の人形のように動かしているというような、単純にそれだけの問題しかこの作品の表現の中には含まれていません。だから、表現の中でのせめぎ合い、あるいは引っ張り合いみたいなものが芸術性として作用するというようなことは、この作品の中には全くありません。
 具体的に例を取れば一番よくわかりやすいので、例を取ってみます。ロドリゴという宣教師が先行して布教しているのですけれども、捕らえられてしまって、引っ張られていくときの描写なのです。
 「その彼等を信徒だと錯覚して彼は」。自分が引っ張られている彼、つまりロドリゴですけれども、その「彼等」というのはロドリゴを見ている民衆のことです。「その彼等を信徒だと錯覚して彼は、頬に無理矢理に微笑をつくってみせたが、一人として応えるものはいなかった。一度、素裸の子供がよちよちと一行の前に歩き出てきた。するとうしろから髪をふり乱した母親が転げるように走り出て、その子を腕にかかえ犬のように逃げ去った。体の震えと闘うため、司祭は、あの夜、オリーブの林からカルファの館まで引かれていった人」。これはキリストのことを教えているのです。「のことを懸命に考える」。こうなっています。
 ここまで来て、今度は文体ががらっと変わってしまいます。自分は変えていないつもりですけれども変わってしまいます。「部落の外に出ると、突然、まぶしい光が額にぶつかる。眩暈を感じてたちどまる」。こういうふうに変わってきます。これは彼がそれを感じているという手法でも書かれているわけです。「部落の外に出ると、突然、まぶしい光が額にぶつかる」というのはつまり、引かれている彼が言っている文体に変わっています。
 いま読んだところはそうではありません。作者、「彼」という人間が「こうこうである」というふうに描写しているわけです。そこのところで突然、今度は「彼がそういうふうに感じている」という文体に変わってしまいます。「うしろにいた男が何かを呟き、体を押してきた。無理に笑顔をつくり、少し休ませてくれと言ったが、男は顔を強張らせ」。男というのは役人です。「顔を強張らせたまま首をふった」。駄目だと言ったということなのです。
 つまり、これは彼自身にも書かれている文体です。文体自体がここで、彼を描写している作者という位置から、彼自身がそれを感じて「役人も休ませてくれ」と言っているというような、そういう場所に文体がひとりでに変わってしまっています。
 ひとりでに変わっていくということと、語り手と登場人物と作者の三つが、はっきりと違う世界を持っているというようなことが作品の中にないということとは、非常に裏腹で相似形なわけです。その意味の作品の芸術性にしても、登場人物と語り手と作者と、あるいはもう一人読者とのせめぎ合いの世界というようなものが初めから排除していること自体と、いま読みましたような文体がひとりでに変わってしまっている、つまり作者が意識しないで変わってしまっているということはたいへん関係があるところだと思います。
 その関係の根本は何かと言いますと、僕は通俗性だと思います。つまり、皆さんが通俗的だというふうに感じられるような作品をお読みになったときに、よくよく丁寧に読み直してご覧になればすぐにわかります。その種の作品の非常に大きな特徴というのは……
【テープ反転】
……作品もいわば非常に大きな特徴です。

5 遠藤周作の通俗性

 遠藤さんのこの作品は、僕は非常に通俗的な作品だと思います。その通俗的な作品というのはどこに表れるかと言いますと、今みたいなところに表れてくるわけです。つまり、ひとりでに、作者は意識しないでも文章の中の「彼」という人物と、「彼」という人物を描いている作者という場所と、彼自身の考えたこと、行ったことの独白といいましょうか、告白といいましょうか。そういうものとの描写を全部ごちゃ混ぜにしてしまうというようなことをここでは意識しないでしています。
 なぜそういうことが起こるかというと、たぶん遠藤さんの芸術意識の中に非常に通俗性があるということだと思います。この通俗性は『沈黙』という作品を非常に通俗的にしていると思います。通俗的にしているという意味合いは、説明すると非常に長くなりますけれども。この作品は手本として聖書があります。聖書の中の主人公であるイエス・キリストの?シュッショギョウドウといいますか、言動があります。布教をしているところから潜伏している、捕らえられて引き立てられるところというような。聖書の中の一種の物語の型があり、主人公もたぶん型がありますけれども、その型を忠実に登場人物たちに当てはめていることがわかります。
 このロドリゴという潜伏してきた宣教師は、その中のイエスになぞらえられてこの作品の中で作られています。ロドリゴを売ってしまう、役人に知らせてしまう、キチジローというキリシタンの元信仰者がいるわけです。その信仰者はユダに類推して作られています。つまり、ことごとく類推が一つのパターンとしている。聖書のパターンを類推として作り上げている。この作品というのはそういうふうにでき上がっています。
 もちろん、遠藤さんの抜群の描写力と物語を作り出す力量というのがありますから、たぶんお読みになると、皆さんはある種感銘を受けるかと思います。僕もたいへん感銘を受けたわけですけれども、その感銘というものをよくよく考えてみると、かなり通俗的な感銘なわけです。通俗的な感銘というのはどういうことかと言いますと、できるならばこういうことにこういう感銘の仕方をする自分というのは否定したいと思わずにはいられないような感銘の仕方です。(笑)
 高い、低いというのは比ゆと思ってくださればいいわけですけれども、誰の心の中にも高い心があり低い心があります。それから、高いことに感銘する心もあります。高いところを徴表する心もあります。低いことに感銘する心も誰の中にもあります。低いことを徴表したいとか、否定したいという心も誰でも持っているわけです。遠藤さんの『沈黙』もそうですけれども、『侍』という作品も同じです。この作品は、少なくとも低いところの感銘というようなものを人々に与える作品だと思います。
 しかし感銘を与えるということはたいしたことではないかといえば、確かにたいしたことであるわけです。ただ、低い感銘を与えているのだということを作者自身が意識していたならば、たぶんこの手の低い感銘というのはなくなるだろうというふうに僕自身は考えます。これはたぶん、遠藤さん自身が意識しないで、かなり高度な感銘を与えているのだというふうに、(笑)思っておられるのではないかと思われます。
 しかし、僕はそうでないと思います。これはそんなに高い感銘ではないと思われます。感銘には違いないのですけれども、私たちが何とかしてそれは否定したいのだ、そういうことに感銘する心というものにはどうしても否定したいのだ、あるいは否定の感情を伴わずには感銘することはできないという、その種の感銘というのは訴える力というようなものがあります。たぶんこれがさまざまな賞をちょうだいしたり、海外でそれなりの高い評価を得た理由ではないかと思います。僕ははっきりと断言できると思いますけれども、あまりいい作品ではない。つまり、高度な作品ではないと思わざるを得ないのです。
 その根底にあるものは、いま言いましたように作者の場所と、それを語っている人の場所と、彼とか私とかという形で出てくる人物の場所と、それから、それを読んでいる読者の場所。そういう場所というもののはっきりした重なり合いといいましょうか、せめぎ合いといいましょうか。そういうことを感知するだけの力というものが文体の中にないということなのです。文体の中にないということは、心の中にないということだと思います。つまり、心の中でどこかでなくなっちゃっているんだよという問題だと思います。そこのところが、この作品をそういう作品にしているというふうに言うことができます。
 ロドリゴという宣教師がそういうふうに潜伏して、一生懸命布教して、捕まってしまうわけです。捕まって踏絵をさせられます。それで、ロドリゴは踏絵をしないで殉教するという立場をとらないで踏絵をするわけです。踏絵をしたけれども自分はキリスト教の信仰を捨てたのではないという立場の中で、ロドリゴは心の葛藤をするわけです。その立場も自分が正しいというふうに考えるロドリゴという宣教師の生き方を描いているわけです。
 もちろん、遠藤さん自身もそのように説明しています。踏絵をさせられたら、踏絵をしたんだ。しかし、踏絵をしたということが棄教したといいましょうか、背教したといいましょうか、キリスト教を捨てたのだということではないという立場を、ロドリゴを描くことによって自分が私自身の内面の底に仮託したかったのだというふうに遠藤さんは言っています。だから、この作品のモチーフはそこにあることが確かなのです。そういう見方で見ていきますと、たいへん興味深い作品であるし、非常に筆力がありますから、それなりの感銘を受けるわけです。
 しかし、僕はこの作品を究極的に通俗的にしているものの非常に大きな要素は、いま言いました現代文学がある意味では到達してしまっている次元に対して、遠藤さんがあまりに無関心というか、あまりにそこでもって自分を甘くしているというか、自分を許しているところがあり、許容しているところがある。そのことがこの作品を通俗的にしていると僕自身は考えます。

