矢野顕子さんが昨年ひらいたという
この「やの屋」のことを聞いて、
ちょっと驚いたんです。
藝大(東京藝術大学)の大学祭で
2日間にわたって
クリエイティブを学んでいるいろいろな学生と
いっしょにステージをつくったと。
さまざまなトラブルがありつつも、
矢野さんが学生をぐいぐい引っ張って、
結果、すばらしいものになったと聞きました。

矢野さんに、なんていうんでしょう、
学生といっしょに何かをするという
その熱さが強くあるということに
まずおどろいてしまって!

篠崎 そうなんです。
きっと「矢野顕子」という音楽家を
よく知っている、聴いてきたかたからすると、
ほんとにそういう感じがするでしょうね。

そもそも、をお聞きしたいんですが、
まず藝大の実行委員から
矢野さんと何かやりたいっていうふうに
話が来たわけですか?

篠崎 いや、これはね、マネージャーである
彼女(徳留さん)の発案です。

矢野さんと学生を組み合わせようと思った?
徳留 はい。わたしがマネージャーになって
3年ぐらいになるんですが、
いままでのお客様はもちろん、
「矢野顕子? ‥‥知らない」
という若い人に聴いてほしいと
ずっと考えていたんですね。
聴いたら、絶対、
「あ、すげぇ!」ってなるはずだと信じていて。
それがいちばん最初の考えでした。

ただ、じゃあ、闇雲に学生さんとか若い子に
見せればいいかのか。
またそれもちょっと違う。
まずは、芸術系の学生はどうだろう。
わりとそこらへんのアンテナが高いんじゃないか。

そこから「藝大の学生と“何か”をしよう」と
思いついたところで、
たまたま、篠崎さんが
未知瑠(みちる)さんという
芸大出身の音楽家と仕事をしていたんですね。



篠崎 そう。で、未知瑠さんにこの話をしたところ、
学内にたくさん後輩がいるということで、
つなげてくれて、
藝祭の準備委員を集めてくれたんです。
そこからがスタートでした。

その人たちは、矢野さんのことを‥‥

徳留 ほとんど知りませんでした。

うわ。

篠崎 みんな、「矢野顕子? ‥‥誰?」と、
きょろきょろしてる状況。

藝大は音楽と美術がありますよね。
音楽の学生も‥‥?

篠崎 そのときは音楽をやってる子が
ほとんどいなかったんです。
絵の子たち、
デザインとか、先端アートを
やってる子たちが多かった。
というのも、音楽の子たちっていうのは、
毎日山のように練習をしていたり、
逆にもうセミプロ的に
仕事を始めていたりとかして、
学内でもちょっと動きが違うんですね。
文化祭? そんな時間ないの、というような、
若干の温度差がある感じだったんですよ。

準備委員の、アート系の子たちは、
そういうイベントがあるんだったら
ドキュメンタリーが撮りたいとか、
そういうアプローチを
まず、してきましたね。



そこから、あのステージまでの道のりは
遠そうですね‥‥。

徳留 はい、遠かったです(笑)。
最初は、そんなふうに
ふんわりしたスタートだったんですけれど、
学生たちもすごく興味を持ってくれて。
学祭っていうゴールも見えているし、
じゃあ何をしようか? という打ち合わせを、
もうほんとに何回も何回も繰り返しました。
けれどもその打ち合わせも、
進んでは止まり、進んでは止まり。
学生さんなので、
こちらがプロフェッショナルでやっている
やり取りのスピード感とか全然違ったり。

篠崎 「もうやる気ねぇんならいいよ!」
みたいに、何回か、
徳留さん、おキレになりました。

おキレに!

徳留 (笑)最初に話を持っていったのが
2010年の3月ぐらいなんですが、
実現したのは翌々年の
2011年の9月でしたから。

1年半かかったということですね。
どんなアイデアが出ては消えていったんでしょう?

篠崎 たとえば
「矢野さんに弾いてもらう
 特殊な楽器を作ってみたい」。
あるいは
「学祭伝統の大きな櫓(やぐら)を
 矢野さんをモチーフにつくってみたい」。
そんなふうに「作る」ってことに
最初はすごく意欲がありました。
けれども何か、そのアイデアは
「展示」に近かった。
いっしょに何かをやるというところまで
まだ踏み込めていない。
オリジナルの楽器にしても、
矢野さん、さあ弾いてください、では、
結果がおそらく淡白なものになる気がした。
それで私たちも
「もっと何かないの?」とつつき、
また彼らも頭抱え、ということを
繰り返したんです。

そのあとやっと、
「矢野顕子と何でもいいからコラボしてみたい!」
っていう人を、広く、どんなかたちでもいいから
集めてみようよっていうところへ行きました。

そのときですね、
矢野が、「1個、自分からテーマを出す」
って言って出したのは。

テーマ。矢野さんから。それは‥‥?

徳留 「希望」ということばでした。

震災後ですか?

篠崎 震災の前のことでした。
「愛よりも希望が大切な時がある」と、
テーマを「希望」にしたんです。

おお‥‥。そのテーマから連想して
学生たちが「いっしょにやりたいこと」を
考えていったわけですね。

矢野さん自身は
その、学生とのやりとりが
ずいぶんかかっているあいだは
どんなふうだったんですか。

徳留 何をするのか全然分かってなかったときも、
コンセプト自体はいいんじゃない、みたいな。

篠崎 意外とでーんとしてて、
焦ることはなかったです。
たとえば「どんなん集まってきてる?」とか、
「あたし、何すればいいの?」
というようなことはありませんでした。
「こういうのじゃちょっとできないよ」とか、
そういうのはもう1個もない(笑)、
ないんですよ。

それは、矢野さんにとっては珍しい?

篠崎 うーん? 前例がないことでしたからね。
わたしたちも今まで、
こんなめちゃくちゃな企画、したことは‥‥。

徳留 ない(笑)。

篠崎 何が出てくるか分からないけど
生で2日間、しかも長時間やれみたいな、
そんな恐ろしい企画、
やらせるスタッフ、そういないんで。

それに、事前に矢野さんがオッケーだろうっていう、
分かりやすくて、
うまくいくだろうっていう路線のもので
だいたい考えてきてしまうっていう悪癖が、
こっちもあったんです。

篠崎さんは矢野さんの制作担当で長いおつきあい。
いっぽう徳留さんのマネージャー歴は
そんなに長くはない。
だから出た乱暴さというか。

篠崎 そう、矢野さんの潜在能力っていうものを
徳留が引き出してくるんだなっていう感じが、
わたしは、すごく、していました。
今までの流れと、彼女の新しい血を見て、
そのミックスはいいと思ったんです。
「お、これは乱暴なこと言ってるわ、この人!」
と思って、応援したわけです。
こんな乱暴なマネージャー、今までいなかった。

徳留 あら(笑)。

篠崎 歴代マネージャーのなかで
発想がすごく面白いところにぽんとあるんですね。
わたしとしては、
この人が言い出すんだから取りあえず見てようかな、
って、ズルいけど、静観していた。
そしたらほんとに乱暴なところに
矢野顕子を放り込んだことに、結果、なって。
かつ矢野が、全くそれに対して怒ることもなく、
諦めることもなく、へこたれることもなく、
誰よりも最後までやり通した。
すごいもの引き出したなと思って感心したんです。

この学祭のあと、
おふたりが興奮してたのは覚えてるんですよ。
矢野さん、野獣のようだったと(笑)。

篠崎 いや、ほんとに。
あんな矢野を見たのが、
わたしは初めてっていうか、
うわ、わたしの知らない、
伝え聞いてた矢野顕子ってこれか!
っていう感じ。
デビュー当時の矢野って
きっとこの姿だったんだっていう。



(5月2日更新の、後編につづきます。
 後編では、公演のようすをまとめた
 ショートムービーも、おとどけしますよ!)

2012-05-01-TUE










J-WAVE & Roppongi Hills present
TOKYO M.A.P.S
2012年5月3日(木)4日(金)
六本木ヒルズアリーナ
■5月3日(木)
松本淳一/MATOKKU、原田郁子、
大貫妙子、Ovall、細美武士、yanokami
■5月4日(金)
大橋トリオ、世武裕子、宮沢和史、
レキシ、鈴木慶一、矢野顕子

 風を作れ。雲を渡れ。
 巷では,元気をもらうとか、
 勇気をいただきましたとか、
 笑顔をあげる等の表現がよく使われます。
 しかしぃ、これらはみんな他の人から
 もらうものではなく、
 自分から発するものではなかったのか?
 ってゆーのがわたしの疑問でした。
 TOKYO M.A.P.Sで、
 アーティストたちは自分からこれらを作ります。
 風となって雲を渡るのはあなた自身です。
 さあ行ってみよううう。
 くわしくはこちらをどうぞ。