1 司会

(司会)
 ただいまより、金榮堂創業65周年記念講演会を開催いたしたいと思います。その前に、若干、お詫び申し上げなければならないのですけど、このような会場というのは失礼ですけど、このような会場っていうのは失礼ですけど(笑)、これぐらいの大きさの会場しか間に合いませんで、お立ちの方がでることは覚悟していたんですけど、ほんとうに申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。
 それから、今日は日曜日でして、本来ならば非常に涼しい会場なんですけど、冷風のみで冷凍がないんですね、少し暑いと思います。また、次第に暑くなってくるんじゃないかと思いますし、それから、吉本さんの話で、ずいぶん熱気が満ちてくるんじゃないかと思いますけど、9時まで会場を借りておりますので、3時間、思う存分吉本さんにお話しいただけるようにいたしております。
 もし時間が若干でも残りましたならば。時間内で質疑応答の時間を取らせていただきます。もし、いろいろお聞きになりたいという方がございましたら、お残りいただいて質疑応答いたしたいと思います。それでは、ただいまから始めさせていただきます。最初に私ども金榮堂の主人、柴田良平のほうから一言ご挨拶申し上げます。

(柴田良平氏)
 本日は、私どもの催しに多数お集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございました。なかなか初めての経験で不慣れなものですから、たいへんご迷惑をかけているかと思いますけど、どうぞお許しください。
 この吉本先生の講演会を催します主旨とか、それから、その経緯などは、ポスターとチラシに貧しい文書を書いておきましたが、それがすべての事由でございますので、ここで改めて申し上げることは致しません。
 この講演会は、私どもが、なにも本屋という商売をひとつの文化事業であるとか、それから、本屋というものが、地域文化のひとつの拠点であるとか、そのような考えをもって催すものではまったくありません。私どもは一個の商人でありますから、そのような文化を担うとか、おこがましいことは一度も考えたこともございませんし、徹底してそういうふうにありたいと思っております。
 商人である本屋が、では、どのような場所かといいますと、私はこのように考えます、本の背中を見る者、私どもが、本の中身を見る方々と、読者の方々と、対決する場所である、そのように考えております。それで、やることは、あくまで商売であります。ただ、このような催しを、それではなぜ、一商人の分際で、おこがましくもやるかと申しますと、ひとつには、本の背中を読む者が、本の中身を読む方々に対して、ひとつの問いかけをしてみたい、そのように考えたからにほかなりません。
 これからも、私どもの本屋は、そのような本屋であるということを、よくお考えいただきまして、そして、店頭で私どもと読者の方々と、よい意味での対決をしかも厳しくて温かい対決を続けていきたいと存じます。いろいろ申し上げたいのですけど、先生のお時間のほうを喰ってはいけませんので、ご挨拶はこれだけにさせていただきます。どうも今日はありがとうございます。(会場拍手)

(司会)
 どうもありがとうございました。続きまして、吉本さんのお話をお伺いいたしたいと思います。吉本隆明さんに関しては、みなさんのほうがよくご存じだと思いますし、くどくど説明する時間ももったいないというような感じがいたします。
 ただ、昨日、梅光女学院におきまして、「シモーヌ・ヴェイユについて」っていう題で、2時間半にわたる長い講演をしました。そのときの感じからいいまして、およそ私たちが吉本さんに関して、なにかを紹介すること自体が非常に無意味なような感じがいたしましたので、あえてご紹介いたしません。
 吉本隆明さんに関する著作は、いちおう私ども店のほうで全部揃っております。揃っておりますということは、それを読んでいただければいいと、ただそれだけのことでございますので、そのようにお願いいたします。それから、今日のテーマは「〈アジア的〉ということ」という題でお話いただきたいと思います。どうぞ、吉本さんをご紹介いたします。

2 〈アジア的〉という概念

 もし立ってる人、ここでいいなら座っちゃって構わないですから、汚れても構わない方はどうぞ。
 今日は、「〈アジア的〉ということ」、つまり、〈アジア的〉とは何かっていうことで、お話しすることでやってまいりました。〈アジア的〉っていう概念は、きわめて自明のことのように受け取られているわけですけれども。よくよく考えていくと、あんまり明瞭になってないっていうようなことがあります。それで、その明瞭になってない部分っていうのを少しはっきりさせてみようじゃないかっていうことと、はっきりさせた上で、なにかこういう問題があるんだっていうようなことがあるならば、その問題について触れてみようっていうふうに考えております。
 ほんとに座っちゃわないですかね。目ざわりってわけじゃないんだけど(笑)、悪い気がしてしょうがないから。
 それで、〈アジア的〉っていう概念が、いつ出てきたかっていうことを申し上げてみますと、これはたぶん、ぼくの当てずっぽうであり、たぶんそうであろうと思うのは、ヨーロッパが自分たちの近代国家っていうものを確立し始めて、そして、市民社会っていうようなものが成立し始める。つまり、18世紀の末頃からですね。その時に、いわば世界中にヨーロッパ人が植民地を求めてっていいますか、新天地を求めて、いろいろな意味合いで出かけていった。その見聞みたいなものが非常に明晰にできあがってきた。そういう時期に、たぶん〈アジア的〉っていう概念が成立したんだっていうふうに思います。
 言い換えますと、ヨーロッパの文化が、ヨーロッパの文化っていうふうにいうことは、すなわち、それは世界の文化を意味するんだ。あるいは、ヨーロッパの考え方っていうようなものをいうことは、それ自体がすでに世界の考え方っていうことを意味するんだ。つまり、ヨーロッパっていう地域があたかも世界普遍性をもっているっていうような、そういうヨーロッパが世界普遍性をもち始めたそういう時期に、たぶん同時に〈アジア〉っていう概念は成立したって考えます。
 で、これには様々な旅行記とか見聞録とか、そういうようなものがどんどんどんどん出てきたっていうこともあるのですけれど、たぶん最も重要なポイントっていうのは、〈アジア的〉っていう概念が出てきたことの重要なポイントっていうのは、ひとつはヨーロッパの市民社会っていうようなものが、成立しかかったっていうことだと思います。
 つまり、どういうことかっていいますと、市民社会が成立したっていうことは、個人の意識が自分自体で、つまり、誰の見方とか、誰の考え方も借りないで、自分の見方でもって世界を見ようっていうふうなことが視野としては可能になった。あるいは考え方としては可能になったっていうことを意味していると思います。
 それから、もうひとつは、経済的にいいますと、世界市場っていいますか、単一市場っていいますか、世界市場っていうものが成立しかかってきたっていうことだと思うんです。つまり、商品の流通とか、交通とか、販売とかいうことに関する限りは、商品には国籍もなければ、どこ行っちゃいけないとか、どこ行くと色が変わっちゃうとか、そういうことはないっていう概念だけは、非常に明瞭に確立したっていうことが、非常に大きなポイントだと思います。
 それといわば自己意識っていいますか、自己意識で世界を眺めることが可能性としてはあるんだっていうこと、眺められるかどうかっていうことは別ですけども、意識としては、世界全体をそれぞれの個人が眺めることができるんだ。自分の見方で見ることができるんだっていう概念が確立したときからだっていうふうに思います。
 その時に〈アジア的〉、あるいは、〈アジア〉っていう概念がはじめて、つまり、脅威の的でもありますし、また色々な意味で異質の対象っていうような意味合いでも確立してきたんだっていうふうに考えられます。
 たとえば、モンテスキューの『法の精神』っていうのがありますけど、モンテスキューの『法の精神』の中に「日本の法の無力」っていう項があるんですよ。「日本の法の無力」っていうのは何をあれしてるかっていうと、近世、つまり、徳川時代の法について言及しているところがあるんですけど、「日本の法の無力」っていうようなもの、モンテスキューがどっから日本っていう概念、あるいは日本についての知識っていうのを獲得してきたかっていうと、それは、『法の精神』の中に注がくっついてて書いてありますけど、東インド会社ですね、インド会社の成立、つまり、インド会社の設立のために必要な旅行記抜粋集みたいな、そういう本から日本についての概念を獲得したっていうことがわかります。そういうふうに注に書いてあります。
 その本は知りませんけれど、しかし、イギリスがインドを植民地化するために、東インド会社っていうのを立てて、それで植民地化していったわけですけれども。そのために必要な東洋に関するあらゆる見聞録、資料っていうようなものをヨーロッパが集めたっていうことを意味します。つまり集め得たってことを意味します。
 それで、その集め得た知識っていうのが、いわばモンテスキューみたいな哲学者、法哲学者のいわば東洋、日本なんかに関する情報源になった。あるいは考察の対象になったっていうようなことがいえると思います。
 それですから、モンテスキューが「日本の法の無力」みたいなことで、徳川時代の近世の封建法っていうようなものについて考察してるわけですけれど、それはずいぶん思い違いがあるわけです。思い違いは、日本人が読めばずいぶん思い違えているわけですけれども。なにを思い違えているかっていうことも、すぐにわかるように書かれていますけれども。その思い違いは、その知識が植民地政策に必要なあらゆる資料、東洋についての資料を集めてこうっていうようなことで、旅行記なんかを集めた。その旅行記の記述みたいなものを規範にしているから、そういう曖昧さっていいますか、不確実さっていうようなものが出てきたんだと思います。
 で、ほんとうの意味でヨーロッパの哲学者とか、思想家とかっていうものの、東洋についての、あるいは東洋のうちでも特に日本みたいな辺境ですよね、小さな島国ですけども、つまり、どうでもいい島国なわけですけれども、そういうところについてさえも正確だっていう、ほとんど正確な読みをしているっていう、その解釈の仕方はまた異論がありますけれど、正確な読みをするようになったのは、マックス・ウェーバーっていう学者がいますけど、ドイツの学者がいますけれど、マックス・ウェーバーになってはじめて、非常に東洋とか日本についての情報っていいますか考察の基礎になっているもの及び考察の仕方が、きわめて的確であるっていいますか、見事であるっていうようなことが言えます。
 つまり、間違ってないと、間違った情報をもとにしていないとか、ずいぶんたくさん、我々よりももっとずいぶん日本について勉強したなとか、そういうことを感じさせるようになっているのは、ウェーバーが初めてであり、そしてたぶん、今でも総合的にいえば初めてであり終わりであるかもしれないと思います。つまり、これから出てくるかもしれませんけれど、あまり正確じゃない。理解の仕方が正確じゃないっていうふうに思います。
 だから、そういう意味合いではウェーバーに至るまで、西洋の東洋に関する知識っていうようなのは、個々の知識自体についていえば、あまり正確でないっていうようなことがいえると思います。しかしながら、知識あるいは資料自体が正確でなければ、東洋についての考察が正確でないかっていうと、そうも言えないんです。それから、東洋についての資料とか情報とかっていうのをたくさん集めているから、集めて書かれているから、その者が書いた理解の仕方っていうものが正確であるかっていうと、そうも言えないわけです。だから、まったくその人の、理解した人の洞察力っていうものに依存するところが多いわけです。で、そういう意味合いではじめて、僕らを納得せしめ、しかもかつ未だに人類の歴史の中で最も優れた考察だろうっていうふうに思える考察は、ヘーゲルによって初めてなされたっていうことができます。

