山元町と手をつなぐ。

手を合わせよう。

2011年5月7日、糸井重里と
ほぼ日刊イトイ新聞の乗組員数名は
宮城県亘理郡山元町に行きました。

糸井重里がTwitterを通じて知り合った方が
山元町にお住まいだったことから
今回、訪問するきっかけをいただくことになりました。

山元町は、宮城県南端の海岸沿いの町。
街の面積の約40%、
人の住める場所(可住地)の
62%に津波が押し寄せました。


亡くなった方の火葬が追いつかず、
東松島市と並んで、いちはやく
土葬での埋葬をはじめた山元町。
身元を確認できないまま
埋葬されていく方も少なくありません。

「もし、ほぼ日のみなさんが
 山元町にいらっしゃることがあれば、
 亡くなった方のところに
 行ってもらうことはできませんか」

なぜなら、この地震と津波で
いちばんみなさんに思ってほしくて
忘れてほしくないのは
やっぱり、亡くなった方々だから──と、
このきっかけをくださった
山田春香さんは教えてくださいました。
そして、ご友人の渋谷麻美さんといっしょに
山元町役場で我々を出迎えてくれました。

糸井重里は訪問前、
このように言っていました。

「自分たちがふだん、ほぼ日でやってきたことって、
 何かの出来事のシンボリックなところを
 切り取ることではありません。
 みんな、いろんなところに触れながら
 まるごとで生きています。

 ですから山元町も、じつは日本全体も、
 亡くなった人とともにあるんだ、
 ということを伝えたいと思ったし、
 ぼくたちが会ったことのない人のことを
 祈ったっていい。
 それが山田さんのおかげで、わかりました。
 
 何かお手伝いできるかな? ということを
 探してる人はたくさんいます。
 何もできなくても、心を重ねることはできる
 という気がします。

 この震災が起こった直後に
 お金の支援のことを言いはじめたとき、
 うちの社員のみんなには
 そのうちにだんだん自分の役目がわかってくるよ、と
 伝えていました。
 そしていまの段階では、ほぼ日は
 亡くなった人のことを考えるのも役目だな、と
 思っています。
 長丁場で、お手伝いできることはまだまだ
 見つかるような気がしますけどね」

こうして我々は山元町に到着して最初に、
土葬のお墓におまいりをしました。

糸井重里は、お線香を手にもってお辞儀をし、
おひとりおひとりのお名前を
心のなかでお呼びするように
おまいりをしていたそうです。
お名前のない方には
「来ましたよ」というお声がけを
ただ、していました。

そのあと、山元町役場の1階で
高橋厚さんがパーソナリティをつとめられている
「りんごラジオ」に出演させていただいたとき、
糸井はお墓まいりについて
このように振り返って話していました。

「墓地では、お線香を持ったまま、
 お名前の書いてある所ではお名前を読んで
 お辞儀をして、次の方の所に行って。
 そして、名前のない方の所では、
 呼びかけることもできない。
 ただ、お辞儀をして‥‥それだけだったですね。
 言葉は、やっぱり、
 来ました、ということだけしか言えません。
 言葉の商売のはずだったんですけど、
 ないです、言葉は。

 ぼくらが生活してる場所って、
 亡くなった人や先祖とつながっている
 という感覚が、やっぱりあるものです。
 昨日まで同じように生活していた人が、
 行方不明になってしまったり、
 急に名前もわからない死者に
 なってしまったりしている。
 そういうのって、納得がいかないですね。
 せめて、生きてる人は
 ◯◯さんはここにいるよね、ということを
 言うことだけはできるのかなぁ、と思いました」

これから、山田さんや渋谷さんをはじめ
山元町のいろんな方に
お話を聞くことになるのですが、
みなさんの口から出てきた言葉でわかったことは、
「生きているかどうか、境は紙一重だった」
ということでした。

いまは町内を
おだやかに流れる坂元川も、
3月11日は津波が入り、ひどく氾濫したそうです。

こちらは山元町にある駅のうちのひとつ、
常磐線の坂元駅です。

駅舎の大部分は流されてしまい、
階段が残っていました。
もうひとつの山下駅も同じような状態だそうです。
この「常磐線を津波が超える」というのは
ここで暮らしていると
ちょっと考えられないことなのだそうです。

地震が起きて、津波が来るまでの間、
「避難しようかな」と
自転車で走っていた山田春香さんは、
消防団の「常磐線を津波が越えました」という
叫び声に似た警告によって
自転車を漕ぐペダルに力を込めた、
とおっしゃっていました。

(木曜につづきます)

2011-05-23-MON
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