1 司会

2 浪漫主義的な詩人、作家

 いま、塚原さんからお話しいただきましたように、去年、やはり秋に、「芥川・堀・立原」っていうことでお話しましたけど、その話の延長戦といってもよろしいわけですけど、それらの、昨年お話した作家・詩人たちの背景、背後にあって、大きな影響を直接、あるいは間接的に与えてきた詩人のひとりがホーフマンスタールです。
 今日は、「ホーフマンスタールについて」ってことで、なおしつこく、浪漫的であるってことがどういうことなのか、それが日本の作家・詩人たちに与えた影響の受け取り方っていうのは、どういう意味があり、それから、それはどういうふうに考えたらいいものだろうかってことを、ホーフマンスタールを踏み台にして、そういうことがお話できたらというふうに思います。なかなか内面的な作家・詩人なものですから、おしゃべりでうまくできるかどうか、非常にむずかしいような気がするんですけど、ともあれ、なんとかやってみたいと思います。
 ホーフマンスタールっていいましても、みなさんはご存じないかもしれないので、つまり、ご存じない方と、ぼくらみたいに素人ではなく専門家であられる方もおられることがわかりまして、ちょっとなんとも言えないのですけど、どこから入っていこうかっていうふうに考えまして、まず、日本っていうものと何か関係があるかってことを、そこから入っていけば、なんとなく紹介ってことにもなるんじゃないかって思いますので、そこから入っていきたいと思います。
 ホーフマンスタールは日本のことについて、しばしば言及しているわけです。正面切って言及している人ですけど、いろんなところでヒョイヒョイっていうふうに、日本のことが顔を出してきます。
 たとえば、「海の波・恋の波」っていう、グリルパルツァーっていう、みなさんが知っている作品だったら「ウィーンの辻音楽師」っていう小説を書いた、やはり劇作家であり、作家である、ウィーンの、ホーフマンスタールと同じオーストリアの作家・詩人なんですけど、その人の「海の波・恋の波」っていう作品の書評のなかで、ちょっと日本のことについて触れています。
 どういう触れ方をしているかっていいますと、東のほうの海の広い背中の上に揺られている太古の島っていう言い方をしています。そこが問題というか、重要なことなんですけど、そこの島の若者たちに、この本を読んでもらいたいものだっていうふうに書評のなかで言っています。その言い方はまた独特なんですけど、その若者たちが、剣とか、扇とかを着物に手挟んでいるのと同じところに、この本を手挟んでもらいたいものだっていうような言い方をしています。だから、ホーフマンスタールのなかでの日本のイメージっていうのは、そういうものだというふうに理解できると思います。

3 ラフカディオ・ハーンとホーフマンスタールの日本

 もうひとつ、わりあいによく、日本について研究しているものがあります。ラフカディオ・ハーンが死んだときに、それを追悼する文章をホーフマンスタールが書いています。そのときに、ラフカディオ・ハーンが死んだ、つまり、この人は、日本の洋式みたいな文学者だった。それは、日本の文化を理解するとか、日本の文化について研究したっていう人じゃなくて、日本の内面生活について、よく理解し、内部から描くことができた。ハーンはそういう文学者だったという書評をやっています。
 もうひとつ、重要っていいますか、非常に特殊な触れ方をしているのは、「アンドレーアス」っていう、これは生涯こだわったホーフマンスタールの作品がありますけど、その作品のいくつか遺稿っていうのがあるわけですけど、いくつかの遺稿のなかで、マルタ教会の修道士の話がでてくるわけですけど、その修道士が回想にふけるところで、日本の巡礼と一緒に旅をしたことを思い出しているっていうようなところがでてきます。
 どういうところで出てくるかっていうと、日本の巡礼っていうのが、朝、日の出を拝む習慣があって、日の出を拝むところで、日本の巡礼と一緒に旅をした、そういう思い出がよみがえってくるっていうような、そういう言い方をしています。
 ぼくは素人ですからよくわからないですけど、つまり、ホーフマンスタールが日本についてのイメージをどこから取ってきたかって考えますと、そのいちばん大きな入り口は、それはたぶん、ラフカディオ・ハーンだったんじゃないかなって気がします。ラフカディオ・ハーンの日本についての内面的な物語、それから、習慣、風俗、宗教なんかについての掘り起こし方っていうものが、ホーフマンスタールに日本のイメージをつくるのに大きな力があったんじゃないかなって思います。
 ちょうどハーンが死んだのが、日露戦争の只中のことで、ホーフマンスタールは、日本の若者たちは山で屍を晒し、海でまた屍を晒している。そして、日本の国では、何千、何万っていう家庭でもって、死んだ戦士たち、若者たちの供養を、静かに、そして、べつに号泣するでもなく、泣くでもなく、静かに葬儀をあげて、静かに高貴に敬虔に、そういうふうに供養していくだろうってことを言っています。ハーンの日本のイメージっていうのは、ホーフマンスタールに日本のイメージを与えるのに大きな力があったんじゃないかなって思われます。
 ラフカディオ・ハーンっていうのは、どういう日本っていうのを描いたかってことなんですけど、それはたぶん、ホーフマンスタールが日本についてのイメージを獲得したのは『心』っていうハーンの著書じゃないかって思います。『心』っていう著書は、いま岩波文庫かなにかに入っていますから読むことができますけど、どういう日本を描いているんだ、つまり、理想のものとしてっていいましょうか、理想のイメージとして描いているかってこと、そのなかで一番最初に「停車場にて」って文書があるわけですけど、それは、ある強盗犯人が逃走の途中で、日本の警官を刺して逃亡したと、刺し殺して逃亡してしまった。その強盗犯人は福岡で捕まって、それで、それを熊本に護送していくっていうような、そういうところからはじまるわけです。
 そのときに、護送する警官が強盗犯人を連れて、熊本の停車場に降りてきた。熊本の停車場では、たくさんの野次馬っていいますか、見物人が押しかけて、強盗殺人犯人が降りてくるのを待ち構えて、停車場から降りてきたときに、その強盗犯人に刺し殺された警官の奥さんが、赤ん坊を、4歳ぐらいの子どもを背負って、そして停車場に来ていた。それを護送してきた警官が、強盗犯人を、その赤ん坊をおぶったお母さんの前に連れていって言ったんだと、背負っている赤ん坊に警官が言ったっていう、それでそれは、「坊や、この男がおまえのお父さんを殺したんだ。だから、よくこの男を見てみなさい」っていうふうに、背中の赤ん坊に言っちゃうっていう、赤ん坊が泣きそうになっているんだけど、よく見なくちゃいけないんだっていうふうに言ったっていう、そしたら今度は、強盗犯人がその赤ん坊を見ているうちに座り込んじゃって、そして、土下座して言ったっていうんです、「坊や、俺はお前の親父さんに、べつに恨みがあったわけじゃないし、憎んでいたわけでもないんだけど、自分はどうしても逃げたかったので刺したんだ。つい刺し殺しちゃったんだ。だから勘弁してくれ」っていうふうに、停車場で土下座して、子どもにそういうふうに言ったっていうんです。そこで連れてきた警官が強盗犯を立たせて、そして、自分の前を通っていった。自分の前っていうのは、ハーンも見物人、野次馬のなかに、それを見ていたってことだと思いますけど、自分の前を通っていったっていうんです。そのときに、連れていた警官の眼にも涙があって、それで、これがようするに日本だっていうふうに、ハーンが言っているわけです。
 だから、ハーンの言っている理想の日本のイメージっていうのは、そういうイメージなわけで、これは、そのことは実際にあったわけでしょうから、明治時代の日本のイメージを非常によく美しく捉えたものだろうっていうふうに思います。だから、ホーフマンスタールが日本についてのイメージを拵えたのも、たぶん、それと同じところに由来しているわけです。

4 日本のイメージをめぐって

 この日本のイメージっていうのは、なにを意味するかってことが問題なわけですけど、つまり、なにを意味するかっていいますと、それはたぶん、非常に厳密な言葉を使いますと、これは、アジア的な感性なんです。アジア的な制度の中での人々のあり方っていうものであるわけです。だから、べつに日本だけでもないんですけど、アジアっていうのはそういうものだっていうふうに考えられたほうがいいと思うんですけど、いろんなバリュエーションがあっても、そういうものだって考えられたらいいと思うんですけど。
 アジアでは人々っていうのは、あまり政治とか、文化とか、そういうようなものに対して、多くの人々はあまり関心をもたないわけです。関心をもたないので、そこでどういうような政治が行われているとか、どういうようなひどいことを政治がやっているとかいうことについては、あまり関心をもたいないし、そういうことについては、こちらの耳からこちらの耳に抜けちゃうみたいな、大部分の人は無関心である。民衆っていうものは無関心である。
 そういう意味では、アジアの民衆っていうのは、全部ろくでなしだっていえば、ろくでなしなわけです。全然そういうのにあんまり関係ないんだ。だから、どれをあげるとしても、そんなことは自分とは関係ないよ、ほんとうは関係あるんですけど、関係ないよっていうふうに考えるのが、アジアにおける民衆というもののあり方だっていうふうに思います。
 また別の意味あいでは、そこでは、ハーンが美点として、それを裏返しているわけですけど、そこでは、人々がギクシャクもしてなければ、相互に冷たく背きあって、万人が万人にとって孤独であるっていうような、つまり、ヨーロッパの近代的な民衆っていうものを、古い昔の村落共同体が培っていた相互扶助感情とか、相互親和感情とかっていうものがまだどこかに生きている、明治時代だったらなおさらそうですけど、それを捉えていきますと、わりあいにそれは人類の社会にとって、わりあいにそれは理想的に描かれる社会の像っていうものもまた、そのなかに含まれているわけです。
 ですから、ヨーロッパの近代人として、たぶん、そういうふうに明治における日本っていうものを、美点をそういうふうに捉えたんだろうと思います。けれども、これを美点として捉えただけだってことは、これはハーンのやむを得ざる偏見であって、これは一面から見たらとてつもない、とんでもないことであって、これはどんなひどい権力者が上を通り過ぎようが、どんなことをしようが、あるいは、じぶんの他の村落共同体とか、ほかの国家の民衆とか、そういうものがどんなふうになっているか、どんなふうにその人達に対して暴虐を働こうと、そんなのはぜんぶ関知しないっていうような、ある意味では、そういうふうな非常にものすごい弱点でもあるわけです。
 だから、ハーンが描いた日本っていうものの美点っていうのは、美点には違いないっていうふうに思います。つまり、これまでの西欧近代を模範にした観点からこれを見てみたら、古いんだ、古いんだってことになりましょうし、みなさんのように、もはやカルチャーの崩壊、文化の崩壊に、自分の教養を身につけている人達にとっては、こんなのは古臭くてお話にならないっていうふうに思われるかもしれないけど、そうでもないので、遠い未来に描かれる理想っていうものは、これとたいして違わないっていうような、これそのままではないけど、これの弱点をよくしたものでありますけど、たいして違わないイメージでもあるわけです。
 だから、そういう意味あいで、ハーンは日本に何か、すでにヨーロッパにないものを求めて、その美点をしっかり拡大していったところで、日本のイメージをつくりあげたんだっていうふうに思います。
 しかし、これは繰り返して申し上げますけれど、これはとてつもない一方ではひどいものであって、ひどい感性であって、あらゆる迷妄さ、蒙昧さ、迷信、とてつもない許容性、それから、とてつもない排他性っていうものも、こういう美点の中に同時に含まれているっていうことなわけなんです。
 これは、日本っていうものを内側から見た日本っていうものと、それから、外側からある入射角で日本の中に入ってきている、それで日本を内部から捉えているんですけど、美化して捉えている。そういうヨーロッパの近代の捉え方っていうようなもの、それとの相違っていうのが、そこにたぶん、あらわれているっていうふうに思います。
 ハーンが拵えた日本についてのイメージ、それから、たぶん、ホーフマンスタールが日本について拵えたイメージっていうのも、たぶん、ハーンのイメージを通じて、日本のイメージをつくりあげただろうっていうふうに思います。もちろん、日露戦争で、その当時の日本が世界のっていいますか、ヨーロッパの大国と太刀打ちしているってことの、そういう感慨みたいなものも同時に入っていったのでしょうけど、ホーフマンスタールが日本について拵えたイメージっていうものも、やはり、そこのイメージで日本を捉えたと思われます。
 たぶん、これは逆にも言えるのであって、総括的にいえば、日本浪漫派っていうふうに言われていますけど、ホーフマンスタールに影響を受けた日本の浪漫主義的な文学者っていうもの、堀さんでもそうですし、立原道造でもそうですけど、そういう人達がつかまえたホーフマンスタールっていうのも、たぶん、それの裏っかえされたものじゃないかなっていうふうに思います。だから、ホーフマンスタールっていうものを正確に捉えたかどうかっていうようなのは、なかなか疑わしいところがあるように思います。
 だから、その問題っていうものを、日本の浪漫主義的な文学者たちがもっていた問題のなかに、それが、含まれているだろうっていうような気がします。その問題が解けてきますと、解けてきて、その問題がうまく色んなニュアンスも含めて、うまくおしゃべりできればいいんですけど、なかなかむずかしいかもしれません。ホーフマンスタールもそうなんですけど。

