1 『新約聖書』と(国家・家・大衆・知識人)の問題

 今日はあまり関心がなくて読まれたことがないかもしれませんけど、『新約聖書』の中に、「我よりも父母とか兄妹とかを尊重する者は我にふさわしからず」というような、そういうようなキリストの言葉が『新約聖書』の中にあるわけです。それに続いて、「我は地に平和をもたらすために来たのではない。かえって剣を投ぜんために来たのだ」というような、そういう文句があるわけです。
 そうすると、それは新約の学者、つまり、神学者の間では様々な解釈というものがあるわけですけど、ぼくなんかの解釈によれば、当時、『新約聖書』の中に登場するキリストを象徴的人物とする、そういう運動というものは、いわばユダヤ教宗派からのひとつの分離を意味していたわけです。
 また、旧社会秩序の暗黒な弾圧のなかで運動を進めざるをえなかった。つまり、宗教運動を進めていったというような、そういうひとつの情況のなかで、ようするに、家の問題です。つまり、父母兄妹というものを自分よりも尊重するものは自分らにふさわしくないのだというような、そういうような問題意識がここに出てきていると思うのです。
 そのことは何を意味するかといいますと、本日の主題に引き寄せていえば、家または家族の一種の共同性というものと、それから、秩序に反抗する運動というものは、そこでいずれかひとつを選ばざるをえないというように、人間にとって存在しているという、そういう問題をそこであからさまに投げかけているわけです。
 新約書の中にはその他にも様々、憎悪、それから苦痛というものの表現というのがたくさんあるわけです。また、組織論というものの核というのがあるわけです。たとえば、「3人集まるところには、必ず我が名があるんだ」というような、そういうような言葉もあります。つまり、それは現代語で翻訳しますと、「細胞のあるとことにはイデオロギーあり」という、そういうことと同じわけですけど。
 それから、じぶんの説教というもの、つまり、じぶんの教義というものを受け入れないところでは、ようするに、そこを立ち去る時には、足の塵を払って立ち去れ、そういうような言葉もあるわけです。
 それから、父母兄妹といえどもあてにはならん。ようするに、裁判所にいつ売り渡すかわからない。だから、ヘビのように聡く、つまり賢く、それから、鳩のように率直であれというような、そういうような言葉もあるわけです。
 そこで捉えられている問題というものは、現在の問題に翻訳すれば、まさに国家・家・大衆というような、あるいはまた知識人というような、そういうような問題に翻訳することができます。

2 対幻想を本質とする家の共同性

 まず、家というような問題はどこに本質があるかというようなことから入っていきますと、家の共同性というものは、それが時間によって実態が変わっていく、つまり、封建的な家族から現在、新憲法下における新憲法が規定するような友愛的な個人原理に基づく男女の自由なる結合というような、そういううたい文句で言われているような、新民法における家族法というものが、そういうふうにずーっと変わっているわけですけど。つまり、家父長権というものが否定されるという形で変わっているわけですけど。そういう変わり方の問題というものをひとつ貫徹する本質というものがあるわけです。
 その本質というものは、いってみれば、ひとつの対となった、つまり、一対となった幻想ということ、つまり、それを共同幻想といえば共同幻想なんですけれど。一対となった共同幻想というものが家というものの本質であるわけです。
 だから、一対以外の形では、家の共同幻想というものは成り立っていかないということ、つまり、家の意識というものが常に対というものを、単なる個人の男、あるいは個人の女というものがいることによって成り立つのではなくて、また、社会的人間の多数の共同によって成り立つのではなくて、ただ、男と女というのは対となって、初めて成り立つ共同性というものが、家というもの、あるいは、家族というものの本質だというふうに考えることができます。
 この位相は、たとえば、みなさんのなかには、おれはそうではないと、おれは多数の恋人を持っているから対ではないと言われるかもしれませんし、たとえば、保守的なる政治家とか商人とかなら、おれは本妻の他に妾を持っていると、だから、決して1対1の対ではないというふうに、現象形態からそういうふうに考えられるかもしれませんけど。
 その場合においても明らかにそれぞれの、つまり、複数の恋人に対して、それぞれの場合において対なわけなんです。つまり、Aと対であり、ある場合にはBと対であるというようなふうに対なる幻想というものが家というものの共同性の意識であるわけです。
 この位相というものは、ぼくの考えでは非常に考察するに値するのであって、たとえば、さきほど例にしました、じぶんの名をとるか、それとも、家族というものを捨てるかいずれかであるというような、そういうような意味で問題は存在しないということがいえるわけです。
 この対なる幻想というものは、だから、もしも経済社会構成の上部にひとつの幻想性の領域というものを想定するとすれば、それは個人の幻想とも違いますし、個人がそれぞれ他者になることによって結ばれる共同幻想というものとも違ってくるわけです。違ってくる特異な位相というものをもっているわけです。

3 小林多喜二「党生活者」と家の共同幻想の位相

 この問題を、たとえば、戦前でいえば、小林多喜二なら小林多喜二の「党生活者」という作品がありますけど。その「党生活者」で出てくる主人公というものは、女性と同棲しているわけですけど。そこでは、じぶんの政治的必要があるならば、同棲している女性というものに、小説の表現でいえば、カフェに出て、おまえは働けと、そして俺は政治運動をやる。おまえは働けというふうな位相がでてきます。
 なぜならば、じぶんが政治運動をやることは、まさに虐げられている大衆の解放のために政治運動をやっているのだから、おまえはカフェへ出て、働いて生活の資をもたらすということは、まことに当然であるというような、そういう論理というものがそこにあるわけです。
 そうすると、そこの論理というものは、相当、あからさまな形で作品の中に出てきているわけですけど。その論理のどこに間違いがあるのかというと、これは、たとえば、近代文学の批評家たちが戦後すぐに「政治と文学」論争というものを展開したときに打ち出した論理、つまり、目的のためには手段を選ばないということは許されるかどうか、つまり、目的のあるものと手段のあるものとは、どういう関係にあるのか、目的が崇高であるならば、手段なるものはいかなる手段を弄してもいいのであろうかというような、ひとつの倫理の問題として、そこに問題を提起したわけです。
 しかし、ぼくの考えでは、それは倫理の問題では決してないわけです。倫理の問題ではなくて、ようするに、「党生活者」なら「党生活者」の主人公が、家というもの、あるいは、一対の男女からのみしか生みだされてこない共同性の意識というものの非常に特異な位相というものをよく了解することができなかった。つまり、考察することができなかったということが、ほんとうは本質的な問題だと僕はおもうわけです。
 だから、倫理の問題として提起するならば、べつに政治活動者じゃなくても、ごく日常のどこかにいる大衆をとってきても、それはやっぱり、ある場合には、金儲けの目的のためには手段を選ばない。つまり、じぶんの奥さんにどういう犠牲でも支払わせるという形で、それはごく普通の大衆のなかにも存在している形なのであって、その存在の仕方自体を否定するものは決して倫理ではなくて、そういう男女の共同性というものを支えている環境、それから経済状況、つまり、様々な社会的な状況というものがそれを規定するわけです。それは倫理の問題ではないわけです。
 だから、問題は家というものの位相、つまり、家というものの共同幻想の位相というものをよく想定しえなかった。つまり、認識しえなかったというところに、ほんとうは問題があるということになります。
 だから、そこで「政治と文学」論争で近代文学の批評家たちは、目的のために手段を選ばないということは是認さるべきかどうか、あるいは、99人を生かすためには1人を殺してもいいのだろうかというような、そういうような問題の次元として、それを取り上げたわけですけど。それは決して、ぼくの考えでは、そういう問題じゃなかろうと思われます。
 つまり、そこでは、まさに家の共同性というものが対なる幻想、つまり、男のみでも生まれない、また女のみでも生まれない、まさに一対の間からしか生まれない幻想、つまり、共同意識の本質とするというような、そういう位相を了解できなかったということが一番の問題になるとおもいます。

4 中野重治「村の家」が提起する知識人の姿

 たとえば、小林多喜二と非常に対照的な戦前の括り方をした中野重治なら中野重治という人をとってくるとします。そうすると、ここではどういう問題があるか、たとえば。それは「村の家」なら「村の家」という作品をとれば、すぐにわかるわけです。
 そして、そこでは中野重治が政治運動は今後しないという約束のもとに出獄してくると、そして、出獄して故郷へ帰ったときに、じぶんの親父さんから、おまえはいままで偉そうなことを書いてやってきたと、しかし、おまえはもう今後、政治運動をしないという約束で出てきたと、じぶんは、おまえがどうせ小塚原で死刑になって帰ってくると、じぶんは思っていたと、しかし、おまえはそうじゃなくて、いわばおめおめと帰ってきたと、だから、おまえは今後、ものを書いたりなんかすることをやめたほうがいいというふうに親父さんに言われるわけです。
 そのときの親父さんにどういう倫理があるかどうかということは別としまして、そういうふうに言われたときに、たとえば、中野重治が、小説の表現によれば、考えてやっぱり書いていきますというふうに言うわけです。つまり、やっぱり書いていきますと言ったときに、何の問題に当面していたかというと、やはり、今日のテーマに引き寄せていえば、家の問題というのに当面していたわけなんです。
 つまり、日本の社会に於いて、家なるものというのは、いわばひとつの、すべての緊張が取り去られたときに、帰りゆく故郷みたいなものであり、同時にまた、その故郷というのは、そんなに日本の家なるものの家父長というものの存在というものは、そんなに甘いものではないというような、やはり、別の面では、帰ってきた息子に対して、おまえ、死んでくるかと思ったら、案外、生き恥をさらしてきたじゃないかと、それならもう偉そうなことを言うのはやめろというふうなことを言いうる家父長というものが厳として存在するというような、そういうふうな帰りゆく故郷といいますか、つまり、意識を和らげる故郷のごとく存在しながら、同時に、それはわりあいに冷酷に存在して、そういう批判をかませることができるというような、頑固なる家父長を生みだすというようなのが厳として存在する。そういうような形で日本の家というものは存在したわけです。
 その時に、たとえば、中野重治が、いやしかし自分は書いていきますと言い、そして、まさにそれを実行に移すわけです。その後の、中野重治の戦争をくぐるまでの表現上、文学上の象徴的な業績というものと、それから、悪戦苦闘の仕方というのは、やはりひとつ日本の昭和以降の文学のなかで瞠目すべき、つまり、注目すべき業績というふうに存在するわけです。
 しかし、そこで、でも書いていきますと言ったときの「書いていきます」というのは何かということなんです。それはつまりどういうことかというと、じぶんは知識人としてやっぱり生きていきますと言ったことを意味するわけです。つまり、知識人として生きることをいわば宣言しますというような、そういうときに起こってくる問題が「村の家」のそのときの問題であるわけです。

5 「村の家」の親父さんに象徴される(大衆の原型)

 それでは、知識人として生きるということは何かということ、それから、大衆というのはまさに何かというような、そういうことなんですけど。大衆というのは「村の家」の親父さんのように、どこにでもいる親父さんなんですけど、そういう親父さんに象徴されるものを仮にひとつの点から取りだしてみますと、それは、自己の生活の繰り返し、つまり、その範囲でしか自分の考えを動かさないということ、その範囲でしか物事を考えていかないというもの、そういうものを大衆のひとつの原体といいますか、原型として想定することができるわけです。
 たとえば、「村の家」の親父さんというのは、まさにそういうような位相にあるわけです。そのことは弱いか強いかというと、非常に弱くもあり、しかし、強くもあるわけです。つまり、おまえみたいにおめおめ帰ってきてというようなことを言うことができる。そういう一面では強さというものを持っている。それが大衆というものの原型なわけです。
 それに対して、知識人というものは、なんらかの意味で自分の生活周辺というものにまつわる考察というもの、そういうふうな生活次元の繰り返しというものにまつわる思考しかしないというような、そういう思考から飛び出していって、そして、大なり小なり抽象的なことを考えることができ、また、大なり小なり、じぶんと直接に関わりない、眼に見えて関わりのないような問題についても、物事を考え、発展させていくことができるもの、そういうものが、いわば知識人というふうに考えることができます。
 そうしますと、「村の家」なんかのそういうところで対立が生じているのは、まさに大衆というものと知識人というものとの食うか食われるかというもの、つまり、どちらが優位なのかという、そういう問題として、「村の家」の父親と、それから、息子の問題というのが出てくるわけです。
 中野重治はひとりの文学者なんですけど、しかし、文学者でなくても、それはいいわけです。たとえば、皆さんだっていっこうに差し支えないわけです。皆さんはやはり知識人である。だから、ようするに、抽象的なことを考えることもできれば、じぶんに直接かかわりのない問題についても考えることができる。大なり小なりそうなんです。言い換えれば、余計なことを考えることができる能力を持っているわけです。
 また、そういうものは、余計なことを考える能力を獲得すると、どこまでもとどまることを知らないというような、そういうような、ひとつの必然的なのぼりゆきというものを持っているわけです。
 そこで存在する大衆というのは、どういうふうに歴史というものをくぐっていったか、たとえば、「村の家」の親父さんというものは、どういうような戦争のくぐり方を通ってきたか、つまり、時代のくぐり方を通ってきたかといいますと、それは、たとえば、一面でいいますと、赤紙がひとつ、国家から降り下ってくれば、それに即座に応じて兵隊となり戦争に行く、それで、鉄砲を担いで人殺しもしますし、じぶんも殺されたりするというような、そういうような存在として、時代というものをくぐってきた。
 しかし、そういう面だけかといいますと、「村の家」の息子に対して、おまえ、生き恥をさらしたなら、これから何も書かないでおとなしくしていろというような、そういうような位相と同じような時代のくぐり方をまたするわけです。
 それは、たとえば、戦争というものがあるとやっぱり、じぶんの命がなくなっちゃっても、それでも戦争をやってしまうと、ある場合には戦争をやり過ぎて、戦後明らかにされたところによれば、種々様々な集団残虐行為というものをどこか至る所でやってしまうというふうに、たとえば、軍部上層というものの意図を超えて残虐行為もします。しかし、自分が死ぬということは、いちおう前提としながらそういうことをやってしまう。
 つまり、大衆の原型というものを考えると、その原型というものが持っている問題というものは、表側と裏側というものがあるわけです。それはすぐに支配というものに直通してしまう、そういう意識を持っていますし、同時に、しかしまた、そのなかで、知識人に対して、おまえはだらしないというような、そういうような批判も可能な、そういうひとつの意識の形というものをまた持っているわけです。それを大衆というもののひとつの原型というふうに考えることができます。

6 共同幻想としての国家から大衆の幻想性に提起する

 これはたとえば、そういう大衆、知識人というような概念で問題を出したときに、たとえば、社会科学的な用語を使って、プロレタリアートと、それから小市民的知識人というような、そういうような問題の立て方を立ててみても同じことになるわけですが。
 つまり、そこでプロレタリアートというものはどういうふうにして規定されるか、どういうふうにして原型が考えられるかといいますと、それは、ひとつは慣行の方法によれば、慣用されている方法によれば、手を使って単純労働して、労働の生産物を作り、そして、自分は生産物自体を所有することができなくて、その所有は誰か他人に帰してしまう、そして、自分は労賃だけを受け取って、また単純生産というものを繰り返すというような、そういうものをプロレタリアートというもののひとつの原型というふうに考えていきますと、その原型から現在の社会経済構成のなかで、プロレタリアートというものがどういう実態をもって存在しているかという、つまり、そういう原型からひとつ接近していって、現在の社会構成におけるプロレタリアートというものの実態というものを掴んでいくというふうな、そういうふうな形で、つまり、原型から出発しなければそれが掴み得ないという形で、プロレタリアートという概念もまた存在しているわけですけど。
 そういう原型というものと、ぼくが言っている大衆の原型というものとは、非常に位相が似ているというか、対応が利くわけです。つまり、大衆というものをそういうふうに捉え、プロレタリアートというものをそういうふうに捉えて、プロレタリアートの実態というものが、今度は問題が少し進んで、捉えるかどうかということに問題が進んでいくわけです。
 そういう場合に、現在、問題になることは、そういう捉え方をしていきますと、プロレタリアートの様相というものは、たとえば、かつてマルクスが想定したような、つまり、考えたようなプロレタリアートと非常なる変化を被っているというような、つまり、実態が非常に変化しているから、なんかプロレタリアートというような概念自体も考え直さねばならないというような、非常に構造改革的な考え方というものが出てくると思います。
 それは僕の考えでは、いわば半面の真理といいますか、一面の接近の仕方というものを象徴しているに過ぎないわけです。しかしながら、そういう一面の接近に仕方に過ぎないというような、そういう接近の仕方の方法的な原型になっているのは、ようするに、ロシア・マルクス主義というものの思考方法が原型になっているわけです。ロシア・マルクス主義の思考方法というのは、そういうふうに問題を立ててきたわけです。
 しかし、ぼくの考えではそうではないのであって、もし、プロレタリアートならプロレタリアート、大衆なら大衆というものの実態を捉えようとすれば、もうひとつ逆の接近の仕方をしなければならないということがあるわけです。
 それは、いわば国家というものを社会的国家としてではなく、政治的国家といいますか、法的国家といいますか、つまり、幻想的国家、つまり、幻想の共同体としての国家というものを、そういう国家というものから逆に幻想性の問題として、現在の大衆、あるいは、別の規定の仕方をすれば、プロレタリアートならプロレタリアートというものの幻想の現在的情況といいますか、そういうものに逆方向から幻想性の問題として接近していくというような、接近の仕方をしないと、プロレタリアートというものは捉えられないというふうに、あるいは、大衆というものの現に実際に存在しているあり方というものは捉えられないという問題があるわけです。
 必ずしも、幻想の共同性としての国家というもの、そういうものから、個々の大衆のそのなかでの幻想に迫っていく、そういう迫り方と、あるいは、経済社会的構成の中で、大衆がどういうような労働の仕方をし、どういうような技術に挟まれ方をし、そして、どういうような生産の仕方をしというような形で、原型からそういうようなところで、迫っていく迫り方とは、必ずしもピタリと像が一致するとは限らないわけです。しかし、それは接近したものが、両極から接近した像というものを重ね合わせることによってしか、ほんとうは現在の労働者のあり方、あるいは、大衆というもののあり方というものを、ほんとうは捉えることができないというような問題があるわけです。
 そういう捉え方の問題というものは、日本の唯物論者という、そういういわば、ロシア・マルクス主義的な思考方法といいますか、そういうような思考方法の中には、そういう方法の意識というものは存在しないわけです。
 そこで、技術の問題、あるいは、経済社会構成の接点というものとの、そのなかでの労働する者の労働の仕方の変わり方というものが、非常に大きなウェイトといいますか、唯一のウェイトとして現れてくると、そういう考え方のなかでは、たとえば、19世紀の後半と20世紀の半ばとは、まるで、社会の経済的な構成の構造というものがまるで違ってきて、そこではやっぱり考え直さねばならんという、そういうような考え方というものが、いわば、必然的に生みだされてくるわけです。
 しかし、問題なのは、国家というものをどういうふうに理解するか、つまり、経済社会的な国家というものと、それから、政治的な国家といいますか、法的な国家といいますか、そういう共同幻想としての国家というものとのいわば二重に錯綜した、二重に重なり合ったひとつの構造というふうに国家というものを捉えなければ、国家論自体の問題が成り立たないということが言えるわけです。
 だから、そこで生みだされるのは、ひとつの現実政治的党派性というものと、それから、経済社会構成の現在的あり方のなかでの労働手段の変わり方、それから、生産がいかように、どういう循環のもとで、どういうふうに生みだされ販売されているかというような、そういう問題とつなぎ合わせるということによってしか、ひとつの理念というものは生みだされてこないというような、そういうような形で、現在そういうふうに存在しているわけです。しかし、この問題というのは、非常に考える必要があるわけで、問題はそういう立て方では立っていかないだろうことがあるわけです。

7 幻想性としての大衆

 幻想性というものとして、大衆というものを見ていくとすれば、家なら家の問題でいえば、大衆の対となった幻想性というものは、ほんとうはいまでも民法のなかの家族法というものと、あんまり接触していないと思います、現実的に。
 たとえば、新家族法によれば、結婚というものは適齢期以上においては自由であると、男女の結婚というものは自由である。そして、自由なる個人である男と、自由なる個人である女との友愛に基づく結婚というふうな形で、家族、家の問題というものが捉えられるわけです。
 しかし、よく具体的に考えてみればわかるように、そういうふうに、大衆というものは戦後といえども、そういうふうな形で家を営むことというのは、現在においても、あっても非常に少ないわけです。大部分は、いわば新民法に象徴される国家の共同幻想性というものとは、ほんとうの意味で大衆の対幻想、つまり、家の幻想共同性というものが生みだす対幻想というものは、ほんとうの意味で接触していないわけです。つまり、ぜんぜん問題外の問題だと、あるいは、ただ役所にいくとき、結婚すると戸籍を分けるか分けないか、そういうふうな問題だというふうにしか、ほんとうは存在していないわけです。
 これは旧法においても同じなわけであって、旧法というものは、家族社会学の学者たちのあれによれば、旧法というのは封建的家父長的家族制度というものを構想して、つまり、共同幻想として国家というものが作りだしていたわけです。そのもとでは、家父長を中心とする家族が営まれたというふうに言うわけです。そういう封建的な残照というのは皆、戦後憲法によって、あるいは、戦後民法によって取っ払われたというふうにいうわけですけど。実際に取っ払われたのは、国家の共同幻想性のひとつのあらわれとしての法律として、そういうふうに策定されたに過ぎないのであって、戦前といえども、やはり、大衆の家というものは、依然として、封建的民法と、最後はやっぱり接触しないというふうに存在したわけです。
 なぜならば、大衆の家というものは、なんらの経済的基盤というものを持ちえないわけです。つまり、私有している財産というものを持っていないわけですから、家父長権というものを現実的に行使しようにも行使しようがないというのが実態なのであって、そういうところでは家というものは、たとえば、戦前の大衆の家というものは、旧民法とさえも接触しえないというような、そういう対幻想の意識というもとでしか存在しない。そういうふうな実態がある。
 つまり、これを普遍的にいいますと、共同幻想としてみた国家というものは、そのなかの国家の成員である個々の人間というものを考えてみますと、ようするに、知識人の幻想性というものとしか、ほんとうは接触しないし、接触しないからして真の意味での対立・対決というものも起こらないというのが、ほんとうは実体であるというふうに考えることができます。
 つまり、そういうようなところでは、個々の大衆の個々の意識、それからまた、対幻想となった意識でさえも、たとえば、戦後でいってもいいわけですけど、戦後の新憲法というものと、ほんとうの意味では接触していないということ、そういうことが、そこの新憲法の水準というものにさえ到達していないというような、そういうふうに存在していると思います。
 だから、新憲法を、現在、擁護しなければならないというような、そういう発想というものが知識人の中に行われていますけど、しかし、ほんとうのことをいえば、実情に即していえば、大衆の幻想性というもの、それから、大衆の家、つまり、対幻想というようなものは、新憲法の幻想の水準にまで、ほんとうは達していないというのが、実情だということがいうことができます。

8 大衆についての2つの問題意識

 そうすると、問題意識というのは2つに分かれるわけで、それならば、新憲法の幻想性の水準にさえ到達していない大衆を啓蒙し、新憲法の意義は非常に意義あるものである効能あらたかなものだと、そういうふうなことを啓蒙していくといいますか、そういうふうに新憲法の意識にまで大衆をもっていくというような、そういうのがひとつの考え方だと思います。
 その考え方は、日本の進歩的な知識人、あるいは進歩的な諸政党というものが一様にとっている方法なわけです。そこでは大衆は新憲法の意識にさえ幻想性としては到達していないと、それはやはり啓蒙することによって到達することができるというような、そういうような問題意識がそこにあるわけです。それがやっぱり、たとえば、新憲法を守れというような形で行われるひとつの政治的スローガンというものの大きな本質的な根拠になっているというふうに考えることができます。
 しかし、もうひとつはこういうことが言えるわけです。つまり、もうひとつの方法意識というのは、またひとつありうるわけです。それは、旧憲法においても大衆の営む家、つまり、対幻想と、そういうものも、それから個々の大衆の意識自体というもの、そういうものは旧憲法にすら接触しえなかったと、そういう水準にしかなかったと、で、戦後の新憲法においてもやっぱり同じだと、やはりそこでは接触するまでの幻想性の水準を持ちえないというような、そういうことは果たしてマイナスなのかどうかという問題意識があるわけです。つまり、そのことはプラスに転化することができないのであろうかというような、そういう方法意識というものがひとつまた別にありうるわけです。
 だから、そこでは啓蒙によって新憲法の意識にまで到達せしめるというような、そういうことが問題なのではなく、到達していないということ自体が利点ではないのか、つまり、それは大衆の利点ではないのかという形で問題が出てくると思います。
 その利点というものは、たとえば、ある形を持てば、新憲法に象徴される、家の問題でいえば、自由なる個人同士の友愛に基づく結合というような、そういうものが家だというような、そういう考え方が持っている一つの虚妄性というものを打ち破るという、つまり、そういう要素を持っているのではないかという問題意識がまた一方において考えられるわけです。
 なぜならば、自由なる個人の自由なる意思に基づく結合というのは、男女の結合というのは、そういうふうな考え方における、自由とは何なのか、個人とは何なのかということを問い詰めていきますと、そこでの自由というのは、言葉の定義にもよりましょうけど、定義を使えば使い分けることもできますけど、そこでの自由というのは、自由もひとつの仮象だということ、つまり、言い換えれば、自由というのではなくて、ひとつの恣意だということ、つまり、そこでは、自由であることもできるし、つまり、物質的基盤さえあれば、自由であることもできるであろうと、つまり、自らの意志の赴くままにふるまって、いささかも形態がないというふうに振る舞うこともできるでしょう、つまり、経済的基盤さえあれば。
 しかし、同時に経済的基盤がない場合には、飢えるところの自由というもの、つまり、日々繰り返している生活を断念せざるをえない、そういう自由もまた、そういうところで規定される自由というのは持ちうるわけです。
 それは飢えるというのもあれば、飢えない、ほんとうに自由に振るまえる自由もあるというような、それを決定するのは、まさにそういう諸個人がいかなる経済的基盤を有するか、つまり、自由を行使するだけの経済的基盤を有するか、有しないかということによってのみしか決定されないということ、そこでの自由は決して本質的な自由ではなく、ひとつの恣意性だということになるわけです。言い換えれば、自由の仮象だということになるわけです。
 つまり、自由の仮象をもったる個人である男と、それから、自由の仮象をもったる個人である女とが、自由なる友愛の意志をもって結合したって、そこで近代的家というものができたと、そしたら、やはり僕の考えでは、それは経済的基盤さえあれば、そこで生みだされるひとつの対幻想というものは、まったく自由であることができる。
 それから、もし、経済的基盤が存在しなければ、やはり依然として飢えるところの自由を有するというような、そういうふうになるわけです。そうでなければ、封建的家父長的家族というふうに貶めたところの、そういう実家かなにかから送金してもらって補うというような、自由な男女の結合の生活を補う、つまり、こういうふうに3つすることによって成り立つというか、それしかないわけです。
 つまり、そこでの自由なる個人、あるいは、自由なる個人と個人との結合に基づく家というような、そういうものはひとつの自由の仮象、あるいは恣意性というものを基盤にして成り立っているわけです。そういう恣意性はかつても現在も大衆というものは享受したことがないということがあるわけです。それだから、享受したことがないのだから、そういうことの良さも悪さもへちまもないと、しかし、こんなものはどうやったらいいんだという形で存在する。

9 大衆の位相を意識的に握っていくこと

 そういうことは、たとえば、大衆というものがひとつの近代的意識といいますか、そういうものを乗り越えてしまうというような基盤を持ちうるのではないか、持つひとつの契機となるのではないかというような、そういうふうな考え方も成り立ちうるわけです。
 だから、非常に市民主義的な考え方の持ち主、あるいは、そういう知識人というのは、しばしば、個人の原理というものはすべてに優先するのだと、その優先した個人の原理なるものは、国家の原理というもの、こういうことができるのだというような、そういうことを言うわけです。
 しかし、そこでの個人原理というものは、いわば、恣意性の上に成り立った個人原理、恣意的な自由、あるいは、自由の仮象というものの上に成り立つ自由であるから、市民的社会における個人原理、個人の特殊原理を尊重するというような、そういう意識というのは、まさに国家の意識、あるいは、近代国家の意識というもの、つまり、近代国家というものを想定せずしては成り立たないものですから、そういう個人原理が近代国家の原理を超えるなんていうことはナンセンスであって、元々、相互規定的なものですから、国家なくして個人原理なしというような、そういうかたちでしか個人原理というのは存在していないわけです。
 だから、国家が消滅してしまえば、もちろん、個人原理が消滅してしまう、それから、個人の国家に向かう幻想性というものは、国家の共同幻想性というものが消滅してしまえば消滅してしまうわけです。そういう相互関係にあるわけです。
 だから、もともと個人原理が国家原理を超えるなんていうのは、もともと自己矛盾というものにすぎないと、つまり、国家があるからして、あなたは個人原理を持っているのでしょう、つまり、個人原理を尊重しなければならないという意識を持っているのでしょう。だから、国家のおかげでそういうものがあるのであるから、もし、国家がなくなってしまえば、そういうものはなくなってしまいますよ。そういうふうに言うよりほかない考え方というのは、そこで成り立っていってしまうわけです。
 しかし、大衆というものは、そういうものではないわけです。そういうふうな接触の仕方というのを国家に対して行ったことがないわけです。それは国家から支配されれば、支配のままに揺れ動くとともに、ほんとうの意味では国家とさえも、ほんとうは接触していない。そういうような存在として、大衆というものの原型というのは考えられるわけです。それはやはり、まさに国家自体を超えてしまう、つまり、止揚してしまうというような、そういう契機をそれは内在しているのではないかというような、そういう考え方というものが一方で成り立ちうるわけです。
 そうしますと、問題になってくるのは、一般に大衆というものがより高度な意識、あるいは共同意識、あるいは、対象を社会というものに向ければ、社会に対する意識というものを持つということは、いったいどういうことなのか、それは、やはり近代主義者が言うように、いまだ到達しない国家の幻想性に到達できるように、啓蒙されることによって開発されるという、そういうものが、大衆が、たとえば、より高い、あるいは、より大きな意識を獲得することを意味するのであるかというようなことが問題になると思います。
 ぼくはべつに近代主義者じゃありませんから、そういうのは、高度な意識を獲得することではちっともないと、そうじゃなくて、そういうことは社会が発達し、それから、技術的な手段が高度になり、それから、それのもとになる教育手段、あるいは啓蒙手段というものがどんどん高度になっていくというのは、自然にそうなっていくというような問題、だから、ひとつの有意的なといいますか、意識的なといいますか、つまり、少しも意識された、つまり、目的意識を持った過程ではないということ、ちっともそういうことじゃないんだということ、だから、そういうものは社会そのものが決定していくような問題、つまり、逆戻りすることができない、そういう社会というものが決定していく問題であって、ほんとうの大衆の有意的な、あるいは、意識的な過程というのはそういうことじゃなくて、まさに、じぶんが現行の憲法そのものの幻想水準にまで到達しないというような形で現存している、そういう自分の存在の仕方の位相、そういうものを、まさに意識化すること、意識的に掘っていくことというのは、そういう課題というものを大衆というものはもっているのではないのか、つまり、そういうものを担わねばならないのではないか、つまり、そういうことこそが、ものすごく重要なことではないのかというような、そういう問題意識というものが、つまり、そういう課題というものが生じてくるわけです。
 もし、そういう位相というものを自分が掘ることができるならば、大衆というものは、もうすでに潜在的に、国家の共同性というもの、あるいは、共同幻想性というものを超えるであろうと、潜在的に超えていくだろうというような問題というのは、そこで初めて出てくるというような、そういうことを考えることができるわけです。
 その問題というのは、知識人についてもまったく同じであって、知識人が大衆に対して啓蒙するというような、そういうようなことが問題になるのではなくて、知識人というものは、大衆のまさに孕んでいる、あるいは、もっと極端にいえば、大衆のまさに原型というものが孕んでいる、そういう問題というものを自己思想の中に、たえず組み込んでいくことができる、あるいは、組み込むという作業というものを常に課されているというような、そういうような位相というものを必ず避けないということが、まさに知識人が知識人たる課題であり、それが、知識人がほかの誰にもなしえない存在理由というのが、知識人の存在理由があるとすれば、そういう課題を自分に課すという、あるいは、課さざるをえないというような位相を決してはぐらかさないというような、そういうようなことが、やはり知識人のほんとうの課題なんじゃないかというような、そういう問題意識がやはり同じように出てくるわけです。

10 家の問題の位相

 現在でもたとえば、考えられる共同幻想というものの高度な水準は依然として国家というものになるわけです。共同幻想としての国家というものの水準が、現在においても、その地域地域、国家権力のもとにおける国家の成員というものの考えうる最高の共同幻想だということです。そのことを考えずには、それ以外の幻想性というものをもし想定しうるとすれば、国際的な超国家みたいなものが生まれて、それが各国家の問題というものを統御していくという近代的な考え方というものがあるわけですが、そういう考え方の誤解というものがあるとすれば、本当にリアリティを持ったかたちで想定される幻想性の最高水準というものは依然として国家である、それ以上のことを考えるということは幻想のうえに幻想を重ねることだという問題として存在するわけです。
 たとえば国際機構というものを想定する考え方にしても、そうじゃなくて世界というものは社会主義国家群と資本主義国家群があって、両方の対立、矛盾、共存ということで世界の方向が決せられるという考え方もまたあるわけですけれども、そういう考え方も幻想のうえに幻想を重ねることであって、少しもリアリティを持つことができないということが、現在でも言えるわけです。
 だから国家というのは現在でも大きな問題として存在する。国家というのは依然として大きな問題として横たわっているということがそこで言えるわけなんです。
 もし僕たちが、もっとも高度な課題、緊迫した問題意識として問題を想定すれば、依然として思想問題というのは国家の問題として凝集される。それから今日の主題として重要と考えられることは、家というものが対幻想というものを本質とするがゆえに、それは個人幻想というものと共同幻想としての国家というものに特異な位相を持っているということが言いうるわけです。
 たとえば日本の近代文学というものをとってきても、家の圧力、問題というのは明治から現在に至るまで、文学の主題としてもそうとう大きなウェイトを閉めてきているわけです。その問題というのは、どういう位相で本当は解かれていくのであろうかと考えてみますと、まずそれは対幻想であるがゆえに個人の幻想というものと、共同の観念が生み出すもの――そのもっとも凝縮された問題として国家というものがあるわけですけれども、そういう問題のはざまに位置して非常に特異な位相にあるということを、まず認識しうるかどうかという問題が、家の問題の核心にあると考えることができます。
 そういうことを考えないと、家の問題というものと、幻想の共同性と、幻想の共同性である国家に対決する幻想の共同性、そういうような問題が家の問題に対してどういう位相で関わってくるかという問題がよく考えられない。そこでひとつの二律背反みたいな問題が起こってくるということが言えるわけです。だから要するに問題の発端というものは、それをよく認知することができるか、というかたちで考えられなければならないという位相の問題として家の問題というのは存在しているわけです。そこのところがいちばんの問題になっていくわけです。

11 知識人の本質的課題

 それならば、大衆の意識、大衆の対意識――家の意識が、国家というものを超える、止揚しうるという課題というのはどこに発端があるかと考えますと、まず、大衆が国家にさえも本当に接触していないということを意識化することの問題になってくるわけですけれども、その発端はどこにあるかというと、知識人というものが、まずその問題を敷衍化していくことが発端になるだろうと考えられます。知識人というものがそういう課題を担わないかぎりは、知識人というのは永遠に政治的大衆というものの永遠の造反者であり、そのなかで動揺つねなき存在としてしか考えられないわけです。
 しかし僕の考えというのは動揺つねなき存在でもなんでもないわけで、自ら知識人であるということの意識的な意味は、ほっときゃそうなるというところから、いかにして大衆の原型が本質的にはらむ問題を、自己の思想の問題として組み込むことができるかという問題を避けないということです。そういう課題を知識人が成就していくならば、そのことが知識人の課題というものになる。その課題が普遍化されるならば、大衆が自己の位相、国家に対しても本当の意味では一重の意味でしか、経済社会的な支配という意味でしか接触・対決しない、幻想性としての国家とは正面から対決しないという位相というものを、自分で意識化する過程を誘発するひとつの発端になるだろうというふうに僕は考えます。
 そういう問題が雑多な分野において存在するわけで、芸術、文学という分野においてもそういう問題というものが情況というものが強いるものとして存在するわけです。その問題を解いていかなければならないという思想的課題というものに直面しているわけです。なぜそういう思想的課題を強いられねばならないかというと、あらゆる思想性というものが、相互に相対的な関係でしか現在存在しえない。もし絶対的な課題というふうに想定すればそれは信仰によるほかない。信仰によらず科学によるかぎり、相対性にさらされているというような、現在の情況というものは必然的にあらゆる分野において誘発しているということができます。
 そのことが現在の知識人、あるいは知識人の集団組織というものが当面している思想的課題というものが集約されるところだと僕は考えます。そういうことはまずそういう問題がどういうことで解かれうるかということから、単に解かれうる可能性ではなく、それを解かねば動きがとれない、どうしようもないという内発的な課題に直面している。やはりその問題は避けてはならないということが現在言えると思います。
 みなさんは自分を大衆と思っているか知識人と思っているか知りませんけれども、僕に言わせればみんな知識人なんですから、どう振る舞おうとそういう知的な課題からは一生涯逃れることはできないと僕は思います。そういうことを強いられると、いかなる社会の場面にはめこまれようともそこからは逃げられないと僕は考えます。いずれにせよそういう課題は自分が自分に課していくというかたちで解決していかねばならない。そういう課題をみなさんでも僕でも担っているということが、言えると思います。そういうことが具体化し、幻想として、観念の問題としてあらわれ、それがまた現実の問題として実現されるということが、情況として生まれたならば、それは僕が考えているひとつの希望というものの状態であるわけです。しかし現在僕はどんな希望をも持っていません。ただ、課題へ課題へ、前へ前へとすすむ以外にないと思っています。しかし僕が希望というものを感ずることができるとすれば、そういうものが具体的なかたちであらわれてきたというときに僕は希望を感ずると思います。しかし現在はそういう兆候もない。それが僕の考え方です。
 僕はあまり人に期待するよりも手前がやれるかやれないかやってみようという考え方ですから、あまりみなさんをおだてるわけにはいかないんですけれども、問題の所在についての僕の考え方は申し上げたところに要約することができると考えます。いちおうこれで終わります。



テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター1〜9)