1 マタイ伝にあらわれたキリスト教思想

 えっと、只今、宗教と自立ということで、お話しするということなんですけれども、わたくしはあの、まずそのとにかくわたくしなりにキリスト教に対する理解の仕方、理解の仕方、つまりこれは僕の独自の理解の仕方というところから話しに入っていきたいと思います。
 で、わたくしは以前にそういうことを書いたことがあるんですけれども、だいたい素材としては、マタイ伝というのは、大変典型的な素材なので、マタイ伝に表れたキリスト教思想というようなものから問題を考えていきたいと思います。
 なぜマタイ伝というものが、大変素材として適切であるかというのは、つまり、キリスト教会(?)にとって適切であるかという条件はいくつかあるわけです。
 で、そのひとつはですね、普通、いわゆる共観福音書と言われているものがあるわけですけれども、そのなかでマタイ伝は、わりあいに例えばマルコ伝というものが、わりあいに古いものとされているわけですけれども、マタイ伝というのはわりあいに、マルコ伝の持っている性格と言いましょうかそういうものを、わりあいによく保存しているということがあります。
 それからもうひとつは、マタイ伝の中にもうひとつ極度に、極端に強調されたキリスト教倫理と言いましょうか、キリスト教思想というものが、存在するということなんです。
 で、それからもうひとつは、やはりなんと言いますか文学的にもかなり優れたものである、文学的にも思想的にも、かなり優れたものであるというようなことがあります。
 で、そういう要素から考えまして、やはりマタイ伝というものに表れたキリスト教思想、あるいはキリスト教、宗教というようなもの、そういうものの問題から入っていきたいというふうに思います。
 で、一番わたくしどもが考えて、一番、例えば、マタイ伝の中で重要だというふうに思われることは、わりあいにはっきりと旧約聖書に表れた、つまり、預言者大望の思想というものとの作為的なつながりが、わりあいにはっきり出ているということなんです。
 つまり、旧約聖書とのつながり、つなげ具合というものが、わりあいに明瞭に表れているということなんです。
 それで、例えばどういうことかというと、つまり、イエスがこれこれの行動をしたと、そして、これこれの行動というものは、旧約聖書の中のこれこれの、つまり、なんと言いますか、預言的事実に該当するというような、そういう注釈というのが、かなり明瞭につけてあるというわけで、そのことは、非常に作為的に旧約聖書と、それからいわゆる共観福音書と言われているものとの間の関係づけというものを、作為的に明瞭にさせようという意図が感ぜられるわけです。
 それで、そういう意味合いで言いまして、マタイ伝の主人公であるイエスという人物は、旧約聖書の全重量を背負い、且つ、そこに新たなる、何か新たなる思想をつけ加えたというような、そういう要素は、わりあいに明瞭に、つまり、継承と断絶とが明瞭に描かれているようなことがあるわけです。
 どういうところが基本的に問題になるかと言いますと、つまり、イエスの、マタイ伝に表れたイエスの思想とされているものの中で、どういうところが問題になるかと言いますと、ひとつはつまり、ユダヤ教の一般的な律法、つまり、掟というものがいくつかあるわけなんですけれども、そのすべてに対して、かなり鋭い拡張解釈というものを、やってのけているということなんです。
 例を挙げてみましょう。いくつでもありますけれども、例えば、目には目を、例えば、歯には歯をというようなことがある。しかし、じぶんは強調するけれども、そうじゃないんだと、例えば、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せばいいんだという拡張がなされているわけであります。
 この拡張のされ方というのは、一見すると大変、なんて言いますかマゾ的なんですが、つまり、被虐的なわけなんですけれども、大変ほんとうの意味で鋭い拡張なんであって、それは、いわゆる普通の意味の無抵抗主義なんていうものの領域を、はるかに越えるわけで、むしろその中には、文学的な表現で言えば、なんて言いますか冷たい抵抗みたいなものが感じられるというか、そういうようなことを大変鋭い拡張なわけなんです。
 そういうことはたくさんあります。例えば、汝姦淫するなかれというのは、そういう例えば掟があるとすると、そうすると、単に姦淫することなかれなんていうことでは足りないんだ。だから、例えば心の中で情欲を持って異性を見たならば、その時にはすでに姦淫したんだというふうに言っているわけです。
 もともと姦淫するなかれという掟の根底になっているのは、夫のある妻君と関係してはならないとか、妻君のある夫と関係してはならないとか、いわば社会倫理の範囲を出ないわけですけれども、そのことを例えば、心の中で例えば情欲を持って異性を見たら、すでに姦淫したんだと、その時はつまり、右の目で見たら右の目をえぐり取ってしまえと、それから、左の目で見たら左の目をえぐり取ってしまえという、つまり、えぐり取られないで地獄に落ちるよりは、えぐり取られて天国に行った方がいいんだというような、そういうことを公然と言っているわけです。つまり、それはなぜ、どういうことかと言いますと、姦淫することなかれというようなそういう律法、ないしは掟に対して、非常に観念的な、大変観念的な領域にまで拡張しまして、つまり、心の中で色情を抱いて異性を見たらもう姦淫したんだという風に言っているわけです。
 そうしますと、そういうことは何を意味するかと言いますと、そんなこと出来るやつは、一人も人間としていないという訳なんですよ。つまり、ということは、どういうことかと言いますと、つまり心の中で色情を抱いて、抱かないで異性を見るということは、つまりある場合には可能ですけれども、しかしほとんど不可能なんです。人間にとってそんなことは不可能なことなんです。つまり、そんなこと絶対にないということは、不可能なことなんです。
 ということは、いわば姦淫するなかれという体で、ひとつのつまり掟というものを無限に拡張することによって、例えば、人間というものは、ものすごく人間性、あるいは人間の存在というのは、極限まで追い詰められるわけです。そんなことは不可能だというところまで追い詰められるわけです。そうすると、そんなところまで不可能だというところまで追い詰められましてね、しかもそれで例えばそして、そんな風に見たやつは姦淫したんだから、そしたら、右の目も左の目もえぐり取ってしまえと、そういうふうに公然と言っているわけです。
 そういう風に言われたことに対して、例えばどうするのか、つまりどう人間は、あるいは人間の思想というものは対処できるのか、つまり、人間の思想と言わなくてもいいですよ。倫理と言ってもいいです。あるいは道徳と言ってもいいです。あるいは性と言ってもいいです。そういうようなものは、つまり、そういう風な言われ方に対してどういう風に対処するのかといった場合に、そんなことは例えば、絶対に不可能であるというふうに言って、つまりこれを拒否するかですね、あるいは、もうそう言われたらしょうがない、つまり、嘘でも何でもしょうがないと、つまり、それに従属するより、つまり、人間は思想としては生きることができない、だから従属すると、そうでなければそんなことは絶対に不可能だから、あるいはもう拒否するよりしかたがない、つまり、どっちを選ぶかということを、つまり、いわば突きつけていることを意味するわけです。

2 人間性への無限の対決=無限の脅迫

 で、こういう問題というのは、キリスト教というのは、わりあいに、全ての宗教はそうですけれども、つまり、わりあいに倫理的であり、個人倫理的であり、あるいは個人宗教的でありますから、だからまだそんなこと言われたって、まだ抜け道はいくらでもあると、逃げ方はいくらでもあると、人間の生き方の中にはあるというようなことですけれども、つまり、こういう問題、こういう拡張のされ方を例えば、人間の全領域に対して、つまり人間の観念の世界が及ぶ全領域に対して、その種の拡張のされ方をされますと、人間というのは、つまり、人間の存在というのは、それに対して絶対に不可能であるということでそれを拒絶するか、あるいは絶対に従属するか、それ以外にはもう方法はないというふうになるわけです。  キリスト教は、例えばマタイ伝の主人公というのは、大変優れた思想家なんですけれども、これが主人公という風に象徴されているわけですけれども、つまり主人公というのは実在かどうかは知らないですけれども、主人公に象徴されているマタイ伝の思想というのは、大変優れたものなんですけれども、その優れた思想というものを、もっとも根本のところで支えているのは、その人の律法というものの拡張解釈、あるいは内面化、あるいは何て言いますか絶対化、そういうところが最大の点だというふうに思われます。
 これは、愛についても憎悪についても、つまり、愛や憎悪についても、今言いましたように性についても、相当激しい拡張解釈をやっているのであって、つまりそれを突きつけられたときに、人間はどう生きるかという場合に、それは生きることができない、つまり、それは拒否する以外に方法はないというふうにいくか、あるいはそれを絶対的に受け入れると、受け入れてもしそれに批判するならば、それはつまり懺悔すると、つまり、自己批判すると、それ以外に方法はないというような、そういうような形で律法というものは、拡張解釈しているわけです。
 そこは、例えば、マタイ伝ならマタイ伝のあの主人公に象徴される思想というものは、あのイエスキリストの思想が、優れているということの最大のポイントだと思われます。
 で、言うまでもないことですけれども、宗教というものの発生の基盤は、もともとそんなに高級なところから発生するわけではないので、つまりそれは、普通、村落を支配している掟であるとか、あるいは村落を支配している迷信であるとか、あるいは一地方を支配している習慣であるとか、お祭りであるとか、そういうものにすぎないというか、そういうものから出てくるに過ぎないのですけれども、そこでのそういう宗教と言うものは、そういうふうに出てきてそういうようなところでとどまる限りは、いわば世界宗教たりえないので、つまり、人間の観念の世界に対して、ある楔を打ち込むということは出来ないので、一地方における、あるいは一地帯における土俗宗教と言いますか、土着宗教と言いますか、あるいは迷信と言いますか、そういうものにすぎないというものなんですけれども、キリスト教というものは、世界宗教として性格を獲得し、そして尚且つ、世界宗教としてかなり優れた世界宗教としての思想を獲得している点は、いわばその共観福音書というものに表れている思想の中で、いわば人間に対して、あるいは人間性に対して無限に脅迫を行うと言いますか、つまり、悪く言えば、無限に脅迫を行うわけで、よく言えば無限に対決を迫るわけで、つまり、お前はどうするのか、これに俺はこう言うと、しかしこれに対して、お前はどうするのか、お前はどう対処するのかと、お前は拒否するのか、拒否するなら行けと、それで、拒否しないならば俺に従えと。つまり、抜け道は少しもないぞというような意味合いで、鋭く人間の観念および現実性というものに対していわば楔を打ち込み、又、対決を迫るというところまで、思想というものを普遍化している。普遍化するというのは、人間性の全般に触れうるということなんですけれども、犯しうるということなんですけれども、そういうところまでいわば普遍化が成し得る、成し得たということ、しかもかなり優れた程度で成し得ているということが、キリスト教というものは、言うまでもなく世界宗教たらしめている所以であるわけです。
 その世界宗教たらしめている問題というものは、よくよく探っていきますと、どうしてもそういうところに行き着くわけです。
 それから、例えば、皆さんにそんなことを言うのは釈迦に説法みたいなものなわけですけれども、そのひの例と言うものは、数え切れないくらい挙げてあるわけです。
 例えば、財産のある青年がやってくると、お前どうしたらわたしは救われるのかというと、主人公は、お前財産と言うのは放り出して人に分け与えて放り出してしまえ、そして、俺に従わないと到底神の国なんていうのは、到底入れるものではないよと、そんなことを言うわけです。
 青年のほうは言うことがなくて、立ち去るなんてことになってるわけですけれども、それはまぁ、僕に言わせると、言うことがないのは当たり前のことで(笑)、つまり、誰も内面の王国と言いますか、内面の天国というもの、つまり、何ら実効性のない内面の天国というものと、それから、自分の財産と取り替える奴は、よほど馬鹿じゃなきゃいないわけです。
 つまり、馬鹿じゃなきゃいないということは、しょうがないわけです。そこまで言われたら、もうそれじゃさよならというふうに言うか、しかたがないから誰かに分け与えちゃって、従って行くと、要するに空手形なわけですからどうせ、ついていったってどうってことはないわけです。
 つまり、いいことなんかないわけです。つまり、悪いことだけしかないわけで、だけれどもついていくと、お前は信ずるからお前はついていくと、あるいは、お前は言うことを信ずるからお前はついていくと、そういう形でついていくか、あるいは、そんな馬鹿なことは、人間は出来るものではないということで立ち去っていくか、どちらかしかないというようなことになっていくわけです。
 それで、この種のエピソードというものは、わりあいたくさん散りばめられているわけです。で、その散りばめられていることが、ほとんどことごとく今言いましたように、右するか左するか、つまり、お前は受け入れるか受け入れないかということに対して、対決を迫るような、つまり、そういう言われ方で、そういうエピソードというのは収録されているわけですけれども、そういう対決を迫るというやり方でやりますと、受け入れるか受け入れないか、いずれかどちらかしかないというようなことになります。

3 すぐれた思想の根底にあるのは単純なこと

 例えば、自分よりも兄弟だとか、父親とか母親ととか、そんなものを大切にするような奴は、俺にふさわしくないと、つまり、俺よりもそんなものを大切にするなら、俺についてくる価値はないんだというようなことを言ってみたりね、それから、俺は、地上に平和をもたらすためにやって来たんじゃないと、俺は剣を投ぜんためにやって来たんだと、そういうようなことを言うわけです。
 そういうことを言ったかと思うと、愛というようなことも、また言ったりもするんですけれども、ちょっと矛盾するじゃないかといったことになるわけですけれども、しかし、いずれにせよ、俺よりも、例えば父や母や兄弟のことを愛するものは、俺にふさわしくないというようなことは、つまり、相当な奴じゃないと、ちょっと言えないわけです。(会場笑)
 つまり、そういう風に言われた場合には、やっぱりちょっとね、そうまでお前は信じられないよということでおさらばするか、あるいは、やっぱり家を捨て、家族を捨ててくっついて行くか、どちらかしかないというような、そういう形のエピソードと言うのは、いくつも数えられるわけですけれども、そういうことごとくは、いわば人間の使命よりも観念の領域というものに対して、ほとんどもう存在不可能であるというか、これを受け入れるのは、ちょっと人間性自体を破壊されるかどうか、もうどうしようもないという、そういうところまでいわば古い掟というものを拡張しているわけです。
つまり、観念的な拡張を、ものすごくはっきりやっているわけであります。
 で、はっきり拡張をやっているやり方が一番鋭いのは、マタイ伝なわけです。他の共観福音書に比べると、最も鋭い語調でそれをやっているわけです。
 で、その問題というのは、やはりそれ相当の優れた思想家、つまりマタイ伝ならマタイ伝の著者というのは、それ相当の優れた思想家であるという風に言うよりいたしかたがないわけです。
 つまり、そのいたし方のなさというものが、つまり何千年の間、人々の、人々のと言うより、ヨーロッパの精神というものを支配してきたわけでしょうし、又、支配に対して何らかの反発をした思想家というものもいた、例えば、ニーチェのような人もいた、ニーチェであり、マルクスでありというような人がいたとしても、しかし対決するに値するような思想というものは、もとを正せば共観福音書に表れた原始キリスト教思想のなかにその記述を見出すことは出来るわけです。
 その問題というものは、そういうような問題の立て方というのを、例えばこれをひとりの思想家が書いたものという風に考えたとして、ひとりの思想家を想定しますと、はやり相当優れた思想家だったというふうに言うよりいたし方がないので、つまり、そういう影響力というものは、単に地域性ということを越えるというだけじゃなくて、時間性をも越えて、数千年を越えられるというような、そういうふうに言うよりいたし方がないわけです。
 優れた思想というものの根底にある、何と言いますか問題と言うのは、そんなに複雑な問題ではないのです。つまり、常にわりあいに単純なことです。しかし、その単純さというものは、いずれにせよその思想に何らかの意味で接触した人々に対して、やはりお前は右にするか左にするかどちらかしか道はないぞというような、そういうことを無言のうちに突きつけるというか、そういうところを必ず持っているものです。
 それで、必ず持っているものというのは、決してそんなに複雑なものではないのですけれども、つまり、単純なものなんですけれども、単純なものでも右にするか左にするか、生きるか死ぬかどちらかだぞというのは、そういうことは、突きつけるだけのそういう迫力というものと、そういう率直さといものと、そういう何と言っていいでしょう、つまり、優れた要素というものを必ず持っていると言うことができます。
 で、こういうような意味合いで、別にキリスト教者でなくても、福音書に表れた思想というものに、ある評価を与えるということはできるわけです。
 つまり、それはやはり全ての優れた思想に共通な要素というのは、やはり共観福音書の中に散りばめられていて、つまり、大部分は、荒唐無稽の物語ですけれども、しかしその中に、優れた思想が単純率直な形で、つまりかつて誰も遠慮深くて言いえなかったようなことを、非常に単純率直に突きつけているというようなそういう要素が、必ず優れた思想にあるわけですけれども、それは例えば、マタイ伝ならマタイ伝に象徴される共観福音書の中にはそういうものがあるわけです。
 そういうものが、キリスト教時間的には、あるいは空間的に、地域を越えて、一地域を越えて、やはり何と言いますか、生きさせてきた根本にある問題だと思われます。
 それは、今も依然として偉大なことは変わりないわけで、また偉大であり、それはまた対決、ある意味では対決をそれぞれの人に迫るわけですし、また、対決することができなければ、それは立ち去る以外にはない、そういうようなことを、今でもやはり突きつける要素は含んでいるわけです。
 で、僕らは、つまりそういうところに最も惹かれたように思います。つまり、そういうところが一番ポイントとして、自分が惹きつけられた問題であったように思われます。
 で、もうひとつのことは、つまり、キリスト教内部にないものはもうひとつ、つまり、最も関心を覚えた点はどういうことかということ、つまり、マタイ伝の他の福音書の中にありますけれども、マタイ伝の中に特に著しく律法学者というもの、その大祭人というものに対する悪罵というものが、最も露骨な形で散りばめられているわけですけれども、
 その悪罵の仕方というものの中に、やはり今言いましたように、最大の憎悪の表現であり、それは、裏返せば最大の愛の表現であるかもしれませんし、けれどもつまり、最大のつまりなんと言いましょうか罵倒というやつがあって、その罵倒というは、その罵倒を聞くものにとって、お前どうするんだと、お前死ぬのか生きるのか、つまり、教会の第一席から降りて偉そうなことを言うのを止めるのかどちらかだというような、そういうことを突きつけるだけの罵倒力というものを、最大の罵倒力を発揮しているわけです。
 で、こういうところは、やはり優れた思想というものに共通なわけで、つまり、非常に単純率直で、しかもそれを受け流すということが出来ない。つまり、一応受け流すことができないと、やっぱり、受けておいてそれを右にするか左にするか決定する以外にない、そういうことを、やはり罵倒力が、罵倒というものが突きつけるわけです。
 で、そのことは、やはり優れた思想というものの根本にある非常に共通の問題だというふうに思われます。

4 イエスの「絶対的罵倒」

 ところで、そういうことに深入りしていきますと、あんまりその自立ということは消えてしまうわけですけれどね、ところで、この罵倒のしかたというものの中に、問題というものがあるわけなんです。
 つまり、問題があるということはどういうことかと言いますと、その罵倒というものが今言いましたように一種の絶対的罵倒ですから、つまり、絶対的罵倒ということはどういうことかと言いますと、人間がどんな社会でも具体的に生き且つ生活しというような場合には、いわばどうしても相対的に生きているわけです。つまり、相対感情で生きているわけです。あるいは、相対思想で生きているわけです。あるいは、相対生活で生きているわけです。
 そうしておいて、つまり、逆に言いますと、相対思想で、あるいは相対感情で生きているからこそ、いわば逆な意味で絶対思想というものを生み出すというか、それに惹かれるという要素が逆に言うとあるわけですけれども、例えば、原始キリスト教のそういう罵倒のしかたというのは、いわば、絶対感情、あるいは絶対思想で罵倒するわけですから、これは人間としてお前は存在し得るか、あるいは存在し得ないかどちらかだと、つまり、これを受け入れるか受け入れないかということは、お前が存在するか存在しないかどちらかというふうな、いわば絶対的な罵倒攻撃ですから、これに対して、これを受け止める限りはですね、いわば、相対的にしか生きられない人間というものが、絶対感情、あるいは絶対思想というものに、なんと言いますか、対決を迫られたときにどうするのかという問題というのはあるわけです。
 それから、それならば絶対思想でもって対決を迫っているそのご当人は、つまり、そういう思想を編み出しているご当人は、果たして絶対的に生きられているのかどうかということ、つまり、絶対的に生きられているのかどうか、つまり、お前は口でそう言っているけれども、本当はそういう風に絶対的に生きているのではないのではないか、つまり、生きていることは不可能なんじゃないか、つまり、我々は不可能である限りお前だって不可能なはずだと、だから、お前だって不可能なのに、ただ思想的にだけ絶対的な対決を迫っているんじゃないのか、つまり、お前は偽善じゃないのか、つまり、お前は偽善、パリサイ人、律法学者を、偽善者よというのは、つまり、教会では第一席を好み、先生先生なんて言われているのを好んでっていうふうに、お前は言うけれども、しかし、そういうお前は、そういうことを言うお前は、それじゃ絶対的に生きられるのかというふうに言って、生きられるはずがないじゃないか、なぜならば、人間は絶対的に生きるものではないから、いわば、相対的に生きるものなんだから、絶対的に生きられるはずがない。
 そうならば、お前だって絶対的に生きてるはずがないと、そんな風に絶対的な対決の迫り方をするということは、お前自身が要するに偽善なんじゃないかと、そういうような問題というのは、原始キリスト教というのは絶えずはらんでいるということなんです。
 これは、原始キリスト教だけじゃなくて、いわば我々に絶対的な思想というもの、絶対的な対決を迫る思想というものに、全て共通するわけですけれども、共通する問題であるわけですけれども、その思想を編み出したご当人というものは、絶対的に生きているのか、それで尚且つそれを普遍化すれば、人間は絶対的に生きられるのか、そうじゃなくて、人間は相対的に生きるということ、そのことの中に、いや、そういう矛盾の中に、例えば人間性というのはあるんじゃないかというような考え方というのはあり得るわけで、そういう考え方からすると、いわばお前は偽善を売っているのではないか、つまり、お前は偽善者だという風に相手を攻撃してきているけれども、しかし、お前自身がそういう絶対感情を固持する限りは、あるいは、絶対思想を固持する限りは、お前自身は自己欺瞞をやっているんじゃないかというようなそういう問題というものを、原始キリスト教というのは絶えずはらんでいるということなんです。
 この問題というのは、やはり僕自身が大変関心を抱いたところです。
 つまり、どういうふうに関心を抱いたかと言いますと、それでは、例えば、相対的にしか生きられない人間というものは、具体的、現実的な人間というものは、絶対的思想というものを作り出すとか、絶対的思想で、例えば他者に対決を迫るという、そういう問題が表れた場合に、真理はどこにあるのか、つまり、真理はいずれにあるのかという問題というのは、これは考えるに値する、というようなことが、僕の関心を惹いたもうひとつの点なんです。
 そうしますと、僕の考えでは、あらゆる偉大な思想と言いますか、優れた思想というのは、それは原始キリスト教に限らないわけですけれども、優れた思想というのは、どうも僕の考えでは、その点、そういう点というものは、不問に付しているように思うもんです。
 不問に付しているように思うということは、いわば、そういう絶対思想というものは、常に党派的思想というものとして表れるほかないのではないかという問題なんです。
 つまり、そういう場合に、お前これを選ぶか選ばないかどっちかだと、つまり、俺を選ぶか俺の集団を選ぶか、そうでないかどちらかというふうに迫る場合、あるいは、俺の思想を選ぶか、この思想を選ぶかそうでないかどちらかであるという風に選ぶ場合、もし、例えばそういう絶対的な対決を突きつける思想自体が、自らの相対性と言いますか、自らの相対性、あるいは自己欺瞞と言いましょうか、そういうものについての精察、考察を行わないならば、常にそれは党派的思想、いかに優れていても党派的思想にすぎないのではないかということです。
 つまり、それは、人間性に共通する、つまり、人間性に妥当する、いわば普遍的な思想というよりも、党派的思想に過ぎないのではないか、それは、党派的思想としていかに優れていようと、党派的であるというのには変わりないのではないか、だから、常にそこに選択の余地があるわけです。
 つまり、人間、立ち去るか、あるいは、そこに含まれるかどちらかだという選択の可能性は、常にあるんだということです。
 だから、常に配球率と言いますか、真ん中はないと、しかしつまり、こっちにするかこっちにするかどちらかだと、しかし、選択は、ふたつの選択は可能であるというような、そういう思想に過ぎないのではないか。

 それならば、もし、真理であると呼ばれる思想があるとすれば、それは決して党派的な思想じゃなくて、どのような党派の人々がそれを突きつけられても、それはやはり、真理であるというふうに認めるほかしかたがないという風な思想が、もし可能であるとするならば、それは、どういう点にその可能性を求めるべきかということが関心を惹いた点なんです。

5 思想と党派性

 この点になりますと、キリスト教の思想と言うのは非常に優れてはいますけれども、つまり優れた思想に共通な要点がありますけれども、しかし優れた思想が常に陥り易い党派性、党派的思想というもの、思想は党派性である、そういう問題に対してどんな歯止めというもの■■■じゃないんじゃないか。そうだとすればそれは真理というふうに呼ぶことは出来ないので、やはり依然として人間は絶対思想・絶対感情と相対的に・具体的に生きていく自分自身というものとの矛盾というものを、絶えず晒されなければならないのではないかと言うことです。だから原始キリスト教の思想はそういう問題に対して、例えば人間に対して救済を与えるということはあり得ないのではないのか、ということが大変関心を惹いた所なんです。で、それならばどういうふうにそこを考えていった場合に、真理は誰がどう考えようと真理は真理であるというふうに、どういうふうな条件・可能性を設ければ、例えばそういうふうに思想というのは成り立ち得るかという問題が、一番派生的に関心を惹いた所だというふうに思います。で、僕がそこで考えていったこと(は)、具体的に言いますと、マタイ伝ならマタイ伝の中で、主人公は律法学者・パリサイ人に対してお前達は自分達が祖先の土地にいた(な)らば、必ず正義の日に、正義に人に与したら(だろう?)にと、お前達は言うと、しかしそんなことを言っているお前達は、現に正義の士である私自身を迫害しているんじゃないか、というふうに言っているんでしょ。つまりお前達は祖先の時にいたら、俺は義人に与しただろうと言ってるくせして、しかし現に義人である俺に対して迫害を加えているじゃないかって、いうふうに言う訳ですよ。そういう言い方ってもの凄く鋭い訳なんですけれども、しかし、鋭いけども今言いました様な、相手の矛盾がある訳なんです。それだから律法学者、或いはパリサイ人の方で、いやお前主観的に自分で義人だっていうふうに、救世主だっていうふうに思っているだけで、お前は唯の乞食坊主に過ぎないのだ。或いはお前、途方もないことを言って歩いている男に過ぎないのだって言うふうに、言えば言える訳なんですよ。つまり言えば言えるという余地を絶えず持っている訳なんですよ。だからお前は正義の士ではないだ。だからお前なんかを迫害したって、そんなことはなんでも無いじゃないか。なぜならばお前は正義の士でも無いし、なんでも無いんだと、偉大なる人物でもないんだ、唯の乞食野郎だと、乞食坊主だと()。途方もないことを言って歩いている奴に過ぎないじゃなか。だからちっとも矛盾じゃないじゃないかというふうに相手は言うことは出来るのです。つまり出来るという余地を、つまり原始キリスト教の言い方というものは、攻撃の仕方というものは絶えず持ってるということなんです。そうしますとどっちが正しいんだ、どっちが真理なんだというふうに今度はなる訳なんです。お前は乞食坊主、主観的にはお前は救世主だと思っている、或いは偉大な思想家だと思っている、或いは宗教家だと思っているかも知れないと。で、偉大な人類の・人間の救済者だと思っているかも知れない。しかしお前は現実的には大変途方もないことを言って歩く、乞食坊主に過ぎない。弟子と言ったら無知な12人ばかりの、無知な男しかいないし、ろくな奴はいないじゃないか。それでお前はちっとも義人でもなければ、偉大な宗教家でもない。要するに唯、デタラメを言って(?)歩いている乞食坊主だと。だからお前を迫害したってなんでもないじゃないか、というふうな言われ方というのは、やはり可能な訳なんです。そうしますと、どこに真理があるのかって言う問題についてね、共観福音書は僕に言わせれば何も応えていないということなんです。つまりそういう問題に対する応え方というのは、何も出していないと言うことなんです。で、出していないと言うことは、ある意味では、謂わば偉大な思想というものに、つまり人間の生き方を左右しようとするだけの力を持っている思想に、ある意味では共通なものなんです。つまり答を出していないということ。そこに触れないと言うことは、つまりダブーなんだということですけれども、そこに触れないと言うこと(は)、偉大な思想というものに共通な要素であることはあるんです。しかし僕はそういう所が問題なんだって言うふうに考えて来たと思います。だからそれならばあらゆる党派性、思想、党派性というものが出て来る場合はね、あらゆる党派性―例えば現在でも学生運動だって、俺真理(?)だって思っている。俺だって真理だと思っている。しかし自民党の奴も真理だと(?)思っていると。で真理と思っている。決して自分は悪いことをしているとは思っていないだから、仕様がないですけれどもね。どっちが良いんだ。勿論主観的に言えば俺の方が良いんだと、言うのは決まっているんですけど。そうではなくて、もしどっちが真理なんだって言った場合に、どうやったらどちらが真理だと言うことが言えるのかという問題というのは、僕はある様に思うのです。それがなければ思想と言うものは、仮に例えば自分は正義であると、自分の思想は人民の味方であると、或いは階級的に被支配者の味方であるというふうなことを、思想の特区(?)にとっておかないと安心・自立できない。自立できない。安心できないと言うのは、それを持っていると、逆の意味で安心して俺の遣ることは被支配者・貧民の為に闘っているのだから、真理なんだと言うことで、何遣ったって俺は真理なんだと言うふうなところで自己肯定する形になるか、お前ら知らないけど俺は日本の国の総理大臣だ、大変なんだゾ、君。俺のお陰だぞって思っている奴と同じで、どこが真理なんだという問題に対して、絶えず党派性の思想と言いますか、そういうものを破ると言うことが出来ないように思われる訳です。そういう問題はどういうふうに理解すべきなのかと言うことがある訳です。私がそういう場合に、自分なりに考えて来たことは何かと言いますと、恐らく例えばそういう様な党派的思想―俺は正義だとか不正義だとか、どっちでもいい訳ですけど、或いは両方とも主観的に俺は正義だと思っていてもいい訳ですけれども。その党派的な思想というものがどんなに偉大であっても、党派的思想というものの相互の間において、何が例えば真理だ、どちらが真理なのかという場合の判断と言いますか、真理を根柢から支える基準と言いましょうか、条件と言いますか、その条件というものは恐らく党派的思想の対立の次元からはやって来ないだろうというふうに考えた訳です。だからそれらの条件を決めるものは、少なくともその次元・位相にはない、ある一つの―何か判らんけれども―ある一つの客観的な基準があるであろうと、基準があるに違いないと言うふうに考えていた訳です。

6「関係の絶対性」という基準

 で、その客観的な基準というのは何か、という問題になる訳です。僕は『マチウ書試論』というマタイ伝を論じた、それを書いた頃ですけれども―14・5年前だと思いますけれど―それを書いた頃にはそれを僕はね、「関係の絶対性」という言葉で言ったと思います。「関係の絶対性」こそが、党派的思想の対立の場面において、いずれに真理があるかという問題、いずれに選択を許さない真理があるかという場合の、その条件こそが「関係の絶対性」というふうに呼ばれるあるものであろうというふうに考えた訳です。そしてそういう言葉で表現しただろうと思います。既に14・5年、経っている訳ですけれども、それならばそういうような問題、つまり「関係の絶対性」という問題からその後僕自身が遣ってきた、そういう関係ではない仕事の中で、そういう問題というものを気(?)をつけて、どういうふうにそれを解決していったか、解決の仕方というものを「関係の絶対性」と言う言葉ではなくて言ってみるとしますとね、言うとしますとね、それはこういうことなんです。
 人間・人間性、或いは人間ということでもいい訳ですけれども、人間の存在というもの必須条件としてなり立っている、或いは人間が必然的に動物と違って必然的の持たざるを得なくなっている観念の世界、つまり 一旦持たざるを得なくなった限りは無限に拡大していく観念の世界というもの、そういうものに対して、その観念の世界は宗教を生み、法律を生み、国家を生み、制度を生み、そして悪を生み、善を生みという形で、そういう観念の世界なんですけれども、そういう観念の世界というもの、人間が存在する為には必要不可欠であるという観念の世界というものは、厳密に押さえる必要があると言うことが、先ず第一にそういうことなんです。これは厳密に押さえなければいけないということなんです。だから例えば原始キリスト教が主人公が姦淫するなかれ、つまり心に色情を抱いて異性を見た(な)らば、既にそれは姦淫しているんだ、そういう場合には目を抉り取れと言った場合に、「嘘つけ」という問題になる訳ですけれども、そういう問題として言われていること、これは人間の観念の世界に内で、性が関与する世界です。つまり人間の観念の世界が男、または女として現れざるを得ない世界です。つまり言い換えれば人間の個体というものが、他の一人の個体というものと関係する、関係の仕方の世界というもの、その観念の世界を性・セックスという呼び名で今、仮に呼ぶとしますと、そういう世界のことを言っているんだと言うことなんです。つまり「汝姦淫するなかれ」という掟を無限拡張して、人間を追い詰めてどうするんだというふうに追い詰める、その追い詰め方のどこに矛盾があるかと考えますと、それは人間の観念の世界というものを漠然として、相対的な一つと考えているという所にあるに違いないと考えた訳です。だから、本当はそうじゃないんだと、【3:45】そういう掟、原始キリスト教の言い方が、突き付け方が通用するのは、人間の個体が他の一人の個体と関係する関係の仕方、そういう世界、観念の世界にだけ通用するということです。そういう観念世界の中で絶対的な思想というものを突き付けていると言うことなんです。それを原始キリスト教はそうは思っていないので、全人間性の中でそれを突き付けているというふうに考えている訳です。無意識の内に考えているけれども、本当はそうでないのであって、人間の生み出した観念の世界の中で一人の個体が他の一人の個体と関係する世界、その世界をセックスの世界と呼べば、セックスの観念が関係する世界に付いてだけ、絶対思想を突き付けているんだというふうに考えなければいけないのであるというふうに、僕は考えていった訳です。だからそういうふうに考えていきますと、それを突き付けられて、人間がお前は自己欺瞞を言っているというふうに、相手に言う必要もない訳ですし、自分自身がそういう場合に追い詰められるんですけども、しかしどうも俺、納得しないというふうに考える、その納得しないというのはどこから来るかというと、原始キリスト教が全人間の観念の世界に対して、「俺は絶対思想を突き付けているんだ」というふうに思っているんだけれども、本当は人間の個体が他の個体と関係する、そういう観念の世界の内部でそれを突き付けているに過ぎないのだということについて、自覚的でないということが原因だ、党派性の思想、思想が党派的であらざるを得ない(ことの)原因だ、根拠だいうふうに僕は考えた訳です。だから僕はそういうふうに解決した訳です。それが一つだと言うことです。それからもう一つは、その世界というものは、つまり一人の個体が・人間の一人が他の一人と関係する世界というものを性の世界、性の観念の支配する世界、或いは性的観念の世界というふうに言えば、それを具体的に言いますと、ごく普通に恋愛関係にある男女とか、一人対一人の同性の関係とか、そういうものって言うのはいずれもそういう世界です。具体的に言いますと人間の社会的に形成している家族の世界というものは全部それです。そういう世界なんです。家族の世界におけるあらゆる出来事の世界というものは、最も基本的に言えば一人の個体が他の個体と関係する世界というものが家族の世界です。もう一歩拡張して親族の世界、親族も含めていいですけども。そういう世界というものはそういう世界の問題な訳なんです。だからそこで起こる問題というのはそういう世界の問題なんです。そして決してそれ以外の世界の問題ではない! ということなんです。だから例えば原始キリスト教が、共観福音書が「俺より父親、母親ないし兄弟を愛するのは俺に相応しくないと、そんな奴は天国に行けない。神の国には到底到達できない」というふうに言った場合に、原始キリスト教はどういう矛盾を言っているかと言うと、宗教として人間の観念の世界、観念の共同世界を獲得しようと福音書の主人公が思っていたとすれば、そういうふうな世界と家族・親族、つまり「汝の父親・母親・兄弟を愛する者は俺に相応しからず」とうこと(とは)、全く次元の違う世界のことを、同じ次元であるかの如く混同して、対立させているから、だからそういう言い方が出てくるんだといふうな問題になってくる訳です。だからそういう問題について原始キリスト教というものは全く自覚的でないということ、そういうことが自己矛盾に晒され、いかに偉大な思想であろうとそれは党派性の思想に過ぎない、つまり選択を許す思想です。つまり右にするか左にするか、止めるかやるかという選択を許す思想と言うのは、いつでも混同を犯しているというか、世界を混同している、そういうことがあるんだというのが僕の考え方です。だから原始キリスト教は第一にそこを混同しているだろうということ。

7 観念の世界の3つの次元

 で、人間の観念の世界は個体が他の個体と関係する世界のみかというと、そうではありません。人間が個体として個体の観念の世界を持つ、そういう世界というものを人間の観念の世界は持っています。つまり、全く個人として考えると言うこと。例えば、どの場合でもいい訳ですが、家に帰って夜誰も寝静まってしまった。自分が追究して考えてる世界を、独り起きて考えたり追究したりするという時の時間を思い浮かべても宜しい訳ですけれども、そういう時における自分というものは少なくとも、その瞬間だけは自分自身の世界にいる訳です。個人、或いは個体としての自分の世界の中にいる訳ですし、またその世界を形成している訳です。形成し格闘(拡張?)しようとしている訳です。そういう世界も人間は持っている訳です。この世界というのは家族との関係の世界とも違いますし、また恋人との関係の世界とも違う世界であると言うことには間違いないことです。それを混同してはならないと言うことです。次元の違う世界、或いは位相の違う世界であるということを考えなくてはいけないということ、そういうことを混同したら間違うぞと言うことが一つの問題です。
それからもう一つ。人間というものは、幸か不幸か知りませんけれど、社会を創り、制度を創り、国家を創り、法律を創りということを遣ってしまっている訳です。その中における個々の場面で、例えば皆さんなら皆さんの場面でのサークルを創り、職場では労働組合を創り、部分的に集団性を創って、或いは共同性を創っている訳です。共同性の世界における人間というものがある訳です。共同性の世界における人間とはどういう人間かっていうと、共同性の世界では人間は、観念としてしかそこに参加出来ないということです。つまり観念として参加すると言うことです。具体的に生活しご飯を食べ、なになにしてる、或いは恋人と一緒にいる場合とも、家族と一緒で何かしている場合とも、違う世界にいるということ。違う観念の世界、つまり共同の観念の世界に一人の個人の観念がそこに参加していると言うことです。それが根本的な問題だ。勿論具体的には、皆さんがこの場所にいる様に具体的に自分が身体を運んでここにいる訳ですけれども、いると言うことは現実的に確かなことであるけれども、それはあんまり本質的なことではなくて、もしこれが一つのサークルなり、集団なりであるとすれば規約があり、規定があるとすればその規定に従っている、その規定の共同性の中に参加している個人ということ、つまり観念が参加しているということは、観念が個人として参加しているのでここに参加している皆さんは帰ってから恋人と会おうと、どっかでお酒を飲もうと、そんなことは共同性にとっては全く関係の無いことですし、ここでの共同性ということは、そういうことについて何も目を光らせている訳でもないですし、そんなことは光らせる、売られる(?)訳でもないですし、そんなことは勝手なことであるということで、こと以外には言えないことであって、そういう意味では本質的には参加しているここの共同性なら共同性に参加している人間とは非常に、共同性の意志として観念的に参加している個々の人間という様な■■■ある訳です。そういう世界というのは全く・具体的に考えれば直ぐ判る様に、何もここに参加しているからと言って、明日恋人と別れなくてならない理由は何もないので、家族の所に帰って飯を食っていけない理由は何もない。そういう様な意味で直ぐ判る様に、謂わば共同性に参加している個人というものは割合観念として参加しているということが大変重要なことであって、その世界というものは個々の個体としての自分というものとも、家族とか親族とか恋人同士とか、そういう世界とも次元の違う世界だ、と言うことなんです。一般的に言いましてキリスト教が人間性の王国として全て絶対的にそれを専有(占有?)しようとした・している世界というのは、原始キリスト教に関わらずあらゆる宗教であり、あらゆる国家であり、そういうものがみんなそう思っている訳ですけれども、全人間の・人間が存在する限りは、存在して生きている限りはその人間が抱く全世界・全観念の世界というのを、全部せしめてやろうといいましか、せしめているというふうに錯覚している、せしめているというふうに想定している世界というのは、実は非常に曖昧にしか考えられない世界であって、本当に現実に考えられていったなら、大変位相の違う世界というものを個々の人間というものは皆持っているんだということ。そういう個々の世界というのは皆位相・次元が違うんだということ、位相が違い、次元が違うというそういう世界の全体というもの、人間の観念の全体というものを押さえるには、今僕が申し上げました個体としての個体といいましょうか、そういうものと個体と他の個体と関係する世界としての観念の世界、そういうものと集団性の中における個体というもの、そういう世界というもの、少なくともその三つの軸というものを押さえますと、押さえれば人間の観念の世界の全体というものが押さえられるということです。押さえられるということ。観念の世界の全体を押さえるには、押さえる最も基本的な要素は、その三つの要素というものを押さえればいいということなんです。押さえればいいのであって、押さえれば次元の違いが全部押さえられるということです。だから、簡単にモデルで言えば、一人という問題です。一人の世界というモデル。二人の世界というモデル。それから三人の世界というモデル。そのモデルを創れば大体―大体と言うより全部ですけれども―人間の観念の世界というのは全部了解することができるということ。つまり三人が集まって何かする時に起こる問題というのは、少なくとも共同性の世界、多数の共同性―何百万人いてもいいんです―多数の世界において起こる問題の典型というものは、三人の共同性の世界で起こる問題を徹底的に突き詰めることによって理解することが出来るということ。それからもう一つは性の世界ですけれども、二人の世界。二人が関係する世界というのは、そういう世界の問題で起こるあらゆる問題というものを、考え得れば、モデルにして考えていけば、そこで起こる問題を考えていけば、少なくとも恋人同士とか家族とか親族とか、そういう様な問題で起こる全ての問題というものは、全部出てくると言うことです。後は、一人としての一人ということです。(一人としての一人の)世界を考えればいいということです。つまりそれを考えれば、人間の観念の世界は全部押さえられるんだということなんです。こういう問題に対して原始キリスト教というのは、大変曖昧にしているということです。だから、絶対感情(?)というものと相対感情(?)というものとの矛盾というようなものが起こる訳ですし、他を攻撃する場合にも絶えず自己欺瞞というものを・・・。

(ここの部分、録音無し)
【参照:弓立社『敗北の構造』
(第五版 P188L5~P189L5)。
春秋社『信の構造 2』
(第一版 P221L2~同L19)】
Pは頁数:Lは行数

 あらゆる党派的(?挑発的)な思想はダメだっていうことになる訳です。僕はそういうことを割合悪くないと思っている訳です。やめたっていうところを通らないと面白くないんですよ。人間というのは。やめたという所を通らないで――面白くないですね。で、通る訳です。

8 価値のある生き方とは何か

 そうすると人間というのは相対的なもので、お前の言っていることは何だ。偉そうなことを。人間観念の世界というのは、次元が違う世界があるんだ。それはたった幾つかの基軸を設定すれば、それは全部解けるんだ。お前の言うことを全部肯定したとして、それじゃ結局言っていることは何だ。要するに人間というのは相対的のものなんだぞと(?)言ってるに過ぎないんじゃないかというようなことが起こる訳でしょう。それは僕自身に一番起こった訳ですよ。何だ。こりゃー何だって。俺が考えたり苦しんで来た。何だ。これかって。成った訳ですよ。それじゃ、どうしたらいいんだ。どうしたら、俺はどうすればいいんだって成っていく訳。それで、遊んでいるより仕方が無いとか。そういうこともありましたけれども。そういうことがありましたけれども、人間というのは収まり付かないところがあって、考えていく訳です。そして結局どう考えたかと言うとね、先程の、僕時間なくて十全に応えられなくて、今も応えられないでしょうけれども、今度は何が価値かっていう場合に、全部ひっくり返せばいいじゃないかって考えたんです。人々は偉大な思想家であるとか、偉大な政治家であるとか、偉大な宗教者だとか、そんなことを言っている奴っていうのは、一番駄目な奴だって考えればいいじゃないかということです。人間はいかに生くべきか、一人の人間がいかに生くべきかって考えた場合に、或いは集団的に言ってもいいんですが、家族的に言ってもいいんですが、いかに生くべきかっていうふうに考えた場合に、最も価値ある生き方というものは、これとても架空なんでけれども、自分が例えばタバコケースを800円で売ったとしたら、ちっとも買う奴が(?)いなかった。一寸これはまずいんじゃないか。明日は700円ぐらいに定価つけとくかって考えて、明日700円の定価を付ける。まだ買う奴はいない。じゃ600円に付けてみたらどうだ。600円に付けた。そしたら買う奴が出て来た。オー俺の考えはいいんだな。そういうふうなことしか考えない。つまり明日のことを思い煩うなという奴ですよ。そういう生き方、つまり自分の生活のところで具体的に目に見える、当面している、そういう問題ならば、或いは自分の家族・兄弟ということならば、割合いろんなことを考えて家の親たちはどうしたらいいかとか、いろんな考えたりするけどね、あんまりベトナム戦争はどうだったとか、そういうことはあんまり考えない様な、そういう奴がいたら、もっと高級な言葉で言えば、支配者がどう変わろうと俺には関係ないと、中国のあれで言えば、「帝力我において何かあらんや」って奴で、知ったこっちゃあねえ、ただ知ったこっちゃあるのは家の息子は馬鹿か利口かとかね、「5」の代わりに「4」取ってきたのはけしからんとか、儲かるにはどうしたらいいかとか(?)、そういう様なことしか、(そういう様なことに)ついてならば考えるし、かなりな程度深く考えるけれども、あんまり遠くの方にあることに、起こったことには考えないという、そういう生き方をしている奴が一番価値ある生き方なんじゃないかというふうに考えた訳なんです。言ってみれば相対性の極限ですよね、今度は。そういう奴は一番いいんじゃないか。一番いい、価値ある生き方なんじゃないかなということなんです。で、実際問題としてそういう奴が居るかどうかって、頗る疑問であるし、疑問。な訳です。ある程度像、イメージになる訳ですけれども。だけどもイメージとしては割合、可能なイメージなんです。可能であるし、皆さんだって身辺で居ると思いますよ、その種の人は。それが一番価値ある生き方なんじゃないかということなんです。だからその価値ある生き方に対してしかし、人間は大なり小なり―勿論、観念の世界の特有な性質にも拠るのですけれど―大なり小なり、逸れてしか(?)生きられないものな訳なのです。大なり小なり誰でも逸れて生きている訳です。絶対的に逸れている(?)奴は、例えば共観福音書の主人公みたいな奴は絶対的に逸れている奴なんですよ。だけれども、ごく普通の人は大なり小なり、つまり相対的に大なり小なり、価値ある生き方から逸れているということがごく普通にあり得る存在なんです。そうならば、自分が大なり小なり絶対的な生き方、つまり遠くのことは考えないという価値ある生き方から、大なり小なり逸れていると言うことについて、自覚的であると言いましょうか、自覚的であらねばならない、逸れているということに多少でも価値観をくっつけたら駄目だって言うこと、逆に逸れている方が偉いんだと。もっと逸れている奴、偉大な思想家とか偉大な宗教家とか、そんなのはもっと偉いんだと思って―そういう様なことを思ったら駄目だということ、それは一番駄目な奴だと思うべきであって、自分はそれ程じゃないけれども、しかしやっぱり価値ある生き方からは多少は駄目だということ、自分の生き方は駄目だというふうに、絶えず考えなければ本当に駄目になっちゃうということです。人間というのは。そういうふうに考えた訳ですよ。そうだって言うふうに思想の問題というのは成っていく(?)訳ですよ。だから全く逆さま・全く逆に成ります。逆に成ります。逆になるかどうか知りませんけども、少なくとも価値観というものはひっくり返る訳です。そこでひっくり返る。それが謂わば僕の考え方というものの中の根柢にある問題な訳です。
 で、この問題というのは―今日はサービスで申し上げ(ます)。こんなことは、言うのはどうして言うかというと、僕は身についてないから言うんですよ。身についてたらこんなことは言わないですよ。だからサービスで言う訳ですけれども。だけれども、それは僕の思想の核なんです。だからこの核にいったら(?)、大なり小なりそれから逸れている(?)自分自身というものも、やはり否定せざるを得ないということです。否定していますよ。僕は。否定しているけどその通りに生きられないから、皆さんにサービスしたりするんだけどさ。少なくとも思想的にはそうです。僕は割合自覚的です。そういうことは。割合、徹底的に自覚的です。だからそれは思想ですよ。そう考えていくと、共観福音書の主人公みたいな奴は、一番駄目な奴です。駄目な奴はなぜ駄目かということの根拠をもっている駄目な奴だと思います。だけども根拠を持っていない駄目な奴というのも、沢山いると思います。駄目な奴だという根拠を持っている駄目な奴だと思います。僕はそう思います。それはギリギリのところ。例えば僕なら僕が■■■―マルクス者ということで、誰かこの中にいるとして、僕がマルクス者を承認するかどうかは別問題だけども、僕の思想の核心であるし、僕はキリスト者と対立する最大のポイントですよ。最大のポイントはそういうところにあるということですよ。一番駄目な奴だと思っている訳です。僕は大なり小なり駄目な奴だと思っている訳です。最も駄目じゃないのは、要するに明日のことしか思い煩わない奴が一番価値ある奴だと思っている。それが価値ある生き方の典型だというふうに思っている訳です。

9 吉本隆明、その思想の核心

 だから、そこの問題を通過すると言いましょうか、そこの問題を我がものとする、そこの人々の問題を我がものとするという観点がない、例えば政治運動家を想定するでしょう、それなら得てして政治官僚というものに終始しちゃう訳です。なぜならば集団性なら集団性、権力に対決する集団性なら集団性というものを、それ自体として絶対化する要素はありますし、その中で象徴である自己自身を絶対化するあれもありますし、また逆に個人的な内部、暗黒の部分では俺って奴は偉い奴だと思ったり、しますからね、そういう奴は。そういうふうに成っていく訳です。だから、それはそうじゃないのであって、それを通過した集団性というものを想定するとすれば、謂わば個々バラバラの、なんでもない奴の言動というものを、よく了解し通過した上での集団性ということですから、自らの集団性というものを自ら絶対化することも、固定化することもない訳です。そういう政治運動家とか宗教家でないと、ちょっと面白くないんです。面白くないんです。そういうところで、例えば共同性というものはどうして生まれるのか、或いはどうし必要なのかという問題が出てくるというふうに、僕には思われます。そういうところが謂わば、一つの経路だと思います。そういう経路を通らないと、却って明日のことしか思い煩わない奴は、大体階級意識も持っていないし、社会の関心も持たないし、政治にも関心持たない、一番とんでもない奴だからということで、これを啓蒙してなんていう奴は、そういう奴なんですよ。そんな奴に啓蒙された奴はろくな奴はいないんで、そうじゃないので、そんなことは全く違うんですよ。だからそういう矛盾をよく知っている人は、これは価値ある生き方だけども、人間がここに到達する為にはどういう経路・どういう遠回りを通らなければ、ここには行けないのかということについて、よく自覚的であり得る訳です。だから例えば学生さんが、正に究極的にはそういう人たちの為に闘っているのに、そういう人たちはそんなことは全然察してもくれないので、何遣ってるか判らない、脛かじりのくせに、棒振り回して、襟首捉まえてポリ公に連れて行っちゃう、そういうふうにするんです。そういう人は。そういう奴は。例えば何でもいいんですよ。魚河岸のあんちゃんでも何でもいいですけども、おじさんでもいいんですけども。そういうことをしちゃうんですよ。そういうことをしちゃうって、矛盾でしょう。なぜならばお前を究極的に解放する為に、お前達を解放する為に、お前達に仮想の自由じゃなくて真の自由とは何かということ、真の自由とは具体的にどう実現させるかと言うことの為に俺は闘っているんだ。このじいさんとか、あんちゃんに直接言ったって通用しないでしょう。通用しない訳でしょう。通用しないと言うことは、なぜ通用しないかということを、自覚的な為にはどうしてもそれが価値だというところを通過しないといけないと思います。通過した共同性でないと、いけない様に僕には思われます。そうじゃないと、テレビの何とかショーに出てくる学生さんと同じでね、商店街の親父に今晩俺の、夕べ俺の家のガラスぶっ壊したり、黙って行っちゃた。こんなのをいいと思っているのか。脛っかじりのくせにと言うと、お前さんいい歳して生きて、戦争中戦争に加担しただろう、そういうことを俺たちは止めさせようと思って、それでやってんだなんて言ってね、テレビで喧嘩しているんですよ。水掛け論ですよ。どちらだって根拠があるんだから。僕(?)そういう人になっちゃうんですよ。そういう政治運動家に成っちゃうんですよ。そういう親父を説得する術を知らないですよ。出来ないんですよ。なぜならば、これが価値だと言うことが判らないんだから。だから、価値と今対決しているんだと言うことが判らないんだから。だけども、価値と対決する為には直接その親父を目の前にしたら駄目なんだと言うこと、目の前にしたら今の段階は敵対するに決まっているんです。敵対するに決まっているから、こいつに啓蒙した方がいいと言う様な発想なんです。だからそうじゃ無いんです。敵対するに決まっているから、こいつは価値なんだけれども、しかしこの価値には非常に遠回りしないといけないんだということはよく判っている、(と)そういうふうに成るのですよ。ところで人間の本当の共同性というものは、僕は出てくるんじゃないかと思われます。こういう問題というものは僕の思想と言いましょうか、思想というものの核心にあるところ(?もの)です。だけれども、この核心までは普通は言う必要は無いので、今日はサービスしただけです。もう一つは、こういうことを言うのはやっぱり自覚的ではあるし、割合抑制的であります。僕ははるかに他の文筆業者に比べて、そういうことについては自覚的にちゃんとしているつもりですけれども。偉そうなことを言ってる奴も沢山いますけれど、そういう奴より僕の方がずーっといいことしていると思います。陰では。だけどもヤッパリ出来ていないんですよ。出来ていないから要するに言う(?ですよ)。出来ていたら黙っていればいい訳ですからね。そういう意味合いとサービスと両方ある訳です。共観福音書って、僕今でも好きな(こと)は好きなんですけれども、そういうところの問題から、今日の標題、司会者の方に言われれば自立ということですが、そういう問題に至る過程の問題であり、またある意味ではアルファーでありオメガであるかも知れません。そして依然として僕自身も真にはそれを実現できていないので、またこれからもそういう課題に思想的に、現実的に取り組んでいかなくちゃならないんだろうなというふうに思うと気か重たいんですけれども、しかしそういう問題―核心ある問題というのは、そういうふうに僕の中では成っています。一応これで■■■でしょうけれども、終わらせて頂きます。(拍手)



テキスト化協力:(1~4)ちゃりんこさま
(5~9)石川光男さま