3 〈自然〉を原理とするということ

 で、ヘーゲルとそれに続くヨーロッパにおける巨匠なわけですけど、巨匠という意味合いは、単に同時代的に優れているというだけじゃなくて、もうひとつの巨匠っていう理由は、ヨーロッパがその時だけなんですよ。つまり、ヨーロッパ即世界である。それから、ヨーロッパの方法、考え方自体が即世界の考え方であるっていうような意味合いで、ヨーロッパの考え方っていうものが世界普遍性を獲得したのは、ほんとに18世紀の末から以降現在まで、あるいは現在より少し前までぐらいなんですよ。だから、そういう意味合いでヨーロッパ自体の考え方を考えることが、即世界の考え方を考えることだっていうふうに言っていい世紀っていうのは、わずかに18世紀、19世紀の2世紀にすぎませんけれど、あるいは20世紀半ば、つまり現在までぐらいにすぎません。つまり、二百何十年の間のヨーロッパをとってきますと、ヨーロッパの考え方が世界の考え方だと言ってよろしいと思います。
 それから、ヨーロッパが達成したものが、世界が達成した最も優れたものだっていうふうに、いずれにしろ、どんな欠陥があるにしろ、最も優れたものだっていうふうに言ってよろしいのは、その2世紀か2世紀半の間だと思いますけれど。その頃での巨匠っていうふうに、たとえばヘーゲルとか、それに続くマルクスとかっていうのは、そういうふうにいえる意味合いの巨匠なわけです。ですから、なかなか個々の情報っていうのはそんなに的確じゃないわけです。つまり、ヘーゲルでもそうです。ヘーゲルの東洋についての理解の仕方とか、勉強の仕方とかっていうのは的確ではないと思います。
 たとえば、中国の古典について、中国の思想について言及する場合に、易学ですけど、易の思想っていうのを非常に重く見ているけど、儒教の思想なんかについては、クソミソにこんなのくだらんのだっていうふうな言い方をしてるんですよ。そのかわり、易の思想っていうのは、非常に優れた宇宙観であり、世界観だっていうような言い方をしていて、ちょっと今の僕らが読むと、ちょっとこれは違うよっていうような、理解の仕方が違うよっていうようなふうになるわけですけれども、ただ個々の情報が、そんなに正確でないにもかかわらず、〈アジア〉っていうものをつかむ掴み方っていうのについては、現在でも滅びないような、最も優れた考察の仕方をヘーゲルはしています。
 で、ヘーゲルの〈アジア〉っていうものをつかむ掴み方、つまりヘーゲルが〈アジア的〉っていうふうに考えたのは何かっていいますと、それは、〈自然〉っていうことなんです。つまり、(アジア)っていうのは〈自然〉なんだ。(アジアの原理)っていうのは〈自然の原理〉なんだっていうふうな説明の仕方をしています。
 つまり、〈自然〉っていうものをどのように考えて、それを制度とするか、あるいは、〈自然〉っていうものをどのように考えて、それを宗教とするか、〈自然〉というものをどのように考えて、人間の内面の原理とするかっていうような、そういうことが(アジア)、あるいは〈アジア的〉っていうことの特徴であるっていうふうにヘーゲルはつかまえているわけです。
 これに対しうる概念として、ヘーゲルが対比させている〈ヨーロッパの原理〉っていうのは何かっていうことなんですけれど、それについては、(ヨーロッパの原理)っていうのは〈自由〉だって言ってるわけです。(自由)って原理だって言ってるわけです。しかし〈アジアの原理〉っていうのは、〈自然〉って原理だって言ってるわけです。
 その基本にあるのは、ヘーゲルの考え方によれば、人間の個人の内面性っていうものを考えられるっていうことが、それが〈自由〉なんだっていうこと、それから個人の内面性っていうものをどこまでも拡大していくことができるっていうこと、そのことが、(自由)っていう概念っていうのはそういう概念だっていうのが、それが〈ヨーロッパの原理〉だってふうに言っています。
 ところが、〈アジア〉っていうのは個人の内面性をどこまでも内面性として拡大していくとか、掘り下げるとかっていう、そういう原理は(アジア)にはないっていうこと。それで、(アジアの原理)が大なり小なり内面的になる場合にも、たとえば仏教のように内面的になる場合でも、それは〈自然〉っていうものを内面化していく、(自然)っていうものを内面化して、〈自然〉といかにして合一するかとか、いかにして〈自然〉の中に感情を移入していくかとか、あるいは、〈自然〉を原理として。理解して悟りを開くかとかいうような、たとえば、仏教なら仏教でいうと、そういうふうにあくまでも〈自然〉っていうのが基本になる。
 で、内面が内面として、人間の内面が内面として、どこまでも拡大され、どこまでも深化されるっていうような概念は、東洋にはないっていうのが、大づかみなヘーゲルの東洋についての、アジアについての掴み方なわけです。たぶん、この掴み方は基本的な掴み方として最も正確であり、そして現在も滅びないっていうような正確さをもっているっていうふうに思います。
 で、そうすると、ヘーゲルのなかでは、どこまでも〈自然〉っていう概念に留まっているっていうことは、結局、一種の停滞なんだっていうふうに言ってるわけです。で、人類の歴史、人間の歴史を考えてみると、〈自然〉っていうものは自分の行動の原理とし、それから、肉体の原理として、精神の原理として、〈自然〉とそのまんまおんなじだっていうふうに、つまり原始時代みたいなところで人間を考えていくと、そうすると、それは非常に未開な、そして野蛮な、そしてほっとけば動物のように弱肉強食になっていく、そういういわば動物と同じような状態っていうのが、いわば〈自然状態〉っていうものの基本であると。で、人間の歴史の進歩っていうのは、そういう〈自然状態〉をいかにして内面化していくか、いかにして〈自然〉っていうものを払底していってですね、意識が意識として独立していくっていうようなところに、どこまでいくかっていうことは、いわば人間の歴史の進歩の方向だっていうのが、ヘーゲルの基本的な歴史概念であるわけです。
 ですから、そういう概念でいくと、〈自然原理〉っていうようなものを、(自然)っていうものをどこまでも払底できないっていうような〈アジア〉っていうのは、いってみれば未開なある状態に留まっているってふうに、ヘーゲルの理解の仕方ではそういうふうになっていきます。
 で、この理解の仕方っていうのは、ひとつきわめて原理として正確なように思います。これに対して、ヘーゲルがヨーロッパの原理としてつかまえた自由っていう概念、その自由っていう概念は、人間の意識が自分の意識として独立に、どこまでも無限に自分を拡大していくことができるっていう、その概念がヘーゲルの自由の概念ですけれども、その概念と対比させたわけです。
 そういうふう対比させてきまして、それで(アジア)っていうようなものは、どこまでも〈自然原理〉っていうものを基としている限りは、どこまでも停頓していると、歴史のあるところで停頓してしまった。そういう状態で、いつまでも眠っているっていうような考え方を、概念をヘーゲルは出してきています。
 だから、ヘーゲルの言い方で言いますと、〈アジア〉では(自由)っていうことの何たるかを知っているのは、ただ一人なんだ。専制君主ただ一人だ。あとの人は、あとの人間っていうのは全部、〈自由〉っていうのはなんだかわかっていないっていうふうな言い方をしています。
 この場合の(自由)っていうのは相変わらず、人間の意識の内面性っていうようなものは、どこまでも無限に自分を拡張していくことが、拡大していくことができるんだっていう概念が、(自由)っていう概念ですけれども。〈アジア〉っていうのは、それを知らないって言っています。もちろん〈アジア〉の人間っていうのは全部知らない。それを知っていないっていうふうに言っています。それで、それを知っているのはただ一人、専制君主だけだっていうふうに、ヘーゲルはそういう言い方をしています。
 この言い方っていうのは非常に極端ではありますけれども、たぶん非常にあてはまると思います。みなさんもきっと考えるとその意味合いがわかるだろうっていうふうに思います。で、こういう概念をヘーゲルが出してきて、それではじめて歴史っていうのは世界である。あるいは世界をどう掴むかっていうことが歴史なんだ。あるいは、世界がどう展開するかっていうことが歴史っていう概念だっていう概念を、はじめてヘーゲルが確立していくわけです。そのなかでの〈アジア〉っていうようなものは一応〈自然原理〉っていうものをどこまでも離れないでいるっていうなのがアジアだっていうような掴み方をしているわけです。

4 ヘーゲルとマルクスのすごさ

 ここでいくつかのあれがあります。ひとつは、ヘーゲルがそういうふうに掴みながら個々の地域のことについて論じていくわけですけど、ヘーゲルが非常に確かさっていうのを持っているっていうふうに、読む人間、ぼくらに与えるっていうのは、どこからくるかっていうことなんです。先ほど言いましたように、それは情報の正確さっていうところからくるのではないだろうって考えられるのです。つまり、情報の正確さっていうことでいうのならば、(アジア的)とか、〈アジア〉とかっていう言い方は、だいたい何の意味もないっていうことになります。
 つまり、どうしてかっていうと、そんなことを言ったって、〈アジア〉のなかにも色々あるんだってことになります。それから、アジア人っていったって一人一人違うんだみんなっていうふうに言っていけば、無限に情報の正確さっていうのは、要求されるわけです。その無限に正確に要求される情報の正確さをヘーゲルは少しも持っていたわけではありません。だから、非常に大掴みに〈アジア的〉っていうのは、それは、〈自然原理〉なんだっていう掴み方をして、それから、個々の掴み方を展開していきます。そして、それは必ずしも正確とは言えないと思います。
 それなのに、なぜヘーゲルのつかまえ方っていうものが、我々を、いまでも感心させる、いまでも驚かせるのかっていうことがあるわけです。それは、もちろん、簡単に言ってしまって、ヘーゲルっていうのは偉かったからだって言えば、それまでのことなんですけど、たぶんそうじゃないんだと思います。そういうことじゃないんだと思うの、つまり、ヘーゲルにひとつの原理っていいますか、原則があるっていうことなんです。
 どういう原則かっていいますと、現実に事実として行われている現実の社会の動きとか、それにまつわる様々な動きっていうものは、その動きっていうのは必ず論理的だっていう、いってみれば原理があるわけです。必ずそれは論理的だっていう、信念っていうと、宗教じみますから、信念じゃなくて、そういう原理があったってことなんです。
 だから、原理があるから、もちろん確信があります。つまり、自分の言っていることは、いっけんすると大雑把なように見えるかもしれないけど、大雑把に〈世界〉とはとか、(世界像)とか、〈アジア〉とか、〈ヨーロッパ〉とか、こういう大掴みなように見えるけど、自分の言っていることは絶対に現実的だっていう、つまり、じぶんが観念として、あるいは、論理として展開している、あるいは、原理として展開していることは必ず現実的だ。つまり、必ず現実的だっていう確信が、もちろん、ヘーゲルにあったと思うんです。
 その確信がヘーゲルの方法です。方法っていうのは、いってみれば、弁証法なわけですけど。じぶんの方法に自信があって、じぶんの方法によれば、必ず現実的なものは、観念的な論理に移し入れることができる。つまり、現実的な動きは必ず合理的である、必ず合理的以外の動きなんか、現実的には動くことなんかありえない。だから、いっけん非合理に見える現実的な動きっていうものをよくよく捉まえてみたら、必ず合理的だっていうような、そういう自分の方法についての確固たる確信があったっていうことだと思います。
 それを掴んでいるか、掴んでいないかってことが、いわば、情報が正確であるかどうかってことに関わりなく、たとえば、ヘーゲルの〈アジア〉っていうものに対する捉まえ方っていうものを非常に光彩陸離っていいましょうか、非常にブリリアントにしているっていうようなことだろうと思います。
 そのことっていうのは、マルクスっていうのは、どうして偉いかっていうと、そのことを非常に基本的に掴んだんです、つまり、わかったんです。ヘーゲルの歴史観とか、歴史哲学とか、歴史を展開している論理とか、そういうものの秘密っていうのは、どこにあるのかっていうことを、マルクスは非常に的確に掴んだんです。
 もちろん、ヘーゲルは観念的な歴史学ですから、世界の歴史っていうのは、世界精神のひとつの具現だっていうような、そういうのなんだ、むしろ現実のほうが手段みたいなもので、実現するのは世界精神が実現するんだっていうような、まったく観念的なわけですけど。しかし、もちろん、ヘーゲルの考え方が観念的だっていう人は、同時代にもたくさんいたわけです。だから、すでにあれは老いぼれた爺さんだっていうふうに、そういうふうに考えた、そういう人達はたくさんいたわけです。ただ、そうじゃなかったのは、マルクスとエンゲルスだけがそうじゃなかったんです。あいつは偉いと思ったんです。そして、あいつはすごいと思ったんです。あいつだけはすごいんだっていうふうに思ったんです。
 それで、どこがすごいかっていうことを、マルクスは見破ったっていったらおかしいですけど、それを掴んだんです。それはどういうことかっていいますと、やっぱり同じなんです。疑問は同じなんです。なぜ、やつが言うことは、いっけん、ぜんぶ観念的であって、全部つかまえ方も、〈世界史〉とか、それから、〈アジア〉とか、〈ヨーロッパ〉とか、〈自然原理〉だとか、〈自由の原理〉だとかいうけど、いっけん、全部みんな観念的なことで歴史を捉まえようとしているけど、なぜ、やつの捉まえ方っていうのが自分たちを打つのだろう、自分たちを驚かせるのだろうかっていうことを、やっぱり、非常に疑問に思ったわけです。
 それでやっぱり、ヘーゲルの歴史哲学っていうのを、一生懸命、マルクスは勉強したわけです。そしたら、その秘密っていうのはここだっていうのがわかった。つまり、そのことは、ヘーゲルが自ら言っている現実的なものは合理的なんだって言った場合の現実っていうものと、それから、合理的、つまり、論理的な論理とか、観念とかですけど、論理とか、観念とかを繋げているものっていうのは何だろうかっていうことなんです。その繋げている鍵っていうのは何だろうかっていうことを、マルクスは考えていったわけなんです。
 それはようするに、現実的なものと観念的なものとの間には、明らかにヘーゲルがいうように、必ず連携があると、その連携っていうのは何かっていったら、それは〈疎外関係〉だっていうふうに、そういうふうにみたんです。そういうふうに見破ったんです。
 つまり、現実っていうものが、現実の動きが、ようするに、動きとして跳ね上げてしまうもの、あるいは、跳ね飛ばしてしまうもの、あるいは、じぶんで排除してしまうもの、そのものを捉まえたものが、ようするに、論理とか、理念とか、観念とかっていうものは、それなんだっていうふうに、そういうふうに考えたんです。
 だから、この〈疎外〉っていう関係を非常によく捉まえていけば、非常によくはっきりさせていけば、ヘーゲルの歴史哲学っていうのは、そのまんまそっくりこれは使えるんだと、使えるっていうことは、どういうことかっていいますと、使えて同時に、これは現実の動きを捉まえる方法自体として、これは使えるんだっていうことなんです。
 つまり、逆にいうと、ヘーゲルの捉まえ方以外には、世界を世界として捉まえること、世界を世界像として捉まえることっていうのはできない、それ以外の方法ではありえないっていうふうに考えたわけです。
 しかし、ヘーゲルの捉まえ方は論理の捉まえ方、理念の捉まえ方だと、歴史というよりも歴史の理念に翻訳したものだ、しかし、この方法以外には、世界全体を捉まえることはできないだろうっていうふうに考えた。そうだとしたらば、その2つの関係をはっきりさせれば、はっきり、関係が何であるかってことを見破れば、それはそっくり一見すると観念を記述し、歴史をただ言葉で記述し、そして、言葉でこうこうこうだっていっているに過ぎないように見えるものが、そのまま現実の動きを、そのまま表現しているものだっていうふうに、そういうふうにすることができるんだ。つまり、記述された歴史っていうものを、いわば現実の動きそのものを記述しているんだってところにもっていくことができるんだっていうことを、マルクスは見破ったと思います。そこで、マルクスの概念が、つまり、〈アジア的〉っていう概念も、〈世界〉っていう概念もそうですけど、〈アジア的〉っていう概念がそこで出てくるわけです。

