1 核戦争の不可能性

 本日は、現在の情況を、政治思想的に申し述べたいと思います。現在の情況っていうものを、どこからほじっていったらいいかってことは、まず、非常に簡単に…、不可能性ってことだと思います。全面戦争、あるいは、核戦争というもの、核戦争の不可能性ってことがあるわけです。
この核戦争の不可能性ってことは、どういうことかっていいますと、たとえば、必殺の技をもつ空手の武道家が、必殺であるがために、それを行使しえないってこと、だから、全面核戦争っていうのは、それ自体として不可能だというのが、現在の情況の根本であります。
 その全面戦争が不可能だってことが、どういう現象をもたらしているかっていうと、依然として、帝国主義的な国家群があり、そして、疑似社会的な国家群がありということで、いずれも、戦争の契機自体は存在することになります。しかし、戦争の契機自体が、全面戦争が不可能だという場合に、どこにはけ口を求めるかといいますと、結局、わりあいに、世界における弱い環といいますか、みなさんの言葉でいうと、後進国、あるいは、後進国地帯ということになると思います。
 あるいは、もっと違う言葉でいうと、みなさんがいっている第三世界っていうような言葉になると思いますが、つまり、第三世界における、いわば、局部戦争というようなものとして、それ以外に戦争が不可能だというようなかたちが、非常に根本的に世界構造を規定していると考えます。
この場合に、いわゆる、みなさんのいう後進国家、あるいは、第三世界における戦争っていうものは、いわば、帝国主義国家群っていうものと、それから、疑似社会主義国家群との、武器の実験場というような感を呈しているようなところがあります。これを、代理戦争というふうにいいますと、みなさんが怒るから(会場笑)、高度の技術的な発達に裏打ちされた、いわゆる、武器の競走場、あるいは、実験場という感を呈して、第三世界ってものが存在するってことは、これは事実問題としては、まちがいないだろうというふうに思われます。
 この場合に、現在、ベトナム、あるいは、カンボジア、いずれそのうちに、どこかで起こるわけでしょうけども、そういうところにおける、いわば局地戦的な、戦争というものをたいへん微細に区別しなければいけないと思います。
たとえば、それは、ベトナム戦争の場合には、ベトナム民族解放戦線というものと、それから、北ベトナムというものとは、微細に区別されねばならないというふうに考えられます。
 なぜかといいますと、一方は、民族解放戦線っていう場合には、現在の世界構造の最大の矛盾の、いわば、ひとつの発現形態というかたちを、たいへんもっているわけで、それは階級闘争であるとともに、また、同時に民族闘争であるというような、そういうような性格をもっていると思います。
それに対して、たとえば、北ベトナム人民解放戦線っていうようなもの、そういうものは、現在の国家群における、いわば、ひとつの象徴的なあらわれとして機能していると、そういうことは、たいへん微細に読んでいかなければいけないのじゃないかっていうふうに思われます。
 依然として、第三世界、あるいは、後進地帯における闘争というものが、どのような評価をされようとも、そのこと自体が革命の課題を担っていないってこと、つまり、革命が後進地帯で起こることがありえないということは、まったく先験的なことであるというふうに、ぼくは考えています。
だから、そこに過大な期待を寄せるってことは、どうしてもできないって思われます。ただ、問題は、みなさんが後進地帯、あるいは、第三世界と呼んでいるものを、どういうふうに理解したらいいかっていうことは、つまり、どういうふうに考えたらいいかっていう問題は、依然として、重要な問題として残るだろうと思います。
 たとえば、ぼく自身が、ベトナム戦争自体に対して、実体的に触れた経験をもっていませんけども、しかし、それにもかかわらず、いいうる基本的な問題っていうのはありうると思います。

2 後進性と歴史性

 つまり、それはどういうことかといいますと、後進地帯というふうに呼ばれ、あるいは、第三世界というふうに呼ばれているものが、現在の世界に、いわば、たいへん実体的に存在しているというふうに、考えるのは、まちがいではなかろうかっていうふうなことであるわけです。