5 物語の原型-貴種流離譚

 ホーフマンスタールの主な作品を見ていきますと、なにが捉えられるかっていいますと、やっぱり、物語っていうもの、あるいは小説でもいいんですけど、あるいは散文ですけど、物語っていうものの原型っていうものの問題っていうのが、いちばん大きく浮かび上がってくるわけです。
 物語の原型っていうのはどういうことになるかっていいますと、ひとつはこういうことなんです。日本の言葉でいえば、つまり、折口信夫なんかがいった言い方でいえば、〈貴種流離譚〉ってことなんですけど、別な言い方をしてもいいんです、〈貴種巡回譚〉といってもいいんですけど、ある主人公があって、その主人公が様々な遍歴をするわけです。遍歴をして、様々なところに遭遇するわけです。遭遇して非常に危機に陥るわけですけど、危機に陥ったところで様々な出来事が起こり、そして、終いに危機を切り抜けて終末にいく、その終末っていうのは、切り抜けられた危機のままに死んでしまうこともあるわけですけど、また、危機から脱出して幸せになるみたいなことでもいいんですけど、つまり、ある主人公がそういうふうに遍歴して、主人公は神々であってもいいわけですし、それから、英雄であってもいいわけです。それから、王様であってもいいわけです。乞食であってももちろんいいわけです。あるそういう貴種が、もうすこし、あれしていいますと、身をやつしまして旅に出て、そして、さまざまな困難なことに遭遇して、そして、どん底まで陥るわけですけど、そのどん底をなんとか切り抜けて、それで幸せになるみたいな、それから、それじゃなければ、どん底のまま死んでしまうとか、結末はどういうふうにもとれるわけですけど、あらゆる物語の原型っていうものは、そういう〈貴種流離譚〉っていいますか、〈貴種巡回譚〉っていいますか、そういうものが物語とか、小説とかの原型であるわけです。
 これは、この原型っていうものは、神話から始まりまして、そして、近代小説、あるいは現代小説まで、ぜんぶ貫徹していく物語の原型です。つまり、小説の原型っていうのは、全部そういうふうに貫徹しているわけです。
 この型っていいますか、物語の原型っていいますか、この型っていうものに固執するかどうか、つまり、物語の型に固執して表現をするか、作品を形成するかどうかってことは、浪漫的な考え方、つまり、浪漫的な理念っていうものの非常に大きな要素だっていうことができます。
 この型は現代の小説だったら、めちゃくちゃに壊れているわけですし、意識的にこの型を壊すっていうことが、非常に現代小説の課題みたいになっているわけです。けれども、これも、原型を壊すっていう意味あいで、それが課題になっていることであって、原型はあくまでも、いま言いましたように、〈貴種流離譚〉っていうもののなかに、物語の原型があるっていうふうにいうことができます。
 この場合に浪漫的っていう概念、つまり、ホーフマンスタールなんかが非常に体現した浪漫的っていう概念、あるいは、理念のなかでの散文の形成の仕方、あるいは小説形成の仕方、あるいは方法っていうものの非常に大きなポイントはこの〈貴種流離譚〉のかたちを固執するっていうことが、非常に重要な要素なわけです。
 つまり、これを固執するためには、どういうことになるかっていいますと、これを固執する場合に何が甦るかっていいますと、ひとつは神話っていうものが甦ってきます。神話っていうものは、たとえば、ギリシャ悲劇みたいなものをとってきてもいいわけです。ギリシャ悲劇の主人公っていうのも、やっぱり同じです、つまり、〈貴種流離譚〉という形をとります。
 これは劇作の形をとっても、劇の形をとっても、やはり、同じであって、〈貴種流離譚〉と同じ型をとります。その型はやはり、主人公っていうものが非常にむずかしい、つまり、困難な場面に、あるいは、悲惨な場面に陥れられていて、そして、その主人公が、非常に悲劇的な感じ方っていうものを、苦しめられ方っていうものをし、悲劇的な感じ方っていうものをさせられて、そして、それを耐えて、耐え忍んで、もはやそれが、これ以上は耐えられないっていうところまで耐え忍んだところで、いわば出口が見つかって、つまり、事件が解決していって、そして、ハッピーエンドになるっていうなのが、たとえば、ギリシャ悲劇の原型であるわけです。

6 古典悲劇の改変の仕方-「エレクトラ」

 だから、たとえば、ホーフマンスタールの、アイスキュロスの戯曲を現代版にして、「エレクトラ」っていうのがそうですけど、現代版にして描いていますけど、やはり、そのパターンっていうようなもの、物語の原型っていうものを、やっぱり使っています。たとえば、ホーフマンスタールが「エレクトラ」なんかで、アイスキュロスの同じ戯曲なんですけど、戯曲を描く場合に、再版して描く場合に、どこが違うかってことなんです。悲劇の取り方っていうことが違うんです。
 つまり、ギリシャ悲劇の場合に、主人公たちの悲劇に陥り方とその悲劇の受け止め方っていうものが、神話的な受け入れ方、神話的な型になります。神話的な悲劇の受け取り方っていうものになります。
 神話的っていうことはどういうことかっていうと、なかなかむずかしいんですけど、つまり、勘ではすぐにわかるんですけど、言葉がむずかしいんですけど。それは人間の内面性っていうものと、人間の心っていうものと、それから、人間の体、つまり、そういう比喩でいいますと、人間の心っていうものは、身体の輪郭とちょうど同じだけあるんだ、つまり、過不足なく、人間の心っていうのは、人間の中に備わっている、つまり、それだから過剰に思い悩んだり、それから、過剰に悲劇を誇張したりっていうような、受け止め方はしない。しかし、悲しい出来事、概念的な出来事があったら、それを悲しい出来事として受け取める。そして、それを耐え忍ぶっていうような、それがひとつ神話的なパターンであったわけです。つまり、神話的な悲劇の受け止め方です。
 ところで、ホーフマンスタールの悲劇の受け止め方は、たとえば、「エレクトラ」なんていうのは、比較すればすぐにわかるんですけど、非常によくわかるんですけど、つまり、主人公の悲劇の受け取め方が違うので、それは、非常に内面的なわけです。つまり、この内面的っていう意味あいは、非常にキリスト教的なわけです。ローマ的な、ローマ的っていうのはキリスト教的の初期にあたりますけど、つまり、ギリシャ的ではなくて、ローマ・キリスト教的なわけなんです。
 どういうかっていいますと、内面の中にあくまでも落ち込んでいくわけです。主人公は落ち込んでいきます。その場合に、内面を内面として落ち込んでいくわけです。だから、ちょうど悲劇の受け止め方は、ちょうど人間の身体の輪郭と同じところでしか、心は、つまり、悲しいことがあっても、嬉しいことがあっても、過剰にそれを誇張したり、精神を精神するっていいますか、そういうふうに受け取ることはしないのであって、それがギリシャ悲劇的な受け取り方とすれば、ホーフマンスタールなんかの悲劇、苦悩とか、苦しみとかってものの受け取り方は、ローマ・キリスト教的です。つまり、外面の悲しい出来事が自分に降りかかりますと、その降りかかった出来事を、自分の内面でもって再構成したり、誇張したり、あるいは、暗くしたり、あるいは、故意に明るくしたり、あるいは、イロニーにしたり、つまり、逆説にしたりっていうような、さまざまな操作を内面の問題としていく、そういういわば苦しみを内面に創りだしていくみたいな、そういう受け止め方を主人公たちはするっていうふうに、たとえば、同じギリシャ人を主題にとった戯曲をとっても、そういうふうに主人公の内面の苦しみ方を、そういうふうに察していきます。
 そういう察していくところに、たとえば、ホーフマンスタールは象徴のひとりですけど、近代の浪漫主義的な受け取り方っていうものの物語の原型に対する考え方っていうのはあらわれているわけです。
 だから、それはたぶん、神話と、神話の後にそういう言い方をしますと、神話の後に来るのは、英雄なんです。つまり、神話っていうのが、神々っていうものが人間にとってまだ非常に信じられていたっていいますか、リアルに信じられていたときに活動する物語の人々の物語の登場人物っていうのは、神々であるわけですけど、神々の悲劇であるわけですけど、もはや人間にとって神々が信じられない、それほど見事には信じられなくなったときに、今度は英雄っていうものが、いわば、物語の原型のなかに登場する主人公であるわけです。
 今度は、英雄っていうものが、もはや信じられないっていうふうになってきますと、物語に登場するのは、それは王様であったり、また、それは貴族であったり、そういうふうになっているわけです。王様であったり、貴族であったりなんていうものはもう、人間のなかで、多くの人々の感性のなかで信じられなくなったらば、ただの人がでてくるわけです。
 ホーフマンスタールは、物語の原型は、いわば、神話のところ、あるいは、神話から英雄のところ、そこらへんのところに物語の原型の置き方をしていますけど、ホーフマンスタールが「アンドレーアス」のたとえば大文学の中で出てくる主人公っていうのは、裕福な商人っていうふうに、あるいは裕福な商人の息子とか、そういうようなものが主人公になっています。そういうふうに設定されています。
 しかし、たとえば現在であったらば、裕福な商人の主人公を設定するっていうことも信じられないでしょ、つまり、我々のなかでは、もはや現在では信じられなくなっていくでしょう。だから、そこではもはや、ごく平凡なありふれた人間がごく平凡なありふれた出来事にぶつかる、悲劇でもなければ、喜劇でもないことにぶつかるっていうようなことが、いわば小説の主人公になって、そういう小説が描かれるようになるわけです。
 もっとそれが解体していきますと、もはや人間っていう概念が信じられない。だから、人間を主人公にするよりも、事件を主人公にしたほうがいいとか、事件の中に、もはや影のように人間が溶けてしまった、そういうものを主人公にした、つまり、主人公のいない小説といいましょうか、人間のいない小説といいましょうか、そういうようなものを、もはや作る以外にないっていうふうに、現代小説っていうものもなりつつあります。
 しかし、そのなりつつあるっていうことは、決して偶然でもなんでもないのであるし、また、べつに新しいことでもなんでもないです。つまり、これは人間っていう概念がどういうふうに歴史時代を通じて、どういうふうに変遷していったかっていうことに正確に対応しているだけで、そういうことをよくよく見通すっていうことが、非常に興味深いことのように思います。
 たとえば、浪漫主義的な文学者たちが、一様にできなかったことは、そのことのような気がします。つまり、自分が何をしているのかっていうことについて、あまり自分で見通すことができていないっていうこと、なかったっていうことが、非常に重要な問題のように思います。
 ですから、たぶん、ホーフマンスタールについての日本の浪漫主義文学者の理解っていうのも、たぶん、そうじゃないかって気がします。これは様々なニュアンスを抉り取って、排除してしまって、ひとつの骨格だけを取ってくるとしますと。