5 農村共同体をどう考えるか

 もうひとつ、マルクスが〈アジア的〉っていうことに非常に関心をもった、もうひとつの理由があるんです。それは先ほど言いましたように、イギリスならイギリスがインドに対して、東インド会社を設立して、それを基盤にして、インドに対して植民地政策を強行していくわけです。そういう動きがあるわけです。もちろん、中国はたとえば、アヘン戦争をし始めるってことがあるわけなんです。
 それで、たとえば、もうひとつのことがあります。ロシアっていうのがあります。ロシアっていう〈アジア〉があるわけですけど、ロシアっていうのが、つまり、帝政ロシアなわけですけど、ロシアの進歩的な人達が、どうしてもわからないこと、つまり、どう理解していいかわからないことが、ひとつあったわけなんです。
 そのひとつっていうのは、やっぱり、〈アジア的〉っていうことなんですけど、〈アジア的〉な制度の基礎になっている村落共同体、つまり、農村の共同体なんですけど、農村の共同体っていうものを、どういうふうに考えたらいいのかっていうことが、ロシアのそのときの進歩的な勢力にとって非常にわからないことだったんです。
 それはどうしたらいいんだ、つまり、村落共同体っていうようなものを、どういうふうに考えたらいいんだ、つまり、それをどう処理したらいいのか、あるいは、どういうふうに処理するべきだっていうふうに、革命っていう概念を考えたらいいのかっていうことがわからなかったわけです。
 どうしてわからないかっていうと、これはアジア地域の人の一般的にどこでもそうなんですけど、どこでもある問題はその問題なわけですけど、どうしてかっていうと、農村共同体、あるいは村落共同体っていうものは、さまざまな微妙なニュアンスの違いはあるんですけど、基本的には農業の、たとえば、耕作する土地ですね、土地みたいなものは、村落が共同体自体で持っているわけです。そうしておいて、個々の農民は共同体から自分の土地を分けてもらって、それで、それを耕して、それで、自分の取り分っていうのは、事務費用みたいなものを除いて、自分の収穫は自分のものにするっていうような、そういう共同性っていうのは、〈アジア〉では村落の基本的なところにある形態なわけです。
 そうすると、もしもそれを理想的に運営するならば、つまり、個人にとって都合がいいこと、つまり、個々の農民にとって、非常にいいことです。つまり、個々の農民を富ませるとか、個々の農民の収穫を豊かにするとか、富ませるとか、そういうことについては、個人的なペースでいくと、そうじゃなくて、個人個人でやったら、たいへん不利であるというようなことについては、共同体が当番制で責任を負って、共同体が処理する、たとえば、どこか水害があって、それを元に直さなくちゃいけないっていうときには、共同体がそれを処理する。個人では到底それができませんから、それを処理する。個人にとって都合がいいことについては、個人の私有した土地で私有した収穫物を私有物として納める。もし理想的に村落共同体が営まれているとすれば、そういうふうになっているとすれば、これは、やっぱり、これをぶち壊してしまうってことは惜しいことじゃないか、つまり、これをぶち壊すってことは、はたして正しいことかどうかっていうような問題が、やっぱりロシアだけじゃなくて、アジア全部そうなんだけど、そういうことが生じたわけです。
 同時に共同で、ある個人個人でとてもできないとか、そういうことについて、村落共同体が共同でやるっていうそういう制度が、必然的に人間の意識を、村民の意識を、相互扶助的っていいましょうか、相互に協力させたり、相互に親和感を増さしめたり、あるいは、人情を増さしめたり、情緒を豊かにしたりとか、他の人のあれに不幸があればワーッと行って手伝ったりあれするみたいな、そういう自然な協同性っていいますか、それをいわば情緒的にもっていいましょうか、情緒的にもそういういってみれば、麗しい情緒っていうことになるわけでしょうけど、そういうものがひとりでにできあがってくるわけです、もし、理想的に営まれていればですけど。
 そうすると、これを、革命っていう概念がこれを壊すっていうことは、良いことだろうか、悪いことだろうかっていうのは、どういうことだろうかっていうことが、非常に問題になったわけです。ロシアの帝政末期の進歩的な人達にとって、政治運動家とか、思想家とか、そういう人達にとって非常に問題になったわけです。
 そのことを、たとえば、マルクスに聞いてやっています。それに対して、マルクスは答えているわけです。その答え方の基本にあるのも、やはり、村落共同体っていうものをどうするかっていうことなんです。どうするかっていうことは、個々の事情によって違いますから、個々具体的な、ロシアならロシアに即して、あるいは、インドならインドに即して、それはどういうふうに考えたらいいのかっていうことになるわけです。
 この問題はもちろん皆さんはご存じないでしょうけど、戦中派みたいな五十面した、ぼくらみたいなやつ以上の人はよくご存じだけど、日本でも例えば戦争中に右翼的な人達が農村に、天ちゃんはそのままにしておいて、農村に理想的な村落共同体をつくろうみたいな考え方をとった、つまり、農本主義的な右翼の人はいたわけです。
 これをどうするかっていう問題について、日本の戦争中の左翼っていうのは、なんらそれを解釈することが、理解することができなかったっていうことです。だから、天皇制なんか悪だって、こういうふうにやったわけです。
 それは確かに悪なんですけど、しかし、村落共同体っていうのをどうするんだって、ここで育まれている相互扶助感情っていうものをどうするのか、壊すのが正しいのか、壊さないのが正しいのかっていう問題については、なんら解決しないで過ぎてしまって、それがいわば、右翼であるか、左翼であるかみたいな、分裂みたいなこととして、日本だっていってみれば、いまだって、あんまりうまく処理していないわけですけど、つまり、そういうふうにして過ぎてしまっている問題なわけです。つまり、日本も〈アジア〉ですから、同じ問題っていうのは共通にあるわけです。

6 人類に普遍的な精神の遺跡

 〈アジア的〉っていう概念の共通にあるのは何かっていいますと、具体的、現実的にいえば、つまり、社会的にいえば、村落共同体、あるいは村落共同体の遺構っていいますか、遺跡と同じで、構造です、残された構造です。残された構造っていう意味は、眼に見える意味合いもありますし、同時に眼に見えない意味合いでもあります。つまり、皆さんなら皆さんの中にある、たとえば、村落共同体的な意識があります。つまり、考え方の残存性っていうのがあります。
 それを非常に若い人達は払底しているかもしれないですけど、ぜんぶ取っ払っちゃてるかもしれないですけど、あるいは、そういう人も年を取ってくると、またそこに逆戻りするかもしれません。だから、それほど根強いものです。つまり、具体的な社会として、そういう共同体的なものがなくなっちゃっても、精神構造としてっていいますか、そういう精神の遺跡っていいますか、そういうものとしては、なかなかそれはなくならないものなんです。
 その問題はどうするんだっていう問題は、依然として、いまもあるかもしれないのです。その問題が〈アジア的〉っていうことの現実的な基礎だっていうことを、たとえば、マルクスはそれを捉まえていったわけなんです。
 そうすると、この村落共同体の遺構、あるいは遺跡っていうものは、遡ればどこらへんにあるかっていうことを、例えば、歴史っていう概念で考えて、どこらへんにあるかっていうことを考えていったわけです。そうすると、人類は、かつて原始時代から、古代の国家に入る、その中間のところで、そっくり〈アジア的〉といわれる段階を、人類はすべてその段階を通ったと考えるべきなんじゃないかっていうふうにマルクスは考えていったわけです。
 つまり、〈アジア的〉っていうことは、地域が〈アジア〉とか、そういうことじゃなくて、ある時間なんだっていう考えにたどり着いたわけです。つまり、その時間っていうのは、原始時代から、原生の時代から、ようするに古代の社会へ突き進む、人類が全部、それはヨーロッパでもなんでも全部同じです。突き進む、その中間のところに〈アジア的〉っていうふうに言わなくちゃとても収まりがつかないっていうか、その特異性っていうものがつかめないような、そういう段階を考えるべきなんだっていうふうに、そういうふうに理解していったわけです。
 それは19世紀末の村落共同体っていうものから、どんどんどんどん遺跡を発掘するように、精神的にっていいますか、方法的に、あるいは思想的に、あるいは理念的に、論理的に発掘していくわけです。どんどん発掘していくと、最後に出てくる共同体の姿っていうのがあります。
 そうすると、そこの共同体の姿が、ちょうど土地の所有は分割してもらってると、分割してもらって、それを耕して、それを収穫しているっていう、そういう時代がどうしてもあると、もっと遡れば、もっと遡れるわけです。つまり、共同体が共同で耕し、共同で村の一か所の倉庫みたいなところに、部落の倉庫みたいなところに一か所に全部あつめて、それで、みんなで協議してそれを分けちゃうっていうような、そういう制度がもっと前に考えられるわけです。
 それはどんどん、現実の遺跡を発掘するように、いわば、眼に見えないそういう共同体の遺構っていうものを、どんどんどんどん、思想と、理念と、それから、方法と、論理とによって、どんどん発掘していきますと、そうすると、どうしても、原始時代と古代との中間のところに〈アジア的〉って言わざるをえない、共同体のあり方が、人類が普遍的にもっていた、そういうあれがあったと、早くも(ヨーロッパ)っていうものは、それを古代に入ったときに、その共同体をどんどんどんどん滅ぼしていくほうに、つまり、壊滅させていくほうに、どんどんどんどん、〈ヨーロッパ〉の歴史っていうのは進んでいってしまった。
 ところが、なぜか知らないけど、〈アジア〉では、その共同体を滅ぼすよりも、温存していくっていうほうに歴史が進んでいったっていうふうに、マルクスはそう考えたわけです。そういうふうに考えたわけです。
 そうすると、なぜ〈ヨーロッパ〉では、それは滅ぼすように歴史が進行していっちゃって、〈アジア〉では、なぜそれが温存されるように、それが残ってしまったんだろうかってこと、その理由として、マルクスや、その同僚であるエンゲルスっていうのは、考えたことがあるんです。
 考えたことは何かっていうと、ひとつは〈アジア〉っていうのは、インドでも、ペルシャでもそうですけど、広大な砂漠とか、広大な平野とか、そういうようなものがあると、その広大な平野で、たとえば、なにがいちばん必要かっていったらば、人間が生きていく、人類が生きていくために、なにが必要かっていうと、それは、水利・灌漑作用だ、つまり、灌漑工事とか、水利工事だっていうことなんです。
 つまり、水利工事とか、灌漑工事とかがなければ、耕作することができませんから、精巧に灌漑工事っていうものをいかにして、これは土木工事っていうことかもしれませんけど、そういう土木工事っていうものをいかにしてやるかってことが、ヨーロッパではそういう工事をするために個人的な企業みたいなもの、あるいは事業みたいなものが、そういう大公共事業をやるためには、それが寄り集まって、そして、結合して、より大きな企業体みたいなものをどんどんどんどん作っていって、開拓工事をやるとか、水利工事をやるとか、公共事業をやるとか、そういうことをやったと、しかし、(アジア)では、あまりに広大な地域であり、それから、なおかつ、気候地質からいって、砂漠地帯っていうものがたいへん多いですから、だから、そこでどうやって水利・灌漑をやるかっていうような、大規模な水利灌漑をやるかってことが、〈アジア〉では、個人個人、あるいは、村落と村落と結び付けてそれをやろうっていうふうにならなくて、それをやることを、政府っていいますか、つまり、中央の政治権力にそれをやることを任してしまったからだっていうふうに考えていったわけです。
 それが〈アジア〉と〈ヨーロッパ〉との違うところだ、つまり、〈ヨーロッパ〉だったら、そういう工事とかが必要な場合には、公共事業みたいなのが必要な場合には、私的な企業が連合していって、より大きな企業でそれをやってしまうっていうふうに、歴史がそういうふうに進んでいった、しかし、〈アジア〉では、あまりに広大な地域であることと、それから、気候的に、風土的にいっても、砂漠地帯が多いとか、河川の氾濫が多いとか、膨大な土地に少ない人口しかいないとか、そういうようなことを加味して考えると、村落と村落とが、そういう共通のあれでもって結びついて、共同してやろうっていうふうにならなくて、村落共同体は村落共同体で孤立してしまっていて、それが共同で何かやるみたいに考えなかった、そのために、いわば、政治権力、あるいは中央の権力っていうものが、そういう公共事業っていうものをやるっていうふうなことを、当然そういうところに委任してしまったっていうこと、あるいは、そういう勢力を発生せしめてしまったっていうことが、〈アジア〉と〈ヨーロッパ〉の違いだっていうふうに考えたわけです。それが原因なんだっていうふうに考えたわけです。
 こういうふうに考えますと、非常にたくさんのことが説明できるんです。つまり、こういうふうに考えることによって説明できることが、たくさんあるわけです。例えば、どこでもいいんです。ペルシャでも、どこでもいいんですけど、アフリカでもいいんです、つまり、よくテレビなんかであるでしょう、何千年前のインカの遺跡がこういうふうにあって、文明がどうだとか、こうあったのに、いまは人影ひとりいないっていうような遺跡みたいのが、よく紹介されるでしょう、しかし、紹介している人は何も知っちゃあいないわけです。なにも知っちゃあいないっていうことは、どうしてそうなっちゃったんだっていうことなんです。
 つまり、どうしてそうなっちゃったのって、だいたいそこに建物があって、そこにいろんな人が住んでいた跡があるのに、どうして一人もいなくなっちゃったのっていうこと、あるいは、ひとつのインカならインカの文明っていうのは滅んでしまったっていうこと、なくなっちゃったとか、人がいなくなっちゃったっていうことは、どうやって説明するのっていうようなふうに考えると、それは、たとえば、原子爆弾みたいなのが落ちてとか、大地震が起きてなくなっちゃった、一回でなくなっちゃったっていうふうに理解するなら理解できます。しかし、それ以外だったらば、そんな痕跡がどこにもなかったら、だいたい説明できないわけです。
 それを説明する唯一の原理っていうのは、そういうことなんです。つまり、公共的な事業とか、公共的に必要なことを中央権力っていうものに任せたっていうことなんです。
 だから、もし中央権力が、たとえば、戦争みたいなもので、ほかの王国と、ペルシャとかどこかは知らないけど、ほかの王国と、たとえば、戦争して、その権力がぜんぶ滅びてしまったら、つまり、頭が全部なくなっちゃったっていうようなことで、つまり、もう村落共同体は、公共的に必要な、つまり、灌漑・水利とか、大工事でもって、ひとつの村落ではとても賄いきれないっていうような、そういう必要のあることは、全部やる人がいなくなっちゃうわけです、滅びちゃった場合には。
 そうすると、それは滅亡するより仕方がないわけです。つまり、その場所から根こそぎいってしまうか、あるいは死んでしまうか、ひとつの文明が全部なくなってしまうより仕方がないわけです。だから、そのことが膨大な、何千年前の非常に優秀な文化を築いた王国は、なぜ、人っ子一人いなくなっちゃったのは、どうしてなんだっていうことを説明するには、そのマルクスが考えた公共に必要な事業みたいなものを、政府みたいなもの、つまり、中央権力に任せてしまったっていうこと、そして、村落共同体はそれぞれが独立していたみたいに、あるいは、閉鎖的に独立したみたいで、王国が滅びようと何しようと、そんなものは知らないっていう概念で、そこで小さく独立に凝り固まってしまったっていうようなことが、たとえば、公共事業が必要ないろんな天候の条件が起こった場合には、もう滅びるよりしょうがないわけです。だから、そこを移動してしまうとか、ひとつの文明がぜんぶ滅びてしまうより仕方がない、そういうことが原因だっていうことを、たとえば、そういうことで説明できるのです。たくさんのことが説明できます。そういう概念でいきますと、たくさんのことが納得いくように説明することができます。そういうことで、たとえば、マルクスが〈アジア的〉っていう概念をつくりあげていったんです。
 そこまできまして、結局、マルクスの〈アジア的〉っていう概念、つくりあげた概念っていうのは、マルクスの考えている世界図っていいますか、世界構造っていいますか、あるいは、世界像っていいますか、つまり、世界の現状の姿と、それから、世界の理想的にいえば、どうあるべきかっていう理想像、世界の理想像っていう問題と、いわば問題の切実さっていうものと、いわば交差してきたわけです、そこのところで、交差してきたわけです。