どうしてかと申しますと、現在において、後進地帯という呼び方、つまり、現在の世界の先端情況に対して、遅れている地域という考え方、あるいは、それではなくて、依然として、農民戦争みたいなもののかたちが、大きな課題となって存在しているというような、そういう地帯というものは、たしかに、後進地帯ではあるわけですけど、つまり、その、後進地帯という呼び方で呼ぶ場合の、基本的な根拠というものは、じつはたんに、たとえば、東南アジアであり、あるいは、アフリカでありというように、たんに地域としてとらえてはならないってことがあると思うんです。つまり、地域としてとらえれば、それでいいというような問題ではないという課題があると思います。
 だから、依然として、たとえば、後進地帯における革命戦争の問題、あるいは、人民闘争の問題自体が、問題こそが、現在の世界革命の問題であるという、たとえば、毛沢東的な考え方っていうのはあるわけですけど、その考え方は、おそらく、一面的にすぎないのではないかっていうふうに思われます。
 なぜならば、後進地帯と呼ばれているものは、単なる世界における一地帯、あるいは、一地域、遅れた地域という問題だけを提起しているのではなく、それは、理論的にいいますと、依然として、人類の歴史的な時間のなかの、ある時間のところに、はめ込むことができるという構造をもっているということなんです。
 つまり、後進地帯ということは、たんに、場所的に、ある後進性をもった地帯という意味合いだけではなく、そのことは、ただちに、歴史性のなかでの、あるひとつの段階というものに、置き直して考えることができるという問題があると思います。
 つまり、これを、たとえば、歴史的な、地域性ということじゃなくて、歴史的な時間性と考えてみますと、現在の世界における、ある地域性というもの、あるいは、後進地帯でも、先進地帯でもいいんですけど、ある地域性という問題は、ただちに、それは、歴史的なある時間からというような、そういう理論的考察が同時になされねばならないってことがあると思います。
 もちろん、たんに歴史的な時間の段階ということで、その問題がすべて解けるわけではないのですけど、しかし、基本的な構造では、ある地帯というもの、ある地域というもの、ある後進的な地域というものは、ただちに歴史的な時間における、ある段階であるというような基本構造のなかに、はめこんで、そして、そこで、でてくる問題ってものは、考察されなければならないというような課題があると思います。
そういう課題に照らしまして、いわば、後進地帯における人民闘争のなかに、現在の世界における革命闘争の、本格的な課題があるというような考え方は、依然として、ぼくは、まちがいであろうというふうに考えております。
つまり、その考え方の基本構造をなしているのは、依然として、革命というものを、先進国であるとか、後進国であるとか、あるいは、先進地帯であるとか、後進地帯であるとかいうような、いわば、地域性の概念、それから、逆にいいますと、歴史的な時間性、段階の概念、そのいずれか一方によって、問題を裁断しようとする、そういう考え方のいる位置から、そういう理論的な問題となってあらわれる、この理論的な問題が、いわば、具象化されて、たとえば、毛沢東主義みたいなものになってあらわれる、あるいは、逆な意味では、非常に単純な、世界同時革命みたいな問題になって(会場拍手)、つまり、世界構造自体の内在性というものに触れえない、そういう考え方を、ほんとうは、提起しているのは、基本的にいえば、そういう世界の同時性っていうもの、つまり、現在の世界における同時性っていうものと、それから、地域性っていうもの、あるいは、同時性という言葉が悪ければ、共時性といってもいいわけですけど、共時性っていう問題と、それから、地域性、あるいは、空間性でもいいわけですけど、そういう問題の把握っていうもののどこかに、欠陥があるか、あるいは、一面性であるか、そのいずれかに依存すると思います。つまり、いずれかによって、そういう考え方っていうものは、でてくると思います。
 しかし、問題がそうではないのであって、つまり、もっと具体的にっていいますか、例えでいいますと、ニューギニアならニューギニアに、未開の種族が住んでいると、そうすると、たとえば、民俗学者、あるいは、人類学者っていうのは、ここにはまだ、たいへん未開的な段階にあるところの人類というものが住んでいると、これを調べると、未開時代の人類の社会構成、その他がわかるんだっていうふうに考える考え方があるでしょ、しかし、ぼくの考えでは、そういう考え方はまちがいなのであって、つまり、そういう未開の、ニューギニアならニューギニアがあるとすれば、そういう地帯があるとすれば、それ自体があるということ自体で、じつは、現在の世界の、現在の情況のなかでの、ひとつの、それも世界なのであって、つまり、そういう意味では、けっして、歴史的なことの、ある段階をあてはめて、はめこめば、それで全部はめこまれる、だから、そこにいけば、未開時代の人類の生活の仕方、考え方、宗教、習慣が、全部わかるみたいな考え方っていうのは、まったく、まちがいであると、つまり、それが同時に、現代に存在しているってことは、問題があるわけで、つまり、その問題は、やはり依然として、いま申しました、第三世界とか、後進地帯とか、後進国とかいわれている、そういう把握の仕方と、まったく逆の意味で、たいへん一面的な把握しかされていないかぎり、依然として、動物園の檻の中に、未開時代の人類のモデルたちが存在しているみたいな、そういう考え方っていうものは、流布されるんだと思います。
 しかし、依然として、そういう推察をしている、ある地域の、ある部族がいたとしても、これは依然として、現在も、現在の世界の真っただ中に存在しているということから受ける問題っていうものが、つまり、問題が微細に区別されねばならないってことがあるわけです。
 だから、わたしは、そういう意味合いで、実体的に、第三世界とか、後進国というものは、そのまんま存在するっていうふうに考える把握の仕方っていうのは、まちがいではなかろうかっていうふうに思います。
 それは、同時に、それを、東南アジアとか、アフリカっていうふうにいうならば、それは同時に、ある段階の問題概念、それから、それを、歴史的なある段階の後進性っていうふうに考えるならば、それは依然として、ある地域社会における人民闘争の問題であるというふうに、いわば、歴史性ってものと、それから、現在の世界における、しめている空間性っていうもの、それを相互に転換しうる、つまり、相互転換的に考える、総合的にとらえられる視点というものが必要であるというふうに思われます。
 そういうふうに考えていきますと、けっして、実体として、第三世界とか、後進地帯とか、後進国とか、そういうふうな実体として存在するというふうに把握する把握の仕方っていうのは、依然として、問題があるだろうというふうに思われます。

3 所有論から見た国家論

 もうひとつ、ぼくは、みなさんのなかに密輸入されている考え方で、ちょっと異論があるテーマがある。それは、たとえば、平田清明氏が出している問題なのです。つまり、なにかといいますと、これは所有論というものを基盤にして、あらゆる現象を割ろうという考え方です。つまり、たんに、経済現象だけじゃなくて、あらゆる政治現象、それから、いわば上部構造における現象というものを割ろうという考え方なんです。
 だから、たとえば、いちばん問題になるのは、国家論ということになるのだと思います。所有論からいく国家論っていうのは、どういうふうな構造をもっているかっていいますと、つまり、国家における、こういう言葉を使っているんですけど、国家における第一義的形成というものは、つまり、その国家のもとにおける人民のですね、私的なっていうのは、私的な財力なんですけど、私的な所有、あるいは、私的な利益というものを、いわば実定法、法として、つまり、法的な国家として、それを公認して擁護するっていうような、そういうものが、いわば、国家の第一次的形成だっていうふうにいっています。
 そして、国家の第一次的形成というものは、たとえば、資本主義国家では、すぐに、第二次的形成に転化すると、第二次的形成っていうのは、なにかというふうにいっているかっていいますと、そういうふうにして、私的な所有というものの、法による公認、法的な国家における公認、あるいは、つまり、法的な規制ですね、そういうものを、いわば、たんなる公認ってことじゃなくて、私的な利害の擁護というふうに、転化せしめる要素っていうもの、つまり、こういうまわりくどいことをいわなければ、そういう国家っていうのは、すぐに資本家の私有物になってしまうっていうような、そういう要素があるんだよっていうようなことを言ってるんだと思います。つまり、これを、国家における第二次的形成というふうに呼んでいます。
 こういう国家論っていうのは、所有論っていうところから展開しますと、たいへん、物珍しくみえますけども、ほんとうは、そんなに物珍しくはないのです(会場笑)。つまり、法的国家っていうのは、なにかっていうと、それは、国家における個々の人民の私的な利益というものを、いわば公認された利益というものとして、法的に規定するっていうような、そういうところのはじまり、そして、その法的な規定ってものは、国家の個々の人民の私有というところから、すぐに資本主義社会では転化してしまって、それは資本家的な私人、つまり、わたくしですね、資本家的な私の利益ってものに、公然たる擁護ってものに、転化してしまうっていうふうに言っているだけなわけです。だから、所有という言葉を使わなければ、たいへん昔ながらいわれていることをいっているだけなんです。
 しかし、わたくしどもの考えは、法的国家、あるいは、政治的国家っていうものは、つまり、政治革命の対象となる政治的国家、あるいは、政治的国家が生みだした権力、国家権力ですね、そういうものっていうのは、依然として、市民社会における、市民社会っていうのは、いまの言い方でしますと、私的所有というものを、たいへん尊重する社会ってことですけど、その社会が、資本家的社会、つまり、資本家擁護の社会に転化してしまう、それにつれて、上部構造である国家っていうものも、第一次形成、それから、第二次形成に転化してしまうっていうような、そういう、いわば基本的な骨格としては、非常にちゃちな考え方ですけど、そういう考え方っていうもので、法的国家、あるいは、政治的国家っていうものを考えたら、ぼくは、まったくまちがいだろうって思います。
 つまり、国家、あるいは、国家権力というものは、なにかっていいますと、これは、べつに、その国家のもとにおける市民社会、あるいは、社会構成、あるいは、社会形成と、なにも因果関係になくても、どうでもいいわけなんです。つまり、政治権力っていうもの、あるいは、政治的国家っていうものの形成というのは、日本国家の歴史を考えても、どこの国家の歴史を考えてもそうなんですけど、そのことは、けっして、そのものにおける社会っていうもの、そのものにおける社会形成ってものと、なにも対応するわけでもないし、因果関係にあるわけでもないのです。
 つまり、社会形成は、これは、いわば、日々、なにか働き、生産して、そして、食べていくっていうような、そういう過程さえあれば、つまり、経済社会的な過程さえあれば、それは、永遠の昔から永遠の未来まで続いても、いっこう差支えないのですけど、しかし、そのうえにのっかる法的国家、あるいは、政治的国家、あるいは、そこから導入される国家権力というものは、かならずしも、それと対応しなくて、因果関係になくても、あるいは、部族、あるいは、民族を異にしなくても、あるいは、横あいからいきなりやってきて、ササッてさらってしまっても、そういうことはかまわないわけです。
 つまり、そういうことは、いくらでもありうるわけで、だいたい、日本の統一国家の形成自体が、どこから来たかわからない勢力が、それを、もともとあった、経済社会構成的にあった、そういう社会における基本的な構造、あるいは、法的国家、政治的国家っていうものを、どこかから来て、ススッとさらっていったっていうことで、日本の統一国家っていうのは、はじまっているわけです。
 そういうことは、世界の歴史にたくさんありうるわけで、なにも、経済社会的構成から、なにか国家的な形成ができあがっていくなんていう、そういう発想をひとつも必要としていないわけです。
 だから、いくらでも、そのへんは接木することもできますし、また、ごちゃまぜにすることもできますし、曖昧にすることもできるということ、だから、そういうことから導き出される問題というのは、たいへん重要であって、平田清明氏っていうものが、いわば一種の構造改革論者となるのは、まったく当然なわけで(会場笑)、なぜならば、経済社会構成、あるいは、現在における市民社会の資本家的社会への転化っていうものを、現在の経済社会構成の、いわば基本的要素としてとらえていって、それから、あらゆる上部構造がはじまりをとらえているわけですから、それは、当然として、やっぱり、経済社会構成の段階、あるいは、市民社会が資本家的社会に転化する段階における、さまざまな問題を処理すること自体が、革命というような問題につながるような考え方になるのが当然なわけで、そのことが、そういうこともまた、やむをえないという意味合いではなくて、そのことを、いわば、本質化してしまいますと、どうしても、構造改革論っていうような、あるいは、構造改良論というものに転化するのは、まったく当然なわけです。
 しかし、問題はそうではないので、そんなものに、因果関係もなにもあるわけがないのであって、だから、経済社会構成のある国家っていうものと、いわば、法的国家、あるいは、政治的国家のある形成というもの、あるいは、それの変化、いわば、政治革命ですけど、政治的革命の問題とは、そういう極端な言い方をしますと、ほとんど無関係に成立しうるってことがありうるのです。つまり、そういうことは、人類の歴史が証明してきているわけです。
 だから、もしたとえば、政治的な革命というものを、たいへんイニシアルなものであるというふうに考える考え方を、みなさんが捨てないかぎりは、経済社会構成の変化なしには、上部構造の変化はありえないとか、あるいは、逆に、もっと違う言い方をしますと、経済社会構成の主要な要素である、たいへん基幹的な産業における組織労働者ってものの立ちあがりなしには、政治革命はありえないというような、そういう考え方をおもちだとしたら、それは、ぼくは、迷信だと思います(会場拍手)。そういうことは、まったくそうじゃないのです。

4 革命について労働者がなしうる最大のこと

 つまり、政治革命の段階において、組織労働者がなしうる最大のことっていうのは、なにかっていいますと、何もしないことだっていうことです(会場笑)。
 なぜならば、労働者運動ってものの本質は、やっぱり、経済社会構成のなかに、その本質があるからです。それを離脱するってことは、労働者が離脱したときに、なにをなすかってことは、もうはじめからわかっているわけです。だから、それは、労働者不信というのでは、けっしてなくて、だけれども、組織労働者が組織として、組織労働者として、政治過程に入っていった場合に、それがなにをなすかってことは、もうはじめからわかっているわけです。だから、わかっているわけですから、何もしないほうがいいのです(会場笑)。なにかしたいならば、一日休んでもらうとか(会場笑)、そういうことをしたらいいんじゃないかと思います。
 労働者ってものが、政治過程ってものに、つまり、幻想的な過程です、政治過程に登場したいならば、それは、組織労働者としてじゃなくて、個々の労働者の、つまり、実存的な労働者の集合、あるいは、集団としてならば、政治過程に入れるわけです。組織労働者そのままで政治過程に入るというのは、そういうことはありえないです(会場拍手)。だから、そのことはものすごく、学問的、研究的に考えたほうがよろしいのではないかというふうに考えます。
 ぼくは、みなさんの指導的な理論家である神津さんの本とか、論文とか読ましていただいたんです。神津さんの考え方のなかには、やはり、平田さんと同じように、現在における共同体、現在における国家、それは、いわば、私的所有というものとイコールでありというような、このことが、革命とは何を意味するかという場合に、それは、共同体=私的所有じゃなくて、個体的所有だ、つまり、個々の人間から、私性、あるいは、私の利益、がめつさってものをぬきにした、ただ、個体としての所有っていうのは、そういうところに到達するっていうのが、いわば、ひとつの革命の課題だっていうふうに展開できると思います。
 そしてまた、こういうことは、いわば、現在における前衛主義的な組織じゃなくて、いわば、包括的な、全人類を可能性としては包括しうる組織論の基礎ってものは、私的所有、つまり、プライベートながめつさ、排他的ながめつさっていうものと、共同性というものが結びついている、そういう結びつき方から、私的がめつさってものを除いた、個体的がめつさ、個体的所有というものと、真の意味での共同性ってものとの、結びつきってもののなかに、いわば、前衛主義的な、あるいは、閉鎖的な組織じゃなくて、いわば、包括的な組織の可能性、あるいは、萌芽があるというふうに展開されています。
 で、このところは、わたくしが読みまして、いちばん興味深く読んだところですし、また同時に、いちばん疑問を感じたところだと思います。つまり、そこの問題というのは、やはり、学問的に検討するに価するのではないかというふうに感じます(会場拍手)。
 私的な所有、あるいは、個的な観念、つまり、所有観念でいいわけですけど、個的な所有観念というもの、あるいは、観念というものは、共同観念と、どんな場合でも逆立するっていうふうに、本質的には逆立するものだっていうのが、わたくしの考え方の、非常に根本的な問題、基本的な問題なんですけど、この考え方にいわせると、神津さんは吉本主義を乗り越えたというふうに書いておられますけど、神津さんの考え方は、それとまったく逆なわけです。
 だから、わたくし自体の課題を申し上げますと、わたくし自体の考え方っていうのは、たえず、組織とか、共同性ってものは、じつは、そうたいした問題じゃないんだぞというような、そういう問題っていうのがいつでもありまして、そういうことに対して、わたくしなりの、思想的な、あるいは、論理的な防衛措置っていうのは、なされているわけですけど、それにもかかわらず、組織というのは、あまりたいしたものじゃないんだぞというような問題というものを、ぼくが、たとえば、自己肯定した場合には、たいへん、破壊的な作用を及ぼすわけでして、たとえば、もし、ぼくならぼくにとって、たえず、理解しなければならないものがあるとすれば、おそらく、ぼくの理論、あるいは、ぼくの考え方にとって、いちばん理解したい、いちばんよく検討したい、たえず検討しなければダメだっていう問題は、おそらく、そのへんにあると思います。
 で、みなさんがたとえば、吉本主義者とか、そんないいものか知らないですけど、おそらく、そういう点だと思います。で、ひとつの問題としてあげておいてもいいわけです、ぼくは。だけれども、ぼくは、たとえば、疑似共同体と私的所有、あるいは、がめつい排他的所有というものが対応する、真の意味の共同体、それから、個体的所有というものが対応するという考え方っていうのもまた、理解せねばならないっていうような問題は、ぼくはあると思います。
 それは、どうしてかといいますと、そういうところで、具体的なものであろうとなんであろうと、現実の、たとえば、まさに、国民というものが従属的に望んでいる、そういう大衆ってものが、たえず、みなさんの、たとえば、みなさんが闘争をやれば、みなさんの襟首をつかんで、ポリ公に引き渡すっていうような、あるいは、みなさんに対して、防護団みたいのをつくって、対抗するっていうようなことで、実際は、真に解放、ほんとうの意味で解放されなければならない、そういうことをやるっていう矛盾があるんです。
つまり、その矛盾ってものは、どこからくるかって問題を、みなさんのほうでは、たえず、やっぱり、検討するに価すると、ぼくには思われます。
 だから、そこのところは、その考えでは、ある現在の情況ってものだけでとってくれば、その情況においては、たいへんかけ離れてしまったり、かい離してしまった要素っていうのはあるわけで、そういう要素っていうのは、ありうるわけなんですけど、あるいは、政治過程というものと、思想過程というものとは、かい離してしまうということはありうるわけだけど、ぼくの考え方からいきますと、そういうことは当然のことだっていう、だから、当然のことだから、それは、ある場合に、鏡として写すものだというふうに考えればいいじゃないかと、なにもそう怒ることはないじゃないかというふうになりますけど(会場笑)。
 みなさんの考え方、神津さんの考え方でいきますと、そんなことは許さんのだ、真の共同体=個体的所有と対応するんだという、半端者は許さんということになるわけでしょう(会場笑)。しかし、ぼくは、そう思わないので、ある時代、ある時間の、個々の場面では、かい離してしまう、あるいは、お互いに背を向けあってしまうとか、対立しあうってことはありうるわけです。ぼくの考えでは、そういうことは、真理として認めなければならないというふうに思われます。
 だから、そういう意味合いでは、やはり、ぼくの考え方のなかに、たえず、検討しなければ、あるいは、内省的に検討していかなければならないという問題があるのと同じように、やはり、そういう意味で、共同体=個体的所有というような、そういう考え方のなかにも、やはり、たえず検討して、たえず考えていかなければならないというような問題が、ぼくはあると思います。これは、なんら政治的、あるいは、煽動的な問題じゃなくて、まったく、学問的、研究的問題であるというふうに、ぼくは考えます。
 しかしながら、ぼくが最後に申し上げたいのは、みなさんがこういう問題をたとえば、だいたい、ぼくを呼んだのも、どうせあいつはそういうことをいうだろうと思われて呼んだんでしょうけど、つまり、公然として、意見の違いとか、見解の違いっていうのは、公然として、やはり、しかも、非常に基礎的なところっていいますか、基礎的なひとつのところから提起して、それを公然と論じあって、公然と対決しあって、あるときには、なぐりあって、それで、公然とそれを提起していくっていうような、そういうあり方っていうのは、たいへん開明的であって、われわれもまた、そういうことで、一種の明るさっていいますか、特殊部落性ってものを、自らをたえず内省しているという意味合いの、そういうような新しさというのを、そういう公然性のなかに感ずるのです。
 この問題は、ぼくが敬意を表するところで、どうかこの問題っていうのは、閉鎖的にならずに、公然とやはり提起して、公然と下から提起して、公然と万人、万人とはいかないまでも、それぞれの意見というものを、充分に出し尽くさせる努力、方策をとりながら、そして、そう急にではなく、徐々に、徐々に、いわば、ほんとうの共同性とはなにかという問題に、徐々に、徐々に、到達していってほしいというふうに、ぼくは思います。以上です。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま