1 司会

 それでは、文芸批評の立場から、吉本先生にお願いしたいと思います。

2 文学者の立場とは何か

 文芸あるいは文学の立場というのを一言でいいますと、書くっていうこと、言葉を使って表現する立場ということになるわけですけど、通常、○○の場合に、かならず書く必要はないので、おしゃべりすればいいわけなんですけど、文学者だってことの根底にあるのは、あえて、おしゃべりっていうのは、なかなか通じないんだっていう思いもあって、そして、書くというところに入っていった人も多いと思います。かならず○○みたいに、話をする言葉っていうのは、ほんとうのことが云えないとか、なかなか通じないものだというような、そういう一種の絶望感みたいなものがありまして、そして書くというところに入った人が、非常に多いと思います。
 ぼくなんかもそういうふうに思います。そうでなければ、話してわかることは、あえて書く必要はないのであって、つまり、一般的に媒体を設けてする必要はないと思うんですけど、幸か不幸かそういうふうな考え方をもつようになって、そして、書くもの、あるいは、創造するものに移行したっていうふうに思うわけです。
 それは、さかのぼって説明すると、非常によくわかりやすいことがあるんですけど、それじゃあ、しゃべるものじゃなくて、書くものの立場っていうのは、なんなのかっていいますと、大昔というふうに言わなくても、ある程度、昔をあれすると、よくわかるんですけど、例えば、平安朝時代に、いわゆる紫式部の『源氏物語』とか、そういう物語というものを、女性がやりはじめるわけです。
 その場合に、紫式部でも誰でもいいですけど、清少納言でもいいわけですけど、なんで書いたのかっていうことなんですけど、なんで書くようになったかっていいますと、みなさんは、あるいは誤解しておられるかもしれないけど、文学者になろうと思ってとか、文学をつくろうと思って書いたわけじゃないんです。
 そういう女流の著名な、いまは作品になっているわけですけど、それを書いた人っていうのは、実は子弟教育とか、じぶんの慰みとか、ようするに、一人本意で書いたわけです。だから、たとえば、平安朝のなかに、物語あるいは女流物語っていうものを考えた場合に、今でこそ、『源氏物語』っていうのは芸術作品っていうふうになっていますけど、紫式部にとっては、べつに芸術作品を書こうと思って書いたわけじゃなくて、わりあいに、子弟教育、それじゃなければ、あんまり、現実がお粗末というか貧しくて、つまり、じぶんの周囲が貧しくてお粗末で、当時ですと、女の人は毛をずーっと長くしているわけですけど、長くしてお風呂に入らないですから、シラミがわいたり、ノミがわいたりっていうこと、そういうたいへんお粗末な環境なので、○○とか、女の人がじぶんを○○かけてたり、奮闘する自分を慰めるとか、あるいは、わりあいに、教訓的な、教育的な意味合いで書かれたものなんです。それが、女流の物語のはじまりなわけです。
 そうすると、そういう物語に対して、もうひとつ、韻文という概念、歌みたいなものがあるわけですけど、歌のほうは、女流によってなされようと、それから、男によってなされようと、これは、かなりまじめな意図のもとで、まじめに書かれているわけです。あるいは、つくられているわけです。ですから、本筋はみんな歌のほうにあるわけです。
 これは、『源氏物語』やなんかでもそうなので、そのなかに、歌っていうのは、しばしば、挿入されていますけど、歌のほうは、かなり真剣にといいますか、まじめな、まじめっていうのはおかしいんですけど、そういう意識でつくられているんです。
 それで、物語のほうは、決してそうではありません。いま考えると、芸術意識があってとか、芸術をつくろうとか、絢爛たる世界をつくろうとかっていうふうにして、つくられたものではないってこと、そういうお粗末な環境で、お粗末な、つまり、燈油とか、油とか、月明かりとか、ようするに、電気もろくすっぽないところで、お風呂にもろくに入らないぼさぼさ頭の女の子が書いている場面を想像すれば、非常にリアルなわけです。そういう人が、自分を、絢爛たる世界を空想するとか、あるいは、身近な子どもを教育するといいますか、そういう意味合いで書いているわけです。
 そうすると、歌のほうがまじめっていうことになります。そうすると、歌っていうのは、どういうことになるかっていいますと、まじめなことになって、それは古い時代から、年数でいきますと、二千年とか、三千年とか、古い時代からあるわけです。そこでは、いわば韻文で、つまり、言葉のリズムっていうものが入った表現なわけですけど、このリズムっていうものが入るってことは、なにかっていいますと、いまで言いますと、神がかりっていいますか、つまり、神がかりの状態に入ったときに、リズムっていうのは出てくるわけです。だから、そのへんは、かなりまじめなわけです。真剣なわけです。かなり古い時代からあるわけです。存在するわけです。
 そうしますと、神がかりっていうこと、つまり、文学者っていうのは、いずれにせよ、さかのぼっていけば、神がかりの状態にいきつくわけです。そうすると、ようするに、文学者っていうのはなんなのかっていったら、やっぱり、精神異常者じゃないのか、いずれにせよ、精神異常者であることには、変わりないように思います。
 つまり、今でもそうだと思います。つまり、わざわざしゃべればわかることを、なにも書いて文字に固定させ、それを現在ではご丁寧に本にして出すなんていう、まったくまどろっこしい方法なんですけど、その方法自体のなかには、非常に必然性があって、そういう必然性をなんでとるのかっていいますと、それは、一種の精神異常にいきつくわけです。
 その精神異常のもとをさかのぼれば、韻文ってもの、韻文っていうものはどうしてできるのか、それは、神がかりの状態で、言葉がどうしてもそういうふうになってしまうっていうようなことがあります。
 そうすると、神がかりの状態っていうものは、文学者にとっては、根本的な立場だっていうふうになると思います。だから、いずれにしても、精神医学的には、異常者だっていうふうになるだろうと思われます。

3 正常も異常もできるだけ広く包括したい

 異常者というものを分けますと、ふたつに分けられると思います。ひとつは、非常に素質的にという云い方は、いまはないのでしょうけど、わりあいに、神がかりに適したやつが、部落なら部落にいるわけです。それは、わりあいに自然にみつけちゃうわけです。部落の長老みたいなのが、あいつはっていうことで、子どものときからみつけちゃうわけです。
 みつかったやつは、いろんな例がありますけど、特殊な環境でもって、意識的に神がかりになる修行というものを積むわけです。それで、もともとそういう傾向があったのに、いわば磨きをかけまして、その磨きをかけたものが、神がかりの状態で云う言葉っていうのが、大昔では、部落全体にとって、わりあいにいいことがあるっていう、それに従うといいことがあるってことをいうようなのが、ひとつの種類です。
 もうひとつの種類は、別段、素質はないんですけど、部落全体としての、宗教的な行事みたいな、未開のそういう行事がありまして、いろんなケースがあります。女性が、たとえば、ある一定の年齢に達したら、かならず、その行事に参加するとか、あるいは、女性は禁止だけど、男性だけがある年齢に達すると、かならず、それに参加しなければ、部落の成人したメンバーとして認められないとか、そういうような宗教的行事が、部落全体としてありまして、そうすると、一定の年齢に達しますと、男だけである場合も、女だけである場合も、両方の場合もありますけど、ある意味で、部落の特殊な場所、聖なる場所ですけど、聖なる場所に何日間か籠るわけです。
 籠って何をするのかっていうことは、わからない部分が多いのですけど、大体の見当はつくわけです。いわば、中心的なあれっていうのは、集団で歌い、踊りみたいなことをしているうちに、いま言いました、韻文の神がかりの言葉みたいのがでてきたりして、神がかり状態で、そのときに、自分が人間離れしたといいましょうか、神に近づいたといいましょうか、そういう状態になるところは、いずれにしても、そういう場合のクライマックスだってことは、想像がつくわけです。
 それは具体的にはいろんなあれがあります。たとえば、女性だけのお祭りの場合には、集団的な神がかりの状態になるわけです。一人ではなる素質はないんですけど、集団だとなる素質が、人間にはありますから、そうすると、そういう状態で、自分が神に近づいたってことで、女性ばかりの場合だったら、例えば、そういうときに、男性の性器みたいなのをかたどった石みたいなものに触るとか、そういうようなことが中心になるわけで、そういうところについては、わりあいに、実際は、見られたり、記録されたりしたものは少ないのですけど、しかし、論理的に想像できるわけで、そういう状態になって、それで、一定期間、籠って、聖なる場所からもとの部落に戻りますと、そうすると、その人は、ごく普通の人になってしまうわけです。べつに素質的には、神がかりになりやすい状態の人間ではなくて、ごく普通の人になって、普通の人のように生活して、ただ、部落共同の行事の期間だけ、一人ではなれないですけども、共同者がいて、大勢ですと、そういう状態になって、神に近づいたみたいな感じに、あるいは、人間離れしたみたいな体験をして、そして、それが終わって部落に戻れば、もとのただの人っていいましょうか、普通に生活するっていう、そういう人になるっていいますか、おそらく、その二つのタイプしかないのです。
 そうすると、文学者っていうのは、いずれにせよ、遡れば、そのいずれかのタイプに属するっていうふうに思います。ですから、もともと、精神医学的に異常者の立場だっていうふうに、異常者なんだっていうふうにみたほうがいいと思います。
 しかし、自分自身の体験からいいましても、よくある物事に対する判断を普通の人と比べてみましても、たいていひっくり返っていて、普通の人が異常だと思われることが、そんなの異常じゃないぞっていうふうに、たいてい思われたりしまして、今でもそうだと思います。ですから、そういうものだというふうに考えたほうがいいと思います。
 そうすると、その課題っていうのは何かっていいますと、結局、常識的には、異常、正常も含めて、とにかく、できるだけ広く受け入れるといいますか、人間のこうむる精神状態を、できるだけ広く受け入れたいっていうふうな立場が、おそらく、文学者なら文学者っていうものの祈願としてある立場だと思います。
 しかし、文学者といえども、普通に生活している人間ですから、市民社会で生活している人間ですから、もちろん、ごく常識的な考え方に支配されたりは、日常、支配されているわけですけど、しかし、いったん、文学を表現するっていうような、そういうところにいったらば、できるだけ、異常、正常、病気、いずれをも、できるだけ広く包括して、それをいわば肯定したいと、それもひとつの人間の精神の状態だっていうふうに、肯定したいっていうふうな祈願っていいますか、祈念というようなものを、絶えずもっているものだっていうふうに思います。
 だけど、そういうふうに言い切れないのは、いま言いましたように、文学者といえども、市民であり、日常生活を、きわめて常識的な枠で、営まざるをえない存在ですから、そういう二重の存在ですから、そう言い切ることはできませんけど、ひとたび、表現するものという立場、あるいは、時間に入ったときには、やはり、異常であれ、正常であれ、広く人間がこうむる精神現象すべてを同じように、同じこととして、包括したいと、それを自分のものにしたいというような、そういう欲求、あるいは、祈願というものをもつものを指しているというふうに思われます。

4 人間の精神を理解するうえで根本的なこと

 そうすると、そういう立場からいろいろぶつかりますけど、今日なんかの場合は、そういうことを取り上げるわけですけど。精神医学者が、たとえば、社会現象について発言するときがあります。例えば、連合赤軍事件でもいいわけですし、また、立教大学の先生の事件であろうとよろしいわけですけど、そういう場合、文学者からみると、とんでもないことを言っているなっていうふうにしか受け取れないような発言をするわけです。こういうお医者さんにはかかったらいけねぇっていう(会場笑)、少なくとも、ぼくはかかりたくないと思うわけです。
 例えば、発言というのはいろいろあります、連合赤軍事件なら連合赤軍事件の場合に、これは非常に距離をおいてみたり、傍からみますと、まことにとてつもないことをしたねっていうふうに、どうしてもなるわけです。しかし、ただひとつ欠けている、そういうとてつもないことをしてると、そうすると、精神団体がそれに対して発現する場合には、例えば、何々という女性が、もともと何々病で、こういう傾向があってとか、これが閉鎖された状況に入るとこういうふうになっちゃうんだ、何々という男性が、もともとこういう傾向があって、それで、そいつが閉鎖された状況で、全部が敵だと見える、そういうところになっちゃうと、こういうことになってしまうんだと、こういうとてつもないことをしてしまうんだっていうふうに、そういうふうな解釈になってしまうわけです。
 そうすると、この解釈をよくよくみてみると、それぞれの立場がいろいろあるようですけど、究極的に現れるのは、進歩的な市民主義、前向きな市民主義みたいなものにかなえば正常であって、それにかなわなければおかしいんだっていう、事件そのものもおかしいし、人間もおかしいか。あるいは、一時的におかしい状態になったんだっていう、こういうふうなあれになってしまって、東京都にとっては、たいへん都合がいいのでしょうけど、我々にとっては、あんまり都合がよくないので、つまり、つまんないなっていうふうに思うんですけど、解釈はそういうふうになると思います。
 結局、そういうことを個々にそういうふうに挙げていっても仕方がないので、ただひとつだけ、根本的な錯誤っていうのが、そういう発言の中にあるっていうふうに思われます。それは、精神医学っていうのが、いずれにせよ、個体を扱うことに慣れているわけです。
 そうすると、人間の精神現象をいわば、個人あるいは個体の精神現象としてみるという扱い方に慣れているものですから、人間の精神っていうものが、集合的な、集団的なところに置かれた場合に、どういうことになるか、あるいは、どういう基軸から理解したらいいのかっていうことについては、考えが無造作なところがあるっていうことが、非常に根本的なことだっていうふうに、ぼくには思われます。
 集団の中での現象に対してさえも、例えば、永田洋子さんという人がおかしいんだとか、森恒夫という人がおかしいんだとか、あるいは、立教大学の何々先生がおかしいんだとか、こういうふうな解釈をするわけです。
 しかし、まったくそうではないのであって、人間の精神が集団の中に置かれた場合というのは、個体として、個人としてもっている精神とは、まったく違う位相に置かれるっていうことなんです。だから、まったく違う基軸から考察しないと、しばしば、誤りを犯すであろうってことが、非常に根本的なことだっていうふうに思います。

5 共同性の世界における人間のあり方

 これに対して、ぼくは自分の考え方に一定の考え方を述べているわけです、つくっているわけですけども。それは、人間を個体として、個人として振るまう場合の精神現象と、それから、人間が、一人の人間ともう一人の人間、もう一人の他者っていうものと関係をもつ世界、その場合の精神世界でも、生理世界でもいいんですけど、そういう世界とは、人間が一人でもつ世界とはまったく違うんだっていうことなんです。
 つまり、もうすこしあれしますと、一人の人間が、自分以外の他の一人の人間と関係をもつ世界っていうものを、ぼくらは、性の世界、セックスの世界っていうふうに呼んでいるわけです。ですから、それは、相手が生理的に男性であろうと、女性であろうと、それはどちらでもいいのです。つまり、一人の人間が、他の一人の人間と関係するっていう世界を、性の世界っていうふうに呼んでいます。
 ですから、人間は一般的に人間なのですけど、一人の人間が、他の一人の人間と、固有に結ぶ世界っていうのを確立したときには、それは個々の人間プラス2ではなくて、それはまったく、個々の人間がもっている精神世界とは別の世界だっていうふうに、性の世界っていうのは、別の世界なんだっていう、だから、別の次元でもって、それを理解しなければいけないっていうこと、だから、そのとき、一人の人間が、他の一人の人間と対面する世界として、対面するときに、その世界を性の世界、セックスの世界っていうふうに呼ぶのであって、もともと男性がおり、女性がおりっていうのは、あんまり、それほど絶対的な区別はないので、生理的にいっても、精神的にいっても、おそらくは、かなり相対的なものじゃないかっていうふうに、ぼくには思われますけど、その世界と、それから、一人の人間が、他の一人の他者と関係したときの精神世界、それから、生理的な世界でもいいですけど、それは、まったく違う世界なんだっていうこと、つまり、違う次元で考えないといけないっていうふうに、違う次元で考えるべきであると、そういうときに、はじめて人間は性としての人間ということになるのであって、一人一人でいるときには、男性も女性もヘチマもないのであって、ようするに、人間なのであるというだけであって、ひとたび、他の一人と固有な関係の世界に入るときに、それは、相手が男性であれ、女性であれ、それを相対的に性の世界というふうに呼ぶというふうに、ぼくらはそういうふうに考えています。
 ところで、さきほど、大昔の集団的な話をいいましたけど、いま現在でもおんなじなので、今度は、集団の中に入った個々の人間の世界っていうのは、それは、どういう世界なんだっていうことがあるわけです。その場合にはまた、性の世界とも、個々の人間の世界とも、まったく違う世界だっていうふうに理解すべきであるっていうふうに考えます。
 つまり、それは集団の中に、あるいは、共同性の中に入った個々の人間っていうのは、特に個々の人間の精神の世界っていうのは、どういうことになるかっていいますと、いちばんわかりやすい比喩っていうのは、そういうふうに集団の中に入った個々の人間の精神世界というものは、ちょうど比喩的にいいますと、精神世界そのものが肉体であって、現実の肉体は精神であると、そういうふうにひっくり返っているっていうふうに考えられたら、いちばんよろしいと思います。そういう世界だっていうふうに理解されたらよろしいと思います。
 そうしますと、そういうことを理解しないと、ちょっと了解できないような事件に、たくさんぶつかるわけでしょう。そういう場合に、精神医学者、全部じゃないんでしょうけど、そういうことについて発言する精神医学者っていうのは、そういう場合でも、個々の人間を、そういうなかでの個々の人間の振るまい、つまり、そういうものもなにもみんな、個々の人間を診断するのも、個々の患者を診断する場合も、それとおんなじように、それを理解しているわけです。
 だけど、それはまったく違うのであって、そのときには、別の基軸を設けなければならない、別の基軸から理解しなければならない、別の基軸っていうのは、なにかっていうことは、詳しくしたら大変なんですけど、簡単に比喩すれば、いま言ったように、集団の中の個々の人間の精神状態っていうのは、精神自体が肉体であり、身体であり、それから、身体自体が精神である、つまり、観念であると、亡霊であると、そういうふうな世界だっていうふうに理解されたら、たいへん理解しやすいんじゃないか、比喩的には理解しやすいんじゃないか、つまり、そういう世界なんだっていうふうに理解されると、連合赤軍事件でも、ああいう無茶苦茶なことっていうのは、個々の幹部クラスの人間たちが非常に異常であって、しかも閉じられた世界にいるから、こんなことになるんだっていうような、そういう解釈はしないだろうって思うんです。そうじゃないのです。
 もっと人間的にいいますと、どんな人間にも、たとえば、集団の中に入ったとき、どんな人間にも、連合赤軍の諸先生と同じようなことをするし、されるっていう可能性があるんだっていう人間理解に達するだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
 ですから、ぼくには、精神医学者で、しばしば、そういうことについて発言している諸先生のように、意気軒昂として、あいつはキチガイだとか、あいつはおかしいんだと、おかしいやつが閉じられた世界で荒廃して、周囲がみんな敵にみえるものだから、こうなっちゃうんだってことを、ぼくならそういうふうに、つまり、おれは別物よっていうふうに言えないです、ぼくだったら言わないですし、言えないです。というのは、ぼくのなかにも、そういうところにいったら、そうする可能性っていうのはいっぱいありますし、いっぱいあるより、真っ先にしちゃう可能性もあります(会場笑)。
 ですから、そういうことがあるから、そういう人間自体をもっているから、そんなに声を出して、あいつはおかしいんだ、おれは別物よっていうような、そういう人間理解の仕方っていうもの、あるいは、集団の中の人間理解の仕方っていうのを、ぼくならばしないだろうし、うしろめたいですから、おれもやりそうだっていう感じがいつもありますから、それを受け入れたいですから、それをあんまり、いい気持ちになって、そんなこと云う気にならないというような、そういうふうになるだろうと思います。それは、そういう人間理解でありたいっていうのが、しばしば、そうじゃないこともありますけど、ありたいっていうのが、いわば文学者としての立場だと思います。

6 絶対の矛盾をどう解決するか

 それから、例えば、立教大学の先生の場合を考えますと、やっぱりこの場合も、精神医学者もいくらかあれしていると思うんですけど、いろんな人が、識者がいろいろ発言するわけです。しかし、新聞もそうですけど、批判するでしょう。だけど、ぼくでも、おんなじように起きたら、ドロドロじゃないかっていう、そういう認識があるんです。
 というのは、なぜかっていいますと、いま申し上げましたとおりに、性の世界っていうものは、いわば一人対自分以外の一人の他者っていうものの世界なんです。そこに、三人いたら、絶対矛盾なんです。性の世界にとっては、絶対の矛盾なんです。
 ですから、量的にいいましても、それが、非常に極限まで追い詰められていった場合には、絶対の矛盾に陥るわけで、絶対の矛盾をどうやって飛び越えるのか、あるいは、解決するのかっていうような場合に、それは、器用な人、不器用な人っているでしょうけど、あの先生のような、そう器用じゃないと思うんです。器用じゃないと思いますけど、しかし、そういうふうな矛盾に陥るっていうことは、人間にとっては、わりあいに普遍的なんです。性の世界にとっては、普遍的なのです。
 なぜならば、いま申し上げましたとおり、性の世界とは、一人対自分以外の一人の他者との世界ですから、肉体の世界であり、精神の世界ですから、そこのところ、三人いたら、どうしてもそれは絶対の矛盾なのであって、そうだとしたら、いろんな状況から追い詰められた場合には、かならず、絶対矛盾をどこかで解かなければならない、解く場合に、器用、不器用があるでしょうけど、あの場合の先生の解き方は、ひとつの解き方として、かなり可能性があると、たいてい、ぼくもそうですけど、不器用ですけど、異性に対して、あるいは、一人対一人の世界に対して不器用ですけど、そういう人だったら、かならず、あの程度のことはやりかねないっていう気がするんです。
 それだから、そういうことに対しての、ぼくは、非難するっていう気持ちが少しも起こらない。つまり、器用、不器用があるでしょうけど、同じように追い詰められたら、同じような振るまいに近い振るまいに立ち及ぶだろうということは、まことに人間理解としてあきらかなことであると、理論的にもあきらかであるし、実践的にもあきらかなことであるというふうに、ぼくには思われると、ですから、そういう場合も、ぼくは絶対的な関係から非難するということは、ぼくにはできないですし、そういうふうにする気もないし、全然ありません。
 それは、器用な人はいろいろなかわし方っていうのがあるわけでしょうけど、しかし、たいへん不器用なかわし方、やり方ですけど、あれは、わりあいに普遍性をもっているふうに、ぼくには思われます。
 そうすると、それだけ不器用な人っていうのは、悪い人じゃないんじゃないかっていうのが(会場笑)、ぼくの考え方です。人間理解の考え方です。こういうふうなのが、いわば、あえて文学の立場とか、文芸の立場っていうようなことをとってしゃべろうとすれば、そういうのが人間理解の仕方っていうものになると思います。
 そうすると、いってみれば、どこにも否定すべきものはないじゃないかってことで、まったくそのとおりで、否定することはないと、しかし、どこで矛盾を生ずるかっていうと、そういう否定することはないっていう考え方、感じ方が、しばしば、日常性のなかで、矛盾に突き当たるってことです。
 それは、もちろん、日常生活をしていますし、市民の一人として生活もしているわけですから、だから、もちろん、矛盾に突き当たるのは当然なのですけど、矛盾に突き当たるものですから、声を大にして、文学者の立場とはこうだぞっていうふうにもまた、言えないところもありますけど、しかし、言いよどむところもありますけど、文学者の立場っていうものを非常に極端にいいますと、非常に、殊更そういう立場を際立たせて考えようとすれば、どうしても、そういう考え方になると思います。
 文学者の立場っていうことから、精神医学者の立場にできるだけ接近しようとしたときに、まず起こる矛盾のひとつは、いま申し上げました矛盾っていいますか、対立といいますか、ちぐはぐさといいますか、そういうものの、まず根本的なひとつは、そういうところにあるということを申し上げまして、申し上げることはたくさんあると思うんですけど、時間がきましたので、これでいちおう終わらせていただきたいと思います。(会場拍手)

7 司会

 

8 討議(部分)

(吉本さん)
 切実な問題というか、自分が社会的に当面してくる問題でいきますと、自分自身っていうことでいいますと、自分の内的な、内面的な、そういう時間、あるいは、観念の時間っていうものと、社会総体が動いている時間っていうものと、たいへんギャップがあって、精神の構えっていうものを確立したいって思っていても、外からさらわれてしまうんじゃないかっていう、そういう感じが切実なので、そういう感じで葛藤していくような節目がありまして、外部、つまり、社会っていうものを遮断すればいいのでしょうけど、それができなければ、徹底してしたくなければ、相対して流れていく時間っていうものと、自分が構えをこしらえていく時間っていうものと大変ギャップがあって、構えているあいだに、つぶされてしまうっていう、そういうことが、個人としては切実な問題としてあるように思います。
 それから、いま言いました、一人と他の一人の世界、つまり、大きく云って性の世界なんですけど、そういうところで、それは現実的には、家とか、家庭とか、家族とかってことになるわけでしょうけど、そういうところで抱える切実な問題というものがあって、なにかっていいますと、この場合、非常に特異にいわせてもらいますけど、男のほう、男性っていうのは、結局、降りたいって思っているわけです。つまり、社会に責任のあるなんとかとか、社会的ななんとか、そんなの降りたいっていうわけです。だから、もし、お茶を汲むぐらいで給料をくれるなら、そのほうがいいやって思っているわけです。
 ところが、女性のほうは、なんとかに目覚めまして、上がりたいって思っているわけです。これから上がりたいと思っているわけです。上がるっていうのは馬鹿馬鹿しいぜっていうふうに、いくら言ったって聞かないわけです。先進的な女性っていうのは聞かないわけです。上がりたいわけです。
 男のほうの先進的な、ぼくもそうだと思うんですけど、降りたいと思っているわけです。あらゆるもの、もうお断りだと、炊事、洗濯、お茶汲み、それで、給料もらったり、食わせてもらえるなら、そうしたいって思っているわけです。ところが、女の人は上がりたい、それはやだっていうわけです。いやだから、もっと責任ある仕事とか、社会的に、そういう仕事をしたいなんて、女の人は思っているわけです。
 そのギャップっていうのが、現在における家庭、あるいは、家族の問題の、ぼくは根本的なところにあるっていうふうに、ぼくは考えています。通俗的にいいますと、若い人なんかみると、髪を長くして、後ろからみると、どっちかわからないみたいに、中性化して、男性のほうは女性化し、女性のほうは男性化しているっていうふうに、通俗的にはそうみえますけど、ぼくらはそう考えないので、男のほうは降りたいって思っているもの、若さの象徴っていうのが、中性化みたいなものとしてでてきているのであって、今度は、昇りたい、昇りたい、上がりたい、上がりたいっていうふうに思っていることも、男性化っていいますか、中性化っていいますか、そういうものとしてあらわれているので、見かけ上は両方とも中性化しているようにみえるけど、それは、まったくそうではないのであって、まったく行きと帰りくらい違うということが、ほんとうは問題なんじゃないかって思っています。
 そこのところが、おそらく、ぼくだけじゃなくて、少なくとも、家庭をもつ、夫婦であり、子どもがあり、親がありっていうような、そういう人は、大なり小なり、おそらく、抱えている問題の根本には、そのことがあるように思います。
 ところで、それをもっと徹底してくれればいいので、女性のほうで徹底してくれればいいのですけど、女性が徹底しないですから、現在なんか、過渡的ですから、家族の中でもって個になりたい、個の領域を拡大したいって、女性は考えているのです。そうすると、男性のほうは馬鹿馬鹿しくてしょうがないと、そういうののために、なにも働き蜂みたいに稼ぐことはないだろうっていうふうに思うわけです。
 もうひとつは、そうだったら、いっそのこと、経済生活その他、全部ひとりでやってくれと、そうしてくれというふうに言いたいわけなんだけど、なかなかうまいですから、家族あるいは家庭なるものは、あるいは理解のある夫なるものは、維持しておきまして、そうしておいて、個の領域を拡大しようと思っているのです。
 だから、そこの矛盾っていうのは、それも非常に矛盾なのであって、もし、個の領域を拡大したいならば、人間として拡大すべきであって、そうだったら、理解ある男性なんていうのは、問題にしないで、ひとりでやったらいいだろうって思う、なにからなにまで。そうすれば、誰も文句言うやつはいないわけで、そうすると、現在の先進的な女性っていうのは、あるいは、知識的な女性っていうのは、そこまではいけないで、できるだけ、旦那を理解ある男性に仕立てながら、ようするに、個の領域を拡大したいっていう、そういう矛盾を強行しようとしているっていう、そうなってくると、男性のほうは、はじめから降りたいと思っているから、全部降りたいっていう感じで、どこかへ働きにいっても降りたいと思うし、お茶汲みで給料もらいたいと思っているわけですし、それから、家に帰ったって、降りたいと思っているわけで、どうしようもないじゃないかっていうのが、現在の家族問題の根底にある問題のように思われます。
 それから、共同の集団的な問題っていうものは、また、まったく別個にあるのですが、これに対しては、集団がつくる規範っていいましょうか、一種の規約なんですけど、約束事なんですけど、その約束事っていうものをつくる場合に、約束事の中心といいましょうか、つまり、ここに近づければ真理だっていう、真理にできるだけ近いっていうような、そういう手本みたいなものっていうものが、世界的にそうでなくなっているっていうこと、なくなっているっていうことは、たいへんいい現象なので、くだらないものはみんな、名目だけで持っていたものはみんな壊れちゃったほうがいい、なくなったほうがいいって思うから、それはいいことなんですけど、いいことのために、集団あるいは共同性を組む場合に、こっちのほうがより真理であろうっていうような、そういう基準っていうのが、非常に薄れてしまって、そこのところで、様々な問題っていうのが、生ずるのだろうなっていうふうに思われます。
 そういうことが、たいへん、ぼくなんかが切実に感じていることで、それで、その切実さっていうのは、かならずしも、ぼくだけじゃないらしくて、しばしば、精神科のお医者さんにお願いしたほうがいいように思われる人とか、わりあいに、身のまわりで多いのですけど、そういうような、非常にきつい状態になっているなってところを、ぼくらが非常に切実に感じているのは、簡単にいってしまえば、そういうようなことだっていうふうに思います。

(司会)
 どうもありがとうございます。これは、なかなかまとめるのがむずかしい、ようするに、個人としての、精神障害者っていうもののほかに、集団あるいは情況とかっていうような方面まで広げて、やっていくってことだと思います。
 司会が下手で、なかなか十分な論議にならなかったことをお詫びしたいと思います。最後にどなたかご発言のかたがいらっしゃいましたら、一言、ございませんか、それでは、時間も参りましたので、これで、本日のシンポジウムを終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま