1 司会

2 世界的インフレの背景

 ただいま紹介にあずかりました吉本です。きょうは、いま主催者の方からいわれた、最も苦手な経済問題についてしゃべらなければいけないという、そういうことなんです。
 ここ数ヶ月から、半年ぐらいまえに、石油危機というような見出しのもとに一連のパニック状態がおこる。つまり物資が出回らない、日常物価が上昇する、それが留まるところを知らないという、そういうような体験をみなさんもされた、というふうにおもいます。それは日常性からいうと相当厳しい圧迫感でして、この状態を続けていくならば、これはいわゆる大衆の側から、もっと激しい、なんと言いますか、アピール、直接のアピールというものが何らかのかたちで出てきて当然である、とういうふうにおもわれる客観的な条件、あるいは主観的な条件というものがあったわけです。けれども、なぜか、買い占められた物資が出回ってきたというところで、直接大衆自身の動きというものが、鎮静作用に向かっていったというように考えられます。これはちょっと不可思議な現象でして、鎮静作用が受容されたにもかかわらず、物価自体は現在でも依然として相当のスピードで上昇しつつあるわけです。誰がなんと言おうと、そのことはもう間違いないことなんで、それから受ける直接の圧迫というものは依然としてこれは厳しいということは間違いないことなんですけれども、しかしなぜか、いわゆる、僕らが直接大衆と限定しえるものが、なぜか、その日常からの反撃の動きが鎮静してしまったということも又事実です。
 このインフレの加速化と他方での大衆の反撃の鎮静化といった不可解な現象について、明解な答えを用意してくれた経済学者はおらないわけで、僕らも一生懸命になって、そのことの問題を探ろうというふうに考えて、アプローチしてみたんですけれども、何ひとつとしてまともにこれだというふうにつかまえられるそういうふうな、経済学者の言論というものはなかったようにおもいます。それでしかたなしに、僕はこの問題をつっこんでみたいと思ったわけです。
 石油危機自身がどうしてできたかということは、非常に明解なことなんで、日本で石油は全消費エネルギーのうちで、七十何パーセントかを占めているわけですけれども、そのうち100パーセント近い、つまり九十九パーセントというものは、どこかの産油国つまり産油地域、主として一般に第三世界と呼ばれているところのなかにある産油地域に依存しているわけです。で、産油地域で、いわゆる石油成金なり、あるいは、民族資本なりが、ちょっと意地をわるくすれば、たちまちある程度、石油危機といいましょうか、石油自体に対するパニックというものがおこるというのは当然なことなのです。そんな仕組みなので、日本で石油危機というものがまずなぜ起こったのかということは理解しやすいわけです。
 しかし、それならば、石油危機につづく、諸物価の高騰というようなもの、それから、そこへともなう、心理的といいましょうか精神的パニックみたいなもの、そういうものを説明することはむずかしいので、ただ一般にいわれる燃料その他の海外依存性が非常に強い、そういうことだけでは、問題が解決されない、ということがあります。
 また、今はクローズアップされていませんが、エネルギー、資源危機と等しく、農業生産物みたいなものについても同様のことがいえるのです。なんと言いますか、主食というかお米みたいなものは間に合っています、ということになるんですけれども、しかし、その他、雑穀だとか、副食みたいなものは、原料において海外依存というものは非常に大きいというようなことがいえます。これは、農産物一般にたいしてもおういうパニックというものが起こる可能性というものは、つまり連繋して起こる可能性というのは確実にあるわけです。

3 農業問題とは何か

 石油、資源危機や早晩予測される農業生産物不足といった問題を、非常に適切なところで、何と言いますか、根本を押さえて要約しますと次のようにいえます。ひとつは、いわば高度成長というやつで、高度成長というものの標識というのは、主として、重工業、とくに重化学工業の、工業的生産性というようなもので測ることができます。そうしますと、高度成長政策にともなって、いわば労働力自体も農村からどんどん吸収していくというようなかたちで、高度成長政策をとれば必然的に、いわば、対極で、農業問題をどうするのかというようなことが、当然でてくるということはいえるわけです。そこでもうひとつの標識として考えなければならないものは、農場問題自体であるわけです。
 農場問題というのは何かといいますと、こういうことになります。農場問題は、あるいは何かといいますと、こういうことになります。農業問題は、あるいは農村問題でもいいんですけれど、どういうふうに解決されるかというときには、つまり、高度成長政策というものをとってゆく限りは農業生産における資本主義化、あるいは、資本制化というようなものが、当然問題になって浮上してくるわけです。ところで、農業問題の非常にむずかしいところは、農業問題自体が、農業経営自体を、いわば、封建的な農業経営から、いわゆる資本主義的な近代的な経営による農業問題というようなところへ転化してゆけば、農業問題自体は解決されるか、というと決してそうじゃないということになるわけです。
 なぜ、そうじゃないかというのは極めて明瞭……、単純なわけです。それは、大なり小なり農業問題自体が〈土地〉というものに依存する、ということなんです。土地制に依存するということ、つまり生産性というものだけに依存するのではなくて、その生産ー再生産という、生産過程での繰り返しのなかで、土地制というものが、どういう意味合いをもつかということが、たいへんむずかしい問題になってくるわけです。農業経営自体を近代化してこぼれおちた農業人口を、高度成長経済政策による重工業の方に転化してゆくというそういうことで問題が解決されるかのごとく戦後の日本の政治支配者というものはそういうふうに経済問題を考えてきた、とおもいます。しかし、農業問題自体はそういうふうに簡単な問題ではないということが、本当はいえるのです。その問題の焦点といいますか、それはどこにあるかというと〈土地問題〉自体のなかにあるわけです。つまり、土地という問題をはなれて……、土地という意味は、必ずしも地代との対比範囲ということに限定されないのですが、それでも土地そのものなんです。自然性としての土地ということそのものに農業が全面的に依存している、というそのこと自体の問題がよく解かれない限りは、まず農業の近代化というものを推進してこぼれおちたものを重工業というようなものに転化していくという、そのようなことだけでは、決して解決されないということが言えるわけです。

4 自然性と人為性の矛盾

 工業化と土地制――農業問題をめぐる難所は世界的レベルからも言えるわけです。僕は毎日新聞などの紹介記事をみたに過ぎないんですけれども、最近の、例えば中共の幹部が、こういうようなことをいっているわけです。つまり、現代の世界というものをどういうふうに区分し得るかを連中に言わせますと、開発途上国というものと、次にこれから高度成長政策でひとつやっていこうじゃないか、高度資本主義に転化していこうじゃないかとやりつつあるという、いわば中進的な資本主義というようなものと、それから第三に先進的な、つまりアメリカを例にとれば、すでに技術革新を徹底的にやり、新たなそれ以降の分野の産業というものが起こっても、最近あまり生産性が高度に得られないというような、いわば停滞的な成長しかしていない(それはそう書いてあったからそういうわけだけれども)行き詰まった国家群と、その3つの段階的グループに分けられるというのです。そして、いわば米ソを中心とする停滞した、つまり成長を足踏みしている国家群を、開発途上国群が、打倒していくという課題が現在の世界の政治的な課題であるということを中共の幹部は言うに至っているわけです。
 この問題も非常にさかのぼって経済的に根本的に言えば、それは農業問題ということの面倒くささ、むずかしさ、というようなところにあるわけです。もっと極端に言えば、土地制として立ち表われる土地の問題というところにあるわけで、土地の問題をどうするか、どう考えるか、というところに依存するわけです。ですからこれは、例えば中共のそういったような発言というものは、何と言いますかー例えば、マルクスならマルクスの理論から言ったら最大限の逸脱であり、全然問題にもお話しにもならないという考え方なんですけどーなぜそんな発言が出てくるとかいったら、やはり農業問題、いってみれば農業問題の基本に横たわっている土地制の問題にあります。つまり土地の自然性というものと、他方での思想的な言葉を使えば人為性ということと、土地の持っている自然性ということと人工性と言いましょうか、そういう連関をうまく解き得ないというところにそういう理論が出てくる余地があり、またその理論が一定の影響力を占める余地があるわけです。マルクスに言わせれば、国家の消滅なしに世界革命なんてあり得ないわけです。つまり、理論的にあり得ないということははじめから決まっているわけなんですけれども、しかしそういう考え方ではなくて、いわば、後進国、中進国、先進国みたいに分けて、後進地帯が先進地帯を打倒していくことによって、現在の世界革命の課題がある、というふうなそういう考え方にまで変質してゆく、いわば必然性というものは決してないわけで、原因がないわけではないわけです。それで、その必然性を生じせしめているものは、実に土地というものの自然性というものと人為性の問題の度重なる矛盾、その土地をめぐる矛盾の累積を扱いかねているというところに帰着するというふうにおもわれます。
 ですから、現在の段階でナショナリズムといいますか、つまり国家および国家群というような考え方というのは当然消滅してよろしいはずのところなんです。けれども、それが消滅せずに、非常に特殊な経路と通って、思想の経路を通って、現在なお生産されあるいは再生産されつつあるというようなことがあります。で一方において、世界を「社会主義国家」群と「資本主義国家」群と分けるというような考え方の崩壊ということがあり、他方において、その崩壊自体は、必然的にインターナショナリズムみたいなものの浮上を指すわけです。つまりは、世界性みたいなものを指すわけです。けれども同時に、非常に特殊性というか、つまり、国家群、あるいは、国家民主主義というようなものが、ある意味で強固に枠組みが残されたまま、世界革命の問題が論じられていく、考えられていく、そういう基盤があって、その両者がいまや、つまり両者の考えの対立を象徴する中ソが流血をともないながら戦争一歩手前の内ゲバをやっている、というのが現在の世界のなかでの、最も危機の集中的表現というふうに言うことができます。
 だから、国内における内ゲバ流血事件というものの国内版といいますか、そういう象徴としてみてゆくならば、極めて切実な問題だというふうに考えられます。この問題を肯定するにしろ否定するにしろ、あるいは、やむを得ずやるか、というようなことになるにしろ、いずれにせよその問題はヒューマニズムの問題でもなければ、組織の共同性そのものの問題でもなくて、それは一種の情況的に非常に切実な問題であって、その大規模な世界的な規模でそれをやって、現在やりつつ流血のそれを繰り返しつつ、思想的に主体的に内ゲバを繰り返しつつあるのが、ソ連と中共とその両者であるというふうに考え、そして、そこに現在の世界の危機的表現というものが集中しているというふうに考えれば、それもまた切実な情況的課題であるということができるとおもいます。