7 「アンドレーアス」

 ホーフマンスタールが散文のなかで固執したものは物語の原型なんですけど、その原型の固執の仕方は明らかに神話、ないしは英雄時代における主人公たちの登場する、そういう物語の原型っていうものを、非常によく信じ、また、それに依拠して作品を形成していたっていうふうに考えられます。
 例えば「アンドレーアス」っていう、非常に重要な作品ですけど、その作品の主人公っていうのは、裕福な商人の息子なので、若い息子なんです。そして、両親のもとから独立するために、あるいは独立して、社会の様々な出来事っていいますか、ことを体験するために旅に出るわけです。ウィーンからベネツィアへ、いわば修行の旅なんですけど、みなさんみたいにいえば留学するっていうでしょ、留学するっていう意味と同じことです。修行の旅に出るわけです。つまり、人生体験を積むために、親の元を離れていくわけです。
 そこでやはり、物語はいつでもそうですけど、そこでベネツィアに行く途中で、ある高貴な農家に泊めてもらうわけです。その農家に娘さんがいるんです。このことも、わりあいに、物語にとっては、小説にとっては、わりに原型的なんですけど、そこに娘さんがいて、そして、娘さんと、いってみれば、恋に陥るみたいに陥るわけです。つまり、恋に陥るっていうことは、なにかっていいますと、これは物語的な原型でいいますと、〈貴種流離譚〉っていうもの、あるいは、〈貴種巡回譚〉っていうような原型でいいますと、何に該当するかっていいますと、それは悲劇に該当するわけです。
 ですから、その途中で農家の娘さんと恋に陥る、その恋に陥ったときに、主人公が感ずる感じ方とか、主人公のふるまい方、あるいは、恋愛の仕方、恋の仕方っていうような、そのことの中に、いわば、最もよく作品の核といいますか、作品のいちばん本質的なところがあらわれてくるわけです。
 だから、ホーフマンスタールの場合にはどうあらわれるかといいますと、「アンドレーアス」って作品でいいますと、農家の娘さん、ロマーナっていうんですけど、その娘さんと恋に陥る。そして、恋に陥ったところで、非常に暗いイメージっていうものを思い浮かべるわけです。暗いイメージっていうものは、相手の娘さんに対するイメージじゃないんですけど、それは、非常にいいイメージなんですけど、自分が夢を見る、その夢で出てくるイメージはたいへん暗いわけです。
 たとえば、その夢の中で、じぶんが子どもの時に犬をいじめて、踏みつぶして、犬の腰骨を踏みつぶして折ってしまったっていうような、そういう体験があって、それが夢の中に出てくるわけです。その犬っていうのは、どういう犬かっていいますと、なんか人に媚びるような、そういう犬で、自分にだけ、そういうふうにへりくだった目つきをするのかと思ったら、そうじゃなくて、近所の強い犬が来たら、その強い犬に対しても、そういうような態度をするっていう態度が腹立たしく、いらだたしくなって、それで、その犬を踏みつぶして、腰の骨を踏みつぶして折っちゃうっていうような、そういう体験に、夢みたいにでてきたり、それから、夢の中で、ロマーナっていう娘さんが殺される叫び声がでてきたり、なぜかそういう夢を見るわけです。
 そして、夢が覚めてみると、自分が途中で従者として雇ったその男が強盗であって、泊まった農家の女中さんっていいますか、召使いの女の人を縛り上げて、そして、自分が父親から、つまり修行に出て、人生体験をしてこいって言われて、父親からもらったお金の大部分が持ち逃げされてしまっているんです。
 それで、持ち逃げした従者で泥棒だった男は、女中さんを縛り上げただけじゃなくて、そこの農家の犬を殺してしまったわけです。自分が外に出ていくと、その農家の下男の人が、その犬を土の中に埋めているところに出会うわけです。
 そのときに主人公は感ずるわけですけど、つまり、自分が夢の中で見た犬っていうものも、ここで殺されて下男の人が埋めている犬っていうのも、これは関係があるんだ、これは何に関係があるかっていうと、自分の内面に関係があるんだ。自分の内面っていうものは、こういうふうに、事物、なんでもないようなただの生き物みたいなものを呼び寄せてしまうっていいましょうか、そういうものが自分の中にあって、これはぜんぶ関係があるんだ。すべての出来事っていうのは、ぜんぶ関係があるんだ。その関係っていうものは、ぜんぶ自分の内面の苦しみみたいなものに関係してくるんだ、自分はこんなふうであったのも、たぶん、そういうことなんだ。なにかと関係があることなんだ。こんなことは、旅から帰って、父親なんかに言ったら、父親がたいへん嘆くだろう、自分がなぜこういう旅先に行って、なぜこんな目に自分だけが合わなくちゃならないのかっていうような問題を考えてみると、限りなく主人公は落ち込んでいくわけなんです。
 この主人公の落ち込み方っていうもののなかに、ホーフマンスタールの錯覚している特徴があります。また、その背後に考えられる近代浪漫主義っていうもののもっている悲劇の受け止め方っていうものの特徴っていうのが、そこにあるっていうふうに考えることができます。

8 内面の悲劇性-「第六七二夜の物語」

 ホーフマンスタールは物語の原型っていうものを非常に極端に拡張、あるいは拡張っていうのがおかしければ、非常に拡大して言っています。たとえば、どういうふうに拡大していくかっていいますと、「第六七二夜の物語」なんていう作品があるわけです。その物語の中では、物語の原型に依存しているわけですけど、しかし、その原型っていうものを全部、内面に、内部の問題に、内部の物語に、つまり、人間の内面の物語にぜんぶ移し入れてしまっているってことがいえます。
 ここでやはり、主人公に設定されているのは、商人の息子なんです。その商人の息子はわりあいに親からの遺産があって裕福に暮らしているわけです。年寄り召使いが二人と、それから、若い娘さんの召使いが二人、年寄りの男の召使いが二人と、それから、若い女の召使いが二人と、その4人にかしずかれて、裕福に、あるいは、無為にっていったらいいんでしょうか、そういうふうに暮らしているっていうのが、物語の設定の仕方なんです。
 こういう物語の設定の仕方をしますと、もはや神話的な、あるいは、ギリシャ悲劇的な、古典悲劇的な意味合いでいう物語っていうものを展開のしようがないわけです。主人公は無為に召使いに日常の世話を全部してもらって、食べるに困らないし、無為に暮らしているわけですから、ここでは、いわば〈貴種巡回譚〉とか、〈貴種流離譚〉みたいな意味あいでは、物語の展開の余地っていうものは何もないわけです。だから、物語を展開する余地がなければ、物語が始まらないかってことなんですけど、そこでホーフマンスタールがとってくる小説の方法っていうものは、〈貴種巡回譚〉みたいな物語の原型を、ぜんぶ内面の劇に移行させてしまうっていうことになっていくわけです。
 それはどういうふうに移行させているかってことなんですけど、これは読まれるのが一番いいっていうような、なかなかニュアンスが伝えにくいんです。おしゃべりで伝えると意味だけ伝わってしまうからダメなんですけど、それをしいて言いますと、主人公は、たとえば、年とった男の召使いがいるでしょ、その召使いと同じ家にいながら、あるいは、庭の中にじぶんが出ているときでも、その年とった召使いの視線っていうもの、視線っていうものを、いつでも意識させられるっていうことなんです。
 なぜ意識するかってことが内面の問題になるわけですけど。意識させられる。その意識の中をしいて探ってみますと、探っていけば、あの召使いたちは、今まさに静かに老いて死のほうに向かって、静かに歩んでいるんだっていうような意識が自分にひっかかっていくわけです。それは視線として自分の中に絶えず感じられるわけです。
 たとえば、それが外面的にいえば、じぶんが主人公であり、給料を払っている召使いですから、なんの不安もなく生活していればいいはずなのに、なぜか、老人たちがいま死に向かいつつあるんだと、老人たちの視線を感じる時、いつでも老いから死に向かって歩いているっていう、そのことの不安みたいなものが自分に伝わってくるっていうことなんです。
 それから、召使いの娘さんたちも、どこかで自分を見ているような視線を感じる。その見ている視線っていうのは、もちろんそれはエロス的なものではない、つまり、恋とかそういう問題じゃない。しかし、そういうふうに名付けられないんだけど、しかし、若い娘さんもどこかで自分を見ているというふうに感ずる、そのことはどうしても、エロスではない、エロスの原型的なエロスというか、エロス以前のエロスといいますか、そういうようなものをどうしても意識せざるをえない。だから、それを意識せずに生活することはできないっていうふうに、そういうふうに主人公は感じていくわけです。その感じ方っていうもののなかに、いわば悲劇性っていうものを移し入れているわけです。
 この悲劇性の問題は、たとえば、しいて言葉でいってしまえば、ひとつは、なぜ人間は被害感覚っていいましょうか、なにか自分が見られているんじゃないかとか、なにか自分は咎められているんじゃないかっていうような、そういうものを人間が感ずることがあるでしょう。
 それはもっと極端にいけば、被害妄想っていうことになります。被害妄想っていうふうになれば、それは、いろんなものがリアルに聞こえてきたり、言葉が聞こえてきたりしてきます。道を通る人が自分を監視するために絶えずついてくるとか、じぶんの家の部屋にマイクが設えられていて、絶えずそれで監視されているっていうふうになっていたり、たとえば、タクシーならタクシーに乗っていると、運転手さんは全部ポリスだとか、警官であるっていうふうに思われたりっていう、それで、どこへいっても影から見ているとか、監視している、声が聞こえるっていうふうに、極端にいけば、なっていきます。
 つまり、その被害感っていうことなんですけど、被害感とは何かっていうことが、非常に内面の大きな問題であるわけです。つまり、この被害感が妄想の領域までいって、もっと極端になっていきますと、作為体験っていわれるものになっていきます。つまり、自分が絶えず、宇宙のどこかから信号があって、それで、いつでも命令されている、こうせいああせいって言われている。それが聞こえるっていうふうな体験とか、そういう体験になってきます。
 その幅はたくさんあります。つまり、ホーフマンスタールが描いているような、召使いたちが、べつにそうじゃないのに、なにか召使いたちの視線っていうのを感じ、そんなことは感じなくていいのに、召使いたちはいま、老いから死のほうに向かって歩んでいるんだなっていうようなことを感じるとか、そういうところから始まって、いわば現在では病的って言われている領域にいったので、被害感っていうものは、連続して大きな幅があるわけなんです。
 この幅の問題は何かっていいますと、これは、人間の内面性の問題なんです。つまり、これが異常であるか、異常でないかってことは、機能的には分けられるわけですけど、しかし、文学的には、あるいは人間学的には、それは分けられないものです。つまり、被害感っていうものは、視線っていうもの、他者の視線に対する感受性っていうものは、それは分けられないのです。
 つまり、ここからここは病気で、ここからここは異常でっていうふうに分けることができないのです。それは全部、内面性の問題なんです。つまり、内部の問題なんです。この内面の問題を一種の被害的な視線の悲劇とか、苦悩って言ってもいいんですけど、その問題に、いわばホーフマンスタールは転化しています。つまり、転化していることがわかります。
 これは外的な次元が悲劇であるっていうことじゃなくて、もはや内面の悲劇性っていうことで、被害感っていうものの問題が内面性の問題で、非常に普遍化されて出てきています。ホーフマンスタールはそこまで描いたわけです。

9 内面性の拡大

 現代のぼくらが当面している被害感の問題というものは、被害妄想から作為体験までぜんぶ出揃っているわけです。出揃っているということは、現代の人間の内面性の拡大の問題です。つまり、人間の内面性というものはいかに拡大されて存在してしまっているかという問題であるわけです。
 これはお医者さんの立場からは異常であり病気であり治さなきゃならないということになるでしょうけれども、文学芸術の問題からいえば一様に内面性の問題であります。どこに境界をもうけることもできにくい、基準を見つけることができにくいことです。すべてを総括して内面の問題だということができます。
 この内面の問題の起源というのはどこにあるかといいますと、ホフマンスタールが描いている被害感、あるいは他者の視線を感じるということ、あるいは他者の内面がわかったと思えるというようなところに悲劇性、被害感の起源であり本質的な点があるわけです。
 その問題は、内面全体の問題であってなかなか解きにくいのです。お医者さん的に解くのではありません。なぜ大の男がおれは絶えず監視されているとか、あそこでおれの悪口を言っているとかおれのことをつかまえようとしているとか、高度の知識を持ち判断力を持っている現代の人間が、どうしてそうなっちゃうんでしょうか。その問題は、お医者さんでも解けていないんです。治すことはできますけれども解いてはいないんです。それはどういう問題かということはなかなか難しくて解けないんです。しかし事実としてはあるのであって、むしろ高度すぎる人ほどそうなりやすいといっていいくらいなってしまうわけです。どこからどこまでがなっていなくてなっているのかということは誰にもわからないくらいです。
 皆さん誰でもがその近辺までは行ったことがある体験を持っているわけです。たとえば恋愛中にデートでちょっと相手の女の人が少し素っ気ない顔をしたらとたんに暗くなっちゃうということは皆さんもよく体験しているわけです。本当はたまたま頭痛がしていたというかもしれないのに、それを見てはっとしてしまうということは誰でもあるでしょう。そのことと被害妄想と言われている内面の問題とのあいだに境界がないのです。ただ移行する連続性だけがあって、境界性はないのです。
 だからこれは一般的に文学芸術の問題でいえば内面性の問題ということになっていきます。内面の悲劇の問題ということになります。
 悲劇というものは、ギリシャ悲劇の原型が悲劇であったように、悲劇というのは人間の内面性の原型であるわけです。悲劇をどこで設定するか、どう設定するかということは散文芸術、あるいは一般的に芸術というものの作品形成の本質に関わってくることがわかります。その原型は悲劇という問題をどう扱うかということ、あるいはどう扱わないか、無視するか、否定であっても否定の否定であってもなんでもいいのですけれども、悲劇をどう喜劇にするか、ユーモアにするか、途中で悲劇でなくするかということが、小説または散文芸術というものの本質にある問題です。同時にそれは人間の内面性というものの原型としてある問題です。
 この原型というものはどんな作家のどんな作品にも、皆さんがあらゆる作品を鑑賞する場合に物語の原型からして判断するという眼をもたれたならば、この作家がこの作品で何をしているかということが必ずわかります。皆さんはこういう問題が現代の小説や芸術には関係ないと思われているかもしれないけど、どこかで省いちゃったり抜いてあったり、悲劇性を否定して喜劇性にしてみたり、喜劇性を発展して悲劇性にしてみたりというような操作をしているだけだということがわかると思います。そういうふうに理解して小説作品を読まれたらたいへんよくわかるんじゃないかと思います。
 逆に皆さんが小説をお書きになるとしたら原型はそういうものだとご存知になって書かれた方がよろしいと思います。それを知っていて書くのとやたらに書くのとはぜんぜん違います。ぼくは批評家ですからそういうことが非常によくわかるわけです。作家が無意識にやっていること、「自分は物語性の解体をやっている」ということを無意識に言っている人が何をしているかということはよくわかります。でもぼくに書けと言ったって書けやしないんで、わかることはわかります。
 逆に書く人がそのことを知っていて書かれたら作品形成がどこかで歴史につながっていたり、歴史の否定につながっていたりということがどこかでできるはずです。言葉の表現でできていなくてもそのことができるはずだと思います。

10 悲劇性をどこでとらえるか

 なぜそんなことを言うかといいますと、現在の小説概念は物語性の解体の表現といっていいくらいです。人間の概念、内面の概念、内面性という問題の解体だといっていいところまで突っ込んでいることがあります。突っ込んでいますけれどもこのことは何を意味するかということは、書いているご当人の創造のなかにはそのことの解答はないのです。創造のなかには無意識しかないのです。無意識にそうしているということしかないのです。これを意識化するのは創造の外側にいなければいけないのです。ところが現代でもひとりの創造する人間が同時に自分の外側にいる自分というものを包括しながら、それをすることができていたらば、その人は現在あるいは現代というものを象徴する作家でありうるはずです。しかし現在存在している作家たちはそうではありません。無意識にそうしているだけです。無意識に壊されているだけです。あるいは悲劇性自体を壊すというところまでいかなくて、ただ起伏をなだらかにしているだけです。事件が起こらないようにしているだけです。内面の苦悩とか悲劇を起こらないようにしているだけです。それは無意識にやられているわけです。だからそういうことにもし必然があるならば、自分でそのことが歴史のどういう視点に立っているか、あるいは文学表現のどういう視点になりえているのか、あるいは文学表現の歴史のどこにつながるのかという問題をもし意識してできている作家が現在存在するとすれば、そういう作家は時代の自己主張になりうるはずだと思います。その作家が存在するということが時代の自己主張なんだ、そういう作家でありうるはずだとぼくには思われます。だからそのことはまんざら現在でも関係ないことでもないわけです。
 だから内面性の問題はすなわち悲劇性の問題である、悲劇性の問題はいわば物語の歴史の問題なんだ、あるいは歴史の起源の問題なんだというつかまえ方は重要なんだと思います。たとえばホフマンスタールは、そのことはたいへんよく意識して作品を形成していると思います。しかしホフマンスタールでもヘルダーリンでも、その影響をうけた日本の浪漫的な文学者たち、詩人たちは一様に、これが内面の歴史の問題なんだ、内面の歴史の否定の問題なんだ、あるいは物語の原型をどこにとるかという問題なんだという問題を考えることをしなかったと思います。それをしないとぜんぶが無意識になってしまうと思います。だからたとえば、英雄を尊重する、神話を尊重する、王様を尊重するということにぜんぶつながってしまうわけです。つまり、これはたとえば日本の浪漫派の文学者の戦争中における悲劇です。これが戦争を肯定し、王様――日本では天皇と言います――を肯定し、神話を肯定し――神話を神話として肯定するのではなく事実のように肯定する――というところに落ち込んでいったでしょう。なぜ落ち込んでいったかというと、そのことが内面の問題としてよくわかっていなかったからだと思います。つまり影響は受けたけれども影響の起源というものには影響を受けなかったということだと思います。それが日本の浪漫的な文学者たちの辿った悲劇でありますし、また今後日本の浪漫的な文学者たちが生まれるとすれば、その文学者たちがまた辿るであろう悲劇がそういうところになっていくことは必然なわけです。ぜんぶ無意識です。無意識に、悲劇を肯定するならば王様を肯定しなければいけない、王様を肯定するならば英雄を肯定しなければならない、英雄を肯定するならば神話を肯定しなければならないということになるわけです。
 たとえばそれは日本の神話における英雄は日本武尊というのがいまの物語の原型を描いています。日本武尊は天皇の息子であるわけですけれども、あまりかわいがられていないと自分で思っているわけです。だからたとえば、天皇は自分を東北へ賊を征伐してこいと言って、帰ってきたらまた西国にいって熊襲を退治してこいと言われる。そういうふうに言われるのは自分を憎んでいるからだと日本武尊は告白するわけです。これは古事記、日本書紀のなかで英雄神話らしい典型的な個所ですから、もちろん日本浪漫派のひとたちもここに着目したわけです。ここに悲劇の原型があると着目して、そういうところから日本武尊は実在の人物と化して悲劇の英雄となっていくわけです。
 ところでこれは原型的にいえば悲劇の原型であって歴史の原型でもなんでもありません。その悲劇の原型によれば、主人公は父親から離れて修行にでかけ、さまざまな労苦に出会い、艱難に出会い、そして帰ってくる。するとまた父親に疎まれてまた出て行く。そういうことは悲劇の原型であるはずです。この悲劇の原型がなぜ内面性の原型であるかと言いますと、人間というのは、難しいことをしようとしたり、難しい出来事にぶつかったときに、ぶつかって思い悩み、もがいたり苦心して解決しようとしたりするでしょう。その問題が困難な問題であったりすると追いつめられるでしょう。苦しんで悩んだりして、これはもういかんよとなったところまで追いつめられる。そして追いつめられた過程をみて、そのことがふっと解決されたり、あるいは自分がわからなくてもなんとなく困難を抜けられたという体験をするでしょう。誰でもある事柄にぶつかったときに体験する体験の仕方はぜんぶ同じなわけです。これは要するに物語の原型なわけです。ある事柄にぶつかったときにどういうふうにそれを受けとり、追いつめられ、脱出するのかということは皆さんが誰でも、普遍的にぶつかっているわけです。
 人間の内面というのは誰でもそうぶつかっているわけです。だから物語の起源、悲劇の起源であり、これが物語の原型であるのはそのためなんです。別にそれ以外の意味あいは持ちません。その意味は万国共通なわけです。さまざまなニュアンスはそれぞれの神話で違いますけれども、この物語の原型というのは、人間がある事柄にぶつかったときに当面する内面の動きが問題であって、それは普遍的なものなんです。普遍性というのはそこにしかないんです。
 だから日本浪漫主義というのは、英雄に当面し神話に当面しそして事実として肯定していくとなっていったということは、この問題をほんとうの意味あいで内面性の問題として受けとることができなかったからだというのはいたし方がないと思います。その問題が何につながるかということはきわめて明瞭な問題なんです。小説の創造ということが何につながるかということは明瞭なことだということが言えると思います。文学芸術に関する限りそれは知っているに値することのように思われます。
 ホフマンスタールの物語の幅というものは非常に大きいものです。悲劇性をどこでとらえるかという場合に、ホフマンスタールは大きな幅を持っています。悲劇性というものをどこでとらえるかという場合に、それを内面の劇に転化することもしていますし、先ほど言いましたように古典悲劇の原型を借りてその原型を物語的に外面的な事件として辿っていくという辿り方もしています。

11 文学芸術と思想・理念の違い

 今度は再び浪漫主義ということになりますけれども、このことは思想の問題として拡大していきますとこういう問題に当面します。思想とか、理念、イデオロギーといってもいいものがあるでしょう。これらが芸術と違う特徴というのは体験の流れ、内面性の問題を括弧に入れておくことができるということなんです。それが理念とか思想というものの特徴、本質であるわけです。括弧にいれながらそこで内面性がどういうふうに働き方をするのだろうかことになるのですけれど、たとえば日本のこういうところにいながら、カンボジアで難民がテントのなかで餓えて病気になって寝ている。このことが気になってしょうがない人がいるでしょう。カンボジアに行ったこともない、具体的にリアルに自分の感覚がそれを見、そしてとらえ、肌で感じ体験したことじゃないんですけれども、子どもが病気で餓えてテントのなかで悲惨な暮らしをしているとか、そういうことがあると、気になって気になって仕方がない人がいるでしょう。あるいはそういうことがあるでしょう。瞬間があるでしょう。新聞の記事を読んだ瞬間でも、ニュースでそれが出てきたときの瞬間でもいいんですけれども、瞬間という意味あいでいうならば、皆さんのなかに普遍的にあるでしょう。体験したこともない、感覚でとらえたこともない、そういう遠いところの問題です。この、難民が理念の通路を通ってみなさんのところに訴える被害感の内面性です。この内面性というのが理念というものの特徴なんです。理念の範囲というのがあります。それぞれの人によって、理念、思想が届く範囲があります。あるいは自分が届かせなくても、相手のほうから自分の被害感覚に対して、被害感に対して伝わってくる範囲があります。この範囲は個人個人によって違います。小さい範囲の人もいれば、大きい範囲の人もいます。第三世界のどこでやられたことでも、地球上のどこで起こったことでも心配でしょうがない、夜も眠れないという人がいます。ぜんぜんそんなことを感知しないという人もいます。この問題はそのことだけをとってくれば善悪とか倫理的な判断の問題ではありません。
 それは、理念とか思想というものが人間の内面性にどうやって到達するかという問題なんです。その到達の仕方は、感覚的、体験的な具体性がなくても通ってくるわけです。これが芸術文学というものと理念の世界、思想の世界と違うところなんです。
 これは内面性という問題では個々の人によって範囲が違います。世界大である場合もありますし、ゼロである場合もあります。ゼロである人もいます。それ自体は倫理の問題ではありません。これを感じる人が善であるとか感じない人が悪であるという問題でもありません。それは世界の問題です。あるいは理念、思想というものが本質的に持っている問題なわけです。
 でもこれはゼロであろうと無限大であろうと世界大であろうと、そのことがあるということだけは誰にとっても確かなんです。これを意識的に否定することも、否定することを否定することもできます。またもちろん活かすこともできます。パーにすることもできます。われ関せずということもできます。しかしこのことがあるということは確かなんです。大きくあるか小さくあるかゼロであるかということは個々の人によって違います。また意図、意思によって違います。
 そこで、一見すると被害感でないように思われるけれども、理念的な被害感と考えることができます。この問題は内面の問題であり理念の問題であり、思想の問題であるということができます。だから理念、思想、あるいは正義に関わっている人はたくさんいるでしょう。しかしそれは少しも厳密ではないのです。カンボジアのどこそこであった出来事に、自分のなかの被害感――関心を持っているという言い方もできますが、内面性の問題としては被害感の問題です――の問題は何なのかということと、自己内倫理としてどう立ち振る舞うか、感ずるかという問題とは一緒ではありません。それは違うことです。違うことがひとりの人間の内面に存在するということです。

12 人間の精神と自由

 このことは先ほどからいいましたように、はっきりさせておくと役に立つことがあるとおもいます。なぜかといいますと、戦争中の浪漫主義者が入っていったのと同じように、理念主義者というのは別の神話にとらえられるわけです。それは近代の歴史が証明していることです。やはりそれは神話として受けとられているという要素が多いのです。それで神話を神話として受けとるのではなく、神話を倫理として受けとる――政治的倫理として受けとるという受けとり方が、世界の現在に対してどんなに悲惨をもたらしてきたかということもまた言えます。だからこのことは厳密にいえばそういう問題だということをご存知のほうがいいと思います。
 こんなことに関心がないという人もいると思います。それは主観的な考え方に過ぎないんです。それは、否定として関心がないということしかほんとうは成り立たないんです。だけれども自分は関心がない、知ったこっちゃないよという人がいると思います。それはもちろん倫理の問題ではなく、そうだからといって悪いということではないと思います。しかし、それはないのではないのです。否定しているに過ぎないのだけれども、その人が否定を意識していないというだけです。否定を無意識にして、自分で自分のことを知らないと考えられた方がいいと思います。
 そんなことを言ったらどこにも抜け道はないじゃないかと政治的な人もそうでない人も思うでしょう。しかしほんとうにそうなんです。知識の問題には抜け道がないのです。それを忘れることはできるけれども、抜け道はないのです。知識とか、精神の産物、観念の産物には一旦人類が産み出してしまったら、それは駄目なんです――しらんぷりするわけにいかにんです。退廃的であれなんであれ、それを無視して別の新しいところにいくことはできないのです。こと、知識に関する限り、人間の精神、観念の産物に関する限り、それはできないんです。だから現在まで人類が産み出してきたものはなくならないんです。その産み出されたものを否定したいのなら、それを止揚する以外にないんです。別のものをもってきたって否定できないんです。これは精神、観念、文化というものに関する重要な定理なんです。
 技術、科学のように眼に見えることだったら、simple is bestなんだということで、複雑な機械なんか使わないで簡単にやればできるわけです。けれども人間の観念の産み出したものだけは、これを克服するにはこれを超える以外にないわけです。
 違うことも言いましょう。人間の自由ということもそうです。人類がこしらえてきた自由というものの範囲がある範囲だとしたら、よりよき人間の自由とは何か。自由とは究極において人間が解放されることに変わりない以上、その自由はそれよりもより大きな自由以外に絶対にありえないんです。それより小さい自由だったらどんな名目をつけても駄目なんです。歴史の逆行に過ぎない、歴史の現在に到達していない。自由というのは、どんなに退廃的なものを含んでいようとなんであろうとそれを克服するには、健康な文化を持ってきたって克服できない。それを包括してしまう以外に方法はないんです。これが人間の精神の産物における特徴なんです。精神の産物だから考えなきゃなくなっちゃうでしょうと思うかもしれないけど、そうじゃなくて考えなくてもある。これが精神の産物の特徴です。むしろ物質的なものは、壊してしまえばいいけれど、精神の産物――理念、政治制度、社会制度といったものも同じことが言えるわけです。
 ホフマンスタール自体は何もこのことを提起していないんです。ホフマンスタールにうんと影響を受けた日本浪漫主義の人たちが、戦争の現実体験で当面した問題があまりにリアルに生々しく残っているわけですから、その具体的な問題として言ったわけですけれども、浪漫的という概念の範囲のなかで考える余地がありそうな気がぼくはするわけです。

13 〈距離〉の本質-「影のない女」

 ホーフマンスタールは、物語性、神話性と人間っていうものとの違い方、どこが違うかっていう問題をやはり悲劇の問題として「影のない女」という作品の中で、やはり同じようにその問題に言及している、言及しているっていうのはおかしいんですけど、作品の中のいちばん肝要な部分はそこだと思うんですけど、そこでモチーフを展開していることがあります。
 それで、「影のない女」の中で出てくるわけです。精霊の娘がいるんです。精霊の娘が王様のお妃になっているんです。そういう物語です、それで、その精霊の娘っていうのは、どんなときにも、他の人間には影があるのに自分には影がないのです。だから、自分に婿がいて、なんとかして影を獲得したい、影を獲得するっていうことは、いわば、地上に自分の根を下ろすことだ、つまり、自分が精霊ではなく人間になることなんだっていうことを象徴するわけですけど、それで二人は物語の原型に即して、お妃と王はふたりともボロボロな着物を着て、乞食みたいな恰好をして身をやつして、影を探しに遍歴に出ていくわけです。染物屋のうちに無理に使ってくれっていって、そこで雇われて、染物屋の女房の影っていうのを獲得するっていうことなんですけど、そのなかで人間的っていう概念を誠実に綴っています。
 人間的っていう概念はなにかっていいますと、いまのことに関係するわけですけど、それは距離っていうことだっていうことなんです。つまり、距離っていうことは何かっていうと、いちばんわかりやすいのは、みなさんがわかりやすいと思うのは、それは男女のことが一番わかりやすいので、だからいいますけど、たとえば、きれいな女の人とか、美男子だとか、好男子っていう概念があるでしょ、つまり、きれいな女の人、あるいは、きれいな男っていうのは何かっていうことなんです。それはひとつには、距離ではないかっていうことなんです。
 つまり、ある距離から見たときに、人間、他者に対しては特に、あの人はきれいだとか、きれいじゃないとか、醜男だとか、好男子だとかいう言い方ができるでしょ。そういう人間的な距離っていうのがある。しかし、人間的な距離っていうのは、それにとどまらない。たとえば、きれいな男、あるいは、きれいな女の人と恋愛して、それで、精神も肉体も非常に接近した、接近してみたら、その男が醜男だとか、好男子だとか、あるいは、きれいな女の人だとか、汚い女の人だとか、そういうことっていうのは、意味をなさなくなるわけです。で、なさなくなった時の距離っていうのがあるでしょ。ゼロかもしれないけど、距離ゼロになったときの人間的な距離っていうのがあるわけです。
 そのときの人間的な距離っていうのは、距離ゼロになったときには、ある距離で通用する美醜っていう概念は、もはや人間に対して適用できなくなるわけです。みなさんは、独身の人は嘘かと思うかもしれないけど、それはそうでなくて、ぜんぜん問題にならないよってことがわかります(会場笑)。
 もうひとつ、距離があります。もうひとつは、美醜だとか、この人は良い人だとか、正直な人だとか、この人は優しい人だとか、そういう体験とか、手触りとか、そういうことも届かない。もちろん、それから、美醜、きれいとか、好男子とか、そういう距離も届かない。全然、先ほども言いましたように、見えない距離でも、なおかつ、人間っていうようなものを、それもやはり人間的な距離感のことであります。
 その人間的な距離っていうのは何かっていったら、それは、その距離で、ある男の人が、ある女の人を、なんで理解するのかっていったら、たぶん、その男の人、または女の人の行った、なんらかの意味での表現っていうもの、表現っていうもので、たぶん、判断するんじゃないかっていうような、それ以外に判断のしようがない。しかし、その距離の、なおかつ、人間は他者っていうもの、あるいは、他者っていうものを理解することができます。
 そうすると、人間的な距離っていうものと、それから、ホーフマンスタールのいう、いわば精霊の距離といいましょうか、精霊とか、神話的な距離とか、あるいは、神々の距離とか、天使の距離とか、そういうようなものがもし想定されるとして、そういうものと人間的な距離の違いっていうものは、なにかっていうふうに考えたら、ある距離感覚によって、人間の判断の基準っていいますか、他者に対する思い込みの基準っていうものが、無限に変わりうるってことです。これが、人間的な距離っていう問題なんだっていうふうに、ホーフマンスタールは、そういう問題を提起しています。
 つまり、精霊がそういうふうにして、自分の影をもとめて遍歴していくわけですけど、遍歴していったときにいう言葉があるんですけど、描写する言葉があるんですけど、そして、乞食みたいな恰好をして人々の間を入っていったら、そうしたら、かつて感じたことのないような距離でもって、人間っていうようなものが見えたっていうふうな描写をしているわけです。つまり、精霊が精霊であるっていうような、ぜんぜん見たこともないような距離でもって、人間っていうようなものが、人々が見えたっていう、そういう描写をしています。
 つまり、そういう描写っていうものが、この「影のない女」の中で象徴される悲劇性っていうもの、あるいは、物語性っていうものの、核にある問題なんです。本質にある問題は、その距離っていう問題だっていうふうに理解することができます。
 つまり、人間的な距離っていうもので、もし、ホーフマンスタールの理解の仕方、そういう人間の距離感の理解の仕方っていうものを、もし、それを浪漫的っていうふうにいうならば、浪漫的っていう概念が提起するものは、やっぱり、人間の内面性をピンからキリまで、人間が内面性と外面性と、どこまで相渉らせるか、ピンからキリまでっていうことを、どこで押さえきるかってこと、どこで押さえるかっていうような、その問題が、いわば、ホーフマンスタールにおける内面性の問題であり、物語性の問題であったっていうふうに言うことができます。もし、それが浪漫主義の概念のなかには、その問題が非常に大きな要素として含まれていることがいえると思います。

14 〈とりかへばや〉の悲劇性

 それから、もうひとつだけ言及せねばならないことがあるわけですけど、先ほど物語の原型としての〈貴種巡回譚〉って言いましたけれど、それのバリュエーションっていうふうに考えてもいいし、またもうひとつ別な原型だって考えてもいいんですけど、もうひとつあるんです。
 それは、〈とりかへばや〉ってことなんです。『とりかへばや物語』ってものは日本にもあるでしょ。これは12世紀、つまり、平安朝の末から中世の初め頃にできあがった物語だと思いますけど、原型はもっと前かもしれないですけど、『とりかへばや物語』っていうものがあります。
 この『とりかへばや物語』ってものは、主人公の父親がいて、それは権大納言で、その親には奥さんが2人いるわけです。一人の奥さんが産んだ子どもは、男の子なんだけど、絵合わせとか、貝覆いとか、そういう女の子のする遊びごとが非常に好きなんです。それで女の子みたいなおとなしい性格をもって、それこそ侍女たちがやってきても、恥ずかしくて顔を向けられないとか、そういう性格です。もうひとりの夫人から産まれた子どもは、女の子なんだけど、活発で、蹴鞠とか、そういうことで遊ぶことが好きで、男の子どもとばっかり遊んでいるっていうような、そういう子どもが生まれるわけです。
 それがあまりに極端なので、親が男の子のほうを女の子として育てていくわけです。女の子のほうを男の子として育てるわけです。だんだん大きくなって年頃になって結婚するんです。両方とも結婚するんだけど、もちろん、困ってしまうわけです。散々、やっぱり思い悩むわけです。
 悲劇性っていうのはそこなんですけど、思い悩んで、どこかに逃げていったり、山奥へ逃げていったり、思い悩むわけです。二人とも思い悩んで、そして、なにかのきっかけがあって、それを告白することができるのです。自分は男だと、自分はほんとは女なんだって告白することができて、それで、それが許されてっていいますか、認められて、逆に、元どおりになって、そして、女の子のほうは天皇の中宮になるし、男のほうは右大将になるというふうにハッピーエンドになる。そういう物語があります。
 これを『とりかへばや物語』っていうわけですけど、この『とりかへばや物語』っていうのは、やはり、物語の原型のひとつなんです。この場合には、男の子と女の子を取り替えて、それが様々な悲劇に出会って、そして、男の子は元の女の子に戻って、そして、幸福になるっていうような、そういう物語性の起伏になりますけど、これはたとえば、なんでもいいわけです。
 つまり、王様が乞食に身をやつして、乞食を王様になる。それで、散々困ってきたりしてきて、ひとつの悲劇性、あるいは喜劇性にしたてることになりますけど、それに当面して、そして、元に戻って、王様は、たとえば、王女と結婚したっていう物語があるでしょ。つまり、これも〈とりかへばや〉ってことの一種であります。
 それから、もちろん、これは〈貴種巡回譚〉の悲劇性っていうものの変種だ、つまり、それはバリュエーションだっていうふうに、もちろん考えてもいいわけです。つまり、この〈とりかへばや〉っていうところに、物語の悲劇性、あるいは、内面性っていうものを、そこに設定する、そういう設定の仕方っていうものが物語の原型にあります。
 これは、非常に古代からあります。たとえば、それこそさっきの日本武尊じゃないけど、そういう日本武尊っていうのはあるわけです。熊襲だと思ったですけど、女装して、それで宴会に出て、相手を油断させて刺したって、そうしたらば、おまえ誰だって言ったら、日本武尊だって言ったっていうところがあるでしょ、つまり、その(とりかへばや)の考え方、〈とりかへばや〉の悲劇性っていうもの、それはやはり物語の原型として非常に古くからある。つまり、神話的物語の中でも存在します。これは物語のひとつの原型だっていうふうに考えることができます。
 この〈とりかへばや〉ってことは、なにを意味するかってことなんですけど、これは様々な理解の仕方がされているのでしょうけど、ぼくはそういうことは抜きにして、ぼくなりの理解の仕方をしますと、これは男女の、つまり、エロス的関係、男女の関係っていうもの、男女のエロス的関係における悲劇性っていう問題を、いわばひとつ教条性として取り出すっていうことが、非常に早くから存在することだっていうふうに思われます。
 つまり、男女の間にある悲劇性っていうのは、なにかっていいますと、それは神話性とか、愛とか、エロスとか、性とかっていうふうに言われているもの、そのこと自体、あるいは、そのこと自体が悲劇だっていうことなんです。つまり、そのこと自体だと思います。
 それは、ぼくが勝手に言うんだから、そう思わない人もいるかもしれないですけど、つまり、人間の男女のエロス的な関係っていうものは、これは、精神の関係であれ、観念の関係であれ、またそれは距離が接近して肉体の関係であれ、その男女の関係自体っていうものは、悲劇性の一種だ、悲劇性なんだっていうことを本質的に意味していると思います。
 この悲劇性っていう意味あいは、どこに求められるかっていいますと、ぼくの考えでは、男女のエロス的関係とか、愛とか、性愛というふうに言われているもの、あるいは、恋愛って言われているもののなかには、最終的のところでは、恋愛っていうものの中には、どうしても不可解な、つまり、異性っていうのは不可解であるっていう考え方が、女性は男性に対して、男性は女性に対して、一面では愛の関係とか、神話性の関係が、極端になればなるほどなるわけですけど、その裏面として、裏面に必ず、男性っていうのはわからんなっていうこと、女性にはわからんなっていう、それもまた一種、極端にまで突き詰められることがあるのだと思います。そのこと自体が、いわば悲劇性の本質だっていうふうに、男女の間の悲劇性の本質っていうのは、そのことを指しているっていうふうに、ぼくには思われます。
 そうすると、それが、愛とか、エロス的関係とか、恋愛とか、性愛とか、そういうようなものが成就したって、つまり、理想的に成就したっていうことを、形を考えると、それは、悲劇性の解消であり、同時に神話性の解消であるっていうふうなことになると思います。
 その悲劇性の解消っていうものは、どういう結果をもたらすかといいますと、それは、たぶん、瞬間的、あるいは一時的なんでしょうけど、それは男性が女性化し、女性が男性化するっていうところで、たぶん、性愛っていう、エロス的関係の神話性と悲劇性は、同時に解決するんだっていうふうに、ぼくには思われます。ぼくの理解の仕方はそうです。
 だから、そのことは、そういう理屈だけで、本質っていうものは、やはり非常に古い時代から物語の悲劇性っていうもの、あるいは、物語性のひとつの中心、あるいは核になりえたんだっていうふうに、ぼくには思われます。そこのところが、『とりかへばや物語』ってものが普遍的に世界中どこでも存在するっていうことの、いわばひとつの根拠だっていうふうに思われます。
 もちろん、これにも様々なバリュエーションがあります。しかし、この悲劇性、あるいは〈とりかへばや〉の悲劇性っていうものは、やはり現代小説に至るまで、小説作品、散文作品っていうものを貫徹して存在しています。

15 〈とりかへばや〉の物語-「ルツィドール」

 ホーフマンスタールは、ぼくの考えでは、意識的にですけど、もちろん、〈とりかへばや物語〉っていうものを「ルツィドール」という作品でやっています。これは典型的に〈とりかへばや物語〉ですけど、この典型は、ぼくはドイツ思想も、ドイツ文学も詳しくないからわかりませんけど、しかし、ぼくの考えでは、判断では、推定では、ホーフマンスタールは相当意識的にそれをしていると思われるんです。無意識にそれをやったっていうふうには、とてもこういう物語をつくったと思われないわけです。
 「ルツィドール」という作品なんですけど、ある未亡人の夫人がいるわけです。夫人は2人の娘がいるわけです。姉娘のほうは、非常におとなしいっていいますか、女性的なわけです。妹のほうがルツィドールっていうんですけど、妹のほうは非常に活発な、子どものときにチフスかなんかにかかって髪の毛が短くなったっていうわけです。活発なので、その子を男の子として育てようってして、男装させたほうが便利だ、いいっていうふうに考えて、男装させて育てるわけです。
 そうすると、姉娘のほうに、さまざまな男たちが寄り集まってくるっていいますか、候補者として寄り集まってくるわけです。そのなかの候補者でウラジミールっていうのがいるわけですけど、いってみれば素敵な候補者なわけです。しかも夫人っていうのは、ムシカ夫人って、作品の中ではそうなですけど。夫人にとっては、その候補者は、自分の叔父であって、自分に対して有力な後ろ盾であるはずなのにつれなくしている叔父さんに関わりが深いっていうことも非常にいいことで、姉娘の結びつきっていうものを考えるわけです。
 ところが、妹の男装しているルツィドールが恋文をやって、姉の名前で恋文を男に出すわけです。そうすると、男のほうはそれが姉からきた恋文だっていうふうに理解するので、なんとなく姉娘に対して、アナベラっていうんですけど、姉娘に対して、おまえの恋文っていうのは読んでいるぞみたいな感じ方っていうのが、ひとりでにあらわれるわけです。そうすると、そのことは姉娘に反映して、なんのことだ、この男はちょっと図々しいんじゃないかっていう感じ方をいつでも思っていたのに、段々段々、姉娘のほうは離反していくわけです。
 離反すると、妹は、男装しているルツィドールのほうは、それを苦慮するわけです。非常に苦慮して、なんとかして元以上に、姉娘とウラジミールっていう男性とを結びつけようとして、一生懸命、姉の名前でもって恋文を書けば書くほど、男のほうは、ますます自分は愛されている、好かれているって考えて、ますますそれに傾倒して、姉娘のほうは、ますます図々しくなったんじゃないかっていうふうに、この男は図々しい、どうかしているんじゃないかって、ますます離反していくっていうふうな、そういう〈とりかへばや〉の悲劇性っていうものが、そこにあらわれるわけです。
 その悲劇性が極度になって、もはやこれまでっていうふうになったときに、妹のルツィドールが男に手紙をやって、もう会うのも最後かもしれないから、自分たちが引き上げてしまうから、最後かもしれないから、ここで待っているから会いたいっていうふうに指定するわけです。そして、その時間に男が来てみると、姉娘と大喧嘩になってしまうわけです。もはやこれまでだっていうときに、男装をしていたルツィドールは、姉の服装を、そのときはじめて自分が着て、駆け込んできて、その男を抱擁してハッピーエンドになるっていう、そういう物語、その物語はもちろん日本の『とりかへばや物語』っていうのは長編ですし、はるかにたくさんの物語の起伏があるんですけど、いわば、その物語性、あるいは悲劇性の核っていうものは、そこにぜんぶ集約されているってことが言えます。
 その集約された核っていうものは、いま申し上げました〈とりかへばや〉っていうこと自体のなかにある、つまり、男女のエロス的関係自体のなかにある神話性であり、また、ある意味で、愛っていうのはエロス的であり、情事であるわけですけど、情事自体のなかにおける悲劇性っていうものが根底にあって、それが、物語の原型として作用している、そのことをホーフマンスタールは「ルツィドール」のなかに描いているっていうふうに言うことができると思います。

16 意識の空白性――深淵をめぐって

 で、じゃあ、ホフマンスタールにとって何が問題なのかということになるわけです。いわば物語的な原型にどうしても依存するということは、歴史性に依存するということを意味するわけです。歴史性に依存するということは、意識の内面の問題としていえば、悲劇性を悲劇性として執着するということを意味すると思います。もうひとつはやはり意識における過去、あるいは時間性というものをいわば大きな文学芸術の要素として意味すると思います。
 つまりホフマンスタールの物語の描き方が典型的に示しているのは物語性の型というものに固執することによって、言葉の歴史性というもの、それから言葉の悲劇性というものに固執するということが非常に大きな要素だと言うことができると思います。この意識性というものが、意識の内面性として考えるならば、それは一種の意識の過去性、あるいは過去性に至らないまでも時間制というものに大きな価値を求めるところにあると思います。
 意識の過去性というものは、過去性というものまで言えないときに何かと言ったら、それは意識の空白性と言うことができるのではないかと思います。あることがからをしているときに、その自分がしている事柄というものが周囲の事物からぜんぶ立たれた意識の空白感みたいなものとして存在するという体験はある瞬間をとらえれば誰にでもあるわけですけれども、その瞬間と言うものに対してある根拠、理由を与えていくということがホフマンスタールにとっては意識の時間性のあるあり方として非常に重要な要素になっているんじゃないかと思います。
 このことがどうしてもひとつの志向性、意志をとってきますと歴史性になってきますし、悲劇的原型というものに到達していきますけれども、そこまで行かないところでは、意識がある外界の事物から絶たれて、ある事柄をしているだけでもその事柄自体の意味がよくわからないという空白性というものが、意識の時間性の原型になって、その原型はじゅうぶんな意味あいをつけることができるという観点がホフマンスタールにとっては非常に重要なんだと思います。
 ホフマンスタールは意識の時間性が歴史性、過去性、記憶というところに行かない一種の空白性というものをふたつの仕方で意味づけているように思います。そのひとつは、そういう空白性があるとすれば、その時間性は一種の〈きざし〉ということだと理解していると思います。〈きざし〉ということは何かの兆候、しるしなんだということです。死のしるしかもしれないし、幸福という概念のしるしかもしれない、悲劇のしるしかもしれない、それから歴史のしるしかもしれない。とにかくそれはある〈きざし〉なんだという考え方がひとつあると思います。そういうふうに意識の空白というものを一種意味づけていると思います。
 この意味づけ方というのはホフマンスタールに固有なものであるとともに、浪漫的な文学概念に固有なものだという琴ができると思います。
 それからもうひとつ、ホフマンスタールはそのことを意味づける意味づけ方をしています。「チャンドス卿の手紙」という有名な書簡文体の芸術論のなかで触れられています。そういう意識の空白というのは一種の深遠を意味すると根拠づけていると思います。意識の空白ということはあくまで空白なんであって、これはもしかすると病理的な現象かもしれないという観点を現在的な観点と考えるとすれば、ホフマンスタールのなかにある浪漫的な考え方によれば、意識の空白感というのは意識の深淵なんだという考え方だと思います。
 深淵というのはどういうことかと言いますと、意識が過去性からも、未来性からも隔てられている。その状態が意識の空白感として存在する。これは意識が持っている深淵なんだ。深い淵として文学芸術にとって大きな存在理由があるという意味づけがホフマンスタールに象徴される浪漫的な考え方の大きな要素だと思います。この要素はある意味では現在の小説、芸術に非常に大きな影響を与えています。だからホフマンスタールが再評価されるようになったことはなぜかと言いますと、内面の空白性というものを根拠づける根拠づけ方というものが、現在の根拠づけ方――意識に対する理解の仕方――にある鍵を与えるというようなことがあったからだと思います。その空白を空白として考えるのではなく、それを深淵性――過去からも隔てられ、未来からも隔てられている深淵だという根拠づけ方というものは、浪漫的な意味を持つと同時に、解釈のしよう、視点の変えようによっては現在的な意味を持っているというふうになされていると思います。
 このホフマンスタールの考え方というものは日本の浪漫的な考え方の詩人文学者が受け入れた考え方です。無意識のうちに受け入れ無意識のうちに実現してきた考え方です。だから、もし現在堀辰雄でも立原道造でも芥川龍之介でもいいんですけれども、文学が文学である本質的なものが、詩が詩である非常に本質的なものが作品のなかに含まれているでしょう。その含まれているのはなぜかと言ったら、ホフマンスタールが深淵ととらえた意識の空白性の状態を作品のなかに形象化することができているということです。形象化することができていない場合でも、感覚として作品のなかにそのことを表現することができているということが、堀辰雄なら堀辰雄の文学、立原道造なら立原道造の文学が現代でもたくさんの人に読まれ、理解され、あるいは彼らの文学の本質にあることがそれじゃないかと思われます。たとえば堀辰雄の場合にはホフマンスタールよりも心理主義的に展開しているわけです。
 しかしホフマンスタールはそうじゃないんです。ホフマンスタールが深淵という場合には、これは一種の歴史概念なんです。歴史概念であり、神話概念であり、神話概念の否定の瞬間、無化される瞬間、あるいは伝統性というものが無化される瞬間としての意識の空白というものを、深淵とホフマンスタールは名づけているとぼくは理解します。そのことはたとえば、ホフマンスタールの浪漫主義的な概念のうちで非常に重要な問題じゃないかと思います。

17 古典古代性という資質――自然の風景をめぐって

 もうひとつ、どうしても触れなければならないのは自然性ということです。風景と言ってもいいです。風景と言うものに対する内面的な移行の仕方、あるいは風景から慰められる慰められ方というものがホフマンスタールの浪漫的な概念の非常におおきな特徴だと思います。これはすべての浪漫的な概念の大きな特徴だということができるわけです。
 このことは何を意味するか:ということは、たくさんの人たちが浪漫主義の文学の理解の仕方の中でたくさんの人たちやっているわけです。理解されていないことがひとつあると思うのでそのことを申し上げます。
 ひとつは風景のなかに――たとえば日本の古典的な詩歌の世界、それから近現代詩のなかでも、風景に対して日本の詩歌はなりたっているところがあるでしょう。あるいは自然物に対して成り立っているところがあるでしょう。この問題と関連するわけですけれども、この問題は何かというと、古典性なのです。それは厳密な意味での古典性です。日本の場合にはアジア的性格です。ヨーロッパの場合には古典古代性だと言ってもいいのです。古典古代性に内面が、歴史概念の根拠というものが依拠するということです。あるいはもっと創作意識、創造意識と関わらせて言えば人間の内面的な意識というものが、自然に慰められるとか自然に内面をどうかさせるという感性の表現の仕方というものが、意識の歴史性として何を意味するかというと、日本の場合にはアジア性ということを意味するのです。アジア性というのは日本の場合――他のアジアの諸国でも同じですけれど――原始時代が古代に移っていく中間のところにアジア的という歴史時代があるのです。そのアジア的という歴史時代に人々が生きていたときには、人々の内面性というものと、外部の自然性、風景性というようなものと融和、混和しながら生きていた、共同体をつくっていた時代を想定することができます。意識が無意識のうちにその時代に根拠を求めていくというそのこと自体が、風景に慰謝されるということの意味あいだと思います。
 この意味あいは実体としてとりだすことはできません。心的な、心の現象ですから、こういう段階なんだと言ったら嘘になってしまいます。皆さんだって、「おれは風景とか自然は嫌いだ、人間のドラマが好きだ」という人もいるでしょう。それから資質的、生理的に言って、自然の風景が好きで、人間同士のあいだに悲劇があったら風景を見ていたら解消されてしまうというほど風景が好きだという人もいるでしょう。それから自分は生け花やなんかが好きだという人もいるでしょう。それからそういうのはまったく嫌いで、人臭いのが好きだ、特に異性が好きなんだという人もいるでしょう。都会が好きだ、自然は嫌いだという人もいるでしょう。それは資質の問題です。この資質というものは、ある意味では生理的、体質的なものです。ですからこれは変えることができません。ごまかすことはできます。意識的に否定することはできますけれども、ごまかすことができない部分があります。自分が自然が好きか、風景に慰謝されるかということは体質的なことでどうしようもない部分があります。
 ですからさきほどと同じことを言いますけれども、善悪の問題ではありません。自然の風景が好きだ、いや嫌いだということのなかには善悪の問題はありません。これは善悪の問題ではありません。生け花をやっていたら封建的なんだという言い方をする人がいるでしょうが、それは短絡的です。風景が好きか、自然に慰謝されるか、人間臭いものが好きかということのなかには、体質の問題、資質の問題があります。その問題までそれを煮詰めてしまえばこれは善悪の問題ではありません。善悪の問題を言うためには、いちど資質の問題に還元しておいて、それに対して否定的に意思するかしないか、あるいは否定的にそれを想像するか肯定的に想像するかというところでなら倫理の問題が介入できるかもしれませんけれど、それ自体は別に資質の問題でどうしようもないところがあります。それは善悪の問題ではないところがありますそのところは短絡しないほうがよろしいと思います。生け花が好きかということと生け花という制度をどう思うかということとは全然別のことですから短絡しない方がよろしいと思います。
 そうしますと資質の問題としてそれはどうすることもできないかというと、決してそうではない部分があるんです。なぜかというとそのことは、文化の問題でもあります。歴史の問題でもあります。そのことは言ってみれば、意識が自然に慰謝されて生きてきたある時代の感性というものにひとりでに根拠を依拠させているということを、知らず知らずにしてしまうということの歴史性を意味しているんです。そのことは、ホーフマンスタールの自然に慰謝される描写とか、鷲やなにかの眼になって風景を見るという描写がホーフマンスタールにはたくさん出てきますけれども、歴史の意識性としては古典古代的な――あるいはそれ以前的なゲルマンの原始的な――ことに意識の根拠をおいていることを意味します。だからドイツ浪漫主義でも、ゲルマン資本の肯定であり、ナチスの肯定になりと移行したかどうかということとは区別されなければなりません。でもひとりでに移行してしまったなかには意識のある歴史性というものが、ドイツ浪漫派の意識のなかにも明瞭になかったことを意味していると思います。そのことが、キリスト教以前の肯定になり、ゲルマン的精神の肯定になり、民族主義的ファシズムになるという要素があったとしたなら、その問題が論理的に明晰にされていないところが会ったからだと思います。そのことは非常に重要な問題だと思います。
 たとえば日本でも宮沢賢治なんかはそうです。宮沢賢治は風景に慰謝されるわけです。さまざまなバリエーションをつくっていますけれども、あれはどうしようもないわけです。宮沢賢治が農村にいたから風景に慰謝されるような作品を描いたとは言えないでしょう。あれは宮沢賢治の資質としか言いようがないくらい風景に淫しているでしょう。このことは資質の問題だということが重要だと思います。もうひとつは意識の歴史性の問題です。意識が何に依拠するかということの歴史の問題だということができると思います。
 ホフマンスタールもやはり、現代の小説概念からいえば不必要と思われるくらい自然描写をやるわけですけれども、そのことの意味あいはそういうことに含まれていると思います。それから日本の詩歌というものが、自然物をどうするかという問題から進んできたその問題のなかにも意識の歴史性ということが大きく関連してくるだろうと思います。そこで考えるべき問題がたくさんあるだろうと思います。

18 〈病い〉という概念を拡張する

 それから、強いてホフマンスタールの作品形成のなかから取り上げたいことがあるとすれば、先ほどから触れてはいることなんですけれど、病い【音飛び】という概念は現代ではどうなっているかと言いますと、現代では肉体の病いという概念もあり、お医者さんの概念では精神の病という概念もあります。そうすると、人間の個々の身体と、その身体を座とする精神、観念の働きの世界全体は、ひとつの歴史的なボディ、社会的なボディであると考えうる考え方が比喩としてできるわけです。その場合、肉体性というものは、市民社会における経済とか経済社会構成とか産業構成というのが肉体にあたり、精神の働きというのは政治制度や国家や芸術がどうなっているかということと同じように理解するという比喩をとることができます。
 そうしますと現在における病気の概念というものを、概念として病気という概念をこしらえたとき、その概念のなかに現代におけるさまざまな精神的な内面性みたいなものを含ませて考える考え方というものが、可能な視点がないだろうかと考えますと、唯一の可能な仕方は、病気という概念を拡大することです。
 どう拡大するかと言いますと、人間が精神の世界――観念の働きと、肉体……
【校内放送】
……それは病気という概念を拡大することなのです。どういうふうに拡大するかというと、人間が肉体を持ち、肉体を持った人間がある観念の働きを持っているということ、そのことが病気だと考えることです。人間が肉体性というものと、精神性というものとまったく重ならないで、肉体通りに精神の働きが働かないで、肉体と重ならない部分ができているということ――精神の働きは精神の働きで、肉体とは関係ないと言える部分が精神のなかにできてしまった。そのために人間の肉体と精神がずれてしまった、重ならない部分ができてしまったというそのこと自体が病気なんだと考えることだと思います。
 そのことが人間なんです。人間とは何かといったらそのことです。精神の働きと肉体の働きとが重ならない部分ができてしまったということ自体が人間なんです。それが動物と違うところだと思います。それが明瞭にできてしまったことが動物と違うことで、そのこと自体が人間なんです。同時にそれは病気なんだということです。つまり、人間であるということは病気なんだと考えることです。そのことによって、精神の内面のぜんぶの領域――被害感であり、異常であり、被害妄想である、病気である、作為的な幻覚であるというさまざまな領域で描ける内面性の領域がありますけれども、その領域をぜんぶ包括する統一的な視点というのは、人間というのは病気なんだ、精神の働きと肉体の働きとが一致しない部分ができてしまったということが病気なんだし、そのこと自体が病気なんだという概念まで病気という概念を拡張して、その拡張された病気という概念から人間の精神作用、それが産み出した文化芸術、政治制度、物質文化を統一的に眺める視線ということをとることによって、人間というのは人間に対する考え方が包括的になりうるんじゃないかと考えられると思います。
 その病気という概念のはるか向こうの方に死という概念がつかまえてきてもよろしいわけです。死という概念が何を意味するか。死という概念から病気ということを見ていけば、たとえば胃が悪いというときは胃の内壁が悪くて頭が痛くなって背中が痛くなる。胃病という病気があるとすれば、肉体的には胃の内壁であり、頭痛であり、背中が痛い、倦怠感というようなものとしてあらわれます。それは死という概念が、病気という概念が肉体全部を覆ったときに、それを死というわけです。死という概念をもとにして、人間の肉体と観念の働きを見ていくともっと徹底した考え方ができるかもしれません。
 しかしそれは別の問題であって、ホフマンスタールが提起している、現在に生きる問題、現在に生きさせられている問題、それからホフマンスタールがさまざまな歴史的な制約をひきずってきたというような問題は、じゅうぶんな柱として病気という概念を人間の存在そのものに、肉体性と精神性の分離、違和というところに病気という概念があって、そのことは人間の存在という概念と一致することができます。その観点から人間の内面性の全世界を押さえていくというところから人間の芸術文学の営みの鍵、モチーフを探り出すことができるという観点を持って行けば、ホフマンスタールが提起した病いという概念というものが改めて現在の問題として甦ってくるという問題がありうるのではないかと考えられます。
 語るべきことはまだあるような気がするのですけれども、いちおうこれで終わらせていただきます。
(拍手)

19 司会



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