7 インドで行われた根底的な破壊

 つまり、〈アジア的〉っていう概念が、ヘーゲルのように原理的ではなくて、いわば非常に現実的な世界の問題と、いわば非常に厳密的交差してきたわけなんです。その交差してきたところで、マルクスはより詳細に現状分析っていいますか、情況論といいますか、そういうものを含めて、つまり、加味したかたちで、いくつかの詳細な考察を始めていったわけです。
 たとえば、マルクスはインド問題について考察しています。たとえば、イギリスが東インド会社を基盤にして、インドでやったことは何なのか、つまり、インドでやった植民地政策は何をしたんだっていうことをマルクスは分析しています。
 なにをしたかっていうことで、たくさんのことを言っていますけど、根底的にいいますと、先ほど言いましたように、イギリスのインド植民地支配っていうものは何をしたかっていうと、インドにあった古代からの村落共同体っていうものを、根こそぎ、とにかく、ぶち壊したっていうことなんです。
 この破壊の凄まじさっていうことは、マルクスはそういう例えを引いていますけど、インドっていうのは、古代からたとえば、ギリシャ人が入ってきた側と、蒙古人が侵入してきたとか、さまざまな王朝が成立しているわけです。外国の王朝が、征服王朝っていうのが、さまざま交代して、散々やられているわけです。つまり、国家っていうような単位でいえば、ぜんぶ根こそぎ、さまざまなところから侵入されて、また瓦解し、また侵入されってことの歴史です。
 ところが、インドっていうのは、そういう歴史の教訓からも含めまして、インドっていうのは、いってみれば、村落共同体自体がひとつの王国であると、国家であるというくらい、独立した村落共同体だけは、強固に残していたわけです。それはほとんど独立国家のように、つまり、上のほうの国家が、ほんとうの国家が、どんなに交代したって、滅びちゃったって、そんなのは知ったこっちゃない、それはかまってたら自分たちはダメだよっていうことから、つまり、自衛手段でもあるわけですけど、村落共同体があたかも、個々の国家であるかのごとく、独立採算制で独立に強固に存続してきて、それは、歴史時代を長い間、過ごしてきたんです。
 それを、イギリスの植民地支配っていうのは、根こそぎに、それをぜんぶ壊してしまったわけです。どういうふうに壊したかっていうことは、それはそれこそ言ってみれば簡単なことです。村落共同体の基礎になっているものは何かっていいますと、インドならインドで例をとれば、農民と、農業することと、織物を織ることっていうような、インド更紗とか色々あるでしょ、名物があるでしょ、そういう織物を織るっていうことが、農村でもって家庭工業的にやられているってことなんです。
 だから、イギリスはどうしたかっていうと、インドが木綿の原産地ですから、インドは木綿をヨーロッパ市場に輸出して、それでもって、長い間まかなってきましたから、イギリスはヨーロッパの産業革命で最新の機械と技術力をつかって、インドの木綿を輸出するヨーロッパ市場から、インドの木綿の類を全部、市場からぜんぶ取っ払っちゃったわけです。それで、自分たちで高度な機械でつくった織物っていうものを、逆にインドに入れていったわけです。それからインドにより糸を入れていったわけです。
 そうすると、インドの家内工業っていうのは、いわばやや近代化したっていいますか、近代化した工業に移っていくわけです。そしたら、いままで村落共同体を独立せしめた、非常に基盤であった農業と、それから農耕と、それから、織物を家内工業的に、家庭工業的にやるっていう、それをぜんぶ壊された、工業を働きに外に出るっていうことで、そのことを壊してしまったために、ひとりでに、インドの何千年来つづいた村落共同体の強固な独立、〈アジア〉で最も強固な独立性なんですけど、その独立と、閉鎖性でもありますけど、閉鎖性っていうものを、いわば根こそぎ取っ払ってしまった。つまり、根こそぎ壊してしまった。
 マルクスは例えば、インドは様々な外国人によって、侵入されたり、征服されたりしたけど、その侵入とか、征服とか、内乱とか、そういうようなものでも、それはインドの表面を撫でていったに過ぎないんだ、しかし、イギリスがインドにやったことっていうのは、そんなものと比べものにならない、インドにおけるアジア的村落工業っていうのを根底的に壊してしまった。このために、インドの村落民っていうものは、インド人っていうものは、インドの民衆っていうものは、このために徹底的な飢餓状態に彷徨うほかになくなってしまって、この悲惨さっていうものは、なにものにも比べられないっていうふうに、これは根底的なものだっていうふうに、マルクスはそういうふうに現状分析しています。

8 揺れるマルクス

 そこが問題なわけですけど、こういうふうに言っています。しかしながら、もしも、歴史の進歩っていうものをどう考えるかってありますけど、もしも、歴史の進歩っていうものがこのような村落共同体っていうものをいずれ壊してしまうっていうことが歴史の必然だとしたならば、逆に、今度は、イギリスがインドにやったことが、どんなに悲惨で、どんなにひでえことであったとしても、それは歴史の必然が請け負わなくちゃいけないかもしれないことなんだっていうふうな言い方もしています。
 だから、ここが、この言い方はたいへん微妙なわけなんです。つまり、マルクスにとっても微妙だったわけです。つまり、たいへん、マルクスっていうのはヒューマニズムな人ですから、その悲惨さと無茶苦茶さは我慢ならないっていうほど根底的だって思われたんです。
 しかしながら、一方で歴史っていうのは何だろうか、歴史っていうのは、なにを壊していくだろうかっていうようなことを考えていくと、たとえば、村落共同体っていうものはよくないこともあるんです。村落共同体の独立性っていうものは、先ほどはいいことをいいましたけど、よくないこともあります。それは、たとえば、他の村落とか、国家自体がどんなひでえことをやっていたって、そんなことは知らねえよ、関係ねえよっていう概念ができあがるわけです。それから、他人がどんなに悲惨になったって、おれは知らないよ、村さえよければいいんだよっていうふうに、そういうふうにもなりうるわけです。
 このことは、おれは自分でもよくわかります。知ったこっちゃないよって、自民党があれしようが、共産党が政権とろうが、たいして変わりないよっていう概念が僕にはありますけど、それは悪くいえば、非常に村落共同体的なんです。じぶんよりも上位の村落共同体とか、制度とか、権力とか、そういうところが、どんなにチャンバラして交代しようが、どんなひどいことをしようが、そんなの俺は知らないよっていう閉鎖的な概念っていうのも、同時に村落共同体の閉鎖性っていうのは生みだすわけです。
 だから、極端にいいますと、村落共同体は世界の広さなんです。地球が世界の広さじゃないです。地球のどこそこであるっていうのは、そんなことは知ったこっちゃないよっていうふうになりうるわけです。だから、他のどこかで、じぶんの利害に関係のないところで、どんなことが行われようと、あるいは、ほんとは自分の利害に関係のある、たとえば、非常に膨大な権力のところに、非常に悪いことをしていたって、そこで、じぶんのところに響いてこないから関係ないよっていう概念っていうのは、みなさんの中にもあるでしょう、つまり、思い当たることがあるでしょう、つまり、〈アジア〉ではみんな思い当たるんです、そのことに、アジア人っていうのは全部、思い当たるんです。思い当たらなかったら嘘だと思います。それは、いっけんすると、超近代的なかたちででも、つまり、いまの若い人達のかたちででも出てきますけど、それはすこぶる疑わしいと思わなくちゃいけないと思います。
 それは二重性がある、それは、もしかすると、〈アジア的〉心性かもしれないというふうに、じぶんを疑ったほうがいいと思います。つまり、そういうよくないところもあるわけです。だから、その点は、先ほど言いましたように、〈ヨーロッパ〉が世界性を獲得したときに、自己意識だけで世界を見渡すことができるんだと、その世界の理解の仕方が、どんなに誤っているか、偏っているか、そんなことは知らない。しかし、いちおう、眼の中に世界を収めることができるんだっていう、そういう意識に到達するっていうことは、村落共同体の独立性だけでは不可能なわけなんです。
 だから、もしも、そういうことが個々の人間が、じぶんの意識でもって、じぶんの考えでもって、世界を見ることができるっていうような、世界のどこでも見ることができるっていうことが、人間にとって進歩だとするならば、それならば、やはり、その面からいえば、〈アジア〉における、たとえば、インドにおける村落共同体は壊れるっていうこともまた歴史の必然かもしれない。
 そうすると、イギリスがやったことは非常に凶暴であり、かつ圧政的な植民地化であったけど、しかし、歴史の必然にとっては、ある強烈なホームランか、ファールか、知りませんけど、そういうものだったかもしれないという概念がマルクスのなかにあるわけです。
 その2つの概念のなかで、マルクスはいわば、揺れているわけです。揺れっていうのは、当然なわけなんです。その揺れのなかにこそ、ほんとうの問題っていうものが、たぶん、あるように思います。たぶん、いまでも、その揺れのなかに、たくさんの貴重な問題が含まれていると思います。だから、そこをバッサリとやることがマルクスはできていないと思います。
 いちおう、理性的には、たとえば、進歩っていうのは仕方がないんだよっていう、つまり、個々の地域に悲惨をもたらしたって、もしそれが、権力のエゴイズムってもので悲惨をもたらすのは、けしからんことだけど、しかし、それが、歴史の必然がもたらす悲惨っていうものが、そのなかに含まれるならば、それは仕方がないんだよっていうような、理念としては、マルクスは、それは割り切っていたと思います。
 しかし、やっぱり人間ですから、しかし、人間的でなければいけませんから、人間は。だから、そこのところでは、そう簡単には言えないぞっていうことが、ひとつあるわけなんです。
 それから、もうひとつがあるわけなんです。もうひとつは、もしも、人類の歴史っていうもの、人類の歴史の理想形態っていうものを描けるとすれば、それはまさに村落共同体、つまり、古代の、あるいは〈アジア的〉な、村落共同体がもっていた相互扶助形態が、非常な高度なかたちで、高度な別の次元で成立したときに、それを理想の社会と思わざるをえないところがあるんです。
 それは、どういうことかといいますと、共同のために、個人が犠牲になるとか、そういうことじゃないんです。個人が、個々の農民なら農民、市民なら市民、労働者なら労働者が、富んだり栄えたりするためには、あらゆることが私的でなければならない、しかし、私でやったらば、とても富むことができないっていうことに限って、それは、共同体が請け負わなければならない、つまり、協同組合みたいなものを、たとえば、労働者とか、農民みたいなものが、順繰りに協同組合みたいなものをつくって、そこで協議しながら、共同でやらなければ個人が富めないっていうことについてだけ、ようするに、共同的にやる、そして、その他のことについては個人が富むようにやるっていう、そういう形態が理想なわけです。
 それは、いわば村落共同体を古代のかたちではなくて、古代のかたちでは、一方で迷妄を伴い、一方にエゴイズムを伴います。一方にくだらないことも伴います。たとえば、じぶんの祖先は動物だと思ったり、ヘビだと思ったりっていうような、馬鹿げた蒙昧性っていうものをもつわけですが、そんなものはぜんぶ払底しなければいけない。
 しかし、個人が富むことに関する限りで、個人ができないことに関することだけは、共同でやると、順繰りにやるっていうような、そういう形態を理想形態として描く以外にないわけです。だから、そうすると、村落共同体がもっている原型のなかには、やっぱり、人類がやがて、違うような、つまり、行きと帰りほど違いますけど、違う次元で実現しなければならない原型っていうものが、ここにあるっていうことも確かなことなんです。
 つまり、あるモデルがあることも、非常に確かなことだっていうふうに、そこのところは、またひとつ、マルクスなんかは非常に揺れたところだって思います。いわば、〈アジア的〉っていう問題の、ほんとうに重要な問題っていうのは、そこの矛盾っていうもののなかにあるように思います。
 マルクスはインドにおける考察では、インドの特徴っていうのは一言で尽しているわけですけど、それは、先ほど言いましたように、ほかの〈アジア〉のどの地域にもまして、村落共同体の個々独立の、村落共同体が即国家と同じほど、個々独立の形態を辿っていると、もっていると、それがインドにおける特徴だ。
 それからやっぱり、これはアジア一般の特徴ですけど、公共事業っていうものは、専制君主っていうものの共同体、つまり、政治権力、中央権力っていうものに任してしまっているっていうこと、それがインドにおける非常に大きな特徴だっていうふうに言っています。もちろん、地理的にいえば、インドは、〈ヨーロッパ〉におけるイタリアみたいなものだ、民衆の意識でいえば、それは、〈ヨーロッパ〉でなぞらえれば、アイルランドみたいなものだっていう言い方もしています。そういうふうに、インドにおける〈アジア的〉っていう概念を、マルクスはそういうふうに掴んでいったわけです。