6 私小説とは何か

 この種の問題をどんどん突き詰めていきますと、どこに行き着くかといいますと、私小説というのに行き着くわけです。私小説とはいったい何でしょうかと問われた場合に、一番やりやすい説明というのは歴史的に、文学史的に説明することです。つまり私小説というのは、自然主義文学が客観描写というものをどんどん押し詰めていったのだ。「彼はどうした」とか「私はどうした」とか「何子はどうした」という客観描写はどんどん押し詰めていったら、微妙なところまで押し詰めていったあげく、どうしてもある一つの体験という色合いと、私というのは作者でいいわけですけれども、私の体験というものと登場人物の体験と、それから登場人物が日常生活などはいずり回っているはいずり回り方とか、どうも区別がつかないところまでいってしまった。そういう自然主義も客観描写も窮まった果てに、一つの私の究極の心境小説なのです。一種の心境を告白する小説に近いものまでいってしまったというのが、私小説の文学史的な定義ということになるわけです。
 ここで、いま言いました登場人物と語り手と作者というものの次元というようなことの言い方から私小説の定義をしてみます。私小説というのはどういうことかと言いますと、登場人物が私の体験の中、私の経験の中に登場人物が入ってこない限りは、登場人物がどんなことを言おうと、どう振る舞っていようと、それには無関心、あるいは無関係だというような、そういう作品がまず非常に大きな条件です。
 つまり私小説というのは、私の体験というようなものの中に入ってこない限り、登場人物である何子、あるいは彼、あるいは僕、あるいは私というようなものがどんな振る舞いをしても、どんなことを感じても、そんなことはぜんぜん関係ないことだ。どんなことをしてもいい。ただ、私の体験に入ってきたならば、それは私の体験の次元の中に全部入ってきてくれないと困る、登場人物は全部私の体験の中に入ってきてくれなければ困るというようなことが、非常に大きな条件だと思います。つまり、私小説を形作る非常に大きな条件になってくると思います。
 そういうことをもう一つ挙げてみますと、作品の語り手と私、つまり語り手と作者とは私小説の場合にはイコールと考えてよろしいのだということなのです。それが私小説の非常に大きな特徴です。少なくとも、作者の体験と語り手の体験とが本当はイコールでない場合にもイコールである。つまり、語り手の体験は少なくとも作者の体験だというふうに思わせる文体の中でしか私小説は成り立っていないということです。これは非常に大きな私小説の特徴だと思います。この種の特徴というようなものが、私小説を現代文学の非常に大きな作品の区分けの中の一つにしていることがわかります。
 私小説というようなものの現代における意味というのはどういうふうになるか。私小説は一方から言いますと、あくまでも語り手でさえも、登場人物でさえも私の体験の中に全部引き込んでしまう。また、日常生活の人物、事柄でさえも私の体験の中に引き込んでしまうという意味では、強烈な私の主張である、あるいは私の主張であり、私の告白であるというふうにも理解することができます。
 私、つまり一人称、自己主張であり、あるいは、主体的な主張が強烈なものが私小説に非常に大きな特徴だと言うこともできます。けれども一方から言いますと、登場人物も語り手も、作者も、全部収れんするところが作者の体験の中であり、その体験の外では登場人物たちも勝手に生きることはできるけれども、少なくとも作者に統御された意味合いでは生きることができない。
 そういうことから言いますと、私小説でいう私というのは、いつでも事物と対立し生活環境と対立し、個々を確立しているという私ではなく、いつでも、経験の中に、あるいは日常の事物の中に、ちゃんとその事件の中に、溶け込んでしまっている限りの私ということです。いわば私が退化していく、退場していくといいましょうか。私が退化していく過程の中にあるのが私小説だという見方もできないことはないわけです。
 例えば現代の小説の中で、私とか、主体とかいう定義というのは非常に希薄になってしまっているという様相が一方で考えられるわけです。そういう見方からしますと、私小説というのは非常に新しい小説という見方も一方ではできるわけです。私、主体というようなものがどんどん文学作品の中から退化していってしまう過程にあるものとして、私小説というものを読むというような読み方も、決してできないことではないと言うことができます。
 モダンな批評家、あるいはモダンな学者というようなものが、私小説を非常に評価する理由がそこにあります。つまり、私小説の中に強固の私を見ているのではなくて、文学作品の中から私なんていうものは退場していく。退場していく途中にあるものとして、私小説を評価し直しますと、これが非常に新しい作品だという見方も、また可能でないこともないわけです。
 それが、最近の新しい批評家が私小説というようなものをある意味で大変よく評価する。私小説的映画作品、例えば小津安二郎の作品とかいうものがある意味で評価されていく理由がどこにあるかと言いますと、それは新しい作品、私が作品の中から退場していく、文学の中から退場していくけれども、過程にあるものとしてその作品を読むことが、一方でできるからです。だから、一方でそういう評価のされ方もまた可能なわけです。

7 私小説の謎――宇野千代「何事も起こらなかった」

 ところで、私小説の本来的な問題というようなものは、いま申し上げました体験の世界にある限りにおいて、登場人物も語り手も、なおかつ?生活上の人物というようなものも存在することが許されるけれども、それ以外のところでは存在することが許されない。ある意味で、先ほど言いました登場人物と語り手と作者の明りょうな世界の違いというようなものを意識的に排除してしまっている。みんなごちゃ混ぜに意識的にしてしまった世界というようなものが私小説の世界だというふうに、例えば言うことも評価することもできると思います。
 具体的な例を挙げると非常にわかりやすいですから挙げてみます。これは宇野千代の「何事も起こらなかった」という短編の一節なのです。何事も起こらなかったというのはつまり、自分の経営している衣装デザインの会社に勤めている若い娘さんたちが、自分の郷里に招待旅行に招待して自分の家で一晩大騒ぎをしたというような、それだけの非常に短い作品なのです。宇野千代の特徴と私小説が持っている特徴というようなものを、非常に短い作品ですけれども遺憾なく表している。わりにいい作品で、よくできた作品だと思います。
 例えばその一節は、招待している郷里の家でもって、みんなでどんちゃん騒ぎをするというところの描写なのです。「私はこの母から」。「私は」というのを作者であるというふうに少なくとも読ませたいわけです。つまり、ここではそのように読ませたいわけです。それであるかどうかは別としてそう読ませたいこの「私」なのです。だから、「私は」というのは「宇野千代だ」というふうに読者には読ませたいという文体です。
 「私はこの母からいろいろな唄の文句を教わった。『わたしゃ貴方にほうれん草』などと言う文句も教わった。いまのあの、隣家との地境のところまで出て行って、それらの唄を、私は大声で唱った。私もまた、母と同じように、自分の声を『好い声』だと思い、自分で自分の声に聞き惚れた。そう言う話をすると、客たちは、『よう、よう』と言って手を叩いた。『先生、その好い声で一つ唱って下さい』と言った。私は笑って手を振った。『いまは駄目よ。いまはその好い声が出ないのよ。唄でも、小説でもだけれど、毎日々々、続けてやっていないと、途中でぴんともしゃんとも音が出なくなるものなのよ。さあ、お若いみなさんが、まず唱って下さい』と言うと、もう多少酔いの廻った人たちが、かわるがわる大声で唱い出した」。
 これは典型的に私小説の文体なわけです。ここで「私は」というふうに言っている場合に、「私は」というのは「作者は」という、作者の私だというふうに少なくとも読ませたいような表現の仕方をしています。しかし、いま読みました一節が、例えば作者の体験そのままを描いたものだというふうには誰も本当は思わないわけです。また、思えないわけです。つまり、この描かれた「私は」というのは、作者がその晩に体験したことをそのまま描いているとは少しも思えないわけです。よく読めばそうなのです。
 けれども、実際に作者である私がそういうふうに体験したのだというふうに読者には少なくとも思わせようという、言おうとしている文体だということは非常に確かなわけです。本来的には私=作者ではない。作品に出てくる私の体験=作者の体験の描写ではないのですけれども、少なくともそのように思わせたいというモチーフのもとに私小説が書かれるということは非常に確かなことだということが言えます。
 つまり、私小説の作品のキーポイントなわけです。つまり、登場してくる私という者の体験が作者自身の実際の体験であるというふうに思わせる。読者に少なくとも体験させるという文体のところに、私小説の非常に大きななぞというものが含まれているわけです。
 しかし、実際によく読んでみればわかりますけれども、これが作者の体験そのままを再現しているとは誰も考えないわけです。ちゃんと作者はこの中で選択をしていますし、言葉の表現もちゃんと折り込んでいますし、ちゃんとそれなりの操作をしているのです。少なくともその操作はどこに集中しているかというと、作品の中の「私がこうこうした」という言い方の中で、要するに私も作者と同一であるというふうに思わせようというところに作者の努力というようなものが集中していることがわかります。このことは、いわば私小説にとって非常に大きな隠された一種のなぞであるわけなのです。つまり、そう思わせることが私小説の大きななぞになっています。

8 宇野千代の芸術性

 それならば、何がこの作品を価値にしているのか、芸術にしているのかと言いますと、それはたぶんそういう場面を掘り込んでいることを少しも読者には感じさせないで、私の体験、作者の体験をそっくりそのままを書いているのだというふうに思わせれば思わせるほど、作者が非常にたくさん掘り込んでいるのだ。そういうなぞのところへ読者を引き連れていく場合に、また読者がそこに引き入れられていった場合に、感じる情緒の一種の流れといいますか、情緒の一種の曲線みたいなものがあるわけです。その曲線も一種の美しさといいましょうか、優美さといいましょうか。そういうものが、例えば宇野千代なら宇野千代の作品の非常に大きな特徴であるわけです。
 一般的に、私小説作品というものの非常に大きな魅力、特徴であるというふうに言うことができます。例えば宇野千代の場合には初期の『色ざんげ』という作品がありますけれども、『色ざんげ』という作品は僕という主人公の手記というような形で小説が展開されます。また、戦後すぐの大作で『おはん』という作品です。『おはん』というのは私が語る、私の手記みたいな形で小説が展開するわけです。
 それから、最近の『水西書院の娘』という作品では、直吉なら直吉というような固有名詞で登場人物が出てくるのです。この場合に、私と書こうが、僕と書こうが、『水西書院の娘』のように、直吉、正子とかいうように、固有名詞で書こうが描写しようが、宇野千代の作品は私小説だと言い得る根源にあるべきものは、いま言いましたようにいずれにせよ作者の体験の中に全部登場人物が入ってきます。作者の体験に削り取られない限りでも、取られた限りでも、その登場人物だけしかその作品の世界の中には登場できないというような特徴がある。
 それならば作品自体を芸術作品にしているのは何かといえば、そういう仕組まれた私の体験の中に描かれる一つの?優美なといいますけど?美しい曲線みたいなものが、宇野千代の作品の非常にポイントであるわけです。先ほど言いました登場人物と語り手と作者と、もしかすると読者が非常に分離していなければならない。あるいは分離して考えなければならないところまで現代文学作品というのは行ってしまったというような言い方で言える問題が、私小説では全く意識的にと言っていいぐらい、登場人物と語り手と作者とが、私というものの体験の世界の中に全部意識的に溶け込ませているというか、溶け込ませてしまっているというようなことが、私小説の特徴だというふうに言うことができます。
 そうしますと、私たちが現代文学の作品を見ていく場合の表現というものの一つの重なり合いの世界というように見ていく場合には一方の極のほうに、つまり、登場人物と語り手と作者と、もしかすると読者と、全部が分離して、三つ、四つのせめぎ合いというようなもの、あるいは引っ張り合いというようなものを考えなければ、とうてい作品を読みつくすことができない。
 そういう作品を一方に考えるとすれば、一方にいま言いましたような私小説作品というみたいに、三つの登場人物も語り手も作者も私の体験世界というものの中に全部封じ込めてしまう。しかも、それを溶け込ませて区別がわからないように封じ込めてしまうというような私小説作品というようなものを一方の極限において考えますと、現在、文学が当面している非常に大きな幅、大きな層の重なり合いの極限から極限までというようなものを一方で一つ抑えることができるのではないかというふうに考える。そして、僕らが現代の作品を読んでいく場合に、その量産を抑えながらそこで作品を読んでいかなければいけないという問題はどうしても出てくる。
 また、現在書かれている作品というのは、そういう意味では非常に高度な袋小路、あるいは高度な達成のところまで行ってしまっています。また、高度な達成が一方にあるかと思いますと、一方に非常にめんめんとして?ツキナイトの私小説の伝統的な世界というようなものが着実にある。そこでも決してつまらない作品ではなくて、非常に優れた作品がまた生み出されているというようなことがあります。この複雑さというのはちょっと類例がないといいましょうか、ほかに考えられないような、日本だけにあるのではないかという感じがする世界というようなものを?出現しているように思います。

9 物語性の喪失と氾濫するイメージ

 このような層の重なり合いに対して、現代文学の幅というようなものを考える必要がどうしても生じてくるというようなことがあります。いま言いましたように、私が作品の中から退場していく一つの兆候として、この私小説作品を見ることができるのだという観点をどこまでも押し詰めていくと仮定していきます。そうすると、作品の中に私のかく振る舞い、かく事件にぶつかる。そして、かく解決してこうなった。つまり、作品が物語というものを作れないのではないかというような問題が、一方でどうしても現在出てきていると考えられます。
 つまり、そこではもう物語を作ることはできない。入り口があり、登場人物がある事件にぶつかり、そしてその事件を解決したり、悩んだりして、そしてそれを終わりまでもっていく。現在というようなものを考えていくと、どうしてもそういう作品が作れないのではないかという問題が生じてきます。その生じ方というようなものは、たぶんいちばん若い年代の作家たちの中に非常に大きな要素として出てきているような気がします。
 その場合には、そういう若い新鮮な作家たちというのはどういうふうにしているのだろうかということです。どうしても物語が作れないというような形の中でどういうことをしているかと言いますと、限りなく私の作品というようなものに近づけてしまっていると思います。あるいは文学作品の中に起伏のある物語というようなものはどこにもない。けれども、その中にはんらんしているイメージというようなものは非常にたくさんある。
 そのイメージが指し示すものが非常に大きな比重を占めていて、その中では作品の意味をたどることもさして問題にならないし、取材をたどることも問題にならない。それから、何かそこに面白おかしい事件がある、筋立てがあるというふうに考えてもそれほど何の意味合いもない。しかし、この作品は何かがあるのだ。その何かというのは何かというふうに考えていくと、それはどうもイメージであるらしいと思われます。つまり、一種、はんらんしていくイメージというようなものを作り上げる。あるいはイメージというようなものを重ね上げるというようなこと自体が作品の主要な努力になってしまっている。
 そこで、どういう登場人物が出てきて、どういう危険にぶつかり、どう振る舞って、どう解決したかというのは、物語性というようなものはイメージに比べれば代理人的になってしまっているという作品が非常に多く見られるようになっています。これは若い年代の作家に多く見られるように思います。このことはたぶん、若い年代の作家が、起伏があり、終わりと初めがありという物語というようなものを作ることができなくなっているのだと思います。作ることができなくなっているという意味は、作ろうとすれば型になってしまう。つまり、型の物語になってしまう……
【テープ交換】
……ある人が苦しい状況の中で布教に専念した。そうしたらこういう苦しい目に遭ってとことんまで苦しめられて、そのあげくにどういう悩みが、体験し、しまいにどうなった。そういう物語の経緯は、言ってみれば新約聖書の中にある主人公の物語とそっくりそのままを現代作家風にそれを作り変えている。そういう物語の型というようなものはたどれるけれども、物語自体にちゃんといきいきとした内面性、いきいきとした作者の思念というようなものが込められるという意味合いでは物語を作れなくなっているのだと思います。
 物語を作ろうとすれば必ず型になってしまう。つまりパターンを作ることになってしまうというようなことが一つの大きなジレンマであって、そのジレンマの中で若い作家というようなものがひとりでにそのジレンマを解決しようとしている。どういうふうに解決しようとするかというと、筋が作れない、物語が作れないとすれば、そこで意味が作れない、つまり思想が作れない。そうだとすればイメージを作る以外ないのだというようなところでイメージが作られている。
 たぶんそれが若い作家がイメージだけが第一義である、意味も思想性もいわば第二義的であり、どうでもいいといいましょうか。つまり、第二義的にしか作品の中で意味を持たないという作品を若い人たちほど生み出してしまう。そういう状況というようなものがあるとすれば、たぶんそこは物語を作ろうとすれば型になってしまうということ。型になってしまうということは、ある意味で通俗的になってしまうのだということ。つまり、通俗的になってしまうのだということをどうしても避けようとする場合に、その問題はどうしてもイメージだけしか作れないというような問題になる。そうすると、作品が限りなく私の作品に近づいていくというようなことが生じてしまうのだというふうに思われます。

10 現代文学の条件とジレンマ

 しかし、こういう状況の中でもそうではなくて意味を作ろうとして、ある意味でたいへん見事に作り得ている少数の作家という者ももちろんいるわけです。例えば、埴谷雄高さんの『死霊』であり、中上健次は例えば熊野などに取材を取っている作品というようなものがあります。つまり、古典とか自分の郷土というようなものを、ある程度フィクション化した作品です。それは物語性を獲得するために非常に大きな苦心を払っています。
 例えば埴谷さんで言えば、物語性を獲得していくために、物語性と思想性というものを持続していくために、その作品の世界を架空の世界にする。現実の世界では経験できない、あり得ない世界に作品自体を作り上げていって、かろうじてその中で物語性、思想性というようなものを保持しようとしています。
 その代わり、現在私たちの生活的な経験とか、現実的な体験の実感というようなものに迫ってくるという意味合いでは、作品はそういうものを放棄していることがわかります。つまり、埴谷雄高さんの『死霊』という作品は、そう意味合いでの生々しさというようなものを初めから放棄しています。それを放棄することによって、作品の意味、物語、思想性というようなものを、かろうじて保持しているというように言うこともできると思います。
 中上さんの場合には、古典の物語というようなもの、あるいは自分の郷土である熊野というようなものの由緒性、伝統性というようなものをつかみかかるといいますか、それを掘り返すというようなことをしながら、ある意味で古典物語にモチーフを借りること、仮託することによって、かろうじて物語性と作品としての緊張というようなものの均衡を保たせている。そういう少数の作家という者ももちろんいるわけです。
 けれども、たぶんこの努力は非常に個性的な才能と個性的な努力というものがいるのであって、現代というようなものが小説の作品に強いている課題から言えば、初めから意識的に捨てるということで作品に緊張性というようなものと、物語性、意味性、思想性というようなものをかろうじて保持しているというふうに言うことができます。だから、このグループはたぶん現代文学の中で、その作家個人に帰着するような個性的な努力というようなものに依存するので、現代文学が一般的に当面している課題というようなものからは、たぶん初めから条件を意識的に放棄しているものだと言えると思います。
 現代文学がたぶん強いているのは物語性の喪失というもの。つまり、物語性の喪失というようなことだと、作品のいわば緊張度というものを保とうとすれば、物語というようなものをどうしても喪失せざるを得ない、作れないというような一種のジレンマというものが、現代文学が当面している大きな条件のものでもあります。そういう条件の中で若い作家が、無意識のうちに一つの解決の仕方をしていると思います。つまり、無意識のうちにしている仕方というようなものを、僕は一種のイメージのはんらんだというふうに思います。
 このイメージは意味を付けようにも付けようがありません。これは泡のようなものですし、はかないものではないかといえばはかないものですし、また、意味がないじゃないかといえば、どんな意味もないかもしれないのです。ただ、イメージだけがはんらんしているわけです。だから、何の意味もないじゃないかと言われればそのとおりかもしれない。
 しかし、そのことによって現在の文学が当面している非常に大きなジレンマというのを無意識に解こうとして、そういう条件を下げてきているというふうに言うことができると思います。それが現在の若い作家、二十代から三十代の初めくらいの若い作家というようなものが、一様に当面している問題のように思われます。
 つまり、この問題はご本人の作家が意識している、いないにかかわらず、たぶん現代の作家の、現代文学の非常に大きなジレンマであり非常に大きな条件だ。そのことをどうにか、解き得るということを考えらなければならないのでしょう。しかし、それが考えられる前に、まず問題の所在、問題がどこにあるかというようなことをはっきりさせなければならない。また、その問題の所在というようなものを、作品の中でいま若い作家が無意識に表現しながら出てきているというようなことの中に、いろいろな意味をくみ取らなければならないような、そういう課題であるような気がいたします。

11 マスカルチャーの質的な転換

 ところで、いま言いましたことと一見すると正反対になるわけですけれども、現代文学の条件というものがそういうところに乗り上げている。それは若い作家たちによって無意味なイメージのはんらんと言っていいようなものによって無意識のうちに一方で解かれようとしている。
 そうすると、一方でもう一つの解かれ方があるわけです。もう一つの解かれ方は何かと言いますと、それこそ徹頭徹尾、物語のパターンを作り上げていくということなのです。つまり、物語のパターンを意識的に新しいパターンに作り上げていくということが、すなわち現代の文学の条件である、文学条件を解決していくというようなことが一方で考えられているわけです。
 そのように考えられているものとして、例えば現代のエンターテインメントというようなものがあるわけです。例えば、非常に優秀なエンターテインメントという人たちのようを挙げればすぐにわかるわけです。それは星新一であり、筒井康隆であり、栗本薫でありというような人たちに象徴される。こういう優れたエンターテイナーというものが何をしようとしているのだということを考えてみますと、やはり現代文学が乗り上げている一種の袋小路というようなものに対して、一つの解き方をしようとしているということは確実なわけです。
 その解き方はどういう解き方かといいますと、絶えず物語に新しいパターンを作るということ。その努力自体が文学であるというふうに文学作品を作っていくということなのです。だから、皆さんがお読みになればすぐにわかりますし、現代たぶんたくさんの読者に迎えられているゆえんであるわけだと思うのです。それはご覧になればすぐにわかります。例えば、筒井さんや栗本さんの典型的に象徴されているような作品を読めば、すぐにわかります。たいへん見事な作品です。
 見事な作品というのは何が見事なのかというと、物語のパターンが見事なわけなのです。パターンが見事だということは、具体的に言えばこういうことです。筒井康隆さんという人が新しい物語のパターンというのを作り上げた。それは着想を提示してから内容の奇抜さといい、奇想天外な作品を作り出した。例えばそういうことがあるとします。そうしたならば、その作品の単行本なり、本なりが出た翌月には、次の違うエンターテイナーが筒井さんの作った新しいパターンを自分の中にこなしてしまっている。そして、こなしたうえで自分はそれに対して新しいパターンを持った作品をまた作り上げるわけです。そして、今度はそれがまた非常に新しいパターンのエンターテインメントだ。
 次にそれを読んだ違うエンターテイナーがこれはすごいということになって、それならばということで、これに対して自分が咀嚼して自分が身に付けてしまって、そのうえで自分がまたそれに対してもっと新しいパターンというふうに、新しい物語のパターンを作り出すわけです。このしのぎを削っているありさまというものは、ものすごくすさまじいものです。
 この努力というようなものは、ある意味でいったら、いわゆる今まで僕が言ってきました作家たちというのはこれに比べたらはるかに怠け者です。(笑)つまり、非常に安心しているところがあります。いい気になっているところがあります。油断しているところがあります。自分が身に付けて持っている人柄の持ち味とか、何か技術とか、そういうようなものに頼り過ぎているところがあります。
 しかし少なくとも、現在の優れたエンターテイナーというようなものは、その種の安心感というものはまずそういう意味合いではありません。言ってみれば月単位でもって新しいパターンを次々に生み出すという努力をものすごい勢いでやっています。言い換えれば、そういう新しい物語のパターンを作り上げることがいわば文学だ、ある意味では文学自体をそういうふうに考えてしまっているところがあります。
 そのことが例えば現代のエンターテインメントというようなものの質をたいへん優れたものにしている要素です。私たちが十年前、二十年前には純文学とか大衆小説というようなことを言って、大衆小説というものは純文学にならない通俗的な、あまりあまっちゃっているような大衆小説なのだというように済ましてきたような意味合いの世界というようなものは、すでになくなってしまっています。
 つまり、そういう意味合いではエンターテインメントというようなものは、しのぎを削るように日々新しいパターンを作り上げていく。そういうことが作家的な努力というようなものの根本的な要因になっています。このことは決して侮ってはいけないということだと思います。
 それから逆の意味で言えば、その種の作品がかなりたくさんのある意味で優れた読者たちを獲得してしまっていて、それに比べれば純文学の作家とか批評家とか、つまり僕らみたいな者は食うや食わずであっぷあっぷしているだろう。もちろんそうで、それに象徴される出版社である岩波書店というようなものは、現在ベストテンの六十何位とか九十何位とかというふうに、出版社としてもう転換してしまって、主義が全く変わってしまっています。そんなことはどうでもいいことですけれども。(笑)
 しかし、そういうことに象徴されている質的な転換というものが、とれてしまっていること自体を侮ることはできないということがあります。それが何かと言いますと、二十年前にはばかにしていたかもしれないその種のエンターテイナーたち、ことに若い世代のエンターテイナーたちは、新しい物語のパターンを作ることにしのぎを削るような努力をしています。もっと違う言い方をすれば、生き馬の目を抜くような世界である。
 純文学の大家たちは、のほほんとして自分の持ち味で作品を書いていれば、ちゃんと人が受け取ってくれた。それに比べたら、はるかにすさまじい努力というものをしていますし、すさまじい才能というようなものがそこに集約されていって、それが質を向上させています。そのことが現在の文化全体を、というふうに言うとやや誇張がありますから、そうは言わないで、現代のマスコミニュケーションというマスで考えられる文化、現象というようなものの色合いを塗り替えようとするぐらい、素質的な転換というものを遂げさせている大きな理由です。
 つまり、この努力というものは、筒井さんでも栗本さんでもいいですけれども、皆さんがまともに読んでご覧になればすぐにわかります。いかにすごいかということがわかります。いかにこれがかなり高度な技術と、かなり高度な緊張度と、かなり新しい物語のパターンが総合されてその中に表現されていって、それがめじろ押しといいましょうか、しのぎを削るようにして、そういうパターンの新しさというようなものを、次々と探求し合っているというような世界というものがすぐにわかります。
 このことが、物語性をどうしても喪失せざるを得ないというような現代文学が当面している問題の根底にあるもの、いわばエンターテイナーはエンターテイナーとして解決しようとしている一つの表れだというふうに見ることができるわけです。どういうふうに解決するかというと、物語を喪失してならない。それならばどういうふうに喪失しないようにするかといったら、物語の新しいパターンを作る以外にないのだ。
 その新しいパターンというものも、かつてどのような世界のエンターテインメント、あるいは純文学の物語性のパターンの中にもなかったような新しいパターンを考え出すよりほかにない。それ以外に現代文学として生存していく、存在していくものはないのだというようなことである。新しいパターンを一生懸命になって作り上げていくことの中で、現代文学が当面している問題を正反対の方向に解決しようとしている。無意識に解決しようとしていると言っていいぐらい、無意識にそのことを解決しようとしている一つの表れだというふうに見ることができる。

