1 鷗外と漱石の千駄木の住まい

 今日は、「鷗外と漱石」ということで、お話するわけですけど、べつに、鷗外と漱石を全面的に比較して、大演説をぶつつもりは少しもないんです。ぼく、近所に住んでいるものですから(会場笑)、ちょうど、ここへ引っ越しをしてきたときに、友達から、おめえは場所だけは文豪並みじゃないかって、そういうふうに言われたんですけど、ここをちょっと行きまして、みなさんご存じだと思いますけど、ちょっといきまして、左、日本医大のあれを入りますと、途中に漱石邸跡っていうのがあります。べつに、建物は明治村にいっちゃってるわけですけど、札が立っているわけです。もちろん、ここのところは、鷗外がいたところなわけです。ぼくのところは、すぐ傍ですけど、それは、場所だけはそうっていうことで(会場笑)、べつに文豪でもなんでもないわけです。
 まず、そういうことから、場所のことからお話しますと、そこを左に曲がりまして、漱石邸跡っていうふうに、石のあれが立っているところがあるんですけど、そこは、漱石より、ほぼ10年ばかり前に、鷗外が住んでいたところなんです。
 これは、北川太一さんって研究家に教えてもらったんですけど、鷗外が、まずそこに住んでいたわけです。そのあとから、こちらに引っ越してきたわけなんです。それから、10年ほど経って、漱石は、鷗外がいたその家に住むわけです。それは漱石のあれでいえば、英国留学から帰ってきてすぐ、奥さんの実家の隠居所みたいな処で仮住まいしていたんですけど、そのあとすぐ見つけて、そこへ入ったわけです。
 なにか、その場合、因縁があって、同じ家に前後して入ったかっていうと、けっして、そういうことはないんだそうです。ぼくの聞きましたあれを申し上げますと、鷗外がここへ来る前に住んでいた処っていうのは、持ち主が、牛込に住んでいた中島ヨシトシさんという人であって、その家は、いまで言いますと、個人病院といいますか、個人医院といいますか、そういうような按配の建物なんだそうです。そこへ鷗外が、まず入ったわけですけど、なぜ、鷗外はそこへ入ったのかっていうのは、よくわかりませんですけど、どうも、いまのあれから想像もつかないわけですけど、当時、そのあたりを、太田の原っていうふうにいいまして、わりあいに、家が少なかったんじゃないかっていうふうに思います。そのなかで、わりあいに大きくて、個人向きに建てたような家ですから、わりあいに、当時としてはモダンなところもあって、家をこの辺に探すとすれば、そこだっていうような感じだったっていうふうに思われます。
 それで、鷗外は下谷のほうに、その前いたんですけど、ここへ引っ越してきたわけです。それで、鷗外はそのあとに、ここに観潮楼跡っていうのがありますけど、ここへ住居を移したわけです。それから、鷗外が住んでいたのは、明治23年頃ですけど、漱石は36年頃、鷗外が、もといた家へ移ってきたわけです。それは、どういうわけで移ってきたのかってことで、北川太一さんに聞いてみたんですけど、そうしたら、べつに、鷗外が紹介して、あそこへ入ったってことはないと、そういうことじゃなくて、そのあと、家の持ち主が、斎藤阿具さんっていう、阿具っていうのは、「あ」は阿部の「阿」ですけど、「ぐ」は道具の「具」ですけど、阿具さんっていう人の持ち家に変わったと、その人は、歴史学が専門で、当時の旧制の二高、つまり、仙台ですけど、の先生をしていた人で、その人が、ようするに、漱石の友人であったと、その斎藤阿具さんっていう人が留学すると、留学している間中、友人である漱石に、たまたま、家を、留学から帰ったばっかりで家がなかったもので、留学の間中、家を貸すということで、漱石がそこに入ったそうです。鷗外は、そこからすぐに、ここに引っ越ししてくるわけです。
 それならば、なぜ、たまたまといいましょうか、偶然にでしょうけど、前後して同じ家に住んだところがあるかっていうことをいいますと、どうも、いちばん合いそうな条件っていうのは、地理的な条件っていいましょうか、そういう条件で、当時はまばらで、この辺も家がまばらであって、そのなかで、わりあいに目立つ家であって、物書きみたいのが家を探すとすれば、どうしてもそこにいっちゃうみたいな、そういうような要素がいちばん多くて、当時、確実にあったっていうふうに思われるのは、いまもありますけど、郁文館っていう旧制の中学がそこにあったと、だいたいそれが、大きな目標になるあれとしては、そういうようなのがあったぐらいなもので、わりあいに、原っぱ的なところだったんだっていうふうに考えられるわけです。
 その太田の原っていうふうに言われているのは、なぜかっていうと、太田道灌の子孫っていいましょうか、その人がこのあたりに住んでいて、また、太田道灌の船着き場みたいのが、このあたりにありまして、いま、道灌山っていうのがありますけど、そういうふうなことで、これだけの太田の原っていうふうに呼んでいたんだと思いますけど、そこのところに、わりあいに、大規模なっていいますか、目立つ家があって、それで入ったっていうことだったっていうふうに思います。