9 ロシアの村落共同体をどう考えたらいいか

 もうひとつ、さきほど申しましたけど、ザスリッチっていう、ロシアの進歩的な思想家でありながら、それから、政治運動家であり、に尋ねられ、ロシアにおける〈アジア的〉な要素、つまり、ロシアにおける村落共同体というものをどういうふうに考えたらいいのかっていうことをマルクスに尋ねています。
 マルクスはそれに対して、持ち駒っていったらおかしいですけど、じぶんが持っている知識と考察のすべてをあげて、それに対して答えています。手紙で答えております。その答えのなかにいくつかの問題があります。
 つまり、ロシアっていうのは、マルクスはこういう言い方をしているわけです、ロシアっていうのは強固な、国民的な規模で、つまり、全体的な規模で、ロシアは村落共同体をいまだにもっている、村落共同体の構造をいまだにもっている。ところで、そのもっているロシアの村落共同体っていうようなものは、同時にロシアにおける資本主義っていうもの、資本主義の発達と同存している、つまり、併存しているっていうふうに捉えています。つまり、併存しているんだ。このことが、ロシアにおける村落共同体の特徴なんだっていうふうに言っています。
 そして、同時にそれは、いわゆる一種の情況論になりますけど、当時の情況論、つまり、帝政末期の情況論になりますけど、同時にロシアの資本主義っていうものは、同時に危機に直面しているっていうふうに言っています。なぜ危機に直面しているかっていうと、〈ヨーロッパ〉の資本主義っていうものが危機に直面しているから、いわば、それと同時的な意味合いで、ロシアの資本主義もまた、危機に直面しているっていうふうに、こういうふうに言っています。
 ところで、危機に直面しているロシアの資本主義と、それから、ロシアにおける昔ながらの何千年来の〈アジア的〉構造である村落共同体とは、同時に非常に大規模に併存しているっていうような、これがいわばロシアにおける社会構造の特徴なんだっていうふうに、マルクスはそういうふうに答えています。
 で、この特徴をどうするかってことなんだ、これだからようするに問題なんだっていう言い方をしています。歴史の必然性っていうものを考えれば、たとえば、〈ヨーロッパ〉における歴史の必然性っていうものを考えれば、〈ヨーロッパ〉には、村落共同体、あるいは農業共同体っていうものはなくなっちゃっているって言っているわけです。
 もしも、ロシアの村落共同体っていうものが、なくならなければならないものだっていうことを、合理化できるとすれば、ただひとつの理由しかない、その理由は、たとえば、それは〈ヨーロッパ〉において、すでに古代以前には、あるいは古代のあたりでは、〈ヨーロッパ〉においてもあったであろう村落共同体が、いまはなくなっているっていうこと、そうだとすれば、歴史の必然は、ロシアからも、この村落共同体をなくすっていうことが必然かもしれないっていうふうに言っています。それが、ロシアの村落共同体がなくならなければいけない、これは壊さなきゃいけないっていうことは、もし、必然化できるとすれば、合理化できるとすれば、それしか理由がないって言っているわけです。つまり、〈ヨーロッパ〉でもなくなっちゃっているから、歴史はなくしちゃっているから、同じようになくなるだろうっていうことだけが、ロシアで村落共同体をなくしちゃわなくちゃならないっていう唯一の根拠だって言っています。もし、根拠というものがあるとすれば、それが唯一の根拠だっていう言い方をしています。
 ところで、マルクスっていうのはどういうふうに考えたかっていうと、そうじゃないんだ、そこで問題になるのは、いま言ったように、ロシアは資本主義が発達してから、それから、〈ヨーロッパ〉と同時的に発達していって、それで、資本主義の危機に直面した、その〈ヨーロッパ〉におけるのと同じように、資本主義の発達のはじめから危機までの、人間に喩えてみれば、生まれてから初老になったっていうような、そういうまで、資本主義の生まれてから初老になった、その時期を通じて、村落共同体が強固に残っていたっていうことは、非常に問題なんだ、つまり、それは村落共同体の長寿性っていう、そういうふうには言ってないんですけど、ぼくが言うわけですけど、村落共同体の長寿である、これは長寿なんだ、あるいは、もしかすると、いつまでも生きるかもしれないぜっていう、長寿性っていうものを、これは証明しているんだって言っているわけです。
 つまり、資本主義の初期もあり、それから、ロシアにおける資本主義の爛熟期にも、なおかつ、強固に併存してあるっていうことは、これがいかに強固だっていうか、いかに長寿だっていうことを証明しているかもしれない、つまり、そのことを示しているかもしれない。そうだとすれば、これはロシアにおける変革の基礎になりうるんだ、やりようによってはなりうるんだっていうふうに考えるべきであるっていうふうに、マルクスはそう答えています。その答えは、たぶん、いろいろな問題を含んでいると思いますけど、とにかく、そう答えています。
 だから、ロシアっていうのは、もしも、革命が、あるいは政治革命がっていうことになりましょうけど、政治革命が、もし実現したとしたらば、どうすればいいか、ひとつは、ようするに、村落共同体を壊さないことだ、壊さないんだけど、しかし、これは、元のまま温存するっていうことじゃなくて、こんなこと言っていないんだけど、ぼくが言うわけです、温存するんじゃなくて、ようするに、個人的な農民たちが、個人的な自分の耕作地を分割してもらって、そして、個人的に収穫をして、個人的に収める、つまり、個人的に個々に農民が繁栄するっていうようなところでは、私的なものにぜんぶ移してしまって、しかし、共同体でやらなければならない農業設備とか、農業施設とか、そういうことついては共同体でやると、しかも、共同体の権力、村長がやるんじゃなくて、ようするに、農民たちが協議しあってやるっていうような、そういう制度をつくる、温存するっていうことが、政治革命にとって重要だっていうふうに、こういうふうに、マルクスはそういうつもりでそう言ったんです。
 もうひとつ、有利な点がある、それはなぜかっていうと、ようするに、〈ヨーロッパ〉における資本主義の、あるいは、危機に瀕した西欧の資本主義の悪い点をとらないで、ようするに、良い点だけをとりうるっていうふうに、利点があるっていうふうに、そういうふうに言っています。そういう利点もあるんだっていうふうに言っています。悪い点をとるか、良い点をとるかっていうことは、別ですけど、とにかく良い点だけを選びうる、そういう利点がありうるって言ったわけです。
 たとえば、日本と違いますから、そう言っていますけど、ロシアの村落共同体の特徴っていうのは、2つあるわけです。ひとつはようするに、膨大な土地があるんだっていう、だから、これはいわば大規模農業っていうのは可能であるっていうことなんです。つまり、大規模な資本主義が生みだした様々な機械を使ってとか、つまり、大規模農業が可能であるっていうこと、それがロシアでは可能だっていうこと、だから、良いことだけとってこられるっていうことがひとつある。
 それから、もうひとつあると、それは必ずしも、利点であるとはいえないかもしれない、欠点、欠陥があると、それは、注意しなければならない欠陥、あるいは弱点があると、それは、やっぱりロシアは膨大な広い土地に村落共同体がわりあいに孤立的に、つまり、そうとう広い地域同士でこういうふうにあるから、つまり、村落共同体が結合して、なにか公共的にやらねばならないことをやるっていうことが、とてもしにくい、だから、必ずロシアでは、中央権力のやることになってしまう。つまり、インド的なわけです。インド的なやり方になってしまう、だから、中央的な権力に、そういう公共的なあれを任せてしまう傾向っていうのが、どうしてもロシアには生ぜざるをえないだろうっていうことを言っているわけです。それがロシアの持っている弱点じゃないかっていうことを、マルクスはそういう答え方をしています。
 つまり、あれしてみれば、村落共同体っていうのは、やはり残すべきなんだ、それは、強固な基盤になりうるんだっていうことがひとつと、つまり、使いようによっては、やりようによってはなりうるんだっていうことがひとつと、それから、しかし、弱点は考慮しなければならない、それは、なぜか村落共同体が、あまりに地域的に離れて膨大なところにいるから、それはその間の連結とか、連結してやらなければならない公共的な事業っていうものは、いわば、中央権力がやるっていうことにどうしてもなるから、そのことは、いわばロシアの弱点だろうっていうことを言っているわけです。そういうことをマルクスは答えています。
 それでもって、たとえば、今度はロシア革命っていうものを、ロシア革命が成就したあとで、どういうふうになったかっていうことが問題になるわけです。そうすると、そのひとつは、やっぱり、マルクスが弱点として指摘したことは、一種のロシアにおける膨大な、中央権力の膨大さっていうものとして、それは実現してしまったっていうことが、ひとついえると思います。
 それから、もうひとつはこうなんです。農村共同体をどういうふうに残すかっていうことは、たとえば、レーニンがちゃんとそういうふうに考えたんです。そういうふうにやったんです。あるいは、やらざるをえなくて、必然的にそれが残ったとも言いうるんですけど、そうすると、それはたぶん、いわば、非常に私的なことは、個々の農民にとって、利益のあること、あるいは、それを富ませる問題については、つまり、個々の農民の私的な、例えば、土地所有と、私的な農業生産というふうにすると、しかし、公共でやらなきゃとても不利だっていうこと、個々の農民にとって不利だっていうことだけは公共でやるっていうかたちでいかなくて、たとえば、それは古代の強固な農村共同体っていうものを、そのまんま利用するっていったらおかしいですけど、そのまま強固にする方向に、たとえば、それは進んだって考えることができます。
 これは、コルホーズ化における集団農業とか、あるいは、計画経済とか、強制労働とか、ノルマ制度とかっていうかたちで、様々なかたちであらわれてきた問題っていうのは、たぶん、村落共同体の再生っていうことよりも、むしろ共同体の実現のために、あるいは、共同体的な実現のためには、ここは犠牲にしなければいけない、あるいは、ここはノルマを果たさなければならない、それがロシアの栄える所以だみたいなかたちで、それをなされて、そのために、村落共同体の構造自体は強固に残ってしまった、あるいは、逆にいうと、その強固さっていうものが逆に強化されていったっていうことが言えなくもないと思います。これが、たぶん、スターリン体制っていうふうに言われているものの、たぶん、非常に基本的なところにある構造だっていうふうに考えられます。
 だから、ここのところでは、たとえば、〈アジア的専制〉っていうようなものの構造っていうものは、形は違いますけど、より強化されていったっていうふうに、ある面では考えることができるっていうようなほうに、ロシアの共同体の歴史っていうものは、そういうふうに進んでいったわけなんです。