12 パターンではない文学の本質

 ところで、エンターテイナーたちの小説というものが、ご本人が自負するほどそんなにいいものじゃないよということを言い得るとすれば、そのパターンの新しさというところではない。そこではかつてない新しさを生み出しているわけですけれども、そこではなくて、これは登場人物たち、それを扱う語り手たちの、手つきというのか語り口というのかわかりませんけれども、それを統御している作者というものが抱いている人間という概念がすこぶる古いと言ったらいいのでしょうか。人間という概念が、人間というのはいかにも人間と。(笑)そういう人間しか。
 そこでは何ら新しさということとか、人間が現在生きていて当面している問題を切実に、人間というのはこういう概念だというような、そういう問題を追求することに対しては、全くゼロだと言っていいくらいおろそかになっているというところで。例えば筒井さんなどは、たいへん天才だと思っているかもしれませんし、天才だと言う人もいます。(笑)しかし、僕はそうではないと思うわけです。つまり、文学というものは種種さまざまあるわけです。
 しかし文学というものを本質だけで問うとすれば、やはりパターンではないのだということが言えると思うのです。パターンではなくて何かと言ったら、何かということをうまく言うことができませんけれども。例えば、何かわかりませんけれども明日来るかもしれないものに対して言葉が触れていなければいけない。
 どうして、言葉が触れなければいけないか。触れることが不安であるならば、不安であったって仕方がない。それが孤独であるならば孤独であっても仕方がない。仕方がないけれども、それに触れなければならないというようなものがなければいけないわけです。つまり、文学というものを本質だけで問えばいつでもそれが文学なのだ。それが文学というようなものを推進していく原動力なのだ。
 そういう意味合いでいったら、パターンの新しさを競うということは努力としてはかつてない努力なのです。しかし、それは本質的に言えば、文学にとっての努力だというふうにあからさまに言うことができない。文学の中の一つの努力の形だというふうに言うことはできても、文学の本質的な努力だというふうに言うことはできないところがあります。
 だから、僕は必ずしも筒井さんを天才だとも思わないし、筒井さんの作品もそんなにいいとは思いません。筒井さん自身が自負するほどそれはいいというふうには思っていませんし、筒井さんが自分で考えるほど天才だとも思っていないです。しかし、恐るべき才能だということです。恐るべき才能と、恐るべき努力をしているということだけは言えます。つまり、純文学の作家たちがこのことの意味合いがわからなかったら、やはり僕は駄目なのではないかという気がするのです。
 わからなかったからという意味合いは、これに追従したらという意味合いではありません。つまり、このことの持っている意味合いというのは、現代文学が根底的に共鳴している問題があって、その問題に対して無意識に解決しようとしている一つの方向が、エンターテインメントの新しいパターンの追求というようなものに現代なっていきつつある、いっているのだ。その問題もよくわからなければ駄目だという気がするのです。そのことの意味合いをよくよく考えなければ、問題として取り出さなければ駄目だというふうに僕自身は思っています。
 この問題というものは、ある意味では近代文学が近代的自我の表現というようなものを離れてしまった以降、絶えずいつだって当面している問題だと言えばそのとおりなのです。いつだって当面している問題には違いないことなのですけれども、その問題が日本の現代の文学の中であからさまに露出してきている。露出してきているということが悪いというのは、かつて考えられなかったほどの規模と、量的な変化というものがどこかに質に変わってしまう。そういう変わり目を予想させる質の変化というようなものも伴いながら、そういう転換の時期というのも体験しつつあるのではないかというふうに考えたほうが、僕はいいような感じを持ちます。
 それならば、ないものねだりも交えて何をどうしたらいいのかということがあるのだと思うのです。どうしたらいいんだというような問題というのは絶えずあるのだと思います。それは二十年前もありましたし、四十年前もありました。また六十年前も合ったようなものなのです。かつて昭和文学の非常に優れた作家ですけれども横光利一という作家はそういう場面に当面したときに、通俗小説にして純文学というような作品を作ればいいのではないかというふうに言って、自ら実行してたいへんな通俗小説を作ったということです。すごく力量のある人ですから、力量のある通俗小説を作ったということがあります。
 たぶん、物語性と文学の本質性という総合性、つまり二つ併せたような作品を作ればいいのではないかというふうに例えば発想したら、たぶん駄目だというふうに僕には思われます。そういう発想の仕方はたぶん成り立たないし、たぶんそういう作品が生まれる気遣いは、まず僕はありえないというふうに思います。今あるような一種の分別の仕方といいますか、極端であり、かつ無意識的な分別の仕方というようなものが少なくとも、もっと当分の間、これは非常に大きく広がっていくのだろうというふうに考えられます。
 そして大きく広がっていくのだろうということの中にしか何も出てこないだろう。大きく広がっていくだろうということをよく見ているよりしょうがないでしょう。よく見ることが大切でしょう。これが何だということを見ることが大切でしょう。つまり、見ないことじゃないし、これを救済してしまわないこと。つまり救済しているときは物語性と両方を兼ね備えるようなものを作ればいいのではないか。これを救済してしまわないことが非常に大切なことなのではないかと僕自身には考えられます。

13 無意識のなかに沈む眼に見えないシステム

 この問題というのは何が根底にあるのかというようなことはたいへん難しいことのような気がします。でも、たぶんこういうことは言えるのではないかと思う。僕なんかはそういう言い方をしてきましたし、そういう言葉を使ってきたりしましたけれども、疎外という言葉があります。あることから自分が隔てられているとか、自分が外されているとか、本来ならば自分の持ち物であるものから自分が隔てられているとか、あるいは、自分が対象とし、関心を持ち、自分が所有したいものから自分ははるかに隔てられた世界にいるという場合に疎外という言葉を使います。
 これはさまざまなものに使われます。つまり、僕自身が、疎外というのは表現ということなのだという使い方までもしたぐらい、たいへん拡大解釈してそういう使い方をしたりしました。例えば疎外という概念があるとすれば、あることから、あるいはある世界から、自分がその世界にありたいのだけれども、自分がその世界を共有したい、手に取りたいのだけれども、それから隔てられてしまっている場合に、疎外という言葉が使われます。
 ところが、たぶんその疎外という問題のほかに、現在こうではないかという気がするのです。自分がどんな世界にいても自分自身、自ら疎外していようと、あるいは自分自身が無意識の世界であろうと自分自身がその世界の真っただ中にいると考えようと、そのこといかんにかかわらず、何かわからないけれどもあるシステムというようなもの、ある必要だった、組織立ったシステムというようなものをどこかにつながれているという感じというものが問題なのではないかという気がするのです。
 つまり、たぶん僕らが現実から感受しているもの。現代文学が必然的に入り込んでしまっている条件というようなもの。無意識のうちにそこから逃れようとして、解決しようとしている、無意識に試みられている作品の試みというようなもの。そういうようなものの背後というようなものに何か考えてみますと、何かしらの目に見えないシステムというものがある。
 どうもどこに行ってもシステムのどこかに自分がつながれているというのか、つながっちゃっているというのかわかりませんけれども、つながされているという感じというのがあるのだと思います。どこへ行っちゃっても、どこからどういうふうに逃れても何かのシステムにつながれちゃっているという感受性というものがあるとすれば、その感受性というものが、たぶん僕たちの無意識というようなものの中に非常に深く入り込んでしまっているというようなことがあるのではないかという気がするのです。つまり、そのことを僕たちはうまく見極められていないのではないかという気がするのです。
 例えば、意識に対して無意識という概念をフロイトが作り出していった場合に、無意識が抑圧しているものというのはこういうふうに考えてきた場合に、その無意識の中にはリビドーというようなもの、つまりエロスに関係することですけれども、リビドーというものが抑圧された形で無意識の中には含まれているのだという解釈の仕方を取ったと思います。
 それを今度はユングのように人間の無意識というものはどこから形成されるかというのは、集合的に太古の時代に人間の原型的な意識というものがあって、その原型的な意思というようなものに人間の無意識というようなものがちゃんと規制されているのだ。ユングならユングがそういう無意識というようなものを理解して解釈しているか。つまり、そういう考え方を採っていったというように考えます。
 そうしますと、現在、何かわかりませんけれども目に見えないシステムというようなものが、私たちの無意識の中に沈んでいるというふうに仮定したとしますと、無意識というものはどういうふうにすれば取り出すことができるのか。どういうふうにすればそれを取っ払うことができるのか。そのシステムの無意識というようなものをどうやったら取っ払うことができるのかというような問題が、たぶんあるのではないかと思うのです。
 つまり、システムの無意識というようなものをどうやったら取り出して、それを取り出すことによって無意識の抑圧から解放されることができるのか。どうやって取り出したらいいのか。取り出したらどういうことになるのかというような問題というものが、たぶんある種の作家たち、現代文学の作家たちの根底のところでどうもそういうことを規定しているような気がして仕方がないのです。
 皆さんが女性だから言うわけではありませけれども、女の若い作家の作品の中にそれをものすごく感じます。優れた作品の中に無意識のシステムというようなものが強いているんじゃないのか。つまり、これは登場人物のせいにすることにできないし、語り手のせいにすることもできない。作者のせいにすることもできない。それなのに作品の持っている一つの病というものがあります。この病というものの表現はどこから出てきているかと考えますと、無意識のなかにシステムのようなものが抑圧されていて、それをうまく取り出すことができない。すなわちそれが何かわからないのだけれども、しかし作品の中にひとりでに表現せざるを得ないという場合に、作者も意識せずに、登場人物ももちろん意識せずにそれが表現されてきているというようなことが、若い特に女性の作家の作品の中には非常に明瞭に出てきていると僕には思われます。その問題は、システムの無意識というようなものがどういうことになっているのかという課題のように思われて仕方がないのです。

14 現代文学の根底にある問題

 こういう言い方は漠然としているので具体的な例を挙げます。学校だから申し上げますけれども、皆さんは理科系ではないのでしょうけれども、数学なら数学、あるいは理科とかという学科があるとする。幼稚園に上がったときから大学を卒業するまで数学というものをやった。しかし、二十何年数学の学科があって学校で勉強をしたのだけれども、それを現在の数学というものが到達しているレベルまで、もちろん達しなくてもいいのですけれども、それを理解するための基礎すら得られないとしたならば、その数学というものはやめたほうがいいということになります。
 つまり、その人が一生数学というものを勉強しても、なおかつ現代の数学が当面している水準のところを理解する手段さえ得られないというものであったとしたならば、その数学という学科はもう、専門に数学をやる人とか、理科系に行く人に委ねてしまったほうがいいことになります。つまり、その学科をやることは無駄だということになります。
 もっと違う例で、イリイチという人を挙げてみます。例えばこういうことです。お医者さんが病気を治す。病気を治すために診断し、測定し、薬を投与した。ところがそういうふうにしたら薬の副作用が今度は出てきた。この薬の副作用による病気がただの病気よりも上回ってしまったときには、それをやめなければいけません。現代医学は薬を投与することをやめなければいけないという理屈になるわけでしょう。
 病気があったというのは非常に当たり前のことです。健康な人と病気の人がいます。病気を治すためにお医者さんに行った。お医者さんが検査し、聴診し、血まで採って調べて、これこれが悪いと決めた。それで薬を与えた。そうしたら、薬が効いたのだけれども、副作用があった。副作用のために今度は新しい病気ができてしまった。つまり、新しい種類の病気ができた。医学が作り出した病気というようなものが新しくできてしまった。
 医学の作り出した病気が、例えばただの病気、自然の病気というようなものよりも上回って、50%を越えてしまったときは、その医学のやり方を変えなければ駄目でしょう。つまりその医学は駄目だということの証拠になるわけです。そういうときには自己矛盾に達したわけです。自己矛盾に達したら、その医学のやり方は駄目だということになってしまうわけです。
 その種のことが、文学というようなものの中でも、もちろん学問というようなことの中でも、現実の社会的な機構、メカニズムのあり方の中にも、さまざまなところでその問題がぼちぼち出てきている。ぼちぼち出てきたことが、最も鋭敏なところで解決されて、それが表現されているというようなことが現代文学のいちばん大きな問題なのではないか、問題の根底にあるものではないかという気がするのです。それはたぶんシステムの無意識なのだ。
 この無意識をどうしたらいいのかというのは、ちゃんと当たり前のようにオーソドックスにやっていけば解決するようになっていて、無意識を純粋培養することができるわけです。また無意識というものは、こういうのはかなわないということで、それを放棄することもできます。課題を放棄することもできます。放棄すればそれがそれなりに解決されるわけです。しかし、それは文学にとって現代的な解決ではないし、現代の社会が強いている思想的な、あるいは感受性の問題に対する一般的な解決というようなものの一つの形でもないわけで、いわば、個別的な解決というようなこととしてはそんな課題はやめたというふうに、違う書き方をすればいいんだというようなことですら解決ができるわけです。
 たぶん作家たちが意識的にやっていることは個別的な解決であり、無意識にやっていることは一般的な現代文学の条件が持っている病の無意識の表現だろう。そのどちらかの問題だということが、現代の文学を根底で根本的に支配しているといいましょうか。もやもやとした問題ですけれども、支配している問題というのは根底的なところで、そこの問題ではないのかなという感じがいたします。
 この感じに何とかして言葉を与えたり、何とかしてもう少し明せきに明りょうにできたらなというようなことは僕自身の願望です。それはあくまでも願望であって、ただ自分が否定と肯定と無意識の解決と、意識的な解決というもののいずれでもない仕方で、その問題の所在というようなものを自分なりに浮かび上がらせるというような課題に対して、ある種の考え方というようなものを、いま新しく売り出されている作品というようなものに一年ぐらいかかわってきて、何となくそういう課題がつかまえ、何となくおもむろに出てきたような気がしています。
 それをもっとはっきりした言葉と、はっきりした形とで取り出せられたらなというのが、僕の批評としての願望であり、また現代というようなものを何とかして解きたい、わかりたいというようなことに対する一つの願望として僕自身が抱いている課題であるわけです。しかし、少しも解決しているわけでも何でもなく、ただ、その課題の所在というようなものを申し上げたにすぎないのです。だいたい僕が一年ぐらいかかわってきてたどり得たところというのは、そういうところに帰着するように思われます。(拍手)

15 司会

16 質疑応答1

(質問者)
 現在の文学の問題点というのが、システムの無意識…≪音声聞き取れず≫方向に向かっている。

(吉本さん)
 ぼくはシステムの無意識というようなものが規定しているんじゃないか。つまり、そういうことが何なのかということを考えなくちゃいけないんじゃないかっていうこと自体が、ぼく自身もあやしいといいますか、ぼく自身も学生時代に、そうだということがわかられていないんじゃないでしょうか。つまり、楽しくやっている人と、求められてやっている人がいるというだけであって、エンターテイメントの人は非常に楽しくやっています。
 次々、新しいことを考え出して、新しいパターンもまた、すごく精力的につくりだしているわけです。だから、ほんとうに楽しくやっているだけじゃないでしょうか。つまり、楽しく、しかし、一生懸命やっているだけじゃないでしょうか。
 それから、そうじゃない、先ほどのイメージの氾濫といいましたけど、つまり、若くして小説の世界に入ってきて、感受性だけを信頼して、そういう作品を書いて、あまり物語もなければ、筋もない、しかし、感受性だけがあるというような、そういう作品はしばしばその感受性は病気なんですけど。だけど、べつに病気だって思っていないんじゃないでしょうか。しょうがないので、そういうのじゃないから、無意識にとっているというので、それは知られてない、意識されてないんじゃないでしょうか、そのこと自体は。
 システムの無意識なんていうのは、そんなことはあてにならないかもしれないです。ただ、何かがあってそれは気づかれていないということがあるという気がするんです。それをそういう言い方をしたらどういうことになるんだということなんです。

(質問者)
 イメージを追う人たちと、エンターテイナーとして活躍する人たち、2つの立場には亀裂があって、二者にはお互いのもう一方に対する憧れみたいなものはあるんですか?

(吉本さん)
 ないんじゃないでしょうか、馬鹿にしてるんじゃないでしょうか。両方とも馬鹿にしているんじゃないでしょうか。本気で馬鹿にしているんじゃないでしょうか。前はあなたのおっしゃるとおり、ほんとは俺、純文学の作品を書きたいんだけど、多少甘くしているんだということがコンプレックスになって、馬鹿にしたようなことを言うんだけど、ほんとはそうじゃないのであって、前はそうだったけど、いまのエンターテイナーはそうじゃなくて、ほんとに馬鹿にしていると思います。どこからどう考えたって、俺の作品のほうがいいに決まっていると思ってるとおもいます。ある意味ではそれは正しいと思います、ぼくは。ちょっとすごいと思います。作品としてすごいと思います。

(質問者)
 読む側としては、願望なんですけど、そういうことに対して作者、作家たちは、まるでハナから答えていないわけです。

(吉本さん)
 だから、それはエンターテイナーのほうは答えているんじゃないでしょうか。物語の新しいパターンを通じて、新しい幻想とか、新しい着想とか、自分たちは人間の内面の中に広げているんだという、そういう自負があるんじゃないでしょうか。そして、ある意味でその自負は正しいような気がしますけど、そういう作品が出てきてありますから、それに答えていると思っているんじゃないでしょうか。
 そういう意味あいからいったら、純文学の人のほうが、現在というのをよくわかっていないような気がして仕方がないです。わかってないんじゃないかなという気がするんです。そこが問題なんじゃないでしょうか。読者というのは皆それはよく知っているんじゃないでしょうか。
 たとえば、学生さんが現代に書かれている文学をどういうふうなのを読んでいるかといったら、必ずエンターテイナーのほうにいっていると思います。しかもかなり欲求を満たしていっていると思います。欲求を相当程度、満たされているという意味あいで、純文学は滅多にそういうふうにならないです。

17 質疑応答2

(質問者)
≪音声聞き取れず≫

(吉本さん)
 ぼくは読んでないんです。十年ぐらい読んでないんです。ようするに、十何年前か二十年前によくいろんな文学の話みたいのをしていたから、あらためて読むこともないという意味あいで読んでない。それから、あいつ、ダメですとあるとき思ったんです。『疲れた人』というのは、読んでないけど読もうとは思っているわけです。どうなっているか、ある意味でものすごく知りたいことがあるので読んでやろうとは思っているのですけど、読んでいないんです。
 プライベートに裏腹な事があって読みにくい作家なんですけど。どうしてやめちゃったかというのはあれなんです。いつまでも炭鉱、炭鉱って炭鉱のことばかり言って、子どもの時、炭鉱にいたからといって、いまは大都会の真ん中にいるわけだから、そこで感じていることってあるでしょ。そこでシラケていることってあるでしょ。同時に退廃していることもあるでしょ。
 どうして、そのことを表現することが文学だと思うんです。それを表現できなければ、過去の体験、過去の記録ということは、それを固執することは、現在である間は固執だけど、パターンとして過去が固執されるのは、それは私物なんです。そのことが主題な分野であるわけです。
 つまり、都会の退廃的な風俗じゃなくて、炭鉱のあり方が退廃的じゃないかといったらそうじゃないです、文学というのはそんなものじゃないんです。どこかで間違えたんじゃないかってところがあったときに、もうやだと思ったんです。だから、その後、どういうふうになっているかわかっていないんです、ぼくは。
 だけども、『疲れた人』というのは、たいへん力を入れた作品だから、どうなっているのかなとは思いますから、読もうと思いますけど読めていないというのがあれなんです。あなたが読めたのもいい読者だから、わりにいいことをいったわけで、べつに他意のあるないじゃないです。そうじゃなくて、いい人ですから、そういうんじゃないですけど。
 シラケているのを表現できている人というのは、小島信夫じゃないかなと思ったんです。なんともいえないシラケ方、自分でも半分はわからないようなシラケ方、よく読まないとダメなんです。つまり、丁寧に読まないと何だこりゃという、実名の作家が出てきたり、ふざけてやがるというふうに、あるいは、面白おかしい、これは何をしているんだろうとか、そういうことをしながら、なんとも言えない、自分の中にあるシラケている。その自分の中にあるシラケているという要素は、いま現在の中にある、本質的なシラケというものと共鳴し合うんです。それを表現するのが目的なんです、小島さんたちの。
 つまり、実名の小説家が出てきて、しゃべったり、何してんだこれはと、最も悪質な文壇小説じゃないかというふうに読めるわけです。もちろん、そんなことは承知の上で書いているわけです。そう読まれるかもしれないです。だけど、そうじゃなくて、現在というのがどんなにシラケているかということとか、自分の中にあるどうしようもなくシラケている要素というものを、それを出したいというのが、あの作品のモチーフなんです。そのことは、小島さんはできていると思います。
 それは非常に貴重な事だと思います。ぼく自身はそう理解します。あるいは、丁寧に読んでご覧になったらきっと、この作品は何なんだと、これはシラケなんだよと、シラケということをなんとかしてこの人は言いたいんだと、それが言葉で私はシラケていますと書いて、登場人物に私がシラケていると言わせたり、それから、登場人物にシラケた事件に当面させたり、そんなことしたってこのシラケは絶対に表現できないシラケなんです。つかめないかもしれないシラケなんです。
 そのことを言うために、ほんとにくだらないことをしているんです。一見すると、ほんとうにくだらないことを選んでしているんです。だけども、よく読んでご覧になれば、その中になんともいえないシラケというのが感受されて、これがこの作家がほんとうにしたかったのはこれなんだというふうに読めます。たぶん、その読み方が僕は正しい読み方だと、ぼく自身は思っています。
 機会がないから、そんなことは論じないですし、あるいは、ずっと論じないかもしれませんけど。ぼくはそう思っています。それは誰もそんなことを論じないです。言わないです。それを論じきれている人はいないです。だけども、ほんとうはそう思います。それは非常に貴重だとおもいます、そのシラケというのは。
 つまり、言葉の主題、意味、思想というのは、契約してこうなってとか、つまり、主題で言ったりしたら、どこかでそのシラケが真面目になっちゃうんです。真面目になっちゃうと嘘になっちゃうんです。嘘になっちゃうことがあるんです。現在のシラケのなかにはあるんです。その作家個人にとっては、必至の問題なんだから当然なんです、真面目になるのは、当然なんだけれど、しかし、そのことが現在の普遍的な問題につながるかということは、また少し違うことです。
 だから、現在のなかにあるシラケの中には、なにか思想的な意味をつけたり、主題にこだわったりしたら、どうしてもそのシラケが真面目になっちゃって、下手に真面目になっちゃって、嘘の真面目さというものになっちゃうことがあると思うのです。そういう意味合いのシラケというものは、現在もあると思うのです。現在、感受されるもののなかにあると思うのです。そのことを言おうとしていると思います。小島さんはそのことを言おうとしていると、ぼくはそう理解します。それは非常に貴重だというのは、ぼくの読み方です。
 マメにはやるんです、だけど、ぼくもそうですけど、なにはともあれ、意味をつけたいんです。真面目ということはいいことなんですけど。ぼくも真面目ですけど。真面目ということが虚偽になる転換点というのがあるんです。真面目自体が虚偽になってしまう、その転換点ということを避けることはたいへんむずかしいんです。もし、思想性というものに固執すると、ものすごくそこはむずかしいんです。そこのところが、現在というものの非常に困難なところなんです。
 だから、ぼくだって、頭の中とか、理念の中で、できないこともないような気がするんだけど、たぶん、そうすると嘘になるような気がして仕方がないんです。どうしても、現在の問題を払えない気がしてしょうがなくて、できないということがあるでしょ。井上さんはそれを表現しているかもしれないですけど、無意識のうちに表現しているかもしれないけど、そうしたら、それは立派だと僕はおもいます。
 そこの問題は、普遍的な問題が、自分の体験的な切実さというものにかかわりながら、その普遍的な問題が出ていたら、それはたいへんにいいと思うんです。小島さんは体験としてはつまらない世界しかないわけなんです、文壇からすると。編集者と出会ってこんな話をしたとか、なんとかという女流作家と会ってこういう話をした。それしかないわけです。
 意識的にそれを知っているんです。それがものすごくシラケているということを知っていて、自分がどういうところに打ち込めるかというのをよく知っていて、そのことを主題にしながら、シラケている現在というものを、それを言いたいのだと思います。ぼくはそういうふうに読んでいるんです。
 それの問題なんじゃないでしょうか。井上さんの問題もきっとそこがどういうふうに普遍性というのとどういうふうにつながってるかという問題と、井上さんの問題はきっとそこの問題のような気がしますけど。

18 質疑応答3

(質問者)
 さきほど「自己矛盾」という言葉をおっしゃったんですが、吉本さんはご自分の活動のなかで自己矛盾に到達されたことはありますか。

(吉本さん)
 到達されたんじゃないですけど、自己矛盾にさらされていると思います。つまり、できるだけ意識している時は嘘を言うまいと思うんだけど、意識していないとつい真面目みたいになっちゃうんですけど。ほんとは必ずしもいいと思っていませんよという、絶えずさらされていると思います。ぼくみたいな純文学の批評とかしている人も、それから、純文学の小説を書いている人も自己矛盾だらけじゃないでしょうか。
 もっとちゃんと言ってしまいますと、現在の純文学の、純文学と言うのか知りませんけど、文学だというふうに自他ともに思っている、そういう雑誌というのがあるとすると、たとえば、文芸春秋社「文学界」という雑誌、講談社「群像」という雑誌を出している、集英社は「すばる」という雑誌を出している。これは自他ともに文学だと思っているわけです。
 そうすると、それは全部、赤字で出されているわけです。赤字ということはその雑誌を作るのにかかるお金と、それから、書いた奴に支払われる原稿料と、それから、そこへかかわっている編集者の月給とをあわせた額が売れる額より少ないという、それが赤字ということです。赤字で出されているわけです。
 赤字でなぜ出しているのか僕にはよくわかりませんけど、そうすると、あなたの自己矛盾ということに関連して、他人の事をいうといけませんから、自分の事をいいますと、ぼくがそういうところに時々書くわけです。そうすると、1枚4000円から5000円くれるんです。40枚書くと、5000円として、5×4=20で20万円です、1割税金で引かれるから19万円です。19万円でひと月食えと言ったって食えないですから、ローンがあったりすると食えないです。だから、それは自己矛盾なんです。雑誌を出しているほうも月々数百万円の赤字なんです。これを書いて原稿料もらっているやつも赤字なんです。
 そうしたら、ぼくの自己矛盾を解決するためには2つしかないので、ようするに、どうせお前のほうは赤字でお金はあるんだから、おれにもっと原稿料をよこせと言って、相手もそのとおりよこしてくれたら、ぼくだけが矛盾じゃないです。矛盾じゃなくなるわけです。むこうはどうせ矛盾なんだからと言って、いうこと聞けばいいわけだけど、決して言うことは聞いてくれないわけです。そうすると、両方の矛盾が曖昧なままなんです。ぼくも曖昧なままでいるわけです。
 ぼくはどうして食っているかといったら、うまく食えているとは言えないですけど、危なくてしょうがないですけど、結局、単行本というのがあるんです。それで印税がたまにあがってきたりするので、だけど、ほんとうはそうじゃないんです。一人の現在の文学にかかわって批評文を書いていた人間に、自他ともか知らないですけど、自のほうでは一丁前だと思っているわけですけど。月40枚の批評文を書くというのはものすごいエネルギーがいるんです。それで食えるだけの金は払わないわけです。それは矛盾だと僕は思います。そんなことやっている自分が矛盾じゃないか、自己矛盾なんです。
 今度は自分のことばっかり言っているのはいやだから、大家というのがいるでしょ、日本の文学を現在、代表するような大家がいるでしょ、誰でもいいんです。そういう人がふた月で40枚の小説を書くとしたら大変なことです。お年寄りだし、ふた月に一篇だってものすごい努力がいります。そのくらい大変なことです。
 大家だから僕の3倍くらいとってるかもしれない、3倍だとしたら、どうなんだろう、2倍としましょうか(会場笑)、1割税金で引かれるわけです。それでふた月食えといったって俺は食えないと思っているわけです、ぼくはこういう話はあまりしたくないし、7万か、8万送ってもらって食ってるかもしれないから、なんて狭いこと言うじゃないかと思われるかもしれないから言いたくはないんだけど、しかし、そういうふうに見ないでほしいです、ここでは考えないでほしいんです。だけど、ぼくはそう思います。
 つまり、大家の人に40万円か50万円、あるいは80万円から1割引いた金でふた月食えと言うことは酷ではないかと思います。一国の文学を代表するような、そういう大家に対して、それは酷だと僕は思います。しかし、そんなに金を払っていないというのが僕の理解の仕方です。
 そうしたらば、これも矛盾じゃないですかというと、現在、純文学と言われているものの基盤となっている経済的な基盤というのは全部、そういう矛盾から成り立っているわけです。ぼく自身もその矛盾の中にいるわけですし、矛盾の中で参ったなという感じでいるわけです。それは非常に根本的な矛盾だというふうに思います。
 だから、そこから事態を見ていけば非常にはっきりしてしまうので、純文学というのは一種の同人雑誌的なものをやって、そんなことを言うとぼくは自分が困ってしまうんですけど、たちまち自己矛盾にさらされるわけですけど。純文学というのは、ほんとうをいっちゃえば、同人雑誌をやって、同人雑誌で小説なり、それから、批評なりを書いて、それを出版社がそれをいいと思ったら勝手に出せというふうに、そういうふうにしたら矛盾はなくなるんです。それじゃなければ、たぶん、現在のところそういう矛盾は避けられないと思います。
 エンターテイメントの人はそうじゃないと思います。十分な経済的な基盤、読者がいて成り立っていると僕は思っていますけど。しかし、そうじゃないところは大なり小なりそうだと思います。
 だから、いちばん矛盾のない形は同人雑誌をやりながら書いていって、それがまとまったときに出版社が出したい方は勝手に出して印税をよこせと、こういうふうにすれば矛盾はないわけです。出版社にも矛盾はないし、こっちのほうも矛盾はないわけです。それが現在での本来的な形だと思います。
 だけど、そういうふうにしたら僕も明日から困るので、別な食い方を探していかなくちゃいけなくなっちゃうわけですけど、それでもかまわないのです、いっちゃえば…。<テープ切れ>



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