1 司会(門脇住吉)

 みなさま入りつつあるようでございますが、時間が遅れておりますので、始めさせていただきます。今日は3人の方をお迎えしまして、パネルディスカッションを交えた講演会を始めさせていただきたいと思います。はじめに、吉本先生に「親鸞の教理について」というお話をいただきまして、その後で、パネルディスカッションとして、講演会全体をまとめるような、パネルにしたいと思っていますが、きっかけとしまして、米山先生に日蓮宗の立場から日本に何をもたらしたかというお話を、また、高柳先生は、カトリック側として、親鸞とキリスト教神学の理解のお話を願いまして、接点を、ことに吉本先生とのなにか対話的なものをいただきまして、その後で、パネルディスカッションに移りたいと思います。みなさんの直接的な参加も、パネルディスカッションでは取り入れたいと思っておりまして、すでに入り口でアンケート用紙を差し上げていると思います。みなさんのなかからご質問がありましたら、ちょうど高柳先生のお話が終わりました時点で、5分くらい休憩をしますので、そのとき集めさせていただきます。それから、そのときに私がみなさんに代わって質問をいたしますが、取り上げられた質問で、もしも、もっと聞きたいという方がありましたら、その質問者とくに、突っ込んでもう少し聞きたいことがありましてという方に手をあげてくださって、再質問の機会を与えたいと思っております。ひとつ、お断りしたいのが、司会でございますが、私も登壇者の一人として、積極的に参加させていただきたいと、あらかじめお断りしておきます。今日のスケジュールはだいたいそんなところでございます。
 まず、最初にお話し伺います吉本隆明先生をご紹介いたします。ご存じのように、たいへん高名でいらっしゃいます、学歴など申し上げる必要もないかと思いますが、先生は実は東京工業大学を昭和25年にご卒業なさいまして、電気工学科をご卒業になったという、私は今日はじめて知ったんですけど、ご著書は数えればキリがないほどありますが、その中から2つだけ、今日の表題に関連した著書を2つあげておきます。ひとつは春秋社から最近でました『最後の親鸞』という本でございます。新しい親鸞解釈をお出しになって、非常に現代的な親鸞像と申しますか、そういうものを捉えました本です。それから、もうひとつは、『論註と喩』、喩えの喩という本、言叢社からお出しになりました。先生は現代の日本の言論界、そういうものをある意味ではリードされている方でございますので、これからのお話もそういう意味で、我々を啓発するところが多々あるのではないかと思っております。それでは先生、どうぞよろしくお願いいたします。

2 「浄土門」の教理の特徴

 ただいまご紹介にあずかりました吉本です。いまご紹介のなかにありました『最後の親鸞』、それから『論註と喩』という著書の中で、親鸞の思想について、自分なりの理解の仕方っていうものを書きました。今日はそうじゃなくて、親鸞に象徴される浄土宗の、浄土思想なわけですけど、浄土思想の教理といいますか、教義といいますか、そういうことについてお話してみたいと思います。
 親鸞自身が主著である『教行信証』の中で分けている、仏教の宗派の分け方っていうのを例にして申し上げてみますと、仏教、特に大乗経のなかには、ふたつの信仰部門があると、ひとつの部門っていうのは、じぶんが仏であるとか、じぶんが菩薩であるとか、少なくとも、それに近いものだっていう自覚のもとにある人たちが、なおいっそう悟りをひらき、慈悲の心を発揮するっていうような、そういうことを教義とする宗教、これを全般的にいいまして「聖道門」というふうに親鸞はなっています。
 もうひとつありまして、それは、「浄土門」というわけですけど、「浄土門」っていうのは、どういう宗教かっていいますと、現世においては到底救われそうもない凡人である、その言葉遣いを使いますと、〈煩悩具足の凡夫〉だと、そういう、つまり、現世においては、到底、仏とか、菩薩とか、それに近いものであるってことは、到底、自他ともに考えることができない、そういう人間が、まず最小限、死んだ後では浄土にいって、悟りをひらく資格だけは獲得して、そして、最後に仏の悟りに到達しようっていう、そのための宗教っていうのを「浄土門」というふうに名付ける、親鸞はそのように分類しております。その分類は、大変やさしい分類の仕方ですから、いろいろ問題があるでしょうけど、ここでは採用させていただきます。
 そうしますと、親鸞の宗教っていうようなものの教義はどういうところにあるかといいますと、親鸞自身は主著の中で「教」・「行」・「信」・「証」という言い方で、それを分類して述べています。
 「教」っていうのは、教義ってことですけど、教義を述べたっていいますか、教義に関する「浄土門」の著書を集大成したものなんですけど。その集大成したもののなかで、教えとしてどういうことがとってこられるかっていいますと、いま言いましたように、〈煩悩具足の凡夫〉、ごくふつうの平凡な、到底、仏にもなれそうもないとか、あんまりいいことができそうもない人間っていうのが、浄土に象徴的なことであります。
 阿弥陀仏とか、無量光仏とか、いろんな呼び方をしますけど、そういう仏がいまして、その仏が、凡夫といえども、自分をほんとうに真心から信ずるなら、必ず浄土へもたらすと、もしもたらさないなら、じぶんは仏にならないっていうふうな態度だった阿弥陀仏とか、無量光仏とか言われている仏がありまして、その仏の願力によって浄土へいきまして、いく過程を往相っていうわけですけど、浄土へいきまして、そこで仏になって終わるってことではなくて、仏になりましたら、今度はまた現世へ還ってくるってことなんです。
 現世に還ってきまして、やはり、現世の〈煩悩具足の凡夫〉たちが満ち満ちている現世の中に還ってきて、そして、そのなかで大慈悲を発揮する。そこのところで、教理は完成されるってことです。
 つまり、それを還りの姿、還相っていいますけど、その還相の姿となって、再び現世に還ってきて、〈煩悩具足の凡夫〉の間で、慈悲心を発揮するっていう、そういうところで終わるっていうのが、親鸞が集大成で出しました「浄土門」の教義だっていうふうにいうことができます。