10 〈アジア的〉の潜在的意味

 こういうふうに考えていって、それじゃあ日本っていうのはどうだってことになるわけです。日本っていうのはどういうふうに考えていったら、つまり、日本っていうのは、戦前っていうことと、戦後っていうこととありますけど、つまり、戦前までの日本っていうのは、どういうふうに考えていったらいいのかっていうのは、問題があるわけなんです。
 その場合に、マルクスが言った灌漑事業、あるいは公共事業が、つまり、〈アジア的〉な制度の中の基本的な要素っていうのは、こういうことだってことは、マルクスやエンゲルスも言っているわけです。
 ひとつは〈アジア的〉な専制政治の中央政府っていうのは簡単だと、3つの省があればいいんだ、3つの部門があればいいんだと、ひとつは税金をとる部門だ、税金っていうのも、〈アジア的〉では貢納制っていうわけで、貢物をとる制度のことですけど、貢納制ってことです。それをとる財政を司るそういう部門と、それから、もうひとつは軍事を司る部門と、それから、公共事業をやる部門とその3つの部門があればいいんだ。また、〈アジア的専制〉っていうのは、その3つの部門から成り立っているって言っていいくらい、みんな判を押したようにそうなっているっていうふうに言っていますけど。
 つまり、そういうところからいくと、日本の農業によって、ちっとも大規模な灌漑工事っていうのは、たぶん、いらないんです。たとえば、初期の大和朝廷が灌漑工事で工事したってことは、いずれにせよ、奈良盆地とか、狭い猫の額ほどの、そういうところの問題だけなんです。だから、どう考えても、大規模な灌漑工事のために、専制的な権力がいたっていうふうに、どうしても言えないのです。そういう意味では、とても小規模だってことが、問題がひとつあると思います。
 それから、農業っていうことでも、決して広い地域ではありませんから、そんなに意識しなくても、たとえば、非常に閉鎖的な村落共同体が、意識しなくても、それ以外にはありようがないよっていう形で、それはできあがってしまったっていうことが、たぶん、ほかのアジア地区と違うっていうことだと思います。
 それから、もうひとつあります、これは島嶼ですから、島ですから、こういうことが言えます。たとえば、インドとか、中国のように、外国の勢力がきて、ダーッと征服していったら、王朝が変わっちゃったとか、王朝の交代ごとに亡命してどこかに行っちゃったとか、そんな意味合いの大規模な権力の変遷っていうのは、大規模にはないっていうことなんです。それもたぶん、他の地域とは違うことなんです。
 まだ考えられることは、よく農耕民とか、狩猟民とか、農耕民族とか、狩猟民族とか、漁業民族とか、海洋民族とかっていう、いろんな言い方をするでしょ。しかし、たぶん日本の場合には、もとが何民族で、どういうことをやっていたにしろ、いずれにせよ可変的だっていうことです。
 つまり、漁業民が奥地のほうに入って、河川のほうを伝って遡って、たとえば、そこに村をつくっちゃいますと、それは農民に転換できるっていうことなんです。また、そういうふうに転換しただろうということなんです。それからまた、狩猟を事としてたって人が、たとえば、山を下りてきたら、それは農民に転換しただろう、だから、そこにたとえば、この民族は遊牧民族であるとか、この民族は農耕民族であるとか、この民族は海洋民族であるとかっていう言い方がされて、民族っていうことが、民族国家っていうところまで、ちゃんと系列ができるほど、そういう言い方で、国民性みたいなものを尽くしてしまう意味合いでは、日本の民族っていうことを規正することができないっていうこと、つまり、可変的だってことだと思います。つまり、海洋民族でもありましょう、しかし、農耕民族でもありましょう、狩猟民族でもありましょう、それで、どれにでも変われますし、また変わりましたってことだと思います。
 そういうことが、たとえば、ほかのアジア地域と違うだろうってことだと思います。だから、ヘーゲル流の言い方をしますと、そこでの自然原理っていうものは、日本も〈アジア的〉ですから、自然を原理とするってことは、また確実なわけですけど、日本が自然を原理とする原理の仕方は、たとえば、中国とも、インドとも、違うだろうっていうことなんです。
 たとえば、インドの自然原理っていうのを、自然の一種の内面化とか、瞑想化っていうものだっていうふうに言うとすれば、中国における自然性っていうのは、自然の制度化っていうふうにいうこともできます。つまり、自然の制度化っていうのは何かといいますと、民衆がいて、政治的なあれがあって、政治的な頂点に専制君主がいるとすると、専制君主が原理としてもっているのは、自然、つまり、天の原理だとか、道の原理だとかいうものを、ひとつ政治原理としてもっている。天とか、道とかいうものに一番近いところに専制君主がいて、それから、だんだん系列的にこういうふうになって、下のほうに地の神さまがいてっていうような、そういうふうに、自然が一種の制度になって存在するわけですけど、あるいは、道徳もまた自然であるっていうようなかたちで中国っていうのは存在してきたわけですけども。
 そういうように考えていくと、日本っていうのは、ちょっと違うだろうってことなんです。自然原理の仕方っていうものでも、ちょっと違うだろうっていうふうに思います。その違うだろうってことをなんて言っていいのかわからないですけど、一種、自然を比喩とするっていう言い方をしたらいいと思いますけど、自然を比喩とする原理なような気がします。つまり、自然を比喩とする原理っていうのが、たぶん日本の原理なんじゃないかなっていうふうに思います。
 それは、たとえば、仏教と中国の制度みたいな、宗教、思想みたいなものが入ってきた、たとえば、3,4世紀以前の日本っていうものを考えて、つまり、古代以前の日本っていうものを考えていきますと、どうしても、そういうふうに考えることができます。古代以前の日本っていうものを考えていきますと、いくつかの原理が存在しただろうって考えられます。あるいは、いくつかの権力原理が存在していただろうって考えられます。
 ひとつは、これは神話の中にもあるように、あるいは、たとえば、日本でも南の方へいけば存在しているように、たとえば、村落共同体、あるいは村落共同体の連合において、女性の宗教的な信託者がいるとすれば、その近親の者がいわば、村落共同体、あるいは、その連合体の首長を占める、あるいは政治権力を占める、そういうかたちです。そういうかたちがひとつあっただろうって思います。
 それから、もうひとつあっただろうと思われることがあります。それは、ひとつは男性の生き神さま、あるいは現人神でもいいですけど、生き神さまが村落にいて、それが首長になって、それはいわば普通人のような生活をしないで、いわば宗教的な生活だけをしている、その御託宣によって、村落の長老たちが、いわば政治をするっていうような、そういうかたちを、一方のかたちをヒメヒコ制っていうとすれば、一方のかたちを祝制なら祝制っていうと、大祝制なら大祝制っていうと、大祝制っていうのと、ヒメヒコ制っていうのと、その2つのあり方っていうものが、たぶん、あっただろうと思います。
 そのいずれも、いわば自然を原理としていますけど、しかし、その自然っていうものが、いわば内面化されるのでもなくて、制度化されるのでもなくて、たぶん、非常に自然神的であった、つまり、八百万の神的だった、山川草木、皆、神さまっていう感じだっただろうと思われます。
 それがたとえば、中国の儒教とか、道教とか、それから、インドの仏教とか、そういうものが入ってくる前の、非常に原始的な時代の、日本における〈アジア的〉っていう概念の起源にある、つまり、根源にある問題だっていうふうに考えることができると思います。
 これらを少しずつ詳細に考えていって、結局、なにが言えるかっていうと、確定的なことは何も言えないのですけど、しかし、なにが問題なのかってことは、非常にはっきりしています。村落共同体の遺制っていうものが、これは、眼に見える制度と、それから、眼に見えない制度とあります。その眼に見える制度と眼に見えない制度っていうのがありますし、眼に見えて残っている部分と、それから、眼に見えないで残っている部分とがあります。村の制度、あるいは習慣とか、慣行とかいうものとして残っている部分もあります。
 それから、もうひとつ、まだあります。それは、個々の、ぼくならぼくとか、みなさんとか、そういう個々の人間の意識の働かせ方、意識の動かし方とか、ものの考え方、そのもののなかに、やはり、村落共同体的な要素、つまり、言い換えれば〈アジア的〉な要素なんですけど、〈アジア的〉な要素っていうのは残っています。
 それで、残っているってこと自体は、べつに倫理でもありませんし、善悪でもありません、つまり、それは歴史が残したんだから残っているわけです。また、歴史が滅ぼしたから滅びたわけです。ある部分は滅びたわけです。だから、それは倫理ではありません。良いとか、悪いとかじゃありません。
 だから、それがどういうふうにしたらば、良いように働くのか、どういうふうにしたら良くないように働くのか、それから、どういうふうにしたら、それは自然に滅びてしまうものなのか、あるいは、どういう部分が滅びさせないほうがいいんだと、意識しても滅びさせないほうがいいんだっていうものなのかっていうことを考える課題は、依然として、ぼくらのなかに残っているわけです。つまり、ぼくらのなかに課せられていると、ぼく自身は考えます。
 つまり、その問題は、到底、西欧の近代文化っていうものが、世界文化であるから、つまり、世界の普遍性であるからってことで、この方法を模倣することだけで、模倣する方法に進歩の方法を考えていくだけで、あるいは、それを受け入れるのを進歩の方法と考えることだけで、この問題が解決するとは、とてもぼくには思えません。
 だから、西洋的な方法はある程度、身に入っているわけですけど、そのなかで、ぼくらがもっている課題っていうのは、一種の二重の課題っていうものとして、我々の中に残されていると思います。それはある部分では眼に見える課題でしょうし、つまり、眼に見えて農村の中に残っている課題でしょうし、ある地域では、かたちとしては、そのかたちは残っていない、まったく近代的な農業になりつつあると、近代的な意識にもなりつつあるっていうようなことかもしれません。
 だから、そうなってくると、個々の人間がそうだとすれば、意識の働かせ方そのことのなかに、やっぱり、その構造が残っているだろうと思います。その問題だと思います。その問題をどうするのか、あるいは、いい方向にもっていくには滅びるのか、あるいは、滅ぼさないほうがいいのか、その問題をいわば、いってみれば、できるならば非常に巧みに、できるならば非常に正確に、そのことを選り分けていくっていうような、その問題は、依然として、ぼくらのなかに残されている課題じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

11 司会

 ただいまから質疑応答に入りますけど、休憩したいんですけど、吉本さんのほうが、どんどんやりましょうってことで、挙手いただければ、どなたにも質問が聴けますように、ワイヤレスマイクを用意してます。