2 鷗外と漱石の関わり

 もうすこし、そういうことで申し上げますと、これは、宮尾しげをさんの『東京昔今』という本ですけど、広重描く、団子坂っていうのは、こういうふうになっていまして、いまそこになくなりましたけど、地下鉄の電車が通っていた、都電が通っていたところですけど、そこは、藍染川という川が、広重自体は流れていて、そこのちょっと下のところで、そこらあたりが花屋敷っていわれまして、お花見やなんかの名所といいますか、そういうようなものだったと、で、ここにあがっている道がありますけど、あがっている道は、いまよりも、もっともっと狭くて、宮尾さんのこれをみますと、4メートルくらいの幅の道がずーっと、坂があがっていたと、ここに家がみえますけど、なんか食べ物・料理とか、そういうものをあれする家だと思いますけど、そこをあがりますと、そこいらへんにありまして、今晩軒っていう、そこいらへんのところだと思います。
 それで、どうして、団子坂っていうのかっていうと、ぼくは、団子かなんか、名物で売っていたからだっていうふうに思ったら、そうじゃなくて、人間がその坂を登ったりおりたりするときの、団子のように転がるような、そういう急な坂だったっていうので、そういう名前をつけたっていうふうになっています。
 それで、いろんな呼び方があって、千駄木坂とか、そういう呼び名もあった模様です。あるいは、汐見坂っていうふうにも呼ばれていたみたいです。汐見小学校とか、観潮楼とかっていうふうに、鷗外が名付けているわけですけど、どうしてそうかっていうのは、よくわかんないんです。このへんのちょっと高いところからみると、大昔は海がずっといり込んでいて、見えたんだというふうなことだろうと思います。
 そういう地域としては、べつに、原っぱとか、高いところとか、ちょっと高いところとか、低いところとかいう、あるいは、川がこう流れているっていうような、そういうだけのところで、とくに、住まいとして、人が集まりやすいってことも、とくになかったと思われます。だけれども、偶然のように、漱石と鷗外っていうのは、このあたりに、住まいにしたことがあるということは、なにか、もしも、鷗外と漱石の共通点っていいますか、共通要素っていうのをとってきますと、そのひとつは、おそらく、そういう地域性みたいのが、わりあいに、共通性があるなってことだと思います。
 それ以外に、鷗外と漱石が相互に交渉があったっていうような事実は、ほとんどありません。つまり、両方とも、当時としていえば、当時の文学者でいえば、格段に学があって、格段に見識があってっていうようなことで、相互に意識して張り合っているみたいな要素っていうのは、ほのかにみえるわけです。
 それは、たとえば、鷗外の『ヰタ・セクスアリス』という小説を読みますと、漱石の『吾輩は猫である』っていうのを読んで、刺激を受けて、おれも書きたくなったみたいなあれがありますけど、少なくとも、おれと同じくらいなやつは、あいつだけだっていうふうには、意識していたかもしれませんけど、それ以外に、個人的に、交渉があったとか、親しかったとかいう痕跡っていうのは、すこしもありません。だから、そういう意味で、共通性っていうのも、関係っていうのも、それほどないといえます。
 それから、無理にあげようとすると、いくつか共通性っていうのはあるわけですけど、もうひとつは、やはり両者とも、当時の日本の文学の主流であった自然主義文学に対して、なんらかの意味で、別の道を、方法上でも、仲間意識でも、つまり、集団上でも、自然主義に対しては、共通に違うところに、位置していたっていうところはいえると思います。
 それから、もうひとつ、わりあいに、これは大きな共通点だというふうに思いますけど、もうひとついえることは、鷗外も漱石も、奥さんが悪妻だったっていうこと(会場笑)、そういうふうにいわれています。そういう共通点があるというふうにいわれています。

3 共通点は「悪妻」

 ぼくは、そのことを、今日、話したいって思っています(会場笑)。そこから入っていっていいわけですけど、漱石も鷗外も、当時の文学者の世界でいえば、格段、学識豊かな、つまり、いまの言葉でいえば巨匠なんですけど、知識人、あるいは、知識によってたつ文学っていうのは、何なのかっていうふうにいった場合には、漱石の文学者としての足跡っていうののなかに、おそらく、非常に、その時代でいえば、つまり、明治の中頃から末年にかけての時代でいえば、非常に本格的な、つまり、真っ正面の問題っていうのがあったっていうふうに考えられます。
 つまり、漱石は、たとえば、『吾輩は猫である』みたいのから『三四郎』あたりにいたるまでは、わりあいに、余裕のある文学作品を書いていたのですけど、だんだん、いわば作品自体を書くこと、それから、作品を形成すること自体が、いわば、キリをもむように、だんだん自分をきついところに追い込んでいくっていうような、作品形成の仕方をしているわけです。
 一般的にいいまして、ある一人の文学者、作家なら作家っていうものをとってきますと、たいていは、若いときに、わりあいに、真っ正面に、自分の問題、それから、自分と時代とのかかわり合いの問題っていうようなことも含めて、真っ正面に取り組んでいって、それで、だんだん、それがいわば、丸みっていうものを増していって、年をとってきますと、つらつらおもんみるみたいなふうに、だんだんなっていくっていうのが、日本の作家っていうものの定型みたいなものなんですけど、そういう定型から考えていきますと、漱石っていうのは、まったく定型にはまらないので、非常に若いときには、それから、小説の書き始めには、わりあいに余裕のある、あるいは、ユーモアもあり、俳味もあり、諧謔もありっていうような作品を形成しているんですけど、作品形成自体が、自分自身を非常にきついところに追い込んでいく、そのきついところっていうのが、いいかえれば、この時代において、日本の知識人が典型的におっかぶせられた問題ってものを、だんだん自分がのっぴきならないところで引き受けてくるっていうようなかたちで、それでもって、キリをもむ状態で、じりじり昇りつめていって、昇り詰めると、だんだん苦しくなるだけであって、最後に『明暗』っていう小説の中途でもって倒れて死ぬっていうような、その間、すこしも、たるみ、あるいは、ゆとりっていうものを見せないってこと、つまり、じりじりきついところにいっていて、バッタリ途中でぶっ倒れてしまうっていうような、そういうやり方を、漱石っていうのはしてきたわけです。
 このやり方のなかに、やっぱり、日本の知識人の文学といいましょうか、知識によってたつ文学っていうようなものの、非常にめずらしい、そしてまた、ある意味で、ほかの誰も背負わなかった典型的な問題っていうのが、背負われているっていうふうに考えることができます。
 これに対して、これを作品の優劣とか、それから、文学者としての優劣とか、そういうこととは、直接にはかかわらないわけですけど、鷗外のやり方を見てみますと、結局、初期、たとえば、『舞姫』から初期の2,3の作品ですけど、つまり、『文つかひ』みたいな作品までの2,3の作品っていうのは、非常にそれ自体が時代的な問題を、自分の内部の問題としたっていうような問題がありまして、そこのところでは、相当きつい仕事をしているわけです。
 つまり、『舞姫』なんていうのは、いま読みますと、外見上は文語調の作品で、なんか古めかしくみえるかもしれませんけど、お読みになれば、すぐわかるように、ほんとはそういうものじゃなくて、たいへんな問題っていうのはあると思います。
 鷗外のやり方は、そういうところにいきまして、それから出発しまして、そして、やはり途中で、ゆとりをみせるっていうようなところにいきます。そうしておいて、今度は晩年になって、ゆとりのなかでの一種の問題性みたいのがでてくるわけです。それは、晩年の鷗外の歴史小説の作品っていうのが、そういうものだと思います。
 つまり、非常に調べた作品みたいな感じなんですけど、それは、たいへん目の詰まった緻密な、やっぱり大変な作品です。それは、一応、ゆとりってところから、ちょっと一歩進みまして、非常に実証性、あるいは、文献性ってものを装いながら、つまり、客観描写みたいなものを装いながら、そのなかに、自分の内面的な問題っていうものを込めていくっていう、ひとつのやり方なんですけど、そこでは、あんまり、余裕っていうのは、やっぱりなくなっています。
 しかし、その余裕のなくなり方っていうのも、漱石のいうように、まともに、観念の問題として、まともに正面からぶつかっちゃうっていうような、やり方ではなくて、非常に、客観描写とか、実証性とかっていうものを伴にしているようなやり方での手法でもって、やっぱり、わりあいに、きつい仕事をしているっていうふうに思われます。
 このやり方は、つまり、作品としての優劣云々ってことではなくて、両者の時代に対する態度、それから、文学に対する態度っていうものを決定してきたっていう面があります。いわば、真っ正面から、とにかく、ぶつかっちゃったんだ、それで、ぶつかっておいて、どうしようもなく、自分でキリもみ状態になって、途中で、自分を緩める暇もなく、ぶっ倒れちゃったっていうような意味では、やっぱり、漱石のなかに、知識によってたつ文学っていうものも、ある非常に典型的な例を見出すことができると思います。
 それに対して鷗外は、いわば、いくらか斜めに構えたところで、作品形成をしてきたってことが、いえるんじゃないかっていうふうに思われます。
 だから、この両者っていうものは、地域性っていいますか、わりあいに、近いところに住んでいたとか、学問とか、見識とか、そういうものが抜群だったことを除けば、ほんとは、あんまり、かかわりはないというふうに、言えば言えると思いますし、また、個人的に、交遊があったというような形跡もありません。だから、そういう意味では、あんまり関係がないのかもしれません。
 そういうふうに考えていきますと、いちばんの共通性っていうのは、両方とも、たいへん奥さんが悪妻だったっていうふうに言われているところが、共通性があるといえば言えるわけです。この問題は、つまり、なにが悪妻なのかっていうことは、むずかしいでしょうけど、とにかく、それぞれの意味で、悪妻であったっていうふうにいえるところは共通だと思います。

4 鷗外の『半日』

 これは、鷗外についていいますと、作品でいえば、『半日』っていう短い作品がありますけども、それが真っ正面から、そういう家の問題といいましょうか、そういうものを真っ正面から取り上げた作品なんです。
 その作品っていうのは、べつに筋の運びっていうのは、どうってことないわけですけど、ある日の半日なんですけど、その日は、孝明天皇っていうのは、つまり、明治天皇の前なんですけど、その孝明天皇の忌であるということで、鷗外は官僚で、わりあいに偉い、陸軍の官僚ですから、そういうことで、出席せねばならんっていうような、その日に、たまたま、奥さんと、それから、鷗外の母親をめぐって、いさかいみたいなのがあって、出かけていくのをやめてしまって、半日、あるいは、一日をつぶすっていうような、それだけのことなんです。
 それで、鷗外はそこで、非常にあからさまに、奥さんをあからさまにえぐりだしているわけです。そのえぐりだし方はどういうことかっていうと、その奥さんっていうのは、だらしなくてっていうのは、つまり、たとえば、朝は朝寝坊で、節度がなくて、鷗外の母親に対しては、あの人、あの人っていうふうにしか言わないで、それで、顔を合わせるのも嫌だっていって、合わせないと、声を聞くのも嫌だってあれしないと、そういうふうなところで、たいへん悪妻、つまり、顔がきれいなだけで悪妻として描かれているわけです。
 それで、鷗外の母親っていうのは、いわば、鷗外を育てあげたっていう意味合いだけじゃなくて、無理をしながら学費を捻出して、学校に通わせたと、それで、一族の期待、この息子にありみたいな感じで、あいつとめたっていう、そういう母親であるわけです。
 鷗外としては、自分のワイフとは、たかだか何年かの付き合いにすぎないと、しかし、母親との付き合いは長いんだと、だから、多少、自分の細君の文句があったって、そう簡単には、母親をないがしろにすることはできないというわけです。
 それで、奥さんのほうの言い分は、小説でみるかぎりは、だいたい、財布のひもは、わたしに渡したくはないと、ぜんぜん知らないと、あなたのことは、自分の息子であるというような範囲を逸脱するように、あなたのことは身辺をかまいつけると、もともと身辺をかまうのは自分の役目なので、かまいすぎると、だいたい、自分には、なんの権限もないと、家のなかにおけるなんの権限もないと、だいたい、あなたに対する、つまり、鷗外に対する態度も、母親としての態度を逸脱して、猫かわいがりであるとか、世話をやきすぎるとか、だいたい夜になっても、夫婦の部屋を覗きにくるとか(会場笑)、そういうのは、けしからんっていう、そういう観点にたって、顔を見るのも嫌だっていうふうな具合で、いさかいが絶えないっていうような、そういう作品なわけです。
 そのなかで、鷗外っていうのは、結局、そこのなかでバランスをとるわけです。けっして、たとえば、その場合に、母親に対して、自分たちの夫婦を中心、子どもをなかにおいた家族っていうのが、いちばんのポイントであって、それに対して、母親は、隠居をしている母親っていうふうには、けっして考えていかないと、そこで、鷗外は、ときには、かんしゃくをおこすこともありますけど、非常に冷静に両者のバランスをとって、ずーっと、家っていうものを維持していくわけ、つまり、破綻なく維持していこうとつとめるわけです。
 その場合の鷗外っていうのは、非常に、奥さんに対する描写でも、非常に冷酷、残酷でして、客観的に残酷に描写してありますし、また、おそらく、それから推察される実際の眼っていうようなものを考えても、わりあいに、冷静に、理性的によく考えたうえで、両者の社会のバランスをとって、それを外側に対してはボロを出さないってことを持続していったように思われます。
 このバランスのとり方っていうのは、つまり、ある意味で、さきほど申し上げました鷗外の初期を除いた作品形成の仕方っていうのと、非常に類似性があるわけで、同じところからでてきているようなところがあるわけです。鷗外がそのようなバランスのとり方っていうものを、生涯にわたって、作品のうえでも、あるいは、実生活のうえでも、維持していって死んだっていうふうに思われます。
 官僚としては、軍医としては、地位として最高であるわけでしょう、つまり、陸軍の軍医総監っていうようなものになって死にます。ただ、そういうバランスをとりながら、そういう官僚社会における自分っていうものと、それからまた、文学者、つまり、どんなことだって、えぐりだそうと思えばえぐりだせるっていうような、そういう、文学者としての自分とか、それから、一介の家庭の人間としての自分っていうものに対して、最後までバランスをとり続けて、破綻なくやったっていうふうに思われます。
 ただ、鷗外が、そういうバランスからくる鬱積のようなものを、いっぺんにぶちまけてしまったっていうのは、鷗外の遺書のなかで、はじめて、ぶちまけたわけです。その遺書のいろんなことがあるわけでしょうけど、いちばん重要なことは、自分の墓をつくるときに、軍医総監だとか、従二位だとか、そういうような、なんとかっていうのは、一切いれてもらったら困ると、自分は石見の人、森林太郎だ、ようするに、森林太郎の墓っていうことで結構であると、それ以外の官僚としてのあれとか、社会的なんとかとか、そういうのは一切、自分の墓に刻みつけることを許さんっていう遺言状をしたためて、それで、死んでいます。
 つまり、生きているときは、バランスを崩さないでやってきたわけですけど、死んでから、おれは一切たくさんだっていう、なにもかもたくさんだっていうようなかたちで、おれはただの森林太郎で結構なんだっていう、そういうふうなかたちで、バランスに対する反作用っていいましょうか、そういうようなものを、死んでから、一挙にそれをぶちまけて、処理したっていうふうに、考えようとすれば考えることができます。

5 漱石の『道草』

 これに対して、漱石は、たとえば、『道草』っていう小説が、いわば鷗外の『半日』に相当する作品なんです。このなかでやっぱり、どうしても理解できない夫婦っていうものと、それから、それをめぐって、漱石の側からいわせれば、乏しい知識と、それから、二本の腕に、没落しかかった親類縁者とか、それから、自分の幼少時代の養父とかが、金をせびりにくるとか、たかりにくるとか、そういうふうに寄り集まってくる様々な問題っていうものを支える息苦しさっていうものを、家の中の生活、奥さんとの齟齬といいましょうか、ゆきちがいというもののなかで描いているわけです。
 この作品は、たいへん重要な作品であります、いい作品だと思いますけど、というのは、いわば私小説的に、ある意味で鷗外の『半日』のように、そういう家をめぐる問題っていうものを暴露しているっていうわけじゃなくて、まさに暴露しているんですけど、それ自体がいわば私小説的に、あるいは、暴露小説的にならないでっていうのが、形而上性とか、指標性とか、やっぱり人間っていうのはどうなんだっていう、つまり、人間の存在っていうのはどういうものなんだっていうような問題を、なんか非常に突きつけるっていうような、そういうところで、作品形成がなされているわけです。
 これは、漱石の側からいえば、奥さんっていうのはどうしようもなくて、自分を到底理解することはできないっていうことと、それから、奥さんっていうのはヒステリーで、たとえば、松山時代とか、九州・熊本時代とか、そういう時代のことも書かれているわけですけど、たとえば、妊娠してヒステリーで、水の中に自分が飛び込んじゃったりするものだから、夜中でも、自分の身体と、それから奥さんの身体をひもでくくりつけて、つまり、結わえ付けて、ヒステリー発作で飛び込んじゃったりなんかあれしたりすることがないように、そういうふうに、読んでも、寝てるっていうような、そういう描写もあります。それから、神経性で、なにか齟齬みたいのがあると、ヒステリー状態になって、眼つきやなんかも、そうとう焦点がぼけてしまって、ぼんやりしてしまうっていうような、そういうようなことも描いているわけです。
 漱石自身がもっている一種の観念性、あるいは、メタフィジックみたいなものですけど、そういうようなものについては到底理解できない、その到底理解できないという問題は、男と女っていうのは理解できないんじゃないか、つまり、絶対的に理解できないんじゃないかっていうような、そういう問題のところまで感じさせるように、たいへん私小説的な素材なんですけど、私小説的にさせていないところがあります。
 それから、もっと突き詰めていくと、人間は人間を理解できないんじゃないかというような、そういうところまで、深読みすることができるっていうふうに、作品形成をしています。
 こういうことは、ものすごく簡単なようですけど、つまり、私小説的に、あるいは、暴露小説的に、あるいは、告白小説的になりやすい、そういうテーマを、素材をとりあげて、そうさせないっていう、しかも、それは、自分の家の体験にもとづく、それを素材にさせながら、そうさせないっていうのは、やはり、よほど力量っていうものがないと、力量っていうのは、単に技術的な問題だけじゃなくて、よほどの思想性っていうものがないと、そういうふうには作品形成はできにくいわけで、たいへんな力だっていうふうに見てとることができるわけです。
 そこのところで、漱石にしろ、鷗外にしろ、一様に当面していることは、ひとつは客観的によくみますと、べつに、鷗外夫人も、漱石夫人も、特に悪妻、特に悪い女だっていうふうに、どうしようもないやつだっていうふうではないので、いってみれば、ごくふつうの女性であったっていうふうに思われます。
 ところで、ふつうでないのは、おそらく、漱石や鷗外のほうが、ふつうでなかったと思います。そのふつうでなさっていうものが、部分的には誰でも負っているわけです。つまり、それはみなさんでも負うわけですし、ぼくでも負うわけです。誰でも負うわけですけど、しかし、そのふつうでなさっていうものを、いわば時代の典型であり、それから、男女の問題の典型であり、そして、社会っていうものと、それから、家っていうものとの違い方の問題として典型でありっていうような、そういう問題にまで突き詰めていったっていうこと、あるいは、逆にいえば、突き詰めざるをえないような、一種の悲劇性っていうのをもっていたという意味では、誰にでもそれはあるっていうようなふうにはいえないので、おそらく、その問題の、ほんとうの問題は、漱石なら漱石、あるいは、鷗外なら鷗外のほうにあったっていうふうに考えることができます。
 たとえば、鷗外夫人、あるいは、漱石夫人が、鷗外あるいは漱石ではなくて、ごく平均的な職業をもち、平均的に苦も楽もないっていうような、平均的に生活しているっていうような、そういう人と一緒になったっていう、家庭をつくったっていう場合を想定してみれば、おそらく、格段べつに、悪妻でもなんでもないっていうふうに、ごくふつうの人だっていうふうになるように思われますけど、しかし、そういうひとりの人間が、いわば男性として、あるいは、女性として、悪妻であるか、悪亭主になるかっていう問題っていうものを決定するのは、どうしても、いわば、ひとりの人間としての人間の、いわば一対一の組み合わせによるのであって、ひとりの人間が人格的に立派であり、ひとりの女もまた、人格的に立派であり、そうすると、それが一緒になれば、立派な問題のない家庭ができるかっていうと、けっして、そういうことはないわけです。
 そういうことは家庭、あるいは、夫婦っていうものでもいいんですけど、そういうものがどうであるか、そこで、悪亭主になるか、悪妻になるかっていうような問題とは、まったく関係ない、つまり、まったく違う次元の問題だっていうふうにいうことができるんです。
 だから、それは、たとえば、ひとりの人間がごくふつうであり、また特異なものじゃない、ごくふつうの職業をもちっていう、そういう女性が、ごくふつうの人間でありっていった場合には、わりあいに平均的な問題しかないから、特に悪妻であるとか、悪亭主であるっていう問題は、あんまり出てこないのかもしれません。しかし、そういうことは、一人一人の個々の男または女の問題だけで、けっして出てくる問題ではないってことがいえます。
 だから、それはいずれにせよ、一人と一人の関係っていうことが問題なのであって、けっして、一人の人格としてどうであるとか、性質がどうであるとか、あるいは、もう一人の性質がどうであるとか、そういうこととは、まったく関係がないっていうふうにいうことができます。
 そういうふうにでてくるならば、問題はむしろ漱石なら漱石、あるいは、鷗外なら鷗外が、いわば、自分自身が自分自身と和解することができないとか、自分自身が人間としてなんであるかってことから、人間っていうものの存在の仕方っていうのは、なんであるかってところまで、その問題を背負わざるをえなかったって、つまり、両者のそういう運命みたいなもの、あるいは、悲劇性みたいなもののなかに、ほんとうの原因があったんだっていうふうに考えれば、考えられないことはないわけです。