3 〈信〉ずることと〈念仏〉を称えること

 この教義に必要としますのは何かっていうことなんですけど。それは〈信〉っていう、信仰の(信)なんですけど、「信巻」というところで、やはり信仰に関する「浄土門」の経典を集大成しまして、親鸞が要約しています。
 それは要約すると非常に簡単なことであって、それは、ひとつは誠心誠意の信仰であるっていうことなんです。もうひとつは、誠心誠意の信仰でもって念仏、つまり、浄土の象徴的な仏である阿弥陀仏ってことになるわけですけど、その阿弥陀仏の名号を称えるということです。この念仏を称えるってことと、そのふたつのことが、念仏を称えて讃嘆するっていいますか、褒め称えるってことなんでしょうけど、つまり、このふたつのことが浄土宗にとって、あるいは、親鸞の言い方でしますと、浄土真宗にとって、重要な考え方だっていうふうにいっています。
 さまざまなことがあっても、要約すると、ひとつは、どんな疑いも差しはさまないで、阿弥陀仏を信仰する、あるいは、阿弥陀仏の願力を信仰する、願力というのは、人々を浄土へ必ずもたらしていくぜっていう、もたらせなかったら自分は仏にならないっていう、そういう願力を誠心誠意〈信〉ずるってこと、それと信じて(念仏)、このふたつが、いわば浄土真宗にとって、信仰の大きな要素であるっていうふうに親鸞は述べています。
 たくさんの問題があるわけです。つまり、仏教の教義からいいますと、たくさんの問題がありまして、浄土にはたして生まれることができるのかどうかっていうような問題が、非常に高度な教理的な問題として、仏教の本質に関わる問題としてあるわけで、たとえば、仏教の本質的な考え方っていうのは、人間は現に存在しているそのところのものではないっていうことなんです。
 つまり、人間がどういう存在の仕方をしている場合もあるわけですけど、あるいは、仕方をしてもいいわけですけど、人間の本質っていうのは、どんな存在の仕方をしても、存在の仕方をしているそのことじゃないっていうのが、人間の本質だっていうのが仏教の本質的な考え方です。
 そうしますと、現世にいる〈煩悩具足の凡夫〉としての人間が浄土に生まれ変わったとき、同じ人間であるかどうかっていうのはわからないんじゃないかっていうことが、非常に高度な問題として、教理的な問題としては出てきたりします。もし、同じ人間だとしたら、この現世っていうものと浄土っていうものは、因果の鎖でただつながれているだけだってことになってしまうわけです。
 また、現世で生きていた人間が、浄土で同じ人間として生まれ変わるかどうかわからないっていうことは、まったくわかたないとしてしまえば、浄土っていうことを設定すること自体が無意味なことになってしまいます。
 それから、人間が現に存在するところのものではないっていうこと、つまり、現に存在している人間っていうのは、現世に存在している人間の仕方も、それから、仮に前世に存在する人間の仕方っていうのも、来世に存在するであろう人間の存在の仕方っていうのも、いずれも、その存在の仕方自体が人間じゃないんだってこと、それらを貫徹している、つまり、それらをどこの世界で生まれ変わったり、死に変ったりする、それを貫徹している本質だけが人間なのであって、現に存在する人間っていうのは、いわば、ある時間の区切った中、精神の時間を区切った中での、仮の姿にすぎないっていうのが、仏教の根本的な考え方ですから、つまり、現世に生まれている人間、それから、浄土に生まれている人間が同じ人間なのかどうか、どうやって確立するのかって問題は、たいへん高度な思想、専門的な教理の問題になっていくわけです。
 しかし、そういうことを問わないとすれば、そういうことを問題としないとすれば、非常に簡単に、誠心誠意で阿弥陀仏如来の願力っていうものを〈信〉ずるってこと、信じたからには、必ず念仏を称えるってこと、その念仏の称え方っていうのは、「乃至十念」という言葉を使っていますけど、つまり、十遍ぐらい称えてもいいんだ、それから、もちろん一遍称えてもいいんだ、それからまた生涯称えていてもいいんだと、そういう意味あいを含めて、つまり、遍数の問題ではないんだっていうことだと思いますけど。遍数の問題ではないんだっていう意味で「乃至十念」っていう言葉を使っていますけど。
 つまり、そのふたつが信仰にとって重要なんだ。それを行うことが信仰を行う「行」であって、それ以外のどんな「行」もいらないっていうことが非常に大きな特徴なわけです。つまり、どんな「行」もいらないってことは、一般的に宗教がいう〈善行〉を積み重ねたり、(悟り)をひらくための修行をしたりっていうことは、一切いらないってことです。いらいないだけでなく、それは害であるってことが、浄土宗あるいは浄土真宗っていうものの非常に大きな特徴です。
 なぜ害があるっていいますと、そういうふうに自分が少しでも〈善行〉を積み重ねようというような意志をもったり、それから、自分が〈悟り〉をひらくために、〈解脱〉するために修行を積み重ねようというような、そういう考え方をするのは、親鸞的な言い方をしますと、〈自力〉っていうことであって、〈自力〉を信仰するっていうことは、どういうことかっていうと、人間が〈自力〉を信仰するっていうことは、阿弥陀仏が持っている大きな規模の願力っていうものを小さな規模にさせてしまうんだっていうことなんです。
 つまり、人間が〈自力〉でできうるような、そういうような修行とか、(悟り)をひらくための修練とか、それから、小さな〈善行〉の積み重ねとか、そういうことによって、なにかひかれるっていうような、そういう規模でもって存在するような〈善悪〉の概念っていうのは、まったく阿弥陀仏の願力の規模に対したら、まったく通用しないものだっていうこと、つまり、かえってそれがあるために害を生ずる、害を生ずると、いわば。ほんとうの〈浄土〉には生まれることができなくて、仮の〈浄土〉にしか生まれることができないっていうような言い方をしています。
 これは、同じ「浄土門」であっても、〈自力〉を積んで、〈自力〉でもって〈徳〉を積み重ね、あるいは(善)を積み重ねて、そして〈浄土〉になろうっていう考え方は〈自力〉であって、その考え方を取る限り、絶対にほんとうの〈悟り〉の〈浄土〉には到達できないだろうって、仮の〈浄土〉にしか到達できないっていうような言い方をしています。ですから、〈自力〉で(善行)を積むとか、〈善〉を積むとか、そういうことは一切いらないっていうこと、いらないってばかりではなく、これはまったく害である、有害であるっていうようなことが、非常に大きな浄土真宗の教理的な特徴になります。

4 〈信〉と〈悟り〉の問題-仏教の本質論

 それから、浄土真宗の教徒っていうものが、普段やることっていうのは何かっていうと、ただいま言いましたように、〈信〉ずることと、それから(念仏)を称えること、この二つしかないわけです。それで、それ以外のことは、もちろん何もすることはいらないことになっています。
 そのことが非常に大きな特徴であるとともに、様々な問題を親鸞の在世中から様々な問題を引き起こしたことでもあるわけです。それは致し方のないことで、いわば仏教っていう概念は親鸞のそういう考え方からいくと、ほんとうはどうでもいいっていうことになります。つまり、仏教を信仰するかどうかっていうのは大した問題じゃないっていう、極端にいいますと、そういうふうになってしまいます。
 それから、もうひとつは、多少でも、みなさんの中でも、我々の中でも、いいことをしたら気持ちがいいとか、いいことをして何かに到達しようとか、修行して何かに到達しようって考え方っていうのは、我々の中から払底することはできないんですけど、親鸞の言い方でいうと、そんなもの払底できなければ絶対ダメだっていうことです。つまり、そんなことが何かであるって考えは絶対に捨ててしまえってことが親鸞の考え方です。そういうことが必須の要件になっています。
 阿弥陀如来が持っている願力の規模の大きさっていうものに、どうしても摂取されえないんだと、摂取されると有害なんだっていう考え方が非常に大きな特徴です。これは、いわば宗教にとっては驚天動地と言っていいぐらいの、大きな特徴であると思うんです。この問題は、様々な問題を孕んだっていうふうにいうことができます。
 しかし、親鸞にとっては、少しでも善を積み重ねて何かに到達しようとか、少しでも修行を積み重ねて、何かに到達しようとかいう考え方っていうのは、それは全部「聖道門」だっていう言い方をします。「聖道門」であって、「浄土門」の「真宗」にはかなわないよっていう言い方をしています。だから、そこのところに、「浄土門」の親鸞によって集大成された特徴がよくあらわれているっていうふうにいうことができます。
 そこのところで、何を行うか、何を(信)ずるかっていう問題が、そういうところでまったく尽きてしまうわけです。今回は、〈悟り〉っていう部分があるわけですけど、〈悟り〉っていうのは〈浄土〉へいくことが〈悟り〉であるってことなんです。〈浄土〉へいくっていうことは、どういうことなんだっていう場合に、〈浄土〉っていう概念は、まったくこれは親鸞の場合も例外なく、仏教の本質概念にみんな吸収されてしまいます。
 つまり、仏教の本質概念っていうのは、説明するのは大変むずかしいですし、簡単に言ってしまうことができないのですけど、ようするに、人間というのは、本来的にいえば、精神を積み重ねているところの人間、あるいは、精神を繰り返しているところの人間とか、苦悩を繰り返したり、喜びを繰り返したり、あるいは、小さな善を積み重ねたり、小さな悪を知らず知らずにやりながら生きている、そういう人間っていうのは、仮の姿にしかすぎないんだっていうこと、だから、真の人間っていうのは何なのか、それは〈如来〉だっていうこと、(如来)は何かっていうと、それは〈解脱〉だ、〈解脱〉とは何かっていったら、それは〈空〉だっていうこと、(空無)だっていうこと、つまり、何もないものなんだ、〈空〉だっていうことなんです。
 だから、形もなければ、色もないものだっていうことです。つまり、形や色として設定することもできない、あるいは、小さな善として到達できるものとして設定できない、または、大きな善として到達できるものとしても設定できない。ようするに、それは〈空〉である、〈無〉である、あるいは〈空無〉であるっていう概念が仏教の本質的な概念です。
 〈人間〉の概念であり、また〈悟り〉っていう概念であり、また〈仏〉っていう概念であり、また(如来)っていう概念もそうなわけです。つまり、このことは、古代の思想っていうもの全部に通用する、全部に共通なことがあるわけですけど。古代の思想っていうものは、つまり、完結性っていうものを持っているわけです。つまり、一種の宇宙論であるわけです。だから、人間っていうものも、それから、宇宙の成り立ちっていうものも、全部ちょっとずつ解釈され尽されているわけです。尽されているっていうことは、その尽くされ方がどうかっていうことじゃなくて、特徴を全部、解釈尽くされているのっていうのが、古代思想っていうものの大きな特徴なわけです。
 それは、どこの古代思想でも同じです。つまり、仏教とか、キリスト教とか、オリエント的な古代思想でもそうですけど、みんなそうですけど、つまり、古代思想っていうのは一種の完結された体系っていうものをもっているわけです。あるいは、理解の体系っていうものをもっているわけです。だから、人間っていうものについて理解し尽されてしまっているわけです。
 だから、古代思想っていうものを、いわば宗教の教義として、近代以降の人間っていう概念が成立している世界に、古代思想っていうものを宗教の概念として取り入れていこうっていう場合に、何が問題なのかっていいますと、いちばん問題になるのは、現に存在しているところのものが実体だろっていうような、近代以降の人間の概念っていうものは、そこではまったくなされていないっていうことなんです。
 だから、人間が生きていて、それで死んでしまえば、灰になっちゃうとか、滅びちゃうとか、形がなくなっちゃうとか、霊魂だけになっちゃうとか、そんなことは全然、そういう理解の仕方をとらないわけです。
 仏教なんかは、徹頭徹尾、そういう姿っていうのは、どういうかたちをとったって、全部それは仮の姿であって、それらを貫徹している〈空無〉っていうものが、それこそが人間の始めであり、そして終わりであるっていう、そういう考え方が仏教の本質であるわけで、親鸞の教義自体も、いちばん最後に〈悟り〉として描いているものは、そこの、つまり、仏教の本質論になってしまうわけです。

5 〈往相〉と〈還相〉の5つの門

 親鸞はしばしば『涅槃経』っていうのを引いているわけですけど、つまり、親鸞は〈大涅槃〉がイコール〈浄土〉であり、そしてそれが(解脱)あり、そしてそれは〈如来〉であるっていうような、そういう概念っていうのは、いわば〈浄土〉の概念であるわけです。
 ところで、先ほども言いましたように、非常に「浄土門」の特徴っていうのは、〈浄土〉になって、〈仏〉になった後で、つまり、〈解脱〉した後で、どうするのかってことなんですけど。再び、現世に還ってくるっていうわけです。現世に還ってくる姿を〈還相〉っていうふうに、つまり、還りの相っていうわけですけど、問題は〈浄土〉に入っていく、つまり、〈浄土〉に入っていく往き方と、それから、〈浄土〉から出て、再び現世に還ってくる出方っていうのに対して、一定の教義がありまして、その教義はすでに天親が『浄土論』の中で完成しているわけですけど。そういう意味では5つの段階があるっていう言い方をしています。このことが浄土教義としては一番重要な問題なんだと思います。
 5つの門っていうのは何かといいますと、第一門から第四門までは、いわば凡夫が〈浄土〉に入っていく場合の入り方だ、入り方の段階だっていうことなんです。つまり、入り方の第一段階として、(浄土)へ入っていくとすぐに、自分たちと同じ、つまり、凡夫から〈解脱〉した、あるいは、〈浄土〉に来たばかりのたくさんの衆生、多くの人たちがいると、その人たちと一緒に〈浄土〉を段々なじみ親しんでいく、そういう入り口が第一門なんだ。
 第二門に入っていった場合には、静かに、仏教でいう瞑想ってことですけど、静かに瞑想にふけることによって、ほんとうの浄土っていうものを思い描けるようにし、またそれが、自分の現にいるところがそうだっていうことを、よく知りうるようにする、それが第二門だと、そして、第三門はそれを非常に〈悟り〉を開くっていいますか、瞑想して〈悟り〉を開くっていうような、そういう段階っていうものをそこに完成していく、完成していくと一種の〈信〉ずることの法悦みたいな、楽しみみたいなものになってくると、その楽しみみたいなものになってきた時に、〈浄土〉から出て、再び現世に還ってくる、そういう資格っていいますか、そういう還ってくる来方っていうのが完成されてきますっていうような言い方をしています。
 そして、第五門で、再び〈浄土〉から〈現世〉に還ってくると、やはり、煩悩具足の凡夫の間に生きながら、それらの人たちに大きな慈悲っていうものを発揮していくんだっていうようなのが、いわば〈浄土教〉が描いている、〈浄土〉の〈悟り〉の姿のあり方なわけです。

6 近代以後の仏教受容の仕方

 このあり方っていうものは、たいへん、現代思想、あるいは近代思想としてみますと、つまり、近代思想っていうのは何かっていいますと、人間っていうのは、現に存在しているものが実体であって、そして、現に存在するものだけが現実であると、そして、そこに存在している個々の人間がどう考え、どう生きるかってことだけが、生きることなんだっていう考え方に、大なり小なり、帰着してるわけでけど。
 近代的な考え方からすると、非常に荒唐無稽でありますけど、荒唐無稽なりに思想としては完成されたはずなのです。首尾一貫していまして、一種のチュウゴンっていうもので通用するわけで、そういう考え方がぜんぶ含まれているわけです。
 これは、どこの古代思想も特徴なんですけど、いわば完成された姿で〈浄土〉の姿っていうものを近代以降の考え方からすると、非常に荒唐無稽なんですけど、その考え方が荒唐無稽でない、つまり、荒唐無稽でないんじゃないかっていうふうな類推の仕方をすることはできないことはないと思うんです。
 それは、どういうことかというと、結局、一種のチュウゴンとして考えまして、人間っていうものの他に動物っていうもの、動物っていうものの世界っていうものを、もし内在的に、つまり内側から、動物になったようなかたちで、人間がそれを考えることができるとすれば、どういう世界だろうかっていうふうに考えていきますと、それを昇華するっていうか、精化するっていいますか、精化するかたちっていうのは、たぶん、〈浄土〉における第一門と考えられている世界だというふうに思います。
 つまり、〈浄土〉の第一門で実現されている世界というものは、もし人間が、自分自身が、決して動物にはなれないんですけど、自分が動物になりえたとして、動物として考えたとして、考えたときの世界っていうものが、類推される世界が、たぶん、浄土の第一門っていうものだと思います。
 それから、第二門、第三門っていうのは、たぶん、人間がもし、植物、あるいは、鉱物、無機物っていうようなものに人間がなりうる、あるいは、移行しうる、感情移入しうる、あるいは、自分が自己移入できるって考えた場合に、そこで想定される世界っていうものに類推しますと、たぶん、〈浄土〉における第二門とか、第三門とか、あるいは、第四門とか、そういう世界っていうものが、想定できるだろうって思います。つまり、類推できるんだと思います。つまり、そういう類推の仕方をする以外に類推する方法はないわけです。
 つまり、これは近代以降の思想においては、とても理解することが不可能なので、理解することが不可能ならば、その世界に真っ正面から入り込んでしまうみたいになるわけです。だけれども、その入り込むことができない、あるいは、それを言葉でいうことができないならば、それは近代以降における思想のかたちっていうものをとりえませんから、そういうふうにして、もし、近代以降の思想のかたちとして、それを理解しようとするならば、「浄土門」っていうものは、たぶん、人間がいわば動物に移行し、そして、植物に移行し、そして最後には無機物に移行しえたというふうに、自分が無機物になりえたというふうに考えられたときに、イメージとして思い浮かべられる世界というもの、それがたぶん、〈浄土〉における完成された〈涅槃〉とか、(如来)とか、〈解脱〉とか言われている世界に、いちばんよく似ている世界だろうというふうに類推することができます。
 だから、そういう類推をする以外に、ちょっと方法がないような気がぼくはします。親鸞が「浄土門」で描いている〈悟り〉っていう世界、それから、〈悟り〉の世界を開かせる、ほんとうの〈仏土〉、仏の世界、仏の国っていうものは、そういう世界として描かれているわけです。

7 〈浄土〉へ往ける資格

 ところで、親鸞が『教行信証』の中で、とくに仮の仏の世界っていうものについて、一巻を提供しているわけです。最後の章っていうのは、「化身土巻」といいまして、仮の仏となりうるもの、仮の仏でしか具現されていない世界っていうふうな世界についての、理解の仕方っていうものが、『教行信証』の最後の巻になるわけです。
 この仮の世界っていうものは、親鸞がかなりたくさん重んじていることがわかります。仮の世界っていうのは、先ほど言いましたように、自分がいささかの徳を積んだり、善を積んだり、あるいは、いささかの〈悟り〉をひらくための、あるいは〈解脱〉するための修行をしたりっていうようなことによって、そして、〈浄土〉に到達しようっていうような、そういう考え方の人が往きうる世界だっていうようなことが、ひとつあるわけです。
 それと同じように、念仏称名の人たちが、まず一旦どういう世界に往くかっていうことを考えた場合に、それは、まず、仮の仏の世界に匹敵する場所へ往きうる資格っていうのが得られるっていうのが、親鸞に具現された浄土教の非常に大きな考え方のひとつなのです。
 この問題は親鸞の在世中から、教徒たちの間で非常に大きな問題になります。つまり、どういうことかっていいますと、念仏を称えるっていうことと、それから、阿弥陀仏の願力を心の底から信じて疑わないってこと、そのふたつがあれば、ただちに仏になれるのかどうかっていうこと、それから、ただちに(浄土)へ往けるのかどうかってこと、それから、〈浄土〉っていうのは死んだ後にしか往けないのだろうか、死んだ後に往ける世界だろうかっていうこと、そうじゃないのだろうかってこと、そういうような問題が、すでに親鸞の在世中からたいへんな問題になったわけです。
 親鸞はそれに対して、仮の仏土っていうものが考えられ、いったん仮の仏土にいわば召し上げられる。そこの世界で、「正定聚」って言い方をしていますけど、そういう世界にいて、そこの世界では、真の〈悟り〉の世界に往けるための切符を手に入れたのと同じことになるんだっていうような言い方をしています。
 この言い方と、それからもうひとつは、人間はそれじゃあ、そういう世界に、念仏を称えて信仰することによって、仮の浄土の世界に往った場合に、それは臨終のときに、つまり、死んだ後に往くのであろうか、それとも、そうじゃなくて、心の底から信頼して念仏を称えたとき、即座に往けるのだろうか、どちらになるだろうかってことが教理的な疑問として出てきたわけです。
 それに対して、親鸞の答え方があるわけですけど、親鸞の答え方は、〈信心〉が決定したときに〈浄土〉が決定するんだ、あるいは〈往生〉が決定するんだっていう言い方をしています。つまり、浄土にいけることが決定するんだっていう言い方をしています。
 この言い方は、死んだ後で〈浄土〉に往けるんじゃないんだってこと、あるいは、臨終を待って、そして〈浄土〉に往けるってことじゃなくて、いわば〈信心〉が決定的になったときに、すでに〈浄土〉に往けるんだっていう言い方をしています。この言い方は、この考え方が浄土教によって非常に正しいんだっていう言い方を弟子たちにやっています。弟子たちの疑問に答えてやっています。
この答え方が孕んでいる問題っていうのは、大きな問題であって、そうしますと、どういう問題がでてくるかっていうと、〈浄土〉っていう概念と、それから、仏になりうる資格、つまり、「正定聚」になる、あるいは〈菩薩〉に近い資格っていうものは、現世において得られるっていうことになることになります。
 それから、もうひとつは〈浄土〉っていう概念が二重になるっていうことになります。つまり、死んだ後で〈浄土〉へ往けるんだっていう意味合いの〈浄土〉っていう概念と、それから、〈信心〉が決定したときに、すでに〈往生〉が決定したっていう言い方によって、生きながらにして〈信心〉が決定したときに、そのときに〈浄土〉っていうのは実現されているんだ、少なくとも実現されているっていう考え方が出てくるわけです。ですから、〈浄土〉の概念っていうものは、そこで二重化してくるわけです。
 それから、そこの問題は非常に大きな問題として、親鸞の在世中から、様々な疑問を起こしたり、様々な分派を呼び起こしたりしたわけですけど、親鸞の答え方は、徹底的にそういうふうな、いわば、死んだ後で、臨終になってから後で、往生して〈浄土〉へ往くんだっていう考え方と、そうじゃないんだっていう言い方をはっきりとさせています。つまり、これは〈信心〉が決定したときに、すでに往生が決定しているんだっていう言い方をしています。

8 〈善悪〉の問題と〈煩悩具足の凡夫〉ということ

 それから、その考えから当然出てくる問題なんですけど、もうひとつは、先ほど言いましたように、〈善悪〉っていう問題になるわけです。つまり、浄土教の教義、とくに浄土真宗の教義できっぱり言われていることは、〈浄土〉へ往くためには、あるいは、自分が仏に近いものになるためには、決して善行っていうものはいらないってこと、あるいは、もっといいますと、善を積み重ねたり、修行を積み重ねたりするっていうことは妨げになるっていう言い方をしています。妨げになるっていうことは、非常に大きな教義であるわけです。
 そうしますと、当然それも在世中から問題になったわけですけど、それならば、人間っていうようなものはひとつ思う存分ふるまっていいのだろうかっていう問題が、つまり、もしどんな人間でも、善人であろうと、悪人であろうと、善を積み重ねようと、悪を積み重ねようと、それでもって、もし往生できるっていうならば、それならば、人間っていうのは思うままにふるまったってかまわないだろう、それでも〈浄土〉へ往けるんだろうかっていうような疑念っていうものは、当然出てきたわけです。
 それから、もうひとつは、もっと積極的に、それならば、進んで悪を為したほうが〈浄土〉に往けるんじゃないかっていう考え方がでてきたわけです。つまり、進んで悪を為したほうが〈浄土〉に近道じゃないかっていう、そういう考え方が実際問題として出てきたわけなんです。
 それに対して、親鸞はやはり、ちょうどキリスト教でいうパウロの書簡みたいに、一生懸命にそれに対して答えています。親鸞の答え方っていうものは、いくつかに要約されてしまいますけど、結局は非常に簡単なことであって、ひとつは根本的なことなんだけど、もちろん、善人であろうと、悪人であろうと、悪を為そうと、善を為そうと、修行しようとしまいと、怠慢であろうとあるまいと、ぜんぶ必ず〈浄土〉へ往ける、もし、〈信〉ずるっていうことと、それから、念仏さえ称えれば、必ず〈浄土〉へ往ける、これはもう根本的な問題であって、変えられることはありえないってことは、まず、親鸞がはじめに前提として断言しています。
 それから、もうひとつは、確かにそうならば、どんな人でも〈浄土〉に往けるとすれば、進んで悪をするってことは、一見すると悪くないように見えると、しかし、そうじゃないと、もし、進んで悪をしながら〈浄土〉に往こうとするならば、それはちょっと矛盾じゃないか、つまり、現世っていうものを悪くすることに自分が加担していながら、〈浄土〉へ往くっていう考え方自体が矛盾じゃないかっていう言い方をしています。
 それから、もうひとつ、同じような言い方なんですけど、もうひとつの言い方は、つまり、必ずどんな人でも〈浄土〉に往けると、〈天国〉に往けると、そういうことは確実だけど、しかし、これは例えてみれば、解毒剤が、つまり解毒の薬があるからといって、わざと毒を進めることはないじゃないか、つまり、そういう理由は少しもないじゃないか、あるいは、そういう根拠はないじゃないか、つまり、解毒剤があるからといって、薬があるからといって、なにも毒を他人に進めるってことはないじゃないかっていう言い方をしています。
 そういう言い方っていうのは、悪をしてもいいっていう考え方の人たちを説得できたかどうかって考えますと、それはすこぶる怪しいことであって、たぶん、あんまり説得できなかったんじゃないかと思います。
説得できない根本的な理由は、善人であろうと、悪人であろうと、修行なんか何にもいらないんだ、それから、いいことすることもいらないんだと、必ず〈天国〉へ往けるんだっていうふうに、〈浄土〉へ往けるんだっていうふうなことが前提としてある限り、やはり説得力がたいへん薄かったんじゃないかっていうふうに考えられます。
 しかし、最後にそういうふうな答え方を書簡でしながら、親鸞は善悪についてのひとつの確定的な考え方に到達します。それから、〈煩悩具足の凡夫〉っていうことにも確定的な考え方に到達します。
 それは、どういうことかっていいますと、人間っていうのは、黙っていても、黙って何もしないで、善も悪もしないでいても、(煩悩具足の凡夫)、つまり、平凡な人間になれるなんていうふうに考えているのはそうじゃないんだっていう言い方を最後に完成します。
 つまり、〈煩悩具足の凡夫〉になるっていうことは、非常にむずかしいってことじゃないけど、そのことに対して、いわば逆向きにならなければ、〈煩悩具足の凡夫〉にはなれないんだ、つまり、凡人になるっていうことは、たいへんむずかしいことなんだっていう言い方をしています。
 このことは、いわばみなさんの、つまり、我々の間にある考え方に直してみれば、非常にわかりやすいわけです。つまり、みなさんのなかに、自分が進んで〈悟り〉をひらこうって考えている方は、あんまりおられないんじゃないかって思います。それとともに、進んで悪をやってやろうっていうふうに思っている方もおられないだろうと思います。
 それから、周りの人なら周りの人がいいことをしているのを見て、馬鹿なことをしてやがるって思うことも珍しいんじゃないかと思います。あるいは、口にはしても、ほんとうの心の底からそういうふうに思える人は珍しいんじゃないかと思います。
 そうしますと、ぼくら、凡人ですけど、凡人っていうことのなかに、どういうことが含まれているかっていうと、あんまり大した善もできないけど、大した悪もできない、それから、きっぱりと善をぜんぶ拒否することもできない、それから、きっぱりと悪を拒否することもできない、いわば、その中間のところに、いわば〈煩悩具足の凡夫〉っていうものは位置しているわけです。
 親鸞は最後にそういう答え方をしながら、ついに善悪についての答え方をしながら、ほんとうに〈煩悩具足の凡夫〉になるためには、煩悩具足であること、凡人であるっていうことに対して、ぼくらの言葉でいえば対象的になることなんですけど、対象的にならなければ、つまり、〈煩悩具足の凡夫〉であること自体を手のひらにのせるように、自分がそれを眺められる、見られるようにならなければ、ほんとうの凡人にはなれないんだっていう言い方をしています。
 それから、ほんとうの悪とか、ほんとうの善というものに到達するためには、善とか悪とかいうものに対して対象的になりえなければ、つまり、善と悪っていう問題を、いわば手のひらの上にちゃんとおさめて、眺めることができるっていうふうにならなければ、そこに到達できないっていう言い方をしています。だから、最後に善悪についても、それから、凡人っていう考え方、煩悩っていう考え方についても、そういう考え方に到達していくわけです。

9 最後の親鸞-〈往きの姿〉と〈還りの姿〉

 その到達点っていうものは、やはり教理的にいいますと、浄土宗、あるいは浄土真宗っていうものの教理的な神髄である(還相)論っていうような、〈還りの姿〉の論っていうものにぜんぶ還元されていくように思います。
 つまり、〈還りの姿〉の本質っていうものは、どういうことかっていうと、人間がたとえば、ぼくらが知識なら知識っていうものを追及していくっていうような、そういう過程があると、知識に対して上昇的であったら、それは、〈往相〉なんだと、つまり、〈往きの姿〉じゃないかってこと、もし、知識っていうものが、ほんとうの知識として獲得できることを考えるとすれば、知識を獲得することが同時に反知識、非知識、あるいは、不知識っていうものを、それを包括していくこと、そのこと自体が知識を獲得していくことなんだ、それが知識というものを〈還相〉というふうに、〈還りの姿〉というもので捉えると、そういうかたちになります。
 だから、知識というものを〈往きの姿〉で捉えれば、学問のない人が学問の修行をしてってことが、いわば知識を獲得していく、往きの過程になるわけです。往きの過程にある限り、人間のほんとうの知識が獲得されるわけではないわけです。
 ほんとうの知識っていうのは、知識に対して〈還りの姿〉っていうものになっていったときにはじめて、知識が獲得されているわけです。それは知識を獲得すればするほど、知識でないものを包括していくってこと、包括できなければならないってこと、つまり、包括できること自体が知識を獲得することなんだっていう、そういう観点に立ちえなければ、知識を獲得していることにならないっていうようなことが言いうると思います。
 いわば、浄土っていうものの信仰っていうものは、拒否しようと拒否しまいと、そのことは我々の、いわば思考の中に、思惟の、思考の仕方の中に普遍的にある問題なのです。普遍的な問題をやはり親鸞は提出しているってことがいえると思います。
 親鸞のもうひとつ、最終的に親鸞自身の教理を最終的に決定していったことがあるわけですけど、それは〈自然〉っていう概念です。(自然)っていう概念に、最後に親鸞は到達するわけです。
 どういうことかっていうと、それは、初めに申し上げました、阿弥陀仏を真心から、つまり誠心誠意、信仰するんだっていうことです。そうすると、その願力によって浄土にいけるんだ。その間にどんな計らいが人間の側にあってはいけないんだと、つまり、人間の側にはどんな計らいがあってはいけない。つまり、善をしようとか、あるいは悪をしようとか、あるいは修行を積み重ねて、すこしはマシな人間になろうとか、そういう計らいを一切ないようにすること、それがいわば、人間の側からの〈自然〉っていう概念なんだという言い方をしています。
 それから、この人間の側からの〈自然〉っていう概念に対して、いわば〈如来〉とか、〈阿弥陀仏〉とか、(浄土)に象徴的な〈悟り〉っていうものの側からみる〈自然〉っていう概念がある。つまり、〈悟り〉の側からみる〈自然〉っていう概念は、やはり、人間が何も計らないっていうことを、いわば見通して、その人間を救済してやるとか、救済しようというような、つまり、倫理観とか、倫理性とか、いわゆる宗教性とか、そういうようなものを全然わからせないように、あるいは、わからないように、いわば人間っていうものを〈浄土〉のほうに召し上げてしまうってこと、召し上げられるってこと、それがいわば、〈如来〉っていうものの側から見た、あるいは、〈浄土〉の側から見た、あるいは、〈悟り〉の側から見た、〈自然〉っていう概念であるっていうことなのです。
 そうすると、〈悟り〉の側からする〈自然〉、あるいは、〈仏土〉の側からいう〈自然〉っていう概念、それから、業者の側からする、つまり、人間の側からする〈自然〉っていう考え方とか、いわば、非常によく適合させて、融合して、はじめて、人間っていうのは〈浄土〉にいけるんだ、それ以外の往き方っていうのはありえないんだ。それ以外の往き方っていうのは全部ありえないんだ。全部それは嘘だ。つまり、仮のものであって、ほんとうのものっていうのは、人間の側からの〈自然〉っていう概念、つまり、なにかをして、なにかをしようみたいな考え方じゃないっていうこと、それから、(仏)っていうもの、あるいは〈如来〉というもの、あるいは〈浄土〉っていうものの側からしても、その人間を救済して〈悟り〉をひらかせてやろうとか、いいことをさせてやろうとか、いわば、倫理として具現したり、道徳として具現したりというようなものとして具現するのではなくて、いわば、ご本人さえわからないように、〈浄土〉へもたらしてしまうってこと、そういう〈仏〉あるいは〈浄土〉の側からの自然っていう概念が、それではじめて人間はいわば称名念仏を〈信〉ずることによって、往生することが、〈浄土〉へ往くことができるんだっていう概念を最後に親鸞は完成させていくわけです。
 だから、いわば〈阿弥陀仏〉とか、そういうふうにいうけれど、〈阿弥陀仏〉っていうのは、色も形もあるものじゃないんだってこと、つまり、仏教の本質論でもあるんですけど、色も形もあるわけでもなんでもなくて、これは〈涅槃〉であり、〈解脱〉であり、〈寂滅〉であり、(無)であり、そういうものなのです。(阿弥陀仏)はそういうところに人間をもたらすためのいわば糧なんだっていう言い方をしています。
 これは、ここで最後に完成した姿っていうのは、「浄土宗門」の親鸞によって完成された姿っていうものは、親鸞の思想でいうと〈自然〉思想あるいは〈自然法爾〉っていう言い方を専門家はいいますけど、そういう思想として完成されています。親鸞の教理っていうものが孕んでいる問題は、そこの最後のところに、いわば集約されて描かれるわけです。その〈自然〉っていう考え方がいかに仏教的であり、しかし、よくよく考えると、いかに日本的であるかもしれないというような、そういうところの融合点に、親鸞によって体現された浄土宗の神髄の部分があるっていうことができます。
 親鸞が依拠している浄土宗っていうのは、世親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』っていうようなのが、主要にしていくわけですけど、つまり、これはインドと中国の「浄土宗門」によって、ほぼ完成された姿をとっているわけですけど、これを経典の集大成にし、教義として集大成し、整理させて、そして、たぶんそれを非常に日本的な姿だろうと思いますけど、そういう姿に「浄土宗門」をしたっていうのが、親鸞の思想的な教理っていうものの完成された姿じゃないかというふうに思われます。いちおうこれで終わります。(会場拍手)

10 司会(門脇住吉)

 どうもありがとうございました。最後の思想は非常に仏教的でありながら、同時に理論的なところに到達したという、我々としては、この連続講演会の中心問題に据えたい。この後の討論会で、この問題をもう少し深めていきたいと思います。

11 討論1

(司会)
 まず最初に、みなさんのご質問の2,3まとまったものがございますので、分けさせていただきまして、親鸞について、いろんな観点から取り上げられております。たとえば、非常に大きな問題から入らせていただきますと、親鸞が最後にたどり着いた思想は、日本的なものであったという話のように聞きましたが、はたしてそれは親鸞が生きていたときにすでに日本的であるというのか、あるいは、現在の私たちにとって日本的であるのか、あるいは、親鸞によって日本的なものつくられたのか、そのあたりをぜひ聞かせてください。その関連の質問としましては、日本的っていうのは何なのかっていうような質問もございましたので、お答えいただければと思います。

(吉本さん)
 親鸞の〈自然法爾〉あるいは(自然)っていう思想が、たいへん日本人的な要素をもっている考え方になっているんじゃないか、あるいは、日本的な考え方を混合しているっていいますか、融和しているんじゃないかっていうような申し上げ方をしたんですけど。それはたぶん、親鸞の解釈、理解の仕方のなかに含まれているので、〈自然〉っていう概念は仏教の本質論だと思うんです。
 仏教もやっぱり、アジア的な思想ですから、アジア的な宗教ですから、アジア的な宗教っていうのは、さまざまなバリュエーションがありますけど、いちばん、根本のところでつかまえるのがいいのは、〈自然〉に依拠するってことがあります。つまり、人間を〈自然〉と融和させたらどうなるのか、あるいは融合させたらどうなるのかというような、つまり、人間の内面っていう概念、あるいは、人間の内面が無限だから神っていう概念が出てくるっていうようなキリスト教的な概念と比べると、人間が〈自然〉っていうものに対して、どういうふうなものとして存在しているか、あるいは、〈自然〉のひとつとして存在しているとすれば、人間以外の〈自然〉とどういうふうに融合できたときにいいのか、あるいは、人間が死ぬっていうことは、生きるってこともそうですけど、死ぬっていうことはどういう〈自然〉になってしまうことなのか、それは無機的〈自然〉なってしまうことなんだ、無機的〈自然〉になってしまうことを単に死って呼ばないで、それを〈解脱〉とか、〈如来〉とか、(悟り)とか、〈浄土〉とかいう言い方をしたらどうなるのかっていうような、そういう問題として、アジア的な宗教っていうのは考えられると、親鸞の〈自然〉っていうのもあります。ぜんぶ大部分は、仏教の本質自体を指しているので、それを親鸞的な考え方、解釈の仕方といいますか、受け取り方をしているよっていうふうに、日本的と言うふうに申し上げます。
 それに関連していただいた、日本的っていうのは、どういうことなのかっていうことは、たとえば、日本の言葉で考え、そして、日本の言葉でさまざまに想像して、やっぱり最初の問題であり、最後の問題なわけですけど、日本的っていうのはどういう特徴をもっているかっていいますと、ストレートに日本的っていう概念が成り立たないっていうことだと思います。
 ですから、それは、たとえば、仏教の概念をくぐり抜けて、そして、儒教の概念をくぐり抜け、そして、近代でいえばキリストの概念をくぐり抜けて、そしてはじめて、日本とは何かっていうふうに問わなければわからない、そのことを日本的っていうふうに、ぼく自身は理解しています。だから、ストレートに日本的っていうことを説こうとも思いませんし、説けるとも思っていないっていうのが、ぼくの考え方です。

(米山さん)
 私の答えなきゃならない問題ではないんですけど、私の感想からいいます。親鸞の宗教が日本的であるっていうんですか、日本仏教であるといわれることは、親鸞の学者もいっていることなんですが、ひとつは、日本ということが問題となる帰来の宗教であるか、少なくとも、日本ということを問題にせざるをえない時代に仏教はあったという前提があると、そして、そのことを親鸞はどこで表現しているかといいますと、聖徳太子と関係が、少なくとも教義上の論脈のある聖徳太子がでてきます。
 これはやはり、親鸞の問題意識、そして、日本ということが問題になっているひとつのシンボルになっているのは確かなんです。聖徳太子に関しましては、日蓮が問題にしています。
 そういう意味で、親鸞という人は、日本的なところから始まって天へ至るという、そういう思惟の構造をもったんじゃないかと、結論的には、より具現的な教義になったんですけど、出発点において非常に日本的であった、日本的問題を問題とした、それは日蓮の場合も日本的だといわれるんですけど、この日蓮の思想は普遍からこげて、そういう概念をしまして、日本的な問題は普遍から否定される日本であるという構造、その行き違いの関係があるように思います。
 それから、親鸞の同業者から日蓮と親鸞を、日本的な仏教であると、こういう動きにいうことは、たとえば、対称として禅門ですね、あるいは、中国的仏教ではないか、ようするに仏教が中国化した形が禅ではないかと、もし、日本化したというならば、親鸞と日蓮ではないかという見方があるわけです。
 それはどこでおさえるかといいますと、一方が称名念仏、一方が唱題という題目、唱題に対し念仏ということで飛来してきた仏教というものの、そこに理由ははっきりしませんけど、そこに日本的であることの意味を学者が見出していることを紹介しておきます。

(高柳さん)
 いまの話の中のひとつのテーマで、親鸞の思想が日本的な問題を出発点にして、そこから、普遍的な求め方というようなお話でしたけど、その点はやはりキリスト教との関係もちょっと問題になると思います。我々の日本でのキリスト教の将来にとって、参考になる点といいましょうか、そうならざるをえないだろうと思います。
 というふうに言いますのは、キリスト教のほうでも色々な発展形態をしてきたわけで、大雑把にいうならば、東方系のキリスト教と、つまり正教を中心とするキリスト教、それから西方的なキリスト教がある、つまり、西ヨーロッパを中心にして世界中に広がっているキリスト教があると、そのふたつに分けてみますと、このふたつはだいぶ違うタイプなわけです。
 東方的なキリスト教というのは、どちらかというと、親鸞の考え方が非常にこう強調されていますけど、吉本先生の説明なんかだと、非常にアジア的で、東洋的で、宇宙論的といいましょうか、そういうような側面があるので、これが非常に東方的なキリスト教の考えに似ている点という感じがしました。
 それで西方型にいきますと、非常に大雑把に、人間論が中心になってきたっていう、人間の存在というのに一目を置いて、それにぜんぶ問題を集中させるかたちで、そこですべて恩恵と人間の問題とか、さきほどの〈自然〉とは違うので、どっちかっていうと人間を中心とする人間の本性と、それから、人間の問題の関係、そういう問題がずーっと続いていって、あとで16世紀になって、非常に人間論の中心に、はじめの出発点は人間による罪、罪人であって、恩恵なしには何もできないという考え方に一生懸命になって、そういう否定的な意味でも、人間を中心に置いて、人間が救われつつあるかないかを問題にする宗教に変形をしてきております。そういうわけで、西方型は人間の存在、人間の生命、人間の霊魂の救済を中心に置いて、そこからだいぶ、宇宙論的な視点がなくなる傾向があるんじゃないかと思われます。そういうようなものは全部、世俗化されたものになってきているところがあります。
 そういうような例からみても、やはり我々、キリスト教が一概に、人間だけの心を、尊厳を主張していくケースとか、そういうような観点だけないので、やはり、今日おかれている日本人の問題を出発点にして、ものを考えていったら、いろんなキリスト教の、50年、100年経てば、日本的なキリスト教になると思うというようなことを考えています。

12 討論2

(司会)
 この問題を踏まえまして、2つの問題を提起したいと思います。親鸞に関わる質問なんですが、同時に日蓮にもかかわりのあるものだと思います。それは〈自然〉というものをそういうふうに捉えたうえで、親鸞的概念の〈自然〉であるのかどうか、(音声聞き取れず)
 それと関連しまして、近代の問題として、〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 仏教っていうのはとくにそうだと思うんですけど、最後のところは〈自然〉とどういうふうに融和するのか、つまり、仲良くなるのか、あるいは、どうやって〈自然〉に乗り移っちゃうのか、乗り移っちゃったときの意識の状態っていうものは、想定される死の意識と非常に似たものなのかどうかってことは、非常に根本的な問題なんだろうと思います。
 しかし、こういう言い方をしてしまったら身も蓋もないわけで、つまり、近世以降の考え方で仏教の教義とか、大きさっていうものを割り付けてしまうことになってしまいますから、そういうふうな理解の仕方をするとわかりやすいから、そういうふうに言ってみるわけで、仏教自体はもっと偉大な思想です。つまり、たいへん人類がもった偉大な思想です。それ自体が完成された思想です。つまり、古代において完成されてしまった、あるいは、アジア的段階において完成されてしまった思想です。だから、ぼくらみたいなものが、近代以降の人間がなんだかんだ言っても、それが説けられるような思想じゃないわけです。
 だけれども、もし類推しやすいように言うならば、いかにして〈自然〉と仲良くするか、融和するか、そして、完全に〈自然〉と融和した状態というのは、生きながら死の状態に、意識状態にいけるかどうかっていうような問題として考えると、非常に考えやすいといっているだけで、ケチな思想じゃないわけです。そこは誤解することができないと思います。
 それから、仏教の根本的な考え方で、存在論、つまり、ある生成の過程っていうのが先にあって、どこから始まるかは別として、生成の過程が先にあって、存在が後からくるものだっていう考え方が根本にありますから、だから、万事そこのところで、近代的な思想っていうものの全部がひっくり返ってしまうってことなんです。
 近代的な思想っていうのは、大なり小なり、個別的な人間性っていうものを認め、人間の内面性を認めます。かつ人間の内面性と、思惟の無限性、思考の無限性っていうものを認めなければ、思想っていうのは成り立たないけで、しかし、一切そんなことはありません、古代の仏教の思想っていうのは、先にプロセスがあるんだ、つまり、生成過程があるのであって、存在っていうのは過程のなかでできていく、そういう考え方ですから、出てきた人間がどう考えるかなんて、受け入れの問題にしか過ぎないわけです。そこは誤解しないように、ただ、これを理解するってことは不可能に近いから、少なくとも、ぼくらみたいな素人には不可能に近いから、ぼくらの理解できている思想の言葉に置いて直していくと、こういうふうに直すと理解しやすいということで、理解してくれないと困っちゃう(会場笑)。
 仏教ということについていうならば、個の問題なんか、まったく末の問題だ、個より存在自体が現世的な存在、つまり、みなさんがここにいるっていうこと自体が普遍性の問題なわけです。人間っていうのはそうじゃないと言っているわけで、それは、そんなものは仮の姿に過ぎない、人間というのは死にもしないし、生きもしないということだと思います。
 だから、プロセスが先にあって存在がある。存在の過程において、人間っていうのは出てきた。そういう考え方ですから、人間の中から個がどうでてきたか、個性がどうでてきたかは普遍性の問題だってことが、仏教にとっては根本的な問題なわけです。ただ、仏教をどう現在受け入れるか、あるいは、現代どう理解するかって問題ならば、非常に大きな問題がそこにあると思います。
 その場合、親鸞は人間を非常にくだらない存在だと、つまり、なにかしたらいいこともできるし、それから、修行したら立派な人間になれるなんてことを、ぜんぜん前提としていないってことなんです。
 ですから、悟れない人間だっていうような、つまり、仏教という概念を、いちばん最低のところで壊したところから出発している仏教ですから、親鸞における他力っていうこと、〈信〉ずることだっていう意味あいは、前提として、信仰っていうのは成り立たんよ、つまり、人間なんか信仰したって偉くもなれないよとか、立派になれないよってことは前提としてありますから、つまり、人間はくだらない存在だってことは前提としてあるってこと、だから、そこから、〈信〉っていう問題も出てきていますし、それから、称名っていう問題も、浄土っていう問題も出てきているっていうふうに、ぼく自身は理解しています。

(米山さん)
 吉本先生が、仏教というものを、親鸞というよりも、むしろ仏教の根本的な原理というお話くださったわけで、まったくそのとおりだと思うんですが、日蓮っていうのは、親鸞の問題意識と日蓮の問題意識っていうのは、同じ時代に生きた人間ですけど、問題意識が違うわけです。
 基本的に、いま吉本先生が言われました、人間の本質存在論っていうものを非常に厳しくすると同時に、普遍性である個の問題を問題にしたのは日蓮だと思うんです。
 当時的な意味でいえば、親鸞があくまでも、人間の存在、凡夫としての存在という言葉を、凡夫という表現を使いながら追及していった言葉を、今日風にしてくると、人間の現存在、あるいは、実存っていう問題を追及していったように思うのですが、日蓮はそのことを無視したわけではありませんけど。むしろ、仏教からみれば、本質存在、あるいは、通俗的なような、個の存在を非常に重視した人なんです。
 私は親鸞が実存的であるならば、日蓮は個体の発見者だっていうふうに言っているんですが、これは、親鸞の教説の説き方からしても、日蓮とは違うわけで、親鸞の手紙はいくら読みましても、受け取った側の生活はわからないわけです。受け取った側の生活はわからないのですが、しかも回覧できる手紙ですね。実存論を語りながら、実は実存という普遍をネタにしている、日蓮の場合は、手紙を受け取った人間の生活とその問題等々が全部わかってくるんですね。ですから、それは解明のための教説であって、普遍化できない教説となっているわけです。
 それは、いろいろと考えてみますと、仏教の歴史の中で、そういう個人というものを発見した人が、それまで誰もいなかったんです。これは仏教の歴史の中で大切なことである、これは、人間の個を発見すると同時に、それだけではない、人間が形成する個別的な社会空間の問題ですね、世界という大きな存在と同時に、その世界がもっている個別的問題というものを対象化、客観化した。これは、歴然としていることなんですが、そこに先ほどキリスト教のほうの問題として、文化論の問題がでてくるわけですけど、少なくとも親鸞には文化論がないです。
 日蓮の場合は、あきらかに文化論を論ずるという、いわば、仏教の原理であれば、○○主義の問題、また、逆にいえば、近代の問題等々というものが、そこから始まるという、そういう思想構造の違いがあるように思います。

(高柳さん)
 親鸞についての所感で、やはり、いろんな宗教との対話との観点から捉えていきますので、ここでもそういうような問題がでてくると思います。つまり、非常に深淵なので深くて広いものですけど、非常にキリスト教的な観点からすると、対話と対象で、焦点の絞りようがないというような、率直にいえば、そういうような点になっていくわけなんです。
 たとえば、これは宗教と近代の問題になりますと、やはりこれは、親鸞的なものから、非常に無限な世界のようなものに飲み込まれてしまって、ちゃんとした回答じゃないというとおかしいんですけど、我々のほうに思ったような回答が返ってこないんじゃないかというようなことでもあります。近代の宗教という観点からみると、いまの日蓮についてのお話なんかでも、そういう意味で、かみ合うような印象を受けているわけですけど。とにかく、近代ということ自体について、我々のいま置かれている歴史的な意識というのは、非常に二面的な位置にあるといえます。
 かたや一方では、近代、約300年ですか、かかって確立してきたものに対して、見守るという意識、半面では、その価値をなんとかして守ろうという意識、というのはやはり、近代が、産業革命が興って、そのなかで成り立った市民社会のなかで、盛んにでてきた価値体系があります。個人の人権とか、あるいは、合理性とか、内面の不可侵性とか、そういうようなもの、近代化のプロセス全体が行き詰まってきて、近代の終焉に近づいていると言われて、近代というもののあり方がだいぶ疑問視されるようになってきていても、そこで作りだされた価値というのは、我々はなんとかして守ろうとしているという点です。
 これも親鸞的な立場からいうと、やはりそういう自然性の問題になるかもしれません。しかし、その点で我々も、こういった価値をどういうふうに生かしていったらいいのか、あるいは、捨てるべきなのか、生かすべきだったら、どういうような範囲のなかで生かしていったらいいのか、宗教との関係はどういうものになるのか、そういう観点で、まだ我々も為すべきことが非常に多いんじゃないかと思います。

13 討論3

(司会)
 私から質問をひとつさせていただきたいと思います。吉本先生に質問ですが、いま2つの問題がありましたが、つまり、非常に大きな個の問題と、それから、時間とか、歴史、社会の問題との関連、後者の問題はいずれ取り上げたいと思います。その前の問題につきまして、宗教的な観点から、それは先生がおっしゃいました、○○よりも○○が先だという考え方はキリスト教の根本に私はあると思います。たとえば、神概念というのは、キリスト教のなかでも、近代のヨーロッパの思想の中では○○と理解される。それは、○○ということですから、それが存在概念として認められたっていうのは、現在まで続いているわけです。それははっきりいったのはハイデガーです。ハイデガーはいわゆる○○的な思想のなかであって、いずれにしても、聖書をよく読んだ場合、もっとダイナミックな考えに、歴史の普遍性というものは○○になっていく、たとえば、あるということは、最も普遍的なあり方なんです。根本的な解釈からしまして、歴史の中に○○する神、(音声聞き取れず)、いずれにしても、○○が先だっていうのは、現代のキリスト理解の根本の思想になると思います。そうしますと、時間とか世界という、その前に〈音声聞き取れず〉その場合に親鸞とどう違うのか、私たちは非常に興味深いわけです。あるいは、仏教とどう違うのか、それを大乗経的な枠でみれば、〈音声聞き取れず〉私たち現代的な考え方からどうなのか、お答えいただければと思います。

(吉本さん)
 旧約書っていうのは、オリエントの思想ですから、アジア的思想と同じ表現をしていると思います。ぼくが理解している新約、いちばん衝撃を受けた思想っていうのは何かっていいますと、ようするに、精神において、あるいは観念において、精神において偉大であろうとするか、現実では偉大であってはダメだ、現実的にしもべでなくちゃいけないっていう、あるいは、現実で虐げられたときに、観念の中に入って無限に承認する世界があるんだっていう、つまり、逆にそういう考え方があるでしょ、それは非常に衝撃的な考え方です。
 そうすると、その考え方は、親鸞の中に非常によくあるわけなんです。たとえば、『歎異抄』の中にありますけど、『歎異抄』の著者っていうのは唯円っていう弟子ですけど、唯円が教義はまったくわからないわけです。現実の人間として、つまり、私は念仏を称えたって、ちっとも嬉しいことにならないっていうわけです。それから、急いで浄土へいきたいなんて気持ちが起こらない、こういうふうに親鸞に聞くわけです。どうしてだろうかって聞くわけです。
 そうすると、親鸞はそれに対してどう答えるかっていうと、私もそうだって答えるわけです。そうだからこそ、我々に煩悩っていうのがある証拠じゃないかと、そうすると、現世っていうのは苦悩に満ちているけど、いいことがそんなにないけど、しかし、これが故郷だとすると、苦悩の故郷はなかなか捨てがたいものだ。非常に楽で、そして、すがすがしい浄土っていうのは、楽ですがすがしくても、まだ見ないってことのために、なかなか往きたいと思わないんだ。そのことは、やっぱり煩悩がある証拠じゃないか、だから、まずます我々は救済っていうものを信じているんだっていうような答え方をしているわけです。
 その場合に、一般的にいえば、人間は善もできるし、それからしようとすれば悪人になることもできるっていうような、そういう考え方が宗教にあるとすれば、それは宗教に対する一種のアンチテーゼ、否定になっているわけです。つまり、親鸞はそんなことはちっとも言わない、そんなことは嘘だっていうことを知っているわけです。嘘じゃないんですけど、そういうふうになれない時代的な情況にあるっていうこと、日本でいえば中世の始めですけど、つまり、時代的な情況にあって、いくら人間が修行しようとしたって、そんなに悟りがひらけるなんていうのは嘘だ、悟りをひらいていると称しているお坊さんがいるけど、そんなのはぜんぶ嘘だ、あれは嘘だっていうふうに親鸞は考えたわけです。
 だから、念仏称えたって、ちっとも嬉しくないし、浄土へなんか往こうとも思わないと、どうしてだって聞かれると、馬鹿野郎って、ようするに、お前はダメだなんて言わないです。私だって同じだっていうわけです。つまり、頼るものは凡夫である自分しかないっていうところから、信仰の問題っていうのを親鸞は始めてるわけです。
 それはいちおう、今日お話しました、教義、教理ってこと、浄土教の教えの根本っていうこととはまるで違うことです。どういうふうにして、個々の人間が受け入れるかっていう問題、受け入れる場合に、どういう自己欺瞞が起こり、どういう矛盾が起こるかっていう、問題に対しても親鸞が回答するところから始めているわけです。
 そのことはやっぱり似ているんじゃないでしょうか、ぼくが読んだかぎりでは、新約書と非常によく似ていると思います。新約書と似ているところは、もうひとつあります。キリストが死ぬ間際になって、私と一緒にくっついている弟子がいるけど、この中に一人、私を裏切るやつがいるんだ、そんなやつは生まれてこないほうがよかったっていうようなことを言うところがあります。弟子たちがそれは俺じゃないっていうわけです。おれはどんなことがあってもあなたについていくって、こう言うんだけど、キリストが捕まってしまうと、おまえ一緒にいたやつだろうと言われると、いやそうじゃない、いなかったと、こういうふうに答えるところがあるわけです。
 つまり、そういうところの個の内面性っていうもの、矛盾っていいますか、そのところに感銘するでしょう。それは親鸞の『歎異抄』の中にもあるんです、同じことが。たとえば、唯円に、おまえ、おれのいうことを信じるか、おれのいうことならなんでも聞くかっていうふうに、唯円に問うところがあるんです、親鸞が…。



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