12 質疑応答1

(質問者)
 日本における自然の比喩化というのを、もう少し詳細に説明していただきたいのですけど。

(吉本さん)
 ものすごく一見するとおかしいでしょ、つまり、聴講でインドはこうだって、ひとのことは言って、日本のことはちょっとしか言わないじゃないかっていうふうに思われるでしょ、だけど、よく考えてみると、ぼくは考えたんです、それは。日本の文化っていうのはそうなの、ぜんぶ受け入れたの、制度もそうなの、ぜんぶ人から真似したものです。3世紀か4世紀頃、ぜんぶ真似したの、真似したものをどうこなしたかっていうのは、腹具合の問題ですから、腹具合がいいんだってことを自慢にしたいならすればいいですけど。
 しかし、全部そうなの、ようするに、日本っていうのは、世界史的な〈アジア〉として、ぼくが今日言った意味では、〈アジア〉っていうもののなかに日本が登場したのは、3世紀か、4世紀頃なのね、それも真似して登場したの、つまり、インドから中国へ、中国を通じて日本へ、また朝鮮も通ったかもしれませんけど、日本がそういうふうに〈アジア〉の思想の中に、登場したのは3世紀か、4世紀なの、3世紀か4世紀ってことは、千何百年ぐらい前、ところが、〈アジア〉が世界思想を生みだしたのは、数千年前、3千年とか4千年前なの、それじゃあ3千年か4千年前から千五百年前までどうしてたんだっていうことになるんです。
 どうしてたかっていうと、日本は原始時代だったっていうだけでしょ、あるいは、もうちょっと前は未開だったかもしれないけど、野蛮だったかもしれないけどさ、そうだったわけです。しょうがないです。それで、はじめて、世界史の中の〈アジア〉みたいに、そういうふうにアジアの歴史の中に登場したのは、3世紀か4世紀、非常に遅れて登場してきたわけです。だから、そこから急速に伸びたといえば伸びたわけでし、こなしたっていえばこなしたわけですけど、だから、なさけないってことを認めなければいけないと思うんだけど、剥がしていったらないの、一度そういうことはがっかりしたほうがいいような気がするの(会場笑)。
 だから、あなたのおっしゃるとおり、3世紀か4世紀、つまり、古代社会です、初期大和朝廷です。いまの天皇の祖先だって言われているその勢力が国家を大和盆地で形成した、それ以前に日本の共同体はどういうふうになっていたか、それから、そこでの制度はどうなっていたか、そこでの権力はどういうかたちをとっていたかっていうことは、なかばは想像に属するわけです。
 想像っていうことは、方法がひとつあって、方法はそれぞれもっていて、それを、そこは比喩なんですけど、自然の比喩的表現である歌とか、つまり、『万葉集』とか、『古事記』とか、『日本書記』とかあるでしょ、歌とか神話とか、そういうものの自然が比喩的なんです。自然のなんとかっていうのは、ぜんぶ神さまの名前になっちゃうみたいな、そういう神話からはじまるわけですけど。
 そういうなかから自分なりの方法で選り分けていかないと、それ以前に、日本固有にあると言われているものっていうのは何があるかっていう、それを見つけることは非常にむずかしいの、いまでも。いまでもそれは非常にむずかしいんです。やられていないからむずかしいんです。
 だから、そんなことはとうにやられていなくちゃ嘘じゃないかっていうふうに思われるかもしれないけど。それは、そうじゃないの、やられているのがあります。たとえば、津田左右吉とか、もっと前の白鳥庫吉とか、明治以来、さまざまな東洋学者とか、日本の古典学者とか、さまざまやっているんですけど、みんな西欧の方法で、西欧の概念でやってるんです。
 それでもってずいぶんはっきりしちゃったことがたくさんあるの、つまり、とてつもない神がかりに比べれば、非常にはっきりしちゃったことがたくさんあるの、しかし、はっきりしないこととか、嘘とか、そんなのもまたたくさんあるの、だから、そういう(アジア的)な世界に日本が登場する以前に、どういう制度があり、どういう権力があり、どういうふうに人々が暮らしていたかってことをつかんでいくっていうことは、これからのことに属するわけです。
 だから、我慢してくださいってことなの、我慢してくださいってことは、ぼくがいま言ったことは、ぼくが考えたことなんだから、ぼくが考えて推理したことで、誰も他の人が言っていることじゃないってこと、だから、そういうふうに考えましたよっていう、そういうことを言っているってだけなの、だから非常に貧しいことしか言えないけど、でも、それは誰も言ったことのないことを言ったつもりです。だから、そういう段階なんです。それ以上の段階のことを知っている人があったら、そういう人の話を聞かなければいけないです。それから、その人の考えたもの、書かれたものを勉強しないといけないって、ぼくは思っていますけど。

13 質疑応答2

(質問者)
 『歎異抄』、いまの話とは関係ないんですけど、吉本さんは、私なんかが読んでいて、これはシジョウではないかと感じたことがあるんです。そういうことを感じたことがあるのかないのか、『最後の親鸞』っていうのを読んでみても、あんまりそういうことが書いてないような気がしたので、ちょっとお聞きしたいと。

(吉本さん)
 シジョウじゃないかっていうことは、自分の感情を移入しているじゃないかってことですか。

(質問者)
 シジョウというなかには、ひとつの世界観みたいなものがあるんですが、そういう人との、たとえば、『歎異抄』をいろいろ解説する人のなかには、朝昼晩、南無阿弥陀仏といいながら、そういうことのできあがった絶対的思想のなかで生活しながら、そういうものを読んで、一種の教えとして諭す諭し方と、また、吉本さんはどういう教え方なのか、諭し方じゃなくて、そのなかにあるものを見ようという発想だったと思うんです。
 それならば、詩も書かれている吉本さんは、吉本さんの詩の中にも、一種の宇宙的詩情観っていうものを、読む人の勝手ですけど、勝手としては感じることがあるのです。そういう意味では、人間的の宇宙観的な、いわゆる詩情ではないかというふうに感じたことがある。

(吉本さん)
 そうか、詩情っていうのはポエジーか(笑)。それは、ぼくは褒め言葉みたいなふうに受け取って、いい気持ちになるわけですけど(会場笑)、ほんとはそれは弱点なのかもしれないです。欠点かもしれないので、わからないところをそういうことで流してしまっているのかもしれないです。ほんとうは、もっとたくさんわからなければいけないと思います。
 つまり、たくさんわからなければいけないことの非常に基本的なことは、親鸞っていうのは、だいたい、どういう格好をして歩いていたのとか、普段いたのとか、それから、どういうところに住んでいたのとか、そういうことのイメージが非常にはっきりするまで論じきれなければいけないように思う。
 ところが、自分なりの、こうじゃないかっていう、こういう格好をしていて、こういうふうにしていたんじゃないか、こういうところに住んでいたんじゃないかってことは、自分なりのイメージがありますけど、そのイメージが確かだっていう確証っていいますか、確信を得るまでに、じぶんは追及していないと思います。
 だから流しているところがあるんじゃないかっていう、ほんとうは、お寺には、もちろん、帰住してたけど、じぶんがあれしてるときにお寺なんかにいたはずがないと思っているわけです。それから、仏像なんていうのは飾っていたはずがないって、ぼくは思うわけです。それから、頭っていうのは坊主刈りにしていたかよくわからないです。それから、袈裟っていうのはかけていたかっていうのもよくわからないです。いろんなことがわからないです。それは具体的なイメージがわかんないです。
 それがほんとうは、追及していって、『歎異抄』なら『歎異抄』を追及していって、あるいは『教行信証』を追及していって、あるいは、いろんな手紙を追及していって、その挙げ句に、そういうイメージがこうだよっていうような、こういうふうにして生きてたよ、こういうことを言ってたよっていうようなことが、少なくともイメージとして具体的にはっきり出てこないといけないのに、どうしても最後のところはわからないところがあります。
 それはなぜかっていいますと、後世があまりに違うからです。あまりに、いまの親鸞系統のお寺とか、そういうところとか、みんな違うでしょう、あまりに違うけれども、いまあるんだから、どうしてもそれにイメージが引き寄せられていきますから、どうしてもそこがはっきりしないところがあります。そういうところをぼくは流しているかもしれないです。
 それを良い気持ちでいえば、あなたの、詩情って言ってくれるから、いい気持ちになればいい気持ちなんだけど、そうじゃなければ、それは、ほんとうのイメージが定まらないものだから、一種の感情、情緒みたいなものでダーッと流している、心情で流しているみたいなことかもしれないんですけど。

(質問者)
 その場合に、たとえば、読み手っていうものは、吉本さんぐらいの知性味ある人なら別ですけど、ふつう一般、自己の心情性を中心にして読むでしょ、そうすると、仮に自己の心情性を中心にして、私たちが暇を見つけて読む場合、自己の心情性が重なるだけに、絶対感としてもうひとつ映ってくる観念があるんです、自分自身の中に。
 さっき言われたような、吉本さんの意識下の問題、たとえば、共同体というものは、制度とか、じぶんの意識下の精神構造の中にはなくなっていても、意識下のなかにあるっていう、そういう場合に、仮に意識下の精神構造というものの、たとえば人間のなかに、私たちが見つけた等々する場合に、ひとつひとつ見つけ出していくのが作業かもしれないけど、うんと学術書を読んで、最初の人のように、恵まれた人なわけです。手近なだけに求めたい、そうすると、それがなかなか求められないときに、ふつう一般、私たちがたどり着いていく観念っていうのは、いわゆる諦念っていうんですか、諦め、諦めて感じる。
 それから、極端にいえば、宇宙の、自然の中に溶け込んだひとつの宇宙的感覚っていうんですか、人間を小さく見てしまうという、そこの到達理念みたいなものが、いま吉本さんがいう、新しい、たくさん考えを変えていかなきゃならんっていうところの問題の難しさなのがひっかかってくるんじゃないかみたいな、話を聞いていて感じたことなんです。その点はどんなふうに思われてるんですか。

(吉本さん)
 ぼくはそういう過程っていうのは、ぼく自身はどう考えているかっていいますと、ぼくなんかは手本にならないのですけど、日本でも手本になる人は、明治以降でも、もちろん、歴史時代を通しても、たくさんいるわけです。この人はどうしたかなっていうふうに、なにかっていうと、この人はどう考えたかなとか、どうしたかなっていうようなことが気になる人は、歴史上にもいますし、それから、さまざまなことを書き残していたりしますし、それから、もちろん、明治以降でもいますし、また、現在、生きている人でもいるんですけど、そうすると、そういう人達を一様に見ていると、やっぱり、共通に言えることがあると思うんです。
 その共通にいえることは、最後のところでは、あなたがいまおっしゃったような、そういうところにだいたい到達しているってことだと思うんです。だいたい、そういうところにいっている。いっちゃうという言い方をしてもいいんですけど、いってるという言い方をしてもいいんです。つまり、ぼくはあんまり、肯定的、否定的っていうふうに言いたくないものだから、とにかく見ていると、たいていはそういうところにいっちゃっているように思います。いくのが終着点のように思うんです。これは偉い人ほどそうなような気がしてしょうがないです。偉い人ほどそうだという気がするんです。
 それでもって、今度は、ぼくの好き嫌いとか、自分がどうしようかとか、自分の心構えとかいうことも含めていいますと、やっぱり、おれはそうはなりたくないっていうふうに、いつでも思っているわけなんです。つまり、おれはそうはなりたくないんだよっていうふうに思っているわけです。だから、意地でもそうはなりたくないよっていうふうに、ひとつは思うわけです。
 そうすると、それは非常な牽引力と絶えず無言のうちに格闘しているってことになります。つまり、やっぱりぼくも〈アジア的〉ですから、そうなんですよ、ほっとけばそうなるに決まってるって感じがするんです。だから、非常にそれは、おれはやだよっていう感じで、そういうことがあるわけです。それから、そうかといって、それに対する否定っていいますか、あなたのおっしゃっていたようなことを否定する、いままでの観点っていうのを見てみればいいんですよ。
 そうすると、偉い人はたいてい、今度は限定しまして、近代の偉い人っていいますか、近代における偉い人は、この人はどう考えているかなって手本になるような人は、あなたの言ったような到達点を、若いときは必ずと言っていいほど否定しているわけです。その否定する場合のよりどころとなっているのは、西欧の近代思想なんです。それを自分で身につけて、そこからそれを否定しているんです。若いときは否定しているんです。それを必ずと言っていいほど、100人いれば100人、10人いたら10人、近代以降の10人日本の偉い人がいたら、必ず若いときは、みんな否定しているわけです。
 そうしておいて、そのくせ自分が年を取ったら、そうなっている。それが、偉い人の、手本になる人のやっていることです。だから、若いときは、否定することは誰でもできるわけです。今度は年とったときも、否定することもできるわけです。ところが、年とったときに否定するのに、西欧の近代思想そのものの場所から否定するのじゃない否定の仕方っていうのができるはずじゃないかっていうふうに思っているわけです。つまり、それは何なんだっていうふうに絶えず思っています。つまり、絶えず考えていると思います。
 だけど、ほんとうに、10人が10人、100人が100人必ず、あなたの言われたことが到達点だと思います。日本の思想の到達点だと思います。一人だに離反する人はいないっていうくらい到達点だと思います。
 親鸞っていうのは、そのなかで非常に特異でして、ぼくの一人合点かもしれないけど、ほとんど、それを免れようとしていると思います。つまり、七十幾つになってもあんまり、境地がどうだとか、悟りがどうだとか言わない、できるだけ言わないで、言わないように、言わないように、そうとう頑張っていたと思います。そうとう頑張ったように思います。
 でも、最後はやっぱり、仏教ですから、仏教っていうのは先ほど言いましたように、自然思想ですから、つまり、自然にどうやって合一するかってことが根本ですから、だから、どうしても仏教を放棄しないかぎりは、やっぱり、どうしても自然っていうことに対するあれは残ります。だから、親鸞だって自然法爾みたいなことはどうしても残ります。若いときも、七十幾つになっても、あんまり悟ったようなことを言わない人でしたよね、言わなかったです、言ってこなかった。
 そういう思想家っていうのは、ほとんど、日本の歴史の中では、ほとんど、ただ一人って言っていいくらい、偉い人であって、偉くない人はたくさんいるんですよ(会場笑)、偉くない人っていうのは、つまり、風土の必然性とか、風土があれする必然的思想みたいに、それをガシャガシャって体中ひっかきまわされたっていう経験なしに、ないうちに死んじゃえばいいわけです。
 だけど、そうじゃなくて、他人にひっかきまわされて、なおかつ、そうはならなかったよっていう、ほとんどないです、偉い人はそうです。だから、なにかっていうと、あの人はどう考えたかなっていうふうに顧みるような人は、あなたのおっしゃるとおりのものを最上のものとしてきていると思います。
 ただ、あんまり、おまえどうだっていったら、ぼくはいまのところ、精一杯耐えて抵抗しているわけです。抵抗につぐ抵抗でやっていますけど、しかし、年っていうのはわからないですから、それはちょっと、ぼくなんかの予測不可能なものを持っています。つまり、生理的な年の老いっていうものは、思想に対して必然的に与える領分っていうのはあるんです。
 つまり、思想っていうのは思想として独立していまして、それから、理念として独立しているわけです。これは、どんな肉体を持っているかどうかっていうこと、男であるか、女であるか、そんなことは関係ないです。思想とか、理念っていうのは、どこでも流通しますし、それは独立したものです。しかし、そのなかにどうしても、生理とか、もちろん風土やなんかも含めていいんだけど、風土やなんかもいちようは、思想っていうのは生理を、人間の身体を通しますからね、いちおうは、生理が必然的にもたらす部分っていうのがあるんです、必ず。その部分では抗しきれないものがありますから、その抗しきれないものの怖さっていうものは、ぼくにはまだよくわからないところがあります。つまり、すこしわかったなって、こういうことだなって思っていることはありますけど、つまり、年をとるってことはこういうことだなって思っているところはありますけど、しかし、ほんとうにはわかってないですから、どうなるかわかりませんけど、ただ、意識としては精一杯、避けよう、避けようっていうふうにしていると思いますけどね。

