1 思想を広場に放り出すこと

吉本です。こちらへ参るのは僕は初めてなので、京都までは時々来たことがあるんですけども、初めてのところで、そいで、ずっと10年以前、10年以上前のことを考えて、やっぱり僕が最初にランボーと、それからマルクスを結びつけるような、あの文章を最初に書いたのが、詩文化という関西で出ている雑誌なんで、そういう意味では、なんか自分の考えというものを最初に公にしたのは、関西だったという意味で、ある親近感を感じます。ただ、サルトルと違ってワンダフルというわけにはいかないんですけども。
今日は自立の思想的拠点というような題名でお話しするわけですけども、このいずれも、つまり自立っていう言葉といい、思想的拠点っていう言葉といい、いずれも説明なき、つまり前提なしに了解することができないっていうようなそういう概念だと思います。それで、まず、自立っていうことはどういうことなのか、それから思想的拠点っていうのはどういうことを意味するのかという問題から入っていきたいと思います。私の著書を非常に丁寧に初期から辿ってみてくださる読者っていうのを想定しますと、これは別にあまり説明を要しない概念なんですけども、ここではそういういちおう先入見を、あるいは前提を、つまり僕の著書を読んでいるという前提を排除して考えていきたいって風に思います。それはどういうことかといいますと、つまりひとつの思想的な経路っていうのは、非常に問題意識を狭く狭く取っていくわけです。つまり、そこではたとえば、自分のたとえば思想以外のものは全部否定されるべきであると、それで、そういう思想が元来持っている機能といいますか本質といいますかそういうものは、元来そういうもので、細々とした道を通って発展していくというような、そういうようなひとつの傾向性を持つわけです。だから無意識のうちに私自身のほうでも、あるいは私自身の書くものを忠実に辿ってくれている読者っていうのを仮定しますと、無意識のうちに狭く細く細い道をずっと行くような、そういう経路にしらずしらずのうちに入り込んでいると思うんです。これはいちおうそれじゃ広場に、広場の中に引き出してみようじゃないか、そういう反省を含めて、あらゆる前提なき、つまり皆さんが私の著書を全然辿ったことがないというような前提の下にお話を進めていきたいと思います。
あの、こういうことは僕なんかもよく体験するわけで、自立っていうのは日本共産党が最近唱えているたとえば自主独立路線ってのがありまして、その自主独立路線ってなものから主と独を除いたものと、どこが違うのかという、そういうようなことを聞かれたりすることがあります。そういう意味で、つまり勝手にこちらではひとつの思想概念として自立というような言葉を出していっても、これは先入見のないといいますか、前提のない人たちを想定すれば、全然何のことだかわからないというようなことになるわけです。で、そこのところを引き戻して、つまり広場に出してみたいっていうようなことが、ひとつ本日お話しする問題意識の中にあります。だからもしこの中に私の著書を辿ってくれている人があるとすれば、おそらく自明のことを言うではないかという問題になるかと思いますけれども、その場合でも、いつでも広場の中に自分の思想っていうものを放り出してみるということ、あるいは元来思想あるいは文学それから政治そういうものに関心を持たないあるいは関心の薄い人々の中にそういうものを放り出してみたときに、いったいどういう反応が起こるのであるかというようなことは、絶えずやはり思想というものが検証しなければならない問題であると思います。これはたとえば若干政治運動というようなものの次元とは違う、思想が持っている違う次元であるという風に考えます。政治運動というものはある程度現実的高揚性でありますし、またある程度人数の問題でもありますし、あるいはある程度組織の問題でもあります。それで、しかし、だから所定の条件の下ではどのような他の思想とも共立しうるわけで、あるいは共同しうるというような局面がありうるわけでしょうけども、思想というものは決してそういうものではないわけで、これはやはりひとつの思想が展開されていく場合には、やはり非常に細々とした道を通らなければならないというようなことがありまして、その細々とした道以外のものは否定されなければならないというような、そういういわば非常に手厳しい問題を含むと思います。それでこういう手厳しさというのは元来日本の思想状況文化状況の中ではあまり通用しないんですけども、しかし思想は本来的にはそういうものじゃないかということが考えられます。そういうことを前提としまして問題を進めていきたいと思います。

2 自立の情況的概念

ここでまず自立ってのはどういう概念を目指しているのか、意味しているのかという問題から始めたいと思います。わかりやすくするために、自立っていう概念は非常に、なんていいますか、情況的な意味といいますか、つまり非常に刻々時々刻々に移っていく現実情況と合い渡っていくという意味ですね、つまり情況的な意味でひとつは自立という概念が考えられます。この場合には当然、自立に対して他立というような概念が想定されるわけです。つまり他立というものに対して自立であるというような、その反対概念、対立概念として自立であるというような、非常に情況的な意味を含むわけです。もうひとつは、やはり非常に本質的な意味を含むわけです。つまり本質的な構造の上に立って自立っていうような概念が出てくるわけで、つまりわかりやすく分けますと、自立という概念にはその二つの問題ってのがあると思います。それでは初めに、自立っていうものの情況的な概念っていう問題から始めてみますと、つまり現在、先ほどの紹介者の方が言われたように、言われたことからいえば、現在たとえばベトナム反戦、ベトナム戦争反対運動というようなものが、つまり様々な政治的潮流の、ひとつの共通の共同の目標として提起され、それに対して様々なかたちでの運動とか、シンポジウムとか、そういうようなものが開かれていることは皆さんもご承知だと思います。しかし、私の考えでは、このような運動を支配している言辞っていいますか、それは非常に他立的なもの、遡っていけば非常に他立的なものだと思います。その他立性っていうのは第一に、非常に大きな情況でいいますと、現在たとえば世界には社会主義国家群と、それから資本主義国家群とがあって、それが基本的に対立しており、平和的に共存しながら対立しており、あるいは絶対に相容れるものではないというような形で対立しており、つまりそんな形で対立しており、その中でたとえばベトナム戦争ってものが現に行われている。
それで、その情況に対して、たとえばこれは意識すると否とにかかわらず、だいたいそういうような大情況にあるということを前提として認める立場っていうもの、原理といいますか、そういうものがたとえば現在のベトナム戦争反対というような、そういう潮流の政治運動の中に貫徹していると思います。しかし、自立概念によれば、そういうことはつまり現在世界の情況っていうものを思想的に見た場合に、社会主義圏と資本主義圏が対立しているというような、そういう概念を元来認めないわけです。現在においても、依然として、国家っていうもの、つまり国家として存在するもの、そういう国家というものが、だいたい最も上位概念といいますか、大概念といいますか、大概念であってあらゆる戦いというものは国家っていうものを媒介にせずしては、つまり国家権力というものに対する戦いというものを媒介にせずには行われないというような、そういう観点を含むわけです。つまりそういう観点に立つわけです。だから社会主義圏と資本主義圏が対立している、あるいは闘争しているっていうような、そういう問題意識の中で、ベトナム戦争というものが考えられるのではなくて、国家権力というようなものの中で、いかに我々が戦っていくか、我々がいかにそれを理解していくか、あるいは解釈していくか、分析していくかという、そういう問題のなかに、たとえばベトナム戦争というものを考えるわけです。

3 ベトナム戦争をめぐって

たとえば、ベトナム戦争反対というような、たとえば市民主義運動というようなものを考えますと、たとえばベ平連であり、それに造反する構造改革派であり、そういうようなものの論理ってものを考えますと、これは様々ありうるわけですけども、なんていいますか、非常に心情的なところから言いますと、戦争っていうのは人命を毀損する、つまり人命を損傷するものであり、そして自分らもたとえば過去20年前までは戦争の中で大衆の命を失ってきた、だから知識人が追い詰められてきたっていう体験もあると。戦争ってのはいかなる理由があろうとも、成すべきじゃないというそういう心情的な基礎の問題から、あるいは個人の原理っていいますか、個人原理というものは国家原理というものを超えるものであって、個人原理というものはしかるがゆえに国家原理を超えて国際的に連帯することができるものであるというような、いくらかその論理めかしたそういうような考え方から、様々あるわけです。あるいは、先ほどのあれからいいますと、世界の平和勢力という、そういう言い方で言われる、世界の平和勢力というようなものが、どこかなんか実体として存在するというような、そういうような考え方の上に立っているわけです。しかし、自立概念を情況的に、そういう概念から言いますと何よりもまず、ベトナムに平和ということが問題になるわけです。それから、もうひとつはその、南ベトナムに対するたとえばアメリカ帝国勢力の支配反対ということになりますし、あるいはもう少しそれを敷衍しますと、日本の、たとえば産業資本が、ベトナム行きの武器を製造している、製造することによって成り立っているという産業資本ってのがあるわけで、そういう産業資本を通して日本がベトナム戦争に加担し、そしてそこで人命を殺傷することに加担しているっていうことに反対である、そういうような考えが様々存在しているわけです。で、こういう問題についてたとえば自立概念という風にいいますと、ベトナムに平和をというようなことではなく、ベトコンに象徴される、つまりベトナム政府、ベトナム国家権力に対して、いわば、俗力で戦っているというような、そういうような勢力っていうものの存在っていうもの、それから戦いの意義っていうものをまず認めようじゃないか、まずそれを問題にしようじゃないかというところに本質があります。それは決して単なる、ベトナムに平和を、つまり戦争は依然として悪であるからベトナムに平和をというようなことではないわけで、つまりベトコンというものが、もしベトナム国家権力に対して不可避的に戦っているとすれば、これは単なる平和によってどういう風になるかといいますと、ベトナム政府によって弾圧されて消滅するか、あるいは先ほども言いました社会主義圏と資本主義圏、というように国家群というように分ける、類型の中の社会主義圏の中に組み込まれて存立するか、いずれかの道しか存在しないわけです。それが単なるベトナムに平和をという原理が、当然ベトナムで真に戦っているたとえば勢力に対して与える最も基本的な影響っていうものはそういうもんだと思います。しかし、真に不可避的に戦うということは決して、つまりベトナム政府に座して弾圧され潰されるのを待つとか、それから、座してたとえば社会主義圏資本主義国家圏、圏というような分け方、大情況の分け方における社会主義圏の中に吸収されるというような、そういう問題ではなくて、不可避的に戦わざるを得ない者は、国家権力と不可避的に戦うというような、ベトナム国家における、ひとつのなんといいますか、情況的な問題があるわけです。その情況的な問題に対して、問題ってものを第一義的に考えるというような、そういうことが自立概念のたとえば情況的な意味になるわけです。そしてその場合には、それに対する真の連帯というのは、どういう風に考えられるかというと、やはり日本の国家権力に対する戦いってものを媒介にせずしては、つまり真にたとえばベトナム国家権力に対して戦っている勢力の連帯というものは、成就されないといいますか、遂げられないという立場を含むわけです。

4 真の関係概念は幻想共同性を媒介とする

つまりここでたとえば多少難しい言葉を使いますと、そこにはひとつの関係概念といいますか、関係概念というものの違いがあるわけです。だから、関係概念というものは、何が直接性かといいますと、たとえばベトナム戦争に武器を供給するためにたとえば日本の産業資本が武器を作っていると。そういう武器を作っていることはけしからんことじゃないか、武器を作ることに加担するのはやめようじゃないかというセンセイヲカ(?)というような市民主義原理があるわけですけども、そこで支配している関係概念というものは、私の考えでは少しおかしいのであって、関係概念というものを非常に可視的にといいますか、目に見えるものとしてみているわけで、たとえばここに武器を作っているとして、この武器はたとえばベトナムに送られると、ベトナムに送られて鉄砲の玉になるのかというような、常に可視的な視点というものを繋ぎあわせることによって、しかるがゆえに日本国家というものは、あるいは日本の産業資本というものはベトナム戦争に片足を突っ込みつつあるというような風に存在するわけです。しかし、僕の考えではそういう考え方というのは違うんじゃないか、つまり経済社会構成というものを考えますと、あらゆる、現在世界の単一の市場というものが想定されるとすれば、あらゆる地域でそのたとえば何事から起こったという場合に、それは経済社会的な構成の段階では、それは必ず世界のどの地域におけるどの地点に対しても必ず、連続的な影響というものを与えるものなんです。しかし、真の関係概念というものは、そういう無媒介に、つまり可視的なものを無媒介にしてつなぎ合わされて問題となるのではなく、ひとつの幻想、共同幻想といいますか、幻想の共同性といいますか、そういうものを媒介にしなければ関係概念というものは成り立たないっていう風に考えるわけです。だからそういう考え方というのは、神経症なんで、短絡神経症というもので、僕にいわせれば、何をうろたえるんだという風になるわけです。しかし本当の関係概念というのは、幻想共同性ってものを媒介にしていくわけです。つまり言い換えれば、幻想共同性の、現在でも考えられる最高のといいますか、もっとも大きな水準である国家の、国家権力というものを媒介にして、そして関係概念というものは考えられていくわけです。つまり、すでにそこでもう他の他立的な諸運動というものの基礎的視点というものと思想的原理というものと、対立していくわけです。つまりそれは他立に対する自立というものが対立していく、問題というものはすでにそういうところに存在しているわけです。

5 知識人とは何か

それで、この情況的な問題というものは、様々な問題で考えられます。つまり今ちょっと例にした政治的諸潮流というものではなくて、たとえば盛んにたとえばサルトルなんかが来たのをきっかけに言われている知識人の役割とか、大衆の役割とか、労働者の役割とか、様々な形で役割というやつが言われているわけですけども、そういう問題というものも、依然として、そこで自立概念というものと他立概念というものとの、対立性というようなものが考えられるわけです。で、たとえば知識人なんていうものを考えていきますと、まさしく知識人の役割っていうような言葉で象徴されますように、つまり知識人というのは、いわばその知識人が農村の出身であれ都会の出身であれ、ひとつの小市民性というものを持っているわけです。小市民性とは何かといいますと、現在の階級対立、基本的にブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立のなかで動揺常なき存在であり、あるいは動揺を逃れるためにじっさい階級的対立というものに目を瞑ってしまう、そういう存在であるというような、そういう理解の仕方であるというものがたとえば知識人に対して行われるわけです。そしてそういう前提に立ってたとえば知識人の役割っていうようなものが、課題というものが提起されるわけです。そうしますと、その知識人の役割ってのがどういうことになりますかというと、それはもうサルトルがよく象徴しているように、つまり、さまよえるユダヤ人といいますか、永久的な造反者っていうような、そういう階級対立に対して永久的な造反者として存在するという機能が最大限の役割であって、つまり真に階級対立を解消するために、真の主役ってのは依然として労働者階級というものにあり、知識人はそれに対して直接的に何の加担もできない。ただ何の主体性主導性っていうのも持ち得ないと。しかるがゆえに、労働者階級というものに、階級の理念に対して、あるいは労働者階級の理念を象徴する、代表すると称する政治勢力に対して、永久的に造反者の立場で造反していくというのが、何か知識人の最も高度な政治的な役割であるというような見解に陥っていく、導かれていくわけです。しかし、こういう見解というものは、非常に他立的なものなわけです。つまりそれでは、労働者階級あるいは労働者階級の存立を象徴している、政治的な潮流というものが存在しなければ、知識人というのは、つまりそれの動向が決まらなければ、知識人の動向は決まっていかない。で、そういうようなかたちになっていくわけです。それはまさに現在の市民主義運動というものが、たとえばベトナム戦争反対運動で展開している考え方に最大の典型を見出すことができるわけです。しかしながら、私つまり自立概念というものから知識人というものを規定していきますと、そういう風にはならないのです。つまり、知識人というものは、大衆から私的に、知識的な意味で大衆から上昇していくものであって、上昇していくにつれて大衆の共同性から疎外されていく、そういうものが知識人なわけなんです。だから労働者、いわゆる労働者の中でも、つまらん政治理念になんか引っかかっていくやつはやっぱり知識人なわけです。大衆ではない、知識人なわけです。だからもちろんつまり労働者階級の党なんていう政党なんていうのはもちろん知識人の集団であるわけです。それ以外の何者でもないわけです。それで、またここで少し難しい問題を言い直しますと、大衆というものを自分の日常生活を繰り返して行っているというような、繰り返し行っている日常生活についての考え、つまり日常生活っていうもの、あるいは自分が日々突き当たる問題以外の問題からは、知識の問題というものを考えない、つまりものを考えていかないというものを大衆として想定するとすれば、知識人というものはそういうところから自然に上昇していくものを指すわけです。上昇するにつれて、大衆がたとえば日常的な生活の繰り返しの中からしか、中でしか考えない問題から、拡大された視点を持つと同時に、また大衆の基盤というものから離れていくという存在であるわけです。しかし、もし知識人というものを、そういう風な存在として考え、これを例えば階級対立における動揺常なき存在である小市民的存在として規定するならば、私の考えではそれは単に知識人というものの自然性といいますか、自然性といったらいいでしょうか、自然必然性といいますか、そういう面を捉えたものに過ぎないわけです。つまり、好むと好まざるとにかかわらず、もし人間というものが、人間の存在というものが、社会的存在というものが、自分の日常システムの問題から始まって、問題を考えることから始まって、遠くの問題、つまりそれ以外の問題、つまり抽象的な問題あるいは空想的な問題、そういうものを考えていくにつれて、考えていけばまたその中で必然的にまたそれ以上のことを考えそれ以上抽象的な、それ以上拡大された問題とも考えていかざるをえないというような風に、知識として上昇していく過程というのは、人間の例えば社会的存在にとっては、非常に自然なものなわけです。つまり自然必然なものなわけなんです。つまりそこでは本当の意味での意識過程というもの、意識的なる過程というものが、そこには存在しないわけです。だから、もし知識人というものを、自然過程といいますか、自然の知識的上昇といいますか、そういうものとして捉えれば、知識人というものは明らかに大衆の共同性、生活共同性というものからだんだん離れていき、それにつれてより遠隔の問題を、つまり、より抽象的であり遠隔、遠い問題というものを思考の対象として選んでいくというような、そういう特性を持っているわけです。それは決して知識人の特性というものの全部ではなくて、知識人の特性の自然過程というものを意味しているわけです。だからこのような自然過程の意識から、知識人の問題、役割あるいは知識人の政治参加という問題を捉えていきますと、いうまでもないことですけど、それは永遠の造反者的になり、また永遠の他立的になりと、過程を避けることができないわけです。これは皆さんが市民主義政治運動というものを、政治運動、あれは政治的なお祭りというものに、象徴的に見出すことができる、そういう考え方というのがまさに大衆から知的な上昇によって隔離されていったそういうもののひとつの共同性というものを意味しているわけです。これは政治の共同性と違うことは、それは個人原理というものを、個人原理言い換えれば市民原理というものを原理として、最高のものとして置くっていう理念がそこにおかれていることを除いてはいささかも変わっていないわけです。

6 市民原理と国家原理は相互規定性にある

ところで、市民原理あるいは個人原理というものは、実際的にいいますと、たとえばそれは国家原理を超えるものというような風に言うのはまったくの間違いであって、市民原理あるいは個人原理というものは、実際は国家原理というものを想定しなければ成り立たないわけです。つまり国家、別の言葉で言いますと国家なくしては個人原理はない、つまり市民原理は成り立たないのが実際であって、市民原理ってものと国家原理ってものは相互規定性というものにあるわけです。ではもし国家を認めないとするならば、市民原理個人原理というものは消滅してしまうわけです。で、消滅したあとに何が残るのかというとそれは、そういう言葉がいいかどうかはわかりませんけれども、家の原理というものが残るわけです。家の原理というものが何かといいますと、男女の原理なわけなんです。男女の原理というのはセックスの原理なんです。つまり異性の原理なんです。で、異性の原理というものはたとえば国家が消滅し、したがって市民社会が消滅し、つまり市民社会の意識である個人原理が消滅したあとにもなぜ残るかといいますと、それはたとえば男女の性関係つまり自然関係でありまたある種の共同幻想関係なんですけども、男女の性関係というものは絶えず対、つまり一対一というものの間からしか原理というものが出てこないからなんです。で、この一対一というものはつまりペアというものから出てくる幻想性というものは共同の幻想性である国家というもの、それから国家のもとにおける社会的構成である市民社会というものの個人原理というものが消滅しても、消滅しないわけなんです。それはなぜかといいますと、より多く自然性というものに根ざしてくるからなんです。つまり本当は国家原理が、個人原理というものが国家原理を超えて国際的連帯性を持ちうるというような市民主義者の理念というものは本当は自己矛盾なわけで、国家原理というのは市民原理と相互規定性にあるということ、つまり国家原理が消滅してしまえば個人原理も消滅してしまうと、そんなところで何が残るのかというと、幻想のペアである、ペアであり同時に人間の自然関係の相当根深い根拠である男女の関係ってなものしか、男女の共同性しか本当は残っていかないわけです。で、一対一というけど、自分は何人も、たとえば恋人を持っているとかね、そのような人もいるかもしれませんけど、しかしそういう人でも、個々の恋人に対してはやっぱり一対一なわけなんですよ。そこで出てくる幻想性の問題、一対一なわけなんですよ。それがただ多角的であるとだけであって、本質は一対一なわけです。で、そういうものしか残っていかないわけです。だからつまりそういうところで他立原理というもの、自立原理というものに対応対立する、あるいは対峙される対立原理というものが持っている自己矛盾というものが出てくるわけで、そこでそういうものに対してたとえば、自立という概念がひとつ想定され、存続されるというような、そういうような情況的な根拠というものがあるわけです。

7 プロレタリアートという概念を理解するには

これはたとえば、階級という問題についても同じなわけです。マルクス主義といいますか、厳密に言えばロシア・マルクス主義なんですけども、ロシア・マルクス主義のショチョール(?)という者が、経済社会的な構成の次元でもってといいますか、あるいは労働といいますか、そういう労働というような次元あるいは経済社会コウキョシテキ(?)にいえば、経済社会構成の次元から労働者とようなものとブルジョアジーというようなものを規定していくわけです。そして、たとえばブルジョアジーの資本制的過程における表現者である資本家階級というものと労働者階級というものとの対立というようなものを考えるわけですし、国家というものはたとえばそれをほぼその場合の支配的な階級というものをひとつ擁護するためのひとつの機関といいますか、役割を担うものだという風に考えていくわけですけれども、そうしますと状況的にどういう課題があるかといいますと、ご承知、皆さんが漠然として誰でも知っているように現在の資本主義社会というものは経済社会構成としてみるならば、たとえば19世紀の後半などに比べてはるかに高度になり複雑になり、非常に多様になっているという現状況があるわけです。そうしますと、たとえば単純労働といいますか、単純に手を使って単純労働して労賃を得て、そしてまた労働力を再生産して、つまりまた単純労働で労働をしてというような、そういう過程を繰り返しているもの、たとえばプロレタリアートという概念の、非常に資本ユニットという風に考えていきますと、そのユニットからたとえば現在の社会情勢の、たとえば単純に手を加えて労働しているという労働者というのは、手を加えて実際にものを、最終生産物を作っちゃって、それは資本家にそれを取られて、自分は労賃だけ受け取るというのは、そういうものが少なくなってたとえば間に技術的な問題が介在してくる、技術的な問題というのはいわば、やっぱり幻想なんですけど、業務構造なんですけど、そういうような問題が介在して、たとえば固定資本という機械、膨大な機械とか、ボタン操作とかそういうものが介在して、つまり労働自体が様々な媒介物を経て、ものの生産というものにつながっていくというのは、そういう度合いというのは非常に高度に変わってきているわけですけども、この変わってきているというのはたとえば構造改革論の非常に基盤になっていると思うんですけども、そういう風にしますとたとえば情況的にいいますと、単純労働というものをして、単純に最終生産物を得て、そして作ってそれでそれは召し上げられて、労賃だけ受け取るというのは、そういうプロレタリアートという概念のユニットといいますか、ユニットから、ユニットとそれから現在のプロレタリアートというのはどういう風に実態的になっているかということまでを、その変遷をつなぐ考察というものが当然必要になってくるわけです。そうでなければプロレタリアートという概念、情況的な意味はつけられないということがあるわけです。
ところで、そういう考え方というものがあるわけですけども、そうしますとたとえば非常に単純で、多少滑稽な例を挙げますと、例えばプロレタリアートが、社会経済構成といいますか、そういう段階でたとえば労働をやったと、それで家へ帰ってきてたとえば自分の家の四畳半なら四畳半というもの、誰かに間貸しして、そこから家賃を受け取って利益をせしめていたとすると、マルクス風に言えば質屋とかコ(小?古?)商人とかブルジョアジーですからね、そいつはプロレタリアートにしてブルジョアジーだということになるわけです。つまりそういうことというのは、非常に単純化していえばそういうことですけども、そういうような場面というのは現在のたとえば複雑、相当生産諸関係というものが複雑になってきた社会では、ありうるわけです。つまりそういうことは起こりうるわけです。そうしますとたとえばプロレタリアートという概念はどうやって規定したらいいのか、そういう問題が起こってくるでしょう。それをたとえば単純に、労働過程というものから、あるいは経済社会構成の段階でそれを考えていけば、ひとつの構造改革論みたいなものに行き着くわけです。しかし自立概念によれば、そうではないのであって、プロレタリアートという概念というのは、そういう肝心な生産つまり手を持って行う単純な生産それから単純な生産による最終生産物を、それをどうする、それを売りさばかれるってな、分配されるってな、そういう過程をたとえばユニット単位、基本単位にして、それが現在たとえばどういう風に複雑化し、どういう風に変わっているかという問題を、提起することだけによって、プロレタリアートという概念を得ることができない、と考えるわけです。そうではなくて、そういうような、ひとつの生活、つまり生産も含めて、生活過程、全生活過程なんですけども、そこから得られるところの幻想性というものがあるわけなんです。つまり、幻想性というものがあるわけでつまり、労働者の幻想性というものがあるわけでそれは生産の場というものから獲得、つまり生産しつつ矛盾、自己矛盾というものを感じながら、そこで作られるそういう幻想もありますし、それから生活、生産の場から離れて、例えば家の、つまり労働力の再生産ということになりますが、つまり家に帰ってから、いろいろな問題があってそこで考える、得られる幻想性というものがありますし、たとえば娯楽に熱中することによって獲得される幻想性というものもありますけども、つまり労働者というプロレタリアートという概念は、そういう幻想性というものを欠く、つまり社会構成のどこかにはめ込まれている、そういう最終の幻想性というものを考察する、考えに入れずには理解することができない、つまりプロレタリアートという概念を得ることができないであろうことになるわけです。で、そういう幻想性というものがひとつの歴史的な意味で共同のものとなったその、共同のものとなって現在考えられるその、なんといいますか、最も完備したといいますか、最高の段階といいますか、そういうものを考えればそれは国家なわけです。つまり国家というものはそういう意味では幻想の共同性なんです。それを、おそらくは初めに、つまり発生的には個々の大衆の幻想性のひとつの総和といいますか、総和としてそれが出てくるべきはずだったものに違いないのですけども、しかし人間の幻想性というものは、現実性に対して、つまり共同的である場合には必ずひっくり返るわけなんです。だから、人間というのは、個々の人間が生み出した幻想性というものが、共同幻想となってたとえば、国家なら国家あるいは国家の法律なら法律というものに結晶される場合には、必ずそれは個々に、それを生み出したものに対して、逆の働きをするといいますか、逆さまになって現れてくるというような、そういうひとつの矛盾を含むわけなんです。で、そういうような幻想性の共同性というもの、あるいは幻想の共同性というものを遡っていけば、個々の大衆の生活、全生活過程の場で得てくる幻想なんですけども、幻想と関係があるわけなんですけども、そういう幻想性というもの、幻想の共同性というものから、徐々にそれがどういう風に現在変わっていっているか、どういう風に変わっていっているかというような問題から、一方で追い詰めていかないと、たとえばプロレタリアートという概念というもの、あるいは国家という概念というものは、得られないという風なことになるわけです。つまり、そこでたとえば非常に他立的な諸潮流というものと非常に対立するところですし、また対峙される問題というものが出てくるわけです。

8 大衆の原像と知識人の本質的課題

そういうような意味で、たとえば自立という概念というようなものは、現在情況的にいって、様々な対立概念を想定し、たとえば様々な対立概念と対比されるかたちで考えられるわけですけども、この自立という概念は単に情況的な意味、情況的な概念であるならば、それは情況がなくなればなくなってしまう問題に過ぎないんですが、この自立という概念は、やはりひとつの本質概念といいますか、本質概念として突き詰められていかなければならないというような、そういう課題を持っています。これがたとえば思想的な、純然たる思想的な課題になっていくわけです。そこで、たとえば、今まででも触れましたけど、たとえば知識人というのは何なのか、それから大衆というのは何なのか、国家というのは何なのか、階級というのは何なのか、家ってものは、というよりは、男女関係でもいいわけですけども、家というものは何なのか、そういう様々な共同幻想といいますか、共同幻想というものの問題というものが、本質概念として問われねばならないというような問題が出てくるわけです。だからこれは本質概念としてどうしても捉えなければいけないと、その本質概念というものは必ずしも現在のたとえば状況的な課題というものを、ものに対してアプローチしていくっていうことを直ちに含まないわけですけども、つまり相当遠隔な遠い問題を含んでいるわけですけど、そこでたとえば自立というものの、個々の概念というものが設定されていかなければならないということが出てくるわけです。で、たとえば大衆というような概念を取ってくるとします、これは大衆という概念を取ってくるとすると、これはひとつには知識人という概念と相関関係にあるわけです。で、先ほど申しましたように、知識人というものを大衆の生活共同性というものからの私的な上昇過程という風に考えていきますと、知識人というものの自然過程の像というものが、イメージというものが得られるわけです。ところが知識人というものは、それでもって規定しつくせるかというと、そこで規定して、規定した上で政治的役割とか、知識人の役割とかということを論ずることで終わるかどうか、知識人というものの問題は終わるだろうかという風に考えていきますと、決してそうではないので、本質概念としては、知識人という問題は、このひとつの自然過程ではなくて、意識的な過程というものも、ひとつフォーカスしたときに初めて知識人概念というものが得られるわけです。それで、その知識人の意識的な過程といいますか、意識的な課題とは何かといいますと、それは最終というものの、先ほどのプロレタリアートというものを想定する場合に、非常に、手で行う単純労働とか、単純生産というようなことをいいましたけども、大衆というものの原型というのは、依然としてたとえば、日々日常を当面する問題についてしか考えないわけです。たとえば魚屋さんならば、魚をたとえば明日どうやって売ろうかという問題しか考えないわけです。どうやって売ろうか、それでこうやって売ってまずかったらこうしようじゃないかという問題を考える、そういうものをたとえば生活の繰り返しの中で起こってくる問題を、問題のみを考えるというものを、大衆というものの原像といいますかユニットという風に考えていきますと、ユニットというものがたとえば現在どういう風にユニットというものを保ちながら現在どういう風に変化しているのかということ、そういう問題というのを知識人が、つまり知的な上昇の地点から絶えず自分の思考の問題として食い込めるといいますか、取り込めるといいますか、取り込むという課題を、もうひとつ意識的な過程として知識人が持っているわけです。そしてこれは決して知識人が労働者の傍へ来て、たとえば応援するとか、たとえば自分がナップサックを着て労働者の真似事をしてみるとか、そういうようなことではないわけで、つまりそこで先ほどの関係概念ということが問題になりますけども、そういうことじゃなくて、いかにして大衆の持っている原イメージというものを自分の知識的な課題として食い込むことができるかというような、そういう課題を知識人は持っているわけです。つまりそういうことを考察しない知識人は役割ということを論ずることはできないわけで、つまり知識人の役割というものは、大衆から知的に上昇してしまった、上昇して分離してきてしまったものが、それじゃ大衆的課題に対して、どういう風に参加したらいいだろうかという風に、知識人の問題を捉えたら、それはいわば片面しか考えていないわけで、本当の知識人の総体的な課題というのは、そうじゃなくてまさに知的に上昇したっていうようなところから、地点から、大衆の原イメージというものを、原型というものを絶えず意識的に取り組むことができると、自分の思考の中に取り込むことができるというような、そういうような問題というのがひとつ知識人の課題として、つまり別の片面の課題として存在するわけです。だから、知識人の、非常に自立的な像というもの、自立的なイメージとは何かというように考えると、まさに片面だけではなく、両面の課題というものを、自分の中に課することができるというような、そういうのが知識人の、総体的な課題といいますか全面的な課題になるわけです。それはまた別の言い方をしますと、少し感覚的な言い方をしますと、ある時代というのは、現在もそうなんですけど、ある時代は、ある位相に、ある精神の位相に、あるいは、ある幻想の位相になんですけど、ある幻想の位相に自分が立ちますと、そうしますと必ずその人が好むと好まざるとにかかわらず、現実の情況の問題、現実の問題、社会の問題、世界の問題、あるいは現実世界の問題というものが否応なしに、その位相に覆いかぶさってくるというような、そういう位相が必ずあるわけなんです。その必ずあるということ、そういう位相を発見し、その外に身をおいて避けることをしないということ、つまり逃亡することをしないというような、そういう課題というものがたとえば知識人の総体的な課題としてあるわけなんです。つまり知識人の総体的な課題というのはまさにそういうことなわけなんです。
だから、決してそれは、たとえば逃亡するために、逃亡するためにベトナム戦争反対する、私は反対ですというお祭りをすることじゃない、そういうことじゃないんです。つまりそういう関係概念の中にあるのではなくて、必ずある精神の位相をとりますと、ある時代というのはその人の肩の、その位相、その人の肩にあらゆる現実的課題が否応なしに覆いかぶさってくる、つまりご本人の主体が好む好まざるとにかかわらず、覆いかぶさってくる位相というものが必ずあるわけなんです。それを見出すということ、なぜ見出されるかというと、先ほど言いました両面の課題というものを、自然過程の課題というものと意識的な過程の課題というもの、つまり両面の課題というものを自分に課していくというのは、そういうような位相で、初めてある時代の否応なしに他の何人も発見することができないというような、そういう精神の位相というものが必ず発見できるわけなんです。それを避けないということは、たとえば知識人のひとつの本質的な課題でありますし、また知識人の本質的な位相というものを、考えるとすればそこ以外にはないわけです。そこがやっぱり、知識人の本質課題というものが想定される位相であるわけなんです。

9 大衆の自立的な課題

で、こういう問題というのは、たとえば大衆という問題についても言えるのです。つまり大衆というものが若干でも、外からイデオロギーが入ってきようが、知識が入ってきようが、自分で自発的に入ってきてもどうでもいいんですけども、大衆というものが、多少でも知的な上昇を得、過程に入る、つまり啓蒙過程に入るってことが、必ずしも大衆の自立的な過程の全過程ではないわけなんです。大衆の課題というものを、本当につまり本質的に想定するとしますと、もうひとつやっぱり意識的に逆過程というものを想定しなければならない、そこで大衆は別に外からたとえばイイチョロカン(?)なイデオローグか、あるいはスイリ(?)集団か、なんかイイチョロカン(?)なイデオロギーを啓蒙されて知的な過程に入っていくのはそういうことじゃなく、そういうこともいいですけどね、そういう問題は必ず片面にしか過ぎないんです。で、本当の大衆の過程というのは、大衆のユニットである生活過程にまつわる考察しかしないという、つまりそれで世界というものがどうなったってそういうことは知らないと。しかし日々の生活の繰り返しの中で否応なしに当面する問題というのは、課題というものだけは考察するというものを、大衆のユニットとして想定しますと、そのユニットの問題というのを、まさに知的な上昇の過程と反対過程なんですけども、反対過程に意識化することができるもの、そういう課題というものを大衆というのは担っているわけです。つまり両面というものをやはり大衆というものは自分の課題にしたときに、やっぱり大衆というのは、僕の考えでは知識人はもちろん、自然過程としての知識人を超えるでしょうし、やっぱり国家というものを超えるだろうと僕は思います。それで、そういうことなしには、大衆というものが知的な上昇過程に入る、あるいはレーニンのいうたとえば、大衆は外からイデオロギー、理念を注入していかなければだめだ、絶対に目覚めないんだという、レーニン的な過程というものがあるわけなんですけども、レーニン的な過程に対して、過程に入っていくことだけでは、決して国家原理というもの、国家ってものを超えることはできないと思うわけです。それはまさにレーニンが、繰り返してやったひとつの教訓であって、繰り返してやった失敗の教訓であって、レーニン的過程がたとえばスターリン的過程に変質していくという、変質しつつ官僚特権階級のひとつの形成に、それが国家機関を掌握して権力を掌握していく過程に過ぎない、それなりに閉じられていくというのは、そういう過程というのはまさにレーニンの自然過程の考察といいますか、自然過程の考察で大衆というものを捉えたというのは、そういうところに問題があるわけです。そうではなくて、大衆というものはやっぱり食うことを、日々暮らしていくことを、それから日々自分を蓄えていくことを、そのような過程を大衆自体がそれ自体を意識化するということを、それ自体を進化していくといいますか、それ自体の思想的な意味というものを取り出すことができる過程というものを、大衆というものが必ずつかんでいかなければ、やっぱり国家というものを超えられないというように思います。つまりそういうものはひとつ自立という中の本質概念に含まれていくわけです。つまり自立というものの本質概念というものはそういうところに存在しているわけです。これは単に大衆の問題というわけじゃなくて、たとえば知識人の問題にしても、階級という問題についても、国家という問題についても、そういう問題は必ず言うことができます。そこにたとえば自立という概念の本質概念というものがひとつ想定されるわけです。それで、僕らがなぜ、たとえば僕自身についていえば、なぜ安保闘争の思想的な課題の進化というものに、思想的な問題の進化ということを、ここでお話していることでいえば自立という概念なんですけど、そういうものを意識化していかなければならないという課題を自分に課していったかということ、それを思想的課題として定義していったかということは、どういうことかといいますと、僕がたとえばこういうところからお話しするでしょ、そういうような位相っていうのは、これは非常に曖昧な位相なんですよ。だからつまり、そういうことは僕は戦争中に嫌というほど体験したんですけども、つまりその場合は反対なんですけども、僕が皆さんのようなそういうところにいるわけですね、そして誰かこういうところにいるやつがいるんですよ。それで、そういうやつは、喋るということはあまりあれですけども、そいつはものを書いていくでしょ、たとえば何か思想なり文学なり何か書いていくでしょ。そういうものはもし自分自身が表現というものをやる、つまりそういう位相に自分自身を刷り込ませていきますと、そうするとどんな戦争があったって革命があったって、するりするりと通っていくことができるわけなんですよ。つまり表現の内部に、自分をすっぽりと入れてしまえば、必ず表現というものはその時々の情況があって、するりするりと通り抜けていくことができるわけです。たとえば戦争があるときには戦争らしいことを意味づけして、それで戦争が終われば平和らしいことを意味づけていけば、何か自然な知的過程という先ほどからの言葉で言えばそうなんだけど、そういうものはするりするりと通っていくことができるわけなんです。それをたとえば皆さんのほうの位相で見るでしょ、そうすると嫌でしょうがないわけですよ。もうそういうやつは嫌がっているし、どうすることもできないっていうね、それがたとえば僕らの戦後の出発点なわけです。
じゃあそれはイデオロギーに関わらないわけですよ。関わらないでみんなそういう風にやるわけなんですよ。それで絶対こういうのはだめなんだという風になるんです。そこでたとえば今度は逆に僕のほうが、皆さんのほうではそう思うでしょうが。たとえば僕ん家でも匂いを、こう、鰻屋の店先を通り抜けたときの匂いみたいな、匂いの具合は知っているわけですよ。そうすると、それはたとえば一種の自己解放となっていくわけでね。ここで、我々はここでこういうことを想定するより、個人としてはしょうがないわけですけども、たとえば僕が証言していったもの、表現してきたものが現在まであるですけども、現実に辿ってくれている大衆というものが想定されるですけども、大衆というものはまさに先ほどいいました、大衆のユニットとしての大衆です。それは実際にいないかもしれないけど、それを想定するとすれば、たとえばそういう風に想定される大衆に対して、僕がたとえば、するりするりと思想的に潜り抜けていっているというそういう風な位相には自分は滑り込むことはできない、そういうような自己内省といいますか、それを僕らは戦争から学んできたわけです。だから絶えず僕らには大衆の原像を、それは決して知的な過程に入ってきませんから、もちろん僕なんかが書いたものを読むわけがないですし、全然見向きもしないわけですけども、しかしそういう人たちをひとつの過程から見た場合に、戦争があれば戦争、戦後に平和があれば平和という、そういう風に潜り抜けていくことができるもの、するする通ることができるものが思想であるならば、そんな思想がいかなるイデオロギーを装ったとしても、だめなんであるということは、基本的な内省というものがあるわけです。その地点から、思想というような問題が提起されるわけなんです。だから、こういう風な位相から、別の次元で政治の問題を語ることはできないという問題があるわけです。そういうことが、思想の問題というものを、あるいは自立という概念を思想の問題として提起してきた理由というものがあるわけです。しかし決してアカデミックな研究をしているわけでもなんでもありませんから、絶えず思想の問題というのは現実過程というものを絶えず想定していますし、絶えず、たとえば大衆のユニット、原像というものを想定しつつ、その作られていくというような過程というものがあるわけです。それでおそらく、たとえば皆さんが自分自身を知識人じゃないという風に考えられる人もいるかもしれませんけども、また、いや知識人と考えたって、お前と俺は違うと考えられる人がいるかもしれませんけども、要するに僕の知識人という本質概念からすれば、皆さんは明らかに知識人なんです。つまり、なぜならば余計なことを考えているわけですから。つまり日常食って生活して、また労働力を再生産して、そんなことじゃなくて余計なことを考えているわけですから。要するに知識人なんですね。知識人の問題ということについて、この主題を、つまりその問題を取り上げていますと、先ほどいいましたとおり、少なくとも皆さんがどういう政治イデオロギーを有し、それからどういう政治的潮流に属し、それからどういう風に政治的無関心であろうとも、たとえば皆さんがある精神の位相、ある幻想の位相というものを取れば、もう皆さんが政治的に無関心であろうと、何々党に属していようと、何々潮流に属していようと、そんなことに関わりなく、否応なしに、現実の諸問題というのは自分のところに覆いかぶさってくる、そういう位相というものを、本当を言えば僕は避けてほしくないわけです。つまりそういうことを避けてはならないというのは、避けてはならないものこそ、つまり避けることができないものこそ、知識人であると僕は言いたいわけです。それが知識人の思想的課題であるという風に言いたいわけです。いちおうこれで終わります。

 

 

テキスト化協力:しばてんさま