5 第一次高度成長と安保闘争の意味

 現在の世界的経済現象としてでてきている問題というのは、どこに由来するかということを考えてみますとこれはいわば、戦後日本自体の、戦後の経済という問題のなかに、集中的に現れているというふうに考えることができます。戦後経済の屈折点は、1950年、1960年、1970年の三点として扱えると思います。
 戦争というものはある程度、重化学工業というものを発達させますから、1945年で先頭が終わった時の状態を考えますと、日本の重化学工業の基本設備、あるいは固定資本というものはかなりの程度発達しつつ温存されながら敗戦を迎えたということができるんです。これに対して、たとえば3月十日の江東地区の中小企業が密集してきた地帯が全部焼けてしまったということに象徴されるように、中小企業的な産業というのはほとんど壊滅状態にちかい状態で敗戦というものをむかえたというふうに思います。
 だから、敗戦直後にすぐ日本の資本主義というものは、重工業あるいは重化学工業を中心にして、いわば資本主義の再建に向かうというやり方というのが、割合にたやすくできた状況というのは、敗戦そのもののなかにすでに存在していたということができます。それで、その問題というのは、考えてみますと、朝鮮戦争で拍車をかけられて朝鮮戦争でいわば第一期の高度成長を遂げ、高度な資本主義国というものに転化していったというふうにいうことができます。それは、ほぼ転化が完了した、あるいは新たな過程が始まったと言ってもいいのですが、これがみられるのがだいたい六十年なんです。
 僕らはそのことについてすぐに思い出すのは、六十年安保闘争のことなのです。六十年安保について僕らは要するに、日本資本主義は高度な、つまり非常に高度な、米国に対して相対的に独立しうるような力量を獲得するに至った、で、その相対的に独立するような力量を獲得した日本資本主義というものと、それからアメリカの資本主義というものとの、同盟関係と一種の矛盾関係というものの表現というのが、改定安保条約のなかに表現されている。だから、主要な闘争目標というのは、日本の国家である、つまり資本主義国家である。僕らはそういうふうに規定し、そして考えて、闘争を進めたわけです。それは、その時に、いまは新左翼とか旧左翼とかいう言葉でいわれていますけれども、旧左翼というのは、共産党を中心にして、反米愛国路線というのをとったわけなんです。そして、われわれは、そんなばからしいことはないということで、全然お話しにはならないということで、それらは対立していったわけです。これは明らかに、僕らの考え方の方が正しかったわけです。
 明らかに、その延長線のところで、現在の危機的な情況というものが、出現しているというふうに考えることができます。のちになって、不破哲三とか上田耕一郎とかいうのは、反米愛国路線であったということに対して若干の自己批判を提起しています。それを経済学的に提起しています。それは当然なんであって、その時に、日本の国家を、アメリカの資本主義の従属的な位置に位置づけて、反米愛国路線というものを提出したこと自体が全くナンセンスであり、また、そのあとになってからそれを自己批判するというのもまたナンセンスだというふうに僕らには考えられます。僕らはそういうふうには全く考えていなかったということは、それがおそらく六十年の時点で新左翼というものと旧左翼というものと分かつメルクマールだったというふうに考えます。

6 経済共同体的な概念の登場

 その問題というのを、六十年安保闘争後において、経済概念としてどういうふうに、どういうところに収約点をみいだしていったかということを考えてみますと、それは、こういう概念が出てきたということなんです。つまり、国内的な規模だけではなくて、世界的な規模でも、そういう概念がでてきたということなんですけれども、それは…僕は素人ですからね…経済学の概念でいえば、株式会社とか何とかというふうに言うべきところを、何といいますかね……経済共同体というような概念で考える考え方というのが、いわば六十年以降において、高度成長政策で、経済共同体というふうに呼んだらいい概念が出てきたわけです。ある企業とか株式会社とか言えばいいわけなんですけれども、そういうものを一種の経済共同体というふうにみる考え方というのが、いわば、支配者の側から資本主義の側からも、それから最も著しい例というのは、構造改革派というものがそうなんですけれども、左翼の側からもそれが出てきた、ということなんです。
 それは思想的にいえばどういうふうに言えばいいかというと、ひとつの株式会社、あるいは株式会社連合でもいいわけですが、そういうものを純粋に経済的な、何といいますか、生産と再生産というようなものが出来上がっている、そういう概念に、やや観念的な意味合いを加味してあるわけです。つまり、労使が共に経済共同体のなかで運命を共にすべき、つまり政治的、思想的立場は異なれども運命を共にすべきものである。株式会社とか企業とかいうものはそういうものなんだという概念が、日本の六十年以降の高度成長政策のなかで出てきたというふうに考えられます。それは、左翼の側からももちろん資本主義の側からも出てきたということが言えるわけです。
 資本主義の側からは、それはどういうふうに出てきたかというと、いちばんいい例は、ソニーの小林茂という元左翼の経営者がいるわけですけれども、その経営者なんかが典型的にそういう考え方を打ち出してきたわけです。経済共同体とは言いませんけれどもそういう概念を提出してきたわけです。具体的にどういうことかといいますと、従来の株式会社機構を考えてみれば、株式会社の幹部の独占、独裁によって官僚主義的に企業方針なりなんなりが全部おしつけられて、それに対して労働者は、それに従って盲目的に動いていくというようなものが、従来の株式会社のなかにおける組織概念だ、それに対して、ソニーの小林というのは、もと左翼の体験をいかしまして、一種の労働者における細胞組織が自主的に決定して討議して、それを実行に移すという、つまり、下からの創意といいましょうか、いわば、生きがいとか働きがいとかを与えるためには官僚主義を排して、数人のグループというものをつくって、それらの相互討議のうえで、あるいは、民主的な討議のうえで何々の方針を決定して、それをもって企業を運営していくというふうな企業概念でなければダメであるというような観念を撒いていったわけです。その観念というのは、モーレツ社員を生み出し、そして働きがいの喪失か知りませんけれども、そういうやりきれなさというものに、一種のはけ口を与えたというふうに考えることができるとおもいます。つまり、ソニーにおける新経営というのは、そういうことにかかっているわけです。そういうやり方自体、考え方自体に依拠しているわけです。
 この考え方というのは成功であるか、ということを考えてみますと、成功でないことはすぐ解るわけで、それは小林というのは知ってるわけで、こういうことを言っているわけです。しかしながら企業なるものは従業員だけのものではない、それならば管理職というのは、幹部というのは、従業員によって選ばれるのではなく、従業員外から選ばれるようにしなければならぬというふうに言っているわけです。つまり、従業員外から管理職は選ばれなければならぬというのがひとつのミソでして、それをそう言わなかったら、ちょっとおかしい、もと左翼じゃなくて軟化した左翼ということだけになっちゃって、到底ソニーは幹部として雇ってはくれない。だからそれはチェックがあるわけでして、チェックは要するに、管理者あるいは企業体の中心や幹部というのは従業員外から選ばなければならない、というふうに限定していることで、すぐに経済共同体というのはなんで在るか、ということが解ります。で、そういう概念を提出してきたわけです。
 そうすると、経済共同体みたいな概念に、企業あるいは株式会社というものの考え方をすり替えていきますと、以下のふうに類推できます。要するに、それは国家というような規模で言いますと、国家意志ですね。つまり、法、法律というようなものや、あるいはその執行機関というもの、つまり国家意志に該当する企業意志というのはどこで決定されるかというと、株式によって決定されるわけです。企業共同体、あるいは、経済共同体というものの、いわば共同体意志というものはどこで決定されるのか、共同体内部で決定されないで株式総会で決定されるというふうになります。
 わかりやすくいえば、経済共同体という概念における株主意志というもの、あるいは経済界の意志というようなものは国家意志と同じなんだというふうに考えられます。つまり、国家における法律、あるいは法というようなものと、執行機関、国家機関というものは同じなんだというふうに考えれば、経済共同体というような概念の非常に重要なポイントをつかむことはできるのではないか、というようにおもいます。で、これから例えば、資本主義の側から出てきた一種の経済組織というもの、あるいは株式会社組織というものを導入することで共同体として捉えようという考え方の基本骨格は、そういうふうにおそらく思想的につかむことができるのだというふうにかんがえます。

7 経済共同体としての国家という考え方

 こういう考え方というのは、左翼のほうからも出てきたのであって、その典型的なのは構造改革論者の概念というのがそうだとおもいます。構造改革論者のガ院江というのはどういうふうに出てきたかといいますと、これは、企業のなかで左翼はいかに動くべきか、というようなことで言ってもいいんですけれども、今井則義という人がふたつの国家という概念を出してきたのは小林茂とほぼ同じ時期ですがそれは間違いなしに資本主義の側から出てきた経済共同体的な考え方と非常によくマッチするわけです。では、ふたつの国家観というのはどういう概念かといいますと、非常にこれも簡単なんで、国家というのは、法律があり、そしてそれを執行する国家機関がある、つまり、一種政治国家というものがある。その政治国家と重なり、あるいは構造を交えるように規模を大きくしただけの経済共同体としての国家というものと、それらのふたつの国家があるという概念を出してきたわけです。で、ふたつの国家のうち政治権力としての国家というものは変革され、時代によって変わっていく。しかし、経済共同体としての国家というものは、資本主義であろうと社会主義であろうと共産主義であろうと一種の管理機構として貫徹していくものであり、不変のものであるという概念を出してきたわけです。それが、構造改革論者のなかで最も僕らがみると思想性をもっていたとおもわれる今井さんという人が出してきたふたつの国家論です。
 この考え方というのは、経済共同体的な、あるいは経済管理機構的な国家というものは、資本主義であろうと、共産主義であろうと、これは不変に貫徹するものだという考え方自体が、例えばソニーの小林さんが出してきたような経済共同体的な考え方と非常によくマッチする。一致するということが非常によくわかるとおもいます。例えばレーニンならレーニンも同じようなことをいっていないわけではないんです。だけど、まるで違うことがあるんです。それはどういうことが違うかというと、つまり、国家なんていうのはどうせなくなっちゃえばいいんだよ。なくなっちゃうんだよ、窮極的にはなくなっちゃうんだと、で、なくなった場合に、事務管理というのはどうしていったらいいんだということを考えていった場合に、それは思想的な言葉を使えば、政治なんで嫌で嫌でしょうがねえ野郎が当番でしかたがないからやるというふうにやりぁいいんだ、こういうような意味合いのことならレーニンも言っているんです。そのことは今井さんのいう、経済管理機構としての国家というものは、政治制度の如何にかかわらず、ずっと貫徹するという考え方と、天と地ほどちがうということがすぐにわかるはずです。
 つまり、一見すると同じことをいっているように見えますが、レーニンの言い方のなかには、政治が政治自体を止揚していくこと、国家が国家自体を止揚して消滅していくこと、権力自体を止揚して消滅していくこと、その時にどうするか、その時には非政治的な人間が、利益よりも損害の方が多いといったところで、輪番制によって、それを管理するといったようなことばが本当にありうることなんだということを言っている中には、人間的な価値転倒というのもありますし、政治概念における価値転倒というもの、組織概念における価値転倒というものを全部そのなかに包括しているわけです。
 ところが、今井さんのいう国家というのは、ふたつの国家があり、ひとつは政治権力を有する国家であり、これはいずれにせよ変革されなければならないものだ。しかしながら、経営管理あるいは経済管理機構としての国家というものは例えば権力が消滅しようとなにしようと、不変に貫徹していく、政治制度がどうなろうと残存していくという考え方、それは何もそんなものはない、価値転倒の問題なんか、何にもないわけです。で、これはソニーの小林が言っていることと、ちょうど同じことを逆に言っているわけであって、全く指していることは同じことであるわけです。
 資本主義の側からも左翼からも、この考え方が提起されていって、それはある程度現象的には―現在もそうなんですけれども―現在の経済現象、社会現象を極めてよく現象的には説明しうるに便利な部分を持っているということは疑いがないわけで、それがなければ構革派というのは現在ないはずなんです。だけど、現在も依然として党派としてあるということは、そういう考え方が一見すると現在の社会現象、あるいは経済現象を現象的には説明しうる側面を持っているということに由来しているわけです。だから経済共同体というような、そういう言葉は僕のつくった言葉であてになりませんけれども、言っている意味は、企業やあるいは生産機構、生産組織そのものに、ある共同体的な観念というものを移し植えたということです。
 経済共同体という概念が経済的な範疇から出てきたということのなかには、非常に本質的な課題が含まれているということがわかります。この課題というのは、一国内部における問題だけじゃなくて、世界的にもそういうことはいえるわけです。例えば、経済共同体的な概念に、フルシチョフならフルシチョフの路線というものが移っていったときに、中ソ論争という形で口先だけでの対立というのが始まっていったわけです。その場合のソビエトにおけるフルシチョフ路線というのは、まったく経済共同体的な考え方というものを非常によく世界的にとっているわけで、これはもちろん、逆な意味では、ソニー的な意味では、アメリカでもそれととってきているわけです。世界史的にとってきているわけです。だから、この問題のなかには、非常に大きな世界史的な問題というのが含まれているわけです。

8 さまよえる農業問題

 これに対する反発というのは、例えば、中共から出てきたわけですけれども、要はどこに目をつけたかと言えば、植民地とか低開発地域とかに目をつけて、そこでの民族自立を含めて様々な闘争というのが、つまり植民地解放闘争も含めて様々な闘争というのが、現在における革命の課題なんだ、ということで中ソ対立というのが起こってきたわけです。何故起こってきたかということを思想的にはでなくて経済概念のなかに落とし込んでいくというか、いれこんでいくと、経済共同体的な考え方というのが世界史的な規模で、非常に中心的な考え方であるというふうに出てきているのです。そういう考え方が出てきている必然性のなかには、国内における高度成長政策というようなものがあり、世界史的な規模では先進資本主義国における一種の停滞というようなもの、いわば、どんな技術革新をやろうと、どんな産業形態をとろうと、あまりたいした成長率を示さない、そういう状態になっている地域での問題と、それから、低開発地域、植民地なんかでの植民地独立闘争みたいなものを含めての地域問題、これらの問題を中心に据えますと、その後の世界史の、経済思想的にみた世界的な規模での様々な局地戦争とか様々の難問が出てきていますけれども、そういうものを説明するというか、理解するのにたいへんやりやすいのではないかと考えます。そういう考え方が出てきたのは、1960年、つまり安保闘争のあと、資本主義の側からと左翼の側からと両方から出てきたわけです。この両方出てきたあり方の非常に一致する地点というのが、経済共同体的な考え方だというふうに言うことができます。
 経済共同体的な考え方に対する、世界的に言えば中共の反発というのはどうして起こってきたか、ということを考えてみますと、経済共同体的な考え方のなかに何ら解放の問題もなければ、階級の問題もない、何もないじゃないかというような一種の反発というのがあって、それがそういうふうに出てきたとおもうんですけれども、それをもっと根底的に言ってしまえば、最初に言いました農業問題、あるいは農業問題自体が資本主義自体によって、あるいは農業の資本主義化ということ自体によってはどうしても解決されないということだとおもいます。この解決されない問題というのは、いわば世界的な規模で農業問題というものが、一種のさまよえる課題、非常に大きな課題として存在するということを意味するとおもいます。つまりこれは、資本主義化する、近代化するということによっても、これが解決されないし、それからそうじゃなくて、一種の原始ユートピア的な農本主義的なー中共というのはそういうところがありますけれども――農本主義的な考え方、つまり共同で耕し共同で平等に分配し共同で暮らし共同で何をし、それが都市、工業都市というようなものと隣接をして、共同で耕し共同で分配するという、そういう地域と、いわばセットでつくることによって、一種の農本ユートピア的な考え方を加味した考え方、理念というものが一方で出てきて、それがいわば、経済協同的な高度成長的な考え方に対する一種の反発を示し、そしてそれが、行きついたところが社会主義ブロック論というようなものをぶち壊していって、自力更正路線みたいになったところで留まるかというと留まるわけではなくて、何ていいますか、現在学生さんがやっているのと同じように流血のゲバをふるってあわや戦争に入るか入らないかの危機一髪みたいなところまで結局行くという対立のしかたを示しているわけです。その問題がいかに経済現象的な、あるいは経済現象をどうみるかというような問題に単に留まるだけじゃなくて、そして、単に一国における高度成長にともなう様々な危機というようなことじゃないです。現在の世界的な規模における危機の集約点というものが農業と密接不可分な関係にある土地制というもの、土地の自然性と人為性人工性というもの、そうしたさまよえる農業問題ということに、そしてもうひとつは、技術革新、技術振興にともなう経済共同体的な考え方、そういうものに集約される考え方との両極における激しい激突、対立というようなものとして一国的な規模だけではなくて世界的な規模の問題として、現在生じつつあるということだ、ということができるとおもいます。これは、経済学者が経済学的に解けるという問題じゃなくて、それは、一種の思想的な課題、政治的な課題というような問題として、現在まことに切実な課題として生じているわけです。

9 経済現象は裸ではない

 それじゃ根本的に言いまして、何故さまよえる農業問題というものを中心とした、いわゆる農本ユートピア的な考え方、あるいは低開発国、発展途上国――いろんな言い方があるでしょうけれども――そういう地域に革命性を求める考え方と、それから技術革新のしかたのなかに経済共同体的な考え方を導入していく、そういう考え方との対立が、非常にきわどくなっている、その所へどうして行っちゃうのか。根本的に言ってそういう考え方のどこがインチキなのかということが問題になるとおもいます。どこがインチキかというと、それは非常に簡単なことなんです。経済学者というのは、そうおもっているわけなんですけれども、経済共同体的な考え方、経済学的な考え方、あるいは経済学的な範疇で現象を分析し、法則と指針を獲得する一定の体系をそこから見いだしていくという考え方の中にある共通の盲点というのは何かというと、経済現象というのは裸であるわけじゃないと言うことに無知だということです。
 例えば、企業とか株式会社というものを経済共同体みたいに考える考え方というのは、何故インチキかと言ったら、もちろん今言いましたように経営幹部は株主総会みたいなもので選ばれる、従業員が選ぶんじゃなくて共同体外から選ばれる、という問題がそこに入ってくる、そういうところに象徴的にあらわれているんです。けれども言い換えれば、経済現象というのは膨大にあって、その上部構造として観念諸形態というのがあって――そういうふうに言った人がいるんですけれども――そうすると、われわれがモデルを考える場合に、経済現象がこういうふうに具体的にあって、その上に観念という眼にみえない様々な文化とか何とかがあってというようなモデルをつくりやすいわけですけれど、経済諸現象というものはその中での具体的に働き生産し、ということで問題になるんじゃなくて、一旦そういうメカニズム自体と対象化してその構造を分析していくというふうになったときには、経済現象自体は少しも現実的具体的なものではないということなんです。それはもしより大きな共同体、あるいは共同体とまでいかなくても共同性というものがあるとすれば、その中において正当に経済諸現象というものを、あるいは経済メカニズムというものを正当に位置づけることなしには、経済現象の解析というものはそのまま生の意味をもたない、ということだとおもいます。
 つまりはそういうことを、経済学者というのはそう考えていないのであって、あるいは、経済的範疇でものを考える人はそういうふうに考えてないのです。経済現象というのは、まさにマルクスの言う土台として、つまり自然史的な土台として存在しており、その上に観念諸形態がそれの一種の反映、あるいは対応を示しながら、存在している。で、観念諸形態は対象化されなければ、眼にみえる形で出てこない、経済諸現象というのは眼にみえるんだ、そういうふうに考えて位置づけますととんでもないことになるんです。そういうものは、アトランダムに現象として存在しているんではなくて、それを対象として法則性を獲得していこうとか、体系として獲得していこうとか、いわば対象としてそれをとりあげた場合には、世界諸現象のなかにおけるある位置づけを与えられない限りは、それは意味を持たないということなんです。そのことをよく解ってなければとてつもない考え方になっていくわけです。
 それはいわば、そのこと自体が非常に根本的にあって、経済共同体的な考え方、つまり経済諸現象に対して観念性を導入していく、くっつけていく考え方、あるいは小さな土台と小さな上部構造をくっつければ、それはいいんだろうと、現実モデルだろうという考え方だと思いますけれども、そういう考え方がどうしても出てくるわけで、そういう問題が出てきますと、現在の世界の中では、対極に出てくる問題は、今言いましたようにさまよえる農業問題、つまり、決して資本主義の高度化というもの、あるいは技術の進歩革新というものが決して農業問題自体を完全に解決しないということだとおもいます。
 そのことの解決されない問題というのが、さまよえる農業問題として様々な農本的なユートピア概念というものをつくるわけで、また思想的にもつくるわけで、それから芸術的にもつくっていくわけです。そういう考え方の根本にあるのは、どう考えても解決されないでさまよっている農業問題、土地問題、土地に関連する生産、再生産という問題、そういう問題が残ってきて、それが経済共同体的な経済現象と両極となって現在の世界の経済現象の中で顕著に亡霊のごとくさまよい、ある時には流血の対立になるという形、ある時には同じことを資本主義的にか、左翼的にか主張することにより、現在あらわれてきているというふうに考えればいいんじゃないか、つまり現在の情況を、経済思想的に提示していけば、そこの両極端に問題は集約されというふうに考えることができると思います。

10 純粋な消費者など存在しない

 現在切実に出てきている問題に触れます。高度成長の停滞期というものがもたらす大衆的、あるいは日常的な生活自体の圧迫をどういうふうにはねのけていくかという課題とか、公害の問題とかの様々な問題が山積して出ているかがそれに対する回答というのは、どれひとつとってきたって、出てこないことがあります。それでますます、拡散膨張というような高度成長が起こるわけで、だから、市民主義者というのは例えば、つい半年ぐらい前にどういうふうにしたかというと、消費者運動というようなことをやったわけです。つまり、消費者として、こんな高いのをどうしてくれんだ、こんなにないのはどうしてくれんだ、あそこに隠してあるじゃないか、とかいうように、いわば消費者運動でインフレに抗しようということが出てきていたわけです。
 消費者運動の理論的支柱というのは久野収なわけなんですけれども、久野収の考え方というのは、アダム・スミスと同じなんで古典経済学者の先祖返りなんだとおもいます。つまり生産というのは理想的にはどういうふうになされねばならないかというと、それはちょうど消費に見合ったようになされるべきだ、という考えでしょう。で、ひとりの人間を消費者と生産者にわけてしまうわけです。ところが消費者なんてのは、純粋の消費者なんてのはいらないわけですよ。どこかで生産しているわけですよ。つまり、それは子どもを生産しているかもしれないし、人間を生産したり再生産しているかもしれないし、家事労働をすることによって、いわば旦那の労働の生産性、あるいは労働力を高めているのかもしれないし、つまり、純粋に消費者なんていうのはいるわけはないのにどうして消費者運動なんてあるのだろう?ということになるわけです。
 いわば生産部門に消費財生産部門と生産財生産部門というのがあるというのは間違いではないでしょう。しかし消費者という人間と生産者という人間がいるわけではない、あるわけはないんですよ。しかし、その問題に対して出てくるのは、消費者運動というふうに出てくるわけです。消費者なんてのはあるわけないのであって、いわばマルクス流の経済概念をうんと拡張してしまえば、生活自体の生産ということのなかに全部入ってきちゃうわけですし、子どもを生むことだって生命の生産とか人間の生産とか人間の再生産というところにみな入っていっちゃうわけで、ただの消費者なんてのはないわけです。全部それは労働力の生産――再生産ということに入っていっちゃうくらいに消費者なんてのはいないわけです。
 そういうことを別にウルトラなことを故意に言わなくてもいいというなら言わないでもいいんですけれども、だけども消費者という概念、あるいは純粋の消費者なんてのはいるわけないということです。つまり人間というのはある局面において消費しある局面において生産するんであって、せいぜい譲ってそれだけのことであって普遍的な消費者運動なんてあるわけない、そんなのは幽霊にちがいないということになるわけです。そんなものが意味を持ちうるわけはないわけです。そんなものが意味を持ちうるわけないということは、そのこと自体が消費的ですから、かつ幽霊的ですから存在しないものによって存在しない運動なんてできないのであって、つまり存在しうるところの人間が観念の運動によって政治運動をやるということはできるわけですけれども、しかし存在しない存在が存在しない運動なんてできるわけはないです。それはしかし、市民主義というものが落ちゆく先というのは、経済共同体という概念が出てきたのと見合っているわけで、そういう概念が出てきたところで、いわば消費者運動というのが出てくるわけです。

11 あらゆる問題を経済問題に還元してはいけない

 消費者運動というものの眼目というのは何なのかというと、それは生産というものは究極的に消費にちょうど見合うように生産されなければそれは理想じゃない、そういう考え方です。しかし、その理想じゃないという考え方は、資本主義というのは国家権力が介在することによってそれがチェックできると考えているわけでしょうが、それはいわば修正資本主義でしょう。で、資本主義というのはチェックできないから体制を社会主義へ変えればそれはチェックできると考えているわけです。しかし、そうではないんで、おそらく体制を変える、つまり政治革命によってそれが成就できるわけはないのですよね。というのはどういうことかと言うと、今申し上げましたさまよえる農業問題だけは少なくとも一見地域性、特殊性に依存するものですからナショナリズムの作用を強化するような形で、現在もそうなんですけれども、出てくるわけなんです。しかし、その問題は決してナショナリズムの問題でもなければ、地域的特殊性の問題として解決できる問題でもない、本当は世界性の問題なんです。世界性の問題が、例えば高度成長つまり重化学工業みたいなことになってきますと、世界の単一市場に登場することによってひとつの世界性を獲得したところで、一見明らかに出てくるわけなんですけれども、しかしさまよえる農業問題というのは土地に結びついていますから、土地の特殊性というもの、あるいは土地性というものと結びついてナショナリズム、民族主義的な欲求としてそれが出てくるために、消滅しそうな国家というのはちっとも消滅しないでより強固な形で現象的には出てくるということで、農業問題というのは現在における世界性の問題なんです。
 この問題は、おそらく現在の心身社会主義国で打ち出しているような理念によっては、絶対に解決されない何ものかの課題を要求しているということは非常に明らかなことだとおもいます。だから、われわれは中心的な経済思想的課題はとこにあるということ。それに対して少なくともいずれの側にも真実というのは存在しないということ。で、存在しないということの核というのは、経済現象に還元すれば今言いました高度発達にともなう世界性の問題と、それから一見すると特殊性、民族性、あるいは国家性というものとしてあらわれてきているということ。それは単なる民族主義、あるいは国家主義の強化というふうに理解して、そしてそれを推進して高開発国に対して挑戦すれば世界革命の問題が出てくるなんていうのは大間違いだ、というふうに考えた方がよろしいと思います。
 一方において、後進地域における世界性の問題として出てきている農業問題というものが一見すると民族問題、あるいは国家主義の強化、民族解放問題みたいなふうに出てきているということその現象を一種の経済的な世界性の問題の中でそれを取り上げる観点をもたなければ、依然として問題は解決されていかないだろうというふうに考えられます。
 そういう課題というものを、われわれはちっともどこにも見出していないのであって――いつでも僕はそう言いますけれども本当なんだからしかたがないのであって――その課題を間違いなくつかんでいったところで、問題をーこれは政治運動の問題ばかりでなく、文化問題等様々の問題がありますけれどもーうちだして行かなければならないということ、そういう課題を現在われられは背負っているんだということです。そのことは、僕には少なくとも非常に明瞭なようにおもわれます。
 何かもっと言いたいんですけれども、今日はあらゆることをとにかく経済問題に結びつけるという課題をもらってきましたもので、大体僕が言っているところで間違いなかろうというふうに、僕は思います。だからそういうところに経済的には課題があるだろうと思います。
 しかし、あらゆる問題を経済問題に還元してはいけないということは、経済問題の位相というのはどこにあるんだ、つまり、全課題の中でどこにあるんだ、全世界的な全情況的な課題の中でどこの位相にあるんだということをはっきりさせなければ経済学者がやっているように経済学をやれば何か世界や日本をみんな解っちゃうぜというふうな感じの古い経済学――古いタイプの人ですよ――つまり、そういう経済学者の半通に落ち込んでしまうこと。で、国家であろうが、観念であろうが、全部経済現象の反映だとか対応だとか言えばそれですむとおもっているわけなんで、そういうふうになってしまいますからね、そういうことの重要さをやっぱり一方においてはどうしても踏まえなければいけないんじゃないかというふうに思います。多分本質的な問題ははずしていないというふうに僕は思っています。これで終わります。