14 司会

 お時間もあまりないのですけど、あとお一人にさせていただきます。女性の方、女性の方の質問者ってなかなかないですから、女性の方に男性の方譲ってください。先ほどお手を挙げていらっしゃった方、お立ちいただけますか。

15 質疑応答3

(質問者)
 それでは、歴史の必然とは何かということを教えていただきたいのですけど。

(吉本さん)
 歴史の必然っていう概念と歴史の偶然っていう、必然の反対は偶然なんですけど、つまり、歴史は偶然の積み重ねであるとか、歴史は必然的な移行だってことをいう概念自体がでてきたのは、ぼくはヘーゲルからだと思っているわけです。
 だから、18世紀末とか、19世紀になってから、必然っていう概念とか、いや、歴史っていうのは必然じゃない偶然の積み重なりでできたんだって、こうなってきたんだとか、つまり、さまざまな反対とか、賛成とかっていうのがあるわけなんです。
 その問題に対して、たとえば、ヘーゲルっていう人は、歴史は世界精神っていうのの具現であって、その意味では歴史は必然的に移行してしまうんだ。必然の移行っていうのは、どういうふうに移行するかっていうと、それは世界精神が具現するように移行するんだ。
 世界精神っていうのは、個々の人間のなかでは、どういうふうに必然化されているのかっていったら、それは内面の人間の意識ですけど、じぶんの意識の自由さってことです。内面の自由さの無限性っていうものを追及していく過程っていうものが、それが必然だっていうふうに、それが個人に体現された歴史の必然っていうのはそうなんだっていうふうに考えたんです。
 それが、歴史っていう全体に体現すると、世界精神の必然的な移行、あるいは、実現なんだっていうふうに、世界精神の自己実現なんだっていうふうに、必然っていうのを考えたわけです。
 だから、人間はヘーゲル的な概念でいえば、人間は自然状態で動物と少ししか違わないように、自然のものを採取して食べて、そして、また栽培して、また食べて、また動物を食べてとかしながら、なにも自然のままに任せて、たとえば、天候が悪くて、やせ細っちゃえば死んじゃうっていうふうに、そういうふうに自然にやってきたところから、段々段々、それとは独立に自分の内面の意識っていうものを、それとは独立に生みだしていって、考えだしていって、そして、その内面っていうのも、限られた内面じゃなくて、内面っていうのはどこまでも無限に伸びていくものなんだ、無限に、人間の内面性っていうのは広がるものなんだ、人間の観念はどこまでも無限に広がるものなんだっていうふうに、そういう方向に歴史がいくっていうようなのが、それを歴史の必然っていうふうに考えたわけです。
 マルクスはそういうふうに必然的に考えなかったのです。マルクスは自然史っていう概念を考えたんです。人間以前から、あるいは、無生物以前から、人間の自然の進化の仕方っていうものを考えて、そうすると、人間っていうのは何かっていうと、自己意識を持った、そういう自然史っていう概念からいくと、つまり、宇宙はこうできて、こうできてっていう自然史の流れからいくと、人間っていうのは、自己意識を持った生物だっていうふうに考えたんです。
 自己意識を持った生物っていうのは、自然の天候の必然のように、どうして移りゆかないかっていうと、自己意識っていうものがあるものだから、自己意識がつくりだしたものが、ようするに、自然の必然性っていうものを少しずつ狂わすだろう。狂わすだろうってことは、つまり、それを変えてみたり、違うようにしてみたりするのは何かっていったら、人間が自己意識を持った生物だからだっていうふうに考えたわけです。
 自己意識を持っていなければ、ふつうの生物と同じように、自然史のままに生き死にするだろう、植物と同じように、動物と同じように、生き死にするだろう、だけど、人間はなぜか知らないけど、自己意識を持った生物だから、自己意識の部分だけが違うものをつくって、それが、自然の必然っていうものを少しだけ妨げたり、統御したり、それから、偶然性に転化したりするだろうっていうふうに考えたわけです。
 それで、その自己意識の実現したものは何かっていったら、それは社会制度だとか、政治制度だとか、国家だとか、文化だとか、そういうものは動物とは違って、人間がつくったものだ、このもののあり方っていうものが、歴史の必然性っていうものを狂わせていくだろう、狂わせている要素だろう、どういうふうに狂わせていくかは、いちいち考えてみないといけないってなったわけです。それが必然性に対する一種の制御装置であり、同時に制御装置をもう少し突き詰めていったんです。
 そうしたら、どうかっていったら、放っといて、無意識のままに放っておくってことと、社会制度とか、国家制度とか、文化とか、無意識のままに放っておくよりも、こういうのが理想じゃないかっていう方向に、もしも各人が自分の意志を働かせて、その方向にみんなが意志してやったとしたら歴史はどうなるかっていうふうに考えたわけです。
 意志を働かせてどうなるかってことを加味した、そういうことを加味した自然必然性みたいなもの、自然の成り行きみたいなものに、人間が意志して、こういうふうに働いたらどうだろうかっていうものを差し加えた全体を、たとえば、マルクスならマルクスは歴史の必然性っていうふうに考えたわけです。
 だから、その必然性の大部分は自然史的な部分がある。人間が社会として拵えた部分のうちでも、そのなかでも特に、自然性っていうものが特に、大雑把っていいますか、さまざまな近似値でありますけど、それが通用するものは何かっていったら、たとえば、それは経済制度とか、生産制度とか、そういうものはわりあいに自然史と近いんじゃないのか、近い動き方をするんじゃないかって、わりにですよ、その部分が人間の社会の中にあるっていうことを、いってみれば、発見したわけです。
 だけども、それでもって動くとはちっとも言っていないので、人間の意志っていうものが、たとえば、寄り集まったらどうなるだろうかっていうようなことも含めて、ある必然性っていう概念をつくりあげたわけです。
 ところで、それは他人のことだから、おまえはどう考えてるのか、おまえは何を問題だと思っているのかっていったら、ひとつは、その意志っていうことの問題だと思います。つまり、あなたはこういうふうにしたいと思っている、たとえば、いまから1時間後、あなたは何をしたいと思っているってあるでしょ、ぼくがまた1時間後にしたいと思っていることがあるでしょ、意志していることがあるでしょ、それから、ここにいる人がそれぞれ1時間後に何をしようかって思っていることがあるでしょ、それはぜんぶ違うはずですよね、そしたら、それが寄り集まって必然性をつくれるだろうかっていうふうに考えるわけです。
 そしたらば、それはつくれないんじゃないかって考え方がひとつです。それはもう偶然ばらばらじゃないかっていう考えがひとつと、それから、しかし、そうじゃないんじゃないかっていう考え、そうじゃなくて、一人一人の意志は1時間後にぜんぶ違うと考えてるけど、そのなかでも、こいつらの意志、こいつらの意志、この意志を主に考えたならば、あくまでも主にですから、近似的にですよ、この意志を考えたならば、かなりな程度、必然的な動きっていうのはわかるんじゃないかっていう部分があるのではないかっていうふうに、ひとつは考えるわけです。
 それから、もうひとつ考えます。それは、もうひとつ考えることは、これはわからないことです、考えることっていうよりわからないことです。わからないことは、歴史っていう概念がよくわからないところがあるんです。つまり、歴史っていう概念のなかには、個々の人が、今日、1時間後にどう意志し、どう生きるか、どう行動するかっていうことは、必ずしも、歴史っていう概念を意識して動いているわけじゃないです。
 そうすると、その人が、たとえば、歴史っていう概念を意識しているときには、つまり、理想の社会を、おれはこう思っているっていうふうに、つまり、理想の社会をその人が描いているときには、少なくとも、現実的に無意識のうちに行動しているときじゃないと思います。観念と、考えとして行動しているときです。つまり、観念として、精神として行動しているときに歴史っていう概念を描いているわけです。
 それから、理想社会っていうのはこうじゃなくちゃいけないんじゃないかっていうことを考えているときは、その人は観念として動いているのであって、現実に動いているときじゃないんです。それも生活の一部分ですけど、そういうような時でしょ、そうしたら、これは、いわば観念の動きとしての、歴史っていう概念自体のなかに、あなたのおっしゃる歴史の必然とか、歴史は必然じゃない偶然だとか、そういう考え方自体がすでに、観念としての動きっていう、大きな枠にあるっていうことを免れないじゃないかなってことが、疑問がひとつあるわけです。
 そうだとすれば、人間の観念の動きの枠を免れないっていう、歴史の必然とか、偶然とか、そういう考え方、あり方っていうものは、観念の動き自体が、現実の動き方っていうものと、行動の仕方っていうものと、よほどの明晰な関連付けっていうものができなければいけないんじゃないか、歴史の必然性っていう概念が成り立たないんじゃないかっていう疑問があります。だから、そこのところは、もっと詳細に詰めなければ、いけないような気がします。
 なぜ、それじゃあ、たとえば、マルクスとかエンゲルスとかっていう時代、あるいは、ヘーゲルとかっていう時代に、そういうことをどうして考えないで済んだかっていうことがあるんです。それは、たぶん、よくわかりませんけど、大きな枠でいえることは、そのときは、たとえば、その考えの基盤になった西欧の文化とか、制度とか、社会とか、そういうものが、たぶん、いずれにせよ、全体として上り坂にあったんだと思います。
 ようするに、上り坂にあったときには、下り坂のときには、落ち目のときにはよく見えるんだけど、そうじゃないときには見えないことっていうのはあるんです。つまり、それじゃないかと思うんです。つまり、ちょっとたそがれてきたってなったら、そこは問題だぜっていう問題がでて、見つけられてくるってことじゃないのかなって思っています。
 だから、そこのところはわからないですけど、そこは考えどころかなって思いますけど、思ってるから、もう少し詳しいことぐらいは言えそうだけど、ぼくにはわかりません。わからないけど、それは、大きな問題のひとつはそこにどうもあるじゃないのかなっていうふうに思っていますけど。
 だから、あなたのおっしゃる歴史の必然とは何ですかっていうものに対する様々な回答の仕方っていうのがあるっていうことなんですけど、単一にこう考えたらいいんだっていうふうに、現在の段階のなかで言い切るには、たぶん、さまざまなことを考えなきゃいけないんじゃ、考え直さなきゃならないことがあるんじゃないかなっていうふうに思います。
 それから、もちろん、現在の西欧の優れた思想家なんかでも、歴史の必然っていう概念自体が、もうそんなものは成り立たないよって言っている人は、もちろん、たくさんいます。たいへん偉い人でもたくさんいます。だから、そういう人にとっては、歴史の必然っていう概念自体が無意味であるし、それを提起すること自体が無意味であるし、それをいまさら否定するも、肯定するもへちまもないよ、そんなものは成り立たんよって思っていると思いますけどね。だから、そういう問題としてあるのではないでしょうか、聞かれたことは、そうだと思いますけど。

16 司会

 長い時間、ちょうどもうそろそろ9時になります。最後のほうになって手をあげていただいた方が、段々増えてまいりました、これは自然なことだと思いますけど、まことに残念なんですけど、会場の時間がございます。それからまた、非常に遠くから今日はお集まりいただいております。私たちが知っているかぎりでは、いちばん遠くは東京、それから、おそらく鹿児島からいらしていただいている方もいらっしゃるかと思います。そのような方々がお帰りになるには、おそらく、これがギリギリの時間であり、また、なにかここで、もう少し残ったところで、いつかまた、吉本さんにこうして、ここ九州の地で、小倉で、もしお話しいただければってことも念じて、今回は終わらせていただきたいと思います。吉本さん、ほんとうにありがとうございました。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま