1.言語表現の時間性

今日は言葉の美ということ、つまり、言葉の表現がなぜ、どうして美というものを成り立たせるかというような、そういう大変基礎的な問題についてお話したいと思います。これは直接今日皆さんにお役に立つことはないんでしょうけども、まあ、言葉というものの表現の背後に何があるかというような、そういう問題について、知っておけばいいんじゃないかという意味合いでお話したいと思います。で、どういうところからお話しようかって考えてきたんですけど、僕の著書のとおりお話してもまったく芸のない話ですので、ちょっと違う話し方をしたいと思います。初めに、

(板書)

言語表現の時間ということでお話します。ごく普通に考えまして、意識の時間というのがすぐに考えられるわけです。またこれはすぐに体験もできるわけですけれども、非常に仲の良い友達とか恋人同士で話していたら、いつの間にか二時間経ってしまったというような体験は誰でもあるわけでして、そういう意味合いで、本当は二時間という自然の時間、自然時間で二時間というのが経過しているのに、あっという間に経ってしまったというような、そのときの時間体験というのは、おそらく内的な意識っていうものの時間体験なんです。それは自然時間の一時間とか二時間ということと、内的意識の一時間二時間ということとは、まったく違うことなわけです。それから、最も簡単な時間というのは何かといいますと、それは自然時間でして、それは皆さんの時計なら時計で一時間は六十分であるというような、そういうような意味合いで、自然時間というのも非常にはっきり分かるわけです。これもまた体験もできるわけです。一時間経てば日がどういう風に落ちるとか、どういう風に射し方が違ってくるとかいうような、そういうような体験で、自然時間の時間ということもわりあいに体験的によく分かりうるわけです。

ところで、言語あるいは言語表現の時間性っていうのは、内的意識の時間とも、自然時間とも違うわけです。それはどういう風にして体験できるかといいますと、たとえばモーパッサンの「女の一生」という作品を読むとします。そうすると、つまり何はともあれ、一人のわりあいに平凡な女性がわりあいに平凡な事情で平凡に結婚して、そして歳をとっていくというまでの物語というものがわりあいによく描けているものですから、その作品を追っていく場合に、自分がその作品の中に入り込んでいって、本当は自然時間としては二時間ないし三時間あれば十分読めるわけですけど、あるいはもっと早く読めるわけですけども、しかしその作品の中に入っていきますと、なんとなく、一人の女性の一生といいましょうか半生といいましょうか、そういうものを体験したというような、そういう感じを、もし優れた作品の場合はいつでもそうですけど、それを受けるわけです。そうしますと、そのときの時間性というのは何かというと、それは言語表現の時間性なんです。これは自分の内的意識の時間性というものとも、自然時間とも違うわけなんです。つまり言語表現というのは、一人の創作者がいるわけですけも、創作者が作った言語表現にしたがって、それを後から体験していくわけですけど、その体験の仕方の中で、まさに自然時間では二時間ないし三時間で読みきるわけなのに、何か一人の女性の一生なら一生の体験をしたような、いわゆるフィクションの体験ができるわけです。この場合も時間性というのは自己の私的時間性とも違いますし、自然時間とも違う。要するに根源はそれを書いた作者の言語表現の時間性に依存するのであって、読むほうはそれにできるだけ近づく形で、それを体験していくというようなことだと思います。

こういう風に考えていきますと、言葉の時間性というものは内的意識の時間性とも違いますし、また自然時間性とも違うっていうことが、わりあいに体験的にはっきりするんじゃないかなという風に思われます。これは森本薫に同じ題名の「女の一生」という書がありますけども、杉村春子が娘時代から年取ってまでというのを演じるというようなことがあるでしょう。僕らは演劇について素人だからそういうことを言うわけだけれども、僕は若い女優さんが、若い歳から可能性としての年寄りというものを演じるときのほうが、僕の考えでは、演じやすいのではないかなと思うんです。つまり年取ったことないわけですから、そこはフィクションあるいは想像力で補ってやっていくっていう、その想像力の中にわりあいに自由な許容範囲がありますから、その方がやりいいのであって、婆さんが娘時代から年寄りまでというのは、大なり小なり自己体験というものがあって、その体験的基礎にわりあいに制約されて演ずるということですかね、わりあいに僕の考えではやりにくいんじゃないかなと思います。また、うまくできないんじゃないのかなという感じがします。だからたとえば世阿弥なら世阿弥というのは、年取ったら脇をやれ、優れた脇をやれという風なことを言うわけです。つまり教えているわけです。それはまったくそういうことであって、おそらく文学でも同じかもしれないんですけども、あるひとつの、自分の個性とか力とかが、花を開くという時期が、ある時期にあるわけですけども、その花を開く時期を過ぎた場合に、なおその花というものといいますか、花を表現したい場合には、非常に脇を、つまり抑制された演技で、抑制された立場で脇を演じる、脇役を演じると、本当の意味で優れた演技ができるというようなことがあると思います。たとえば婆さんが娘時代からというようなやり方をするというのは、わりあいに自己体験に束縛される要素が多くて、本当はあまり芳しくないのではないかという風に、素人考えではそういう風に思います。つまりそういう風に、言葉の表現というやつでも、表現の時間性という場合でも、その時間性というのは、根本的にどこから来るかということは後ほどあれしますけども、少なくともそれが自己意識あるいは人間の意識内の時間的経過、時間性というものとも、それから自然時間とも違うものである、違うひとつの独特な位相を占めるというようなことが言えると思います。つまりそういうところに言語あるいは言葉というものの時間性の特殊さといいますか、独特さというものが表れるんだという風に考えられます。

2.言語表現の空間性

同じように、今度は、

(板書)

言語表現の空間性というものを、まったく同じような意味合いで考えることができます。言語表現の空間性とは何かっていうことを考えてみますと、大変分かりやすくするために整理して言いますと、ひとつは、自己の、あるいは個人のでもいいですけれども、自己の表現した言葉の意味の広がりっていうものを考えますと、いわば、さきほどの内的意識の時間性というのと同じような意味合いで、言語の空間性というものの、非常に主観的なあるいは内的な広がりという風に考えることができます。つまり、言葉というものは一般的に、たとえば「馬鹿」と言えば誰にでも通じる要素があるわけですけれども、それにもかかわらず、ある時ある場所で、ある個人が「馬鹿」という風に相手に言った場合には、その「馬鹿」という言い方のなかに、その人に固有な、つまりその人の内部に固有な意味が、「馬鹿」という言葉の中にあるわけで、その意味の広がりというものをひとつは言語の空間性という風に言ってよろしいと思います。まったくこれとは反対な意味合いで、自然時間と同じような意味合いで「馬鹿」と言った場合に、「馬鹿」は誰が言っても「馬鹿」という意味だという要素があります。そこで「馬鹿」という言葉の空間的な広がりというものは、非常に現実的には、日本語なら日本語を使う、ある階層というものを想定しますと、そこ全体がたとえば「馬鹿」という言葉の意味が広がりうる許容範囲だという風に言えると思います。つまりそれが言葉というものを、ある共通性あるいは僕らの言い方では共同基幹というわけですけども、共同基幹としての言葉というものの広がりというものは、そういう風なかたちですぐに考えることができると思います。ところで、まったく時間という場合と同様なんですけども、言語表現の空間性というのは今言いました、内的意識から主観的に発せられた言葉の意味合い響きというものの広がりとも、それから今言いました自然な意味の広がり、つまり「馬鹿」と言えば誰にでも「馬鹿」という、ある概念がやってくるというような意味合いの広がりとも、言語表現の空間性というのは違うわけです。主観でもなければ客観でもないわけです。その場合の言語表現の広がりというのは何かと言いますと、ある人間にとっての、ある受け入れの仕方の広がりだという風に言ったらいいんだと思います。一番良い例というのは、

(板書)

「喩」という、喩というのは比喩とか暗喩とかいう、喩というものを考えますと、言語表現の広がりというものが、主観的な、つまり内的意識の空間性というものとも、それから「馬鹿」なら「馬鹿」というものが共同の基幹として考えられる、つまり共通性として誰にでも「馬鹿」は「馬鹿」という概念を与えるというような、そういう広がりとも違う広がりというものを理解するのにいいんじゃないかという風に思います。たとえば、何でもいいんですけど、

(板書)

たとえば「クレオパトラのような鼻」と言った場合に、ここで言いたいことは、つまりただ鼻ってことだけなわけです。だけれども、「クレオパトラのような」っていう風な、これは一般的に直喩と言われているものですけれども、「クレオパトラのような」と言った場合に、鼻というものに特有な、広がりといいましょうか、響きといいましょうか、そういうものを与えるわけです。だけど実際問題として言いたいのは、言いたいことの本体というのはただ話すということだけなわけです、だけども、「クレオパトラのような」って言うことによって与える、ある「鼻」という概念に対する広がりというものができてくるわけで、その広がりというものを言語表現の空間性のひとつの例だという風に理解したら大変解りやすいんじゃないかという風に思われます。

もうひとつ、言語表現の時間性と空間性というものが、いずれにせよ主観的な意識の中の時間性空間性とも違うし、また客観的な、自然の持っている時間性あるいは自然な概念として持っている言葉の広がりとも違うんだという、なぜどこが違うんだということは別として、両者とも違う、ある独特のものなんだということがここで理解できればいいんじゃないかという風に思います。

3.言語表現における沈黙

で、もうひとつ、そういうことから問題になることは、

(板書)

言語表現における沈黙ということだと思います。沈黙ということをごく普通に考えまして、言葉を何も言わないでぼんやりしている状態だって風に、ごく普通に理解してもよろしいわけですけども、そういう風に理解するのがごく普通なわけですけれども、しかし沈黙といえども言語表現であるというような理解の仕方ができるわけです。それは皆さんのほうではおそらく「間」ということだと思います。つまり台詞と台詞の間だというような、あるいは動作と動作の、演技と演技の間だというような、そういう言い方で言われているものに匹敵すると思います。で、その場合の沈黙というのは、言語表現として意味があるという風に理解することができます。そうすると、この言語表現における沈黙というものを、どのように理解していったらいいんだろうかというようなことは当然出てくるわけですけども、これは文学的な粉飾と言いますかね、いろんな粉飾ができるんですけども、そんなことは問題でないとして、沈黙というのは今言いました言語表現の時間性あるいは空間性というものから理解して、どういう風に理解したらいいかという風に考えますと、今まで申しましたような、言語表現が独特に持っている時間性空間性というものが、先ほど言ったあれでいいますと、主観的な内的意識の時間性空間性と、それからわりあいに自然的な空間性時間性というものに解体したもんだっていう風に、つまりそこに分かれて解体してしまったもんだって風に理解されたらよろしいと思います。つまり言語表現ってものは独特の時間性独特の空間性を持っているわけだけれども、沈黙というときに限り、つまり沈黙としての言語というときに限って、主観的なあるいは内的な意識の時間性空間性およびわりあいに自然な時間性空間性ってものに、言語表現が解体するっていうことだっていう風に了解されたら解りやすいんだって風に思います。つまり言語というものが、独特の時間性空間性を失って、主観的かあるいは客観的に解体された状態における言語というもの、それが沈黙であるという風に理解せられたらよろしいと思います。だからたとえば、

(板書)

「死語」というものがありますけども、死語というもの、つまり沈黙の言語というものを、あるいは言語の沈黙というものを別の言い方をしたわけで、死語という場合には自然の時間性あるいは自然の空間性に解体した言葉っていうものを死語って風に言うわけです。つまりなぜ、ある言葉が陳腐であり、ある台詞が陳腐であるかというと、死語だからだと。なぜ死語は陳腐なのか、それは要するに一方で言えば自然の時間性あるいは空間性というものに従うと、つまり「馬鹿」と言えば「馬鹿」という概念としてしか存在しないというのは、そういう風に言語表現が解体してしまっているから、それが陳腐なのであるという風に、あるいは「死語」なのであるという風に了解されたら解りやすいと思います。だから、いくら概念的な意味合いで、自然の時間性空間性という意味合いで言葉を遣っても、何も言ってないのと同じだってことがありえるわけです。つまり何か喋ってんだけども、何も言ってないのと同じだ、つまり黙っているのと同じだとか、あるいはある作品を読んで、たいへん長編小説でたいへん長いんだけれども、何も言ってないじゃないか、何も言えてもいないし感じさせもしないじゃないかというような作品というのもあるでしょう。その場合には、だいたい何らかの理由で、言葉が沈黙としてしか使われてないこと、つまり、沈黙のひとつの表現の自然性としてしか言葉が遣われていない、つまり死語としてしか遣われていないというような、そういうことが、長々と書かれた作品でも、なんだこれは、冗長なだけであまり何も言っていないじゃないかというような、そういうことが根源にある問題だという風に思います。だけども、死語というような言語の沈黙、沈黙としての言語というものの、ひとつの形態にしか他ならないので、もうひとつの解体の仕方というのは、今言いましたように、内的意識というものに解体するわけです。その場合には、その人が何も喋ってはいないんだけれども、その人の意識の内部では何かあるわけなんです。あるという状態があるわけです。つまりそれは決してぼおっとしているわけではない場合でも、黙っていてもその人の主観的あるいは意識的な状態というのが、解るとか表現されているという風に感ずる場合があるでしょう。つまりそれはなぜかといいますと、沈黙の言語が内的意識の時間性空間性ってところに解体してしまっているからです。つまりそこでは喋られないわけだけれども、しかし、まったく無意味なんじゃなくて、その人の主観の内部あるいは意識の内部にはたいへん満たされていて、そしてそこでは何か喋られているのかもしれない。しかし、外からはとにかく、そうだなという風に憶測するより仕方がない。しかしそういう喋り方というのはありうるわけで、先ほどの死語というものとまったく極端に反対な場合として、そういう場合がありうるわけです。それを、沈黙している人の内部の意識ではたいへん満たされている、言語が満たされているという状態というのはありうるわけです。で、「間」という風に呼ばれているものは、おそらくそういう状態を指しているに違いないのです。つまりあの野郎の台詞は間の取り方が悪いとか、あいつの動作というのは間の取り方が悪いとかというようなことがあるでしょう。その場合の間の取り方が悪いというのは何かというと、内的意識としては満たされている状態というものが、どのように満たされどのような状態にあるかってことが、うまくつかめていない場合には、きっと間の取り方が悪いというような形で問題が出てくるんだと思います。だから、それは言葉が沈黙されるというときもそうです。文学作品でも、非常に省略した書き方をしながら、しかし、何かを喋っているっていうような、主観的には喋っているってな状態を髣髴とさせるって場合がありうるわけですけど、それはおそらく内的時間意識ってところに、言語の時間性というものは解体し、それから内的意識における空間性ってものに言語の空間性は解体しているってな、そういう状態を指すだろうって風に考えることができます。で、沈黙ということにさまざまな意味合いをつけるって粉飾ができるわけですけども、しかし根本的にあるのは、そういうような二つの解体の仕方、つまり言語表現としての特有の時間性空間性ってものが、あまり特有でない、意識的な空間性時間性ないしは自然的な空間性時間性に解体してしまった状態であるという風に考えれば、まずは根本的なところは押さえられるんだという風に考えられます。

4.言葉における空間性の根源にある〈受け入れ〉の仕方

そうしますと今度問題になるのは、それでは言語表現の時間性空間性というのは何を根源にして出てくるかということ、つまり何が根拠であるか、つまりどうしてそうなのか、どうして何が根拠になっているのかということが問題になってくるわけです。その場合、ここまで来ますと、考え方も説も分かれるところでどうしようもないわけなんですけども、僕らの考え方を申し上げますと、

(板書)

僕らの考え方では、言語あるいは言語表現の時間性空間性の根源というのは、身体ですね、身体の受容性あるいは受け入れの仕方と、了解の仕方ってことに根源があるという風に考えます。つまりそれはどういうことかといいますと、解りやすい例をとりますと、たとえばここに身体の器官、目なら目を例にして考えてみますと、ここに灰皿なら灰皿があると、そういう場合に、灰皿が灰皿として目という感覚器官が受け入れるわけですけれども、その受け入れ方というもの、その受け入れ方の中に空間というものの根源があるわけです。これは難しいんですけども、ここに灰皿があってこの灰皿を灰皿として目が感覚として受け入れるわけです。その受け入れの仕方というものは、ある程度は誰でもわりあいに共通性があるわけです。これを見てこういう形のこういう灰皿だってことを目が受け入れるというところではそんなに違いはないはずなんです。これは現代的に違いがないだけではなく、原始時代の人間でもそこではそんなに違いはないはずです。それから人間以外の動物でもそんなに違いがないだろうっていう風に思われます。ところで、その場合にあらゆる感覚器官による受け入れというものは、全部これを空間性という風に考えることができるのです。だからそういう意味合いでは、目という感覚器官による対象の受け入れの空間性というものは、耳なら耳というものによる、対象から発せられる音の受け入れの空間性というものとは、空間性としては同じわけですけども、何が違うのかというと、結局根源的には、

(板書)

受け入れというものの度合いあるいは尺度と言ってもいいんですけども、度合いというものが違うんだっていうことなんです。だから皆さんがお考えになると、視覚と聴覚とはまるで大違いじゃないかっていう風に言うかもしれませんけれども、ほんとはそうでないので、視覚でも聴覚でも嗅覚でもいいんですけれども、それらは受け入れというところで言いますと等しく空間性なわけです。その空間性というのは身体自身に根源があるわけですけども、空間性の度合いが違うってだけなわけです。度合いが違うから聴覚的受け入れとなり、それから視覚的受け入れとなり、あるいは嗅覚的受け入れとなり、あるいは味覚的受け入れとなり、あるいは、なんといいますか、まあいいや、そのぐらいです。そういうものはまったく違うようにお考えになるかもしれないけれども、根源的なところで言いますと、受け入れの度合いというものが違うっていう風に還元することができるわけなんです。その度合いというものがおそらく空間性なんです。身体のあるいは身体器官の受け入れの客観の空間性というのが、早急に繋げないとすれば、言葉における空間性の根源にあるものなんです。

5.言葉における時間性の根源にある〈了解〉の仕方

同じように、今度はここに灰皿があって、ここに灰皿があるという風に目が受け入れたとして、受け入れたやつを灰皿であるという風に了解して、目の灰皿に対する知覚作用というものが完了するわけですけども、つまり受け入れたものを灰皿だなってことを了解して、了解したところで、すべての知覚作用というものが終わるわけです。この場合は目の知覚作用というものが完了するわけですけども、この了解の仕方っていうものがおそらく時間性というものの根源にあるものなんです。つまり了解の仕方っていうものは時間性であるという風に了解することができるわけです。だから、今度は了解性というところまで入れて、たとえば灰皿なら灰皿を見た、で、灰皿だなっていう風に了解したというようなところまで、目の知覚作用っていうものの過程を考えてみますと、そこではたいへんな差別が生ずるわけです。これは時代的にも生じますし、また個人的にもつまり個々の人間でも生ずるわけです。時代的に生ずるとは何かと言いますと、どういう例でも良いわけですけども、未開人なら未開人の例をとれば、隣の家の出入口の横に木が植えてあった、その木にふくろうならふくろうが止まっていて鳴いたと。そういう場合に、隣の家に行きまして隣の家の人間を殺してしまった、しかし殺したけれども殺人罪に問われるわけでもなんでもないということがありうるわけです。その場合には、ふくろうが止まっているというのはきっと誰が見ても、未開人であっても、ふくろうが止まっているというのは止まっているという風に受け入れるわけですけれども、それをどう了解するかということはたいへん違うわけです。たとえばふくろうは不吉な鳥であるという観念が、ある未開の種族なら種族を支配しているとすれば、かかる不吉なふくろうを自分の家の木の枝に止まらせて、人に見えるところに止まらせて、人に聞こえるところで鳴かせているということは、そいつの家のやつを殺したっていいんだって風になっていくわけです。その場合にはふくろうはふくろうとして見えるわけです、受け入れられるわけですけれども、しかしそこにはふくろうがたいへん不吉な、たとえばふくろうが鳴くのを聞くと死ぬなら死ぬという観念が支配しているところでは、たいへん不吉な動物であり不吉な鳥であるという観念があれば、そういう観念を、ふくろうというという目で受け入れれば誰が見てもふくろうなんですけども、そういう意味を与えてしまう結果、知覚作用全体を辿っていけば、ふくろうがふくろうとして受け入れられても、ふくろうとしては見えなくて、たとえば不吉なものの象徴であるという風に見えるために、そんな不吉なものを人に見せることは怪しからんことであるから、隣のやつは殺してもいいんだっていう風な理屈が成り立つわけです。この種のことは、未開人の自然観とか人間観とか世界観とかそういうもののなかに、わりあいに普遍的に存在するわけですけれども、それは必ずしも未開人に限らないので、現代人にもそういうことがありえるわけです。だからごく平凡な視界の現象で、機械の玉みたいなものが見えた、それが見えるということの受け入れでは、おそらくあんまり誰にも違いはない、錯視とか幻視とかを抜きにすれば、つまり病的な視覚というものを抜きにすれば、誰にでもそのとおり見えるんですけども、それをたとえば「ああ、空飛ぶ円盤である」という風に意味を与えますと、そのように見えるのですよ。見えるのですよというのは、つまりそのように了解されてしまうわけです。つまりその種のことというのは現代においても多々あるわけでして、それから皆さんでもそういうことはあんまり避けられないんじゃないか、つまり人間はそういう意味合いで、あまり上等にできていないってことです。つまり皆さんの方も、大なり小なり一度や二度はそういう経験をしているのではないかという風に思いますけれども、つまり受け入れのところで言う限りは、誰が見たって見えるものは見えるんだけれども、しかし目の知覚作用全体の過程を辿っていきますと、それがまったく別のものとして考えてしまうということはまったくありうることなんです。人間というものは、あるいは人間の感覚器官というものは、そういうことにおいて錯覚を避けられるほど上等にはできていないということが言えると思います。だからそこのところの了解性というものに時間の根源というものがあるっていう風に考えたらよろしいと思います。

6.古代人と現代人の知覚過程の差異

とは言うもののここに灰皿があって、これなんですかって言った場合に、これは灰皿であるという風に言うことにおいては、わりあいに誤らないんじゃないかっていう風に思います。自然の景物でもいいわけですけども、山を見たら山として見えるということにおいては、わりあいに間違いないんじゃないかなっていう風に思うんです。だけど、太古の人間というのは山なら山を見た場合に、頂上がふたつ、駱駝のコブみたいにふたつある山を見ますと、昔の人だったらば、この山に特異な宗教的な意味合いを、宗教的な了解性を与えるわけです。だから、ある部落から見て、ある方向に駱駝のコブみたいに頂上がふたつに見えるというような、そういう山があると、そこにある宗教的な意味合いをつけてしまうわけです。そうするとこれが確かに山として誰が見ても受け入れられるわけですけども、わりあいに神聖感があるものとして了解してしまう。で、こういうものを二上山(ふたかみやま)という風に言うわけです。で、二上山といってここに祖先の死者が集まっているんだっていうようなあれを、山自体に与えるわけです。しかし我々は今ではめったにそういうことはないので、山を見たってああ山だと思うだけなわけですけども、わりと太古の人間というのは、これを見ても確かにこう見えることには変わりないんですけども、しかしこれに独特な宗教観念というものが与えますから、そうするとこれが莫迦に神聖な山に見えてしまうわけです。で、ここに祖先の霊が死ぬと集まるんだって、そういう風にこれを理解するわけです。だからこの二上山ってのが奈良盆地に行けばあるでしょう、しかし奈良盆地にだけあるわけじゃないんです。九州にもありますしね、関東にもあります。

(板書)

奥多摩ですか秩父ですか、そこらへんに二上山ってのが。これ二上山って読ませていないと思いますけれけど、しかし同じなわけです。こういう山の名前ってのは至るところにあるわけです。秩父では両神と読ませていると思いますけども同じです。これと同じです。どういうことかというと、今言いましたように、知覚過程の全体を辿った場合に、太古の人と現代人とではだいぶ知覚作用自体が違うってことなんです。これを神秘な山として見た太古の人間と、それから現代のこういう山はこういう山だという風に見る現代の人間との間に、了解についてのある差異があるでしょう。違いがあるでしょう。これはあらゆる感覚について言えるわけです。これは聴覚についても言えます。それから味覚とか嗅覚とかそういうものについても言えるわけですけども、つまり解りやすく言うためにそういう説明をしますけれども、太古の人のそういう了解、自然物なら自然物あるいは人間なら人間あるいはある現象についての全知覚過程というようなものと、現代人の全知覚過程というものとは差異があるでしょう。その差異がなんであれ、とにかく差異があるということだけは疑いないわけです。その差異をたとえばアルファならアルファとしまして、千五百年前の人がこういう山を見たら、わりあいに神秘的に目立った山だって風にこれを見ちゃったって知覚を持っていたとして、現代まで千五百年なら千五百年を千五百で割れば、こういうこと言っちゃいけないんですけど、まあ簡単な説明のために言いますけれども、了解性の度合いというもの、あるいは尺度というものが出てくるわけです。だから了解性というのは要するに時間性であるというようなことを言うのはなぜかといいますと、通俗的に言いますとこういうことが言えるわけです。知覚の過程の全過程の中で了解性というものを考えた場合、了解性自体に千五百年前の人間と現代人とでは明らかに差異があるということだけは体験的に認め得られますから、そういう差異というものは何に因るかというと、千五百年という年月に拠る、つまり年月のあいだに人間はさまざまな感覚の磨き方をしさまざまな体験をして、ある感覚の磨き方をして、それで現代に生まれてきているわけですけども、そして現代的な感覚の磨き方をして現代的な知覚作用を持っているわけですけども、そうしますと千五百年なら千五百年のなかに、人間の身体の感覚器官が体験したであろうという、ものの体験というものがこの差異の中に含まれている、つまりそういう時間が含まれているという風に通俗的に考えれば、そういう風に理解することができるわけです。それが要するに了解というものが時間であるという由縁です。このことは本当を言いますと知覚全過程で受け入れと了解というものを、本当は区別することはできないのですけども、その過程を強いて区別しますとそういう風に言えるわけです。

7.了解性の仕方の差異に含まれる時間性

この受け入れの仕方っていうものは、おそらくはこの了解性の差異というものから影響されて、それ自体が受け入れとして差を生ずるということが出てきます。それはたとえば空間性というものの度合いなんだ。それでそういう評価系のなかで全知覚過程のなかで出てくる時間性と空間性というものは、何はともあれ言語における、先ほど言いました言語表現における時間性空間性というものの根源にあるもんだっていうことは確かであるという風に思われます。その根源性というものはもう少しはっきりと根拠づけられないかということを考えますと、それは根拠づけられるわけです。それは一番通俗的に言いまして、一番よいのは、自己が自己の身体をどう受け入れてどう了解していくかということを根源としてみればよいわけです。そうしますと、個々の人間が視覚を行使した場合には、自分がこういう体つきをしていてというのが見てすぐにわかるでしょう。ああこうなんだなって了解するでしょう。で、背中のほうは見たことなければ鏡で見りゃいいわけで、了解できるでしょう。つまりこうなんだなってのがわかってくる。しかし、それだけじゃ決してないので、たとえば内部器官というのがあるでしょう。これは知識としては小学校のときから解っているわけで、肺はこのへんにあって、心臓はこのへんにあってとか、胃はどういう形をしていてってことは自分であれするでしょう。それは視覚的には見えませんけれども、視覚的に見える場合にはおそらく、他人の身体を解剖したやつを見るとか、解剖の標本を見るとか、あるいは書物を通じて、図面を見るとか、あるいは説明されていることをかつて読んだことがあるとか、そういうような諸々の知識とかあるいは総合したものでもって、だいたい自分の胃の形なら胃の形はこうなっているとか、自分では解るわけです。

その解り方というものは、先ほどの言い方で、まあ通俗化して言いますと、大昔の人間が自分の身体というものを見たとすると、自分の身体を見た見方というものと、見て了解した了解の仕方というものと、現代の人間が自分が自分自身で自分の身体をこうであるという風に了解した了解の仕方というものは、明らかにやっぱり差異があることがわかるわけです。ごく解りやすく言えば、知識として胃がこういう形をしているとか、腸はこういう形をしているとか、肺はこういう形をしてここら辺にあるとかというようなことは、たとえば未開人というのはあまり了解しなかったかもしれない。あるいは了解しても奇妙な意味合いをつけていたかもしれません。しかし我々はだいたい知識とか判断とか図面とかそういうものをあれしたり、それからそういうものからしかり、また自分自身が病気なり、胃が悪くなったってことでことさら胃を意識するって、そういう仕方ってことをやりながら自分の身体についてとにかく未開人なら未開人と、あるいは古代人なら古代人と、違う了解の仕方あるいは受け入れの仕方を持っているだろうということは確かなことです。で、その差異は先ほど言いましたこととまったく同じように、その見方それから受け入れ方というもの、それからその了解の仕方というものの差異の中に、時間性というものが含まれていて、その時間性というものは見方自体というものに対しても、自分が自分の身体を見る見方自体に対しても、明らかに影響を与えるだろうということが言えるわけです。その場合の差異というもの、自分の身体をどう了解しどう受け入れるかというような、そういうことの中に、つまり時間性および空間性というものの根源というものを考えたら一番解りやすいと思います。そういうことが少なくとも言語表現の空間性時間性というものを最終的に規定していると言うことができます。

ただ最終的に規定しているということと表現過程で規定される問題というものはまた違うんですけども、しかし最終的に根源がどこにあるかと言いますと、それは、どこにあるってことをどうして理解して解るかってことは、自分が自分の身体をどういう風に了解するか、どういう風に受け入れるかというような、受け入れの仕方の、ある現代的な水源といいますか、そういうものを考えれば、そこで了解できると思います。そこが言語表現の時間性あるいは空間性というものの、非常に根源にある問題だという風に理解されます。これは自然に対しても同じであり、また人間以外の対象に対しての受け入れ方あるいは了解の仕方というのもまったく同じようにすることは、そういう対象を人間の身体の延長だという風に理解すればたいへん解りやすいわけです。延長だという風に理解すれば、人間のみならず他の自然物に対しても同じような現代的な水源といいますか、ある帯ってものを、少なくとも劇的に言って二千年前なら二千年前と違っている水源ってものは想定することができるわけです。そこのところにおそらく言語というものの時間性と空間性というものの根源ってものがあるという風にお考えになったらよろしいと思います。

8.言語表現の美を成り立たせているもの

これだけのことを申し上げまして、今度は言語あるいは言語表現ってものが、美といいますか自律性といいますか、そういうものを成り立たせる要素とは何なのかということをお話すればおそらくよろしいじゃないかと思います。で、

(板書)

言語表現の美というものを考える場合に、たとえば美は多種多様でありって言い方もありますし、美は誰が見ても美であるという言い方もありましょうし、それから、そんなことはないので、自分の主観的な精神状態でも身体状態でもみんな違うんだって言い方もありましょうし、百人いれば百人の美の感じかたってのは違うんだって言い方も成り立ちうるだろうという風に思います。しかしそういう風に言っているとなかなかよく解らないんですけども、要するに美を成り立たせている要素もたくさんあるし、美っていうもの自体もたくさんのことが考えられるってところで問題が終わってしまうわけなんですけど、しかしこういう問題ってのは少し基本的に言いますと、わりあいに簡単な要素でもってつかむことができます。それは何かと言いますと、

(板書)

それはここにあれしましたように、韻律ってこと、それから選択ってこと、それから転換ってこと、それから喩ってこと。言語表現つまり文学作品ですけど、文学作品にさまざまな作家がおりさまざまな作品があり多種多様で千差万別である。その芸術性も多種多様であるという風に考えましても、その根本を成している要素というのは非常に簡単でして、ひとつは韻律であり、次は選択であり、次は転換であり、そして喩であると。これだけの要素しか本当はありません。つまりこれだけの要素からしか成り立っていません。

9.韻律

韻律ってのは何かと言いますと、

(板書)

これ読めますか? いや、今、教養の度合いを測っているんだけども(笑)。

「夕星の輝きそめし外にたちて別れの言葉短く言ひぬ」ってのは、ひとつの短歌作品ですけども、これを言葉の意味だけで言いますと、『夕方の星が輝き始めたときに、訪ねてきた人と、表へ出て、短く別れの言葉を言った』という風に書いてあるだけなんです。そうだとすれば、別にどうってことないじゃないかという風になるはずなんです。つまり言葉の意味だけとっていきますと、それだけのことしか言っていない。しかし、それだけのことしか言っていないのに、これが短歌作品としてある芸術性を持っているとすれば、その根源というのは韻律というところにあるわけなんです。

韻律とは何かと言いますと、もちろん韻律というのは言語です。つまり非常に感性的な、あるいは原始的言語なんですという風に考えるべきなんです。そのことが、夕方の星が光り始めたところで、外で短い言葉で別れたという、それだけのことのほかに、韻律と称する言語なるものが、これに参加しているわけなんですよ。つまりこの作品の中に参加しているんですよ。してその参加しているということをフォーカスして初めて、ただ言葉の意味だけ取ってったら、なんでもないことです。こんなものは美も何もなりゃしないことしか意味としては書いてありません。しかしこれがある芸術性を与えているとすれば、韻律としての言語というものが、これに参加しているからです。韻律としての言語というのは、わりあいに、

(板書)

非常に現感性的なものです。現感性的な表現性の仕方、あるいは表現の時間性空間性、それが韻律の言語なんですけども、そういうものがこの言葉の概念どおりの言葉以外のところでフォーカスされているということなんです。そういう風に参加しているわけです。ただ単に、これだけのことを言っているに過ぎない、これを漢文で書いたらなんでもない、つまり芸術でもなんでもないってものが、ある芸術性を感じさせる理由は、韻律がそこに関与しているということ、つまり関与しているということは、単にプラスされているということじゃなくて、それが一種の相乗効果になっていて、それがある芸術性を感じさせるということなんです。これは韻を持っている作品についてはたいていそういうことが言えるのです。だから、それは詩についても言えますし、浄瑠璃作品みたいなものの中でも言えるわけですけども、そういうことを、韻律と称する言語のもとみたいな、そういうものがこれ自体の中にちゃんと参加しているということに因るわけです。そういうことは明らかに言語の美というものを成り立たせる非常に重要な要素のひとつだっていう風に言うことができます。

10.選択

その次は選択ということですけども、これもまた例を挙げてあれしたほうが分かりやすいと思います。これは衣更さんという人の、朝の環境という詩の、二行ですけども、選択というのは何かと言うと、要するにこういう場合にどういう言葉を選ぶかってことなんです。だから言葉じゃなくてもっと違うもので言っても同じなわけです。たとえばある場面を選ぶということ、あるいはある場面を選んで描くということ、それから、ある言葉を選んで描くということ、そういう選ぶっていうことの中に明らかに美というものを成り立たせる要素ってのがあるわけです。

だから、どういう場面を選んだって同じじゃないかということも言えそうに思いますけども、本当はそうじゃないので、ある場面を選ぶということの中に、すでに美というものを成り立たせる要素というものはあるわけなんです。だからこの場合でも、間違った押韻のためにという言葉を選んで言語表現として定着したという、そのことの中に、たとえその選び方が偶然であれなんであれ、とにかく選んだっていうことの中に、すでに美というものの成り立つ要素ってものがあるわけです。もしたとえば同じ作者であっても、違うときに書いたらば、こういう言葉から始めなかったであろうとか、こういう言葉からある行を始めなかったであろうということはありうるわけです。またこういう場面を選ばなかっただろうっていうようなことはありうるわけです。それからもちろん同じ作者じゃなくても、違う場面を選ぶというようなことの中に、すでに言語の美を成り立たせる要素はあるわけなんです。だから、これは書き出しがどうだということももちろんそうなんですけど、ある場面を選んで描いたってことの中に、本当はその中に、選んだってこと自体の中に、美を成り立たせる要素というのはすでに存在する。こういう行を選んだってことの中に、すでに美を成り立たせる要素というのはあるわけです。それから皆さんが、俺だったらこういう書き方をしないってことがあると思うんですけど、そういう書き方ってのは千差万別でよろしいわけですけど、千差万別性ってものを突き詰めていきますと、すでにある言語表現の選び方をしたことを、そのこと自体の中にすでに美を成り立たせる要素はあるんだってことが言えると思います。そういうことはわりあいに重要なことで、ある行のあとにある行を書いたとか、ある場面の後にある場面を書いたとか、そういうことの中に、そういう選び方の中に、美を成り立たせる要素というのはあるわけです。

11.転換

それから同じことを別の言葉で言ったと理解されてもよろしいわけですけども、転換ということがあるわけです。転換というのは、夕星の輝きそめし外にたちてって言い方があるでしょう、そしてその次に何を、どういう言葉を選ぶ、どういう言語表現を選ぶのかっていう場合の可能性はもちろん千差万別ですし、ある意味では無限にあるわけです。無限にある中からとにかく、別れの言葉短く言ひぬって言葉を選んだってことの中に、言語表現の美を成り立たせる要素はあるということです。そういう場合に、これを選択の面から見ないで、転換という面から見ますと、夕星の輝きそめし外にたちてっていう風に言っておいて、その次に何を言うかって場合に、転換っていうことの最初の要素は、その次にどういう事柄を選ぶかってことの中にすでに存在するわけです。そうすると、そこは千差万別ですし無限に可能性はありうるわけですけども、この作者が次に選ぶとして、今まで書いてきた言葉からの転換を、別れの言葉短く言ひぬってところで転換させたってことが言えるわけです。この場合でも同じですし、たとえばこういう、間違った押韻のために石垣が詩行のように曲がったという風に、その次にどういう行を持ってくるかってことはまったく自由であるしまったく千差万別でありうるわけですけども、そこでどういう転換の仕方をしたか、つまりどういう言葉を選んでどういう転換をしたかというと、転換の仕方ということの中に、言語表現の美を成り立たせる要素というものはまた確実に存在するわけです。

12.喩

最後、言語表現としてみたら高度な問題なんですけど、喩という問題があります。

(板書)

喩というのはどういうことかと言いますと、石垣は詩行のように曲がったっていう場合に、ここで本来的に言いたいことは要するに、石垣が曲がっているということを言いたいわけです。曲がっているということが言えれば良いわけです。それでいいはずなんです。ただ意味だけをとるならばそれでいいわけです。だけど、たとえば詩行のようにというような、この場合は直喩ですけども、直喩つまり喩というものを使うことによって、作者が本当に言いたいことは、石垣が曲がったということあるいは曲がっているということを言いたいわけですけども、それを詩行のようにというような、直喩、喩を使うことで、出てくるひとつの効果というものがあるわけですけども、詩行のようにというような、本来的に見たら無くたってあったって意味は通ずるというような、そういうことに対して、詩行のようにというような喩を書き加えることのなかに、言語表現の美を成り立たせる要素というものはあるわけです。で、この要素はわりあいに高度な要素なわけです。この喩はたとえば

(板書)

間違った押韻のためにという表現がありますけども、間違った押韻のためにというのは、

(板書)

暗喩という風に言われているものです。どういうことかと言いますと、間違った押韻のためにというのは、くだくだしく説明しますと、どういうことを言っているのかというと、つまり散文的に説明しますと、この作品がそうなんですけど、漁村の海岸の風景のところなんですけども、石垣があってその石垣が乱暴でひん曲がって、つまり粗雑でひん曲がって、崩れがあったりひん曲がったりしながら積んである。そういう積んである状態のことを暗喩で、間違った押韻のために、つまり間違った押韻のためにというのは、粗雑な積み方をしているためにという風に言えば非常に散文的なことなんですけれども、それをひとつの暗喩で、間違った押韻のためにというような言葉を使っているわけです。そうしておいて、その暗喩はそれだけでは生きないんですけど、その後に来る、詩行のようにというまた別の直喩ですけども、別の直喩とつながるところでもって石垣が曲がったという状態に、あるイメージを与えるものになっているわけです。だからそういう使い方というもの、本来的にはそれがあるかないかで言うべくしていいたいことについては、それがあるかないかということはあんまり差し支えないけれども、その表現を加えることによって、ある別種の効果を生ずるというような、そういう言語表現の使い方を、喩というわけです。

13.イメージを喚起する喩と概念を喚起する喩

で、この喩というものは、修辞学で言えば、直喩とか暗喩とか寓喩とかなんとかって言っていったら、喩にはたくさん種類があるわけですけども、しかしこの場合も先ほどと同じように、喩の使い方というものは千差万別であり、作り方も詩なら詩人ごとに作れるんだと、そういうことは別にどうでもよくて、いずれにせよ喩というものはわりあいに簡単に・・・。

(板書)

言葉は適切かどうかは別としまして、喩というものは修辞学的に言えば直喩もあり暗喩もあり寓喩もありという風にやっていくともう切りがないわけですけども、しかし根本的には簡単なんだと。それはより多くイメージを喚起する喩と、つまり、イメージを喚起する効果で使われている喩と、それから概念的な意味を付け加えるあるいは強調するために使われている喩と、その二種類があるということなわけです。つまりあらゆる喩というものは、類型的には、さまざまな類型のされ方ができますけども、根本的には簡単なんだって、より多くイメージを喚起するように使われているか、あるいはより多く意味を喚起するように使われているか、どちらかであるわけです。つまりどちらかの喩に分けることができます。

たとえばですね、抽象の塵芥ってあるでしょう。抽象の塵芥の燃え殻にというのがあるでしょう。その場合の、「抽象の」というのは暗喩、普通言う意味での暗喩であるけれども、暗喩であるか直喩であるかということはどうでもよろしいわけです。ただ抽象の塵芥の燃え殻にという場合の、抽象のという喩の使い方が、より多くのイメージを喚起するものとして、塵芥、つまり海岸に転がって打ち上げられていたり、捨てられた塵芥、木の切れっ端や海草みたいなものが留まっているわけでしょうけども、その塵芥ということに対してより多くイメージを喚起するように使われているか、より多く意味として使われているかということが重要なわけです。抽象の塵芥という場合に、どういう風に使われているかというと、より多くイメージを喚起するように使われているという風に判断できます。あの、人によって判断の仕方が違うでしょうし、解釈の仕方も違うでしょうけども、とにかく抽象の塵芥という言い方を、皆さんの領分で言えば、抽象画とかなんとかというものがあるでしょう、そういう場合の浜に打ち上げられている海草とか、木の切れっ端とかというような、そういうもののイメージを、抽象のという喩でもって、喩を加えることで効果的に考えることができます。抽象のという、まことに抽象的な言葉だものですから、喩として使われているという風に、喩であるという風に言ってもよろしいでしょうけども、海藻類が浜に打ち上げられている、ごたごたになっている状態というもののイメージを抽象という言い方でいったという風に了解しますと、より多くイメージとして使われている喩だという風に言うことができます。

それから、これもまた人によって違いましょうが、間違った押韻のためにという場合に、間違った押韻というのは暗喩として使われているわけですけども、間違った押韻というのは暗喩であるかどうかはこの際どうでもいいことで、より多くイメージを喚起するあるいはイメージを強調するような喩として使われているか、意味を強調する喩として使われているかということが問題なわけです。その場合におそらく僕の考えではたいへんうまい喩であって、たいへん上出来な喩だと思います。第一級の詩人の喩だと思いますけども、間違った押韻ということで、まったく意味的に、押韻の踏み方が間違っているということを意味的に受け取ってもよろしいわけですけども、間違った押韻のためにというのを、たとえば石垣が曲がりくねって、だんだん無造作に積まれているというようなイメージを喚起するように使われているという風に理解すれば、それはより多くイメージを喚起するように使われている喩だと言うことができます。

そうしますと、全ての喩というものが、いずれにせよどちらかの意味合いで、より多く使われている喩であり、また場合には意味として使われている喩としても判断できますし、像として使われているとしても判断できますし、むしろ読む人に両方の意味合いを与えることで効果をうんと増幅させているという風に使われていると考えてもよろしいと思います。そうしますと喩の使い方というものはさまざま、類型として取り出せばありますし、詩人が勝手に作ればいくらだって作れるわけですし、いくらでも作り出されるわけですけども、しかしその喩は依然として、より多くの像を喚起するものとして、あるいは意味を喚起するものとして使われているか、いずれかであるのは間違いの無いことです。それからまたその二重性であるということに間違いないことです。そうしますとすべての言語表現のなかにおける喩というものは、いずれかのものとして考えることができます。たとえば創作の場合に、比喩というものは、これを像として使おう、像としてのイメージをここで喚起するように喩を使おう、喩を作ろうという風に必ずしも意識して行を書くとは限らないわけです。それはすべての創造がそうであるように、決してそれをあらかじめ計算して喩を使うわけではないですけども、しかしいずれにせよ、どちらかの喩を使う、どちらかに強調点をおいて喩を使うというようなことは確かなことです。そうしますと今申し上げました韻律、選択、転換、喩というような基本要素として、そんなにたくさんはないんですけども、これだけのことしか本当は言語表現つまり文学作品みたいなものの美を成り立たせる、あるいは芸術性を成り立たせている要素はありません。つまり、ありませんということは、これ以上のことを考える必要は無いということです。考える必要が無いということは、現代文学の段階で考える限り、現代なら世界どこの作品でも同じことですけども、これ以上のことを考えることはいりませんし、これ以上のことをやっているわけではありません。基本的にはこれだけのことを前後して組み合わせたり、あるいは同義に組み合わせたり、そういうことをして作品が書かれているのであって、それが芸術的に、読む人に一種の芸術性を、芸術的な感銘を与えるとすれば、たったこれだけのことをうまく使っているか、あるいは多重的につまり重複して使っている効果か、そういうことで芸術性というものを与えているわけで、基本的には簡単にこれだけのことをやっているに過ぎないと言えば言えます。それ以上の問題が言語について出てくるということが、これから後はありうるわけでしょうけど、現代文学というところで考える限りでは、これ以上のことを考える必要は無いのです。つまりどんなに複雑そうに見える作品でも、新しそうに見える作品でも、あるいは器用に見える作品でも、だいたいれだけの要素しか、その作品の自立性を成り立たせている要素は存在しないわけです。だからこれだけ考えれば、たくさんであるということになると思います。

14.文芸批評と創造体験

で、言葉というものを言語学的に考えたらいろんな考え方がありそれからいろんな言い方があるわけでしょうし、また言葉というものを創造する立場から言う場合もさまざまな言い方があるわけでしょうし、皆さんのように書くということじゃなくて、台詞を喋ることのなかで言ってもさまざまな要素ということがありうるわけでしょうけど、そのことをひとつの自立性として考える限りは、依然としてわりあいに簡単な単純な根源から、単純な要素からその問題は考えることができるということが言えると思います。

つまりこういうことが言えるということがわかったということと、それじゃわかったから自主的にこういうものを組み合わせて作品を作ってみようかということとはおのずから違います。創造体験というものの中にはなんら神秘性というものは含まれていないんですけれども、創造体験の中では脳天よりもまず手であると、手を動かさなければ問題にならない、手を動かして書いたときにはじめて出てくる問題というものは創造体験の中に絶えずあるわけです。だから結果としてこれだけのものだということが言えるということと、しかし自分がそれをもとに作品を書くということとはまったく違うことです。つまり作品を書く、自分が創造者の立場に立つということは、依然として手を動かして書かなければ、あるいは書いてみなければ、原稿用紙の前に座ってみなければ分からない、みることによって初めて分かる要素というものは絶えず創造にはありますから、そういう意味合いでは、決してこれが創造に役立つことも無ければ、直接役立つこともなければ、どうってこともありません。しかしいずれにせよ基本的なことを言えば、わりあいに簡単な要素しか言語の自立性は出てきていないということ、そのことは創造体験とはおのずから違うということです。創造というものは文学の場合は皆さんの場合はなおさらそうでしょうけど、何しろ手を動かしてやって見なければ分からない、つまりやってみなければわからないということは、やってみる過程で初めて出てくるということが必ずあるわけです。やらなければゼロであると。しかしやってみなくちゃわからない要素というものはいつでも創造の中にはあるということ。そのことは決して神秘とか不可知ではないということ、分かりきっていることです。結果として言えばこれだけのことです。ですからそんなことは分かりきっていることですけども、だけれどもやってみなければわからない、まず手を動かしてみなければ分からないということが創造自体の中にはあるわけです。つまり手を動かすということによってはじめて出てくるということ、そういうことがあるわけです。それが創造と言うものであって、決して神秘ではありません。観念論者が言うように神秘では決してない。神秘なところなんてなにもない。それはみんなはっきり分かっていることなんですけども、だけれどもしかし手を動かさなければ出てこないというのは創造自体には絶えずあるわけです。それがおそらく僕らが文学批評あるいは文芸批評というものの立場から言語表現というものに近づきうる言語というものがおのずからあるわけで、言語というものはある意味では全部言い切っている風に言えばいえるわけです。でもそのことと創造体験ということとはおのずからまた違うということ、それが別問題ということがあると思います。これで終わりたいと思います。

(拍手)

 

テキスト化協力:しばてんさま