6 『漱石の思ひ出』

 漱石の場合には、漱石の奥さんが、漱石が死んでから、『漱石の思ひ出』っていう、口述式なんですけど、そういうあれを書いています。そういうあれで、『道草』の素材になったその時代のあれを奥さんのほうからいわせると、うちの旦那っていうのはキチガイだったっていう(会場笑)、とくに、そのときはキチガイだったっていうふうに言っています。
 その例もあげています。たとえば、郁文館中学というのが、当時の中学ですけどあって、そこに通っている学生さんが家の塀越しにみえるっていうんです。それで、たとえば、漱石が、あの男は窓を開けて、いつでもおれのことを監視しているっていうふうに、そういうふうにしばしば訴えたっていうふうに奥さんは回想しています。だけれども、べつにそんなことはないので、たまたま、漱石の家の縁側かなんかからすーっとみると、向かいにみえる家の二階に下宿している学生さんがいたと、それは時々、そういう窓から見えることがあると、姿が見えることもあるし、こっちも見てることもあると、いわば、その程度のことで、べつにそういうことはなかったと、しかし、漱石は、あれは自分をいつでも監視しているというふうに訴えたようなことを言っています。
 それから、たとえば、漱石の子どもが十円玉かなんかをどこかに置いておいた、そうすると、とにかく、傍からみると、まったくキチガイとしか思わない、つまり、置いてあったと、そうすると、漱石は途端に、つかつかと子どもをあれして、子どものことをぶん殴ってしまう、引っ叩いてしまうっていう、そういうようなことが、ふるまいがあったと、そういうふるまいをみているとキチガイとしか思われないと、だから、自分はその当時、いさかいもあって、それから、実家へ帰れっていわれて、帰ったこともあるけれど、思い直して、あのキチガイはわたしが世話をしなきゃやっぱりダメだと思って(会場笑)、それで帰ってきたっていうふうに書いています。
 それで、結局、漱石にいわせれば、なぜ、たまたまどこかに、自分の眼のつくところに、たとえば、十円玉だか五円玉だかあったっていうことに、なぜ娘をいきなり引っ叩いちゃったかっていうようなことについて、漱石は漱石なりの内的根拠をもっているわけです。その根拠っていうのは、なにかっていいますと、かつて自分が英国留学しているとき、つまり、たいへん留学者が少ないってこともあって、お金にものすごい困り方をした生活をしたと、そのときに、なんかたまたま自分の眼のつくところに置かれた一枚のコインっていうものにまつわる、自分のものすごい屈辱的な体験みたいなものがあるわけなんです。そうすると、漱石としては、たまたま自分の眼のつくところに置いてあったってことは、なんか再び、その屈辱の体験っていうものを自分によみがえらせるものであるということ、それから、その場合に、なぜそれじゃあ、そういうものが、わざわざ自分の眼のつくところに置いてあるのかって考えた場合に、漱石は、それは故意に置いたに違いないっていうふうに考えていくわけです。
 その考え方のなかには、一種の、郁文館の学生のあれも同じですけど、一種の被害妄想っていうのがあるので、それはいわば異常っていうふうにいえばいえるわけです。だけれども、漱石の原体験っていうようなものにさかのぼって、それを考えていきますと、それには漱石なりの、なぜこんなになっちゃったかってことについての内的な論理、それから、内的な根拠っていうものはあるわけなんです。
 そして、その根拠っていうものは、いってみれば、漱石の人間としての孤独感、あるいは、人間っていうのは一般に、人間存在っていうのは孤独なものであるっていうような、そういうところまで追い詰められた、一種のいわば形而上学、あるいは、思想っていうものまで突き詰めることができるわけです。
 だから、漱石にしてみれば、多少の異常性っていうのは、そこで認められてもいいわけですけど、しかし、それにはちゃんと内的な根拠と論理があるんです。しかし、その過程っていうのは、奥さんにそれを説明しようにも説明する言葉がない、あるいは、それは、いわば日常の、あるいは、とくに男と女が形成する日常のそういう次元での言葉では、どうしてもそれを説明することができない、あるいは、それを言うことができないっていう、そういうことで、たとえば、それを外側から見たら、子どもが偶然に忘れて置いておいた銅貨なら銅貨ですね、それから、たまたま、家からみえる二階に下宿した学生さんが窓から方々を眺めてると、また自分の庭のほうに視線を向けていたと、それだけで、あいつはおれを監視しているっていうふうになってしまうと、こういうことは異常といえば異常なんですけど、それでもって、あいつはおれを監視していると考え、または、おれの娘は、おれの子どもは、わざとおれを悩ませるために、わざとここにこれを置いたっていうので、いきなり引っ叩いてしまうっていうような、この行為の結果だけをみていきますと、どうしても、これは、うちの亭主は狂っているとか、キチガイだとか、どうしてこう自分の子どもをいきなり引っ叩いてしまう、つまり、自分のなにかおもしろくないことがあったってことで、いきなり引っ叩いてしまうっていうのは、どうしてうちの亭主はこうなんだろうっていうふうにしか、どう考えてもみえないわけです。
 しかし、そこのところが、漱石なら漱石の家における一種の悲劇性なのであって、たとえば、そういう問題っていうものを十分理解して、漱石が求めたのはきっと、そういうものを、問題っていうのを十分わかって、そういう過程っていうものがわかって、しかもそれがわかったうえで、たとえば、自分のふるまいっていうのもまた、許すっていうような、そういう女性っていうものを理想として描いたであろうというふうに思われます。
 それは、実際問題としては、そんな女性なんているわけはないので、だから、そんなことは不可能を求めているに近いってこと、不可能を求めているに近いってことは、いいかえれば、人間の不可能性っていう問題に漱石自体が当面していたっていうふうに、そのことを言いかえることもできると思います。

7 鷗外のふたつの貌

 これに対して、鷗外の場合どうでしょうか、つまり、鷗外の場合、『半日』っていう小説が、いわば、公表されることができたのは、非常に新しいときです。これは、その作品自体は「昴」っていう雑誌に掲載されたんですけど、その作品自体が公表されたのは、雑誌以外の意味合いで、たとえば、本になってでたとか、本の中に収録されたっていうようなのは、最初に、岩波版の鷗外の全集が出たときに、はじめて、そうされたので、それまでは、その作品は奥さんのほうで押さえたわけです。つまり、困るってことで押さえたわけです。
 それから、鷗外自体も生きているときに、自分の短編集みたいなもののなかに、作品集のなかにそれを入れることはしていないわけです。
 だから、この場合についていいますと、事態はそれほど深刻でなかったというふうにもいえるわけです。ということは、どういうことかっていいますと、鷗外がそこで、いわば内面的な問題として当面したのは、結局、人間っていうものは、社会に対して、どんな貌をみせるかっていうことと、それから、家に対して、あるいは、女性に対してとか、あるいは、家庭においての自分っていうのは、どんな貌をみせるかっていう場合に、人間っていうのは、この場合に、違う貌をみせるわけです。
 これは、違う貌をみせるっていうことは、これは、誰にでも妥当することであって、違う貌をみせるわけです。
 だから、鷗外の場合、それについても、極端に違う貌っていうような意味合いを、鷗外の場合、もっていたかもしれません。というのは、鷗外は、一介の文士っていうことだけじゃなくて、官僚として、わりあいに、高官、高位にあったわけですから、軍医総監っていうようなことを考えて、専門職の官僚でいえば、おそらく、官僚社会での最高の位階に相当するわけでしょう。つまり、そういうところで、鷗外がみせる貌っていうものと、あるいは、みせざるをえない貌っていうものと、あるいは、みせることを強いられる貌っていうものと、それから、家において、一人の男、あるいは、一人の亭主っていうようなことで、あるいは、一人の息子っていうことでみせる貌っていうものとは、わりあいに、ごく平均の人に比べると、極端に違っていったっていうことは、その違う貌をみせるっていうこと自体は、べつに鷗外に限ったことではなくて、誰でもそういう貌をみせるっていうようなことで、別段変わりがないってことがいえます。
 そういう問題で、鷗外が当面したのは、おそらく、一個の人間っていうものが社会的に生きる貌っていうものと、それから、一個の男、あるいは、女として、あるいは、息子、あるいは、父親としてみせる貌っていうものとは違うってことは、いったいどういうことなんだっていう問題に、おそらく鷗外は当面したのであって、そこが鷗外の『半日』っていう作品におけるメタフィジックっていうものは、おそらく、そういうところにあったっていうふうに思われます。
 だから、そういう意味合いで考えていきますと、鷗外は、そういう意味合いでは、人間の存在っていうのは何なのかっていうような、そういうメタフィジックっていいましょうか、そういうようなものにまで、その問題を突き詰めていくっていうようなこと、あるいは、突き詰めざるをえないってところにはなかったように思われます。そういう面からみた鷗外っていうのは、少なくともなかったように思われます。
 したがって、これは、いろんな思惑を考慮して、たとえば、その作品を、自分の作品集の中に生前いれるっていうこともしなかった。奥さんのほうも、これだけ、こういうふうに解剖された自分の貌、あるいは、家の貌っていうのをみせたくないので、死後も、それを全集に収録することはならんっていうふうに、それを差し止めたっていうようなことだったっていうふうに考えることができます。
だから、そこのところでも、おそらく鷗外が、漱石とすこし違うのであって、最後に、社会的に自分がみせる貌と、それから、家としてみせる貌っていうものとの、そういう違いっていうもの、あるいは、そういう違った次元の社会を渡り歩かざるをえない自分っていうものに、死んでから復讐するっていいますか、死んでからそれを一挙にひっくり返してしまうってことで、たとえば、遺言の中で、おれは石見の国の出身者である森林太郎という人間だっていう、それだけでたくさんだっていうふうな遺言となってあらわれたっていうふうにいえば、いえないことがないというふうに思われます。

8 関係性の3つの次元のあり方

 こういう問題っていうものから、ぼくらが拾ってこれる問題っていうのは、普遍的にいえば、こういうことだっていえると思います。ひとつは、あっさりいえばそれで尽くしていいわけですけど、一人の人間っていうものは、まったく一人の人間であって、その一人の人間は、その人間固有な世界っていうものを概念的にも、また内面的にも、つまり、観念的にも、もっていて、そして、そういうふうに生きているものであると、しかし、一人の人間っていうのは、それとは少し違った次元で、一人の人間対自分以外の一人の人間と関係するっていうような、そういうものとしても存在しているってこと、つまり、まったく一人の人間が一人の人間だっていうだけでなくて完結した人間、つまり、完結したっていうのは、自分の中で閉じた人間だっていうふうに存在するとともに、自分とそれから自分以外のほかの一人と関係して存在している人間であるっていうような世界がある。
 自分と、それから自分以外のほかの一人と関係している世界を、いわばセックス、あるいは、男または女としての人間っていうふうにいうわけです。それは、具体的にいいますと、それは家族とか家っていうものの本質っていうのは、そういう世界なわけです。だから、これが、一人の完結した人間っていうもの、あるいは、自分で閉じた一人の人間っていうのは、そういう世界とは違う次元に存在するっていうふうにいうことができます。
 その違う次元っていうのは、自分とほかの一人との関係を、いわば核として存在しているのが、男女、あるいは、セックスの世界であって、それから、それは具体的にいえば、家っていうものは、あるいは、家庭とか、家族とかっていうものは、そういうようなものとして存在しているわけです。
 ところで、もうひとつは、いわば、一人の人間っていうのは、大勢のなかの一人っていうふうに存在しているわけです。その世界は、いわば、社会の中の一人の個人っていうやつ、あるいは、社会とかって大げさにいわなくても、ある職場なら職場の中の一人の人間、それから、あるサークルの中の一人の人間っていうような意味合いで、あるいは、ある国家における一人の人間とか、そういう意味合いで存在している世界があります。
 そういう世界っていうものは、一人の人間と自分以外の一人の人間との世界、形成する世界とは、また違う次元にあるっていうふうに存在しているわけです。そこで、一人の人間っていうのが、自分が意識しようとしまいと、いわば、いま言いました3つの次元の違った世界っていうもののなかで、具体的にいえば、そのなかで自己形成をし、そのなかで生活を繰り返しっていうようなことをやっているってことができます。
 だから、たとえば、ぼくに言わせれば、おれは自分の内面的な世界っていうものだけが、おれにとって重要なのであって、ほかの社会でどんなことが起ころうと、何をしようと、そんなことはおれの知ったこっちゃないっていうような言い方っていうのは、もちろん、一人一人の人間の主観としては成立しますが、人間の存在というものを、いわば一種の客観的存在という視点からみた場合には、その言い方は成立しないのです。
 それは、自分自身が主観的に存在していると思えば、思い込むことはできるし、そのこと自体は、けっして悪いことじゃないわけです。倫理的な問題ではありません。つまり、善悪の問題ではありませんけども、しかし、これは人間を、いわば外側から規制している客観性みたいなものを考えていけば、そんなことはないのです。
 それは、人間はどんなやつでも、どういうふうに思い込んでいるやつでも、いわば、一人の完結した人間っていうふうな次元と、それから、いわばセックスとしての人間、つまり、男または女としての人間、あるいは、自分と他の一人との間に、その関係として生きている次元と、それから、いわば、大勢の中の自分というふうに生きている次元と、いってみれば、その3つの次元を誰でもそういうふうに生きているのです。
 ただ、人間っていうのは主観的にいいますと、そのなかのいずれか一つの場面における自分っていうものを強調してっていいますか、そのなかにポイントをおいて、自分の自己形成をしたり、あるいは、生活をしたりしているっていうふうにはいうことができましょう。だから、おれは社会的人間として、生きているのだとか、国家の一員として生きているのだっていうような人は、一員として滅私奉公するんだっていうふうに言っている人が、そこに共同社会の中の自分っていうところにポイントをおいているということであって、そいつが男または女として生きていないのかっていうと、決してそうじゃないわけです、生きているのです。それからまた、一人の完結した一人の人間として生きていないかっていうと、ちゃんとそういう次元もあるのです。ただ、そいつはそういうふうに思い込んでいるだけなわけです。だから、思い込んでいるってことは、主観的には結構なことなんだけど、人間の存在というものを客観的に、いわば規定しているものからいえば、どんな人間でも、その3つの次元っていうのを免れていないっていうことは、非常にぼくは重要なことだっていうふうに思われます。
 ただ、どこにポイントをおくかっていうことは、それぞれの個々の人間の生き方っていうものにかかわってくるでしょうけれども、しかし、主観的、あるいは、主体的に、そう生きるとか、そう行動するとか、そう生活するっていうことでもって、一人の人間の観念の世界、あるいは精神の世界っていうもの、あるいは思想的な世界っていうものは、それで終わるかっていうと、それでもって十分かっていうと、けっしてそうでないってことは、客観的にっていいますか、充分、自己意識的にそれは心得ているってことは、けっして悪いことではないっていうふうに思われます。
 つまり、その場合の、ひとつの典型っていうものを、たとえば、鷗外の『半日』なり、あるいは、鷗外の家庭生活でもいいですけど、それから作品として『半日』でもいいです。それから漱石の『道草』とか、漱石の家庭生活とか、そういうような問題っていうものを、非常に、つまり、普通の人が突き詰められないような次元まで突き詰めて、そういう問題を提出しているというふうにいえばいえると思います。そういうところにまで普遍化して考えていけば、考えることができると思います。

9 高橋和己の奥さんは悪妻

 ぼくはそういうことについて、つまり、いま申し上げました理屈っていいましょうか、論理っていうものを、ぼくなりに考えるところがあって、そういうことについては、論理の筋道っていうのは、わりあいに早くから、それを自分なりにつくってきたわけですけども。
 なぜ、たとえば、鷗外と漱石っていうようなことで、そういう問題を話してみようかなっていうふうに思い立ったかっていいますと、ごく最近、ぼくも少しは面識のある人ですけど、高橋和己さんっていう人ががんで亡くなったっていうことがあって、亡くなったら途端に奥さんがある雑誌に、うちの亭主はキチガイだったっていうふうに書いているわけです。いくつかの例が挙げてあるわけです。
 それは、みなさん、お読みになったかもしれないけど、いくつかの例が挙げてあります。とんでもねぇやつみたいなところがあってっていうふうなことなんですけど、かわいそうな人だったっていうふうに言っているわけですけど、それは、たとえば、若い時に、自分がアルバイトで金を稼いでくると、今日は久しぶりに金が入ったから、これですき焼きみたいのでもあれして、ふたりで食べようと思って、ネギとか、肉とか、そういうのを買って、うちへ帰ってみると、そうすると、うちの亭主は安酒をベロンベロンに呑んで、グースカ寝ていて、それで、そこのところには安酒のビンが転がっているし、ご飯は釜の中のご飯を手づかみにして、ボロボロボロボロくっついてあれしているという、そういうのをみて、なんていう人だろうっていうふうに思ったっていうような、そういうようなことが2,3、そういうエピソードが書いてあるわけです。うちのやつは自閉症のキチガイだったっていうふうに書いてあるんです。それで、こういうことが洞察できないのは、うちの亭主がこうだったっていうことをわからないっていうのは、洞察力がないんだっていうふうに書いているんです。
 そこで、ぼくは、引っかかったことが2つあるんです。ひとつは、なにも自分の亭主が死んだらすぐに、そういうことは書かんでもいいでしょうっていうことがあるわけです(会場笑)。言い換えれば、ぼくもそういう書かれる要素があるということかもしれません(会場笑)。つまり、えーいっていうことかもしれません。女性の人からいうと、男のエゴイズムみたいなことになるのかもしれませんけど、なにも死んだらすぐに書くことはないだろうっていうことがひとつ、ぼくがひっかかったところです。
 それから、もうひとつ、ひっかかったことが、死んだらすぐこういうことを書く神経っていうのは、つまり、悪妻であるというふうに思ったわけです。なぜ悪妻かと思ったかっていいますと、縷々述べてきましたように、ぼくが読んだかぎりでは、そこに書かれてある程度の洞察力ならば、ようするに、そこの表通りの下駄屋の、草履屋さんのおかみさんだって、ちゃんと思っているわけです、そんなことは。
 つまり、うちの亭主がどんな野郎かっていうことくらいなら、つまり、そこに書かれている程度のくらいならば、どんな家庭をもっているおばさんをとってきたって、それくらいのことは、ちゃんと百も承知なわけだとぼくは思います。ただ、しかし、しょうがないっていうふうに思う。
 それから、亭主のほうだって、てめぇの女房っていうのはどういうやつだっていうのは、もちろん、そこに書かれた程度の洞察ならば、ちゃんとそんなことはわかりきっているんです。知っているわけです。わかっているわけです。ただ、しかし、それでもたとえば、一緒にいられる間はいるわけで、いられなかったら離婚するわけです。しかし、離婚していないかぎりでは、やっぱり、それで我慢しているっていいますか、それはわかっていて、それをたたんでおいて、そして成り立っているっていうふうに、ぼくには思われます。
 だから、そんなものは、そこいらへんにいるおばさんをとってきたって、そんな程度のことなら、ちゃんと洞察しているわけですし、わかったうえで、そして、ぼくは、家族っていうものの生活っていうものをしているっていうふうに、ぼくには思われます。だから、ぼくに言わせれば、この程度のことを、つまり、亭主について言って、これを洞察力だなんていうのは、もってのほかである、つまり、しゃらくせぇっていう(会場笑)、しゃらくせぇっていうのは、つまり、どうしようもないという(会場笑)、ぼくには、そういう意味の悪妻だと思います。
 つまり、そういう意味合いでは、ぼくはダメだって、つまり、それはいいかえれば、たとえば、ここの通りの草履屋さんのおばさんとか、酒屋さんのおばさんっていうか、そういう人にも、おそらくは、そういう面ではおよばない人だって、ぼくには思われたんです。そこがひっかかったわけです。

10 高橋さんの脆弱さ

 それから、もうひとつ、ひっかかったことは、今度はそういうことよりも、高橋さんのことにひっかかったわけですけど、つまり、高橋さんの作品形成のなかで、やっぱり、鷗外でいえば『半日』のような作品、それから漱石でいえば『道草』のような作品、そういう作品を高橋さんが一回も真っ正面からつくらないで、そして、わりあいに、共同社会における一人の人間とか、共同性に対して、これに反逆する共同性とか、そういうことをテーマとする作品形成っていうのは、わりあいによくやっているんですけど、いわば、一人の人間が、自分以外の他の一人の人間と関係づけられるところで、関係するところで行われる世界っていうもの、形成される世界っていうものについて、高橋さんが、鷗外の『半日』、それから、漱石の『道草』のような作品を書かなかったのは、やっぱり抜かりであるっていうふうに、ぼくは思いました。つまり、そういうふうに抜かった為に、高橋さんは死んだらすぐに、そうやられるわけです(会場笑)。
 だけども、それ以前に、たとえば、鷗外の『半日』のような作品、あるいは、漱石の『道草』のような作品を、高橋さんが一丁書いていれば、もう言えないわけです。そういうものは書けないわけです、奥さんは。つまり、そういうのを書こうと思ったって書けないわけです。書くならば、いわば本格的にしか書けないわけです。つまり、自分の亭主っていうものを、もっと痛烈に、もっと深刻にえぐってもいいけれど、しかし、それは、作品なら作品、あるいは、文章なら文章として優れているっていうふうにならば、書くことはできるわけですけども、つまり、こういうエピソードがあって、うちの亭主はおもしろくなかったっていう、その程度の薄っぺらな文章っていうのは、到底書けなかったはずだって、ぼくには思われます。
 つまり、それはやっぱり、鷗外の『半日』、それから漱石の『道草』に該当する作品を高橋さんが書いていたとすれば、その女房は、それに匹敵するだけの、いわば、それこそ洞察力ですけど、それでもって文章を書く以外には、それを反駁することができないはずなわけなんです。だけれども、高橋さんは、そういう作品を不幸にも形成しなかった為に、いわば死んだら途端にやられたっていう、つまり、不意を打たれたっていう、不意を打たれたっていう場合に、昔から諺があって、男は外に出ると、7人の敵だか、8人の敵だかが、いつでもいるとかいう諺が昔からありますけど、敵は中にあったっていうような(会場笑)、そういう意味合いで、不意を打たれたっていうことになって、それで、単に不意を打たれたっていうだけじゃなくて、不意の打たれ方が、いかにも薄っぺらであるっていいましょうか、薄っぺらな打たれ方しかしていないっていうような、そういう打たれ方で不意を打たれたっていうようなことが起こってきたってわけです。
 その問題っていうのは、やっぱり、ぼくは、高橋さんの作品のある意味での脆弱さっていうものにつながるところっていうものがあると、つまり、それを鷗外の『半日』、あるいは、『道草』っていうものに該当するような作品を形成できなかったっていう、あるいは、形成するという発想をもたなかったのかもしれませんし、あるいは、形成しようという発想はあったんだけど、書くことが実現されなかったっていうことかもしれませんけど、そういうところが、おそらく高橋さんの作品のなかに弱さっていうものが、つまり、脆弱さっていうもの、あるいは、通俗性みたいなものがあるとすれば、おそらく、そういうことをとりあげる着想、あるいは発想自体を高橋さんがもちえなかったってことが、非常に大きな関係があるんじゃないかなっていうふうに、ぼくには考えられます。
 そういう問題っていうのは、ちょっとぼくはあらためて、高橋さんの死んだということの驚きと一緒に、そういうことはちょっと深刻に考えさせられた問題だっていうふうに考えたってこと、それから、やっぱり、ある意味で、高橋さんの作品のなかに、ぼくが感じていた通俗性です。つまり、ヒューマニズムにしても、非常に通俗的なヒューマニズムであるとか、わりあいに脆弱なヒューマニズムであるとか、わりあいに通俗的な作品だっていうふうに思わせるようなものと思っていたところが、ある意味で、ハハッて、つまり、わかったっていうような、これだなっていうふうに思ったところがあるんです。つまり、その観点からそういうことがひとつあるなっていうような、そういうところに根拠があるなっていうことを、ぼくは、感じたっていうことがあったわけです。
 だから、ぼくは論理の筋道としては、その問題っていうのは、とうに、ぼくなりの筋道と解き方っていうのは規定したつもりで、それを訂正するつもりも、変更するつもりも、少しもないわけですけど、そういうことじゃなくて、論理は論理として、理論は理論として、やっぱり、多少、自分らと知らんこともないっていうような同時代のそういう文学者っていうものの死っていうものを契機にでてきたそういう問題で、とくにまた、あらためて、オッていうことを感じさせられたってことがありまして、それで、もちろん、鷗外と漱石の全業績のなかで、その問題っていうのは、ある意味では一部分、極小分かもしれないのですけど、そういうところからちょっと、お話をしてみようっていうふうに思い立った次第なわけです。
 みなさんなんかは、若い独身の方が多くて、こういうことはあんまり聞いてもおもしろくねぇとか、あんま実感的じゃないとか、いろんなあれがあると思いますけれど、ぼくは、わりあいに、その問題は重要だっていうふうに考えています。これは、単に体験的に重要だっていうこととか、みなさんも、やがておめぇたちだってそうだっていう(会場笑)、そういう意味合いじゃなくて、わりあいに思想的な問題としても、わりあいに重要なんじゃないかっていうふうな意味合いも込めて、それをとりあげたので、もし、みなさんが、体験的、あるいは、実感的に、そういう世界っていうのをいわれたって、そんなの知ったこっちゃないよっていうふうなことがあるかもしれませんですけど、ぼくは、そういう問題っていうのは、それほど、ないがしろにしたものでもないっていう観点があるものですから、そういうところで、鷗外と漱石について、そういう共通点の一つとして、お話してみたわけです。
 いちおう、これで終わらせていただきますが、なんか主催者の方のあれですと、もし質問みたいものがあるのだったら、そういうのも受けてほしいっていうようなことですので、もしありましたら、だしてみてください。いちおう終わらせていただきます。(会場拍手)


テキスト化ご協力:ぱんつさま