1 埴谷雄高という文学者

 埴谷雄高さんの『死霊』という作品がありますが、全部合わせると20年ぐらいかかっているのでしょうか、そしてまだ別に完成しているわけではないのですが、いままで書かれたものがまとまってひとつの本になったし、その本になったものは、たいへんな反響を呼び起こしている。そういうときにあたって、何かこういう催しがなされるということで、その作品に触れながらお話ししてみたいと思います。
 埴谷雄高という文学者がいま生きて、作品活動をしているということは、みなさんはあまりご存じではないのではないかと思います。それはどういうことでしょうか。つまりそういうことはしばしばあるのですが、ある一系列の作家、あるいはそのほかのものでも何でもいいのですが、そういう人がひとたびその作品に取りついていくと、たいへん深い、かなわないほどの魅力に取りつかれて凝ってしまうのですが、もしそういう取りつく契機がこちら側にないときには、まるで取りつく島もないという、そういう文学者、文学作品は確かに存在するわけです。きっと埴谷雄高という作家は、そういう系列に属するひとりなのではないかと思われます。
 だから別にみなさんのほうで仮に文学部におられる人であっても、埴谷雄高というみなさんと同時代に生きて、作品を書いている、そういう作家の名前も聞いたことがないし、まして『死霊』という作品を読んだこともないと、そういうことがあっても一向に不思議でもないわけです。そういうことがしばしばありうるということは、それこそ学校では教えてくれないわけです。

2『死霊』という作品はなぜきまじめであらざるをえなかったか

 だけれども『死霊』という小説作品の題名を聞きますと、すぐに連想する小説作品というのは、それはみなさんのほうがよくわかるのではないか。
 ドストエフスキーの『悪霊』という作品があります。それはお読みになった人も、ならない人もいるでしょうけれども、その名前ぐらいは聞いたことがあると思いますし、ドストエフスキーという作家についてはもちろん大学の入学試験の問題にも出てくるくらい、よく知られている作家なので、その名前は聞いたことがあるだろうと思います。『悪霊』という作品は不まじめな小説です。つまり風刺もあれば、冷笑もある。必ずしも登場人物に異常に深い問題意識を感じて書いているのではなくて、そういう意味ではたいへんゆとりのある作品です。僕はそのように受け取ります。
 一般に日本におけるドストエフスキーという作家の受け入れ方というのは、ドストエフスキーという作家を過剰に、まじめに深刻な作家だと受け取っているきらいがありますし、非常に高級な文体と高級な言葉で書かれているという受け取り方がありますが、それはおそらく修正しなければいけない。ドストエフスキーという作家はそんなにまじめではないといったらおかしいですが、相当、複雑怪奇な人であって、まじめで、深刻な作品だという日本人的な受け取り方が正しいかどうかというのは、たいへん疑問だというのが僕の考え方です。ですけれども、そのことはいいので、別にドストエフスキーをここで論じようということではなくて、ドストエフスキーの『悪霊』に比べれば埴谷雄高さんの『死霊』というのはたいへんまじめな作品だということは確かにいえるわけです。
 それから高橋和巳さんにも『日本の悪霊』という作品があります。これもたいへんまじめな作品です。つまり「まじめ」という言葉の上に「き」をつけて、「きまじめ」な作品です。人生に対しても、世界に対しても、現実に対しても、きまじめであるということは、悪くないのであって、僕もきまじめだとよく言われるのですが、しかしきまじめでないということの意味合いということも、非常に重要なことがあると思います。
 そのことはいいのであって、しかしながら『死霊』という作品がなぜきまじめであらざるをえなかったか。おそらく『悪霊』という作品から影響を受けていることは確かで、影響を受けているというのは、非常に表面的な意味合いでは影響を受けておりません。つまりまったく違いますけれども、たぶん非常に深いところでは影響を受けている作品です。

3 日本における思想の運命

 しかしなぜ『悪霊』がまじめな作品でないのに、『死霊』という作品がまじめになってしまったのかという必然性というものは確かにあると思えます。
 その必然性は、たぶん日本の精神的風土とか、精神的伝統とか、そういうものに非常に大きく負っていると僕には思われます。その負い方というのは、ある意味で日本における思想の運命、文学の運命、それからこれはいわば現実に反逆するところの政治思想の運命、そういうものと深くかかわっていると思われます。その思想の運命、政治の運命というものがやはりどうしても風土的な土壌の中で糸につながれざるをえない。そういう部分が確実にあるので、その部分で考える必然性というものが『死霊』という作品をいい意味でも、悪い意味でも非常にまじめなものにしていると僕には思われます。
 その運命というものは何かといいますと、一昔前の戦争ですが、つまり第一次大戦とか太平洋戦争と現在では呼ばれている戦争を、ひとつの文学、あるいは文学者が、あるいは文学者が持っている思想が、あるいは政治が持っている思想が、くぐり抜けるときのくぐり抜け方というのは、いくつもあるわけですけれども、もしその戦争というものを現実の社会、あるいは社会秩序というものに対して何らかの意味で否定するという考え方を文学によってか、あるいは思想によってか、あるいは政治行動によってか、完結しようとした、本当にまじめな人間がひそかにいたとしたならば、その人間はたぶん戦後に生きては存在することができなかったというのが僕の基本的な考え方です。
 ですから僕も入ってしまうといけないから、五十五歳から上の人で、生きている人がいたら、そして生きていて、現実に反抗する文学、あるいは芸術に反抗する政治思想というものをあい述べている、そういう人がいたら、そしてその人がいまもいたら、たいていいんちきだと思ったほうがいい。そんなはずはないので、絶対に生きられなかったと僕は思います。
 それはロシアとも違いますし、中国とも違うわけです。それは政治権力のかたちも違いますし、弾圧のかたちももちろん違うのですが、そういうことに限らなくてもだいたい狭くて、どこに出てもどうしようもないという感じです。狭いというのは風土的、地域的なということもありますし、それから隣人というものが助けてくれないわけです。隣人は、つまりよくいう言葉で世間体という言葉がありますが、世間体で困りますというのがあって、そういういろいろな要因が非常に特殊的にあって、やっぱり生きてこられなかったと僕には思われます。それならば生きてくぐれなかった、にもかかわらず生きてしまったとすれば、どこかで矛盾を抱え込んだということになると思います。
 そうすると、その抱え込んだ矛盾というものをどういうふうに処理するかという問題があって、おそらくそういう年代の文学者、思想家、政治運動家は非常に基本的なかたちとして、それにもかかわらず生きてきてしまったということに対して矛盾というものをどう処理するかという問題を必ず抱え込まねばならないはずなのです。そういうものを確かに抱え込みながら、いま生きている五十五歳以上ぐらいの年齢の文学者、思想家、あるいは学者も含めていいわけですけれども、政治運動家にはいないと僕は思っています。
 しかしそういう人はいるので、いまもなお矛盾を抱え込んでいて、それは何らかのかたちで矛盾を解き明かしながら、また矛盾を呼び込むということに悪戦苦闘している、そういう文学者は確かに少数ですけれども、いるわけです。その文学者、あるいは思想家もいますし、学者でも中には何らかのかたちでそれをやっている人もいるわけです。それは非常に少数ですが、いるわけです。その中のひとつの典型といいますか、象徴となりえる人が埴谷雄高という文学者だというふうに僕には思われます。

4 生きていることの矛盾を解決するための原理

 では埴谷雄高のその矛盾の抱え込み方、そして矛盾の解き方、解きつつ、また新たな矛盾を呼び込むという、そのやり方、しかたというのを考えてみますと、それは基本的にこういうことだと思います。つまり自分は観念としては、もう生きていないということ。ですから現実的には自分は生きていない。もちろんご飯も食べているし、お金も稼いでいるわけで、そういう意味では生きているのですけれども、そういう意味合いで生活、日常性、性格、肉体に対していわば必要以上の意味づけはしない。現実社会に対しても必要以上の意味づけはしない。ただそれはそういうふうに自分が生きているから食べているのであって、生きているから現実社会を見るのであって、また生きているから肉体があって、生きているから恋愛もするのであるという、それだけの意味は拾いますけれども、それ以上の思想的な意味づけはしないということです。
 つまり肉体、精神、生活、現実というものとしては、自分はもう死んでいるということ。しかし自分の観念の世界、あるいは心の中の世界といってもいいし、内面の世界といってもいいのですが、自分の観念の世界だけは生きている。自分は、原理としてそういうふうに考えよう、そういうふうに考えるならばやはり自分は戦後になおかつ生きているということが自分で許される、自分で自分を許すことができる。そういうことで決定的に戦争をくぐり終えた瞬間に、現実的、肉体的、生活的には自分は生きていない。
 しかし自分の観念だけは、あたかも生活のように、現実のように、また食べるように、あるいは恋愛するように、そういうふうに生きている。つまりそういうふうに自分は思い切るということを、自分が生きていることについての矛盾を解決するひとつの原理として最初につかんでしまった人であるし、そういう生き方をしてきた人だと思います。
 つまりそこのところから『死霊』のような、ひとつには非常にまじめな作品であり、ひとつには『死霊』の作品の登場人物はみんなそうですが、肉体としてはみんな死んでいる、影のような存在なわけです。しかしいわば観念の権化のようにありうる人間の精神の範囲を極限まで拡たいしたような、そういう人物ばかりが登場してくるわけですけれども、『死霊』はそういう作品の世界です。
 埴谷雄高というひとりの文学者は、かつての日本共産党、戦前の日本共産党の中枢にいた有能な政治運動家であり、そしてそれをやめながら戦争を通過した、そういう自分の体験があって、なおかつ戦後に生きている。そういう生き方、生きていることの矛盾というものを、最初に決定的にそういうふうに自分に言い聞かせ、そのように生きることによって『死霊』という作品を生み出しましたし、また現在も非常にユニークな存在として活動している。そういう戦後的な存在のしかたを最初につかんだ人であるし、それが言い換えれば『死霊』という作品の全体的な構図として覆っている非常に基本的な成り立ち方だと思われます。
 その中で、埴谷雄高という作家が自分の観念の世界にあるいくつかの可能性というものを、いわば分身のように与えている観念の権化みたいなものを登場させているわけです。その観念の権化の登場人物を、いわゆるリアリズム小説とか私小説とか生活小説というものが小説の本道だという考え方からいったら、まるで影のような、つまり肉体のないような登場人物ですが、しかもそういうところの造形をたくみにやっているわけでも何でもないのですが、しかしそこで展開される観念の権化みたいなものの観念の展開のしかたの中には、かつて日本の近代文学の伝統の中に少しも存在しない、一度も存在しなかったし、あるいはもしかするとこれからも存在しないかもしれない、そういう世界が展開されています。
 そういうことを埴谷雄高というひとりの作家の生き方というか原理に即しながら、この世界に入っていきますと、どうしてもそこにとりこになっていかざるをえないというか、それだけの魅力ある、またユニークな内容が備わっているわけです。この小説のあり方は、決して唯一のあり方でもないし何でもないのですが、この世界にひとたび入ったら、やっぱりそれはその世界を体験し、そこから出ていくことをどうしても強いられるくらいの、そういう魅力があります。
 だからそういう世界にもし縁がなければ、とば口のところで突っぱねざるをえないというか、入ることができない。普通の意味でのおもしろおかしい小説ではありませんから、突っぱねざるをえないでしょうけれども、ひとたび入っていけば、やっぱりひきつけられていくし、無類の世界をどうしても体験して、そこから出ていくということをせざるをえない。それだけの力を備えた作品だと思います。もっといえば論理と思想とメタフィジック、そういうものの力を備えた作品だと僕には思われます。

5 三輪与志と虚体論

 その分身たちの精神類型というものをいくらか申し述べてみますと、たとえばひとりの登場人物は、われわれの観念が生み出す極限性に憑かれて、自己観念が生み出す極限というものに憑かれるわけです。かつてなかったもの、そしてこれからも決してありえないものは何だろうか、そういうことに憑かれて、そういうことをとことんまで追求しようという衝動に駆られている人物が登場するわけです。そしてその人物は実体論に対して虚体論というものをテーマとしてそれにしょっちゅう憑かれていると思われる人物です。
 そしてその虚体論というのはいったい何なのか、どういうものなのかは完成しなければわからない。しかし虚体論というものがありうるとすれば、かつて歴史上どのような思想家の考え方の類型とも違った、全然新しい考え方、つまりかつてなかった考え方でなければならないし、かつてなかった考え方から生み出されるかつてなかったメタフィジックでなければならない。そのことだけは非常に確実だということに憑かれている人物だ。
 その人物が、なぜそういう考え方に憑かれているかというと、みなさんでもだれでもそうなんだけれども、青年期のはじめというのは純粋さ、徹底した極限性あるいは極端性というものにだれでも憑かれる時期があるわけです。それは青年期の特徴のひとつです。あるときにその純粋さというものに耐えられなくなって、純粋さを拡散させていくか、そうでなければある体験を積んだときに、そんな純粋、純粋で人生が渡れるものでもないということに目覚めるのか、目をつぶるのか知りませんが、そうなって純粋さを失っていくか、そうでなければ純粋さから自殺するとか、いずれそういうかたちで純粋性が青年期の特徴のひとつです。
 つまりそういう純粋さというものを、いわばあるところで失うか死滅させるかというときに、もしそこのところでもう少し純粋さというものに深度を与えようと考える時期があったとすれば、そう考える時期に現実に生きること、現実に体験することは、いずれにせよ自分、あるいは自分の純粋さ、あるいは純粋自己、あるいは純粋自己意識でもいいのですが、純粋自己意識というものが何らかの意味で純粋自己意識でないしかたで存在すること、そのことがいわば現実的に生きることではないのか。そうすると純粋自己、あるいは純粋自己存在というものと自己存在の現実的なしかたとは食い違うのではないか。
 その食い違いは言葉でいえば、つまり「俺は」、あるいは「私は」といった場合に、「私が私である」ということがスルスルッと言えないので、「私は」というのと、「私である」ということの間に空隙ができてしまう。その空隙ができてしまうということが、純粋自己存在的な現実に生きるしかたというものが、いわば空隙に該当するのだ。その空隙はその登場人物の言い方によれば、「私が私である」といえないで、「私が」ということと「私である」ということの間にある矛盾とか空隙、その空隙を満たすものが不快である。つまり私は、それからそのところに不快、不愉快というものがあって、それから私であるというふうに行かなければ、私は私であるという自己確認ができないという観念に憑かれて、そしてそれが原動力になって、いわば虚体論というものに憑かれる。そういうひとり物が登場します。
 これは言うまでもないのですが、作者である埴谷雄高という人の思想のひとつの柱になっているもので、その埴谷雄高の分身として、そういう虚体論に憑かれるひとりの人物を登場させるという登場のさせ方をしています。

6 首猛夫――全的否定のオルガナイザー

 それからもうひとり、対照的に登場する首猛夫という非常に強力なオルガナイザー、しかも一匹狼のオルガナイザーが登場します。このオルガナイザーはどういう観念に憑かれているかというと、現代は、あるいは今世紀は戦争と革命の時代だ。その戦争と革命の時代というものを、構造的によく見てみれば、それはくだらないやつらから崇高な理念を述べるやつらに至るまで、全部が殺人を、あるいは集団的な殺人を名目をつけて許容している時代だった。
 つまり名目さえつければ、集団殺人であろうと個人殺人であろうと、それを堂々と許容している時代だ。それは戦争だ、やむをえない、あるいは革命だ、やむをえないという両方のいわれ方で、いわば名目をつけて、どんな崇高なやつでも、どんな下劣なやつでもみんな殺人、あるいはまかり間違えば大量殺人を許容している時代だ。今世紀というものは、そういう意味合いでの戦争と革命の時代であって、その戦争と革命の時代とは何かといったらば、いわばそれは人類全体が死への、あるいは死を許容する、死を名目をつけて許す、つまり死へ下りていく階段をどんどん、どんどん突っ走っている時代だと考えるわけです。
 たぶんこの突っ走っている時代では、全的な否定者である以外に生きて存在することはできない。だから全的な否定者である以外にない。そして本当の意味で、あることのためにお前は生を選ぶか、死を選ぶかという判断をだれも下せないし、まただれに対してもお前は生を選ぶか、死を選ぶか、どうするかということを言うことができる。つまりこのことのためなら生を選ぶか、死を選ぶか、お前は決断しろと人にも言うことができるし、自分自身にも言うことができるような、そういう新しい全的な肯定者はまだ生まれない、過渡期の時代なのだという観念を持った首猛夫と、虚体論に憑かれた登場人物とが非常に対照的な人物として登場します。

7 黒川健吉の新しい形而上学

 そういう観念に憑かれる登場人物に対して、そのふたりの極端な登場人物の観念の世界を補足するような意味合いで、黒川建吉という三輪與志に非常に親しくて、非常に近いという存在、そしていつでも屋根裏部屋に住まって、そして何か本などを読んだり、詩作をしたりというふうにして暮らしている、これまた観念の権化という登場人物がいます。その登場人物は、現実の世界を見て、判断をして、やっぱりそこから新しい思想といいましょうか、形而上学といいましょうか、そういうものを生み出すために、未来からの眼を持たなければならない。つまり未来から現代を照らすという、そういう照らし方をしていなければならない、そういう観念に憑かれている人物なのです。
 そしてその未来からの眼というものは、やはり極限の未来からのもので、その未来からの眼で現代を照らし出したときに、過去の歴史体験から整理して、そこから編み出されてきた思想というもので現在を見ていくというような、人類がいままで取ってきた思想の方法、あるいは文学の方法でもいいのですが、そういうものとまったく違って、無限の未来から現代を照らし出してみるという、そういう見方で見たときに、現代というものはまったく違ったところから、つまり新しい角度から照らし出されるかもしれない。そういう未来の眼というものを何とかしてこしらえたいという、そういう考え方に憑かれているわけです。
 未来の眼というのは、人間の個人に即していえば、つまり自己意識に即していえば、それは生きている眼ではなくて、死んでしまったものの眼だ、死者の眼から生きているものの世界を照らす、そういう照らし出し方をしてみると、生きているものの世界というのは非常によく照らし出される。そういう考え方にされているわけです。
 そういう考え方はどこから出てくるのか、どういうところから出てくるのかというと、黒川建吉という登場人物は、つまり人間の歴史がいままで体験し、整理し、記録してつくりあげてきた、そして現在に至っている、そういう人間の歴史的な体験というもの、あるいは人類の歴史というものの経路の中で、いつの時代でも絶対に傷つかないで、あるいは手を触れられないできたものがある。その手を触れられないできたものとは何かといえば、作中の人物はそういう言葉を使っていないのですが、わかりやすい言葉でいえば、それはものの存在ではないか。あるいは人間の中にあるもの的な部分、あるいは自然的な部分でもいいのですが、自然的な部分、あるいは自然、天然でもいいのですが、そのものだけはかつて人間の歴史が一度も傷つけたり、それの責任を問うたりということをしないできたのではないか。
 だからもし本当に新しい形而上学というものが生み出されなければならないとしたら、その形而上学は未来からの眼でもって照らし出したものであるし、同時に死者の眼でもって照らし出したものであるし、同時にそれは人類史が一度も手を触れたことも、責任を追及したこともない、いわばもの的な存在、あるいは自然的な存在、あるいは天然的な存在、そういうものの責任さえも問うことができる。だからいわば宇宙全体の責任というものを問うことができる。
 そういう形而上学というものがもし生み出されたら、それは新しい形而上学になるのではないか。それをつくり上げなければならないのだという観念に憑かれて、貧民窟の屋根裏部屋にいつでも黙って座っていて、いつでも何か考えたり、熊のように歩いていたり、黙っていたりする。そういう黒川という人物が登場するわけです。

8 三輪高志の〈遠い未来の眼〉

 もうひとり、首猛夫の影のような存在で、三輪高志という人物が登場します。三輪高志という登場人物は、これは『悪霊』なんかからもたいへん示唆を受けただろうと思われますし、あるいは戦前の日本共産党のリンチ殺人事件みたいなものにたいへん示唆を受けたかもしれないのですが、『悪霊』の言葉でいえば、たとえばある集団、ある結社が、あるいはある組織でもいいのですが、その組織が結束を固めるためにはどうすればいいか。つまり『悪霊』の中のスタヴローギンというちょっと悪魔的なところのある人間が、それにどんな理由でも、どんな名目でもいいから、集団の中のひとりを殺してしまえばいい。つまり殺すためには、もし理由があるとすればそれはスパイだということで殺してしまえばいい。殺すことによって集団自体が共通の目的に結束できるということがあるから、そうすればいいのだということを示唆する人物が『悪霊』の中に出てきます。
 その三輪高志という首猛夫の影みたいな存在は、どういう実際的な理念に憑かれるかというと、要するに作品の中である集団がそういう場面に当面するわけですが、そのときに中の人間から、やつを殺すべきだ、やつはスパイだというさまざまな見解が出されるわけです。
 『悪霊』の時代でも、現在でも、いつになってもそういう場合に出てくる論理はさして変わりばえがしない中で三輪高志が主張するのは、自分たちは現在のこのときの必要のために集まっているのであり、ひとりのスパイをどうするかということを論議していくことであるけれども、同時に自分たちは百年か数年か知りませんけれども、遠い未来のために集まっているのである。それがゆえにスパイである人物を、そういう言葉を使っているかどうかはちょっと記憶にないのですが、つまり言っていることはこういうことです。
 だからその人物は、とりあえずあちら側に預けておくべきだということを三輪高志は主張します。あちら側に預けるということは、黒川建吉という登場人物の言い方でいえば、要するに遠い未来に預けておくということ、あるいは遠い未来の眼に預けておくという意味になります。あるいはもう少し言い方を変えれば、死者の眼というところに預けておけばいいのだ。いずれだれが審判を下すかわからないけれど、遠い未来の眼というものが審判を下すだろう。そのときまでその人物を預けておけばいいと三輪高志は、その集団の中で主張するわけです。
 三輪高志はその主張が通って、自分がスパイと名指された人物を殺す役割を負うわけです。その役割を負いつつ、三輪高志は病気になって動くことができないし、いつでも寝ているという設定に作品の中ではなっています。
 遠い未来の眼、あるいは遠い未来にその人物を預ければいいのだというその言い方は、『死霊』という作品には生活の影みたいな存在ばかり登場するのですが、観念だけは肉体より生きている、そういう『死霊』の世界というものが非常によく象徴している言葉です。普通の政治の言葉でしたら、あいつはスパイだ、スパイだからこいつを殺してしまうべきだ、抹殺すべきだという言い方でいわれるべき言葉が、そうではなくて、三輪高志の言葉でいえば、この人物は未来に預けておくべきだというような言い方をするわけです。つまり死のほうに預けておくべきだ。審判はだれにもわからない。自分たちは現在のためにも結束しているのだし、同時に千年、百年の未来のために結束している。だから未来にちょっと預けておくということがいいのだという非常に格好がいい言い方をするわけです。
 結局、それは殺してしまえということなのですが、そういう言われ方は『死霊』という作品の世界を非常に象徴しているわけです。そしてそういう登場人物が、首猛夫という人物の影みたいな存在として登場してきます。そしておそらく『死霊』という作品の中で、いわば作者の観念の世界、あるいは思想の世界をそれぞれの可能性として分担し、そしてその極端に拡大は、その四人の登場人物に象徴されてきているわけです。
 その四人の人物がそれぞれの場面で一緒に出会ったりして、そういう観念をお互いに述べ合っていくということは、『死霊』という作品を展開していく展開のしかたであるし、要になっているわけです。それは究極的にどこに持っていかれているかということになるわけですけれども、それは人によって読み方が違うのですが、それは現在までのところ、おそらく非常に大きな意味合いで、たぶん最後まで貫かれるだろうと思われるモチーフのひとつは、やはり遠い未来の眼ということだと思われます。

9〈遠い未来の眼〉の誤謬を突き破るモチーフ

 遠い未来の眼を現在からいわば外挿して形式論理的に想定することはだれにもできないことですし、そのことには誤謬が含まれるわけです。その誤謬をひとつ救っているものが、遠い未来の眼、無限に極端化された未来からの眼というものを設定するために持たれる図式性というか、そういうものを非常に補っているのは、人間の存在というものを生きている間、つまり生まれてから死ぬまでの百年足らずの間ですけれども、人間の一生涯というものに限定していない、つまりその一生涯というものに限定する考え方を突き崩しているということなのです。
 作者の思想が、人間というものの意識、人間が生み出す観念の世界、あるいは思想の世界、あるいはもしかすると行為の世界、行動の世界というものを、人間が生きているときから死ぬまでの間、つまりマルクス流にいえば個人としては百年足らずで死ぬのだけれども、類としては生きるのだと、そういう言われ方と同じようないい方をすれば、人間の意識が思想を生み出す力、あるいは観念を生み出す力、それからそれを実行する力、そういうものを生まれたときから死ぬときまで、そういうところに限定しないで、そこの枠を破る。いわば人間が死んだあとの世界までも含めたところで人間を思索しうるし、思想の世界、観念の世界の範囲をそういうふうに拡大できる。そういうモチーフが作者にあるということが、いわば作者の未来からの眼というものを図式的になりがちな未来からの眼、あるいは空想的になりがちな未来からの眼というものを救っているように思われます。
 それは通俗的な意味でいう宗教の領域に踏み込んでしまう、つまり死後の世界というものを扱えば必ず宗教の世界に入ってしまうわけですけれども、埴谷雄高という人はある意味では非常に宗教的なところに踏み込んでいると僕には思われます。なぜならば、人間の観念の世界の範囲、あるいは人間がものを考えている世界の範囲、あるいは時間というものを、必ずしも人間が生きている期間の中に限定していないからです。その枠を突き破ろうというモチーフを持っているから、ある意味で宗教的だといえるわけです。

10 意識=観念というかたちで人間は存在し続ける

 そうすると究極的に死者の眼や、遠い未来からの眼とは何かということを非常にわかりやすく個人の死、あるいは死後の世界に換言して説明すれば、人間が何らかの病気でも自殺でもいいのですが、死んでしまったときに、意識がなくなってしまう。意識がなくなってしまって、もう言葉もなければ、呼吸もなくなってしまう。そして心臓も動かなくなってしまう。
 しかしそれは「死者の電話箱」、あるいは「存在の電話箱」という言葉で作中に出てくるのですけれども、そういう装置を発明すると、本来死者のほうから生者のほうにかすかに信号が送られている。つまり呼吸も止まり、心臓も止まり、脳も止まり、みんな止まってしまって死んでしまったということになるわけですけれども、しかし細胞のひとつひとつみたいなものをたどってみると、それは何か知らないけれども、固有の存在のしかたをしていて、それは「死者の電話箱」みたいなものをつくると、死者のほうから信号が送られてくる。その送られてくる信号は、いわば生者のほうからは絶対にそこには届かない。だから全部これは死んでしまっているとしか生者のほうからは見えない。しかし死者のほうから依然として信号が送られている。
 その信号は何を言っているかというと、ここはそこじゃないと。ここはそこじゃないから、お前のほうから、つまり生きているものの側から考えられる考え方とか言葉とか、そういう言葉を使ってこっちに何か言おうとしても、それはだめだよということを言っている。だから全然違う言葉、違う考え方、そういうもので言わないとこっちには届かないよということを言っている。なぜならば、ここはそこじゃないんだからと、そういう信号が死者のほうから送られてきている。しかしもっとそれが進んでいく。
 そうすると肉体としての細胞とか、あるいは肉体に宿る細胞などはみんななくなっていく。最後に究極的なところでは、意識イコール存在だ、あるいは何か知らないけれども波のような、ざわめきのようなもの、そういうものが宇宙のどこかには満ち満ちていて、そのざわめきは、言ってみれば「還元物質」という言葉で出てくるのですが、それは意識イコール存在みたいなかたちで、宇宙というものにはそういうざわめきが満ちている。
 そのざわめきというのは言い換えれば死者が究極的な段階まで行ったときに、そこでなおかつ存在して、そして波のように動いたり、ざわめいたりする。それが宇宙には満ち満ちているのだ。それは言い換えれば、人間が生ある段階、期間だけではなく、死んでのちの期間までも含めて思想の問題、形而上学の問題、あるいは現実の問題と考えれば、いわば究極的なところで意識イコール存在というかたちでなおかつ存在し続けている。そしてそれは宇宙のざわめきみたいにしか感じられない。あるいは気配のものとしてしか生きているものには感じられない。そういうものが依然として生きている人間の世界というものに対して信号を送り続けているし、人間はそういう死の究極的な段階、そういう存在として意識イコール存在みたいなかたち、あるいは気配みたいなものとして、なおかつ人間は存在し続けるし、また思索し続けている。
 そういう観念がこの『死霊』は最後の究極的な作品の完成まで行っていないわけですけれども、いままでのところの締めくくりであり、おそらくこれは最後の締めくくりまで何らかのかたちでそういう観念が大きなモチーフとして持続されると思われます。そういう根本モチーフのところで、いわば観念の権化みたいなものを登場させているわけです。
 そういう世界が『死霊』という作品の世界で、これはいったんその世界に入ってみるとたいへん魅力的で、最後まで引きずっていきますし、もっと別の通俗的な意味でもこれだけの論理力、思索力がまともにできる人は、日本にはあまりおらんねと、そういうような読み方もできますし、また日本の近代文学の歴史のうえで小説概念を非常に大きなかたちで拡張しているという意味合いもつけられると思います。
 つまりわれわれが思っている思想小説というものは、たとえば長与さんの『竹澤先生と云ふ人』とか、漱石のある種の作品、『こころ』みたいな作品が日本の思想小説のひとつの原型であり、またタイプを表しているわけですけれども、しかしそれとはまったく異質であるし、まったく次元が違うし、それよりも言ってみれば高度ですし、いや、これはいけないの、高度という言い方をするとちょっと間違えるので、高度でもありません。
 そうは言いながら、『竹澤先生と云ふ人』よりは高度ですけれども、漱石の『こころ』と比べて高度だというと必ずしもいえない。しかしそれとは異質な意味での思想小説の類型を新たに生み出しているという位置づけのしかたもできましょうし、あるいはドストエフスキーの『悪霊』が、たとえば革命前夜のロシアのインテリゲンチャのあり方というもののタイプをよく象徴している、つまりよく予言しているといわれると同じ意味で、革命前夜か半革命前夜か知りませんけれども、日本の革命的インテリゲンチャの置かれている困難な状況、そして不可避的な状況を非常に予言的に象徴しているという言い方もできると思います。

11『死霊』の現在的意味

 このような小説が持っている現在的な意味合いというものがあるわけです。その意味合いというものは何かと考えていきますと、やはり現在というのは、みなさんが実感的にわかるわけで、まじめならばよく感じているわけだと思いますけれども、つまりまじめじゃなくてもいいんですけれど、実感していると思いますが、要するにどこにも心棒がないということがあるでしょう。
 つまり心棒がなくなってしまったというのは、そういう記憶の中で、なおかつ何か心棒らしきものを自分の中でつくりあげるか、自分たちの間でつくりあげるか、あるいはそれをどこかに求めるかという以外にどうすることもできない。しかしいったんそういうふうに求めようと考えていくと、いわば何かわかりません、つまりそれはおそらく現実の個々の事件とか、個々の現象とかそういうことではなくて、現実そのものがわれわれに与えてくる負担というものからくる、負担というものの不可避性というものからくると思うのですけれども、そういう不可避性が強いる必然というものがある。その必然によれば何か核をつくろうと考える、あるいは自分自身の中につくろう、あるいは個人的につくろう、あるいは自分たちの間でつくろうと考えていけば、そのしかたをやろうとするやいなや、いわば腐食作用というようなものが不可避的に侵入してくる。そういう状況はみなさんもおそらくよく実感されていると思います。
 この実感のされ方というものは、僕は必ずしもいわゆる意味できまじめでなくてもいい、きまじめであるというのは自己矛盾じゃないかと思われるところもありますから、(笑)だから必ずしもそうであることをあれしませんけれども、しかしそういうことがどこか自分の中の不安とか空虚とか、あるいはケ・セラ・セラでもいいんですけれども、そういうものとしてやはりみなさんの中にあるに違いないというくらいは、みなさんのことを信じたいような気がするのです。つまりそういうことがあるでしょう。
 そういう中でこの作品自体の登場人物が非常に狭い考え方と、狭い範囲に首を突っ込んでいるわけですけれども、そういうふうには考えないで、いわばここにもまた自分の中に、自分の力で核をつくろうと思ったり、あるいは自分たちの間で核をつくろうと思っている登場人物たちが、観念の世界のドラマですが、観念的に極限までそのドラマを演じようとしている、一種の青春というものがあるのではないか、あるいは現代の状況に対処しようとする、あるいは二十世紀前半から引きずっている思想的な状況に対して、何らかの爪をかけようじゃないかというふうに思っている登場人物がけなげにも登場しているじゃないか。それは非常に不可避的に現在的なものじゃないか。
 ここにこれが観念の世界で、肉体も生活も現実的な示唆もないから、これはだめでしょうと、そういう通俗的な読み方をしないで、そういうふうな読み方をすればかなりこれは優れて現代的な作品ではないかという読み方ができる。現在読んでみると、やはり現代的なさまざまな示唆を与えるものではないかというふうに読めるのではないかと、この作品が存在するということが、僕なりに断言できるような気がします。つまりそういうふうに読まれるべき作品のように思われます。
 たいへんお粗末ですが、『死霊』という作品のモチーフのおおよそというものと、それが現在、持っているだろうなという意味を、いわばかいつまんで申し上げますと、いままで申し上げたようなことになると思います。そして僕の任務は終わるというような気がします。これで終わらせていただきます。(拍手)

12 司会

13 質疑応答1

(質問者)
 非常に楽しく聞かせていただいたんですけど、『死霊』についての問題で、漠然とした問題で疑問があったので聞かせてください。いまの吉本さんのお話で『悪霊』と『死霊』ということで、『悪霊』を出して、この『悪霊』というのはふまじめなところがある、それから、『死霊』は非常にきまじめだとおっしゃっていて、まず、それがちょっと僕は疑問に感じたのですけど。
 やっぱり、『悪霊』というのはまじめで、だから、ああいうふうな恰好になってしまったというところがあって、逆に『死霊』というのは、なにかそういうことでふまじめじゃないかという気がしているわけです。
 これは吉本さんの場合には、戦争と戦前と戦中の体験がおありになって、ぼくらにはないということが、この『死霊』の読ませ方を違えたのだろうと思うのですけど。たとえば、死者からの眼とか、それから、未来からの眼というものも、どうも非常に弱いんじゃないかという、神からの眼ということを言っちゃうともう、それは古臭くてダメなので、未来からの眼とか、死者からの眼というと、非常にフレッシュに聞こえるかもしれないけれども。しかし、そういう言葉で使って展開するのはちょっと弱いんじゃないかという気がするわけです。
 『悪霊』が19世紀的な小説だとすれば、結局、いまごろ『死霊』が書かれるというのはだいぶ遅いんじゃないかと、結局、芸術とか文学作品の場合に遅ければすこしダメなんじゃないかという気がするわけで、ここに小川さんも秋山さんも文学に関わって、小説を書いたり、批評したりなさっているわけだけど、吉本さん自体も詩を書いたり、ぼくも読んでいますけど、そういうものが、結局、もうダメなんじゃないかというところが、もう少しそういう絶望感みたいなものがちょっと、そういう感じを持って、楽しそうに小説を読んでいるようですし、それから、小説を書かれているようですし、詩を書かれているようなので、そういう全体の問題からいくと、この『死霊』の問題というのは、いまの日本の○○からいえば、非常に重要だし、それから、50歳以上の戦争を体験した方からいうと、非常に問題だろうと思うのですけど、もうちょっとそういう意味で、それほど○○ということに関してはちょっと疑問がある。そういうことで、質問というとあれですけど、いま述べた件について、小説の現在性、可能性というか、そういうものとのかかわりをちょっとお三方に聞きたいというふうに思います。

(司会)
 ちょっと問題を整理しますと、そのへんは『死霊』と『悪霊』の時代性というような問題だと思ったのです。時間もないので、吉本さんだけに聞きたいと思うのですけど。
 たとえば、『死霊』のほうは現代的には新しいと、『悪霊』のほうは現代的には遅れている。現代から見て時代的に見て。そこらへんで良い悪いという判断はどういうところで下されるのかとか、そういうようなところで言っていたと思うんです。良い悪いというか、まじめ・ふまじめの問題からみると、そういうことで。

(吉本さん)
 ちょっとよくわからなかったんですけど、ぼくがまじめ・ふまじめと言ったのは、そんなに深い意味じゃないです。あの野郎はふまじめだとか、あいつはまじめだとか、そういう意味あいで言っているので、むしろ『悪霊』のほうがまじめで、埴谷さんの『死霊』のほうがふまじめでじゃないかというふうに一ひねりひねられて、そして、未来からの眼というのは、それは弱いんじゃないかというふうに、ふまじめということと関連して弱いんじゃないかと言われたのかなというふうに聞いたんですけど。
 ぼくはそれに別段感想はないです。それはそうだと思われたら、そういう感じ方もあるなというふうに思うわけで、ひとつ見解として聞いたというだけで、それはなぜそういうあれになってくるかというと、まじめ・ふまじめなという言葉に特別な思想的な意味を含めようというふうにお考えになる、あるいは、そういうふうに聞かれたからそういうふうになるのじゃないかな。ぼくは非常に単純な意味で、ごく普通の意味で、野郎はふまじめだとかいうふうに、ふざけてやがるというふうな言い方をするというのと同じ次元でそう言っているので、そういうことというのはありうるなという、そういうような非常に単純な意味でまじめ・ふまじめと言っているので、そこを非常にひねってしまいますと、いかようにも違う見解といいますか、正反対の見解というものも出てくるように思います。
 別段、『悪霊』という作品と『死霊』という作品を比較してどうというふうな考え方は、ぼくのほうにはないわけでして、ただ、影響というのは受けていた、あるいは、示唆というのは受けていただろうなと、しかし、よく読まれればわかるように、まるで中身は違うというようなものですから、そういう意味合いの問題として、『悪霊』というのを出してきたので、ほんとうはそれを出さないほうがよかったかもしれないなという、そういう反省はありますけど、ぼくは別段、いまの見解に異議はないですね、異議がないですというのは、感想はないです。ああそうかという、そういうふうに思いました。もし、ぼくの受け取り方が間違っていなければそうです。

14 質問

(質問者)
 吉本さんに聞きたいんですけど、『異端と正系』の中で、…(聞き取れず)

(吉本さん)
 10年以上前の最初の頃の埴谷雄高論みたいなものだと思いますけど、ぼくはいくつか書いていますけど、対立者というのは若気の至りというふうに(会場笑)。記憶にありませんので。現在のあれに即していいますと、ぼく自身の側に引き寄せていえば、その頃はまだゆとりがあったけれど、ぼく自身がじぶんのテーマといいますか、モチーフを追及するといいますか、そういうことに深入りしちゃっていて、あまり、対立とか言うゆとりがなくなったよというようなことがひとつあります。
 それから、もうひとつはそういうことをぼくは書いたと思うのだけど、秋山さんと3人だと思うのですけど、なんか2時間くらい書くと心臓の薬を飲まなければちょっといかんという、そういう感じで、飲んでる二人というふうに埴谷さんがされるでしょう。そうすると、ぼくの親父というのも心臓を悪くして死んだんですけど、だから、その薬が何なのか僕はわかるんです。何を飲んでいるかわかるわけです。発作を止める薬です。
 対立も何もないだろうという、そういうことがあるんです。それは同情とか、自分より年長者に対するいたわりとか、病気をおしてあれしているということに対する、そういうものとはちょっと違うんです。
 文学あるいは文学者というのは、やっぱり相当、悲惨なものだねというか、悲惨なことに耐えなければいけないものなんだというか、それはやっぱり自分の運命であるかもしれない。自分の鏡になるかもしれないし、またそれは、文学だけじゃなくて、政治運動に携わる人というのは、すべての人に当てはまることかもしれませんけど、そういうことで、やっぱり相当ひどいものだなという、人間というのはひどいものだなという、あるいは、もっといえば、人間の生涯というのはひどいものだなという、何とも言えない、明瞭しがたいそういうあれがあるわけです。
 そういうことを含めてあれしますと、埴谷さんと僕の考え方というのは全然違いますから、違うことを言ってもいいのだけど、ぼくは単独できたらいくらでもやりますよ。だけど、ぼくはそんなことを言うよりも、いまみたいなことを言ったほうが僕はいいように思います。そういう感じなんです。
 ぼくは、青年期において後年考えて俺ちょっと間違えたぞということがあるんです。人間の生涯というものを間違いだぞと思っていることはひとつあるんです。それは、青年期というのは誰でもそうでしょうけど、きついわけです。いろんな考えることでも何でも全部ひっかぶってくるわけです。それは非常にきついわけです。さればといって自分に自信がもてるわけでもないし、生活能力が自分にあるというふうに規定することもできない。
 みなさんだってきっとそうだろうと俺は思うけど。それで不安に満ち満ちて、コンプレックスに満ち満ちているわけです。いつかは精神的にか、年齢が上昇していけば、あるところでこういう問題はどこかスーッと広場みたいなところに抜けるに違いない。つまり、ゆとりというところにいける時が必ずあるはずだよと、その時はそう思っていましたけど。それはたぶん違います。
 ぼくの経験では少なくとも、楽になるというのはあります、つまり、そのとき、一銭も稼がないで親の脛をかじっていたけど、いま食えるだけは稼いでいるぜみたいな、そういうようなつまらないところでは楽になる条件というのはありますけど、そんなものはちっとも青年期に自分が抱いた精神の問題というのをちっとも楽にしてくれない。これは年を取るにつれてますますきつくなるだけだということがだんだんわかってきたというふうなことがあるんです。
 これは青年期に徹底的に俺は間違えていたぞというような、どこかでゆとりがあるところがあるに違いないというふうに、そうじゃなきゃ救いようがないと思っていたことは違うなということ、きつくなるだけですよということがわかってきたように思うんです。だから、そこは徹底的に間違えたなと思うんです。
 つまり、そういうことから考えると、座談・対談するのにも、2時間おきぐらいに心臓の薬を飲んだりしないといけないという、そのきつさというのはわかるわけです。それは言いようがないのです。だから、そういうことだというふうに僕は考えて下さったらいいと思います。そういうふうな意味あいだと考えて下さったらいいと思います。ぼく自身の考え方の原理みたいなものはありますけど、それは違うと思います。それは機会があったら単独でやってきてやりますけど、それは言えることはないんだろうなと思います。だから、いまみたいなことを言えばいいような気がします。

15 質疑応答2

(質問者)
音声聞き取れず

(秋山さん)
 ぼくがさっきここで話したことというのは、たしかに、独自の私の言葉で、現実世界の人間の制度のことを再形成してある独自の視点で輝かしてくれる、だから一冊の本の中に私の声があるわけです。私の声ということによって、人間の共通性の部分が学校という言葉の場所とは違っていたわけです。
 それを読む人間のほうも当然に、自分が人間の中の共通の種族としてかかわる、独自の自分というものを出すのであると。それがまあ、文学の中の魅力の神髄のひとつだと言ったわけです。
 このことと、ある人が何かを書いた、大勢の人にわかってもらうということは何かしらの提言ということを含んでおるかもしれないです。自分の言葉をただ提出するというなら、ある人はわかってくれるだろうけど、ある人はわかってくれないだろうと、当然、自分の独自の私の言葉をわかってもらえないだろうと思って提出するということがある。それはそうなのかということだろうと思うのです。
 そうすると、言いにくいですけど、わかるという言葉が問題があると思うのです。いま言われた人は、わかるということは、あるわかり方というのは、みんなが共通に何かをわかるということがあって、このわかり方でこんなふうに思われるということを、ある何かの文学がわかるといったそういう意味でわかる、そういう性質があると言われたのだと思うのですけど。
 乱暴な話ですけど、それはやっぱり否定するんです。文学がわかるというのは、やっぱり自分ひとりだけでわかるんです。友達三人で一人ずつが自分の家に帰って、Aの人もわかった、Bの人もわかった、Cの人もわかったといっても、そのわかり方はやっぱり違うんだと思うんです。
 ということは根本的に、ぼくがいま例え話で言ったけど、ドストエフスキーの『罪と罰』がわかったと言いましたけど、ほんとのことを言うとわかりっこないのです。ぼくはだってドストエフスキーの時代の人ではないですから、ロシアの人間でもないですから、あそこに書いてあることがいちいち本当かどうかなんてどうしてわかるのか、ぼくがあれを読んでわかったという時には、ぼくは自分の言葉の中に彼の言葉の中に取り入れられる部分、食べられる部分をもって、ぼくが自分の中でわかったということです。
 だから、文学の観念はいつもそういう問題があると思うのです。やっぱり共通にわかるということはないと思います。いま、何かを読んでわかるということ、どういうことなのか、ぼくの言葉は本当にはある10人の人が一致していないとわかるということがあるのではないのかということです。ぼくの話を進めていけば、10人共通してわかることはない、そんなふうに考えていいのだということだと思いますけど、わからなくていいのだと思いますけど。それじゃあなぜ、ぼくがこういうところで話すのかということは、また別の話になります。

(吉本さん)
 ぼくの考え方と皆さんの考え方は違うんじゃないか、それで、お前の考え方の違う点をあれして述べよということなんでしょうけど。同じだと。

(質問者)
 埴谷さんの場合には肉体的には死んじゃっていると、観念だけが生きていると。ぼくなんかが吉本さんの本を読んでそういうことが書いてあると、その原理的なところを。

(吉本さん)
 非常にたくさんあれして言わなくちゃいけないのですけど、それは様々な問題に全部かかわってきちゃう、それをぜんぶ言うには何時間もかかりますから、あれですけど、しかし、ひとつだけ言いますと、非常にラフな言い方をしますと、24時間みんな、飯を食ったり、おかずを買ったり、片づけたり、稼いだり、そういうことに一日24時間ぜんぶ使われちゃったらいいという考え方です。それを引き受けるという考え方です。
 それでもし、メタフィジカルなものといいましょうか、あるいは、そんなこと言わないで文学でもいいです、思想でも、あるいは、政治でもなんでもいいですけど。そういうものがやれるとしたら、やっぱりどうしても25時間以降という言葉を使うのだけど、それを自分で作れなければ、やっぱりダメだという考え方、そういう考え方です。
 つまり、ほんとうにどん詰まりまで覚悟すれば、24時間なんでもいいです、些細な事でもいいです、稼ぐことでもなんでもいいです。そういうことに24時間ぜんぶ使われちゃっても、使われちゃう境遇に陥ったり、時期があったりしたら、それは引き受けるべきだ、それで結構、それでいいんだという考え方です。
 つまり、そこまで覚悟しなければ、日本では文学もできなければ、思想もできなければ、政治もできないよというのが僕なんかの覚悟です。ですから、そういう覚悟にふさわしい24時間以内に起こる様々なことに対するメタフィジカルなイメージで、それをどこで捉えたらいいのかというものについて、自ずから、僕なら僕なりに、芸術、それから体系がありますけど、そんなことを言っていたらきりがないから、しかし、原則はそうです。そういうことを考えないと、それはダメよという、究極的には日本ではダメなんだよという、つまり、余計なことを嫌いますから、日本の社会というのは。原則的にはそういうことです。ちっとも満足しないでしょう、聞いたって。だからそんなのお前と同じだって。

16 司会

17 挨拶

 宗教と文学ということで、私の場合、聖書ということなわけで、必ずしも自発的に選んで読み始めたわけではないわけで、日本人の家庭の中では比較的、聖書が身近にあったし、そういう漠然たる縁があって、読み始めたわけですけど、だんだん歳を取るにつれて、私のほうから聖書に挑戦していくというか、挑んでいく気持ちが湧いてきて、現在では聖書を選んだというような自覚があるわけです。いま言ったようにそれを辿ってみれば選んだとは申しませんけど。大筋からかなり漠然と考えて、聖書を選んだという、そういう気持ちを持っています。
 選んでよかったか、悪かったかということになるわけですけど、それはよかったと思っているわけです。というのは、聖書は私の持っている問題に解決を与えてくれたということとは違って、聖書は私の問題をますますわからなくしてくれたという、つまり、問題というものはそれぞれの大きさがあるのだろうと、ひとつの問題に尽くすことはできないわけです。大きさもあって、自分に当てはめていないということが感じられるということは、そういう問題を客観的に、より客観的に感じている、より客観的に捉えているということになると思うのです。
 聖書自体も本の性質からいうと、吉本さんとも度々、話をしましたけど、短編の小さな集成です。あるキリストという人物についての短編の小さな集成で、いわゆるテキストとして見ても、けっして完成したものではない。いくら読んでもわからないんじゃないかという予感をもつという、そういう問題が、先ほど申しました宇宙論というか、そういうものを漠然と考えているわけです。その宇宙論を考える核のようなものになるということです。
 聖書の言葉をとってくると、ちょっとおかしいかもしれませんが、キリストの言葉、あるいは、天国というものは犯罪者のようなもので、それを隠しておけば、何兆倍にも膨れあがるというような言葉がありますけど。そういう例え話があてはまるような場合に、私の中で様々な問題を照合するわけです。
 それが私の世界観というか、宇宙論というものに育ってくれればありがたいというふうに思っているわけですけど。そういう宇宙論というものと、自分の小説というものが制度に見合う形でかけているということが、文士としてのあり方、今後書いていく、そういう道を開いていけそうだという、そういう気がするわけです。
 今日の話の中心の一貫である『死霊』のことを付け加えると、さきほど私が申し述べましたけど、やはり、そういう構造をもっている本であるということです。私はローレンス・ダレルの『黒い本』を挙げましたけど、そういうものの一番の大物というか、それを挙げれば、ダンテの『神曲』だと思うのですけど。そういう宇宙論の性格に見合うような、そういう文学が日本にも生まれてきたということを言ったわけです。
 私は埴谷さんのように書いておりませんけど、そういう全部の仕事が自分の宇宙観というものと見合うという、そういう形になってくれればありがたいと、そういうふうに考えています。聖書を増幅させるというか、私どもの思想なり、生き方と、調和させていく生き方というのは、私はそういうものを省みない、自分なりのやり方でそれをやってみたいと、そういうふうに思っているわけです。



テキスト化協力:(チャプター13~17 ぱんつさま)