1 司会

 たいへんお待たせいたしました。本日は「南島論」と題しまして、吉本隆明先生の講座をお送りいたします。ご存じのように、吉本隆明先生は、詩人であり、評論家で、独特なお仕事を重ねられていますが、最近は、国家論に強い関心を示されております。本日と、十日の二回に分けてお話していただきます。それでは、最後まで、ご清聴ください。

2 〈南島〉をどうとらえるか

 本日は、「南島論」ということで、お話をするわけですけど、非常に暑い盛りで、なおさら、暑い話になりそうなんですけど、〈南島〉という言葉は、どういうふうに、ここで使いたいと思うかといいますと、昇曙夢さんの『大奄美史』っていう本のなかで、〈南島〉っていう言葉の定義をしているわけですけど、だいたい、奄美大島から琉球諸島を含めたものを〈南島〉というっていうふうに記載されてありますけど、だいたい、それと同じような意味合いで、おおづかみに、そこいらへんのあたりを〈南島〉っていうふうに使いたいと思います。
 この使い方には、格別、限定する根拠はないんですけど、おおづかみのところで、そういうふうにつかまえれば、いいんじゃないかっていうふうに思われます。これでいいますと、奄美大島から、いちばん台湾に近い与那国までを含めて、〈南島〉っていうふうに使うわけです。行政的っていいますか、国家的区分では、この辺で、だいたい分かれていて、こちらはまだ、日本ではないそうで、こちらの人から見ると、ここからこっちはバラ色に見えるっていうわけです(会場笑)。
 はじめに、取り上げる角度ってことになるわけですけれども、つまり、〈南島〉というのは、日本の民俗学、あるいは、文化人類学なんかでは、つまり、宝庫だっていうふうにいわれているところで、さまざまな古い遺習みたいなのが残っているわけですけど、われわれが、ここで取り扱う場合には、まったくそれと違うってこと、つまり、違う理論的視点をもっているってことを、まず前提としなければならないというふうに思います。前提としての、そういう理論といいましょうか、立脚点といいましょうか、そういうものを、まずはじめに申し上げなければならないっていうふうに思います。
 そうでないと、やはり、〈南島〉を取り扱う、古い風俗、習慣が残っていて、文化人類学、あるいは、民俗学的なフィールドワークには、たいへんいいところで、つまり、宝庫であってっていうような、そういうことになるわけですけど、われわれはべつに、そういう意味合いで宝庫だとは思っているわけでもありませんし、それほど暇人でもないですから、そういう意味合いとは全く違う理論的前提を有するってことを、まずはじめに申し上げたいと思います。
 その理論的前提っていうのは、どういうふうに考えたらよろしいかと申しますと、たとえば、よく、ニューギニアの奥地にいくと、まだ石器時代そのままの未開の生活をしている、そういう種族がいるというようなことが、しばしば言われるわけです。それからまた、たとえば、サハラ砂漠の近辺にいくと、そうすると、太古の遊牧民さながらの生活をしている種族がいるっていうような、そういう言われ方をするわけです。
 こういう言われ方に、ぼくは、かねがね疑問をもっているわけです。つまり、なぜ疑問をもつかっていいますと、かりに、そういう種族が、未開の種族が、石器時代そのまんまの生活をしているっていうような、そういう種族がいたとして、ほんとうにそれは、石器時代そのままの生活をしているっていうふうに、それを取り扱えばいいのかっていうことが、問題になるわけです。
 そのときに、いつでも疑問を生ずるのは、しかし、それにもかかわらず、それは、世界史的にいいますと、世界史的現在といいますか、現在のなかに、それは存在しているわけです。つまり、そこに存在しているわけです。だから、そういう種族が存在している。そうすると、それは、その世界史的現在のなかに存在しているという意味合いを、それじゃあ、どういうふうにとらえたらいいのであろうかっていう疑問を、いつも感ずるわけです。
 それは、べつに、動物園の檻の中で、動物を飼っていて、飼育していて、そして、それを観察するっていうような観点からいきますと、これは、ニューギニアの奥地にいけば、石器時代さながらの生活をしている種族があるっていうふうにいえるわけですけど、われわれは、現在に生きているそういう人類に対して、動物園の檻の中の動物を観察するように、それを観察するとか、記録するとか、そういう観点を、とにかく、人間的にも、思想的にも、また、理論的にも、そういう根拠をすこしも有しないというふうに、もっていないというふうに考えております。それはやはり、世界史的現在のなかに存在するっていうことが問題なんだと思われます。
で、なぜそれが、世界史的現在のなかに存在するってことは、問題であるかってことなんですけど、それを検証するのは、非常にたやすいことだと思われます。たとえば、これはまったく、仮定の問題ですけど、それじゃあ、そういう種族が、ニューギニアならニューギニアの奥地にいるとして、そこにたとえば、現在、文化的、あるいは、文明的に、最高のレベルにあるという、そういうレベルにある文化なり、それから、技術なり、そういうものが、そこに殺到したとします。殺到していったというふうに仮定します。
そうしますと、おそらくは、数十年のうちに、ニューギニアの未開の種族ですね、つまり、石器時代さながらの生活をしていたっていう、そういう種族は、数十年のうちに、世界史的現在に到達するだろうってことは、まったく疑いのないことだって思われます。
 そのときに、もちろん、内部的にいいますと、種族の内部においては、さまざまな軋みが生じ、あるいは、歪みが生じっていうことは、ありうるわけですけども、しかし、そこに未開の種族が、動物園の檻の中にいるのではないということは、まったく明らかなことで、そこに、いま申し上げましたように、最高の文明、あるいは、文化ってものが、すぐに殺到したら、すぐに、数十年のうちに、つまり、世界史的同時性ってもののなかに、投げ込まれてしまうってことが、完全に起こりうるわけです。
 これは、それほど極端な落差ってことではないのですけど、たとえば、明治初年における日本なら日本っていうのを考えても、おそらくは、それに近い経験ってものを味わったっていうふうに考えることができます。
 そのなかで、内部的に、さまざまな軋轢が生じ、軋みが生じ、あるいは、いまだに問題になっているように、西欧文明ってものは、はたして、たとえば日本のどのぐらいの深部まで到達しているのだろうか、あるいは、単なる表面的受け入れの現象に過ぎないんじゃないかっていうような問題が、依然として起こっておりますけど、しかし、少なくても、世界史的にいって、ただちに、明治以降の日本の近代国家っていうものが、世界史的にいって、最高の現在ってものに、すぐに到達してしまったってこと、このことは、まったく疑いの入れないところで、これが、現在、たとえばニューギニアの奥地に未開の生活をしている種族がいるとして、それを、動物園の檻の中に飼ってある動物のように扱うことができないということの、いわば、ひとつの根拠になりうるんじゃないかっていうふうに思われます。
 そうしますと、そこで問題になるのは、それでは、そういう種族が、たとえば、あるとして、あるいは、日本でいいますと、日本の(南島)なら〈南島〉ってものを扱うとして、つまり、〈南島〉の古い伝承、民族ってものを扱うとして、それを扱うのは、ただ、古きよき時代のなごりが、なんかのかたちで、そこに残っているっていうような扱い方ではなくて、やはり、世界史的同時性っていいますか、現在性ってものの視点ってものを包括しながら、それを扱うには、どういうふうに、扱ったらいいのかっていう問題は、依然として、問題にするに価するので、これは、つまり、文化人類学者とか、民俗学者が、よくなしえていないっていう、そういう問題であるように思われます。
 これを説明するのは、なかなかむずかしいのですけど、しかし、これを説明しないと、あとが続かないっていいますか、あとのことがお話しできないわけですから、どういうふうに、それならば、扱っていったらいいのかっていうふうに、問題を立ててみたいと思います。

3 ふたつの矛盾する見方

 それには、どういうふうに考えていったらいいかっていいますと、そのように、たとえば、現在の世界の各地にさまざまな段階で、さまざまな異なった様式で生活している種族がおり、そして、形成している国家があり、社会がありっていうふうに存在するとして、それらをどういうふうに扱ったらいいかという問題として、取り上げていったらいいんじゃないかっていうふうに思われます。
その場合に、われわれが、たとえば、歴史把握の一貫性といいますか、ひとつの一貫した視点から、歴史的に現在の世界を掌握しよう、つまり、把握しようっていうふうに考えた場合、つまり、歴史把握の一貫性っていうものを、一貫性の視点っていうものを、われわれが、たとえば、それを貫徹しようっていうふうに考えた場合に、どういうことが起こるかっていいますと、そういうような歴史把握っていうものの、一貫性の観点、そういう観点は、あくまでも、これは、主観的であり、かつ、主体的であるというふうにいえるわけですけども。
 その主体的に、歴史把握の仕方をもって、現在の世界各地に存在する、さまざまな段階の事件、あるいは、風俗、習慣っていうようなもの、そういうものを把握しようと、そういうふうに考えていきますと、それでは、そういう考え方のなかでは、世界各地で行われている、さまざまな事件とか、事実とか、生活されている事実とか、風俗、習慣とか、政治的現象とか、そういうものは、いわば、政治的現象として、単なる事実っていうふうに、存在してしまうわけです。
つまり、うまくいえてないようですけど、われわれが、たとえば、ひとつの立脚点、あるいは、ひとつの視点っていうものから、歴史把握の一貫性ってものでもって、現在の世界をとらえようっていうふうに考え、その一貫性をもし、貫徹させようとすると、世界における様々な地域において起こっている現象、それから、事件というようなものは、そういう歴史把握の一貫性の視点の外に、個々の事実として、あらわれてしまうということなんです。つまり、あらわれてしまうだろうということなんです。
 だから、昨日、ベトナムでこういうことが起こったとか、カンボジアではこういうことが起こったっていうふうに、いわば、そういう、われわれの歴史把握の一貫性という視点をつらぬこうとすると、そういう、それぞれの地域において行われている、あるいは、起こってくる事件っていうものは、個々の事実として、あるいは、もっと極端にいえば、偶発的な事実であるかのように、われわれの把握する一貫性っていうものの外に出てしまうってことなんです。
 だから、それは事実として、あるいは、報道として、あるいは、情報として、把握されるものになってしまうってことなんです。そういうものに転化してしまうってことです。
これを逆にいいますと、もし、われわれが、たとえば、ある一貫した歴史把握の視点っていうものをもとうとしないで、現在、世界のさまざまな地域で行われている現象、あるいは、歴史的な、あるいは、政治的な諸事件っていうものを、一貫性をもって把握しようとしなければ、今度は、逆に、把握しようとしなければ、われわれは、さきほどの、動物園の檻の中っていう例じゃありませんけど、つまり、文化人類学者や民俗学者がフィールドワークでやっているように、個々の事実の集合として、世界が把握されてしまうってことなんです。つまり、それ以外の把握の仕方ができないってことなんです。
 こういうことは、矛盾なんですけれど、だから、そういう場合には、わりあいに客観的に、これこれのところでは、こういうことが起こってっていうようなことで、それが記述されてしまうとか、情報として入ってきてしまうっていうふうに、そういうふうに入ってしまうわけです。
そうすると、われわれは、ただ偶発的に氾濫する、世界における様々な事件、それから、現象のなかにいるという、それだけのことのなかで、現在というものを生きているってことになってしまうわけです。
 われわれが歴史把握、現在の世界をとらえようとする場合に、われわれがもちうる視点っていいましょうか、そういうものは、極端にいいますと、そのふたつのいずれかの方法でしか、可能でないように思われるわけです。
 つまり、偶発的に起こってくる、世界の様々な地域における諸事件っていうものを、それを、いわば、非常に客観的な眼でもってそれを眺め、そして、それを情報として聞き、また、記憶として記録するっていうような、そういうかたちで、世界の事件、現在の世界がとらえられるか、あるいは、逆に、いま言いましたように、もし歴史把握の一貫性っていうものをもって、現在をとらえようとすれば、もし、われわれの歴史把握の一貫性っていうことを貫徹しようとするかぎりは、一貫性の外にあるものは、つまり、一貫性の外にいってしまうものは、まったく、ひとつの事象といいましょうか、個々の事実っていうふうに存在してしまうわけです。
そのふたつの、いわば、相矛盾するといえば矛盾する視点のなかに、われわれがあるっていうふうに、視点に陥るということは、いうことができるわけです。
 だから、われわれが、もし、日本の〈南島〉っていうものを、どういうふうにとらえるかっていった場合、もし〈南島〉をたとえば、民俗学者、あるいは、文化人類学者のいうように、これを、なんか様々な古い遺習が残っておる、ひとつの宝庫であるっていうふうにとらえた場合には、そういう捉え方のなかでとらえられる〈南島〉っていうのは、いわば、偶発的に残された、ある歴史的段階の遺物っていうものの、ひとつの集積っていいましょうか、そういうものとしてしか、これは捉えられないと思います。つまり、そういうものとして、これをとらえるっていうふうにいうやり方以外にないわけです。
 また、もし、ここにひとつの歴史把握の視点っていうものの一貫性を、〈南島〉をとらえる場合に、貫徹しようとすれば、もし、歴史把握の視点の貫徹性ってものの外に出てしまうことがらについては、まったく個々の、個々に偶然に残された、ある事実、あるいは、風俗、習慣というようにしか、存在しないというふうになってしまうわけです。
 そこの問題っていうものが、われわれが、たとえば、世界における地域性、つまり、場所性、あるいは、空間性ですけど、そういうものと、それから、われわれが、歴史把握っていう場合の、歴史的ある段階、あるいは、時間性っていうもの、そういうものをどう捉えるかっていう、そういうふたつの捉え方のなかで遭遇する矛盾のようなもので、この矛盾というものを、どういうふうに解いていったらいいか、矛盾というものを、どういうふうに考えて、はっきりとさせていったらいいかという問題が、いわば、理論的なひとつの大前提として残るんだっていうふうにいうことができます。

4 世界的同時性という視点

 そうしますと、ひとつの極限ってものを考えまして、われわれが、歴史把握の一貫的な視点っていうものを貫徹しながら、なおかつ、歴史的にも、それから、現在的にも、つまり、現在的、情況的にも、とらえられる対象っていうのは何であるかっていうふうに考えると、非常にわかりやすいんですけど。
 つまり、そういう、いま言いましたような矛盾を体験しないでとらえられる、そういうものは何だろうかっていうふうに考えていきますと、それは、われわれに最も身近なもの、つまり、たとえば、われわれが、現在、そのもとに存在している日本の国家っていうものをとらえようとする場合、あるいは、われわれが、そこからでてきたであろう、つまり、日本国家の、あるいは、日本の種族の歴史的な把握をしようっていう場合、この場合には、わりあいに、歴史把握の視点の一貫性を貫徹しながら、しかも、わりあいに、個々の偶発的な事象ってことじゃなくて、わりあいに、そういう歴史把握の一貫性の視点のなかに、歴史的段階における、個々の事実っていうものが、包括されていくっていうようなことが考えられるわけです。
 大なり小なり、そういうことができやすいっていうのは、われわれにたいへん身近であるとか、身近な事象であるとか、現に自分が存在している、そこの問題であるとかっていうふうな問題についてならば、いま言いました矛盾っていうのは、わりあいに、起こりにくいので、つまり、歴史把握の一貫性ってものを貫徹しながら、しかも、わりあいに、一貫性のなかに、歴史的な、あるいは、現在的な問題というものが、包括させることができるというふうに考えられましょう。
 つまり、やさしい言葉でいえば、非常に身近なことについてならば、一貫した歴史的な視点で、また、一貫した情況的な視点で、それをとらえながら、しかも、そのとらえる事象のなかに、あまり、もれてしまうものは、あまりないんだっていうふうに、それがとらえられると、そういうふうに考えられるわけです。つまり、身近なものほど、そういう一貫性ってものを、それから、こぼれ落ちやすいものが少なくなることができるってことがいえるわけです。これは、常識的に考えてもいえるように、具体的にもそういうふうにいえるわけです。
 ところで、これはわれわれが、身近な事象を、つまり、歴史的に、場所的には、自分が現にそこにおり、それから、歴史的には、現に自分が体験しなければ、自分の全世代が体験し、その前の世代が体験した、そういう問題についていうならば、われわれが、歴史把握、あるいは、時間的な把握ってものと、それから、地域的な把握、あるいは、空間的な把握ってものが、わりあいに、矛盾なしに、同じ一貫した視点のなかに、包括されて入ってくるっていうふうにいえましょう。
 しかし、もし、たとえば、いま言いましたように、われわれに身近ではない地域、あるいは、身近ではない歴史的な段階っていうところで起こった事象をとらえる場合には、いま申しましたように、大なり小なり、われわれが歴史把握の一貫性、あるいは、状況把握の一貫性っていうものを貫徹しようとすれば、そこから、こぼれ落ちる事象は、まったく、偶発的に起こってくる、個々の事象っていうふうに見えてしまうってことを、われわれは、大なり小なり、まぬがれないんだっていうふうにいうことができます。
 そうしますと、そういうところで、まぬがれないとき、どういうふうにして、それを解決していっているかっていいますと、もちろん、文化人類学者や民俗学者っていうのは、もともとのんきですから、それは、こういくとこういう事実があるっていうふうに、そういうふうにやってくればいいわけですが、それはそれでいいんですけど、しかし、たとえば、ベトナム戦争をどう把握するか、あれは、後進国における国家の問題であるとか、あるいは、革命の問題であるとか、そういうふうな把握の仕方っていうのをしてしまうわけです。
つまり、後進国っていうふうに、われわれがいう場合に、あるいは、未開発地域っていうふうにいう場合に、それは、知らず知らずのうちに、その地域、あるいは、その国家を、われわれは、世界的同時性としてとらえる視点を失っているわけで、大なり小なり、それを、歴史的な、ある段階、あるいは、前段階にある、そういう地点として、それをとらえているわけです。だから、そこから、後進国革命論みたいなものが起こったり、それから、第三世界革命論みたいのが起こってきたりするのです。
 つまり、われわれが、たとえば、ベトナムをとらえる場合、あるいは、カンボジアをとらえる場合、それを後進国における問題であるっていうふうにとらえた場合には、われわれは、必然的に、あるひとつの視点を、つまり、ベトナムといえども、カンボジアといえども、世界的同時性のなかに存在しているんだっていう視点を、知らず知らずのうちに、自ら放棄していることを意味しています。
 つまり、われわれは、その場合には、ある特殊地域、地域性っていうもの、あるいは、空間性っていうものに固執し、また、歴史的にいえば、歴史的な前段階のある段階、つまり、人類史のある段階、つまり、現在の最先端にある段階ではない、ある歴史的段階というふうに、知らず知らずのうちに、それをとらえているってことを意味しております。
だから、そういうところで、たとえば、後進国革命論みたいなものが起こり、後進国、あるいは、後進地域の問題っていうような、問題の捉え方がでてくるのだっていうふうに思われます。
 これの逆の場合もありうるでしょう。つまり、ことごとく、現における、世界の各地域における、起こってくるさまざまな現象ってものを、ことごとく、世界的同時性の問題としてとらえるならば、そこでは、われわれは空間性っていうものを、つまり、そこからこぼれ落ちる空間性っていうものを、あるいは、歴史的段階っていうものを、ある空間性に置き換えるっていう、そういう転換する操作っていうもの、方法っていうものを、知らず知らずのうちに、放棄していることを意味しています。
 つまり、われわれは、いつも、そういうふたつの、つまり、自分の身近なものではないというような空間性、あるいは、時間性、あるいは、別の言葉でいえば、地域性、あるいは、歴史性における諸事件に対しては、知らず知らずのうちに、ある視点を、知らず知らずのうちに切り捨て、そして、ひとつの視点から、それを単純化しようという、そういう傾向に、知らず知らずのうちに、陥っているっていうふうにいうことができるわけです。だから、そこの問題っていうものは、依然として、理論的な問題として、問題にするに価するのだと考えることができます。

5 「時空性の指向変容」という概念で〈南島〉をとらえる

 それならば、そういう把握の視点っていうものを、べつに単純化もせずに、またかつ、一方を切り捨てて、問題をとらえてしまうっていうことでもないし、また、民俗学者や文化人類学者がやっているように、動物園の檻の中の動物を観察するように、そのある地域を観察するっていうような、そういうやり方でもない、そういうひとつの前提ってものは、理論的前提ってものは、どういうふうに獲得されるだろうかっていう問題が、当然、起こってくるわけです。
その場合に、みなさんの手元に資料として差し上げましたなかに、ぼくは、時空性の指向変容っていうような言葉で、概念ってものを書いてありますけど、この指向変容っていうのは、どういうことかっていうことなわけなんですけど、もちろん、この指向変容っていうのは、ぼくの造語ですから、インセンシブ・モディフィケーションって言っといてください。
 で、それは、どういうことかっていいますと、いま言ったような、簡単にいえば、身近なことについてならば、ひとつの視点を一貫させながら、空間的にも、つまり、場所的にも、あるいは、地域的にも、それから、歴史的にも、あるいは、時間的にも起こってくる事象っていうものを、わりあいに、包括してとらえることができやすいと、しかし、もし、身近でないところ、つまり、身近でないところの地域における問題、場所的に遠いところとか、場所的に違うところ、あるいは、歴史的段階として、あたかも違うかのようにみえる、そういうところ、そういうところの問題をとらえていく場合には、しばしば、もれてくるって、歴史把握の一貫性を貫徹させようとすればするほど、もれてくる事象があると、そして、もれてくる事象は、まったく偶発的な事実としてしか、存在しないかのようにみえてしまうっていうような、そういう問題があります。
 そういう問題と、身近なものをとらえる場合には、そういうことが、わりあいに少なくて済む、つまり、過程の問題としていえば、そういうことはまったくなくて済むというような、そういう把握の仕方の、把握の場合の、誤差といいますか、距離感といいますか、誤差があるとしまして、その誤差っていうものは、なにかっていうことなんです。
誤差っていうのは、なにかっていいますと、その誤差っていうものは、おそらく、われわれが関係と言っているもの、人と人との関係とか、物と物との関係とか、国家と国家の関係とか、あるいは、地域と地域の関係とかっていう、つまり、あるいは、眼に見える経済的関係とか、あるいは、眼に見えない非常に観念的関係とか、文明的関係とか、つまり、関係っていう概念は、さまざまな眼に見えるものとしても、あるいは、眼に見えないものとしても、あるいは、近く直接的なものとしても、遠く間接的なものとしても、関係っていう概念は使いうるわけですけど、そのように考えられる関係ってものの構造ってことです。
 関係っていうものの構造っていうのが、おそらく、われわれが身近なものを、ある歴史把握、あるいは、現在把握の一貫性をもって、身近なものは、場所的にも、歴史的にも、こぼれ落ちずに、包括させることができる。それから、遠い地域の問題に対して、あるいは、遠い歴史的段階であるかのように存在するものに対しては、しばしば、それを偶発的な事実としてしか、記録できない、把握できないってことがありうるという、そのふたつの極端の間の誤差っていうものは、なにかっていいますと、その誤差は、おそらくは、いま言いましたような意味での、関係ってものの構造だということです。
 つまり、われわれが歴史把握の一貫性を貫徹させながら、場所的にも、あるいは、歴史的にも、把握を誤らないという、そういうものを、たとえば、ひとつの極端をしまして、また、われわれが、それを、場所的にも、地域的にも、それから、歴史的にも、あるいは、空間的にも、時間的にも、それを把握しようとすれば、かならず、把握の一貫性というものを把握しようとすれば、たとえば、どうしても誤差としてしか、それを把握することができない、つまり、そういう一貫性のなかからこぼれ落ちてしまう、だから、仕方がないから、それは、動物園の檻のように、それを観察するより仕方がないというふうに、なりがちになってしまう、そういうものをひとつの極端としますと、いま言いました、ふたつの極端の間の誤差ですね、あるいは、間の差です。
 つまり、単純にいえば、引き算なんですけど、引き算にした答えっていうものは、おそらく、関係っていうものの構造だっていうことです。つまり、関係っていうものの構造が、ふたつの極端の間に起こりうる誤差ですね、誤差っていうものの答えであるってことなんです。その答えは、関係の構造っていうもの、関係の構造っていうものの把握にあるってこと、つまり、関係の構造こそが、答えだっていうことなんです。
 だから、ここで、指向変容っていうふうに言っているものは、つまり、関係の構造っていうものを、把握するっていうことのなかで、あらゆる時間性っていうものは、あるいは、あらゆる歴史的段階っていうものは、あらゆる地域的段階に、そして、あらゆる地域的段階っていうものは、あらゆる歴史的な段階に、あるいは、あらゆる世界的な共時性ってものは、あらゆる世界的な特殊性ってものと、転換することができるってことです。
 それを転換するためには、いま言いましたような意味合いで出てくる答えとしての関係の構造っていうものを、把握すればよろしいということなんです。そのふたつの、そういう転換の概念としてでてくるものが、ここでいう、指向変容ってことです。だから、あらゆる地域性、あるいは、歴史性っていうものは、ある地域性、あるいは、歴史性っていうものの、指向変容として考えることができるということです。
だから、指向変容の実体である、関係の構造っていうものを把握することができるならば、そういうことが可能なんだっていうことです。つまり、そういう概念として、言葉は造語ですけど、指向変容っていう概念を、ここで、あらかじめ考えてほしいというふうに、ぼくが提出している所以なわけなんです。
 これだけの前提で、とにかく、話し方もうまくないから、うまく続いているかどうか、別問題なんですけれども、しかし、それはそれとして、そういう前提っていうものが、必要であるということ、そして、たとえば、極端にいえば、民俗学者が、あるいは、文化人類学者が、フィールドワークでやっている、そういうやり方っていうものは、理論的に申しますと、いま言いました、われわれの理論的前提からいいますと、きわめて単純に、動物園の檻の中に、人間を飼っておいて、そして、それを観察し、記録しているか、わりあいに、まじめな人は、自分も動物園の檻の中に入って、そして、わたし一緒に暮らしましたってことで、それを観察し、記録しているか、そのいずれかであるってこと、そうでなければ、われわれは、たとえば、しばしば、ベトナムとか、カンボジアで起こる、歴史的、あるいは、現実的諸事件に対して、それは、後進国の問題だっていうような、そういうふうな言い方でいっているものは、われわれがいう、いわば、指向変容といいましょうか、そういう概念からいえば、まったくひとつの問題を切り捨てて単純化しているに過ぎないってこと、だから、そういう把握のなかからは、おそらく、問題の本質っていうのは、でてこないだろうというふうに考えられることがいえると思います。
 そこのところは、たとえば、身近といいましたけれど、われわれの(南島)を扱う場合でも、あるいは、日本の国家の現在性、歴史性ってものを扱う場合でも、しばしば、やっていることで、われわれは、その一方のあれを切り捨てれば、コスモポリタニズムってものになるか、あるいは、ナショナリズム、もっと極端にいえば、ウルトラナショナリズムってものになるか、どちらかであるってことです。
 つまり、われわれが本来的にもっている、明治以降にもっている、われわれの把握の仕方っていうもの、つまり、われわれの身近にある、われわれの国家なら国家の歴史性、および、現在性の把握の仕方っていうものは、大なり小なり、コスモポリタニズムか、あるいは、ナショナリズム、もっと極端なウルトラナショナリズム、そういうもののいずれかであるといっても、過言ではないということ、そういうところで、やはり、依然として、たとえば、ここで申しあげますと、歴史性および地域性における変換のカテゴリーってものが必要である所以っていうのが考えられるわけです。
 それは、われわれが〈南島〉っていうものを取り扱う場合に、われわれはあらゆる政治運動家、労働運動家、それから、文化人類学者、民俗学者、そういうものの観点とまったく違うってこと、それの、まず前提ってものは、そういうところにあるということを、とにかく、いちおう、お話の前提としなければならないというふうに思います。

6 家族とは何か

 まず、そこから入っていきまして、個々具体的な問題にだんだん入っていくわけですけど、こういう概念から入っていきますと、みなさんのなかに、あるいは、学校で文化人類学の専攻してるんだとか、民俗学の専攻をしてるんだって人いると思うんですけど、まったく違うってこと、つまり、そういう概念で聞いていただくと、まったく誤ってしまうってこと、だから、そういうことがまったく違うことで言ってるんだよってことを知らないと、やっぱり、ヒステリーになるでしょ、ヒステリーになる人がいるでしょ、つまり、素人のくせになにをいうかっていう、そういうヒステリーになるでしょ、だから、それは、そうじゃないんです。まったく違うのです、観点とか、次元とかっていうものが違うのです。
 ぼくは、かならずしも、おれのほうがいいんだとは言わないですけど、個々のある部門における専門家っていうものを、けっして尊重しないわけではありませんから、だいたい、そういう人からしか、資料的には取れないですから、尊重しないわけではないですけど、混同してもらっては困るってこと、つまり、われわれの視点、ぼくらのもっている視点っていうもの、それから、観点っていうものは、まったく、そういう文化人類学とか、民俗学の、観点、視点っていうものとは、まったく違うってこと、だから、ほんとうにいいますと、全部やり直し、つまり、全部、定義のしなおしからしなくちゃしょうがないじゃないか、つまり、話が通じないじゃないかってことになるわけです。
 これは、全部にわたってやってるわけにいかないので、みなさんに差し上げました資料の項目にも書いてありますけど、たとえば、家族っていうのは何なのかっていうふうなこと、それから、親族とは何なのかっていう、それから、国家とは何なのかっていうこと、その3つぐらいのことのについて、ぼくらの考え方っていうのを、申し上げてみたいと思います。
 まず、家族って何なのかってことがあるでしょ、その場合に、たとえば、民俗学者、文化人類学者はなんと言っているかっていうことを、ちょっと書いてみましたけど、例をあげてきました、これは一例です。つまり、たまたま、ぼくが見ました文献とか、書物とか、そういうものの中からひろった、一例に過ぎないのですけど、たとえば、家族っていうのはなんて書いてあるかっていうと、これは、中根千枝さんの『家族の構造』という本のなかの初っ端にあるわけですけど、家族は、最小の、そして、第一義的な社会集団で、人類のあらゆる社会にみられる普遍的な制度である。この見解は、これまでの人類学の研究によって実証され、これについては、疑問をはさむ余地はないっていうんだから(会場笑)、だからちょっと、なんともいわれないわけです。笑っちゃうわけです。
 具体的に申し上げましょうか、家族は第一義的な社会集団って、社会集団っていう言葉があるでしょ、そうすると、なぜ、こういうことをいうとダメなのかっていいますと、ダメだとぼくは考えるかといいますと、第一義的な社会集団っいいましょう、そうすると、社会集団っていうことの定義が、今度、必要になるわけです。社会集団ってなんですかっていうふうになるわけです。
 そうすると、いや、社会集団っていうのはこうなんだ、これは疑問の余地はないと、こういうふうにされている、今度は、またそういうふうに答えるとするでしょ、そうすると、その答えのひとつの核の中に、かならず、もうひとつ、これなんですかっていう、聞かねばならん、つまり、無限に問わねばならぬ、そういう概念が、無造作に使われてるってことなんです。ということは、何を意味するかっていうと、こういう、家族なら家族の把握の仕方っていうものが、本質的でないということなんです。
 つまり、いいかえれば、動物園の檻の中にあるものを、こっちで観察しているっていうような、そういう観点っていうもの、そういう視点っていうものが、無限に問い返さねばならない概念を、無造作に使ってしまうってことの、いちばん根本にある問題なんです。
 それから、もうひとつ、ここででてくるので問題なのは、普遍的な制度でっていうでしょ、普遍的は、まあいいんですけど、制度でっていうでしょ、制度ってなんですかって、今度はなるわけなんです。そうすると、制度っていうのは、これこれだっていうふうに、たとえば、答えるとするでしょ、そうすると、ぼくの考えでは、その答え方のどこかしら核の中に、やはり依然として、それは何ですかっていうふうに問わねばならない問題っていうのがでてくるのです。つまり、これは、無限に問わねばならない、無限に問い返されねばならない、そういう概念が無造作に使われるってことが起こりうるのです。
 それは、なぜ起こるかっていうと、やはりおなじように、いま申しましたように、家族っていうものを、あたかも、動物園のなかにいる動物を観察しているっていうような、そういう視点で、家族っていうものをあつかおう、あるいは、定義しようって考えた場合に、そういうことが、かならず起こるわけです。
 それで、そのあともみますと、人類学の研究によって立証され、これについては疑問をはさむ余地はないっていうんです。だけど、ぼくは知りませんよ、人類学なんていうのは、研究なんて知りませんけども、しかし、もし、人類学っていうものが、いま言いましたようなことを、疑問の余地をはさむ余地がないっていうふうにしか、人類学の研究がなされていないとするならば、そういう学問っていうのはダメだっていうことです。つまり、そういう学問っていうのは、はじめっからダメなんだっていうことなんです。
 つまり、はじめっからダメだっていうことは、なにかっていうと、記録としてしか採用できないということです。それは、学問というものの根底にある何かがないんだっていうことを、ぼくは意味しているっていうふうに思います。
 だから、ここでは、無限に問い返されねばならない、疑問を差しはさむ余地がないとは、どういうことですかってこと、たとえば、人類学の研究によってっていうけど、人類学の研究とはどういうのですかって問わねばならない、つまり、無限にそういう問いを発しなければならないって問題が、このなかには含まれているってこと、そういうことが、ここにはあるわけなんです。
 だから、そういう問題については、まったく、われわれは観点を異にするってことを申し上げたいと思います。だから、われわれが家族っていうものを定義する場合には、非常に単純なんです。つまり、家族とはなにかっていうと、それは、人間がっていうといけませんから、人間の個体がといいましょう、人間の個体が、性として、セックスです、性としてあらわれざるをえない場面では、性としてあらわれざるをえない場所であるってことです。つまり、人間が、男または女として、あらわれざるをえない場所なのです。
つまり、人間が、男または女としてあらわれざるをえない場所とは、ごく一般的にいいますと、人間の個体が、自分以外の他の個体っていうものと、さきほどのあれでいいますと、関係する、つまり、関係づけられる、そういう世界では、人間は、性として、セックスとしてあらわれざるをえない、つまり、人間が、男または女として、あらわれざるをえないわけなのです。
 だから、そういう世界ってものが、ひとつの現実的な場面っていうもの、場所っていうものを、獲得したとすれば、それが家族であるってことなんです。だから、家族の本質ってものは、依然として、セックスだってこと、セックスの関係であるってこと、そういうことを、ぼくらは申し上げたいと思います。
 つまり、そういうふうに申し上げますと、絶対に、ぼくの考えでは、それならば、セックスとはなんですかって、ぼくは問われる必要は、無限に問われる必要は、絶対にないと思っています。だから、そういうものが、人間の個体が、男または女としてあらわれざるをえない、そういう世界ってものがあるわけなんです。
 そういう世界が、現実的な場所をもった場合に、それが家族っていうことです。つまり、それが、家族っていう概念の、家族っていうものの本質であるってこと、そういうふうに申し上げれば、まったく十分だっていうふうに思われます。

7 親族体系は家族と国家を媒介する

 それから、もうひとつは、つぎに、親族ってことなんですけど、親族ってことも、ちょっと話がそういうことにはいっていきますから、当然、はいってきますから、やはり、申し上げたいと思います。これも、偶然、ぼくが読んでいた文献とか、書物、そういうもののなかの一例に過ぎないので、べつに、中根千枝さんに恨みをもっているわけでもなんでもないですし、蒲生さんに恨みをもっているわけでもなんでもないですから、そのことは、あらかじめお断りしておきます。
どう書いてあるかっていいますと、親族の本質は、人類に普遍的な、親たちと子どもたちの間の親子関係、生物学的血縁関係とはかぎらない、認知の結果として、出身を共通にする関係だと、出身の共通は、ふたりの個人が、一方が他方の子孫である、それじゃなければ、ふたりが共通の祖先をもっているにも妥当するっていうふうにあるんです。
これは、みなさんわかりますか。ぼくは、こんなこといってもらいたくないと思うんですけど、だけども、こういう言い方っていうものは、必要な世界があるってことは、やっぱり、知っておいたほうがいいと思います(会場笑)。しょうがないです。
 これだって、相当、蒲生さんの「日本の親族組織」っていう論文は、それ自体でいえば、たいへんいい論文で、たいへん参考にさせていただいた論文で、ありがたいわけですけど、しかし、その場合に、親族組織っていう場合に、親族とはなんだってことは、いわなければならないでしょう、そうすると、こういうふうに言われているわけですけど、こういうふうに言われ方のなかでも、やっぱり、専門家の世界、つまり、文化人類学の世界では、相当な蓄積の結果、こう言うより仕方がないみたいな感じでもってでてきている提示だと思います。
 しかし、ぼくは、こういうのはまったく関係ねえよっていうふうに言うより仕方がないわけで、つまり、どうしてかといいますと、ぼくならぼくの親族の定義をしてみましょうか、親族っていうのは何かっていいますと、やっぱり、セックスなんです。セックスの関係です。しかし、それならば、家族っていう概念と、親族っていう概念と、どこが違うかってことがあるでしょ、その場合に、おそらく、こうなんです。家族っていう概念においては、セックスにおけるインセストっていうふうにいってる、つまり、タブーです。タブーの概念っていうものが、そんなに含まれていないのです。
つまり、セックスにおけるタブーの関係が含まれていないっていうと、みなさんはまた誤解をされるかもしれないですけど、それならば、おれとおれの弟は、セックスの間のタブーっていうのはねえのかとか、おれと妹の間にはタブーはねえのかなんていうふうに言われると困るわけです。
困るから言っておきますけど、セックスっていう概念は、いわゆる性行為っていうふうに言われている、つまり、生理的な意味での性行為っていう概念と、それから、もうひとつ、観念における性っていうことが含まれるわけです。あるわけです。
 つまり、自分と弟の間とか、自分と妹の間っていうのは、もちろん、生理的な意味での性的な関係っていうのはないわけですけど、しかし、観念における性的な関係っていうのはあるわけです。
 それは、どういうかたちであらわれるかってことは、もちろん、個々具体的でありましょうけど、しかし、ぼくのいっている性っていう場合には、けっして、生理的な意味の性関係っていうことだけを意味しているのではなく、性っていう概念自体が、観念における性関係っていうのを、もちろん、包括されている概念として使っているわけです。
だから、極端な場合をいいますと、観念における性ってものは、極端な場合をいいますと、生理的な男性、あるいは、生理的な女性っていうものと、観念的な女性っていうものと、観念的な男性っていいますか、そういうものとは、まったく違うっていうふうにいっても、極端な場合にはいいっていう概念が生まれてきます。
 つまり、生理的に男性であるものは、観念的に男性であるっていうふうには、全然かぎらないってこと、われわれが性っていう概念を、観念を包括的に含めて、規定する場合には、その場合の、観念的な性ってものは、かならずしも、生理的な性っていうものと、関係が入れ替わっていたって、いっこう差支えないってこと、つまり、ということはまったく、観念的な性という概念は、ぼくらの言葉でいえば、対なる幻想って観念なんですけど、それは、いわば、生理的な性っていう概念と、出どころが違うってこと、出どころが違うってことは、軸が違うってことです。機軸が違うってことです。
 だから、生理的な意味での男性が、観念的な意味での男性として現れるか否かってことは、まったく別問題であるってこと、そういうことを、あらかじめ、お含みおき願って、それで、つまり、家族における性っていうものと、親族という場合における性っていうものとは、どこが違うのかっていうと、おそらくは、禁忌っていいますか、インセストっていいますか、つまり、禁制っていいましょうか、つまり、タブーです。タブーっていう概念が、家族における性っていう場合には、タブーっていう概念が含まれていないってこと、それから、親族っていう概念は、性的な親和っていうもの、つまり、観念的な意味を含めての親愛っていいますか、愛情でもいいんですけど、そういうものと同時に、性的なタブーっていうものが、非常に基本的なものだ、つまり、本質的なものだっていうこと、つまり、性における親和っていうものと、それから、タブーっていうものが、ともに、二律背反であるか、あるいは、ある場合には、同じであるかどうか、そういうことは、個々別々でありうるとしても、いずれにしても、性の関係における禁制、タブーっていうものと、それから、親和っていうもの、親和感、あるいは、愛情でもなんでもいいんですけど、親和性っていうものとか、ともに、本質をなしているもの、つまり、それらを本質として展開されるもの、それが、おそらく、親族っていうものの本質なんです。
そして、それが、たとえば、具体的にあらわれれば、おれのところは本家で、あそこは分家であるとか、あいつは、おれの叔父さんであってなんとかであるとか、あれはおれのいとこであるとかっていうのは、いわば、個々具体的な場面ででてくるでしょう。そういう問題としてでてくるのです。
しかし、本来的なものは、なにをもって本来とするかとして、きわめて簡単であって、単純であって、それは、おそらく、性における親和っていうものと、タブーっていうものが、ともに、本質として、親族体系の、あるいは、親族組織の展開に対して、ともに、本質的にはたらくっていうことです。それが、おそらく、親族っていう概念と、家族っていう概念とが、異なっているところだっていうふうに考えられます。
 この相違ってものは、簡単に考えますと、たいしたことないように思われるかもしれませんけど、たいへん重要な意味あいをもつというふうに思われます。つまり、なぜかと申しますと、われわれは家族概念、つまり、家族というものの集団というもの、あるいは、家族というものが形成する集落、あるいは、村落というものは、けっして、国家とか、共同体っていうものにいきつかないっていうふうに考えています。
つまり、家族という集団がどんなに集まろうと、それは、国家とか、あるいは、共同体というものには、到達しないんだっていうふうに考えています。その場合に、しかし、国家、あるいは、共同体というようなものと、家族、あるいは、家族の集団っていうもの、集合っていうもの、そういうものとの媒介をなす、その概念っていうものは、おそらくは、親族っていう概念なんです。あるいは、親族組織、親族体系っていう概念なんです。
 この親族体系、あるいは、親族組織っていう概念が、おそらく、家族っていうものと、あるいは、共同体とか、国家っていうもの、あるいは、制度っていう概念でもよろしいのですけど、制度っていうものとを媒介する概念だっていうふうに考えます。これは、のちに詳しく申し上げることができるだろうと考えます。

8 国家と共同体は同じとは限らない

 ひとまず、国家っていうものの定義にいきましょうか、これは、やはり、書いてみましたように、「筆者の想定する国家像を提示してみよう」っていうふうに、鈴木満男さんが書いてるわけです。(1)は何かっていうと、食料生産革命以後の社会発展のある段階において成立した高度の政治組織である。(2)は、地位と階層の秩序が確立している。(3)は、親族集団が、その団体性を失って、後退して、それに代わって、純粋に、公的、政治的な関係が前面にでてくる、王室氏族の果たす役割は、大幅に減ずるという現象はその一例であると、(4)に、公的、政治的関係は、主として、地域、行政地区としての原理の重視となってあらわれると、(5)王室親族集団に代わる支配、行政の組織として、官僚制が成立し、発展する。っていうふうに、そういうふうに、国家像っていうものを、そういうふうに規定して、提示してあります。
 だけど、ここでもまた、さきほど、家族の場合も申し上げましたとおり、疑問の百出というわけで、食糧生産革命ってなんですかっていうこともありましょうし、また、高度の政治組織であるっていう、高度ってなんですかっていう、それから、高度ってどれくらいのことをいうんですかっていう、そういうことがあるでしょ、そういうことについて、答えると、答え自体が、国家っていうものをまた、前提としなくちゃ答えられないってなってきます。
 つまり、これも、全部の項目にわたった無限の問い返しが可能です。無限に答えれば、無限に問い返される、そして、ついには果てしないということ、つまり、果てしなく項目が増えていくだけであるという、そういうふうな定義であるってことはまちがいないっていうふうに思います。
 つまり、このような定義っていうものが、学問の基礎となっているってことは、そういうことは、わたしが関知していない、そういうことには関知しないのであって、つまり、それは、あるひとつの専門的分野の問題であって、わたくしは、そういうことには関知しません。つまり、わたしは、そういうふうに問題をとりあげようというつもりは、すこしもありません。
 わたしたちが国家っていうものを定義するのは、非常に簡単なことなんです。簡単なことで定義しましょう。つまり、国家っていうものは何か、それは、どういうことかっていうと、家族、または、家族の集団の共同性っていうものの次元を、共同性っていうものがいささかでも離脱したときに、われわれは、それを国家と呼ぶっていうふうに、まず、そういうふうにしていきます。
 この規定は、家族、または、家族の集団の共同性っていうもの、具体的には、おれは本家であると、あそこは本家でないと、あっちには分家があると、あっちには叔父の家があるっていうふうに、そういうふうに、村落が、あるいは、集落が形成されていたとします。そこでは、まず、共同体ってものは、ある共同性が成り立つでしょ、それは成り立つでしょうけど、その共同性の次元が、そういう家族、または、家族の共同性の次元を離脱する、つまり、その次元にあるかぎり、国家、あるいは、共同体っていうのは、絶対に生成しないってことです。
 だから、その共同性の次元を、いささかでも、離脱して、共同性が存在しえたとき、それは、国家というふうに、まず規定しておきたいと思います。だから、これを国家と呼ぶと言ったからといって、それじゃあ、あらゆる共同体は、あるいは、共同性は、家族、または、家族の集団の共同性を離脱すれば、国家を形成するか否かってこととは別問題です。つまり、形成しうる可能性があるってことです。いつでも可能性があるんだってこと、つまり、国家が形成される可能性ってものは、家族、または、家族集団の共同性が、いささかでも離脱したとき、いささかでも、それ以外の要素として、共同性が成立したときに、それは、国家が成立する前提があるんだ、可能性はあるんだってことです。だから、われわれは、それを、可能性を含めて、それを、いわば、国家っていうふうに呼ぶっていうふうに、規定したいと思います。
で、そうしますと、ここで、共同性っていうこと、あるいは、共同体ってことの問題になってきます。共同体とは何かっていう問題は、これはまた、専門家が、さまざまな規定の仕方をしているでしょ、しかし、われわれは、ただ簡単に、こういう問題をとりあげればいいわけです。
 われわれが共同体っていう場合に、われわれが共同体っていう概念を、国家っていう概念と、同等、つまり、イコールとして、同等として使っているかどうかってこと、あるいは、共同体っていう概念を国家っていうものより狭い概念として使っているか、あるいは、広い概念として使っているかってこと、つまり、そういうことだけを申し上げれば、おそらく、よろしいんじゃないかっていうふうに思います。
で、われわれは、共同体ってものを、国家っていう代わりに、共同体って呼んでいるに過ぎない、つまり、国家と共同体がイコールであるっていう概念で使っている場合も存在します。この場合には、人間の、さきほどいいました、家族、または、家族集団の共同性を、いささかでも離脱した、そういう共同性が、たとえば、法的に、あるいは、宗教的に、あるいは、風俗、習慣的に、ある規範っていうものを成立せしめたとします。
 われわれは、そういうふうに成立された規範、あるいは、法でもいいですけど、法というものの、規定する大きさ、こういう大きさっていう概念を誤解されやすいけど、まず、勘で考えてください。つまり、大きさというものが、われわれが国家、あるいは、国家における機関っていうもの、国家機関っていうもの、あるいは、国家における、さまざまな公的機関っていうもの、そういうようなものが行使する規範の範囲と、まず、同等であるというふうに考えられるような規範を、成立せしめていたとしたらば、われわれは、共同体っていう概念と、国家という概念を、イコール同等として、使っているわけです。つまり、使えるわけですし、使っているわけです。
 しかし、しばしば、共同体っていう概念と、いいかえれば、家族、あるいは、家族集団の共同性ってものを、いささかでも離脱したところに成立する人間集団の共同性っていうもの、そういうものの規範が、国家的規範っていうもの、あるいは、国家的規範っていうものと同等に、つまり、同じ大きさにあらわれるとはかぎらないということがありうるわけです。
 これは、最もいい例でいえば、つまり、わかりやすい例でいえば、現在における、国家と市民社会とか、日本の資本主義社会、つまり、日本の国家っていうものと、日本の市民社会というものとの関係ってものでいってみればいいわけです。
 まず、日本の国家っていうものを、たとえば、法的な意味での国家で、まず代表させるとして、そこで、憲法があり、それから、さまざまな法律がありっていうようなかたちで、さまざまな規定がなされています。その規定に対して、われわれが社会生活をしているのは、いわば、市民社会のなかにおける生活をしているわけです。市民社会における中核っていうものは、経済社会構成っていうふうに、考えることができます。つまり、経済社会構成の場面っていうものを、市民社会の中枢っていうふうに考えることができます。
しかし、とにかく、われわれが市民社会のなかで生活していて、しばしば、たとえば、国家的法規、つまり、法律っていうようなものを、念頭におかないで、生活している場合も、そんなものの規定をはみ出して生活している場面っていうのもありうるわけです。つまり、それをいいかえますと、市民社会ってものの概念は、国家という概念よりも大きいわけです。
 それは、いま言いましたように、一例でいえば、たとえば、われわれの市民社会における、つまり、経済社会構成を中枢とする、市民社会における、われわれの生活過程っていうもののなかで、しばしば、国家っていうものの、さまざま規定する法規っていうもの、あるいは、法律的権利義務っていうもの、そういうものを念頭におかなかったり、そういうものを、べつに、はみ出して、つまり、おれは行動してるけど、これはどういう規定にもない、そういう規定の仕方で、われわれは、生活を繰り返すことができるっていうようなことがありうるでしょ、そのことは、なにを意味するかっていうと、市民社会っていう概念のほうが、国家っていう概念よりも大きいってことを意味しています。
 つまり、いま言いました、共同体っていう概念と、その国家っていう概念っていうものは、大きいとか、小さいとか言ってる場合も、ほぼそれと類推していただければ、結構なことであって、そういう意味合いで、共同体っていう概念と、国家っていう概念は、同等にあらわれるとは、つまり、イコールとしてあらわれるとは、かならずしも、かぎらないということ、あるいは、イコールとしてあらわれたなかでも、やはり、狭い意味の国家っていうものを想定しなければならないとか、広い意味の国家っていうものを想定しなければならないとかっていうようなことが、しばしば、生ずるということがいえます。
 つまり、国家にしろ、共同体にしろ、その本質っていうものは、ぼくらの言葉でいえば、共同の幻想っていうもののなかにあるわけですけど、しかし、共同の幻想といえども、われわれは、それを広く使っているか、同じものとして使っているか、あるいは、狭く使っているかってことはありうるわけで、国家=共同体というふうに、かならずしも、使っていない、あるいは、使われない場合がありうるということを知っていただければいいというふうに考えます。

9 親族は兄弟姉妹の関係を軸に展開する

 それでは、これで申し上げますと、(5)の問題に入っていくわけですけど、これは、それじゃあ、国家の成立っていうふうに考えてみます。さきほど申し上げましたように、家族、あるいは、家族集団っていうものの共同性と、それから、いささかでも、その集団の共同性っていうものを離脱したものとして、たとえば、国家っていうものを規定すると申し上げましたけれど、そういう国家とを媒介するものは、何なのかっていった場合に、それは、親族、あるいは、親族の体系、組織ってものが、重要な役割をもつんじゃないかっていうふうに申し上げましたけれど、そのことを、やや詳しく申し上げてみたいと思います。
 それは、こういうことなわけです。さきほど申し上げましたように、たとえば、親族の組織、あるいは、体系ってものが展開されていく場合に、それは、本質的にいえばセックスなんですけど、セックスの関係の拡張にほかならないわけですけど、そのセックスの関係は、セックスの親和っていう、親和性、あるいは、共和制っていいますか、そういうものと、それから、セックスにおけるタブーっていうものとが、ともに、非常に強力にはたらくっていう、つまり、それを、てこにして展開されるものだっていうふうに申し上げましたけれど、この展開のてこにおいて、最も基本的な関係っていうのは、なにかと申しますと、それは、家族における兄弟姉妹の関係だっていうふうにいうことができます。
 兄弟姉妹の関係っていうのは、どういう関係かと申し上げますと、これは、さきほどから申し上げましたとおり、これにおける生理的な意味での、性行為のタブーっていうのは、そうとう古い段階から存在するわけです。これは、母と子の間における生理的な意味での性行為っていうもののタブーと同じくらい、非常に古い段階からあるというふうに想定されてもいいと思います。
 そのように、古いときから、生理的な意味での性関係ってもののタブーは存在していると、しかし、それにもかかわらず、観念的な意味でのっていいますか、精神的な意味といいましょうか、どちらでもよろしいわけですけど、そういう意味での親和性っていうものが、家族のなかでいちばんもちやすい関係っていうのは、なにかって考えた場合に、まず、可能性として考えられるのは、兄弟姉妹の関係だっていうふうに考えることができます。
 こういうことは、さきほどから、繰り返し、繰り返し、申し上げているように、誤解していただくと困るわけですけど、おれのところの家族はそうじゃないと、おれと妹はものすごく仲が悪いんだっていうような、そういうふうな人がおられるかもしれません、ぼくは、そういうことを言っているのではない、つまり、個々具体的に、そういうケースがありうるとか、そういうことを言っているのではないということ、そういう次元でいっているのではないということを、あらかじめ、お含みおきを願います。
 もしも、さっき言いましたように、具体的な、あるいは、現実的な、あるいは、生理的な性行為としては、かなり古くからタブーであるにもかかわらず、なおかつ、家族内において、観念的な、あるいは、精神的な意味での、親和性ってものが、かなり保存されるっていうような、そういう関係っていうのを、考えてみますと、それは、兄弟姉妹の関係だっていうふうにいうことができます。
 だから、家族における兄弟姉妹の関係っていうものを、てこにいたしますと、そうすると、家族分裂が起こる場合、つまり、兄弟姉妹のいずれかが、あるいは、いずれもが、自らが婚姻を結び、つまり、他の男性、または、女性と結婚して、たとえば、地域的にも、つまり、空間的にも、あるいは、関係としても、たいへん遠ざかったっていうかたちを考えます。
 そうすると、遠ざかっていますから、いま言いましたように、具体的、生理的な意味での、性的な関係っていうのは、ますます、存在しうる可能性は、ますますなくなるわけです、ますますないわけです。それにもかかわらず、なおかつ、もし、性的な意味での親和性っていうもの、あるいは、性的観念としての親和性っていうものが、もし、一家族ごとについて考えうるとすれば、やはり、依然として、兄弟姉妹の関係だっていうふうにいうことができます。個々に、別の家族として分裂した場合でも、あるいは、地域的にかけ離れた場合でも、そういうことがいえるわけです。
 そこで、兄弟姉妹の関係を、てこにしますと、ひとつの家族っていうものの単位として考えて、ひとつの家族が、地域的にも離れうるし、また、関係としても、つまり、性的親和関係としても、離れうるにもかかわらず、しかし、それにもかかわらず、究極的には、断ち切られない親和関係、つまり、性的観念の親和関係ってものを、わりあいに、永続終身の関係ってものを考えますと、それは、兄弟姉妹の関係だっていうふうに、申し上げることができると思います。
 この関係っていうもの、つまり、家族っていうものの、分解過程において、なおかつ、いわば、生理的な意味での性のタブーっていうものは、ますます強固に、かつ、可能性としては、ますます減少するにもかかわらず、親和関係としては、ゆるくなっても、わりあいに永続しうるっていうような、そういうあれを考えてみますと、それは、兄弟姉妹の関係だっていうふうにいうと、そうすると、家族の分解過程っていうもののなかで、依然として存在しうる、いわば、血縁の観念といいましょうか、あるいは、観念の血縁性といいましょうか、そういうようなものは、兄弟姉妹関係を軸として展開される、この展開の可能性、あるいは、拡張の可能性ってものは、個々の家族、または、個々の家族集団っていうものの次元を、はるかに、突破するだろうというふうに考えることができるわけです。

10 姉妹がいない場合はどうなるのか-伊藤幹治さんの八重山群島の研究

 こういう視点をもとにして、親族の関係を考察したなかで、ぼくがみると、たいへん本質的なことをやっているなっていうふうに思える論文は、『民俗学研究』の1962年12月号の、伊藤幹治さんの「八重山群島における兄弟姉妹を中心とした親族関係」っていう論文があります。
で、この論文の問題意識は、ぼくは、たいへん立派なものだなっていうふうに思います。つまり、親族組織っていうもの、あるいは、親族関係っていうものを扱う場合に、一般的な扱い方っていうのは、父系的であるかとか、母系的であるかとか、あるいは、双系的に展開される親族関係であるかっていうような問題意識がひとつ、それから、宗教組織として、どういうような結合を結ぶかっていうような、そういう問題意識がひとつ、そういう問題意識でもってなされるわけです。
 父系を中心として展開される親族組織、あるいは、母系を中心として展開される親族組織、あるいは、この南島の場合には、双系といわれている、つまり、父方における親族と、母方における親族とは、かなり同等にあつかわれているというような関係があるわけですけど、しかし、ぼくは、そういう問題意識よりも、親族関係をあつかう場合に、何を中心として、何を核としてあつかうかっていう問題意識として、兄弟姉妹を中心としたっていう親族関係っていう扱い方は、ぼくの考えでは、たいへん本質的な扱い方だっていうふうに思われます。
 この兄弟姉妹を中心とした親族関係っていうものの拡大の仕方っていうものは、いま申し上げましたとおり、いわば、兄弟姉妹婚の禁制、タブーっていうものと、現実的タブーっていうことと、観念的親和性っていうこと、その矛盾、あるいは、二律背反、あるいは、フロイト流にいえば、アンビバレンツってことですけど、そういうことを本質として、親族関係っていうのは、展開されていくわけですけど、その展開の場合に、たとえば、伊藤さんが、八重山の問題として、適切に指摘しているのは、兄弟姉妹関係っていった場合に、もし、兄弟姉妹がいなかったらどうするんだって、いない場合はどうなるんだってことについての考察があります。
そうすると、いない場合について、伊藤さんは、いくつかの例をあげておられます。そのひとつの例は、たとえば、姉妹がいなかったと、そういう場合には、どういうふうになるかっていいますと、父方のほうの伯母と叔母、つまり、父の姉か妹であるおばです。それが、兄弟姉妹関係における姉妹の役割をするってことがあるってことを指摘しておられます。
それから、兄弟を中心として考えて、姉妹もいない、それから、父の姉妹もいない、そういう場合にはどうかっていうと、父の兄弟の娘ってこと、つまり、父の兄弟の娘との関係が、それが、兄弟姉妹関係の代理をなすというふうな例がみられるっていうふうに指摘しておられます。
 これは、わりあいにありうることです。ありうることですっていうのは、理論的にありうることで、こういう姉妹がいない場合に、父方の伯母、叔母、つまり、歳上の伯母、歳下の叔母、それから、それもいなかった場合に、父の兄弟の娘との関係が、姉妹の代理をするっていうような、そういうあり方っていうのは、これは、なにかっていうと、これは、理論的にいいますと、すこしばかり、父系制っていいますか、つまり、男系です。そのほうが、すこしばかり、有力な親族体系をもっている社会ではありがちだっていうふうに理論的にはいえます。つまり、父方のほうが、少しばかり優勢だっていいましょうか、力といってもよろしい、親和性があるといってもよろしいわけですけど、そういう社会における、兄弟姉妹関係を軸とした、親族問題の場合に、いまいったような事例があらわれるって、理論的には指摘することができます。
 伊藤さんは、それだけじゃなくて、もうすこし、例外的な事例があるっていうふうに指摘されています。しかし、例外といっても、いま言いました、兄弟姉妹関係を軸とした親族関係っていう、そういう視点にとっては、例外的と思われることはないのです。つまり、当然、理論的にはそうなるはずだっていうふうな範囲を超えるものではないように思います。
 伊藤さんは、こう言っておられます、否定的な事例がみられるっていう、一は当人が老齢であるとか、その他の理由で、姉妹も、父の姉妹も、父の兄弟の娘なども、現存していないっていう場合にはどうするか、そういうときには、どうであるか、そのときには、姉妹の代理をするのは、自己の直系の孫娘であると認められるケースが、石垣島にあるっていうふうに言っておられます。
 それから、もうひとつ、姉妹が遠くの地域へ移住してしまったとか、死亡してしまったっていう場合に、当人の配偶者、つまり、当人の奥さんですけど、奥さんが姉妹の代行をすることがあるっていうふうに言っておられます。
 これはやはり、西表ってところでありうると、そういうケースと考えられる事例があったということ、それから、三番目に、当人に、姉妹、ないしは、父方の年上の伯母、年下の叔母とか、それから、いま言いました、父の兄弟の娘だから従妹でしょうか、従妹などがいて、いわば、兄弟姉妹関係っていうものを結んでいても、その自分の配偶者が、巫女さんのかしらであった、かなり有力な巫女さんであった場合には、自分の細君が、兄弟姉妹関係における姉妹の役割をすることがあるということを指摘しておられます。
 伊藤さんが指摘しておられる、そういう例っていうのは、事実問題としては、例外とみられるケースなんでしょうけど、しかし、いずれも、理論的には、例外的でなく、充分考えられることであるというふうに思われます。
 それから、もうひとつ、姉妹がいても、小さな、幼少であると、そういう場合には、父の姉妹だから、父親の年上の伯母、父親の年下の叔母ですね、そういう者が代理する、つまり、姉妹がいても、小さかったら、代理するような事例があるっていうふうに指摘しておられます。
 これらの事例を、例外的、あるいは、否定的な事実として、指摘しておられますけど、もちろん、理論的にいいますと、いずれも、充分、理論的に矛盾をきたさないで、それはありうることであって、いずれも、兄弟姉妹関係を中心として、親族関係の展開を考えるっていうような、そういう考え方にとって、いずれも否定的な事実っていうふうには考えられません。つまり、親族問題を、そこを中心として考えるっていう問題意識に対して、けっして、否定的な事実ではないというふうに考えることができます。

11 親族組織から国家への展開の仕方

 ところで、国家の成立ってことですけど、国家っていうのは、どうして国家にいくかっていう問題があるわけです。ひとつは、いま言いましたような展開の仕方で、親族関係を基軸にして考えられる共同性のうち、国家となりうる要素っていうものは、そのなかにないことはないのです。
 なぜならば、それは、血縁的親和性をもちながら、具体的な、あるいは、現実的な性関係としてはタブーである関係をもとにして、地域的に展開される、そういうものですから、そこで、もし、先ほど言いました、共同体、あるいは、国家に対して、その基盤である、経済社会的関係っていうようなものを考えていきますと、そこで、経済社会関係における利害っていうものを中心として結ばれる結合ってものもまた、可能性としては発生しうるわけで、それがいわば、いま申し上げました、親族の展開の仕方っていうものと、どこかで激突し、またどこかで親和し、どこかで矛盾しっていうようなかたちで、国家は形成されていくでしょうけれど、われわれが考えうる氏族制、あるいは、前氏族制っていう段階ってものの限界では、氏族共同性っていうのの限界では、いわば、親族っていうものの本質的な要素っていうものは、あんまり、消滅していかないわけですけど、だから、父系制とか、母系制とか、あるいは、父権制、母権制っていわれている要素っていうのは、大なり小なり、氏族共同体、あるいは、前氏族共同体のなかには、大なり小なり、ちょっぴりですけど、入ってくるわけですけど、しかし、それが、本来的に、もし、地域的、あるいは、経済社会的な利害関係の共同性っていうようなもの、あるいは、排他性っていうようなものから、生じてくる共同性とのぶつかりあいのなかで、なんらかの意味で、血縁性的親和性ってものが、いわば、宗教とか、風俗、習慣として保存されたとしても、制度、あるいは、政治性としては保存されないっていうような、政治的共同性としては保存されないっていうふうに考えた場合、そこに、いわば、部族的な国家っていうものを、部族制国家っていうふうに呼んでもいいんでしょうけど、つまり、部族制国家っていうような段階から、統一国家、つまり、民族国家みたいな、そういうものを想定するってことができるわけですけど。
 ここで、ひとつ問題になりうるのは、そのように、家族関係から段階をおって展開されるところで考えられる国家、あるいは、共同体っていうもの、そういうものというものの段階性の意味は、けっして、段階的具体性ってことでは、けっしてないということなんです。つまり、段階的具体性として、かならず、どんな国家であっても、国家の生成っていうもの、あるいは、成立ってものを考えてくれば、いつでも、そういう段階をおって成立するんだっていう問題を、けっして意味しないということです。
 つまり、そういうことを言っているのではないということ、だから、もちろん、個々具体的に、フィールドワーカーがいったら、こんな段階は全然ふんでいないところが、あった、あったっていうふうに、そういう例を見つけることも、もちろん、できるわけでしょうし、それから、馬鹿馬鹿しくて、こういう段階をおっていくわけがないじゃないかっていうような、そういう具体的な例を見つけだして、それを記録することもできるだろうというふうに思われます。
 先ほどから繰り返し申し上げているように、わたくしは、そういう次元で、問題を展開しているのではないということ、だから、ここで、いわば、段階として考えられるということは、段階としてそういう見解を考えられる、つまり、親族関係の展開を軸として、家族の共同性、あるいは、家族集団の共同性は、けっして、国家とか、共同体ってものに、けっしていかないのですけど。
 しかし、もし、親族関係っていうものの展開の過程で、それが、ある国家的な共同体へ転化する契機があるとすれば、兄弟姉妹の基軸が非常に重要なんだっていうような、そういうような意味合いでいう展開の段階っていうものは、ここでいわれる段階っていうのは、いわば、たいへん本質的なところで、その段階を考えているのであって、個々具体的な民族、あるいは、種族、あるいは、個々具体的な地域における民族、あるいは、種族が、全部そういう段階をふむとか、まあ、ひとつ目はとばしても、そういう段階をふむんだっていうような、そういう個々具体性ってものを、けっして意味していない。
 だから、そういうものと混同してはならないってこと、だから、もっと、もうひとついいますと、そういうことを混同することによって、こういう段階性を単純に否定してはいけないってこと、つまり、そんな段階ふむわけがないんだってことで、民俗学者っていうのは、たとえば、ぼくも、わりあいに、エンゲルスっていうのは否定するんですけど、エンゲルスは全然うそだっていうふうに否定する、しかし、ぼくも否定するけど、ぼくの否定の仕方とは違うのであって、そんなことねえじゃないかとか、そんなケースないじゃないかとか、少ないじゃないかとかいう意味で否定するので、しかし、ぼくは、そういう意味では否定しないのであって、そんなことはどうでもいいのだ、つまり、個々具体性っていうものは、これは、非常に偶発的な契機もありますし、さまざまな契機があって、さまざまでありうるってことは、まったく当然なことであるから、べつに、段階をふんで、人類の集団性ってものが発展していくわけでもなんでもないわけで、また、段階を飛ばしたって、そんなことは、当然、ありうるわけですから、そんなことは、どうでもいいのであって、しかし、われわれが、段階性っていった場合には、けっして、個々具体的にそういう段階をふんでいくんだっていう、そういう個々具体的な事例をもって、そういうものを、そういう段階性の考え方を単純に否定してはならないってこと、こういう段階性の考え方をして、つまり、人間の結ぶ共同性が、どういう段階をふむかっていう、理論的考察を、あるいは、原理的考察を否定するっていう否定の仕方の場合には、そうとう重要な根拠がいるということ、けっして、個々具体的に、どこを調べても、そんなものはないぞっていうような、そういうことで、それを否定するっていう、そういう否定の仕方を、われわれはとらないということ、われわれが否定する場合には、それを原理的に否定するのであって、けっして、個々具体的に、そういうのがあるからとか、ないからとか、そういう例外があるから、ないからってことで、そういう段階を否定するってことじゃないということを、お含みおき願いたい。
 だから、こういう段階性をもって、たとえば、氏族的な共同性が部族国家となり、それがいわば、民族国家となるっていうような、そういう段階ってものを否定してはならないってこと、それから、べつに、兄弟姉妹を軸として展開される親族関係、つまり、家族関係の次元的拡張ってことですけど、そういうものがありうるという、そういう視点に対して、べつにそうじゃないところもあるぞってことを、実例をもってきたって、けっして、そういう考え方の、本質的な否定にならないっていうこと、そういうことは、別問題だっていうこと、そういうことは混同されてはならないってことが、やっぱり、強調されなければならないっていうふうに考えられます。

12 「グラフト国家」

 国家っていうものが、たとえば、統一国家っていうもの、つまり、民族国家っていうものとして、成立する場合に、ちょっと奇想天外のように思われるかもしれませんけど、こういうことがありうるということです。
これは、(5)の国家の成立ってところで、仮に「グラフト国家」というふうに言っておきましたけど、これもまた、造語ですから、知りません、そんな概念はねえなんて言われたって、おれは知らないですから、「グラフト国家」っていうふうに言っておきましたけど、つまり、なにかっていいますと、国家っていうものは、けっして、その国家のもとにおける大衆といいましょうか、人民といいましょうか、そういうものの共同性が、いま言いましたように、だんだん、共同性を深めていき、拡張していき、また、そして、その拡張していく過程で、階級的文化がおこり、階層的文化がおこり、あるいは、経済社会構成における展開がおこり、発展がおこりっていうような、そういう様々な契機をもって、国家っていうものが成立し、そして、国家というものが交代しっていうようなことが、つまり、画に描いた餅のようにあるかっていうと、けっして、そうでないということがありうるということを申し上げたくて、ここで読む「グラフト国家」っていうふうなことを申し上げているわけです。
 それは、どういうことかといいますと、もしある段階での、つまり、さきほど言いました規定でいいますと、家族、または、家族集団の共同性ってものに、いささかでも離脱したとき、われわれは、国家の可能性、国家成立の、その共同性は、国家と呼びうるわけです。
 つまり、具体的にも、国家を結ぶ可能性があるんだと申しましたけど、そういう共同体として、もし、あるひとつの氏族国家、あるいは、部族国家っていうものが、地域的に成立していたっていうふうに仮定します。あるいは、かなりの地域を統合して、成立していたっていうふうに考えます。
 ところで、そこに、やさしい言葉でいいますと、まったく横合いからやってきて、そういうふうに成立していた国家っていうものを、掌握することが可能だってこと、つまり、グラフトっていうのは、接木ってことです。接木するっていうでしょ、つまり、なんかの木が生えていたのを、削ってなんかしたら、ゆわえていたら、こっちから出てきたっていうのがあるでしょ、そして、出てきたら、こっちのほうが、今度は、本筋みたいになっちゃうっていうようなことがあるでしょ、その接木っていうのが、国家にとっては可能だっていうことです。
 国家っていうものは、人民がおり、人民が長い歴史をもって、そこに住みつき、土着し、そして、いろいろな風俗、習慣、強固なあれをもちっていうような、そういうふうにもっている、そういうものの共同性っていうものが、たまりにたまって、あるいは、上へ上へと、展開、進化していって、つまり、高度に洗練されていって、それは、ひとつの部族国家、あるいは、氏族共同性、あるいは、部族国家、あるいは、統一国家っていうものを成立せしめるっていうふうに、そういうふうに考えたら、まちがうことがあるっていうことです。
 つまり、まちがうことがあるのであるっていうこと、それで、そういう意味じゃなくて、まったく、木に竹をついだっていう言葉がありますけど、まったく横合いからきて、国家っていうものを掌握、成立せしめることは、可能だっていうこと、つまり、そういう接木することが可能だっていうことを申し上げたいわけです。そういう国家っていうのは、ありうるってことを申し上げたいわけです。あるいは、これは、それこそ、個々具体的に、検証しなければなりませんけども、そういう国家のほうが多いのではないかっていうふうに、人間の歴史っていうのは、多いのではないかっていうふうにも言いうるというぐらいにありうるってこと、そういうことを申し上げたいわけです。
 つまり、われわれの国家観念、つまり、国家生成観念のなかには、知らず知らずのうちに、古くから住みついているやつが、こういうふうにしてっていって、そのなかの有能なやつが、となりのやつをギュウギュウやって、そのうち、国家をつくったっていうような、そういう観念が無意識のうちにあるのです。それが国家だっていう考え方っていうのは、無意識のうちにあるわけですけど、国家っていうものは、けっして、そうとばかりは限らないということ、まったくそんなこととは関係なく、横あいからきて、掌握し、統一せしめることが可能だっていうこと、それは、種族的に異なったり、地域的に異なったりするっていうような場合も含めて、それは、ありうるってことを申し上げたいわけです。
 そういう国家、接木でできあがった国家っていうものを、仮に、「グラフト国家」っていうふうに考えますと、「グラフト国家」っていうふうに呼んだとしますと、「グラフト国家」っていうのはありうるってこと、あるいは、かなりな数で、それはあるんだってこと、ぼくは、べつに、文献をあさったわけではないですけど、そういうことは、かなりな数でありうるってことを申し上げたいと思います。
 つまり、種族が異なり、そして、言語が異なり、文化が異なり、その他、風俗、習慣が異なるっていうようなやつが、いきなり、横あいからパッときて、そして、ある国家っていうものを掌握し、そして、それを統一することが可能であるってこと、そういう事例は、かなりな数でありうるだろうということ、理論的には、予見できるということ、つまり、理論的には、そういうことは言いうるということ、また、実際的に調べたわけではありませんけど、そういうことは、かなりな数であるだろうということを申し上げたいわけです。
そんなことは、どうして可能なのかってことは、これは、たいへん重要でもあり、また、興味深い問題でもあるわけですけど、まず、その興味深いかどうかってことは、別としまして、そういうことがありうるということだけは、申し上げておきたいと思います。
 だから、たとえば、日本における天皇制ってものの、天皇制権力というものの、種族的な出身っていうもの、つまり、何人であるか、種族として何であるか、どこからきたかっていうことも、あるいは、どういうやつかっていうことも、ぜんぜん、いまの段階では、断定することができないということ、つまり、わからないということ、そういう段階に、たとえば、あるわけです。断定できないのです。
 つまり、さまざまな説はありますけど、さまざまな説の、いちばん極端な説を申し上げますと、もともと出雲族みたいなものを、典型的な例として、もともと、日本列島に構成していた、国家以前の国家を成立せしめていたものは、たとえば、南支那のある種族だっていうふうにいたとすると、それに対して、天皇制の種族っていうのは、北方から来た少数の霊能者、霊能者っていうのは、まじないのうまいやつってことでしょうけど、その少数の霊能者集団であって、それが、畿内へ入ってきて、頂点のほうだけを、霊能的に、宗教的にちょろまかして、統一国家をつくったっていうあれもあるぐらいです。
 あるいは、江上さんの騎馬民族説のような、大陸からやってきたんだっていう説もあるわけです。また、朝鮮系であるという説もあるわけですし、畿内勢力だっていう説もあるわけですし、それらについて、断定すべき段階には、すこしもないということ、何人も断定することができないという段階にしかないということ、つまり、それらの事例からいいまして、たとえば、天皇制が、統一国家を、畿内で成立せしめたという場合に、それが、どこからきたかわからないってこと、あるいは、何人であるかわからないってこと、どういう種族であるかもわからない、それから、それは、武力をもって征服したのであるか、あるいは、宗教的、観念的に、それを掌握したのであるかもわからないということ、だから、それが、横あいから、いきなりきたのであるかどうかもわからないということ、つまり、そういうふうなことでも、いえるように、まったく横合いからきて、そういうことをやるってことは、可能であるということ、つまり、また、そういう国家が数多くありうるということ、それは、さきほどの言い方からすれば、われわれが歴史把握の一貫性っていうところから、わりあいに考えやすいだろうっていうような、日本国家の成立にとっても、いまだに、そういう統一国家を成立せしめた勢力っていうのが、何人であるかもわからないし、どこからきたかもわからないし、どうやってやったのかもわからないっていう、そういう状態にあるくらいに、横あいから、いきなりやってきてっていうようなことがありうるってことです。
 つまり、そういうことは、現在も、依然として、たとえば、アクチュアリティーをもっているってことなんです。つまり、情況的にも、「グラフト国家」っていうふうに、仮にいいますと、そういう国家の接木っていうのができるってこと、そういう国家っていうのはありうるということ、それも、しかも、かなりな数でありうるってこと、そういうことは、たいへん情況的な問題でもありうるのです。
 ぼくらは、学生さんも、この頃あまり通じてないですけど、学生さんの考え方のなかに、たとえば、機動隊が棒を10本持っていたら、11本棒を持てば勝てるんだっていう考え方があるでしょ、また、逆な言い方をすれば、棒を10本持っているやつに対しては、11本持たなきゃ勝てないんだっていう、5本じゃどうしてもダメだっていう考え方があるでしょ、ぼくは、そういう考え方は嘘だと思っているわけです。ぜんぜん嘘だと思っているわけです。そんなことは、そういうものじゃないのです。つまり、少なくとも、政治革命っていうものを、あるいは、政治的国家の掌握っていうもの、そういうものは、そういうものじゃないのです。つまり、鉄砲10丁もっていたら、おれは11丁もってこないといけないっていう、そういうものじゃないっていうことです。そういうものである場合もあります。だけれども、けっして、そういうものじゃないということ、そういうもののなかには、問題の核心っていうものは、そういう考え方のなかにはないってことがあるのです。つまり、そういうことじゃないのです。
 それがどういうことかっていうことは、そういうことは逸脱に属しますから、別問題だと思います。だから、接木した国家っていうのは、ありうるということ、それから、要約しますと、段階的に、段階的な共同性をふんで、国家っていうものを考えるってことは、理論的には、たいへん本質的なことなんですけど、それは、個々具体的な国家が、いつでもそうなっているかってこととは別問題であるってこと、それを裏っかえしますと、個々具体的な世界における国家の成立過程、あるいは、氏族の成立過程をみてみると、みんな違うじゃないかっていうふうな、こんな段階なんかふんでいないじゃないかという、具体的例をもってして、そういう共同性のある展開過程っていうものの、理論的考察を否定してはならないってこと、否定しえないんだってこと、つまり、そういうことは、別の次元だっていうことを申し上げたいと思います。つまり、そのふたつのことを申し上げられれば、いまのところの段階では、よろしいのではないかって思われます。

13 宗教性のふたつの軸-祖霊信仰と来迎神信仰

 あんまり、そういう一般論っていうことじゃなくて、今度は、南島を含めまして、わが国家における宗教性ってものの観念っていうものを、考えてみたいと思います。
それで、そのひとつは、それは、民俗学者のいうとおり、南島において、宝庫のごとく、保存されているわけですけど、ひとつの宗教性の基本的性格っていうものを考える場合に、ひとつの基軸っていうものは、一種の祖霊信仰っていうことです。つまり、自分よりも、前の世代、前の世代、前の世代っていうふうにたどっていった、祖先を信仰するっていう、そういう信仰の仕方っていう基軸がひとつあります。
たとえば、民俗学者っていうのは、そういうものをホリゾンタル(水平性)っていうんです。つまり、垂直性っていうふうにいうんです。ぼくらは、そういうふうに言いません。そういうふうに言うべきじゃないというのは、いままで言ってきたことから当然でてくるので、それは、すくなくとも、家族の共同性という問題から、逸脱しない概念としてでてくるのが、いわゆる、祖霊信仰というやつなんです。祖霊を信仰するっていいますか、つまり、世代的にさかのぼったものを信仰するっていうような、そういう信仰の仕方っていうのがあるんです。
 もうひとつの基軸っていうのは、来迎神っていますか、つまり、海の向こうには、神の国があるとか、あるいは、黄泉の国があるとか、常世の国があるとかっていうような、そこから神がやってきて、村々をお祝いをして、また帰っていく、そういう来迎神信仰っていうのがあります。
 これを、民俗学者は、水平、ホリゾンタルって概念、垂直性はバーチカルか、誰か英語のうまいやつは訂正しといてください、そういうふうに言ってますけど、そうではなくて、来迎神信仰というものは、共同宗教だっていうことです。
 つまり、さきほどから言いました、家族、あるいは、家族集団の共同性を離脱したときに、やや共同体が、あるいは、国家っていうものの成立の契機が考えられるといいましたけど、その意味での、共同宗教だっていうことです。
 来迎神信仰っていう軸は、共同宗教だっていうことです。それから、いまの祖先崇拝、祖霊崇拝っていうものは、たかだか、家族の共同性っていう次元を離脱しない宗教信仰概念だっていうふうに、理解していただきたいっていうふうに思われます。
 で、このふたつの基軸っていうものは、言い換えますと、いわば、わが国における古い宗教、つまり、南島に多く保存されている宗教概念では、混合してあらわれています。つまり、いずれが祖先崇拝か、いずれが来迎神信仰かっていうことはわからないというように、それは、錯合したコンプレックスとなったものとして存在しています。
 しかし、そのコンプレックスとなったものは、解きほぐすことができます。解きほぐしますと、いま申しましたように、家族の共同性ってものをでないところの、信仰性であるか、宗教性であるか、そうでなければ、共同宗教であるか、そのふたつの基軸に、いわば、分解して、考察することができます。
 そして、来迎神信仰にともなうものは、いわば、田神信仰といいますか、つまり、稲作到来信仰っていうものが、来迎神信仰に随伴してあらわれます。つまり、稲作が、本来的に、この列島で、とくに南島ではじめられ、そして、開始され、それがだんだんと、本土のほうにさかのぼっていったっていうものじゃなくて、稲作の原点っていうものは、すくなくとも、南島にはないんだってことの観念があると思います。つまり、稲作の到来ということと、共同宗教として、地域的な遠方から、遠方を信仰するという、つまり、共同宗教の観念とは、非常に裏腹になって、つまり、一緒になってでてきます。
 これは、垂直性とか、水平性とかっていうような、そういうことではなくて、共同宗教であるか、あるいは、家族性の宗教であるか、そのいずれかだっていうことの問題だっていうふうに、ご理解いただきたいというふうに思います。
そうしますと、われわれの宗教信仰のなかにあります、ふたつの交わった軸っていうものは、さまざまなバリュエーションっていいますか、可能性といいますか、そういうものを生みだすわけです。
 たとえば、それが錯号して、たとえば、あらわれてきて、つまり、共同宗教である所以、つまり、共同宗教であるということは、宗教から法へ、法から国家へっていうような、そういう展開の軸から考えますと、共同宗教であるということは、権力でありうるってこと、宗教性自体が、権力となりうる要素をもっているということを意味します。
 つまり、そういうものと、それから、祖霊信仰というものとの混合っていうもの、あるいは、錯合というものが、いちばん適切にあらわれてくるのは、いうまでもなく、本土の国家でいえば、戦後でそれを問題にするのは、保留が必要ですけど、つまり、近代国家における天皇制、あるいは、天皇における世襲行事ってもののなかに、つまり、大嘗祭って呼ばれているもののなかに、最も典型的に、共同宗教と、祖霊信仰っていうものの、両方の錯合の問題っていうものが、最も適切にあらわれているわけです。
 その大嘗祭の構造っていうものは、問題となるわけです。その問題は、ひとつの重要な問題で、これを一般的にいいますと、宗教的権威とか、宗教的威力、あるいは、宗教的権力っていうものは、どのようにして継承されるかっていう問題、それが、権力として、どのように継承されるかっていう問題は、いうまでもなく、その継承のされ方の宗教性のなかに、共同宗教としての要素がなければ、まったく無意味なわけですけど、共同宗教としての要素があるために、それが、やっぱり、ひとつの権力としての、あるいは、権威としての、あるいは、威力としての要素をもっているわけです。宗教であるけど、威力としての要素をもっているという問題がでてくるわけです。
 この問題は、南島は、大嘗祭の問題ですけど、大嘗祭の問題は、さまざまな人によって、解明されているわけですけど、その解明のされ方のなかには、細部において、違っているところがあって、そのことは、見たことがないですから仕方がないと思いますけど、細部にわたる相違ってものを、それから、それをどう解釈するかっていう、解釈の相違ってものはあるわけですけど、それは、別としまして、ここでは、ここなりの解釈の仕方っていうものを提出してみたいと思います。

14 ノロと聞得大君(きこえのおおきみ)の継承儀礼

 その解釈の仕方のひとつは、つまり、それを南島におけるノロっていう、つまり、巫女さんですけど、巫女さんの継承の儀式ってものがある。それから、もうひとつは、これは、琉球国家っていうもの、日本でいいますと鎌倉末か、室町でしょうか、つまり、13世紀か、14世紀頃、成立した琉球王国によって制度化されていった、聞得大君っていう、ノロの最高のノロっていう、つまり、最高の巫女さんの継承のお祭りがあるわけです。儀式があるわけですけど、つまり、それとの、ある種の類氏性ってものが、可能だっていうところで、問題にしてみようと思います。
 いちばんうえ、こういうノロ継承の場合におこなわれる祭りです。で、みなさんのところから見えるかどうかわかりませんから、あれしますと、これは、本番のところでいくつかの要素があります。その要素を申し上げますと、ひとつは、第一に「水撫で」っていう要素があります。これは、神前に供えた水を4回、新たにノロになるっていう、巫女さんになるっていうやつの額にくっつけるおまじないです。これは、島袋源七さんの解釈では、祓いを兼ねて、神になりうる通行手形を得るための、新しい生命を注ぎこむっていうような、そういう意味合いをもつに違いないっていうふうに言っておられます。島袋さんの論文は、「沖縄の民族と信仰」っていう、たいへん、事実的なあれとしては、根拠のある、いいあれですけど、そういうふうに解釈されます。
 それから、二番目に、それを終わっておいて、神霊を吹き込むっていうような、そういう儀式があります。神霊っていうのは、むこうので「セジ」っていうんですけど、「セジづけ」っていう行事があります。これは、供え物としてあった、洗った米ですね、米を3つほどつまんで、頭の上へのせて、それで、そのノロさんの、新たに継承するノロとしての神名ってものを唱えるという儀式がある、これも4回繰り返すということで、これは、新しい神の憑降りの作法なんだ、つまり、それをやると、神がその人にのりうつったっていう、そういう作法なんだ。
 その次に、「神酒もり」って酒盛りなんですけど、それは、供え物としてあった酒を、まず、神前に注いで、それで、その残りを、継承する、新たにノロさんになるノロさんが飲むということ、そして、それとともに、ノロさんの儀式に参加していた神人、神人っていうのは、カミンチュっていうわけでしょうけど、神人も一緒にそれを飲むっていうことです。これは、島袋さんの解釈は、共食儀礼だ、つまり、一緒に物を喰うとか、物を飲むとかっていうことで、なんか生まれる共同性っていいますか、そういうものの儀礼だっていうふうに言っておられます。
 最後に、もちろん、これらの間に、神歌といいますか、歌がともなうわけですけど、歌うたいがともなうわけですけど、最後に、そういう儀式が、午前3時頃になって、むこうでは、ウタキ、オンタキっていうんですけど、つまり、祭祀の場所ですけど、そこで、一泊するとなっています。その一泊する場合に、むしろを2枚もってしいて、左のほうにノロが寝て、右のほうに神が寝るっていうわけです。つまり、2枚もって、2枚しいて、一泊するっていうような、これは、島袋さんもそういっているように、天神と結婚する意味合いの儀式であるというふうに言っています。この儀式が、ノロ儀式の中核にある儀式になります。
 で、もちろん、ノロというものの成立っていうのは、ほんとうは、そうとう、さかのぼれるっていうふうな問題になるわけです。これは、せいぜいノロっていうものの性格は、せいぜいのところ、さきほどからのあれでいいますと、氏族共同体、あるいは、前氏族共同体の概念を出ないのであって、つまり、範疇を出ないのであって、その範疇のなかで、古来は、存在していたであろうというふうに考えられます。
しかしながら、われわれが、文献的ないし、様々なあれであつかいうるのは、琉球王国成立以降、つまり、13,4世紀以降しか、明確には、いろいろ文献的にも、様々な問題をあつかえないものですけど、しかし、おそらく、ノロっていうものの概念は、ノロっていうものの成立過程っていうのは、せいぜい氏族的、あるいは、前氏族的段階までの国家以前の国家っていいますか、共同体っていいましょうか、そういうもののところからの問題であって、また、そこの範囲を出ないものであったろうというふうに想定します。
 それに対して、琉球王朝っていうものは、そういうふうに存在していたものが、13,4世紀になって、一種の上からの制度化をおこなったわけです。その場合に、村々の、つまり、村落におけるノロっていうもの、あるいは、ノロ頭っていうもの、村落におけるノロ頭、つまり、神の代理、あるいは、それの世話をする役割をもっているもの、そういうものの、制度的再編成ってものを、琉球王朝が企てたわけです。
そうしてもって、ノロの最高、つまり、琉球王朝的最高の位置にあるものとして、聞得大君っていうものを、女性ですけど、そういう巫女さんっていうものを、制度的につくったわけです。それでつくって、聞得大君の従属下に、各村落におけるノロっていうもの、そういうものは従属するというような、それから、系統づけるっていうようなことを、制度的に、あるいは、権力的に、上からやらかした制度的につくったわけです。
 だから、これは、聞得大君っていうのは、いずれにせよ、そんなに古い制度ではありません。だけれども、ノロっていうものの性格自体は、これは、かなりな遠くまで、さかのぼることができるだろうっていうふうに考えられます。
で、聞得大君の、やはり、新たに聞得大君になるというような、そういう儀式があるわけですけど、それを「御新下り」っていうふうに呼んでいます。で、「御新下り」っていう儀式の、やはり、中核にあるのは、なにかっていうふうにいいますと、ひとつは、「大グーイ」の儀式っていうんですけど、これは、大飯を食うっていう意味じゃないんですけど、「大グーイ」っていうのは、つまり、あてにならないですけど、大きい庫裡ってこと、庫裡って台所ってことですけど、言葉があるでしょ、庫裡っていう、そういうふうにあてていますけど、それはいいですけど、大グーイの儀式っていうのがあるんです。
 それは、新たに新任する聞得大君、つまり、ノロの国家的最高のかしらですけど、それを神座につかせて、そのうえに伝承された冠をのせて、それで、こっちのノロの継承の場合に、米を3粒頭にのせて、神名を唱えるっていうのと同じように、冠を頭にのせて、それで、神名を唱えるわけです。そういう儀式があるわけです。
あきらかに、この儀式は、ノロ継承儀式に金をかけたものだっていうこと、それから、制度化させたものだってことがわかります。これは、そういう意味合いで、わりあいに簡単に、関係づけられるのじゃないでしょうか。つまり、これに金をかければこれになるよっていう問題だと思います。金をかけて、儀式づけるわけです。ただ、こういうことは、わりあいに、権力上層でおこなわれるわけですから、いろんなことがある。
 その次に、島袋さんのあれですけど、「ユンイチ」っていうのと、「サングーイ」っていうのの、神前を順繰りにまわるっていうふうに書いてあります。回って参拝するっていうふうに書いてあります。
 「ユンイチ」っていうのは、漢字で書くと、「寄満」って書くわけです。「寄満」ってなんのことかわかりませんけど、なんにせよ、ノロのあれでいえば、御嶽の中に該当するわけですけど、神聖殿の中に、そういうところがあって、そういうところを順繰りにお参りするってこと、「ユンイチ」っていうのをお参りして、今度は、「サングーイ」っていうのは、漢字でいえば、三つの庫裡です。庫裡って台所ってことですけど、台所っていうのは、なにかっていうと、諸国から貢物が集まるところっていうようなことと、それから、もちろん、家族の共同性でいえば、台所ってこと、台所っていうのは、かまどであり、火であるっていうふうな、そういう意味合いに、火の形象でありっていうような意味合いになるでしょうけど、とにかく、そういう庫裡っていう字があててあります。そうすると、「ユンイチ」、「サングーイ」っていうのを巡拝するっていうふうになっています。
 やっぱり、午前3時頃から、今度は、金屏風を立てまわした、金の枕を用意された部屋で、やっぱり、一泊するっていうふうになります。それで、その敷物のひとつは、新任される聞得大君の床であり、もうひとつは、神の床であるっていうふうになっています。これの意味は、ノロの天神との結婚を意味する儀礼であるっていうのと同じように、神との結婚を意味する儀式です。そういうふうに考えられます。
つまり、わりあいに、これから、ノロ継承儀式から聞得大君の御新下りっていう形象儀式への転化の過程っていうのは、そのふたつは、わりあいに、類推的に考えることができるわけです。

15 神とともに寝る-ノロ継承・御新下りと大嘗祭の共通性

 問題はそこのところで、天皇の、世襲大嘗祭ってことになるわけですけど、大嘗祭の非常に枢要な部分だけを申しますと、ひとつは、神との共食っていうことがあります。
神との共食っていうのは、どういうことかと申しますと、だいたい、畿内勢力ですから、畿内の外の、東と西の方向にある、ある場所を、その都度、卜定、つまり、占いでもって決めまして、その決めたところの田んぼからでてきた稲米を献上させます。そして、献上するとともに、また、いろんな作物を献上させます。その献上したものを、神前で食べるってこと、食べるってことは、つまり、神との共食です。つまり、共に、一緒に食べるってことです。
 この場合に、そのふたつの国、東と西の両方向にある国っていうのは、悠忌・主基っていうふうに呼ばれています。そうしておいて、それをやってから、いろいろ、休憩所やなんかがあるとされているわけですけど、この悠忌殿・主基殿っていう、ふたつの建物、そのときだけの儀式のためにつくるわけです。
 はじめに、悠忌殿をまわって、また帰り、それから、主基殿をまわって帰る、2回やるわけです。それで、これは、岡田精司さんの『古代王権の祭祀と神話』ってところからとりました。これの細部っていうのは、いろいろちょっと違うんです、人によって。だから、どこからとったっていうふうに、いちおう言っておくわけですけど、違います。それから、もちろん、解釈の仕方っていうのは、ぜんぶ違います。また、よくわからない部分がありますから、違うのが当然だと思います。
 悠忌殿・主基殿のなかをみますと、寝具が2枚敷かれてあり、その寝具は、八重にたたんだ畳の上に、寝具がふたつ敷かれ、そして、寝具の裾のところに、杖とか、履物とか、つまり、旅行するためか、まじないでしょうか知りませんけど、そういうものがある。
 それから、天皇座っていうのがあって、また、そこに供え物をつけた、共食儀式をやる御膳っていうのが、天皇座に対して、東、または、東南の方向にある、こっちを北とすれば、こうなります。こういうかたちであって、それで、やっぱり、午前3時頃から、天皇は、寝具にくるまって、ぼくはそう思いますけど、神との結婚を意味するところの儀式っていうのをやるっていうのが、世襲大嘗祭における中核のところにある問題です。
 それで、もちろん、神とともに寝るっていう場合に、神のほうは一体どうするんだっていうふうになるわけですけど、これは、現在は知りませんけども、ある時代では、諸国から、これは、わりあいに、日本の天皇制統一国家が、わりあいに、成立して強固になった以降のこと、つまり、平安朝くらいになってから以降のことだと思いますけど、その頃には、諸国の豪族から、娘を、一種の神に仕える女として、娘を献上せしめるわけですけど、それを采女っていうわけですけど、おそらく、采女を神の代理として、実際問題、さきほどからいう言葉で、現実的、具体的、性行為をおこなった時期があったっていうふうに思います。
 つまり、それは、なぜ、そうかっていうと、それは、采女っていうものを、諸国から進上せしめるっていうことのなかに、ある支配制、つまり、人質的要素があるわけですし、また、諸国における神の代理人っていう、代理という要素を、采女っていうものがもっているとすれば、それが、神自体の代理だっていう意味合いができますから、そういうふうにして、単に、幻想的、観念的な性関係ってことじゃなくて、具体的、生理的な性関係がおこなわれたっていうふうに思われます。つまり、そういうふうに考えます。そういうふうにして、神とともに寝るという儀式があるわけです。
 そうすると、天皇の世襲大嘗祭っていうものと、ノロ継承の儀礼ってもの、それから、もうすこし、琉球王朝が制度化した聞得大君の御新下りの儀式っていうもの、その間には、きわめて、共通性があるでしょう。つまり、出どころっていうのはわかるでしょうが、だけれども、出どころがわかるでしょうがっていうけれども、なかなか、一筋縄ではいかないのです。
 たとえば、ユインチと、サングーイっていうんで、実際に、むこうの人の発音、アクセントで聞かないとわからないんだけど、それと、ユキ、スキって言ってるものと、語呂が合うかどうかは知りませんけど、語呂が合うようにも思うし、合わないようにも思いますし、たくさん、このくらい語呂が合うと、たいてい、これだ、これだってやるんですけど、あんまり、それはやらないほうがいいように思いますから、べつに関係あるとはいいません、それが。だけれども、非常にはっきりしていることは、こういう場合の継承の過程、つまり、宗教的威力っていうふうに書いてありますけど、威力とか、権威とか、権力とかって言っていいと思いますけど、そういうものの継承形式、あるいは、世襲形式のなかにある、つまり、共同宗教的要素ってものの本質は、この3つの類似性のなかに、おそらくは、一貫して取り出すことができるものだっていうふうに考えます。
 それ以上のことを言ってしまうと、いけないと思いますから、それは、言わないことにしておきますけど、いけないっていうのは、つまり、それ以上、ユインチっていうのは、ユキだとか、そういうふうにやりたくてしょうがなくなるわけですけど、それをやらないことにしておきます。
 だけれども、そこで取り出しうる共通性っていうのは、いわば、共同宗教としての祭儀、そのなかに、いわば、農耕祭儀的な要素が、つまり、見え隠れするってことです。この場合には、見え隠れする、あらわにはでてきませんけど、見え隠れするっていうことです。そういうことがいえると思います。
 そして、そのことが、いわば、宗教的権威が、あるひとつの権力となりうる、力となりうる、宗教的権力とは、まさに、観念の観念なんですけど、だけども、観念の観念が、ひとつの権力となりうる要素ってものを、つまり、それの継承の要素ってものは、このなかに含まれているってことは、確実なことだっていうふうに思われます。それは、おそらく、方式の一なわけです。

16 残ったふたつの問題

 このほかに、もっと考察しなければならないことが、ふたつあります。もうこれで尽きるのかっていう問題があるんです。しかし、ちょっと、もうひとつ違うことを言わなくちゃならないことがあります。ぼくは、自分の書物のなかでは、田の神の、田の祭儀とを関連付けてあるけど、つまり、田の神の祭儀、あるいは、稲作儀礼というものを主体として、大嘗祭っていうものを、関連づけられるかどうかってことがひとつ、そういう問題を稲作儀礼とか、田の神儀礼とか、そういうもののあれを主体にして考えなければならないという問題が、ひとつあると思います。
 もうひとつは、ノロであり、聞得大君でありっていうふうに、そういう巫女さんっていうものは、女性であるわけです。ところで、ここのところにきて、天皇制の成立ってもの以降はそうなんですけど、つまり、ここで、神とともに寝るっていう場合に、実際に、具体的、現実的性行為があったかとか、そうじゃなくて、いわば、儀礼的な、そうであったかってことは別にしまして、その場合に、だいたい、今度は、男になっちゃってるじゃないかっていうことになるわけです。つまり、そのことが、ひとつ問題として、根拠づけられなければならないということがあるのです。
 なぜならば、もしも、共同宗教としての、宗教的祭儀の継承のかたちにある、たとえば、ノロから天皇の大嘗祭みたいなものに、ある共通性ってものは、抜き出すことができるって考えた場合に、もしそれならば、いずれが、歴史的な段階として、いずれが、古き段階にあるかっていう、あるものを保存しているか、つまり、いずれが、古きものの原型ってものを保存しているかっていうふうに考えた場合、もしも、もともと、たとえば、ノロっていうものが、女性であって、それで、南島でいえば、オナリガミって姉妹なんですけど、姉妹の霊力ってことなんですけど、つまり、姉妹の霊力っていうものが、神の御託宣を聞いて、その御託宣にもとづいて、兄妹が政治権力を実際問題として行使したっていうような、そういう制度っていうものを、ある場合に、考えていいわけなんですけど、そうしますと、こちらのほうが、古いかたちを保存しているっていうふうに、こちらのほうが新しいかたちなんだっていう、つまり、これが男なんだっていうことは、新しいかたちなんだっていうことが、もし、確定的にいえるとすれば、いろんなことが、調子がいいわけです。
 だけれども、これは、なかなか簡単には言えないのです。つまり、われわれの大昔には、母系的な社会であって、それが、男系的に移っていったんだっていうような、考え方をする人がいます。その考え方は、ぼくは、いいように思うんですけど、いいように思いますけど、だけども、それをそういうには、ちょっと、なかなかむずかしいことがあると思います。
 それから、もうひとつの問題は、さきほど言いましたように、つまり、家族、または、家族の集団性、つまり、それが、親族、または、親族の集団性の展開っていうような、親族世襲の展開っていうようなことを媒介にしてでも、それが、国家的共同性ってもの、あるいは、国家とか、共同体というものに転化するには、すくなくとも、家族、あるいは、家族集団の共同性、あるいは、それの延長、つまり、性を本質とする共同性っていう問題は、なんらの国家的、あるいは、共同体の共同性のなかでは、ほんとは、なんらの意味づけをすることができないという問題があるわけです。
 あるいは、なんらの意味づけをすることはできないってことは、極限だとすれば、それは、あまり意味を付けてはいけないってことがあるわけなんです。だから、あまり、直線的にそういうことをいうことは不当だっていうこと、つまり、少なくても、権力、あるいは、威力っていうようなものの継承っていうような要素のなかでは、問題のなかでは、あんまり簡単に、父権的とか、母権的とかってことを、つまり、性がからまってくる、そういう申し方を、簡単にしてはいけないってことは、われわれの前提としたところから、当然でてくるので、なかなか、そう簡単にそれを、そのまま延長して簡単に言ってはいけないってことがあります。しかし、問題を考えていって、そういうことを問題にしていかなければならないっていうふうに思われます。
 こういう、たとえば、大嘗祭の悠忌殿・主基殿っていう場合に、問題は方位性だって、折口さんのように方位性が問題なのであって、つまり、これは、民族の起源の方向から、民族の発展の方向っていうのを、悠忌殿・主基殿が象徴しているんだっていうような言い方もあります。
 岡田さん自身は、悠忌殿っていうのは、前に死んじまった天皇の御殿っていうような意味合いをもっていて、それで、主基殿っていうのは、新たに、それを継承する天皇の御殿っていう意味合いをもっているんだっていうような、そういうふうな解釈をされる人もいるわけですし、さまざまな解釈がなされていますから、その弁でいけば、それはそうじゃないんだ、それはここから来たんだっていうふうに言いたいところでしょうけど、それは、あんまり、そういうことは言わないほうがいいと思いますし、そう簡単に言わないほうがいいと思いますから、それは言いません。
 だけれども、宗教的威力の継承を、つまり、共同宗教における、宗教的権威ってものの世襲方式ってもののひとつが、大嘗祭と、いわば、南島におけるノロっていうもの、それから、ノロの制度化された、いわば、聞得大君っていうものの継承儀式ってものとの、対比のなかに、ひとつ、相当な、はっきりした視点で、はっきりした共通性で、抜き出すことができるっていうような、そういう問題が、ひとつあると思います。
 こういう問題に対して、継承方式の、その他の方式ってことを、次にお話するところでは、そこからはじめていって、われわれにできるならば、究極的には、アジア的権力っていうものは何なのか、あるいは、アジア的権力のなかで、本質的に、日本の場合のように、そのなかにおける日本の権力っていうのは何なのか、権力における特質っていうのは何なのかっていうような、そういう問題にまで、行き着きたいわけですけど、その間にまた、親族体系における、ほかの周辺地域との類型付けっていうようなこともしてみたいわけです。
時間的にできるならば、それだけのことをやってみたいと思います。本日、申し上げましたところでも、ぼくの話がわからなかったっていうような面とか、それから、なに言ってやがるのかわからないとか、疑問点とか、そういうようなことっていうのは、様々おありでしょうけど、そういうものがおありでしたら、どうか主催者のほうに、文書であれしてくだされば、ぼくは、文書でお答えするようにします。
 ここでお答えしたり、問答したりすると、ぼくは、いつもの例でいきますと、だいたい9時頃まで、そうなってしまうわけですし、ここは、たいへん、そういう意味合いではやりにくいところで、ここは、ダブルアップとか、舞台とか、そういうところ、そういう討論をする雰囲気とか、細かい微細なことをいうのは、ものすごく言いにくいところですから、場所ですから、今回のことも、この次の回のことも含めまして、そういうふうにしていただければ、お答えはいたしたいっていうふうに考えます。今日は、これで終わらせていただきます。(会場拍手)

17 司会

 お待たせいたしました。ただいまより、筑摩書房主催、筑摩総合大学公開講座をはじめます。本日は、先週に引き続き、吉本隆明先生の「南島論」をお送りいたします。最後までご清聴くださいますようお願い申し上げます。

18 継承祭儀と農耕祭儀

 先週の続きで、たしか、あそこの宗教的威力の継承方式ってところで、南島におけるノロ継承の仕方ってこと、それから、琉球王朝が、わりあいに古くからあるノロ継承の仕方っていうもの、あるいは、ノロ自体の演ずる役割っていうのを、ある程度、制度化して、聞得大君っていうのをつくりまして、それで、ノロの最高位にあるノロっていうようなかたちで、王権に接続させたっていう、そういう聞得大君っていうものの、継承の仕方っていうものと、天皇の世襲的な大嘗祭っていいましょうか、そういうものとの、いわば、共同宗教といいますか、共同祭儀といいますか、そういうものの類似性っていうものについて、申し上げたわけですけど、今日は、その続きからはじまります。
 それは、やはり、ひとつの宗教的威力が、つまり、いかに継承されるかっていう問題なんですけど、問題の続きなんですけど、その場合に、このノロ継承祭儀から、天皇の大嘗祭祭儀っていうもの、そういうものに共通なんですけど、これは、あくまでも、宗教的権威、威力ってものの継承なんですけど、同時に、その祭儀のなかには、農耕祭儀といいますか、稲作祭儀といいますか、そういうもののあり方ってやつが、見え隠れしているってこと、言い換えれば、それが非常に潜在的になって、見え隠れしているだけで、全面的には、宗教的な王者っていうものの、継承方式、あるいは、世襲方式っていうもののあり方で、農耕祭儀の面っていうのは、農耕祭儀が、共同宗教である、あるいは、共同の祭儀であるという面は、見え隠れしているだけ、つまり、潜在しているだけなんですけど。
 もし、たとえば、今度は逆に、農耕祭儀ってものを、今度は、あらわなかたちで、そっちのほうが顕在化して、そして、威力の継承面ってものが、ある程度、潜在化するっていうような、そういうようなかたちっていうものを想定しますと、たとえば、ここに書きましたけど、能登の田の神祭儀っていうものがあります。
 それから、奄美のナルコ・テルコ神っていう、これは、来迎神ですけど、つまり、どこかからやってきたっていう、来迎神を迎える祭り、送る祭り、その中間にある祭儀っていうもの、そういうもの、それから、沖縄でいえば、たとえば、このナルコ・テルコ神っていうのは、いろいろ、つまり、ニライ・カナイの彼方からきた神ってことで、いろんなかたちで存在するわけです。だから、たとえば、それは、赤マタ・黒マタっていうような、そういう祭儀としてもあるわけです。だから、ナルコ・テルコ神っていうのは、一例に過ぎないので、これは、南島における来迎神の祭儀の根底には、かならずあるものなんです。
 この来迎神信仰っていうものは、農耕、つまり、稲作信仰ってものと、よく表裏一体になっていまして、もし、それを全面にだしてきた場合には、どういうことになるかっていう問題を、あれと逆な意味で、つまり、ノロとか、聞得大君とか、天皇の大嘗祭みたいな、そういうもので潜在化しているものを、顕在化していったら、どうなるかっていいますと、たとえば、能登の祭儀でいいますと、まずはじめに、田の神迎えっていうのがあって、主人が戸口で正装して待っていると、それで、田の神が来たことになると、それで、田の神をお風呂に入れたり、斎戒沐浴させたり、それからまた、備えてあるものを、あるいは、つくってあるものを、一緒に食べるという儀式です。それから、田の神が食べて、そして、そのおこぼれを、主人とか、家のものが食べるっていうような、そういう共食です。
 共食の祭儀ですけど、そういうものをやると、それから、そういうふうにしておいて、若木迎えっていうのがありますけど、これは、つまり、未明に、近くの山にいって、それで、適当な、枝ぶりのいい、そういう松の木かなんかを選んで、そして、そこにやっぱり、供え物をして、そして、飾り物をして、それから、そこに、農耕用の鋤っていいますか、耕す鋤をそこに置いといて、そこでやはり、豊作を祈念するっていうような、そのあげくに、松飾をした松の木をもってきて、家へもってきて、そして、今度は家でもって、それを飾っておくわけです。それでやっぱり、鍬とか、鋤とかってものを、一緒に飾っておくわけです。
 そうしておいて、ちょうど、2月5日から2月11日までですけど、最後、2月11日の午前3時頃です。つまり、最後の、神とともに寝るっていうところなんですけど、午前3時頃に、松をもって、苗を植えた一画の田んぼのところへ、松を立てて、そして、2月ですから、能登地方ですと、寒いですから、雪が降ったり、そういうことがあるわけですけど、多いわけですけど、そういうところで、鋤でもって、田を耕す真似事を3回やる。そして、やっぱり、豊作を祈念する。
 そうすると、田の神っていうやつは、田地、つまり、田井地にっていいますか、田んぼに継承されたっていう、田の神ってものの威力が、田井地っていいますか、耕作田っていいますか、そういうところに継承されたっていう意味合いになります。
 だから、こっちの場合には、人から人へですけど、つまり、ノロからノロへとか、天皇から天皇へっていうような、神とともに寝るっていうところで、その威力が継承されるわけですけど、こっちの場合には、田の神がようするに、田地そのもの、つまり、田んぼそのものに、継承されるっていうような、そういう意味合いになります。
 そうすると、継承祭儀ってものの面は、非常に潜在化してしまって、田の神を迎えて、そして、豊作を祈念するっていう、そういう行事ってものが、前面にでてくるわけです。しかし、祭儀としての性格の根底っていうのは、ちっとも変わってないわけです。こっちでは、農耕祭儀の面が潜在化していて、それから、人から人へ、あるいは、権力から権力への継承の祭儀っていうのは、そういうものが前面にでているってだけです。
 この場合には、そういう継承面は、田の神が田んぼに威力を継承せしめるっていうような意味合いで、そういう面は、潜在化するわけですけど、しかし、基本的性格っていうものは、すこしも変わらないっていうふうにいうことができます。

19 〈南島〉の祭儀の本質

 奄美のナルコ・テルコ神っていう、やっぱり来迎神、来迎の農耕神なんですけど、来迎神信仰の場合でも、祭儀の場合でも同じなわけです。これは、やっぱり、2月から4月で終わるわけです。ひとわたり終わるわけですけど、たとえば、2月の壬の日、十二支ですけど、そのときに、ノロとか、神人っていいますか、ようするに、祭儀を司る、部落のそういう役ですけど、そういうやつが、正装して、カミアシアゲっていうあれがありますけど、つまり、祭りをやるとかありますけど、そこのところに集まって、それから、浜辺へ下りていくわけです。浜辺へ下りていって、そして、そこで、さまざまなことがなされるわけです。
 そのなかには、たとえば、刀をもったやつがいて、そして、刀を振り回して、まじないをするのか、敵をうつっていうような意味合いか、そういう意味合いの踊りを、踊りのなかで、そういう意味合いのことをしてみたり、それからまた、網で魚をとるっていうような、そういう真似事みたいなのをやってみたり、また、海のほうにむかって、手招きして、いわゆる来迎神であるナルコ・テルコ神っていいますか、あるいは、ニライ・カナイからやってくる、つまり、常世の国とか、神の故郷みたいな、そういうところからやってくる神を、海に向かって手招きするっていうような、そういう動作みたいのが、入っているような踊りをやるわけです。
そういう踊りをやっておいて、やはり、帰ってきて、アシアゲっていう、小屋がけなんですけど、そういうところへ帰ってきて、そして、やっぱり、共食です。お酒とか、お米でつくった団子とか、そういうものをとかで、共食するわけです。
 それで、歌を歌ったりっていうようなことをやるわけです。そうしておいて、それが、そういうあれが、ナルコ・テルコ神を迎えるっていう意味合いの祭儀である、それで、田の神迎えと同じことですけど、迎えるっていうあれです。
それから、最後、送るわけですけど、送る中間に、やっぱり、これから、次の壬の日ですから、十二日ぐらいあとでしょうか、そのときに、人頭別みたいなかたちで、米を徴収して集めるわけです。それを練って、団子みたいのをつくって、団子とか、餅みたいのをつくって、そして、供え物をするわけです。
 で、いかなることをするかっていうのは、わたくしがみた範囲では、あんまり、明瞭な記載がないんですけど、ただ、わりあいに、徳川時代くらいに書かれたあれには、夜の入神事也っていうふうになっていますから、つまり、やっぱり、ここのところで、ナルコ・テルコ神、来迎神の威力が継承されるという意味合いの祭儀があるわけです。これは、そこで、神とともに寝るっていうような意味合いの、それとおんなじことになりましょう。そういう祭儀があるわけです。
それで、その中間にふたつあるんだっていうあれもあって、もうひとつ、最後の送り祭の十日前に、また祭儀がある。そのときには、人頭別に、村から米を徴収するってことはしないで、ただ、所作事ですから、円陣をつくって踊るとか、そういうようなことだと思います。そういうこととか、そうしているうちに神がかりになって、神が降りたっていうような、そういうかたちの祭儀だと思います。そういうものが昔あったんだっていうふうに言われています。
 最後に、今度は、ナルコ・テルコ神っていうのを、常世の国か、あるいは、稲が持ちきたされた、もとの地か、あるいは、いわゆる、これは、みんなおんなじなんですけど、琉球、沖縄の支配、日本でいえば天皇、そういう種族がやってきたところっていう意味合いをもつし、また、霊がいくところとか、神が来るところって意味がありますけど、そこへ送り返すっていうふうな祭りがあります。
 そのときには、いろんなことを言う人がいますけど、ひとつの例でいいますと、東のほうにむかって、ススキですね、ススキっていうのは、わりあいに、祭りに使うとりものなんですけど、それでもって、ススキを三度、大きく振って拝むってことで、ナルコ・テルコ神っていうのを、信仰でいえば常世の国、それからまた、複合して、面倒でわからないことがありますけど、海の彼方とか、海の底っていう意味合いをもたせているところもあります。
 それから、あるいは、稲作がやってきた、つまり、稲がやってきたところ、あるいは、稲をともにやってきた種族の原住地っていいますか、そういう意味合いがあると思います。そういうところに、それを返すっていうような、つまり、送るっていうような、そういう祭儀があります。
 これは、一般的に、ニライ・カナイとか、赤マタとか、黒マタとかっていうような、琉球、沖縄、南島において、さまざまな名前で呼ばれていますけど、究極的には、来迎神であるっていうようなところで、共通しているわけですけど、そういうところへ送り返すっていうような、そういう送り迎えの祭儀があるわけです。
 このなかでも、やはり、継承されるっていうような面っていうのは、前面にはでてこないで、やっぱり、一種の稲作祭儀っていうような面が、前面にあらわれてきます。この前面にあらわれてくるもののなかには、よくよく見てみると、潜在的には、継承する面があって、そういう農耕神の威力っていうものを吹き入れて、豊作を祈念するっていうような、そういうような意味合いのあれが、どこか潜在的に、どこかにあるわけです。それが、ただ潜在化しているに過ぎないっていうふうにいうことができます。
 南島では、たいへん、祭りのあれが複合していてむつかしいわけですけど、こういう農耕祭儀の面が、農耕の水に対する信仰とか、それから、柳田国男流にいえば、海神のいるところ、つまり、漁業っていうものと結び付いていく、そういう面もあります。そういうところは、ごったになっています。
 しかし、いずれにせよ、そういうところでは、威力継承って面は、潜在化してあらわれてきていますけど、依然として、それはどこかに、一連の行事のどこかに、それをみつけることができるっていうような意味合いをもっています。
だから、これらを、全部、つまり、農耕とか、農耕祭儀みたいな、そういう面が潜在化しているか、顕在化しているかっていうような違いはありますけど、それが、一様に、一種の、宗教的威力の継承っていうような意味合いを、根底にもつということ、そして、その場合の威力の継承ってことは、それが、共同の祭儀であるってこと、つまり、わたくしの祭儀ではなくて、共同の祭儀であるってことが、最も根底的にある問題だと思います。

20 〈南島〉にある古形

 この共同の祭儀であるかぎり、それは、どのような形態であらわれようと、つまり、威力の継承っていうような面が、潜在化してあらわれようと、あるいは、それが、農耕祭儀のように、顕在化してあらわれようと、そのことは、さまざまなバリュエーションがありうるわけで、そのバリュエーションは、いずれにせよ、事実問題として、さまざまな見つけ方で見つけることができます。
 しかし、問題は、それが、一様に共同宗教であるってこと、それから、もうひとつは、いわば、一種の威力の継承っていう、あるいは、権力の継承っていうような意味合いをもつということ、共同宗教であるからして、威力の継承、あるいは、権力の継承ってことの問題が成り立ちうるということ、そういうことが、根底にあることは、非常に確かなことなんです。
 そういう祭儀ってものを考えていきますと、こういうことが比較上いえるわけです。いままで比較してきたことから、こういうことだけはいえるわけです。つまり、この田の神の行事にしろ、あるいは、それと、ほぼ同じ意味合いをもちうると考えられる、南島における、つまり、ニライ・カナイからやってくる、神を迎え、それから、送るっていうような、そういう農耕祭儀にしろ、それは、いわば、威力の継承、あるいは、共同宗教っていうような面からいいますと、いちばん問題なのは、天皇の世襲大嘗祭とか、それから、琉球王朝が制度として、王の、たとえば、最初は兄妹が、聞得大君っていうのになったり、兄妹っていうのは、女兄妹、つまり、姉妹ってことですけど、姉妹が、聞得大君っていうのになったり、一等初めはしたわけですけど、それは、さまざまなバリュエーションでありますけど。つまり、これはわりあいに新しくて、13世紀か、14世紀です。で、天皇大嘗祭っていうのは、かなり古いわけですけど、これは、天皇制とともにはじまるみたいなところがあります。
 しかし、いずれにせよ、こういう祭儀よりも、ノロ継承祭儀とか、田の神行事とか、あるいは、南島における、ナルコ・テルコ神、あるいは、ニライ・カナイの神を送り迎えするっていうような意味合いの共同祭儀のほうが、古形、つまり、古いかたちを保存するだろうというようなことは、いうことができると思います。
 つまり、それらは、いわば、いま言いましたように、どの面が、つまり、継承の面が潜在化するか、顕在化するかという違いですけど、それは、そういう違いと、それから、一種の地域的な違いなんですけど、最初に申し上げました考え方からいきますと、そういう地域的な相異ってものは、時間的な相異ってものに変換することができるっていう意味合いからいいますと、こういう行事のほうが、天皇の世襲大嘗祭、あるいは、聞得大君の御新下りみたいな、そういうものよりも、田の神行事とか、ノロ継承の行事とかっていうほうが、もちろん、洗練もされていませんけれども、しかし、別な意味で、時間的に、古いかたちを、古形を保存しているだろうってことはいえると思います、いままでの比較から。そうしますと、南島における共同祭儀ってものは、ノロ継承みたいな、非常に直接的な宗教威力の継承の祭儀であれ、あるいは、農耕祭儀のかたちをとった威力継承の祭儀であれ、それは、おそらくは、農耕をもって、農耕社会を起源として、あるいは、農耕社会の興隆とともに、支配権を握った、そういう勢力ってものを考えますと、精力の威力継承の方法としては、南島におけるノロ継承とか、あるいは、これは、ほぼ同じような意味あいをもつと思いますけど、時間的に思いますけど、南島における、そういうナルコ・テルコ神とか、ニライ・カナイ神の送迎、送り迎えの祭儀のほうが、いわば、そういう世襲大嘗祭みたいなものの、あるいは、農耕社会を起源として、あるいは、農耕社会の興隆とともに、統一国家を形成した、そういう権力の威力継承の方法に対して、その上限っていうのを語るっていうことがいえると思います。
 それで、その上限を語るってことは、別な言葉でいいますと、ふつう、弥生式国家っていうふうにいわれているものですけど、つまり、畿内における、天皇族を中心とする統一国家の形成っていうことなんですけど、つまり、弥生式国家っていうものを考えるかぎり、その上限っていうものを、やはり、南島、あるいは、非常に特異ないくつかの地方で、いまも伝承されている、そういう祭儀のなかに、上限があるっていうふうに考えることができると思います。
 弥生式国家の上限っていうものを、たとえば、数千年とします。3千年、あるいは、4千年とします。天皇制の起源っていうのは、天皇制が統一国家を成し遂げたのは、いまから数えて、せいぜい千二,三00年前だと思います。しかし、その上限としては、やっぱり、二千年なり、三千年なりっていうのを考えることができる。その古形っていうのは、依然として、古形の問題は、依然として、南島のほうに存在するっていうふうにいうことができます。

21 〈南島〉は天皇制を相対化する根拠になる

 そうすると、それならば、もうひとつの問題、それじゃあ、南島に保存されている、いわば、宗教的威力、共同宗教なんですけど、共同宗教の形態ってものは、それは、単に、弥生式の、あるいは、稲作種族の支配権を語る、そういう意味合いしかもたないだろうかってなります。そういう意味合いの上限が、そこにあると、古いかたちが、南島にあるというような意味合いしかもたないだろうかってふうなことが、いよいよ問題になるわけです。
 いや、そうではない、南島のはらむ問題ってものは、たかだか、千二、三百年の天皇制統一国家に対して、その上限を語っているに過ぎない。つまり、二、三千年以降の稲作種族の支配権の確立を語る、そういう威力継承を語っているに過ぎないっていうふうにいえば終わるかっていうような問題がありうるわけです。
 それが、それで終わるかって問題は、どういうふうにして、検証されうるかっていうと、共同祭儀でない祭儀ってものを、南島の祭儀のなか、それから、南島に対置した言葉を使えば、本土の祭儀、祭りのなか、あるいは、共同体の形態のなかに、そういうものが、保存されているか否かっていうことが、問題になるわけです。
 その面での開拓っていいますか、開拓っていうものは、研究的にいいましても、また、いわゆるフィールドワーカーのフィールドワーク、つまり、発掘とか、調査とか、そういうような面からも、まったく、手がつけられ始めたっていうくらいな意味あいしかなくて、それを確定することができないのですけど、ただ、南島における祭儀のうち、共同宗教と考えられないっていうような祭儀があるかっていうと、それは、あるわけです。
 それは、いってみれば、先週のあれでいいますと、それは、たかだか家族の宗教性、あるいは、親族の共同性っていうようなところで祀られる、あるいは、考えられる祭儀、祭りっていうようなもの、あるいは、祭りの中心になっている神っていうような、そういうようなものを考え、拾い出してみればいいわけです。
 それは、なにかっていいますと、とにかく、未開拓であるけど、開拓されているところだけでいえば、火の神、燃やす火です。火の神、あるいは、竈神っていうふうにいわれているものがそうです。それから、その火の神、竈神ってものと、ある程度、連関するわけですけど、一種の祖先崇拝が神に至るっていうような、それは、いちばんあらわれるのは、葬制ってことです。つまり、葬式の形態、死者をどうするかっていうような、死者をどう葬るかっていうような、そういう問題のなかで、いちばんあらわれてくるわけですけど、つまり、そういうなかであらわれてくるなかに、共同宗教ではないというふうに考えられる形式といいましょうか、遺制といいましょうか、そういうものは、存在しているわけです。
だから、つまり、その存在している、たとえば、火の神信仰とか、せいぜい、家の共同性からでてくる、あるいは、家の世代的な遡行といいますか、さかのぼりといいますか、そういうところからでてくる。あるいは、たかだか、親族における共同性にしか過ぎないというような、そういうような祭りっていいますか、祭りのかたちっていうものの、本質を追及していくってことのなかに、いってみれば、農耕種族、あるいは、農耕神話起源以前における古形ってものが、もちろん、本土においても、南島においても、それが、あからさまに存在するっていうふうに考えられるわけです。
 それの追及は、うまく、まとまった統一的な見解をだされる意味合いでは、すこしもなされていません。しかし、その問題の追及は、いろんな調査、発掘とか、そういうようなこととともに、やがて、そういう問題っていうのは、あきらかにしていくだろうってこと、そうすることによって、単に、弥生式、あるいは、天皇制統一国家に対して、それよりも古形を保存している、そういう風俗、習慣、あるいは、威力継承ってものの存在が、南島にこそあるんだっていうような、単にそういうような限界内において、南島の問題が浮かび上がってくるっていうようなことだけじゃなくて、それ以前における古形、つまり、弥生式国家っていうもの、あるいは、天皇制統一国家っていうものは、根底的に疎外せしめてしまうっていうような、そういうような問題の根拠っていうものは、まさに今後の追及にかかっているわけですけど、その問題の追及っていうのは、やはり、これから、本格的になされなければならないっていうような、そういう問題をはらんでいると思います。
 そういう問題の重量、重さっていうもの、そういう問題がはらんでいる重さっていうものが、本来的に開拓されたところで、はじめて、本格的な意味合いで、たとえば、琉球、沖縄の問題ってものが、本格的な意味合いで問われるっていうような、そういうことになるだろうというふうに思われます。
 だから、それ以前に、そんなことを言っている間にも、さまざまな政治的課題っていうのは、現に、起こりつつあるわけですけど、その問題を、起こりつつあるってことの解決のなかに、根底的な掘り下げってものがないかぎり、あるいは、根底的な方向性っていうもの、そういうものが存在しないかぎり、やはり、依然として、最後の問題ってものは、解決しないだろうってこと、だから、それは、単なる地域的辺境とみなされる、つまり、辺境地区にある辺境とみなされるに過ぎないだろうということ、地域的辺境の問題として、軽くあしらわれるに過ぎないだろうということ、つまり、資本制社会の、まさに下積みのところで、下積みの役割をしているっていうような、そういう問題の次元に、南島の問題、琉球、沖縄の問題っていうのは、たとえば、準政治的な問題に限っても、そういうところに、問題を限定されてしまうってこと、その政治的なせめぎ合いってものの、つまり、体制的、反体制的、せめぎ合いっていうもののいく方向っていうのは、たかだか、そういうところの問題に過ぎなくなるだろうってことは、まったく明瞭なことのように思われます。

22 天皇家の鎮魂祭・八十嶋祭

 そこで問題は、共同宗教としての農耕祭儀ってものと結び付かれた宗教的威力継承の方法っていうもの、そういうものよりも古形、古いかたちっていうのは、とりうるだろうかってことで、これも、きわめて、任意にあげてみたわけですけど、天皇大嘗祭っていうのは、本祭っていうのは、本祭の基本的な点は、ここにあるわけですけど、その前後におこなわれる祭儀っていうのがあります。
その祭儀にも性格はあるんですけど、そのひとつは、鎮魂祭ってことです。規定によれば、鎮魂祭は、新たに天皇となる人間の鎮魂祭っていうのは、大嘗祭の一日前とされています。
 それは、どういうことをするかっていうと、まず、笛を吹いたり、琴を鳴らしたりしているうちに、いわゆる巫女さんが、宇気槽っていうものなんですけど、それを伏せたものの上にのっかって、それで、矛で一から十まで槽をつつくっていうふうにされています。そうすると、つつくうちに、つつくと多少、音が出たり、振動したりするわけですけど、それを、糸でもって、新たに天皇になる、そういうものの衣装に、糸に伝わる振動ってものを伝えるってことなんですけど、そういうおまじないで、衣装ってもの、あるいは、人間の代用物、代理物です。そういうものに、やはり、霊威を入れるっていいますか、そういう行事があります。
 その行事っていうものは、大嘗祭の一日前におこなわれるっていうわけなんです。この鎮魂祭っていうものの、いずれにせよ、大嘗祭殿といいますか、内部でおこなわれるわけですけど、それを空間的に拡大するといいましょうか、空間的に拡大したものが、八十嶋祭っていうふうに呼ばれているものです。
 これは、空間的に拡大するがために、時間的にも拡大されるわけですけど、大嘗祭の後、あるいは、ときには、先のときもあるというふうにされていますけど、それは、難波ですから、つまり、いまでいうと、大阪でしょうか、堺でしょうか、そういう難波の海浜、つまり、浜でおこなわれるってことなんです。
 おこなわれる儀式の内容っていうのは、まったく、鎮魂祭とそう違わないのです。やっぱり、新たに即位するであろう天皇の衣装の箱を、いまのわれわれの言葉でいえば、乳母なんですけど、乳母がもってきて、そして、やっぱり、琴を弾きながら、乳母が、難波の浜辺で、海のほうにむかって、箱を開いて、衣装箱を開いて、そして、その衣装箱を振るっていうことです。ゆするっていうことです。そういう行事です。
 だから、この八十嶋祭っていうのは、たとえば、鎮魂祭っていうものを、空間的に、あるいは、時間的に、これは、一年前か、一年後かっていうふうにおこなわれ、あるいは、時によっては、事情によって、2,3年後っていうこともありますけど、時間的にも、場所的にも、拡大したものっていうふうに考えればよろしいと思います。そして、性格はまったく、鎮魂祭ってことと、おんなじ性格をもっています。
ただ、これは、場所的、あるいは、空間的、時期的に、非常に圧縮されたところでおこなわれるってだけで、こちらは、いわば、空間的、時間的に、拡大されうる、そういうところでおこなわれるってかたちで、祭儀の本質としては、同じであるって考えてよろしいと思います。
 これについては、鎮魂祭にしろ、八十嶋祭にしろ、さまざまな解釈がおこなわれています。つまり、これは、はたして、共同祭儀であるか、あるいは、天皇一族、親類縁者の祭儀に過ぎないのではないか、たとえば、滝川政次郎さんっていう人の、「八十嶋祭と陰陽道」っていうような、そういう論文をみますと、それは、わりあいに、家祭的な、つまり、家的な祭儀の性格が強いっていうふうにいっています。
それから、もうひとつは、陰陽道っていいますか、つまり、山伏道っていうか知りませんけど、つまり、いずれにせよ、こういう祭儀よりも、古形であると、つまり、もっと古い時代に、先住したであろうっていうようなところ、あるいは、もっと以前の共同体、あるいは、以前の国家において、行われていたであろうというふうに言われている祭儀です。つまり、そういうものの祭儀と、類比されるっていうような、そういう考え方を提起しています。
 それからまた、いろんな人がいます。これは、難波でおこなわれるっていって、それで、それは、どうしてかっていう問題になって、これは、難波王朝、つまり、大阪の地区にでかい古墳をもっている、たとえば、仁徳、履中、反正っていいますか、陵っていうふうにいわれている、べらぼうに大きい古墳っていうのは、大阪、堺とか、そっちのほうに、つまり、大和、あるいは、奈良とか、そういうところじゃなくて、そっちのほうにかたまってくるわけですけど、つまり、難波王朝ってものが、海辺っていいますか、つまり、海浜に住んで、漁業をやっている、そういうあれと関係があって、それは、難波王朝に特有な、祭儀ではないのかっていうような、そういう考え方の人もいます。
 それから、家祭っていいますか、一族の、親類縁者の祭りっていうような意味合いを、もちろん、もっているわけだけれど、しかし、わざわざ、時間的、場所的な拡大ってことは、つまり、そういうふうに拡大することによって、海の支配権っていうものに対する、威力継承っていうような意味合いをもつんだ、つまり、そういう意味では、共同祭儀、あるいは、共同宗教としての意味を、複合してもっているんだっていうような、そういう見解の人もいます。
 しかし、いずれにせよ、その見解の、これが正しいっていうふうに、にわかに、この説が正しいってことを、にわかに断定することはできないわけです。それだけの、確たる説はないっていうふうに考えてよろしいと思います。
 ただ、非常に確実なことは、この鎮魂祭にしろ、それを空間的、時間的に、一種、拡大した八十嶋祭にしろ、これを世襲大嘗祭っていうものの、一連の祭儀っていうふうに考えて、祭儀のなかに並べて考えていって、これが、この祭儀の仕方っていうものが、呪術的っていいますか、つまり、来迎神信仰、あるいは、稲作信仰みたいなものにくらべて、それよりも、古形であろう、つまり、それよりも、非常に上限として古形だって意味じゃなくて、わりあいに、質的に違って、もっと古い宗教的遺制ってものが、このなかに存在するであろうっていうふうなことは、確実にいえるだろうって思われます。
 それから、もうひとつは、鎮魂祭っていうふうに、つまり、場所的、時間的に、縮小されたところでは、やはり、家祭の意味、天皇一族、あるいは、親類縁者、そういうものの祭儀という意味合いってものが強いと思います。
 そして、これをそのまんま、本質的には変わらずとも、場所的、時間的に拡大して、たとえば、難波の海浜で、浜に下りて、そして、おこなうっていうような、八十嶋祭っていうかたちで出てきた場合には、元来が、家祭としての意味合いしかないものが、共同祭儀と複合しているだろう、だから、威力の継承、あるいは、威力の示威っていいますか、そういう意味合いをもつだろうってことだけは、確実に取り出すことができると思います。ただ、さまざまな現在まで存在しうる、さまざまな説のうちで、これが正しいと思われるって言い方は、おそらくはできないと思います。だから、いいうることは、いま言いましたことだけだと思います。
それで、ぼくが、問題としたいのは、そのために取り出したのは、ようするに、家祭、あるいは、一族としての、一族の祭儀であるという意味合いが、いわば、わりあいに、古形、つまり、稲作種族がもっていた祭りの仕方っていうものにくらべて、あるいは、祭りの残り方にくらべて、はるかに、質的に違った古いかたちであろうと、つまり、もっと前にいた種族というものの祭儀を象徴するだろうってこと、そういうことのために、これを比較のためにもってきたわけです。

23 諏訪大社・大祝(おおはふり)の即位祭儀

 もうひとつ、天皇制の勢力とは、まさに敵対的だったわけですけど、敵対的に、かなり強い抵抗を示した勢力のひとつですけど、つまり、出雲族とか、安曇族とか、隼人とかいうふうにいわれている天皇制の種族と同等、あるいは、それ以前に在住しただろうというふうに思われて、それで、天皇制の権力が、畿内でもって、統一国家をつくらんとした、その過程で、そうとう激しい抵抗を示した種族なんですけど、そのひとつなんですけど、諏訪神社っていうもの、諏訪社っていうもののご神体っていいますか、諏訪社の生ける神っていうやつの大祝っていいますけど、大祝に、やはり、即位の祭儀っていうのがあるわけです。
 これの主要な部分は、どういうことかっていうと、いちおう、8歳になった男の子が選ばれるっていうふうになっています。選ばれた男の子は、20日間くらい、潔斎精進して、つまり、身を清めてっていうやつですけど、そうしておいて、諏訪社のなかに、さまざまな小さな祠っていいますか、あるいは、社があるわけですけど、諏訪社の圏内にあるわけですけど、そこにある石です、石っていうか、岩っていうか、その石の上に葦を敷いて、その周りにスノコをめぐらして、ちょうど、こういうのとおんなじわけなんですけど、スノコをめぐらして、そして、その上に、8歳の、つまり、まさに、生ける神にしたてあげられる、そういう男の子を、石の上に立たせて、立帽子だけで立たせて、そして、諏訪社の神長官といいますか、つまり、神を祀る神主でしょう、つまり、大将が、山鳩色の衣装を着せるっていうこと、そうして衣装を着せて、秘伝の呪文とか、ようするにそういうことです、秘伝の諸々のことを教えるっていう、それから、それを教えて、また、こっちと同じように、いろんな諏訪社圏内にある、いろんな社っていうものを巡拝するってことがある。それで、巡拝しておいて、非常に諏訪社の主要な神殿のところで、大祝っていうふうに、つまり、生きる神にしたてあげられた男の子が、自分は宣言するわけです。祝詞をするわけで、自分は、諏訪社の神の、神体になったってこと、つまり、こっちでいえば、神威を自分のなかにいれたっていう、入魂したっていいますか、そういう意味合いのあれをして、それで、不浄なことはしないようにするっていうような、そういうようなあれをやるわけです。つまり、祝詞、申し立てをするわけです。
 それが、終わったときに、その8歳の童子が大祝っていうかたちで、だいたい、生ける神っていうような意味合いをもってくるわけなんです。このかたちは、これで、あんまり変わらないわけです。これとも、これとも、みんな変わらないわけです。
 そうしておいて、その役割っていうのは、一年にある時期がくると、大祝から、神の威力を代理させた使いが、村落をまわって歩いて、農耕の予祝とか、狩りなら狩りの予祝とか、そういう予祝を祝福して歩くっていうような、そういうことがあるわけですけど、この大祝の即位祭儀のなかで、やはり、ひとつは、たいへん呪術的要素ってものが、本質的に存在するってこと、それから、石の上で、そういうあれをやるってこと、つまり、これは、ひきのばしていきますと、山岳信仰っていうようなものとつながっていくわけで、つまり、磐座っていうふうにいわれているもの、つまり、神っていうものは石に降りるものだっていうような信仰なんですけど、これは、山伏の信仰なんかにも、そういうのがあるわけですけど、山岳信仰っていうものに、関連を考えることを許すものがあるってこと、つまり、言い換えますと、山岳信仰っていうのは、なにかっていうと、ようするに、狩猟とか、たかだか、自然農耕みたいなことに近いものしかやっていないで、住処としては、平野におりない時代、つまり、農耕を、技術としては正規にやらない、そういう、前の時代における信仰になるわけですけど、つまり、そういうものは、山岳信仰とか、樹木信仰っていうのは、そういうものなんですけど、つまり、樹木とか、山の上の石に神が降りるとか、人間が死ぬと山のてっぺんにいくとか、そういうようなかたちの信仰っていうものは、はるかに、農耕祭儀よりも古いわけですけど、つまり、そういう古形っていうものと、それから、一種の呪術性っていいますか、そういうものが、呪術宗教性ってものが、やはり、こういうもののなかに、存在するっていうこと、存在するってことがいえるわけです。
これは、いわば、大祝の即位祭儀っていうのは、たかだか、これは、いまの言葉でいえば、地域共同体を考えても、たかだか、地域共同体に対して、宗教的威力を発揮するっていうような、あるいは、実際的な政治的権力をもつかも、行政的権力をもつかもしれませんけど、そういうふうに過ぎないのです。
 もっと極端にいえば、わりあいに、地域の、つまり、地域国家です。つまり、統一国家以前の国家です。そういうなかでしか、通用しない、もちろん祭儀なんですけど、そういうところで保存されている生ける神っていうやつを、どういうふうにしてつくるかっていう場合の、継承方式っていうもののなかに、わりあいに、農耕祭儀よりも古い祭儀っていうものが保存されているってこと、つまり、そういうことは、南島における、たとえば、竈神とか、火の神を祀るとか、そういうようなことと、たいへん関連するわけです。
 また、あるあれがいうように、たとえば、巨石文化の圏内にあって、わりあいに、巨石でもって墓をつくるとか、そういうあれもないことはないんですけど、そういうときの、そういう時期の、時代の祭儀とも共通するわけですけども、それは、いわば、弥生式祭儀、あるいは、農耕祭儀と関連した宗教的威力の継承祭儀ってもの、そういうものよりも、はるかに古形を保存する、つまり、質的にいって古形を保存するっていうふうにいうことができます。
 つまり、こういうものは、南島における、そういう火の神祭儀みたいなもの、つまり、共同宗教としては、けっして、歴史といいますか、神話を残さなかった、つまり、神話をつくりだした勢力が残さなかった、そういう祭儀のなかに、わずかに、現在の段階では、見え隠れしているような、そういう祭儀っていうのが、もちろん、本土においても、南島におけるのと同じように、存在するわけですけど、その祭儀の仕方っていうもののなかに、それの今後における追及のなかで、われわれが現在、当面している政治的な問題、それから、天皇制っていうものは何なのかっていう問題、それから、天皇制ってものを、相対化すべき視点っていうもの、それから、南島ってものが、辺境であるのか、つまり、単にそれは、辺境の一地区であるのか、一島々であるのか、あるいは、そうじゃないのか、つまり、辺境っていうような概念っていうのは、まったく、地域概念に過ぎないので、辺境概念っていうものは、いわば、時間概念に転換したときに、どんな意義っていうものをもつかってこと、つまり、辺境ってものを、地域概念として捉えるってことは、まったくナンセンスだってこと、そういう問題の追及ってものは、今後に主要な問題がかかっているんですけど、しかし、基本的な視点っていいますか、それがどこにあるかっていう問題、それから、それは、どういうふうなところに、いわば、方向性があるかっていうような問題は、現在、少なくとも、わたしにとっては、まったく自明のように思われます。
 しかし、それは、事実を重んずる人々、それから、研究者ってものは、そう思わないかもしれないですけど、しかし、問題は、理論的に接近していった場合に、どういうことがいえるかってことが問題なのであって、つまり、これは、さまざまな事実の羅列の中からは、なにも出てこないんだってこと、しかし、これも、保留をつけなければなりません、たとえば、事実の羅列ってものに終始して、あんまり早急に、これを、なんとかかんとか結論付けちゃいけないんだぞっていうようなことをいって、主張した場合に、ぼくが信用するのは、たとえば、柳田国男とか、折口信夫とか、ああいう人がそう言うなら信用するけど、それ以外の人が言ったって、ぼくは信用しない、つまり、ぼくは、そういう意味合いでは、理論が到達しうる先見性ってものを確信しています。
つまり、わたしが、あやふやなことは抜かす、ぜんぶ抜かす、つまり、早急な結論はぜんぶ抜かす、しかし、理論的に図られる根底ってもの、つまり、理論的に考えられる根底っていうのは、もし、理論に誤りがなければ、まったく明らかに、いまだ事実として、それほど固まった定説として存在しえない、そういう問題に対しても、理論は、その場合に、先行することができる、もし、それが正しいならば、先行することができるってことを、ぼくは信じています。そういう問題が、ひとつあります。

24 なぜ天皇家は父系制なのか

 それから、もうひとつの問題っていうのは、こないだも触れましたわけですけど、ノロ継承の祭儀でも、聞得大君の継承祭儀でも、すべて女性の巫女さんの祭儀なわけです。
ところで、天皇の大嘗祭っていう場合に、天皇制は、起源からさかのぼったところでも、これは、男性を主体とする、例外的に女性もいますけど、男性が、まったく、ノロとか、聞得大君と同じように、宗教的威力継承ってものは、男性によっておこなわれるってことはあるわけです。
そうすると、時間的にいいまして、もし、いわゆる母系制ってものが、先に存在して、そして、その母系制がなんらかの理由で、崩壊過程をたどって、父系制転化っていうものに、たどっていったっていうふうに考えれば、わりあいに、説明がつくわけです。
 そうすると、もちろん、時代的にも、さきほど言いましたように、はるかに、天皇の世襲大嘗祭っていうものが、同じ祭儀の圏内にあっても、同じ農耕種族が、支配権を握った以降の祭儀の形態をとっていても、はるかに、南島におけるノロ継承の祭儀みたいなもの、そういうようなものが古形である、古いかたちであるってことは、時間的にいえるわけですけど、そういう場合に、問題となるのが、母系制っていうものは、どのようにして崩壊するかっていうような、そういう過程ってものの、理論的な追及の問題ってものはあるわけです。
 ごく一般的にいいましても、たとえば、琉球王朝が再編成した聞得大君ってやつでも、王の姉妹ってものが、王を聞得大君にして、そして、聞得大君っていうやつのほうが、位取りとしては、高位にあって、そして、それの御託宣によって、王が政治的権力を発揮するっていうような、そういうかたちっていうのはあって、それが、次に、聞得大君ってやつは、王の細君よりも、位取りが近くなっていくっていうようなことが、事実問題としてもあるわけです。
 もちろん、天皇の場合にも、天皇の姉妹ってものは、たとえば、伊勢神宮なら伊勢神宮の巫女さんのかしらになるっていうようなかたちから、それから、時代が下っていって、天皇の娘が、巫女さんとして、伊勢神宮なら伊勢神宮へのあれになるというふうな、そういうふうな意味合いで、あんまり、母系ってものが、だんだん位取りが低く考えられていくっていう過程っていうのは、歴史的事実としても、もちろん、あるわけですけど、ちょっと、そういうことは、論理的にも、言えないといけないと思います。
 これは、一種の兄弟姉妹をてことして考えて、そして、性的な親和性、アフィニティってことですけど、親和性ってものと、性的なタブーですね、そういうものを、いわば、核として展開される親族理論ってものの問題になると思います。
いちばん簡単なかたちを考えますと、まず、こうしておきましょうか、たとえば、性的親和性ってものを考えます。それから、それと、いわば、裏腹をなすわけですけど、性的なタブーですね。性的なタブーっていうものを考えます。
 それから、財産とか、所有とか、所有ってことを考えます。ぼくは、考えたくないわけです。つまり、親族理論の本質的な展開の場合、考えたくないわけですけど、たとえば、ストロースみたいなやつは、だいたい所有をもとにして、あるいは、女性の希少価値ってものを基盤として、親族理論を展開しているわけですから、それと、交差しないとまずいですから、所有っていう概念をいれてみましょうか。
 それから、もうひとつは、性的親和性っていう概念のなかには、当初に申し上げましたとおり、これは、実際的、具体的な、あるいは、生理的な性行為をともなうっていう問題と、それから、いわば、観念における性っていう問題とがあります。だから、この場合、性的親和性っていうのと、具体的性行為をともなうか、ともなわないかってことを、ちょっと分けておいたほうがいいですから、それを考えてみましょうか。
 つまり、母系相続の原型を考えますと、ここに父親がおり、母親がおり、あるいは、夫がおり、妻がおりでもいいんですけど、そうして、娘がおりっていう場合に、母親と娘の間には、性的な親和性があり、性的なタブーがあります。それと同時に、もし、母系相続の原型では、所有は、母親から娘へっていうふうに伝えられます。
 それから、父親と娘との関係は、この場合に、性的親和性ってものと、性的タブーっていうものが考えられます。この場合、また断っておきますけど、この場合、ぼくが性的っていうふうに使っている定義を忘れないでおいてください。誤解を起こすといけない。
 そうしますと、それから、父と母の間には、性行為と、性的親和性っていうのがあります。もちろん、性的反発もあるでしょうけど、性的タブーはありませんから、この場合、反発は、親和性とおんなじというふうに考えて、タブーはありませんから、だから、こうなります。
 ところで、さきほど言いましたように、兄弟姉妹を中心として、つまり、兄弟姉妹関係ってものを核として、親族っていうものを考えていこうと考える場合に、それだけにしとかないで、この姉妹っていうのを、父の、たとえば、姉妹ってものをくっつけましょうか、父と姉妹の間には、性的親和性と、性的タブーが存在します。
 このかたちっていうものは、非常に単純な原型でしょう、その場合に、親族の展開ってものは、性的親和性と性的タブーとをてこにして展開されますから、親族の展開過程ってものは、単純な原型では、こういう展開過程になります。なぜならば、ここには、所有をともなうからです。だから、われわれの考え方では、ここでは、親族展開の契機はございません。ございませんってことを強調しておきます。

25 純母系制から父系が相伴された母子相続へ

 ところで、これに、たとえば、父系優位っていいますか、男性のあれが、ちょっとだけ、純母系相続に対して、男性の発言力とでも申しておきましょうか、そういうものが、ちょっとだけ強くなったらどうなるんだってことがあります。
そうしたらば、非常にまた、単純に考えましょうか。そうすると、どこが違うかっていうと、依然として、母系をもとにして考えていますから、一切の、つまり、所有の相続も含めて、性的親和と反発の軸っていうのは、ここにあります。母親から娘にあります。
 それで、父親のほうは、こっちですと、性的タブーの関係しか存在しないわけなんですけど、やや所有についても、やや発言力がでてきたとしますと、実線で書くわけにはいきませんから、点線でいくらか、所有の仮想性みたいなものが、なんとなく、所有を相続するっていう、おれの所有を相続するんだっていうような感じが、やや仮想されます。そういうことが考えられます。
 そうしますと、その要素がでてきますと、つまり、所有の仮想性ってものが、父親から娘へってところに加わっていきましたときに想定される父親と、あるいは、兄弟姉妹でいいんですけど、それの姉妹ですね、それとの性的親和と性的タブーの関係も、こちらの場合よりも、やや弱められるだろうというふうに、想定することがまったく理論的です。
 そうしますと、そういうかたちが、非常に単純なかたちを考えられます。そういう例は、つまり、この問題は、本来的にいいますと、せいぜい家族の共同性、あるいは、親族の共同性の問題ですから、あんまり、制度的問題には、そのままならないのです。
 だけども、研究者は、そこのところが、専門家っていうのはそこのところ無造作ですから、だから、そういう例を拾ってくれないのです。つまり、家族なり、親族なりの問題のなかで、それを拾ってくれないんです、そういう関係を。そうしておいて、一種の制度性の問題と混同して拾ってくれてるんです。
 だから、研究者が、そういう例をあげているのは、采女とか、采女っていうのは、諸国における、わりあいに、国造とか、県主とか、そういうところの家の娘を、一種の巫女さん代わりに、中央に、朝廷に召し上げるっていう、そういうあれですけど、そういうものとか、神社の女性の巫女さん、それから、神社の巫女さんの系譜、それから、南島でいいますと、沖縄の久高島なんていうのは、わりあいに、琉球王朝の起源をなす神が降臨した地だっていうふうにいわれているところですから、あんまり、このかたちを固執するわけですけど、首里に近いような、わりあいに、ちょっと発達したところで、あれしますと、ノロ継承っていいますか、つまり、親族継承じゃなくて、こういう親族継承の例をあげてくれないんです。
 あるいは、親族における親和性、反撥性とか、変化の問題っていうのを研究してくれないのです。母系とか父系っていった場合に、家族、あるいは、親族の共同性の問題ってものと、制度の問題と、混同していますから、そういうふうに追及してくれないで、もっぱら、制度の問題しか追及してくれないですから、ちょっと困るんですけど、だけども、そうなりますと、そういう場合には、つまり、母親から娘へと、たとえば、宗教的な威力ですね、つまり、これは親族です。性的タブーと性的親和性っていうのは、そこにもございますけど、それは、所有関係をともなってそうですけど、ございますけれども、同時に、母親の兄弟です、母親の兄弟の娘ってものに、相続されるってこと、つまり、この場合では、研究者が例をあげているあれでは、つまり、宗教的祭儀の継承権ですけど、それが、母親から娘へといかないで、母親から母親の兄弟の娘ですね、だから、叔母と姪でしょうか、叔母と姪の関係に、宗教的祭儀権みたいなもの、そういうものの継承がおこなわれるっていうふうになっていくってなっています。
 ところで、混同するといけないから、言っておきますけど、いまいったように言いますと、性的親和っていうものと、性的禁忌っていいますか、性的タブーっていうものを、てことして展開されるものは、つまり、親族展開であるわけです。親族展開でありますけど、これは、もうひとつ、宗教展開として、新族的、あるいは、家族的、宗教展開ってかたちも、とりうるってお考えになってくださればいいと思います。
 しかし、共同威力はもちません。しかし、国家支配みたいなものにはいかないってこと、あるいは、国家的な意味での、宗教的威力の継承っていうのは、そういうことには、いかないのです。あくまでも、親族宗教、あるいは、家族宗教ですけども、これは、非常にストレートに、親族展開としていく場合もありますし、それから、ストレートに親族展開としていかないで、親族、あるいは、家族の共同性にとっての宗教展開としてもいくっていうふうにお考えくださればいいです。性的親和と性的タブーをてことする体系っていうのは、そういうふうな、両方にいくってお考えくだされば、わりあいに、はっきりすると思います。
 そうしますと、もともと、原型では、母から子どもへっていうふうに、性的親和、あるいは、性的タブーっていうのの、継承もそうですし、つまり、親族継承の問題も展開するし、それから、宗教的祭儀権も、ここで継承されるってなったのが、今度は、すこし、父系の要素が混じってきますと、母親の兄弟の娘に、母親から、つまり、叔母と姪の間に、宗教権が継承されるっていう例が存在してくる、それが、たとえば、采女なんかの例とか、神社の巫女さんが世襲されているっていうような例、それから、南島でいえば、古いかたちから、やや進んだ、やや文化的に発達した地域での、ノロの継承っていうような場合でも、叔母から姪へっていう継承がなされる例があるってこと、それから、そういうふうにいってきますと、今度は、父系っていうのが優勢になって、それで、なおかつ、母系的な相続っていうような、あるいは、母系的な展開っていうものの遺制みたいのがないことはない。つまり、無視しえないというような、そういう場合を考えますと、この図面に書きましたようなかたちを考えることができます。
 そうしますと、こうなります。そうなりますと、父親と、その兄弟姉妹との間の性的親和と、性的反撥、つまり、それは、南島でいえば、オナリガミといいますか、つまり、姉妹に霊的な優位があって、それが、なんらかの意味で兄弟に作用するっていうような、そういう考え方のところは、まあ、切れていくっていうふうに、つまり、残ってはいるんですけど、切れたとおんなじだっていうふうになっていく、その代わり、父親と娘の間に、それが転化されるってことです。
だから、そうしますと、親族の展開としては、どういくかっていいますと、こういう経路が親族形態のひとつの方法であり、それから、もうひとつ、母親と息子っていうのが、親族展開のひとつの、つまり、親族展開の可能性があるとすれば、そこであろうっていうふうにしかいえないってこと、それから、さきほど、ここでありました、母親とその兄弟っていう、そこも薄らいでいくっていうような、そこにおける性的親和と反撥っていう、親族展開のてこっていうものは、薄らいていくっていうような、そうすると、こことここしかないっていうようなかたち、それから、所有っていうものは、父親から息子へっていうふうに流れていく、つまり、継承されていくっていうようなかたちが考えられます。
 これも、親族、あるいは、家族の問題として、そういう探求をしてくれて、そういう研究がたくさんあると、ここに例をあげられるんですけど、やはり、そういうのは、ぼくが見た感じでは、あまりないのです。
 やはり、さきほど言いましたように、天皇の姉妹ってものが、たとえば、伊勢神宮なら伊勢神宮っていうものの巫女さんになるっていうようなかたちがあったのに、今度は、天皇の娘が巫女さんになるっていう形態にかわるっていうような。そういう例を採集しています。
 しかし、それは、ひとつには、宗教的見解であり、しかも、その宗教的見解も、つまり、共同宗教といいましょうか、つまり、政治権力ってものに転化しうべき宗教性ってものと、混同されていますから、ほんとうは、あんまり、いい例ではありません。だけれども、だいたい、そういうかたちであろうっていうことの意味合いは、これでもとれないことはありません。そういう転化の仕方っていうものが、考えられるわけです。
 みなさんが、そういうことをやってごらんになればわかると思います。やってごらんになれば、いわば、親族体系ってものが、どういうふうに展開するのかっていう、そういう問題についての、ある知見を得ることができるだろうっていうふうに考えられます。だから、みなさんがやってごらんになればいいと思います。概念は簡単なことであって、これだけの概念を使えば十分だと思います。

26 婚姻の居住性

 第二に問題になることがあります。それは、婚姻における居住性っていう問題です。つまり、結婚したら、父方に住むかとか、母方に住むかとか、あるいは、むこう方に住むかとか、嫁の家に住むかっていう問題です。
これは、みなさんにとっては、現在、あんまり、関係のないのかもしれません。だから、ひとつは、婚姻における居住性っていうのは、どういうことなんだっていう問題の本質理解っていう意味合いで聞いてくださればいいと思います。
 もうひとつは、おれには関係ねえっていうふうに、どっちにも住んでねえっていうふうに、おっしゃるかもしれませんけど、その場合の、住んでないという意味合いは、ちょっと自由な性愛とか、そういう意味合いとは、ちょっと違うと思いますから、そういう意味合いでは、あるいは、関係あるかもしれません。つまり、別居婚なんていうのは、平安時代もありますから、つまり、居住性ってものの展開過程を考えてみます。
 居住性って何なのかってことがあると思います。これは、ここに書いてきましたけど、居住性っていうのは、ひとつは、ようするに、バランスの問題です。おかしいですけど、つまり、性的親和っていうものと、性的禁忌、つまり、性的タブーってものを、てこにして展開されるもの、それは、親族体系であり、あるいは、親族宗教の共同性でありますけど、そういうものの、ある段階における全体的なバランズってものが、居住性を決定する要因だろうっていうふうにいえまず。
 それから、もうひとつは、婚姻性ってもののなかの時間っていうもの、時間っていうものと、空間っていうものの相互転換の地点だってこと、つまり、ポイントだっていうふうにお考えくださればいいと思います。
 だから、もし、母系相続っていうものを主体にて、いままで考えてきたように考えますと、だいたい、いちばん簡単に考えるのは、旦那のほうが、つまり、婿のほうが、嫁のほうの家に移って、同居するっていう、そういう居住性です。それは、つまり、母性婚といいましょうか、それが、いちばん簡単だと思います。母系制相続における居住性の原型っていうのは、そういうものだと思います。
 それから、転化した場合を考えてみます。そうすると、ここには、A,Bとしましたけど、夫が、つまり、婿のほうが妻方にある期間住んで、ある期間住んだのちに、細君を連れて、自分の婿方の家に移り住むっていうかたちがあります。
それから、もうひとつは、別居していて、男性のほうが夜だけ女性のところに通う、別居婚っていうのがあります。別居婚っていうのは、形態だけ考えると、そんなにモダンなものじゃありません。
 その三番目に考えられるのが、つまり、この儀式が問題になりますけど、夫が、妻方で、婚姻の式を挙げて、ある期間、妻方に通って、ある期間を経たのちに、妻子を連れて、夫方に移るっていいますか、引き取るっていいますか、つまり、だんだん、父系制要素が強くなったと、それは、一次的方向でしょう。
 それで、四番目に、またこれは、バリュエーションがあると思います。これは、妻方のほうで式を挙げて、それから、今度は、夫方へいって、式を挙げて、そのあと、夫方の家で住むっていうかたちが考えられます。
 それから、今度は、式なんていうものは挙げないで、夫方で、仮祝言といいましょうか、つまり、仮の式を挙げて、妻は夫方に住みつくっていうような、だんだん、近くなるでしょ、その次に考えられるのは、式を夫方でおこなって、そのまんま、夫方に住みつくっていう、ほぼ現代の大部分はそうじゃないでしょうか、大部分は、ほぼこれに似ているんじゃないかと思います。
 みなさんのほうでは、それに反発されて、いろいろなかたちがあるんでしょうけど、だいたい、そうじゃないかと考えると、展開過程っていうのは、1から2のA,Bにいき、また、3にいき、それから、4にいき、4のバリュエーションがありますけど、それで、5へいきっていうような、これは、いわば、居住性の転化っていうような過程として、考えることができると思います。
 現代において、たとえば、核家族化が進んでいるっていうようなことが言われます。核家族化が進んでいるってことがいわれて、それは、夫婦と子どもっていうので、家族を形成するっていう、わりあいに、親族依存っていうものについては、あんまり考えないっていうような、そういうあれが進んでいるっていうふうに言われています。
 もっと高度なかたちっていうふうに考えると、それは、一種の別居婚っていいますか、そういうこと、男女平等の基盤に立つと、女性も男性も別のところに住んでいて、それぞれ、もちろん、経済的にも独立し、別々の仕事をおこない、そして、適当なときに、どっちが訪問しても、どこでもいいんでしょうけど、そういうふうにして、時に応じて、相会うっていうような、それは、みなさん、わりあいに、好きなのかもしれないけど、そういうかたちっていうものを、たとえば、核家族化の後に、想定するっていうような、そういうことが、あるいは、家族理論の範囲ではあるかもしれませんけども、そのことは、けっして、自由な性愛の結合ってものを意味しないってことだけは、知っとかないといけないと思います。問題にしなくちゃいけないと思います。
 そんなものは、ちっとも、自由な性愛じゃないってことは、形態じゃないってことは、知っておいたほうが、考えておいたほうがいいんじゃないかって思います。それは、なぜ、そうじゃないかってことは、もちろん、理論的にも言えますけども、そんなこと言わなくたって、実際に、みなさんのなかでやってる人が、実感でわかるでしょうけど、あんまり、自由でないってことはわかると思います。

27 〈南島〉の婚姻形態

 ところで、南島における婚姻形態ってものを考えてみます。そうすると、いくつかのあれがあります。これは、こういうことがあったという形態、現在も存在する部分もありましょうし、もう壊れた部分もありましょうし、また、遺制としてだけしかないって場合もあるから、それは、南島の婚姻形態と書いてありますけど、いまもこういうふうに全部やってるんだってお考えにならないでくださったほうがいいと思います。
 那覇で、婿入りを先にやって、妻方で、つまり、嫁さんのほうで、饗食をうけて、それで、つまり、妻方の家の人の先導で、台所にいって、竈の火を拝んで、それで、嫁さんの母親の前で、杯事っていうのは、つまり、三々九度でしょうけど、それをおこなって、婿のほうが、嫁さんの母親をお母さんと呼ばせるっていうような、そういう風習がありました。いまもすこしあるかもしれません。
 それから、ヤンバルでは、式のときに、婿と婿方の親族が、酒肴を持って、嫁方にいって、やっぱり、竈の火を拝んだり、祖先の祀ってある仏壇、神棚を拝んで、嫁方の両親と酒盛りをするっていいますか、饗食をするっていいますか、そういうあれがありました。いまもまた、すこしはあるかもしれません。
 それから、宮古島、やや台湾に近いほうにいきますけど、式のときに、婿のほうを連れた仲人になるやつが、夜の明けないうちに、嫁の家にいって、嫁の両親と、こっちと同じで、杯を交わし、次に、やはり、祖先の位牌とかに供え物をして、竈の火の神にも同じようにして、そしてやっぱり、嫁の両親に挨拶をして、それから、帰る。
 伊平屋島では、一種の竹馬に婿を乗せて、嫁方のほうに連れていくっていうのは、これは、村の同年輩の青年とか、そういう仲間とか、友だちとか、そういうことでしょうけど、連れていって、火の神を拝むんだっていって、婿をからかったり、いじめたりする風習があります。いずれにせよ、嫁方の火の神、つまり、家の神っていう祭祀に対して敬意を表するとか、嫁方の両親に敬意を表するってことだと思います。
で、与那国では、婿が嫁方のほうにいく代わりに、本人がいかないで、仲人が代役で、嫁方の祖先祀りをやる、つまり、嫁方の火の神を拝んだり、そういうあれがあります。
 これらは、形態として、どういうことになるかっていうと、だいたい、ここのところに近いことだと思います。つまり、母系相続制のなごりってものがあって、なごりを尊重するっていいますか、尊重しておいて、面倒くさいんですよ、尊重するっていう問題と、それから、双系形態っていうのは、つまり、母系尊重と、それから、父系尊重と、平等に尊重するっていうようなことなんですけど、そこに父系的っていうふうに、言わざるをえない、あるいは、言ったほうが適切だと思われるような、そういう双系形態っていう、そういうふうなものとして考えることができます。
 で、だいたい、そういうかたちっていうのは、わりあいに、ないことはないのです。あんまり、純母系相続制をとるか、そうじゃないかっていうような、純父系制をとるかってことは、これを、純父系制、これを、純母系制みたいに考えると、さまざまな要因で、ありうるわけですけど、だいたい、これは、ほんとうの確定っていうのは、いままで、ぼくなんかが、文献に依存するかぎりでは、確定して、これこれの理由によって、この種族では、母系をいまだにとっているとか、あるいは、母系をとっているのは、古いんだとか、そんなことは、あんまり言えないってことがいえます。つまり、そういうことについて、断定することができないと思います。これは、ぼくが断定できないだけなのかもしれませんけど、断定はできないと思います。
 また、単純に時間的前後の問題だっていうふうに、一般化することもできないですし、また、それは、地域の問題だっていうような、地域的感染度の問題だっていうふうにも、一般化することができないっていうふうに思われます。
 ただ、わが国で、それ以前が、ともかくとして、われわれが、南島における共同祭儀ってものを問題とし、そして、その問題を軸として、問題を立てていくかぎりでは、母系制から父系制への転化っていうのを考えてよろしいだろうと思います。
 それ以前ってなった場合にはわかりません。つまり、以前の問題まで含めていったら、なかなか言えないってこと、それから、もうひとつは、これらの、ぼくは文献に依存するわけですけど、つまり、ぼくが、たまたま読んだ文献のいくつかに依存して、こういうふうにしてあるわけですけど、しかし、それらは、一様に、いま申し上げましたとおり、母権、あるいは、父権っていう場合に、それを、国家、あるいは、共同体の、つまり、宗教から法へ、法から政治へっていうふうに、そういうふうに転化しうる意味合いでの共同体における父系とか、母系とか、父権優位とか、母権優位っていう問題と、それから、問題を厳密に、親族体系、あるいは、同族体系、あるいは、家族形態っていいましょうか、そういうものにおける母系・父系相続の問題ってことと混同していますから、論理的に混同してありますから、そういう意味合いでは、あんまり使えないってことがいえます。つまり、そういう意味合いでも、あんまり断定することができないっていうふうに、ぼくはいえると思います。

28 レヴィ=ストロースの親族研究

 だいたい、そういうことを考えれば、そういうところで、親族の展開の問題ってもののあれは、いちおう、つくわけですけど、その付録としまして、クロス・カズン婚といわれているものがあります。これは、日本語で、交叉イトコ婚というふうに、学者、研究者は、そういうふうに訳しております。
 このクロス・カズン婚っていうのは、ストロースの親族理論っていうものの基本になっています。それで、ストロースの親族理論っていうものは、こういうものだっていうふうにいうと、おまえ読んでもいないくせにっていうから、困るわけですよ、だけど、ぼくは、読んでもいねえからっていうのは、訳してもいねえから読んでもいねえので、つまり、訳してもいないくせに、ストロースはこうだなんて言うやつがいるでしょ。そういうのは、ぼくは、そのほうが問題だっていうふうに思っているわけです。
 ぼくは、ストロースの親族理論については、いちばんいい要約と紹介をしているのは、大林さんの初期の業績で、『東南アジア大陸諸民族の親族組織』っていう本があります。これが、非常に、わりあいに緻密に、適切に紹介しております。それから、有地亨さんの「クロス・カズン婚の意義」っていう論文があります。これは、ストロースの親族理論のある程度の紹介、要約、解説です。
 ぼくが読んでいるのは、これだけです。しかし、これだけ読んでも、こちらに理論的準備があれば、充分わかるのです。充分わかるのですっていうのは、基本的なところは、まちがいなくつかめると思います。だから、まちがっていないというふうに、ぼくは思っています。
 だけれども、どうして、たとえば、ストロースの親族理論ってものが、日本に紹介されていて、読んでる人もいるかもしれません。たとえば、大林さんなら大林さんが読んでいるかもしれません。みなさんのなかで、たとえば、人類学みたいのをやっている人は、ゼミかなんかで、読み合わせをやっているかもしれません。つまり、全部は読んでいないでしょうけど、やってるかもしれません。だけど、なぜ、たとえば、ストロースっていうのは、構造主義者のなかで、最もいいと思うんですけど、なぜ、それじゃあ、たとえば、日本の構造主義者と称するやつらは、どうして、ストロース、ストロースって言いながら、しかし、ストロースの主著ってものをとっかかって、それを翻訳して、それを移植するっていうような努力をしないで、訳されているのは、つまらんものばっかりです。そんなものを訳して、そして、ストロースはなんだかんだっていうふうに言ってるでしょ、ぼくは、そういうのは、ものすごく退廃だっていうふうに思っています。
つまり、なぜ、そういう主著が訳されないかっていうと、そうとうな大著です。つまり、これを訳すには、良心的にいって、語学がよくできて、そして、わりあいに、専門的によく知っていて、そういうやつが、たとえば、2年なり、3年なり、やっぱりじっくりやらないと訳せないんです。だから、やらないんです。
 日本の、昔はっていうのは悪いけど、偉い学者がいたんです。このごろの民俗学者なんていうのは、ジャーナリズムちゃらちゃらちゃらちゃらした、3年か2年くらいかかって、ストロースの親族理論っていうのを緻密に訳して、そして、これを紹介の労をとるってことをやっていたら、人に忘れられちゃうでしょうから、だから、ちゃらちゃらつまらない、よせばいいものを、つまらないものを書いて、問題にならないわけです。そういうものを書いて、ちゃらちゃらしてるでしょ、そういうのが退廃なんです。だから、それでおいて、じゃあ、ストロースはなんだっていうふうに言うわけです。それは、おめえは読んでるか、読んでないか、知らないけど、しかし、そういうふうに言うでしょ、そういう専門家に満ち満ちているわけです。だから、そういうのが退廃なんです。
 しかし、ストロースの親族理論の基本的な点っていうのは、大林さんのこの本と、これと、ぼくはふたつしか読んでいないですけど、これだってわかるんです、つかめるんです。だから、ぼくはまちがいない(会場笑)、ぼくの考えが、ストロースと違うってことは、まったく明瞭なことです。違うってことは、みなさん、この考え方を、もっと検証されてみればわかります。そうすれば、どっちがいいのですか、それはわかります。それで、ストロースの親族理論が、たとえば、いまから2年くらい経ったら、でてくるかもしれません、翻訳して。みなさん、読んでごらんなさい、そして、そうしたらば、みなさんのほうにも、多少、そういう気があるから、そしたら、吉本の親族理論なんていうのは、親族の考え方なんていうのは、ストロースに比べれば幼稚だっていうようなこと言うんですよ、馬鹿にすんなっていうんですよ(会場笑)、そういうやつに満ち満ちているわけです。つまり、そういう格好よがりみたいなやつが、詩人のなかにも、専門家のなかにもいるんです。そういうのはダメなわけよ、ダメだっていうことを承知しといてください。
 つまり、こういう場合、このクロス・カズン婚っていうのは、どういうことかっていいますと、ここにやってきました、やってきましたっていうのは、ぼくの考えでやってきました、このクロス・カズン婚っていうのを問題にするのは、あんまり、意味がねえんだって結論になるわけです。
 なぜならば、クロス・カズン婚っていうのは、どういうところにでてくるかっていいますと、ごく一般的にいいまして、つまり、母系を主体にして考えます。そうして、父系における発言力といいましょうか、継承力、あるいは、所有って含めていいと思います。そういうものが、やや勢力を増してきたって過程にでてくるのが、クロス・カズン婚っていうわけです。
 これは、たとえば、父親と母親がいるとするでしょ、そうすると、たとえば、仮に双系的に考えて、父親と母親の発言力といいますか、そういうものが、所有権についても、それから、親族的な関係、つまり、性的親和、性的タブーっていうものをてこにした関係においても、仮にいま、仮定として、つまり、母親から娘への継承のほうが多かったのに、父親のそういうあれが増大したと考えるでしょ、そして、たとえば、同等になった場合を考えれば、いま言いましたあれからいいますと、所有って問題からいきますと、同等といま仮定しますと、こっちから娘へのあれも点線なわけです。
 そうすると、もしも、父親が、たとえば、自分の所有権限とか、あるいは、発言権とか、いろんなしきたりにおける継承権っていうものを、自分に都合のいいっていうのはおかしいけど、純母系的にいいますと、父親なんていうのは、無用の長物で、種馬みたいなものになるでしょ、そういう感じになるわけです。それだとおもしろくないってなってくる。
それが、同等になった場合を考えて、父親が考えることは、どういうことを考えるかっていうと、自分の姉妹ですね、自分の姉妹の息子と、単純な母系継承ならば、あきらかにいくところの、自分と細君の間にできた娘ですけど、それを結婚させるってことが、まず、それが第一段階なんです。
 そうすると、自分の、あるいは、所有権とか、いろんな権限を含めたものは、自分の姉妹ってものとの関係の、発達親和性ってものを考えていきますと、つまり、単に娘に継承させちゃうんじゃなくて、それと、自分の姉妹の息子と、たとえば、結婚させたらば、自分のさまざまな意味あいの権限ですね、風俗、習慣から、所有まで含めても結構ですけど、それが、なんとなく、自分の意に満たないようじゃなくて、ある程度、意に満つように、それならば、なんとなくいいやっていうようにいく、第一段階になりうるわけです。
 それで、そうすると、どういうことになるかっていうと、ぼくは、七面倒くさいんですけど、そうすると、もしも、父親と母親の所有権を含めた、さまざまな権限とか、発言力とか、そういうものが同等だとしますね、そうすると、点線であらわしました、所有っていう概念であらわしましたけど、そういう場合でも、もし、父親と母親が同等ならば、それは、娘に継承される、そういう問題っていうのは、いずれも、半々になっちゃうわけです。
 半々になっちゃうっていうのは、おかしい言い方ですけど、つまり、父親にしても、自分の娘には違いないわけですから、いくら母系相続だっていっても、自分の娘に違いないですから、だから、もしも、母親と父親の発言力が同等であると考えた場合には、つまり、娘に継承されるあれっていうのは、半々みたいになっちゃうでしょ。そうすると、だけども、こういうふうに、自分の姉妹の息子と、たとえば、結婚させたら、いずれにしても、半々で結婚するってことはないわけです。いずれにせよ、なんとない雰囲気では、ここへ、なんとなき所有権から発言力までの、まあ、それならばいいやって感じがでてくるわけです。

29 クロス・カズン婚は普遍的ではない

 ところで、そういうふうに考えても、そこからは、ぼくらの考え方のあれになるわけですけど、ところが、父親が、姉妹の息子と、自分の娘を結婚させようと考えたっていうふうに考えても、今度は、ここが問題なんです。
 つまり、兄弟姉妹関係ってものを、てことして考えますと、この姉妹の旦那ですよね、これを母親といえば、父親です。それでいえば、やっぱりあれでしょ、つまり、南島的にいえば、オナリガミ関係、兄弟姉妹関係になるわけです。
つまり、この父親、母親を中心として考えると、この兄弟の息子と、自分の娘を一緒にさせればっていうふうに考えればいいようだけど、よく考えてみると、この姉妹っていうのの旦那から考えてみると、これはやっぱり、兄弟姉妹関係でしょ、そうしますと、そういう、もしも兄弟姉妹関係の遺制っていいますか、なごりっていいますか、そういうものが、性的親和性と、性的タブーっていうような問題、つまり、親族展開のてことしても、それから、親族宗教、あるいは、家族宗教性の展開のてことしても、わりあいに、強力な場合を想定しますと、これが、せっかく姉妹の息子と一緒にさせたらよかろうと思ったんだけれども、その姉妹の夫との関係からみれば、等価になってしまうんです、この姉妹と夫との関係っていうのは。
 そうしますと、そういう段階で、もし、父親の権限が、ある程度、増大してきた場合、優勢になってきた場合っていうのは、この場合に該当するでしょ。そうしますと、そこでの、たとえば、親族継承とか、あるいは、宗教継承っていうのは、母親から娘にいかないで、母親から兄弟の娘へっていうように、転化するっていいましたでしょ、ある程度、権威が増して、そうしますと、所有性っていうものの関係っていうのは、たとえば、兄妹の息子と結婚させたらよかろうと思ったんだけれども、そういう意味合いでの、兄弟姉妹関係を支配していた親和性とタブー、あるいは、宗教的な意味のつながりっていうのは、そういうものは、ここから、父親の権限が増大してきて、母系をある程度、なかにともなってきた場合には、こういっちゃうわけなんです。こういうふうに、性的親和と反発、つまり、宗教的継承、あるいは、親族展開の継承っていうのは、こういうふうにいっちゃうわけでしょう。
 それから、つまり、これからみれば、この父親の娘っていうやつは、姪ですから、だから、父系が強くなったときのタイプからいけば、当然、これからこういっちゃうわけでしょう、その面だけ。それから、こっちの、もとにした母親からいえば、兄妹の娘にいっちゃうわけでしょう、そういう意味合いの継承性っていうのは。
 そうすると、この継承性、つまり、親族展開の継承性、あるいは、宗教的、つまり、親族宗教、あるいは、家族宗教の展開の継承性っていうものの仕方と、あるいは、元来は所有とか、あるいは、権限とか、そういうもののいくだろうとして予想されたいき方とは合致しないでしょう。合致しないことになります。
 そこでの分裂っていうものは、たとえば、日本も含めて、南島もそうですけど、つまり、氏族外婚制っていうのをとっていないところで、つまり、内婚制であるところです。内婚制であるところっていうのは、内婚制で、かつ、わりあいに、双系的なところへいったところ、そういうところでは、クロス・カズン婚みたいなところ、つまり、イトコ婚、クロスでも、パラレルでもいいいんですけど、イトコ婚みたいなものは、あんまり、とくに問題とならない要因っていうのが、そういうところにあると思います。
 これは、それから、もうひとつ、所有とか、女性の希少価値とか、略奪婚、あるいは、希少価値における交換性が、氏族外婚においては、たとえば、家族における近親婚っていうものと、それから、氏族外婚っていうもの、つまり、氏族内婚を禁ずるっていう問題とは、同等だっていうふうに、ストロースは考えるわけですけど、そういう意味合いの所有性ってものが、けっして、親族体系の展開を支配するものでないということがいえるってこと、それから、もうひとつは、パラレルにしろ、クロスにしろ、つまり、イトコ婚っていうのは、イトコ婚も又イトコ婚でもいいわけですけど、そういうのが、かならずしも、特別な意味をもたないってことが、ぼくはいえると思います。
 現在の段階で、ぼくらが、これは、論理的、必然的に考えられるところからいえることは、だいたい、そういうところに尽きると思います。親族の問題についていえるところは、そういうところに尽きると思います。

30 ヒメ-ヒコ制は擬制に過ぎない

 もうひとつ、付録の2ってことになります。付録の2っていうのは、それならば、いままで言いましたように、親族体系、あるいは、親族における宗教体系っていうもの、あるいは、家族における宗教体系、あるいは、親族における宗教共同性っていうものと、それから、制度として、つまり、国家制度、あるいは、部族共同体以降の制度、国家以前の国家における権力の問題とは別にしなければならない問題というふうに、別に考えなければならないといったでしょう。
 そしたら、別に考えられるものっていうのは、いわゆる、ヒメ-ヒコ制っていうふうに言われているもの、つまり、沖縄でもいいですし、魏志倭人伝の邪馬台国でもいいですけど、つまり、非常に宗教的な威力をもった女性が、神からの御託宣をいただいて、そして、その御託宣に基づいて、男兄弟が、ようするに、政治的権力を行使するっていうような、そういう形態をヒメ-ヒコ制っていうふうにいっていますけど、つまり、そういう権力形態におけるヒメ-ヒコ制っていうものは、いったい何なのかってことは残るわけです。
 つまり、ぼくらが当初から考えてきた考え方によれば、政治権力における、あるいは、国家権力における、あるいは、共同体権力における権力者が女性であるか、男性であるかってことは、問題にならないはずです。つまり、人間が男性であるか、女性であるかっていうふうにあらわれるのは、人間の個体ってものが、他の個体であるところ、あるいは、それを巡るところ、つまり、家族、あるいは、親族のところでしか、それは、問題にならないのであって、それが、共同体、あるいは、国家、そういうところの権力のところでは、その権力者が男であるか、女であるかってことは、まったく擬制的なことにすぎない、つまり、そういうことは問題にならないのだってことです。問題にならないはずなのです。だから、ヒメであろうと、ヒコであろうと、そんなことは、問題にならないってことです。
 だから、けっして、親族、あるいは、家族の共同性における展開過程を制度における、あるいは、政治権力におけるヒメ-ヒコ制ってものと、それほど、即座に結び付けてはいけないってこと、つまり、政治権力、あるいは、国家権力における、あるいは、国家以前の国家における権力形態としてのヒメ-ヒコ制っていう場合に、そのヒメ-ヒコという、セックスという問題は、ほんとうは、擬制にしか過ぎないってこと、本質的な問題じゃないってこと、つまり、言い換えれば、そんなとこで、男であろうと、女であろうと、つまり、支配者が、男であろうと、女であろうと、そんなことは、問題にならないんだってことです。また、問題にすべきではないということなんです。
 だから、もし、『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国のようなもの、あるいは、聞得大君と琉球王朝の王との間の関係のようなもの、そういうようなものが、国家的制度、あるいは、国家的共同体の制度として、威力を発揮しているっていうふうに考えた場合に、何を取り出してくればいいかってことをいいますと、いま言いましたように、ひとつは、それは、性的な擬制にすぎないってこと、そういうことは、性的な擬制なんだ、ところで、男性、または、女性っていうのは、あんまり問題にならないんだってことなんです。
 しかるに、そういうことが問題として存在するならば、それは、氏族制以前の段階の遺制が、強力なかたちで保存されているっていう、そういう政治的な制度、あるいは、体制だっていうふうに、たとえば、邪馬台国にしろ、なんにしろ、考えたほうがよかろうっていうことがいえるということです。
 それから、もちろん、さきほども言いましたように、それは、大和朝廷以前としてあるってことは、まったく確実なことだってこと、なぜならば、それは、すでに、父権的なところで問題になっていますから、つまり、こんなになったときには、神とともに寝るもへちまもないので、伊勢神宮とかなんとか知らないけど、そういうところに神さまだけを集めちゃって、政治と分離していくわけです。わりあいに、父権的な、あるいは、父系的な段階です。だから、大和朝以前的であろうってこと、以前的でありながら、なにものかが関連性を考えるだろうということがいえると思います。
 この問題は、たとえば、大和朝廷っていうのは、このヒメ-ヒコ制ってやつを、これは、神話としてしか保存していないわけです。つまり、神話におけるアマテラスと、その弟であるスサノオっていうような、そういうようなかたち、で、アマテラスが宗教的権威をふるい、スサノオが、たとえば、農耕社会における権力をふるうっていうような、そういうかたちは、いわば、神話としてしか保存していないってこと、つまり、大和朝廷以前的であるわけですから、それを神話として保存しているってことなんです。
 それで、神話っていうものは、つまり、さまざまな観点から考えることができるわけですけど、なにが重要かっていいますと、神話をつくった直接の勢力ということは、作為的にでてくるわけです。そうじゃなくて、神話をつくった勢力に包括される種族、あるいは、民族でもいいです。そういうものの、わたくしの言葉でいえば、共同幻想なんですけど、つまり、共同幻想と、なんらかのかたちで関連がある、あるいは、なんらかのかたちで、それの表象とみられるっていうところでは、神話っていうものは、よくよく考えなくちゃいけない、つまり、本質的な問題を含んでいるってことです。

31 神話をどう解釈するか

 神話の解釈にはいろんな解釈の仕方があります。つまり、神話のこの点は事実であるとか、この点は、歴史的事実である、この点は、こじつけであるとか、あるいは、他の比較神話学っていいましょうか、他の周辺地域における神話と比較すると、こういう共通点があるとか、こういう違うところがあるっていうような、そういう考え方もあります。
それは、どこそこの神話からとってきたんじゃないかっていうような、そういう箇所じゃないかっていうような、そういう考え方、つまり、比較神話学みたいな考え方もありますし、また、神話なるものは、すべて、古代における祭式、祭儀ってものの、それの、いわば、物語化であるっていうような考え方っていうのもあります。
 たとえば、それは、西郷さんが、岩波新書の『古事記』なら『古事記』っていうものでとっている考え方です。そういう考え方もあります。それからまた、神話のこの部分は事実であり、また、この部分は架空のものであり、この部分はでっちあげであるとか、そういう選り分けっていうやり方もあります。
 この選り分けの根拠は、たとえば、考古学的発掘であり、また、理論的考察であり、あるいは、文献的探究であり、さまざまにありますが、こういう様々な神話の理解の仕方っていうのがありますけども、どれがいいんだってことは、そのいずれかの方法をとっている場合に、この人の説がいいっていうようなことは、残念ですけど、いまのところ、日本の神話である、たとえば、『古事記』なら『古事記』について、あるいは、『日本書記』について、それは、絶対に断定できません。誰の説がいいってことは、絶対にいえません。断定できません。
 つまり、いずれも、ぼくらは、そういうふうに、たとえば、プロ野球で3割何分、打率があれば、そうとうなあれだってなるのと同じように、そういう神話ないし、古代史における研究においては、打率3割あれば、まったく優秀な学者であるっていうふうに、ぼくらは思っています。
 あとは、たいてい、野となれ、山となれ、見てきたような嘘を言っているっていうような問題であって、あるいは、文献を、非常にありうべきことのように、文献探求なんかでつなぎ合わせるってこと、やっぱり、そういうことは避けられないんですけど、これの語呂合わせじゃないですけど、そういうこと、語呂合わせみたいなことは、避けられないんです。つまり、人間の欲望として、とくに、それに生涯を、生涯じゃないけど、何年も打ち込んで、やっと学位をとったみたいなやつだったら、なんかものすごく共通なところがあると、これだっていうふうにやりたくてしょうがないわけです。そういう欲望っていうのは、とくに、現在の問題じゃないと、とくに、それが湧くんです。
 だから、そういうことは、誰にでも避けられないようなものですけど、やっぱり、3割打率があれば、まったく充分だ、つまり、たいへん優秀な学者だっていうふうに、研究者だっていうふうに、ぼくはいえると思います。自分で、それ以上の打率があると思っているやつは、やっぱり、馬鹿だと思ったほうがいいと思います。
 そういうふうに考えますと、つまり、現在のところ、断定することはできません。だから、ただ、われわれはっていうといけません。ぼくは、断定できるのは、神話の問題のなかで、この問題があったら考えなくちゃいけないっていうのは、たとえば、種族、もともと神話なんていうのは、種族、あるいは、民族を支配した連中がつくるわけですから、そういう意味の作為が含まれています。
 それから、どこかから盗んできたっていうのもありますし、いろいろあるわけですし、また、近隣との関連性みたいのもあるわけですし、いろいろありますけども、その勢力に包括されているとみなされる種族、あるいは、民族なら民族っていうものの、わたしらの言葉でいえば、共同の幻想なんですけど、つまり、共同の観念っていうものの核、集まるところ、あるいは、共同の観念の中核であるとつかめるところのもの、そういうものの象徴となっている箇所ってものが、もし、あるならば、それが、いかに、物語として架空であろうと、あるいは、歴史的事実として、どうであろうと、そこのところは、本質的に考えなければならないところだっていうふうにいえると思います。
 だけども、いかに、歴史的事実、あるいは、考古学的事実と、類推がきくような箇所が、神話の記述のなかにあっても、それが、もしも、種族的、あるいは、民俗的に、神話をもつ国家権力なら権力に、包括される種族なり、民族なりの、ある共同観念、あるいは、共同幻想というものの象徴となっている、あるいは、核となっているものと、関連性がなしとみられるならば、いかに、事実らしきところであっても、それは、捨てたほうがよろしいであろうと思われます。
で、わたくしどもが、まったく理論的にいえることは、神話については、そういうことだけなんです。だから、そういうことから考えていって、われわれが、たとえば、南島において、かなり、制度的遺制としても、わりあいに近い時代、つまり、13世紀まで保存されておる、そういうような、いわゆる、ヒメ-ヒコ制の原型になっているようなものだったら、それは、やっぱり、氏族段階の前のところの遺制ってものが、かなりな強度で残っているって問題、それから、それは、依然として、大和朝廷以前的であるってことは、まったく確かなことであるってことだけはいえると思います。
そして、南島の問題は、いわば、単に、現在の政治に通過していく問題としてのみではなくて、それは、いずれにせよ、通過していく問題にしろ、一個の強烈な根底をもって、南島ってものが、われわれの眼前にあらわれなくちゃならないし、あるいは、それがあらわれてくるだろうっていうような、その問題が窮屈でたいへんだろうっていうような、たいへんな問題を、ほんとうは、内包しているだろうっていうようなこと、そういう問題があらわれて、それが、追及されていくのは、まったくといっていいほど、今後の問題に属するだろうっていうふうにいうことができます。
 その問題をひっさげてきたときに、たとえば、われわれが、単に、辺境地区であるとか、後進国であるとか、あるいは、アジア、アフリカであるとか、第三世界であるとか、そういうふうに言ってるところの問題ってものが、単に、そういうふうに、辺境未開っていうような問題ではないのだってこと、つまり、辺境未開だっていうような問題、あるいは、地域的な遠いところ、つまり、遠隔だっていう問題ではないんだっていう問題、それは、じつに、世界的同時性であるっていうような、そういう問題であるってことは、本格的にわかってくる、根底をもってわかってくるのは、そういうことが、今後、根底をもってなされてきたときであろうっていうふうに思われます。
 それは、まったく、今後の課題に属しているのであって、これは、いわば、南島の研究家、東洋とアジア、アフリカ問題研究家、あるいは、中国問題研究家、東南アジア問題研究家、どう言おうと、かれらがやっていることは、単に、それを、ひとつの地域としてみること、あるいは、後進地域としてみること、あるいは、未開地域としてみること、それは、世界の文明的、あるいは、文化的な最先端の社会、あるいは、国家、そういうものの被害を受けている地域である、被害者であるっていうような、それで、われわれは加害者であるっていうような、そういう甘ったれた考え方しか、現在のところ起こりようがないのだ、しかし、加害者=被害者であるっていうふうにいうこともできるのです。
 つまり、そういう問題が、本格的に解かれていくのは、まさに、今後の問題だっていうふうにいうことができます。それは、南島の問題であり、同時に、すべての辺境地区の問題であり、それは、後進国の問題であり、同時にそれは、世界の問題です。つまり、世界史の問題であり、世界の現在の問題だ、現在の情況の問題だっていうふうにいうことができます。そういう問題を、南島を追及していくことは、そういう問題に対する、非常に身近な、そして、切実な核のひとつだっていうふうなことがいえると思います。これで、いちおう終わらせていただきます。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま